2016年09月22日

#04 小沢牧子さん

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(おざわ・まきこ)
1937年北海道生まれ。大学と研究機関で心理学を学んだのち、心理相談の仕事を通して心理学の理論と実践に疑問を抱き、臨床心理学の点検と批判の研究を続ける。もと和光大学非常勤講師、国民教育文化総合研究所研究委員、日本社会臨床学会運営委員。不登校新聞にも創刊時より、論説の執筆などで関わってきた。著書に『心理学は子どもの味方か?』(古今社)、『心の専門家はいらない』(洋泉社・新書y)、『学校って何 ――「不登校」から考える』(小澤昔ばなし研究所)、『子どもの場所から』(同)、『老いと幼なの言うことには』(同)など多数。

インタビュー日時:2016年6月13日
聞き手:山下耕平、栗田隆子
写真撮影・記事編集:山下耕平

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〈テキスト本文〉

山下:小沢さんが「心の専門家」として、「不登校」に出会ったあたりの経緯から、うかがいたいと思います。

小沢:慶応大学の哲学科心理学専攻というところを卒業してすぐ、1960年に国立精神衛生研究所(現・国立精神・神経医療研究センター)の研究生になりました。私が配属されたのは児童精神衛生部で、そこで学校恐怖症の研究チームに入ったんですね。「いわゆる「学校恐怖症」に関する研究」(玉井収介ほか1965)という論文に関わりました。この研究チームでは、精神科医の鷲見たえ子さんたちが60年に「学校恐怖症に関する研究」という論文を出していますが、その第2弾に関わったということです。

山下:当時の専門はロールシャッハテスト(*1)ですか?

小沢:研究所に片口安史さんという、日本のロールシャッハ研究の開拓者のひとりがいらしたんです。当時は成人のテスト結果についての研究が中心で、子どものロールシャッハテストの研究分野は未開拓でした。それで、児童部にいた私に声がかかったんです。自分が関心を持って始めた面もありますが、課題を与えられるかたちで、一生懸命、技法の習得と研究に打ち込んでいました。

山下:どういうテストですか?

小沢:紙の上にインクを落として、それを2つ折りにして広げると、シンメトリーな図柄の染みができますね。それ自体は無意味なんですが、それをクライエントに見せて、何に見えるかを言ってもらうんです。専門家の側が複雑な評価尺度と解釈仮説を持っていて、一方的に解釈していくわけです。相手はなぜそう解釈されるのか、まったくわからない。その一方的な関係のおかしさに、最初はまったく気づいてませんでしたね。恥ずかしながら。一生懸命勉強して、手引き書を見ながら解釈仮説をあてはめていく作業をしていました。60年代はロールシャッハを含む性格テスト研究が急速に盛んになっていました。

山下:学校恐怖症が問題になった時期と、ちょうど重なっていたんですね。

小沢:重なっていましたね。学校恐怖症は、とくに精神科医、心理の専門家の関心を集めていた分野で、当時、そういう子はめずらしかったんです。国立の研究所でしたから、児童精神衛生部は学校恐怖症を研究テーマのひとつとして、症例を集めていました。児童相談所や教育相談所などから、学校恐怖症の子が送られてくるんですね。私が最初に会ったMちゃんは、茨城県から何時間もかけて通っていました。小学校3年生の女の子で「貴重な症例」という感じで見られていてね。1年ほど、週1回会って、プレイセラピーをしていました。
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posted by 不登校新聞社 at 16:30| Comment(0) | インタビュー:心理関係

2016年09月14日

#03 最首悟さん

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(さいしゅさとる)
1936年福島県生まれ。シューレ大学アドバイザー。元和光大学教授。東京大学大学院で生物学を学び、長年同大学の助手を務めた。安保闘争などの学生運動に携わり、水俣病などの公害問題に関わるなど、思想家としても有名である。また、ダウン症であり、重複障害を抱える娘の星子さんとのかかわりから、「障害児を普通学校へ全国連絡会」の運営委員(世話人)を務め、ケアをテーマとした数々のエッセイでも有名である。おもな著作に『星子が居る――言葉なく語りかける重複障害を抱える娘との二十年』(世織書房)、『生あるものは皆この海に染まり』(新曜社)、など多数。

インタビュー日時:2016年5月17日
場所:最首悟氏自宅
聞き手・文責:加藤敦也、編集:須永祐慈

*インタビューには丹波博紀氏(最首塾世話人)も同席されていた。
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〈テキスト本文〉

* 最首悟氏は昭和18年(1943年)に、ぜんそくで転地先の千葉県の小湊国民学校 に入学し、昭和20年3月、疎開した家族と合流、福島県の喜多方町国民学校に転校、太平洋戦争終戦を経て、千葉県の房総地方にある学校に転校している。昭和22年に国民学校令が解かれ、名称が小学校に戻るが、昭和23年に病気を理由とした長期欠席を3年間経験している。以下の語りは、当時の国民学校のようすに関するものである。

●国民学校の思い出

最首:僕は昭和18年に国民学校(*1)1年生になるんだけど、僕の記憶では、そのころは教育勅語を直立不動で聞かなきゃいけない時期だった。転校した喜多方小学校(福島県)では、室内の授業がほとんどなかったですね。4月から7月までの1学期、フキを採ってた記憶しかないからね。兵隊さんのためのフキで、佃煮にする。喜多方は醤油と味噌の工場があったので、だから佃煮づくりが盛んだったのね。

加藤:教育が軍事体制で大変だったんですね。

最首:軍事体制で、子どもは少国民だから、勉強なんかしてる場合じゃないんだよな。教育勅語(*2)については、ほんとうに緊迫していた。校長や教頭、教員の緊張具合はすさまじいものがあって、それが子どもごころに伝わってきた。というのは、先生が朝の朝礼か何かで教育勅語を読みちがえたら、かならずクビが飛ぶという噂があったのね。その緊張感が伝わり、教育勅語を読みあげる場面になると、ぶっ倒れちゃう子がいたんだよね 。ぼくもぶっ倒れたことがあって、女の先生におぶわれて帰ったり、うんこもらしちゃった日もあったね(笑)。で、へらへらしちゃう子もいてさ、それがまたけしからん、ということになるんだけどね。 ろくな記憶もないけど。
 喜多方小学校のことを表しているなという思い出に「石走る垂水の上のさわらびの萌え出づる春になりにけるかも」という志貴皇子の歌がある。あとから思ったことですが、この歌は僕が通っていた喜多方小学校時代の情景そのものなんですね。森の中に入ると、小岩っぽい小さい滝があって、さわらび(芽を出したばかりのわらび)を採って、毎日の授業が終わる。「いわばしるたるみのうえのさわらびのもえいずるはるになりにける」喜多方、5月になっても雪があってね。

加藤:そもそも教授っていうか、普通に教育が成立してなかったのですね。
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posted by 不登校新聞社 at 11:24| Comment(0) | インタビュー:当事者