2016年07月19日

#01 佐藤修策さん

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(さとう・しゅうさく)
1928年生まれ。1953年、広島文理科大学卒業。岡山県中央児童相談所判定課長、高知大学教授、兵庫教育大学学長を歴任。教育学博士。1950年代後半に児童相談所で登校拒否のケースに出会い、1959年、日本で最初期に登校拒否の論文「神経症的登校拒否行動の研究―ケース分析による―」を発表。以後、不登校・登校拒否に関わり続けてきた。著書に『登校拒否児』(国土社)、『登校拒否ノート』(北大路書房)、『不登校(登校拒否)の教育・心理的理解と支援』(北大路書房)など多数。


インタビュー日時:2016年6月26日
聞き手:山下耕平、田中佑弥、貴戸理恵
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〈テキスト本文〉

山下:まず、佐藤さんが児童相談所の職員として働きはじめたころのことからうかがいたいと思います。当時の長期欠席の様相は、どんな感じでしたでしょう?

佐藤:私は昭和28年(1953年)に広島文理科大学(現・広島大学)を卒業して、最初は岡山県の教護院(現在の児童自立支援施設)に勤めたんです。その1年後に岡山県中央児童相談所に配転になり、判定員を務めていました。所長は竹内道眞(たけうち・どうしん)さんという変わった精神科医で、藪医者という評価と、神様という評価に分かれていた方でした。なぜなら薬を出さない医者で、いまで言えばカウンセリングを中心にしていた方だったんですね。


●英語で鯛は釣れん

佐藤:そのころというのは、新制中学校が昭和22年(1947年)にできて中学校まで義務教育になったものの、中学校への就学は定着していませんでした。瀬戸内海に面した下津井という漁村で、家庭訪問にまわると、学校に行っていない子がゴロゴロしていました。就学を勧めようと父親に面接すると「学校は小学校まででいい。誰も中学校をつくってくれと言うてない。英語を教えてくれる? 英語で鯛は釣れん。あとはワシが漁師に仕込む」と毅然と断られました。それが漁村ではふつうの考え方でした。そのころは「子どもを学校へ通わせるのは親の義務です」という立て看板が、方々にありました。ちょうど、いまの「飲んだら乗るな、飲むなら乗るな」みたいな感じですね。
 お父さんには中学校なんて必要ないという確固たる自信があるので、説得なんてできませんでした。漁村だけではなく、町のほうでも、学校がイヤなら行くなという考え方は多かったですね。教員も、「学校がイヤなら紹介してやるからパン屋で働け。学校には行っていることにするから」と勧めたり。いまのように学校に行かなければいけないという考えはなく、自由な雰囲気でした。ああいう雰囲気だったら、不登校なんて問題にならないんですけどね(笑)。

山下:いまのように学校に価値を置いてないわけですね。しかし、それが時代とともに、変わっていくわけですよね。

佐藤:私が大学生のころの広島は、戦後まもないころで、防空壕もそのままだし、焼けトタンを屋根に生活していたり、橋が壊れたままだったり、銀行の前に原爆で死んだ人の影が残ったままだったり、といった状況でした。しかし昭和30年代半ばごろになると、ずいぶん復興してきて、じょじょに経済的関心も高くなっていました。昭和35年(1960年)には池田勇人内閣が発足し、高度経済成長路線に入ります。そういう時代状況のなかで、従来、学校教育に関心のとぼしい家庭と、関心の高い家庭とに分極化していましたが、昭和30年代後半から教育への関心が高まり、高校や大学への進学率を押し上げていきます。高度経済政策の進展とともに、人口は田舎から都会へと移動し、教育への関心の分極化は薄くなっていきました。

田中:最初に登校拒否の子どもと出会われたのは、いつごろのことでしょう?

佐藤:昭和32〜33年のころです。昼休み、受付に座って新聞を読んでいたら、小学生を連れたお母さんがいらした。症状としては分離不安で、お母さんがいっしょなら学校に行くけれども、お母さんがついてこないと行かない。しかし学校に行ったら、それまでの混乱状態はスッキリしてしまって、ふだんと全然変わらない。最初に面接したとき、いままで会ったことのないような子どもだったので、びっくりしました。

田中:どんな感じのお子さんだったんですか?

佐藤:会社の社長さんの家庭で、奥さんもきれいな人でした。小学3年生ぐらいの男の子で、服装といい、顔色といい、いわゆる坊ちゃんという感じでした。ふだん児童相談所には要保護性の強い子どもが来ますから、経済的にも社会的にも、いろんな面で追いつめられている家庭の子が多かったんです。そういうなかでは、めずらしい家庭でした。
 それでケースを担当したいと、課長へ申し出たんですが、判定員はケースを扱えないことになっていたんです。そこを所長がうまくとりはからってくれて、時間外で面接や家庭訪問をすることができて、1年ほど担当しました。それが最初です。

貴戸:当時の児童相談所のケースのなかでは、学校に行かない子どもというのは、何か明るいものと感じられたということでしょうか?

佐藤:そうです。優秀な子が多かったんですよ。本人も家庭も。当時の登校拒否の子どもの家庭というのは、教員、弁護士、会社の社長など、経済的にも社会的地位にも恵まれている家庭が多かったですね。
 もともと、私は母子関係に興味をもっていたんです。登校拒否の前には継母子関係を研究していて、それが土台になってます。それまで出会った母子関係というのは、捨て子や虐待、忙しさからの放任などの一方で、溺愛のあまり母子が性的関係を結んでしまうような、人間性を疑わせるような関係もかなりありました。とくに、触法の非行をもつ子では、そんな親子関係が少なくなかった。ところが登校拒否の子どもの場合、お母さんは知的にも高いし、育児意欲もあるし、お父さんの経済力もあるし、しっかりした家庭でした。


●昭和30年代の登校拒否は

佐藤:当時、登校拒否については、論文なども発表されておらず、私たちのところではわかりませんでした。そこで、数時間、列車に乗って、親子といっしょに京大の高木隆郎先生(精神科医)を訪ねました。同じころ、やはり自閉症のことで神戸医科大学(現・神戸大学医学部)の黒丸正四郎先生(精神科医)のところも訪ねています。
 当時の京大の精神科病棟は、ぼろっちい木造の建物で、廊下にプレイルームがあって、そこで会ってくれました。そのとき、話し終わってから高木先生に「佐藤さんはいいね。治ったらそれでおしまいで。僕らは研究者だから、どうしてこの症状が生まれるのか、どうしたら治るのか、理論的なものを追求しないといけない。そこが相談所と大学のちがいだ」と言われたんです。そこでムカッときまして、アメリカの雑誌、単行本や専門雑誌を取り寄せて読んだんです。当時は、アメリカのものしかなかったですからね。それで、昭和34年(1959年)に「神経症的登校拒否行動の研究」という論文を書きました。それを高木先生も高く評価してくださった。高木先生も、同じころに、登校拒否の子どもと出会って、「児童の精神分裂病(現在の統合失調症)かと思ったが、病院に入れるとけろっと治ってしまうので驚いた」というようなことを専門誌に書かれてますね。当時の日本では、登校拒否は、精神科の医者でも経験しないような、フレッシュな問題だったんです。

田中:初めて出会った登校拒否の子どもについて、どのような見立てをもたれましたか?

佐藤:やはり、母子関係の問題だと思いました。お父さんは仕事にのめりこんで、家庭を省みない。そのため、お母さんと子どもとの距離が近く、固着的な関係にあった。それゆえの分離不安ですね。多くの神経症的な登校拒否では、母子関係が非常に近いんです。
 たとえば、児童相談所が一時保護所で子どもをあずかる際、お母さんは、さっさと帰ればいいのに、なかなか離れない。母と子の別れが非常につらいんですね。お母さんもつらいし、子どももつらい。そこで、子どもが泣き叫んでいても分けてしまう。そうすると、1時間ほど泣かしたら、子どもはけろっと元気になるんです。不安定がなくなって、明るくニコニコして、みんなとうまく生活する。
 場面緘黙の場合も親子関係が密着していて、分離をはかるんですが、場面緘黙の場合は、お母さんは子どもをあずけたら、さっさと帰ってしまう。分離に対して、お母さんは不安を示さないんですね。しかし登校拒否の場合は、お母さんが不安を子どもにもろに示す。そういう特徴があります。一見、分離不安が見られない子どもでも、分けようとした段階では、すごい抵抗があります。親子を分けようとしたら、たいへんなエネルギーがいる。津山児童相談所の一時保護所に中学校2年生の子どもを入れようとした際には、分離ができないので精神科医が注射して意識をとってクルマで連れていったこともあります。そういう強引な分け方をしていました。
 学校へも無理に連れていっていました。一時保護所で30日ほどあずかって家に帰すとき、子どもと親に学校に必ず行くと約束させて、ケースワーカーが学校に連れていって、学校から家庭に帰るようにさせていました。一見、それでうまくいくんですね。それで、そういう指導方法を採っていました。
 しかし、1〜2年もしないうちに、そういうやり方はまちがいだとわかりました。なぜなら、母子関係を壊してしまうんです。子どものほうが、お母さんが僕を捨てたとか、いらん子扱いしたとか、後に残るんですよ。また、一時的には登校しても、しばらくしたら再発してしまう子どもが多い。ですから、強引な分離は絶対ダメだということで、一時保護するのにも、1年ほどかけて、子どもとの対話を通じて子どもが了解した段階でするようにしました。強制的な分離というのは、いわば外科の大手術ですからね。昭和30年代半ばには、そういうやり方はやめていました。

貴戸:強引な方法について、かなり早いうちに転換されていますが、当時のほかの機関は、どういう対応をしていたんでしょうか?

佐藤:当時、大学以外では、児童相談所が登校拒否に関心をもっていた機関ですが、その年報をみても、治療的な方法が報告されていて、強制的なものは報告されてません。

山下:強制的な分離はアメリカの理論から採られていた方法だったんでしょうか?

佐藤:いえ、登校拒否の本質がわかってない段階で採っていた方法で、経験的なものでした。教師やケースワーカーが母子を無理に分けると、30〜40分ほど泣いてますが、次第に落ち着き、みんなと生活できるようになるという日常体験がありました。
 その後、登校については、イギリスの強制的登校(forced attendance)という行動療法の方法を採りました。本人と治療者が話し合って治療プログラムをつくって、じょじょに学校に近づけるという方法です。たとえば、まずはお母さんが子どもを説得して連れていく。お母さんが付き添えば学校に行けるという子どももいましたからね。あるいは、まずは校門が見えるところまでは行く、その次は門を入ってと、じょじょに近づけていく。圧力を軽減しながらやっていく。これは、いまでも高所恐怖症の治療や認知行動療法で使う方法ですね。

田中:分離不安という言葉は、登校拒否の子どもに出会った当初から知られていたものですか?

佐藤:親と別れるときの不安という意味で使っていましたが、当初は精神分析の言葉としては知りませんでした。

田中:学校恐怖症(school phobia)という概念を知ったのはいつごろですか?

佐藤:昭和33〜34年だと思います。分離不安も学校恐怖症も、アメリカで言われていたものですね。学校恐怖症は現象的なネーミングで、その本質は母子分離不安にあるというのが初期のアメリカの考えです。当時、アメリカは精神分析が盛んで、母子関係の固着と分離が大きなテーマでした。その後、父親の役割が問題になってきました。ふつう、母子関係には父親が介在するんですよ。お母さんと子どもが密着しすぎて、あまりにも赤ちゃん扱いしていたら、お父さんが外に連れて出るとか、介在する。それが父親の不在ややさしさのために、介在できない。


●高度経済成長と家庭の変容

 このころは、池田内閣が高度経済成長を打ち出して、農業、一次産業がすたれて、お父さんが工場や会社に集められた時代ですね。男たちは、戦争中の忠君愛国なみに、会社に愛社精神をもって命をあずけた。それが父親不在の家庭をつくったわけです。第一次産業でしたら子どもを巻き込んでやりますでしょう。ところが父親が会社に勤める労働者になっていくと、家庭には母と子しかいない。それに職業婦人はめずらしい時代ですからね。父親が稼いで奥さんは家を守るというかたちになっていったのです。その結果、母親と子どもは家庭にポツンと置かれている。さらに悪いことには、都会にいると、マンションで母と子だけが生活している。
 いわば家庭の変革期にあったんだろうと思います。分離不安には、そういう社会背景がありますね。そこに経済発展がからんで、いい大学に行ったら、いい就職が保障されるという考えが強くなってきましたし、一方では、明治以来の教育に対する考えが残っていたりして、そういう日本的なものがまぜこぜになって、登校拒否は出てきたんだと思います。日本は、ほかの先進諸国と比べても、登校拒否はずっと多くなっていますからね。ですから、子ども個人だけを見ているんではいけない。
 私は、登校拒否は、学校と子どもと家庭の三角形で考えないとダメだと言ってきました。ケースによって、学校の要因が強いか、家庭の要因が強いか、子どもの要因が強いか、それぞれのアングルのウェイトがちがうだけで、そのどれかを崩したら、充分な理解にならないと思います。

田中:当時、学校恐怖症や分離不安以外に注目された概念はありましたでしょうか?

佐藤:登校拒否(school refusal)です。イギリスにあった概念で、これは行動療法的な考え方ですね。
 自閉症も1952年に国立精神衛生研究所の鷲見たえ子らの論文が日本で初めて発表されましたが、アメリカの発表から10年ほど後のことでした。学校恐怖症も同じく、アメリカより10年ほど後でした。
 児童向けの精神治療もカウンセリングも、戦後にアメリカから入ってきたものですね。当時は日本の文献には登校拒否という項目もないし、ロールシャッハにしても、遊戯療法にしても、ほんの数ページ程度しか書いてない。それを読んだだけでは役に立たないわけです。ですから当時の専門家はアメリカの原書を読んで、それを応用していました。


●神経症的登校拒否≠病気

山下:登校拒否は、昭和30年代前半ごろまでは小学校低学年の子に多かったんでしょうか?

佐藤:そうですね。低学年固有の問題、都市部固有の問題と思っていましたが、昭和30年代半ばごろから急速に、小学校高学年、中学校へ広がり、都市部から田舎へと、全国へ広がりました。
 そうしたことから、分離不安だけでは説明できなくなりますから、神経症的登校拒否と考えたわけです。イギリスの登校拒否(school refusal)の概念を拝借して、そこに神経症的とつけた。神経症的というのは、登校に不安を持つという意味です。登校拒否という言葉を使ったのは、子どもが主体的に登校を拒否しているとみていたからです。主体的な拒否ではないという批判もありましたが、本人が意識できるかどうかは別にして、主体的な行動としか理解できないんですよ。なぜなら、客観的には、家庭にも周囲の状況にも登校を阻害する要因が見当たらない、本人の心身の状態も異常がない、とすれば無意識的なレベルでの本人の主体的な自己主張だろうと。つまり、病気ではないということです。

山下:児童の分裂病が疑われてもいたわけですが、そういう病気ではなく神経症だということですね。

佐藤:そうです。分裂病の場合は、環境への関心をなくしたわけですから、病気です。登校拒否はちがいます。ただ、怠学も主体的な登校拒否ですから、それとはちがうという意味で、神経症的登校拒否と言ったわけです。まあ、まぎらわしいボーダーラインがいっぱいありますから、言葉では割りきれないわけですが、不登校という言葉になると、あれもこれも入ってしまって、広がりすぎて、ポイントを置きかねるようになってしまったと思います。精神科医や社会学者が使い始めた言葉ですけれどもね。

山下:低学年の問題として分離不安があるということと、思春期以降の問題として、本人の主体的な行動だということのつながりは、どういう理解になりますでしょうか?

佐藤:現象的には、小さい子の場合は母子関係の異常として表現されることが多いです。たとえばお父さんとの関係がよくないことが、母子関係の異常として出てくる。思春期になると、まわりの環境との問題、主体性確立の問題として出てくる。
 同じ親子の問題でも、年齢・発達レベルが上がると、親子の直接の心身のつながりの問題から、求める親と現実の親とのギャップの問題になって、親に対する不安や不信、軋轢、闘争になる。だから、出る問題も家庭内暴力になったりするわけですね。
 また、ほかの例をあげると、中学2年生の男の子が、生徒会の選挙で会長になったことをきっかけに、登校拒否になったケースがありました。表向きは生徒会での挫折から登校拒否になったように見えますが、背景には母子関係からの離脱に手間取っているという、葛藤の問題がありました。その家庭は単親家庭で、中学生になっても、お風呂も寝るのもお母さんといっしょで、魚もぜんぶ骨をとってもらっていたり、新婚夫婦の夫が妻にかしずかれるような関係が続いていたんですね。つまり、親が子どもを支配していて、子どものほうも親にぜんぶ相談していた。ところが、生徒会のことを親に相談してもうまくいかなかったわけです。これに類した例はかなり多いんですね。
 つまり、年齢発達レベルによって、表現がちがうだけだと考えています。親子関係からの離脱・独立というテーマと、社会への適応という青年期固有の問題、自我の主体的形成の問題。これは勉強だけではなくて、スポーツ、友人関係、性的な適応、いろんなことがありますからね。そういうところに登校拒否が生まれる。ですから、登校拒否は子どもの発達上のトラブルだということです。そこをうまく越えさせてやれば、次の段階に伸びていく。永続的な障害ではないんです。そこから抜け出したら立派なもんですよ。抜け出すまでに、長い場合は5〜6年以上かかることもありますし、なかには小・中学校ぜんぶアウトして元気になっている子どもを何人も知ってますからね。ああいう子どもたちを見ていると、すごいなと思います。小・中をとばして、高卒資格も国の試験で得て大学に行った子どももいます。中学校は何のためにあるんだろうと思ったりします(笑)。
 ただ、扱いを失敗しますと二次障害が出てきますからね。登校拒否の指導というのは、二次障害を生まないようにすることと、登校拒否をいかに成長の糧とするか、そこがポイントだと思います。治すとか治してやるということではなく、成長をどう進めるか。ですから、発達援助、発達支援と考えてもいいです。
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●親が変わると子どもが元気に

貴戸:長期的なスパンで関わってこられたんですね。

佐藤:つきあい始めたら5〜6年以上は関わるつもりでやらないといけませんね。問題は親御さんに、こちらの思いをいかに理解してもらえるかです。親は早く早くと焦ってますから、そう急いでもダメですよ、と。たとえば中学に入って登校拒否になった子の親に「中学校の3年間くらいはかかりますよ」と言うと、親は落ち込んでしまう。しかし、つきあいを重ねていくと、そのことをわかってくださって、親が学校復帰を急がなくなる。急がなくなると、子どもがじょじょに元気になっていきます。ですから、最初の指導は、子どもの生活に対して、いかに親を抑えるか、いまの子どもの状態を親が喜んで受けとめてもらうようにできるか、ということになります。子どもの否定ではなく、子どもを受けとめること。それができるようになると、子どもがふだんの元気な状態にもどってくるのですね。

山下:それもある意味での母子分離ということでしょうか?

佐藤:親からの分離・独立は、子どもの受容が土台です。親が、いい成績、いい子を望まなくなり、そのままの子どもを受けとめるようになると、子どもが落ち着く。だから、子どもが登校拒否してくれたおかげで親子関係を見直すきっかけになったと喜べると、子どもは伸びます。
 そういう意味では家庭がポイントですね。学校の先生は関わっても、せいぜい1〜2年、私たちも一時的に関わるだけですが、親は一生ですからね。登校拒否の子どもの成長は、親の変革でもあると私は思ってます。子どもを元気にするということは、親子関係を親自身が変えていく。そこにポイントがある。ですから、子どもが登校拒否になってよかったという、親の幸福経験が必要だと思います。もちろんマイナスもありますよ。でも、どんな生活だって影の部分もあるわけですからね。子どもの登校拒否の経験が、家族や子どもの成長を助けてくれたという総括をしてくださる親になれば、成功したなと思ってます。
 ただ、不登校のなかには、いろいろな精神障害の前ぶれということもあります。小学校では現れていないものが、思春期以降に精神障害が表に出てくる場合もあります。数は少ないですけどね。ですから、さまざまな不登校を、不登校という3文字で表してしまうのは、対応としては危ないと思います。

山下:1983年に文部省(当時)が登校拒否についての生徒指導資料を出していますが、これには関与されたんでしょうか?

佐藤:関係してません。文部省には、まったく関係してません。

山下:文部科学省は、いまも昔も「早期発見・早期対応」と言っていますが。

佐藤:「早期発見・早期対応」なんて、身体の問題では言えても、心の問題は難しいんじゃないでしょうか。胃ガンだったら、早期発見しないと死にますよということになりますが、登校拒否を早期発見しても、軽いうちには親もちゃんと考えないでしょう。なんとかしようと思っていても、どうにもならなくなって、ようやく考えるというのが実際じゃないでしょうか。


●登校拒否と医療の問題は

山下:1988年に稲村博さん(精神科医)の「登校拒否症は早期に治療しないと30代まで尾を引く」という見解が朝日新聞夕刊の1面トップに出て大問題となりましたが、いま振り返って、この問題については、どのように思われますか?

佐藤:私もよくわかりませんが、稲村さんの考えは医者としては当然で、否定はできませんね。不登校の子どものなかには、放って置いたらそうなる子どももいるわけですから。一般化はできないけれども、なかには難しい疾病をもつかもしれない子どもがいる可能性もあると捉えれば、そうまちがいではない。
 しかし、あの当時は精神医学会も、個人病理よりも社会病理に関心が高かったですからね。みんながワーッと寄ってたかって、という感じではなかったかと。
 ところが、いまの精神医学会は、アメリカの診断基準(DSM)に拠っているものだから、日本での不登校は、また病気になってしまっていますね。社会不安障害、行動障害など、こまかに分かれて病気化されてしまっている。ですから、私はアメリカのあの診断基準は好きじゃないですね。

山下:発達障害でも同じようなことが言えそうですね。

佐藤:いまは発達障害が関心を集めていますが、自閉症も発達障害も昔からあったんですよ。言葉が変わっただけです。母集団のなかにもともとあったものから、新しい名前で取り出されている。いままでなかったものが急に最近生まれたわけではありません。発達障害も、早期発見しても、治療方法はまだ充分に確立していないですからね。
 発達障害による不登校も昔からありました。この場合は、不登校を起こすようなファクターを整理して取り去っていけば、子どもは学校へ行けますからね。神経症的登校拒否の場合は、ひっかかりを取っても、学校に行けない。同じ不登校でも、ちょっとちがうなと思います。それをいっしょにしてはよくないですね。

山下:反精神医学的な見方は、家庭や子どもにではなく、学校にこそ問題があるという見方を示したと言えますよね。しかし一方で、そういう見方をとることで、子どもの神経症的な問題や親子関係、本人の支援ニーズを見落としてしまった面もあるとお考えでしょうか?

佐藤:学校の先生はたいがい親の責任だといい、親は学校の責任だといい、なすりあいですよね。いじめでもそうですよね。トラブルが生じると、学校と家庭は相対する関係になることが少なくないのです。
 すべてのケースにおいて、学校に責任がないということは絶対にありません。そのウェイトが大きいか小さいかは別にして。家庭も同じことだと思います。指導に関わる者は、そのウェイトをどう見るかですね。たとえば幼児期だったら家族関係を集中的に、中学生だったら学校関係を集中的にと、ウェイトが変わってくる。プラズマのように三角形がぐるぐるまわっているわけです。

山下:そういう意味では、DSMのように診断を細分化することも、三角形のバランスを見えなくしてしまいそうですね。

佐藤:病気にしてしまうと、あとは薬だ、心理療法だということで、教育的・社会的支援という視点がなくなってしまいます。子どもの場合、学校、家庭、子どもという三者の関係で見ないといけない。アメリカの診断分類では、子どもの問題のみになってしまって、教育的視点が弱い。医者が対処するものになってしまう。勉強のできない子どもも、医者に連れていっている。

山下:LD(学習障害)なんかそうですね。

佐藤:LDは医者に行っても、最終の解決は得られません。治療に結びつかない診断というのは無意味だと思ってます。LDも治療ではなく発達促進と考えたら教育配慮が入ってくる。薬で治す問題ではない。アメリカの診断基準は個人に還元しすぎています。発達によって子どもがどう変わるかという観点が弱い。

貴戸:登校拒否に対する投薬治療については、どのようにお考えですか?

佐藤:薬というのは、症状対応として、落ち着きがないから落ち着けるようにとか、恐怖が強いから恐怖をおさめるとか、補助的な手段にすぎないですよね。それで治るわけではない。症状をおさめることで人間関係を回復できるというところに、意味がある。たとえば、閉じこもってしまっている子に、抗うつ剤を出したことで、親と話せるようになる、そこから親子関係をつくり直そうというところに結びつかないと、薬の意味はないです。医者でも、神経症的な登校拒否を薬で治すという考えの人は少ないと思います。
 ただ、ボーダーラインがありますからね。そこで精神科医療を試みにやってみて解決するのであれば、それでよいじゃないかと思います。医学的治療がいけないということではない。それによって回復が進められる場合は、医者の見方が正しかった、薬とは関係なく元気になったということだったら、心理の問題だったということでしょう。治療の結果として、最終診断ができるということだと思います。


●親の会の役割は

貴戸:親の会にも関わってこられたそうですね。

佐藤:親の会には平成元年(1989年)から24年間、関わりました。親の会は、親どうしが自分の問題を自由にさらけ出すことができるのが、いいところですね。悩みがいっしょですからね。それが一番大きい。苦しんでいるのは私だけではないと、問題を共有できる。
 そして、そこに社会を形成できますよね。親の会で知り合った人どうしが電話でつながって、情報交換したり、励まし合ったりしている。あるいは、不登校OBとも言える親御さんの経験談が、いまの親御さんに役立ったりする。親の会は、個々の家庭が孤立することを防ぐ、ひとつの社会的活動だと思います。
 ただ、私たちの立場から、方向性を示すことはありました。ケースによって、父親と会話できる機会を提案したり、精神科医を勧めたり、学校との話し合いを勧めたり。親の実体験と、私たちの知見とが合体したものがうまくいくように思います。親の会では、カウンセリングのように、家庭の恥ずかしいところまではオープンにできないですしね。ですから、親の会の参加者には、カウンセリングも勧めていました。親の会はグループカウンセリングのようなもので、親どうしの気づきをうながすのが役割だと思っています。親の会は、私にとっても、いい勉強になりました。


●時代変化のなかで

山下:時代とともに、長期欠席の意味も変容してきていますよね。最近では、また新しいかたちで貧困問題も浮上しています。そのあたりについて、どうお考えでしょう。

佐藤:長期欠席だけでは学問的な意味や対策は出てきません。いま話題の親子の連鎖的な貧困による長期欠席は、福祉の不足という政治的な課題です。政治的に強力な対応ができれば、なくなってくるでしょう。
 いま私が関心を持っているのは、議員立法でつくろうとしている法案のことです。不登校の社会的支援を学校教育に採り入れようとしているでしょう。それはそれでいいですが、かえって、これまでの活動の芽をなくしてしまうのではないか、活動が狭まってしまうのではないかと思います。金をちょっと出す代わりに口ばっかり出されるのではかなわんでしょう。僕はあまりああいう法律をつくるのは好きじゃないですね。子どもの自由裁量権が大きいほど、望ましいと思います。

山下:私も、学校的なものから身を引く時間や場所は必要だと思っていますが、それがへんに制度になると、そういう意義が奪われてしまうように思います。

佐藤:そうですね。子どもの逃げ場所がなくなってしまう。ですから、学校教育の補完でもかまわんから、自由に子どもが息のできるところをつくってあげることが必要だと思います。
 基本的に、登校拒否で子どもが自殺をすることはありません。自殺まがいのことをすることはありますが、手さえ加えていれば自殺までは行きません。自殺まで行った子どもというのは、よっぽど周囲が手をかけてなかったんだろうと思います。登校拒否というのは命の綱だと思ってます。いじめなんかで自殺してしまった子のことを聞くと、どうして登校拒否にならなかったのかと思います。登校拒否になって、学校から逃げ回ってくれたら、打つ手はあったのに。ですから、登校拒否というのは、自分を助けるひとつの手段だと思ってます。登校拒否になることによって、自我を抹消してしまわなくて済んでいる。つまり心の安全弁ですよね。「腐ったものを食べたら下痢をする」と言った人もいましたね(※注)。登校拒否というのは、生体が持っている自衛能力だと思います。ですから、子どもが登校拒否をしたら、よくやったと喜ぶのがいいんですけどね。

山下:まずは逃げることが大事なんでしょうね。その後、言葉で整理がつくようになるには、どういうことが大事だと思われますでしょうか?


●自分なりの納得が大事

佐藤:登校拒否というのは、子どもにとって大きな心のダメージになっています。ですから、大きくなってから、なぜ学校に行けなかったのかということを回顧して、自分なりに納得したほうがいいと思います。それが当時の気持ちとちがうというのは問題ではありません。そうやって整理したということのほうが大切。自分なりに納得する、それが大事です。
 登校拒否になったわけは、本当のところは誰にもわからないですね。いまの自分があるのは、不登校したおかげだという自己認識ができればいいと思ってます。それが治療の終結ですね。それさえもてればいいと思ってます。そういう人はいまの適応がいいですからね。逆に言えば、いまの適応がいい人は、不登校経験をプラスと判断して、いまの適応が悪い人は不登校がマイナスだったと思う傾向があります。しかし、マイナスだと思う人の数は少ないです。

山下:現在は、以前よりもよくなったとお考えでしょうか。

佐藤:不登校は社会的に認知されましたね。昔は、病気だ、狐が憑いた、狸が憑いたといって、家庭は狂乱状態になっていました。それが社会的認知が進んだことで、親も教師もあわてなくなったことは事実です。その結果、現れ方も変わってきました。たとえば、昔は、家庭内暴力の出方がすさまじかった。出刃包丁で親を追いかけ回したり、バットで親を殴ったり、その結果として、逆に、親が子どもを殺してしまうという事件もありました。しかも、子どもの家庭内暴力は、お母さんに矛先が向かうことが多いですね。自分を育ててくれた人に暴力が向かう。一方では、落ち着いたら、お母さんを膝枕にして、赤ちゃんのように甘える。愛と憎悪が同居しているわけです。
 いまは、不登校が社会的に認知されてきましたから、以前に比べると家庭内緊張が高まらない。そのために症状が軽くなっています。しかし、なかなか解決しにくい。急激に始まって、急激に終わったケースは解決が早いです。いつ始まったかわからない場合は遅いですね。

貴戸:社会的認知が進んだ反面、解決しにくくなっている。逆説的な感じもしますが?

佐藤:そうです。問題が広がって、難しくなっているとは思います。ただ、本質的には、問題を解決しようと思ったら、明治以降の学校への私たちの「信仰」がなくなることが必要だと思います。いまは生涯教育の時代ですから、小学校時代にできなくても、大きくなってから学んでもいい。教育の重要さを認めながら、強制しない方向にできたらいいと思います。
 不登校というのは、学校教育があるかぎりは生まれますよ。なくそうというのはまちがいだと思います。少なくする努力はしたらいいけど、不登校になったときに、適切に対応する教員、または社会的支援組織があれば、おそれる必要はまったくなくて、どんと来いとかまえていれば、それでいいと思っています。


※注:渡辺位さん(児童精神科医・故人)の言葉
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posted by 不登校新聞社 at 15:07| Comment(0) | 心理関係
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