2018年03月22日

#36 常野雄次郎さん

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(つねの・ゆうじろう)
1977年、兵庫県赤穂市生まれ。小学校3年生の終わりに千葉県市川市に転校。その後、小学校4年生から登校拒否。1年ほど家にひきこもり、11歳から東京シューレに通う。13歳のとき、『学校に行かない僕から学校に行かない君へ』(東京シューレの子どもたち編/教育史料出版会1991)に、著者のひとりとして書いている。アメリカ、イギリスに留学し、イギリスのランカスター大学を卒業。2005年、貴戸理恵さんとの共著で『不登校、選んだわけじゃないんだぜ!』を出し、明るい登校拒否や学校を選択するという考え方を批判した。

インタビュー日時:2017 年8 月3 日
聞き手:貴戸理恵、山下耕平、山田潤
場 所:関西学院大学大阪梅田キャンパス
記事編集・写真撮影:山下耕平
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〈テキスト本文〉

貴戸 まずは、ご自身の不登校の経験から教えていただければと思います。

常野 私は不登校児だったことはなくて、登校拒否児だったんですね。なので、不登校ではなく登校拒否経験ということになります。本来、不登校でも登校拒否でも、どちらでもいいんですが、私の時代は登校拒否と呼ばれていて、そこにあった侮蔑的な意味合いを避けるために、何か腫れ物にさわるのを避けるように、不登校という言葉に代わってきたように感じているので、少なくとも自分のことを言うときには登校拒否と言っています。
 まず、登校拒否になる前のことを話をしますと、私は1977年生まれで、小学校に入ったのは1984年です。すごく学校に適応する子どもで、先生という権力者にも好かれてましたし、授業も楽しくて友だちも多かったんです。当時は兵庫県赤穂市の小学校に通ってました。学校では、運動会や行事の練習という名目で、毎日のように軍隊行進をさせられてました。だけど、私はそれに合わせるのが上手で、あまりにも私の行進に合わせるリズム感がいいので、教師が「みなさん、常野くんのリズムに合わせましょう」と言うぐらいでした。よく登校拒否の体験談で、学校に行けなくなるきっかけとして、学校に適応できなかったことが語られますが、私の場合は、むしろ適応しすぎていたんです。


●もう人生おしまいだ

貴戸 行けなくなった直接のきっかけはあったんですか。

常野 小学校2年生の終わりごろ、なんとなく行けなくなったことがあったんですが、学年が変わってからは、また何の問題もなく通っていました。その後、小学校3年生の終わりに千葉県の市川市に転校したんです。千葉県は管理教育で有名ですが、体罰がイヤだったとか、陰湿ないじめがあったということはなくて、なんとなく行けなくなってしまったんですね。
 私は「学校信仰のジレンマ」と名づけているんですが、学校なんて行かなくてもいいじゃないかという考えがあったら、1〜2日休んでも、また行けばいいと思える。しかし学校は絶対に行かねばならないと強く信仰していると、ちょっとの休みで「いけないことをしてしまった。もう顔見せできない」と思って、1週間、2週間と休むようになって、それが1カ月、2カ月となって、どんどん行けなくなってしまう。私の場合は、そんな感じで学校に行けなくなって、「もう人生おしまいだ」と思ってました。

山下 行かなくなり始めたのはいつごろですか?

常野 小学校4年生の10月ごろです。1987年のことですね。

貴戸 学校に行かない子はダメな子だというのは、誰かから言われていたのか、それとも自分で感じていたのでしょうか。

常野 誰かから明示的に言われたというよりも、当時の社会規範を内面化していたということだったと思います。

貴戸 五月雨登校のようなことはなかったんですか?

常野 学校信仰が強いがゆえに、そういうことはなかったですね。

山田 転居・転校がなかったら、登校拒否もしてなかったと思いますか?

常野 どうでしょうね。

山田 私たちは「学校に行かない子と親の会(大阪)」を1991年に始めたんですが、そのころでも、関東から転居してきた子たちが、言葉でいじめられて学校に行けなくなるという話を多く聞きました。言葉というのは、かっこうのいじめの対象になりますね。常野さんの場合は、どうだったんでしょう。

常野 そういうことはなかったですね。言葉でトラブルになることはなかったです。

貴戸 学校に行けなくなるのって、スモールステップの積み重ねのように思うんです。私の場合だったら、朝起きられないとか、朝ご飯が食べられないとか、ランドセルを背負うけど、おなかが痛くなってしまうとか、そういうことがありました。常野さんの場合は、どういう感じだったんでしょう。

常野 そんなにドラマチックなエピソードはなくて、なんとなく行けなくなったという感じだったんです。行けなくなるまでは、そんなにイヤなことはなかったんです。しかし、行けなくなったことで、どんどん落ち込んでいったんですね。自分は学校にも行けない悪い子だ、将来どうなるんだろうと。
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posted by 不登校新聞社 at 09:43| Comment(0) | 当事者

2018年03月08日

#35 高岡健さん

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(たかおか・けん)
1953年、徳島県生まれ。1979年、岐阜大学医学部卒業。岐阜赤十字病院精神科部長、岐阜大学准教授を経て、2015年より岐阜県立こども医療福祉センター発達精神医学研究所所長。日本児童青年精神医学会理事。少年事件の精神鑑定も数多く手がける。雑誌『精神医療』(批評社)編集委員。著書に『人格障害論の虚像』(雲母書房2003)、『引きこもりを恐れず』(ウェイツ2003)、『不登校・ひきこもりを生きる』(青灯社2011)など多数。共著に『不登校を解く』(共著:門眞一郎、滝川一廣/ミネルヴァ書房1998)、『時代病』(共著:吉本隆明/ウェイツ2005)、『殺し殺されることの彼方』(共著:芹沢俊介/雲母書房2004)など多数。

インタビュー日時:2018年2月3日
聞き手:山下耕平、山田潤
場 所:フリースクール・フォロ
記事編集・写真撮影:山下耕平
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〈テキスト本文〉

山下 このプロジェクトでは、多くの方に、ご自身の子ども時代、とくに学校との関係からうかがっています。高岡さんは、徳島のお生まれでしたね。

高岡 1953年、徳島市生まれです。小学校4〜5年生のころ、愛媛県の新居浜市に転校したんですが、新居浜は、いわば住友の町でした。もともとは漁業を中心とした町だったんですが、それが解体されていく一方で、住友の関係の会社がどんどん進出していました。町には、たくさんの住友系の従業員が自転車で往来していて、道路を占拠するぐらいでした。
 当時は、校歌にも「工場のサイレン」というくだりが入っていて、校長がわざわざ訓示で「この工場というのは学校の前の木工製作所のことではなくて、住友の工場のサイレンのことです」と説明するぐらいでした。

山下 「住友」が輝かしかったんですね。

高岡 そういうことです。ですから、同級生のなかには、解体していく漁業(第1次産業)の家の子どもと、当時、成長産業だった住友系(第2次産業)の会社員の子どもとがいたわけです。

山下 高岡さんの家はどうだったんですか?

高岡 父親は四国電力に勤めていて転勤族だったこともあって、私はどちらと親しいということもなく、漁業の家の子とも住友系の会社員の子とも、どちらともつきあっていました。
 漁業の家の子は、ときどき学校に来ないことがあるんですね。アオサ採りと言ってましたが、海藻を集める仕事に従事していました。それはあたりまえのことになっていて、その間は学校公認で休んでいるわけですね。
 それから、私は落ち着きがなかったせいか、学年の途中でクラスを替えられたことがありました。ただ、いま考えても先生がうまかったなと思うのは、新しい担任が「高岡よ、ワシは一度おまえの担任をやってみたかったんだ。いいか?」ときいてきたんですね。私も機嫌よく「いいですよ」と言ってね。母親も単純なもので、「そりゃよかったね」と言って、途中でクラスを替わりました。

山下 いまだったらAD/HDとか言われて、特別支援学級に移されているのかもしれないですね。

高岡 おそらく、そうでしょうね(笑)。まあ、そういうことはありましたが、小学校では、放送係などをやって、好きな機械いじりをしていたり、5年生の終わりで、また徳島に転校した際には、先生たちが餞別に絵の具をくれたりして、いい思い出が残ってますね。いいことだけを覚えているのかも知れませんが。

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posted by 不登校新聞社 at 22:38| Comment(0) | 医療関係

2018年03月01日

#34 田中達也さん

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(たなか・たつや)
1962年、東京都江戸川区生まれ。小学校6年生のときに学校に行かなくなり、児童精神科医、渡辺位さんとの出会いなどから、中学2年生のとき、みずから希望して国立国府台病院36病棟(児童精神科病棟)に入院する。当時のことは、母親の田中英子さんが『登校拒否・学校に行かないで生きる』(渡辺位編著/太郎次郎社1983)に書いている。退院後、病院で看護助手をしながら定時制高校に通い、卒業後は鍼灸師やリハビリの仕事などに携わり、現在は社会福祉士専門職として、幅広く活動している。

インタビュー日時:2018年1月16日
聞き手:奥地圭子
場 所:東京シューレ葛飾中学校
写真撮影:木村砂織
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〈テキスト本文〉

奥地 今日は、達也さんのお母さんとのご縁でお会いできることになり、亡くなられたお母さんに、とても感謝しています。私は、自分の子の登校拒否で国府台病院の渡辺位(*1)先生と出会い、病院内の登校拒否の親の会「希望会」に参加させてもらっていました。達也さんのお母さん、田中英子さんは希望会の会長をしておられ、先輩として、とても学ばせていただいた方です。年賀状を出したところ、達也さんから「母が亡くなった」と連絡をいただき、そのご縁から、今回、急きょインタビューさせていただくことになりました。お母さんとは、いっしょに『登校拒否・学校に行かないで生きる』(渡辺位編著/太郎次郎社1983)もつくらせていただきました。この本は、希望会10周年を記念して、世の流れに抗して登校拒否の子どもを受けとめる声を発信しようと企画された本でした。このころは、会長は竹下ミドリさんに替わっておられましたが、英子さんも編集委員会に入ってくださり、寄稿もしていただきました。


●陰湿ないじめに遭って

奥地 達也さんは、ご自身の登校拒否の時期や理由は覚えていますか?

田中 千葉県市川市の冨貴島小学校に通っていたんですが、小学校5〜6年生のころ、集団のいじめみたいなものに遭いました。1970年代半ばのことで、当時は進学ブームで、親は自分たちが高等教育をあまり受けられなかった世代だったからこそ、子どもにはいい教育を受けさせて、いい学校を出させて、いい会社へというルートに乗せようとしていたんだと思います。

奥地 それが、夢になっていたんですね。

田中 戦争の影響がまだ残っている時代で、おそらく親たちも、いい学校へ入れてあげることが、自分たちの夢を子どもに託すことにもなっていたのではないかと思います。ご存知のように、当時は東京進学塾、四谷大塚など、たくさんの進学塾ができていました。クラスの半数近くの子は進学塾に通い、われ先にと受験対策をしていました。あとの半分くらいは、まだ昔ながらの子どもというか、草野球ができた時代でした。
 進学塾組とそうでない組は、やっぱりちょっと対立するところがあったんですね。進学塾に行っている子たちは、点数を上げろ、偏差値を上げろということで、土・日も塾に通って、塾が終わってからも課題があったりして、忙しくしている。1点でもいい点数を取るために、一種の洗脳教育を受けていた。
 でも、やっぱり小学生ですし、限界があるわけです。彼らからしてみると、自由気ままに遊んでいられる少年たちがうらやましい。私は、そっちの代表格みたいな感じだったんですね。

奥地 『登校拒否・学校に行かないで生きる』でも、お母さんが「達也は毎日遊びまわり、泥だらけになって、ざりがにとりをしたり、山道を発見したり、秘密基地(赤土の宅地造成の崖)に夢中になったり、活発に日暮れまで遊びました」と書いてますね。

田中 彼らにしてみると、それがうらやましかったんだと思います。いろいろ因縁をつけてきたり、小学校6年生ぐらいになると知恵がついてきますから、みんなの前では暴力をふるわないけれども、帰り道に隠れていて、いきなり6人がかりで蹴られたり、筆箱を隠されてしまったり、定規におしっこをかけられて、それを筆箱に入れられたり、いろいろ陰湿なことをされてました。

奥地 それは学校生活がたいへんでしたね。

田中 僕自身、学校は行かなきゃいけないところだと思っていましたし、当時は学校へ行かないということは大問題で、その責任を個人に求める時代でしたからね。でも、行けなくなってしまった。

奥地 当時は、本人の性格が悪いとか、親の育て方が悪いとか、そういう認識ですからね。

田中 そういう時代でしたね。ですから、最初に行った総合病院では脳波をとられました。やっぱり、この子に問題があるということだったんでしょうね。

奥地 うちの子も、脳波をとられました。達也さんも「なんで脳波をとるんだ」とおっしゃったそうですね。

田中 脳波というのは脳の機能のことですから、α波、β波、θ波なんて調べたところで、不登校についてはまったく的外れの検査だし、どう考えても、おかどちがいだと思いました。

奥地 子ども心にもおかしいと思っていたんですね。

田中 そうですね。たぶん、ほんとうに脳波に異常があったら、いろんな症状が先に出ていると思うんですけど、MRIもCTもない時代ですし、精神医学も、そういう根拠にもとづく医療については、まだ経験も浅かったのかもしれないですね。

奥地 それが小学校6年生のときで、その後、中学校はどうだったんでしょう。

田中 小学校と中学校は学区がいっしょで、ワルの連中もいっしょだったので、中学になると、今度は脅しが入ってきたりして、また学校に行けなくなっちゃったんです。頭では行かなきゃいけないと思いながらも、行けなくなってしまった。
 実際に危険がともなっていましたし、学校は自分にとって安全な環境ではなくなっていたんですね。相談所や、いろいろなところをまわったうえで、国府台病院につながりました。
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posted by 不登校新聞社 at 14:36| Comment(0) | 当事者