2016年12月08日

#09 石川憲彦さん

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(いしかわ・のりひこ)
1946年、神戸市生まれ。精神科医。東京大学医学部卒。1987年まで東大病院を中心とした小児科臨床、とりわけ障害児医療に携わり、共生・共学の運動に関与。患者の子どもたちが成人に達したことなどから、東大病院精神神経科に移る。1994年、マルタ大学で社会医学的調査を開始し、1996年から静岡大学保健管理センターで大学生の精神保健を担当。同所長を経て、現在は林試の森クリニック院長。著書に『治療という幻想―障害の医療からみえること』(現代書館1988)、『こども、こころ学―寄添う人になれるはず』(ジャパンマシニスト社 2005)、『みまもることば: 思春期・反抗期になってもいつまでもいつまでも』(ジャパンマシニスト社 2013)など多数。また、雑誌『ちいさい・おおきい・よわい・つよい』編集協力人で、毎号、同誌に記事を載せている。

インタビュー日時:2016年9月21日
場 所:林試の森クリニック
聞き手:山下耕平、栗田隆子、山田潤
記事編集・写真撮影:山下耕平

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〈テキスト本文〉

山下:まずは、ご自身の子ども時代、学校経験からうかがいたいと思います。

石川:私は戦争直後(1946年)の生まれ。ある意味では、日本社会がどん底の時代に生まれたわけです。しかし、それは当時の世界のほとんどの人と同じ地平にいたということです。食うや食わずやで生きていながら、どん底で不安も大きかったけれども、そこから何かが開けるという開放感があった。そういう時代の空気のなかで育ってきました。
 学校はというと、まず幼稚園や保育園には行けませんでした。家の経済事情もあって、日曜日だけ隣の人に教会学校に連れていってもらいました。近所では、4〜5歳から中学1〜2年までの子が混ざって遊んでました。戦後すぐの神戸は焼け野原で、廃屋だとか、あやしげなものもたくさん残っていましたね。いまの神戸市の岡本のあたりですが、まだ田んぼも多かった。でも、4人兄弟の一番下だったこともあって、みんなが学校に行ってしまうと、ぽつんと家に残されてしまう。みんなが学校から帰ってくると、ようやく遊べる。学校って、どんないいところなんだろうと思ってました。だから、学校に行けたときは誇らしくてね。ようやく認められた、みたいな思いがありました。
 それと、戦後の学校は牧歌的な、開放された感じもあって、あまり、いやな記憶は残ってません。もちろん怖い先生がいたり、子どもどうしでケンカしたり、いろいろあったけど、私は病弱だったんで、イヤなときは都合よく体調が悪くなって、小学校の前半は、3分の1くらいは休んでいたと思います。学校を休んだとき、すごく楽しみだったのは、給食のコッペパンをザラバン紙にくるんで届けてくれたことです。けっしてうまくはないけど、友だちが届けてくれるのはうれしかった。そういう郷愁というか、楽しかった思いがあります。

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posted by 不登校新聞社 at 13:10| Comment(0) | インタビュー:精神科医