2016年09月22日

#04 小沢牧子さん

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(おざわ・まきこ)
1937年北海道生まれ。大学と研究機関で心理学を学んだのち、心理相談の仕事を通して心理学の理論と実践に疑問を抱き、臨床心理学の点検と批判の研究を続ける。もと和光大学非常勤講師、国民教育文化総合研究所研究委員、日本社会臨床学会運営委員。不登校新聞にも創刊時より、論説の執筆などで関わってきた。著書に『心理学は子どもの味方か?』(古今社)、『心の専門家はいらない』(洋泉社・新書y)、『学校って何 ――「不登校」から考える』(小澤昔ばなし研究所)、『子どもの場所から』(同)、『老いと幼なの言うことには』(同)など多数。

インタビュー日時:2016年6月13日
聞き手:山下耕平、栗田隆子
写真撮影・記事編集:山下耕平

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〈テキスト本文〉

山下:小沢さんが「心の専門家」として、「不登校」に出会ったあたりの経緯から、うかがいたいと思います。

小沢:慶応大学の哲学科心理学専攻というところを卒業してすぐ、1960年に国立精神衛生研究所(現・国立精神・神経医療研究センター)の研究生になりました。私が配属されたのは児童精神衛生部で、そこで学校恐怖症の研究チームに入ったんですね。「いわゆる「学校恐怖症」に関する研究」(玉井収介ほか1965)という論文に関わりました。この研究チームでは、精神科医の鷲見たえ子さんたちが60年に「学校恐怖症に関する研究」という論文を出していますが、その第2弾に関わったということです。

山下:当時の専門はロールシャッハテスト(*1)ですか?

小沢:研究所に片口安史さんという、日本のロールシャッハ研究の開拓者のひとりがいらしたんです。当時は成人のテスト結果についての研究が中心で、子どものロールシャッハテストの研究分野は未開拓でした。それで、児童部にいた私に声がかかったんです。自分が関心を持って始めた面もありますが、課題を与えられるかたちで、一生懸命、技法の習得と研究に打ち込んでいました。

山下:どういうテストですか?

小沢:紙の上にインクを落として、それを2つ折りにして広げると、シンメトリーな図柄の染みができますね。それ自体は無意味なんですが、それをクライエントに見せて、何に見えるかを言ってもらうんです。専門家の側が複雑な評価尺度と解釈仮説を持っていて、一方的に解釈していくわけです。相手はなぜそう解釈されるのか、まったくわからない。その一方的な関係のおかしさに、最初はまったく気づいてませんでしたね。恥ずかしながら。一生懸命勉強して、手引き書を見ながら解釈仮説をあてはめていく作業をしていました。60年代はロールシャッハを含む性格テスト研究が急速に盛んになっていました。

山下:学校恐怖症が問題になった時期と、ちょうど重なっていたんですね。

小沢:重なっていましたね。学校恐怖症は、とくに精神科医、心理の専門家の関心を集めていた分野で、当時、そういう子はめずらしかったんです。国立の研究所でしたから、児童精神衛生部は学校恐怖症を研究テーマのひとつとして、症例を集めていました。児童相談所や教育相談所などから、学校恐怖症の子が送られてくるんですね。私が最初に会ったMちゃんは、茨城県から何時間もかけて通っていました。小学校3年生の女の子で「貴重な症例」という感じで見られていてね。1年ほど、週1回会って、プレイセラピーをしていました。

山下:プレイセラピーというのは?

小沢:ロジャーズ(*2)という心理療法家の立場に基づいた、子どもの心理療法です。研究所には、ロジャーズの代表的研究者のひとりである、佐治守夫さんがいました。ロジャーズの来談者中心療法というのは、会話を中心とした療法で、大人の治療ですね。それに対して、子どもにロジャーズの理論を適用した遊びによる治療を行うのが、当時学んだプレイセラピーです。 テストと治療というのが臨床心理学の2本柱で、ロールシャッハは心理テスト、プレイセラピーは治療に属します。私は子どものロールシャッハテストとプレイセラピーを担当して、学校恐怖症の子の治療にあたっていました。不登校研究の初期の時代です。
 プレイセラピーは、玩具や画材などのある部屋で、こちらからは何も指示せずに、子どもに「自由に」遊んでいいよと言い、治療者はそれをそのまま受けとめるというのが基本です。ロールシャッハテストは、無意味なインクの染み図形を見せて、見えたものを「自由に」言ってもらいます。しかし場面の性質から言って、「自由に」というのは言葉上に過ぎませんから、相手はもちろんですが、自分自身も、その「やさしい顔をした欺瞞」に、居心地の悪い思いをどこかで持っていましたね。

山下:ときには、マジックミラー越しに子どもが遊んでいるのを観察するんですよね?

小沢:そうです。それには最初からすごく抵抗感があって、一方的に観察するのが、とってもイヤだと思いましたね。向こうは見られているのを知らないで、こっちから一方的に見ている。あるとき、子どもが鏡をトントンと叩いて、「この鏡ってなあに?」って聞くのね。それはとても申し訳ないというか、のぞき見は子どもに失礼だなと思いました。でも、そういう抵抗感は抑え込まないと仕事や研究が続けられないんですね。折々に変だと思うことはあったんですが、それは抑え込んで研究に打ち込んでしまっていました。

山下:臨床心理の分野で児童向けの療法を始めていた時期と、精神科医療の分野で児童精神科をつくろうとしていたのとは同時期になりますでしょうか。

小沢:並行してアメリカから輸入されたのでしょうね。アメリカでは、Child Psychiatry(児童精神医学)が確立していて、国立精神衛生研究所もアメリカのスタイルを採り入れてつくっていたと思います。児童精神衛生部は研究所の設立時(1952年)からありました。研究所は国立国府台病院と同じ敷地でしたから、当時、国府台病院の児童精神科で、若かりしころの渡辺位さん(児童精神科医・故人)にも会っています。ときどき病院に研修やロールシャッハテストのために行ってましたからね。

山下:学校恐怖症の当時のとらえ方は、基本的に家族の問題で、母子分離不安といった見方ですよね?

小沢:そうですね。当時、学校の問題はいっさい出ていません。家族の問題、しかも母親との分離不安が中心、私が勉強していたころはその一色でしたね。子どもを観察しながら、ちょっとした行動を解釈理論にこじつけて、「やっぱり分離不安がある」とか。一方的だから何とでも言えてしまうわけです。

山下:心理職として働いていたのは、どれほどの期間ですか?

小沢:研究所の心理学者、玉井収介さんの紹介で、66年に千代田区立の教育相談室に入ったのが最初でした。もうひとつ、私立学校の教育相談室にも行っていました。その後、70年にダンナがドイツに行くことになって、そのときに研究所も教育相談室も辞めて3歳と5歳の子ども連れで同行したので、それまでの5年間ほどです。『子どものロールシャッハ反応』(日本文化科学社/1970)という本を書き上げてから渡航したのを覚えてます。


●ドイツに行って気づいたこと

 ドイツに行って、気づいたことがたくさんありました。
 ひとつには、職場を離れたことで、自分が抑え込んでいた疑念を見つめることができた。そして、ドイツの学校は、日本とあまりにも大きくちがったんですね。ビックリでした。2人兄弟の息子のうち、上の子のほうが小学校生活を経験しましたが、ドイツの小学校は、まず時間割がない、勉強もそれぞれで、ゆっくりしている。遅れてくる子も早く帰っちゃう子もいる。それがふつうなんです。「○○ちゃんは今週は家族で旅行に行っているのでお休みです。来週に旅行のおはなしを聴かせてもらいましょうね」なんて、先生が言っている。学校は行かせられるところではなくて、親子がそれぞれの考えで利用するところなんです。
 入学式というのはなくて、校庭に「わたしのはじめての学校の日」というボードの前で個々に写真を撮ったりするだけ。その日、子どもはみんな「学校袋」という名の大きなとんがり帽子を親からもらうのですが、その中には、たくさんのお菓子が鉛筆やクレヨンといっしょに入っている。学校はものものしいところではまったくなくて、気軽に楽しく通うところという空気がありましたね。

栗田:公立学校ですか?

小沢:公立学校です。先生は、「今日は天気がいいから森でドングリを拾いながら算数の勉強をしようか」とか、そんな調子ですし、生徒も、基本的に自分の好きなことを勉強していて、わからないところがあったら先生に聞きに行く。一斉勉強は少ないんです。朝は少し早いが、昼になったら生徒も先生も帰って、学校は閉まってしまう。高校まで、学校は昼までの半日です。教科書が、とってもよくできていた。子どもに押しつけるのではなく、自分の暮らしのなかで数の仕組みを発見させたり。ただ、一方では、小学校4年生で職業を目指すコースに行く子と上級学校に行く子は進路が分かれてしまう。そこは、日本とはまた別の問題がありますが。しかし小学校低学年の子にとっては、学校には充実した遊びを楽しみに行くわけですから、子どもは学校が大好きでした。

山下:何年ぐらいドイツにおられたんですか?

小沢:73年のオイルショックのころに帰ってきたので、2年くらいですね。

山下:日本でお子さんが幼稚園に行きたがらなかったとうかがったことがありますが、ドイツ滞在時期との関係では、どういうことだったのでしょうか?

小沢:上の子は、ドイツに行く前に日本の幼稚園に行ってたんですが、入園はじめのころ、行きたがらず抵抗して、それを無理やり通園バスに押し込めて行かせていたんです。これは、学校恐怖症を心理学で勉強していたのが災いしていたんですね。子どもがイヤというときに強引に出すと、行くようになるんです。子どもがあきらめるわけです。それを「幼稚園に適応した」とか言ってね。私も、それに毒されていたんです。後で何かの折に、子どもに「あのときは悪いことしたねえ」と謝りましたけれども。

栗田:謝られたとき、お子さんのほうは、どうおっしゃったんですか? 

小沢:ちゃんと覚えていて、「いいよ別に」って笑ってました。
 下の子は、ドイツから帰ってきてからですが、卒園の3カ月くらい前に、「学校に行くようになると、ずっと毎日行くようになるんだよね。だったら、その前に幼稚園を辞めたい」と言ったんです。「なんで?」って聞いたら、行っても、やらされることが多くてつまらないって言う。そのときは私の毒も落ちていたんでしょうね。学校に行く前に休暇がほしいというのもわかるなと思って、「いいんじゃない、別に。だけどひとりで留守番できる?」と言いました。子どもは近所の仲良しの子も誘って、いっしょに辞めちゃったんですけど、その子のお母さんも「2カ月くらい幼稚園代が節約になるよね」とか言う、のんきな人でした。
 そうしたら、幼稚園の園長さんに、「こんなことで辞めさせたら、あなたもお子さんも一生後悔しますよ」と言われたんです。この大げさな言葉にはびっくりしましたね。それも、幼稚園や学校について考えるネタになりました。

栗田:そうすると、心理学に疑問を持っていなかった時期というのは、意外と短いんですね。

小沢:そうかもしれません。でも、そんなにキッパリとした潔い話ではないんです。80年ごろまではずるずると研究や相談の仕事をしていました。せっかく得た職場、知識や技術、身につけたものを、いきなり放り出すことができませんでした。帰国後は、青山学院の中等部でカウンセラーをしたり、いくつか非常勤の職場を掛け持ちしていました。何ごとにつけ、私はわかりが遅いんですよ。とっても時間がかかる。これは何だろう、やっぱり変だなと迷いながら、7〜8年は、仕事をしながら考えていました。そういうときに篠原睦治さん(※現在は和光大学名誉教授、日本社会臨床学会運営委員)と出会って、その迷いも含めて学生に話してほしいと声をかけてもらい、77年から和光大学で非常勤講師をするようになりました。

山下:和光大では臨床心理学の講座を受け持たれたんですか?

小沢:そうです。臨床心理学特講という名で、ロールシャッハを中心とした心理テストのゼミですね。当時は、まだ、迷うような感じで始めてます。そこを学生に突っ込まれ、厳しい討論をしながら、だんだん考えが固まっていったところがあります。


●心理学の言う「母性」は男目線

山下:出産を機に、心理学の母親に対する視線に違和感を持たれたようなことはなかったのでしょうか?

小沢:心理学が女性についてけしからんことを一方的に言っていることに、子どもを産んで気づいたということはあります。「お母さんはふつふつと母性愛が湧いて」とか、書いているのは、みんな出産体験のない男でしょう。母性とか親子関係について、心理学は男が都合のいいことを書いている。
 私は出産してから、突如として女性問題に目覚めたんです。どうして女は子どもを産むと、このように孤独な状態に置かれるんだろうと思って、友だちに聞きまわりました。子どもを産んでどう思ったか、母性愛なんて湧いたのか? そこで、「子どもの顔を見たときぞっとした。大嫌いなおしゅうとめさんにそっくりで、この子を愛せるか悩んだ」とか、そういう話をいっぱい聞いて、みんな同じなんだと。私自身、最初の子を産んだときにはとても不安で、「この子を返すわけにはいかないものだろうか」とすら感じたんです。こんなぐにゃっとしたもの、ひとりでどうしろと言うんだろう、と。いったい母性賛美みたいなものはどこから出てきたのか。女にかけられてくる、このわけのわからない理不尽さは何なのか。

栗田:当時、女性学やフェミニズムとの出会いはあったんでしょうか?

小沢:ぜんぜん出会ってないんです。60年代後半のことでしたしね。70年代に入って、『現代子育て考』5巻本(1975〜1980「現代子育て考」編集委員会/現代書館)に出会って、ずいぶん考えが整理されました。これは今でも愛読書です。

山下:ここまでのお話に共通しているのは、関係の非対称性への違和感ですね。心理の専門家とクライエント、大人と子ども、先生と生徒、親と子、男性と女性。そこにある力関係への問い直しを、いろんな局面でされてきたんですね。

小沢:そう言われれば、そうですね。子どもと大人の関係については、自分が人とちがっているという自覚はありました。よく周囲からは「親子関係は仲間や友だち関係とはちがう」と言われました。でも、私は仲間関係が好きなんですね。あまり意識はしてませんでしたが、それは自分が治療者として子どもや親に対して権力的な関係を持っていたことから足を洗いたかったことと、関係していたのかもしれないですね。

山下:しかし小沢さんも、上のお子さんのときの失敗で、親子の力関係に気づいた面はあるわけですよね?

小沢:それはそうですね。上の子には本当にごめんねという感じがあります。こんなバカな親で迷惑かけたのに、元気に育ってくれて、ほんとうにありがとうと思います。ですから、長男・長女はどの子も、一番目をやるだけでご苦労さん、えらかったねって思います。親はいろいろな無礼を許してもらっている。
 私自身と親との関係を考えた場合も、私は2番目だったので、姉が防波堤になってくれたところがあります。実家は北海道の牧場で――それで名前を牧子と言うんですが、親も忙しいし、動物といっしょに放牧されている感じでした(笑)。よく小さい子にあんなことさせたと思うほど、子ども扱いされなかったですし、とっても自由にされていました。そういう育ちをしたことが、何かおかしいことに出会ったとき、おかしいと思える素地になったんだと思います。「おかしいな」という直観は、私にとって、すごく大事なものです。

山下:おかしいと思ったとき、そこで屈服させられてしまうと大変ですよね……。ところで、不登校の話に戻させてください。ドイツから帰国後、見方が変わったということでしたね。


●「どの子も地域の学校へ」と不登校運動

小沢:そうですね。そこで、自分が不登校の子どものことを母子分離不安がどうのと言ってきたのは、なんておかしいことをやっていたのかと気づいた。それから、自分がやってきたことのまちがいを考え続けていこう、整理していこうとしてきました。
 70年代後半になると、心理学の解釈理論や「される側」との関係が問題だという声はずいぶんあがってきていました。それで、篠原睦治さん、渡部淳さんはじめ、当時の日本臨床心理学会(*3)の人たちと付き合い出すようになったんです。だけど、臨床心理学会は私にとってすごく過激でおっかなくてね(笑)。ちょっと近寄りがたくて、しばらくは遠巻きにしていました。学会に入ったのは80年代に近くなってのことです。そして、ここでしか自分の思っていることを追求していける場所はないと思って、会員になり、運営委員になり、その後、93年の社会臨床学会の立ち上げにも関わっていきました。

山下:臨床心理学会では、不登校については?

小沢:臨床心理学会がずっと取り組んできた課題のひとつは、「どの子も地域の学校へ」という運動でした。それが軸ですから、不登校問題については、なんというか……ぜいたく、という感じがありました。別に排除されているわけじゃないのに、選択の自由とか、そういう話ではないでしょう、と。
 臨床心理学会で初めて不登校問題が取り上げられたのは、85年総会のシンポジウムです。「公教育を見限る?」というテーマで議論がありました。障害児も地域の学校に行こう、という問題と、学校に行かれないんだったら、別に休んでいればいいんじゃないという問題をどう考えるか。だけど、臨床心理学会では、不登校の問題は障害児の共学運動とかみ合わないまま、立ち消えていったところがあったと思います。
 私は臨床心理学会とは別に、自分で不登校問題について発言し始めました。『子ども差別の社会』(労働経済社1986)という本で、初めて章をひとつあげて書いています。私の不登校問題との関わりの軸にあるのは、「登校拒否を病気と考えるな」という問題でした。病気ではなく社会問題である、と。精神医学・臨床心理学は登校拒否は病気だという診断カテゴリーを用意していた。母子分離不安、自我の未成熟、それは専門家の側がつくった論理であって、それを一方的に親子にあてはめる傲慢さ、理不尽さ、無礼さがあった。それは許しがたい。私は心理学の解釈理論を知っているから、それがいかに専門家に都合のいいようにつくられたものであるかを言える立場にありました。自分がいったんそれを信じて否定していった経過があるからこそ、私のなすべき役割があると思っていました。私が心理学の世界に入って最初に出会ったのが学校恐怖症でしたから、それをずっと点検したり、否定したりしながら、80年代まで来ています。

山下:『子ども差別の社会』では、不登校は生き物としての自然な拒否反応だと書かれていましたね。大人の都合を子どもに押しつけることが限界を超えていて、拒否反応が起きている。だから、学校過剰、大人の支配過剰を押し返すことが必要だ、と。

小沢:そう思ったのは、ドイツから帰ってきてすぐなんですけど、なかなか言葉になって実るまでには時間がかかりましたね。でも、いまはちょっと、ちがってきましたね。いまは親が問題だというところに来ちゃってる。


●親が問題?

山下:親が問題だというのは?

小沢:これも、いまになって言葉になるんだけど、不登校の運動には何か引っかかるところが、ずっとあったんです。折々に感じる、これはちがうなという印象。それは、そこに親の側の学校依存、国家権力依存を感じていたんだと思います。
 今回、教育機会確保法案(*4)の展開で、それがかたちになって出たように思います。学校制度や専門性や国家のあり方を正面から問うのではなくて、そこに依存している。フリースクールを制度として認めてもらいたい、子どもを不利な目にあわせないでもらいたい、という権力依存。国家というものの本質がわかっていないというか、そこを避けている。きちんと対峙する気持ちがなければ、運動なんて実っていかないですよ。これじゃあ元の木阿弥だと、私は感じてます。
 子どものほうはわかるんです。学校が苦しいんだ、イヤなんだということで、単純です。子どもはちゃんとノーって言ってる。そこで親も、子どもといっしょに、まっすぐ向き合えばよかったんだと思います。

山下:子どもと向き合うのではなくて、子どもが向き合っている学校や国家、社会とちゃんと向き合うということですね。

小沢:そうです。親の権力依存を自分たちのなかで問題にできなかったんだと思います。学校教育というのは、国家権力がむきだしになっているところです。腹をくくって、子どもといっしょにそこをキチンと見れば、学校権力を相対化でき、力が湧いてきて、楽になるはずなんです。私は70年代に地域の親たちといっしょに「さんすう教科書をしらべる父母の会」という活動を7年ほど重ねるなかで、そのことを実感しました。

栗田:専門家によって「親が悪い」と言われてきたことと、小沢さんが、親が権力に依存しているから悪いというのは、同じ「親が悪い」と言うのでも、ちがうんですよね? 親は学校・社会に適応できる子に育てられなかったことを責められてきたわけですよね?

小沢:国家権力は親が悪いという。親は、逆に「ムリを強いるあんたのほうが悪い。どの子もみんな苦しいんだ」と言えばよかった。でも、そういうかたちでなくて……。

山下:「悪いって言わないでほしい」となってしまった?

小沢:そうそう。そんな甘えたことを言っても、それでは出口はないです。

山下:しかし、親が責められてきたなかで、そういう価値観のみに囲まれて孤立していたら、闘うこともできないですよね。だから、自分を責める価値観からいったん身を引いて関係をつくったり、自分の置かれている状況を俯瞰してみることのできるきっかけや場は必要だと思います。小沢さんにしても、ドイツに行って、心理職から引いて、国外に出たから、見えてきたことがあるわけでしょう。そういう軸になるものは必要だと思います。でも、その軸が救ってくれるわけではないし、国家権力の外に逃げられるわけではない。

小沢:別の軸もまた、国家の中なのよ。緊張関係をつくらずに依存してるんじゃ、変わらないのよね。別の軸で物を見ていく、その軸に立つというのはキツいかもしれないけど、力が湧くし、気持ちいい。それをしないで来ちゃったんだと思います。
 今回の法案ですが、権力の側は喜んでるわよね。不登校を長年の思惑通りに別の場に分けて管理することができるわけだから。こんなに体制の側が喜ぶ話はないです。そして、そこに再び不登校に心理学的な解釈や技法が入る状況になって、不都合な子の行き先をつくろうとしている。「別の場に分けるな」というのは、障害児の共学運動がずっと言ってきたことです。それなのに自分たちから分けてほしい、選ばせてほしいなんて、どういうことでしょうか。


●「選ぶ」って恥ずかしい言葉

山下:不登校というのは、学校を問う問題、学校と対峙する問題という面もあったと思います。しかし、そこでネックになるのは「選ぶ」というキイワードですね。小沢さんは、「選ぶ」という言葉への違和感をずっと表明されてきたと思いますが。

小沢:「選ぶ」という言葉は消費社会の言葉で、とても危険です。向こうも問題児を選び分けたい。だから、障害児運動が言ってきた「選ぶな」「分けるな」という言葉はとっても正しいと思います。「選ばせて」なんて、権力の思うツボです。
 ただ、それをここまで分けさせずに遅らせてきたというのは、不登校運動の勢いの成果でしょうね。その道中で、新しい力を生んだ部分はあると思います。その成果は、おおいに認めてます。だから、不登校新聞にもずっと関わってきたし、この運動はどこへ行くのかと、関心を持ってきました。これまでの不登校運動が生んできた文化を否定しているわけではないんです。
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山下:「選ぶ」というのは、こちらが選ぶ主体であるだけではなく、国家がこちらを選ぶことと裏腹なわけですね。選び・選ばれる関係にある。また、こちらが選ぶといっても、それは親なのか、子どもなのか。子どもが選ぶといっても、親の顔色を見ないで選べることはないですし、第一、財布のひもは親が握っているわけですからね。そこも大きな問題のように思います。

小沢:それは親でしょうね。おけいこごとをさせている親なんかも、「子どもが選んでるんです」「子どもが決めたんです、望んだんです」と言うでしょう。子どもは親の気配を察して従っているだけで、選んでいるわけじゃないことが多い。親は子どもに対して権力者だから。それをおいて「子どもが選んだ」なんてね。親っていうのは、私を含めてずるいんです。

栗田:女性の労働問題に関わっていても、お母さんの立場の人が変わるのって、ほんとうに難しいと感じます。母というお面で生きるのではなく、「私」で生きるというのは、すごく勇気がいる。“○○ちゃんのお母さん”でいるほうが楽なように、制度も、主婦であることが有利であるようにできていますから、それをしりぞけて社会と向き合うのは大変です。

小沢:不登校の問題にかぎらないですけれどね。子どもがせっかく「親をやめて自分になりなよ」と言ってくれているのに、それを聞かないで来ているのでは。
 いろんなことを子どもに突きつけられることで、私も助かってきました。しょっちゅう「お母さん、それちがう」と言われて考えました。それがなかったら、もっと堕落していたと思います。
 「選ぶ」って言葉は、恥ずかしい言葉だと思います。選べるのは、持てる者だけです。「選べるようになることはいいことだ」と言うのは、選べない人たちのことが視野に入ってないから言えることでしょう。堂々と言っていい言葉ではないと思う。

山下:しかし、小沢さんも、息子さんたちは私立学校に選んで行かせたわけですよね。

小沢:そうですね。だから大きなことは何も言えない。子どもを私立中学校に入れたときは、「より自由な学校を」という、すけべ心がありました。それをちがうと言ったのは、当の子どもです。下の子は、「民主教育って、もうわかった」とか言って、高校は地元の公立高校に行きました。上の子の子ども3人はいま、地域の小・中学校に行っています。それは「民主教育」や自由な教育を否定してということではなくて、地域でいっしょに暮らすということが当たり前だと考えるからだろうと思っています。
 ですから、えらそうなことはまったく言えないんです。だけど、選ぶことが恥ずかしいことだという自覚はあります。「選ぶ」という言葉は、日常のなかでも、なるべく使わないようにしています。というか、好きではないので使いたくないですね。

山下:選ぶということは、それ自体に権力性、関係の非対称性をはらみますよね。

小沢:そうですよ。自分の価値判断があって、よりよい物、より得をするほうを選ぶわけでしょう。私たちはふだん、時代のなかでやむを得ず、そういうふうに生きているんだけど、堂々と言っちゃダメでしょうって思います。それが不登校運動のなかで、日常語みたいになっているとしたら、やっぱり、それはおかしいんではないでしょうか。あらためて聞きますが、「選ぶ」というのは、どういう文脈で使われてきたんでしょう?

山下:たとえば、学校で深刻ないじめや体罰などがあっても、学校しかないと思っているから、死ぬしかないということまで追い詰められてしまっている。最初から学校を選べる制度だったら、命を救えたはずだ、というようなことでしょうか。

小沢:それはちがうと思います。イヤだったら、そのとき行かないで抗議すればいいのよ。それだけです。選ぶなんて言っているから、わけわからなくなってしまう。単純なことでしょう。どうして、そこに「選ぶ」なんて言葉が入ってくるんですか。行かずに考え、たたかっていけばいいだけです。やはり、「選ぶ」という言葉は不登校運動を混乱させましたね。
 不登校運動のなかで、私がずっと違和感を覚えてきた言葉が二つあります。ひとつは「学校が合わない」、もうひとつは「学校が好きな人は行けばいい」。この二つは絶えず耳にしましたが、いずれも消費社会のなかの選択ワードですね。問題は解決できない。
 そういうなかでも、キチンと対峙して物を言おうとしていたのが常野雄次郎さんで、不登校新聞で「社会の中の登校拒否」という連載をされていましたね(*5)。彼はみずからの不登校経験をもとに、不登校運動のなかにある、選択・自己決定の論理を厳しく批判しておられました。でも、それが不登校問題の議論の真ん中に来ることはなかった。私は、可能性はあそこだけだったと思います。

山下:子どもが不登校するとき、選んだという意識はないですよね。「逃げる」とか「休む」ということと、「選ぶ」ということのあいだには、大きな飛躍がありますね。


●「イヤだ」「ノー」から

栗田:子どもの権利条約では自己決定権を言いますが、そのあたりはどうでしょう?

小沢:私はそれもイヤなの。向こうから「自己決定」って言って、個人に責任を押しつける。以前、『子どもの権利・親の権利「子どもの権利条約」をよむ』(日外教養選書/1996)という本も書きましたが、そこでは「自己決定なんて変」ということを書いてます。人が関係のなかで生きている事実を歪めてしまう。
 「自己決定」も、新自由主義の言葉、国家が自分の責任を回避して、人びとに責任を押しつけるときの言葉です。だから、死語にしないとダメですよ。じゃあ、どういう言葉でやっていくのかと言ったら、私は簡単だと思います。ダメだと思うことに「イヤだ」「ノー」という言葉です。「選ぶ」って、力を生まない言葉ですよ。

栗田:「イヤだ」と言うのは、自分が引き受ける言葉ですね。保障を求めていない。

小沢:とっても単純で正直でわかりやすい。子どもはいつもそうしているでしょう。比較してどっちがいいか選ぼうとすると、ことの本質が見えなくなる。迷いながらも、自分はこれがしたいとか、これはダメとか、イエス・ノーの尺度で行くほうがずっと、絡め取られないですむと思います。

山下:子どもが「イヤだ」と言うのを「選ぶ」にすり替えてしまうというのは、心理学が一方的な解釈ですり替えてしまうことと、つながっているかもしれませんね。

小沢:同じですね。カウンセリングでは、クライエントが仕事に行くのがイヤだと言ったら、「イヤなんですね」と受けとめつつ、語らせ受けいれながら、ちがう方向に導いていく。カウンセリングは優しくてずるい。
 「イヤだ」というのは一個でしょう。そこに別のものを提示して「どっち?」って聞く。そうやって上手にガンコさを取り上げてしまう。ガンコであるのはすばらしいことです。「イヤなものはイヤ」ってね。

山下:不登校運動も、市場一辺倒、専門家依存の社会のなかで、レールを敷かれたことを選ぶのではなく、とにかくノーということを突きつけた面はあったと思います。そこには可能性があった。

小沢:そう思います。

山下:しかし、おっしゃるように、「元の木阿弥」になってしまった面もあると思います。そういうなかにあって、今後をどう考えられるか、ですね。小沢さんも、専門家依存の問題をずっと言い続けてこられたわけですが、世の中は心理主義も専門家依存も強まっています。そうしたなかで、どこに足場を置いていくのか。そこが、とくに若い世代ほど苦しくなっているように思います。

小沢:やっぱり取り戻すとしたら、自分の「イヤだ」「ノー」という言葉からしかないでしょうね。「生きづらい」とかなんとか言ってないで、これはイヤだ、おかしい、こうしたいという、単純なところから積み重ねていけば、自分感覚を取り戻せると思います。だから、学校に行くのイヤ、そこにこだわる。そこで、「なんで?」と考える。単純よね。子どもが常にやっていることです。


●「生きづらい」には足場がない

小沢:私は「生きづらい」って言葉にはね、甘ったれを感じるのよ。たとえば「保育園落ちた、日本死ね」というのは、すごく気持ちいい。そこには怒りと、イヤなことに対して、こうしろという筋がある。でも、「生きづらい」という言葉には、どこにも自分の足場がない。何がしたいの、何がイヤなのってところからやってよね、と思います。
 子どもが「つまんな〜い」って言うのと似ている。孫がそう言ってきても、私は相手にしません。でも、何かしたいと具体的に言ってきたときは協力したい。
 「生きづらい」というのは、「生きよくしてくれ」という言葉とセットだと、私は感じるんです。でも、これはイヤだというものは、自分の基本的なところにかならずあるでしょう。それをひとつひとつ確かめるところからしか、自分の足場はつくれないんじゃないかしら。だから、「生きづらい」なんて言葉も、堂々と使ってくれるなよと思います。

山下:「生きづらい」という言葉の背景には、市場一辺倒の社会で生きているなかで、具体性や身体性が奪われてきたこととつながっていると思います。何に対してどう怒ればいいのか見えなくなってきた。商品化社会にどう対峙できるのか。それは、国家と対峙するのと、またちがう工夫も必要のように思いますが。

小沢:市場本位の社会も、国家・資本の意志がそこに働いているわけでしょう。それが国家の戦略だし、そんなに国家の力が弱ったとは思えません。私は、学校がどう変えられるかに注目して、学習指導要領の変更や教科書の中身に注目しています。そこには、次の世代をどうしたいかという、国家の戦略や思惑が、細かいところまで現れています。弱くなったように見せているだけですよ。

山下:カウンセラーはまさにそうですよね。一見やさしく、でも見えにくい権力。

小沢:そうです。見えにくくなっただけで、権力がなくなったわけではない。見えづらくしているだけです。

山下:見えづらくなってしまっているからこそ、シンプルなノーに立つことが大事ということですね。

小沢:見えづらくたって、見えますよ。見ようと思えば。それがおもしろいところです。

栗田:でも、生活に追われて、いっぱいいっぱいのなかで、見えなくさせられていますよね。

小沢:俯瞰する余裕がなくなってるのね。でも俯瞰することって大事ですよ。俯瞰することによって、初めて楽になる。俯瞰するのに何がないんでしょう。時間がない?

山下:軸を持ちにくくなっていると思います。そこで、選ぶこと、消費者であることでしか主体性を持てなくなっていますよね。

小沢:そうなってしまってるのね。そんなに「選ぶ」ということに若い世代は振り回されているんでしょうか。それはとても疲れるし、「やめなよ」と思っちゃうな。イヤじゃない、自分が選ばれるとか、選ぶとか。
 1週間でもいいから、「選ぶ」という言葉をいっさい使わずに過ごしてみたら変わりますよ。たとえば、どっちを選んで食べるかではなくて、自分は何を食べたいか。あり合わせのものを組み合わせて、こう作ろうとか。それは、選ばされているときよりも充足感があるし、自信がわいてくる。
 学校の話に戻れば、やっぱり地域の学校で、いろいろあっても、便利だから、みんなでそこに行くということでいいと思いますね。そこで、やりたいことはやるし、やりたくないことにはノーと言う。それで、ちょっとでも気持ちいいところにしていければいい。それって、住んじゃった地域と同じでしょう。たとえ隣の人がイヤでも、なかなか引っ越すわけにはいかないから、工夫しながら折り合うしかない。学校も、その程度に考えればいいんだと思います。

山下:他者と折り合っていく粘り、関係のなかで解消していく力が、市場にはないですよね。だから、他者への安心感、信頼感がなくなっている。学校も相当そうなっているし、親子関係までもがそうなってきている。そういうところに、いまの子ども・若者の困難さがあると思います。

小沢:でも、人は身体を基本に生きていて、身体というものは変わってないわけですからね。身体はいつも生きようとしている。そんなに複雑にいろいろ考えなくても、自分の身体はそのままなんだから、単純なその足場から探していけばいいと思いますよ。

山下:小さい子はそうですものね。今日はありがとうございました。

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*1 ロールシャッハテスト 性格テストのひとつ。スイスの精神科医ヘルマン・ロールシャッハによって考案され、1921年に出版された。

*2 カール・ロジャーズ(1902〜1987)アメリカの臨床心理学者。来談者中心療法の創始者。

*3 日本臨床心理学会:1964年に設立された学会。1969年ごろから、臨床心理士の国家資格化をめぐって意見が対立し、国家資格化を目指す人たちが脱退し、1982年に日本心理臨床学会を別に立ち上げた。その後さらに、国家資格化に異を唱える人たちが脱退し、1993年に日本社会臨床学会を設立している。

*4 教育機会確保法案:2015年5月、超党派の議員連盟により提案された法案(座長・馳浩議員)。不登校児童生徒など「義務教育段階に相当する普通教育を十分に受けていない者に、多様な普通教育の機会を確保すること」を目的とし、対象は、年齢、国籍を問わないこととされた。これにより、フリースクール、家庭学習、夜間中学校や外国人学校などを含め、多様な場が教育機会として認められ、経済的支援がなされると期待する声もあった。しかし、反対や慎重論の声も多く、2015年の通常国会では上程が見送られ、大幅に変更された案が2016年の通常国会に上程された。しかし、審議にはかけられないまま見送られ、2016年8月現在、「継続審議」扱いとなっている。

*5 常野雄次郎「社会の中の登校拒否」:不登校新聞21号(1999年3月1日)〜31号(1999年8月1日)で連載。

【インタビュー:心理関係の最新記事】
posted by 不登校新聞社 at 16:30| Comment(0) | インタビュー:心理関係
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