2018年01月25日

#31 内田良子さん

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(うちだ・りょうこ)
1942年、朝鮮慶尚南道生まれ。終戦で引き揚げ長野県で育つ。東京女子大学を卒業後、1973年より27年間、佼成病院小児科心理室で心理相談員を務めた。また、1973年から東京都内の複数の保健所でも心理相談員を務め、現在も続けている。1988年から2011年まで23年間、NHKラジオ「子どもと教育電話相談」「子どもの心相談」を担当した。1998年、子ども相談室「モモの部屋」を設立。著書に『カウンセラー良子さんの子育てはなぞとき』『幼い子のくらしとこころQ&A』『登園しぶり 登校しぶり』(いずれもジャパンマシニスト社)など。編著に『子どもたちが語る登校拒否』『親たちが語る登校拒否』(世織書房)。

インタビュー日時:2017 年9月13日
聞き手:山下耕平
場 所:モモの部屋(東京都杉並区)

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〈テキスト本文〉

山下 まずは、ご自身の子ども時代のことからうかがっていきたいと思います。内田さんは、戦前、植民地時代の朝鮮半島でお生まれということでしたね。

内田 現在の韓国の慶尚南道です。父が現地の日本人学校(女学校)の教員をしていたんですね。私は1942年生まれなので、2歳半で終戦を迎えて引き揚げてきました。ですから、当時のことは記憶には残ってません。引き揚げ先は、父の郷里である長野県富士見町立沢でした。八ヶ岳のふもとで、小学校4年生まで住んでいました。

山下 このプロジェクトのインタビューでも、幾人もの方から引き揚げのご苦労の話をうかがっています。ご苦労も多かったのではないでしょうか。

内田 とくに母はたいへんな思いをしたそうです。終戦時、一番上の兄が8歳で、姉が5歳、私が2歳で、おなかには弟がいたんです。しかし、父は戦争の最後の状況のなかで応召されてしまっていた。引き揚げの途中で赤ちゃんを産んでしまったらつれて帰れないだろうし、3人の子どもをつれての引き揚げは困難をきわめると思って、母は駐屯地に無断で入り込んで、父を返してくれと司令部に直訴したそうです。父は帰ることを許されて、いっしょに引き揚げることができたんです。ただ、無事に日本にたどりつくかはわからないので、私のリュックには道中の遊び道具と、途中でひとり旅立つことがあってもさびしくないようにと、おひなさまの小道具を入れてくれていたそうです。


●先生の言うことは信じちゃいけない

山下 学校との関係は、どうだったんでしょう。

内田 1948年に小学校に入学しているので、新制学校になって2年目ですね。兄は教科書に墨を塗っているんですが、私のときは新しい教科書になってました。いわば民主化した学校に入ったわけですが、小学校に入るとき、母は「学校に行っても、先生の言うことを信じちゃいけないよ。先生はまちがえることがある。私たちの時代は、学校の先生の言うことを聞いて戦争したのだから」と言いました。
 母自身、子ども時代に学校が好きじゃなかったみたいなんですね。身体が弱かったのと、医者の娘だったこともあって、家庭教師がついて家で過ごすことが多くて、学校にはあまり行ってなかったようです。家で世界文学や日本文学を読みふける、作家志望の文学少女でした。学校を通して上から教えられたのではなく、本から知識を得て教養を身につけた人でした。だから、いざというときも、自分で考えて、自分で判断して行動できたんだと思います。
 子どもたちにも、「先生の言うことは信じないで、自分で考えなさい」と言っていて、子どもながらに緊張感をもって、先生にだまされないように最初から疑ってかかってました(笑)。よく日本の親は「学校に行ったら先生の言うことをききなさい」と言いますよね。しかし、私の場合は逆だったんです。

山下 とくに当時では、そういう親御さんはめずらしかったでしょうね。内田さんご自身も、あまり学校には行ってなかったそうですね。

内田 しょっちゅう休んでました。家から学校まで、子どもの足で歩いて小1時間もかかって、遠かったということもありました。山の中で、とくに冬は雪が深く寒くてたいへんでした。それと、担任が軍隊帰りの若い先生で、何か気に入らないことがあると、すぐ革のスリッパで子ども全員の頭をたたいていた。私自身は、しょっちゅう休んでいたせいで、あまり記憶にないんですが、それもイヤだったと思うんです。頭が痛い、おなかが痛い、下痢をする、吐くということで、体調不良でしょっちゅう休んでました。のちに病院の心理室で出会った子どもたちといっしょで、私は身体で登校拒否をしていたんだと気づきました。
 それと、当時は食べるものがほんとうになくて、私はやせて食も細く、母は「この子は身体の弱い子だから、20歳まで生きられるかわからない」と思っていたそうです。農村だったので、農家は食べ物がある。だけど、私たちは給与生活者で農協に行って買わないといけない。当時、父は県立高校の教員だったんですが、その給料だけではまかなえませんでした。野菜は庭でつくってましたが、主食の米やしょうゆは買わないといけないですし、食べるに事欠いていた。
 そういう状況だったので、具合が悪いというと、すぐ休ませてくれたんです。無医村だったので、具合が悪いから医者に行くということもない。健康保険制度もまだなかったですし、家で寝て治す時代でした。
 母は弟を背負って山に植林に行ったり野良仕事で、私は日がな家にいて、ひとりでお留守番で、庭で草木や動物と遊んだりしていました。それで、そろそろ行かないとまずいなとか、退屈したなと思うと、ちょっと行ってみてはまた休む。そんな感じでした。

山下 どれくらいの割合、休んでいたんですか?

内田 3分の1から半分ぐらいは休んでいたように思います。子どもながらに、半分以上休んだら進級できないかなと思って、ときどきは行ってました。よかったのは、当時はテストがなかったんですね。印刷にお金もかかるし紙もないから、できなかったんです。ですから、どこまでわかってるかも確認されない。しばらく休んでても、その日の授業は、聞いたらわかる。ですから、自分が遅れているとは、まったく思ってなかったんですね。テストがなかったのは、すごくいい時代だったと思います。

山下 新制学校制度になって10年ほどは、学校もずいぶん牧歌的だったそうですね。

内田 体育や理科の授業でも、河原に遊びに行き砂を持ってきて校庭を整地したり、宿題がイナゴをとってくることで、それを集めて売って教材費にしていました。ほんとうに牧歌的だったと思います。それでも私は学校がきらいだったんですが、いまと比べれば、子どもの居場所たりえたんだと思います。
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posted by 不登校新聞社 at 16:27| Comment(0) | 心理関係