2016年10月06日

#05 大田堯さん

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(おおた・たかし) 1918年生。教育研究者(教育史・教育哲学)。広島県出身。東京帝国大学文学部卒業。東京大学教育学部教授、学部長、日本子どもを守る会会長、教育科学研究会委員長、日本教育学会会長、都留文科大学学長、世界教育学会(WAAER)理事などを歴任。東京大学名誉教授、都留文科大学名誉教授、日本子どもを守る会名誉会長、北京大学客座教授。おもな著作は『かすかな光へと歩む』(一ツ橋書房)、『教育の探求』(東京大学出版会)、『教育とは何か』(岩波新書)、『生命のきずな』(偕成社)ほか多数。2013年、これまでの講演・論文の中から、大田さん自身による大幅な加筆を経た『大田堯自撰集成』(全4巻)を藤原書店より上梓された。また、2011年には、教育を通して人間を見つめ続けてきた大田堯さんの思索と行動の軌跡を追った映画「かすかな光へ」(監督・森康行)が完成し、自主上映活動が展開中。

インタビュー日時:2016年8月29日
聞き手:奥地圭子
写真撮影:藤田岳幸
まとめ:藤田岳幸、奥地圭子

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〈テキスト本文〉

奥地:今日はありがとうございます。よろしくお願いします。

大田:はい。いま、「ひとなる」という題で文章を書いていまして、これはおそらく生涯最後の著述になると思います。出版社が名づけたものですが、「ひとなる」は岐阜県の加子母という村(現在の中津川市加子母)の方言なんです。檜の生産地で、かなり有名な大きな村です。

奥地:『自撰集』(*1)にも出ていましたね。

大田:その序言でも説明していますが、「ひとなる」は「人間になる」ということなんですね。この国では教育の目的というのが、国家のためとか、よい国民になるとか、すぐにそういうところに結びついてしまうんです。そもそも「国民」という言葉もおかしくて、国に属する民で、民というのは僕ということです。憲法にあるから、僕も「国民」という言葉を使いますけど、ピープルとふりがなをつけています。横文字ですけど、これはふつうの人々ということを言い表します。
 昔は「臣民」と言ってましたが、これは神様である天皇に対する民、僕です。教育勅語では、爾臣民という呼びかけになっていましてね、教育という大目的を前に、爾臣民と呼んでいたわけです。もう、そのときから、教育の観念は上から下へのものとして、日本人の身にこびりついているんですよね。教育は、お上が国のためにやることになってしまっているんです。

●軍国主義の少年時代

奥地:いま、お話しいただいたことは、人生全体からつむぎだされているご指摘だと思いますが、大田先生は現在98歳になられますか。

大田:99歳に向かっています。だから、今日のインタビューの日にちを聞いたとき、そこまで生きているかなと(笑)。幸いなことに、体温も血圧も正常です。

奥地:1918年生まれだと、大正7年ですね。私の父と同じです。誕生日は3月22日でいらっしゃいますね。私も同じ日です。しかも、先生のご出身は広島県で、私も広島県三原市です。たいへんラッキーな出会いだと思っているんです。このインタビューで初めて先生のことをお知りになる方もいらっしゃると思うので、先生の生い立ちからうかがいたいと思いますが、お生まれは広島県の本郷ですね。

大田:本郷町(*2)の船木という場所で、沼田川という川が流れていまして。

奥地:私も沼田川で泳ぎました。

大田:ああ、そうですか。あなたの育った三原まで流れてますね。夏休みになって、最初に水の中に入る、あの、足が水に触る感覚、忘れられないですよね。あんな感覚というのは、いまの子どもにはないんじゃないかと思うと、寂しいですよね。

奥地:そのまま、本郷の小中学校に?

大田:私が船木に住んだのは12歳(小学校6年)まででした。家が破産しまして、何もかもなくして、大阪に移り住みました。ちょうどそのころ、兄と姉が師範学校を出て、大阪で学校の教師をしていたんです。
 最初の1年ぐらいは、長屋に住んでいました。しばらくたって、月給も入るし、ちょっと余裕ができて、一軒家を借りたんですが、そこは以前は将校の家でした。そこに兄と姉といっしょに生活して、そのころとしては、わりと安定した暮らしをしていました。

奥地:大阪の中学校に通われていたんですね。

大田:大阪の八尾中学校でした。かつての第三尋常中学校、府立三中というところです。村の小学校から、いきなり八尾中学校にというのは、ちょっと難しいんじゃないかと、兄も心配したようなんですけど、合格しまして。
 当時は、何しろ軍国主義の少年でしたから、白い服に短剣をびしっと身につけるスタイルの海軍にあこがれていました。でも目が悪いんで、兵隊は難しいだろうと思って、海軍経理学校を目指したんです。それでも目の厳密な検査があって、入試の前に一生懸命目を押さえたりしたんですが、身体検査で落ちてしまいました。豊かな家庭ではなかったものの、それでは高等学校に、ということになりまして、親類がいる広島の旧制高等学校に入ったんです。


●旧制高等学校での「変身」

 旧制高等学校には宿舎がついてまして、3年の宿舎生活で「変身」が起こるんです。宿舎生活の、格別な、密接な関係のなかから、すばらしい親友ができました。小説を書き始めたり、夜、高等学校の講堂に入り込んで、置いてあるピアノを使って作曲をしたり、そういう仲間がいました。いっしょに愛読したもののなかに、ジャン・クリストフがあったりね。そういう雰囲気がありました。
 それと、学校が広島の宇品にありましたので、軍隊がたくさん往き来する状況でした。陸軍の兵隊の検疫所がありまして、宇品に上陸して、宇品から各地に行くので、運動場に兵隊が並んでいることがありました。その雰囲気を教授がいやがるんです。旧制高等学校は、いまの大学の教養学部にあたりますね。その教授たちが、だんだん社会の向きが変わってきたことに抵抗感をもっていたんでしょう。そういう雰囲気が旧制高等学校には残っていました。
 卒業を前に、どちらの学部に行くか、ということになったときに、僕は経済にはまったく適さないし、法律にも適さない……それで、まあ文学部で人間を研究しようと、友人とそろって東大文学部に行きました(*3)。そこで教育を選んだのがまちがいのもとだった。
 あなたもペスタロッチ教育賞をもらったけれども、広島時代には、長田新先生(*4)の特別講義を聴くことがありまして、「教育実践を通して、社会を改革する」という、勇ましい話があるもんで、ついついまちがって教育をやらなきゃ、と思ったんです。しかし、大学に入ってすぐ、教育というのは子どものなかから「引き出す」ことと教わるんです。

奥地:戦前に、そういうお考えの先生がおられたわけですね。

大田:そういう先生たちが教授としておられたんです。その教授たちの青年期は、大正デモクラシーの時代でしたから。


●「教育」は誤訳か

奥地:いつぞや「教育」という訳語はまちがっているというお話をされていましたね。

大田:「エデュケーション」を「教育」と訳したのは誤訳ではないか、と。ここに『説文解字』という中国の本を、持ってきています。紀元100年の本、2000年前にできた字引ですが、中国の本ですから、すべて漢文です。日本語は一つもありません。そこで「教」の字を調べると「上のものから下のものに施すもの」と書いてある。「下のものは上のものを模倣する、まねをするもの」。これが「教」の字の意味、と書いてあるんです(*5)。
 明治になって、エデュケーションにどういう言葉をあてるかとなったとき、教の字があてられて「教育」となった。「育」は、子どもが産まれたときの産の字に関係があるのでいいんですが、「教」の字が、2000年前からの伝統で用いられることになったのです。語源学者のなかには、そんなはずはない、という人もいるんですけど、『説文解字』にそういう説明があるわけです。しかも、歴代の王様が国教としてきて、儒教は2000年にわたって、現代に及んでいるわけですね。
 それまでの武士は「教育」という言葉を使っちゃいません。使っていたのは「学問」です。教というのは、下々の人民に、「こういう悪いことをしてはいけない」とか、上から下に向かって、しつけるというか、押しつけるというか、そういうふうに使われてきた言葉です。その教の字と、育の字を結びつけて、「教育」をエデュケーションの訳語としたのが、そもそもの出発点なんですよね。
 エデュケーションという言葉は、ヨーロッパにおいても、フランス革命前後に人権思想が入ってくるようになったころの新語なんです。サイエンス、あるいはシビリゼーション(文明化)という言葉などと並んで、新語としてエデュケーションという言葉が使われるようになったんです。
 ラテン語の古い語源は「引き出す」という言葉で、エデュケーションは、ここから生まれた新語です。ですから、そこには人権思想が含まれているわけです。その大切な、新文明の言葉だったエデュケーションを翻訳するのに、「教」の字を入れてしまったんです。
 なぜかというと、天皇や天皇の側近の人たちが、西洋文明にかぶれちゃいけない、東洋の伝統、儒学の伝統を引き継がなきゃいけない、と考えたんです。天皇の名前で、天皇の誓詞によりまして、東洋的伝統にしなさい、ということになって、その結果、教育という言葉ができた。明治12年の教育令が最初の法令ですので、そこに教育という言葉が入ったわけです。
 もっと掘り下げて言うと、明治時代に大日本帝国憲法ができますが、ここには教育という言葉は一つも入ってないんです。それと、軍隊のことも何も書いてないんです。教育と軍隊だけは、天皇の勅令によると決めちゃって、議会では議論しない。法律や議会は、近代化のマネをしてつくるけど、教育と軍事は、すべて天皇の直接命令、勅令によることにしました。
 また、東洋、儒教の2000年の伝統をふまえて翻訳をした教育を、朝鮮半島にも中国大陸にも輸出するんです。とくに朝鮮は占領していましたから、強要したわけですね。そのために、朝鮮や中国でも、誤訳された教育の観念をそのまま受けとめているという状態があります。
 ですから、いまでも中国や朝鮮から「日本が教科書にこういうふうに書いたのはけしからん」と言われますし、日本も「そうではない」と言っていますが、そもそもは、教育や教科書が、国家主義の、上から下へ人民を教育するという考え方から、議論が起こっているんです。教育の観念が国家主義から自由になって、正しい教育観をもつことができれば、三国の関係も変わるように思います。


●戦争体験と教育観

奥地:教育(エデュケーション)は引き出すことだ、という考えに、そのころから出会われていらっしゃるんですね。大学時代からそのあとの歩みも聞かせていただけますか。

大田:知識のうえではエデュケーションは「引き出す」だと知っていても、教育によって社会を改革する、という意識は変わってなかったと思います。教育観が内から変わったわけではなく、教育という観念に自分自身がとらえられていたように思います。
 また、戦争体験のなかで(将校にならず、一兵士として戦線に加わりました)、自分はなんでこういうことをやっているのか、なんのための行為なのか、わからなくなってしまいました。将棋のコマのように、上の指示に従って行動する。引き出すどころか、引っぱりまわされる。すべて上下関係によって支配される状況に置かれていたわけですから、「引き出す」なんて、身につくわけはないですね。

奥地:兵隊に入られたのは、いつのことでしょう?

大田:大学にいる人間は延ばされていて、1942年、大学を出て24歳で陸軍に召集されました。そして、1944年8月29日、セレベス島(*6)に向かう途中、夜中の2時に敵の潜水艦にやられて、輸送船が沈没、そこから36時間、海の中に放り出されました。

奥地:29日というと、72年前の、ちょうど今日ですね。奇偶ですね。

大田:夜が明けて、1日中、熱帯の海の中で、いかだにぶら下がったまま、太陽に照らされ続けて、誰も助けに来てくれない。そのまま、もう一晩たって、太陽が真上に来たころ、ようやく救援隊の船が来たんです。浮いている人を拾っていくんですが、10里四方ぐらいに、あちこち、遠く離れて散らばって「助けてくれ」「俺たちここだ」という人たちを拾っていくんです。
 小さな駆潜艇がやってきて、縄ばしごを必死になって夢中で登って、甲板が高いので、そのときは馬鹿力が出るんですが、甲板にたどり着くと、バターンと倒れ込んで、もう立てませんでした。海軍の兵隊が重湯を持ってきてくれて、それを飲んだのが記憶に残っています。

奥地:45年に敗戦になりますね。

大田:ですが、その後も1年間、セレベス島にとどまりました。海軍は船があるので、そのまま逃げてしまいましたが、陸軍は足がなくて逃げられませんでしたから、海軍が残していった食糧を少しずつ分けながら、バナナを食べたりして、生き残ったわけです。46年に召集解除されて、日本に帰還しました。


●地域の人間のための教育を

奥地:その後、日本で教育活動に従事されるんですね。

大田:郷里に帰ると、学校の先生方が「社会科ってどうしたらいいでしょう?」と聞きに来ました。戦後、社会科という科目が始まったんですが、それまで日本では、「社会」という言葉を使うだけで首になりかねかったわけです。それで先生方は何をやっていいのかわからない。僕が、社会科という科目がアメリカにあることを知っていたこともあって、そのイメージでやりましょうとなって、社会科を中心に、いろんな教科を関連づけた「本郷地域教育計画」をつくりました。国家の手によってやっていてはダメだ、地域からやらなきゃと考えていたんです。教育というのは、地域の人間のものなんだと徹底的に考えて、「地域教育計画」をつくりました。その趣旨は正しかったと思います。
 しかし、僕が東京から得た情報によって計画を進めていたわけですから、結局は上からの指示によって教育計画を進めていたと言えます。一時は、本郷計画として全国的に有名になりまして、いろんな人が全国から見にきて、GHQからも視察にきました。本当に自由にやっていた時期ですが、上からやらされるという意味では、同じだったと思います。

奥地:私は、三原の中学校で育ったんですけど、先生たちが、「これからは自分の頭で考えるのが学ぶということだ」と言っていたりしましたし、先生たちが、すごくいきいきとしてました。たぶん、それは本郷の動きに影響を受けていたのだと思います。のちに、周囲に私の中学時代の話をすると、「進んだ先生たちでしたね」という感想を聞きました。

大田:先生方には、ご苦労をかけたと思います。新しいカリキュラムをつくるというのは難しいことです。先生たちは、そのために夜遅くまでご努力されたりして、ご無理なことを求めたかと反省しているんです。僕にとっては、本郷地域教育計画は、教育というものを見直す最大の転機になっています。また上からやっているじゃないかと反省の思いが強いんです。
 のちに子ども図書館(*7)をつくるのは、「地域から」ということを大切にしたからです。地域の要求にもとづいて、地域の子どもたちに楽しんでもらうことを大切にした図書館のあり方です。その図書館では、子どもが来たら「よく来てくれました」と迎え、「また来てね」と見送る。学校の先生は、それを聞いてびっくりするんです。先生たちは、学校に来るのは当たり前でやっているところに、子どもがそういう処遇を受けていることにビックリしていました。


●いのちから教育をとらえる

奥地:大田先生は「教育はいのちからとらえる」ということが根本におありですね。そういうお考えも、ご自身の経験から生まれてきた、ということでしょうか。

大田:最初は、子どもの関心や興味が大切ということが頭にあったんですが、興味・関心を引き出すといっても、そう簡単ではない。もっと、より深いところから根拠を見つけていくことが教育哲学の目的ではないかと、いろいろ模索しました。
 ご承知のように、1950年に朝鮮戦争に入って、社会が反動的になっていきますよね。教育も、検定教科書制度が始まったり、教師の身分を支配したり、上から押しつけてくる問題が出てきて、その一つひとつに抵抗しなければならなかった。裁判になると、そのたびに法廷に出かけていって、証言に立ってきました。どうしたら裁判長を説得できるか、ということに心を砕くわけです。仲間や弁護士を交えて議論をくり返すなかで、「問いと答えの間」や「選びながら発達する権利」など、学びについての文章を書くようになりました。
 そうしたなかで、これはいのちと関係があると考えるようになりました。お上からではなく、いのちから問題を考えていく、我々自身のもっている、いのちから考えなければならないと、考えるようになったのです。一挙にばっとではなく、だんだんと段階を踏み、深めて、重ねていったなかで、いのちというところに到着したんではないかと思います。
 いのちについての、いちばん大きなショックを理論的に与えたものは、実は自然科学だったんです。1950年代に、葉っぱも私たちも、みんなDNAからできているのがわかったんです。そのとき自然科学者たちは、葉っぱと、私たちと、いのちというものに共通性がある、そこに強調点が向けられて大発見の意味をみていたわけです。
 ところが、僕のような教育の立場からいうと、一人ひとりの子どもが問題になりますので、その子その子のDNA構成は一人ひとりみんなちがっている、そういうちがいにこだわるということなんです。文科系は、個体にこだわって考える。個体がいのちの支え手であり、それぞれみんなちがっている。これは、たいへんすごいことです。いわば基本的人権の科学的基礎が、そこで発見されたと言ってもいいようなものですが、自然科学ではそうは考えない。一生懸命、物的証拠として考えているので、人権とDNAとの関係は問題じゃないんです。
 自然科学者が、あくまでも物的研究としてみているところに、僕はおのずと「問いと答えの間に生命が動いている」とみたわけです。「問いと答え」というのは、問う者と問われる者、主体と客体とがあるということです。その相互作用が、ちがうDNAを持つものと接触したとき、自分が変わらざるを得ないという現象になっているのではないかと考えたんです。
 自分という存在は、ほかの人と異なるDNA、ユニークな設計図を持っている。ですから、まわりにある人は(物質もそうですが)異物なわけですよね。それを主体と客体、主体と環境と考えると、人間という主体は、一方は自己中心に走りがちで、他方は他者依存に走りがちです。人間は、内に向かう欲求と外に向かう欲求と、二つの相反する欲求が交錯しあっている。そこに折り合いをつけるために、人間自身が変わる。それをずうっとやり続けているのが、いのちというものではないか、と考えてみたわけです。
 分子生物学が発見したのは、生命が変わり続けるなかでもDNAの構成は変わっていないということです。「変わっているけど変わらない」というのは、メカニズムでは解明できない。これは、最近10年の分子生物学の定説です。ですから、「みずから変わるけれども変わらない」、これが生命個体の特徴なのだ、ということが浮かび上がってくるわけですね。
 葉っぱが自分で太陽のほうを向くとか、風をよけるとか、自分と他者との関わりのなかで変わりながら、基礎は変わらない。生き物というのは摩訶不思議なものです。そういう関係でいくと、人間も、それぞれみんな、みずから変わる力、根源的自発性を持っているんです。ノミなんかでも、僕らがたたこうとすれば逃げるわけで、根源的自発性を持っている。根源的に自らを守っていく自発性を持っている。そういうふうに、重く、重くとらえることができるようになったんです。
 その、みずから変わる力を励ましていくこと、新しい情報を提供することで、みずから変わるのを助けてあげるのが教育なんじゃないか、と。変わるということは学習を重ねることです。生涯を貫くのは、みずから変わるという生物の根源的自発性によるんだ、と。こういうふうに、僕はいま、理論を立てているわけです。
 だから、主体性だとか、興味を持たせるというとき、その根底に、根源的自発性という重みを持ったとらえ方をしたほうがいい。これが人間の場合、基本的人権である、と考えています。


●学習は根源的な自発性に立っている

奥地:根本に立って考えると、いろんなことがつながって見えますね。学習ということについて、もう少しお話をうかがいたいんですが、基本的人権として学習権があると話されていますよね。一般に学習というと、狭く国語算数などとなって、それをテストで評価して、という発想が強くあります。そうではなく、私は広い意味で学習権を保障するような考え方をしたいんですが、「学習とはなんだ」というところは根本の大事なところと思いますので、もう少しお話しいただけますでしょうか。

大田:そのとおりですね。まず教育ありきではなく、まず学習ありきと物事を考えなければならない。学習は、根源的な自発性に立っている。植物が根をおろすような、そういう自発性に立っているわけです。一人ひとりの子どもが自発的に、外との関係、教師との関係で折り合いをつけて、自分らしいスタイルを身につけているわけだから、先生の言ってることをみんな同じように伝えられるのではなくて、みんなちがうように受けとめている。なかには拒否している子どもがいても、けっして不思議ではないわけで、そういうものなんですよ。
 子どもを束にして教育するのは、便宜上のことであって、ほんとうは個の問題が大事です。学習というのは、個体の現象で、個体の根源的自発性に根拠を持っている。その学習に学習が重なることで生涯が遂げられるので、学習が基本中の基本なんです。まず学習権があって、それを助けるのが教育なんだと考えると、教育の位置が変わっていく。教育を否定し去るのではなく、むしろ学習を助ける、介添えのほうへ位置づける、ということです。ですが、よほど慎重でないと、この仕事はなかなか難しいと思います。一人ひとりの受けとりがちがいますからね。
 ですから、教育はアートと考えたらよいんだと思います。アートというのは、根源的自発性で自己創造する、クリエイトするということですね。創造物ですから、教えたとおりになるということは、ありえない。教えたところで、結局は、その人なりの生命の発達の仕方をすると考えたらどうか、と思うんです。

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奥地:学校教育では、先生方自身も悩んでいますね。一人ひとりちがうのに、国からこういう内容をやりなさいというのがあって、二面性のなかで悩んでいる。学校教育が当たり前で中心だという考えも根強い。本来の学びと学校教育については、どう考えたらいいでしょうか。

大田:学校教育は便宜上できているものですね。本来は個と個です。個と個の響き合い、これがほんとうの教育です。僕は「社会的文化的胎盤」という言葉をつかうんですが、人間は社会的文化的胎盤のなかで育ちます。学校で受ける影響というのは、たしかにありますけれども、人間は自己の根源的な内発性によって育っていますから、家庭もあれば、友だちとの関係もあります。そうした社会状況、地域の状況、こういうものからぜんぶ影響を受けるんです。そういうなかで人間は「ひとなる」のであって、社会的文化的胎盤で育つ、と考えたほうがいいんです。
 そういう意味で言えば、学校教育というものは、たくさんの人を束にして一斉教育をやっているが、それをやらざるを得ないものとしてあるんです。しかし、本来の教育は個を中心にやるというのが原点である、ということはまちがいありません。
 ですから、社会的文化的胎盤という広い場面で、さまざまな学習を得ている子どもたちを考えることが必要です。たとえ学校で変わらなくても、一冊の本で変わるとか、誰かとの出会いで変わる、ということもありうるわけですから。親が悪いから、学校が悪いからと無責任に言うのではなく、そういうふうに考える「柔らかい胎盤感覚」が広まらないと、この国の教育は、いつまでも国家に支配されたり、上から下への教育が中心になると思います。


●「いのちへの道」をもっと幅広く強く

奥地:私も教師時代、良心的にやろうとすればするほど悩みが深まりました。国が思うような教育をしようという圧力がどうしても降ってきて、そこから自由になれない。だけど四六時中見張っているわけではないので、いろいろできなくもない、というなかで悩むんです。学校教育の二つの側面というんですかね、ひとつは、たしかに学校は子どもの学ぶ権利のためにあるはずで、税金を使ってやっているわけですし、そういう意味で学校が期待されるところもある。だけど、子どもは国の教化の対象にもなっているという、二つの側面でずっときていて、私も教師時代は悩んで、いろいろな動きをしているんです。そしていまも、やっぱり現場の先生は悩んでいる。先ほど便宜上とおっしゃられていましたが、それでやるしかないんでしょうか。

大田:苦労しているのはそこなんです。国が情報を支配することは許せない。これは前の教育基本法に明記されていたんですが、その10条が消しとられてしまったでしょう(*10)。これは憲法を改正する、改憲の一環なんです。だから、教育基本法を変えられたとき、僕はもうおしまいなんじゃないか、と思ったんです。
 しかし、そこであきらめちゃいかんですね。国民がそういう政府を選ぶからで、そこには理由があるはずだと考えると、自分だって、すぐ人に教えたがるじゃないか、と思いました。権力を持つと教えたがるということが一般的傾向としてある。イギリスに留学したとき「国家というのは悪いことをするもんだ」と最初に教わりましたが、それは、国家というのは情報を独占する傾向があるという警告だったんですね。
 だから、誰が情報を保障すべきなのかというとき、前の教育基本法のように、国の役割は条件整備に限定して介入を許さないようにハッキリさせないといけませんが、それが実現するためには、有権者の教育の観念を変えるほかないでしょうね。

奥地:教育は、子ども個々のものだ、という考えを広げないと変わらない。

大田:そういうことです。ですから、たいへん遠い道を通らないといけないと思うわけです。一人ひとりやろうとするには、財政的にも問題があります。人類は高い文化を創っておいて、子どもを育てるには束にしないとできない。いのちのほうが後まわしになっていて、経済のほうに金が動いています。しかし、いのちの重要性に関心を鋭くするのが唯一の道じゃないか、と思います。
 ですから、まだまだ時間はかかるけれども、「いのちへの道」をもっと幅広く強くすることを求め続けることではないでしょうか。。


●不登校はひとつも不思議じゃない

奥地:その話とつながると思いますが、不登校について、おうかがいします。私たちは長年、不登校のことに関わって、「もう行けない、行かない」という子たちとつき合ってきました。このインタビューは、文部省(当時)が不登校の統計を取り始めて50年を契機として始めたもので、学校に行かない、学校と距離をとる子のことを、日本社会がどうとらえてきたのかを、いろんな方々に登場してもらって知りたいということで、そのなかで大田さんにお話をうかがいたい、ということになったんです。戦前も戦後も見てこられて、ここまでお話ししていただいたように、教育研究者として、いのちという根源からみておられます。総合的にみて、不登校というものを、どう見ておられるでしょうか。

大田:学校教育は、集団でやりますから、矛盾が起こるのは明らかなことなんです。そこで適応できない子どもが出てきても一つも不思議ではなく、まったく当然なことです。むしろ、積極的に学校教育のあり方を批判していいくらいです。学校教育を中心でものを考えないで、広い社会的文化的胎盤で考えていくという思いがあっていいんです。小さな塾があって、自発的にやっていく条件が満たされれば、それでいいと思います。
 日本では、人間の成長の資格をいちいち学校で決めるのが日常化しているんですね。しかし、ヨーロッパの場合は、たとえばエンジニアのような職業は、工業大学で育つのではなく、現場で育つんですよ。職人組合(ギルド)の力が強くて、そこで力を磨いて良い職人になる。そういうものがあってもいいと思うんです。
 日本が学校というものに依存したのは、早くヨーロッパのような近代国家にしたい、と思ったからです。まず学校をつくって、そこでエンジニアをつくる、官僚をつくる、ということを明治の初めからやりましたから、学校というものが重みを持って、それによって将来の職業が決まる、ということになっちゃったわけです。そういうところに、むしろ大きな原因があるわけだから、不登校はあり得て普通だと思います。
 もっと目を広く考えれば、いまの職業の全般的なあり方が雇用中心になっていて、その雇用を学校のレベルによって支配しているじゃないですか。ヨーロッパのように職人で生きるというのは、雇用というよりも「就業」なんですね。しかし、日本では雇用が当たり前になっているから、みんな雇われて仕事をやらされている。つまり、自分本位の時間じゃない仕事をさせられている。しかも、それが大部分の社会の状況になっている。それに対して、自分が好きなことで、何か社会に役に立つことができる仕事をするというのが、就業なんです。その就業のチャンスが、日本社会では非常に狭いんですよ。
 だから、学校からはずれる子どもが出てくる。雇用社会から就業社会へと、生命本来の姿を大事にする方向に社会を向けていく。モノからいのちへ、雇用から就業へ。そういう大きなスケールで未来を考えていくことを、私は夢にしています。
 夢というのはすごく大事です。ほかのことを教えなくても、夢を持ってくれる子どもを育てられたらよいですよね。自分自身の好きなことで夢が持てる、「就業社会」へ向けて子どもを育てていくように学校が変わっていく。子どもを雇用社会に適用するようにと思うもんだから、名誉ある学校でことをなさないといけないとなっちゃって、政府の用意した箱にハマってしまっている。そこからはずれて、フリースクールをつくってやっていく。これが夢だ、と僕が言っている理由なんです。


●「させる」「やらせる」をやめ夢に近づいていく

奥地:私たちも、自分のやりたいことで生きていくことを見つけている若者に数多く出会っています。自分に合った生き方を見つけているな、と。不登校の子が出てくるにしたがって、江戸時代の寺子屋みたいにフリースクールがあちこちで出てきて、増えつつある。お金に苦労するので、学齢期の子が来ているわけだから、社会的な応援の仕組みができたらいいな、というところですね。

大田:まさに、そういうことなんです。雇用から就業へという問題になると、資本主義社会の基本に関係するんです。それほど大きな問題なんですよね。
 しかしながら、石川啄木ではないけれども、

 こころよく 我にはたらく仕事あれ 
          それを仕遂げて死なむと思ふ


 というね、それがみんなの願いなんですよ。だから、そっちに社会を方向づけていく。ささやかな営みでも、そういう方向へ向けたらいいと思います。
 それにはまず、「させる」という言葉をやめることですね。

奥地:フリースクールにいると、学校の先生が「○○させてますか?」とか「させないんですか」と聞かれるのが気になります。

大田:学校の先生は、よく「させる」と言いますね。そのことによって、先生自身も上からさせられているんです。だから、させられる人間から、させられない就業者になるということを目指していく。そういう世論を組み立てる方向で運動したほうがいいんではないか、と思います。

奥地:最後もう一つお願いしたいのですが、9月1日に子どもの自殺が多く起こっています。今年は、子どもたちも「学校だけじゃない」「休んでいい」と発信しています。長期休み明けの自殺について、一言コメントを。

大田:一言では言えませんが、自殺だけではなく、虐待もあるじゃないですか。そういうこと一つひとつが基本的人権の侵害でしょう。天から与えられたユニークないのちというものをおたがいが大事にしあう、そういう基本的人権の尊重というものを、みんなが軸にして生活と社会を考えるという展望をもって、その夢に近づいていく。「させる」とか「やらせる」をやめちゃって、そういう方向に進んでいく以外にはないと僕は思っています。
 急にはできるとは思いませんが、社会を少しずつでも変えていくために、大きな大きな課題として、それを乗り越えていく夢を、みんなで分かち合いましょう。それが、最後の願いです。

奥地:お疲れになったことと思います。ていねいにお応えいただき、ありがとうございました。どうぞお元気でいらしてください。

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*1 『大田堯自撰集成第4巻 ひとなる―教育を通しての人間研究―』(藤原書店2014年)

*2 当時は広島県豊田郡本郷町、現在合併して三原市にある地名。

*3 当時の東京帝国大学は、文学部の中に教育学科があった。戦後、独立して教育学部に。

*4 (おさだ・あらた)1887年―1961年 教育学者。広島大学名誉教授。ペスタロッチ教育賞の提唱者。

*5 「上所施下所效也。从攴从孝。凡教之屬皆从教」上の施す所を下の効う所なり。攴に从い孝に从う。上位のものが施す内容であり、下位のものがならう内容である。「攴(=強制する)」「孝(=ならう)」から構成される(三省堂『漢辞海』第3版)。

*6 現在のインドネシアのスラウェシ島。当時、日本が植民地にしていて、セレベスは植民地時代の呼称。

*7 ほんごう子ども図書館:大田さんがご自身の土地を本郷町(現三原市)に寄付されて創設された公設民営の図書館で、ボランティアで運営。

*8 旧教育基本法第10条:教育は、不当な支配に服することなく、国民全体に対し直接に責任を負つて行われるべきものである。(2)教育行政は、この自覚のもとに、教育の目的を遂行するに必要な諸条件の整備確立を目標として行われなければならない。

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