2016年10月16日

#06 滝川一廣さん

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(たきかわ・かずひろ)
1947年名古屋市生まれ。1975年、名古屋市立大学医学部卒業。児童精神科医・臨床心理学者。名古屋市立大学医学部精神科助手、名古屋市立児童福祉センターくすのき学園園長、青木病院医師などを経て、現在、学習院大学文学部心理学科教授。著書に『家庭のなかの子ども 学校のなかの子ども』(岩波書店1994)、『「こころ」の本質とは何か』(ちくま新書2004)、『学校へ行く意味・休む意味』(日本図書センター2012)など多数。

インタビュー日時:2016年8月19日
聞き手:山下耕平、山田潤、貴戸理恵
場所:神戸市勤労会館会議室
写真撮影・記事編集:山下耕平

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山下:まずは、ご自身の学校経験からうかがいたいと思います。子どもにとって学校というのは「おそれ」のある場だったと言っておられますが、ご自身の経験としては、どうだったのでしょう。

滝川:私は1947年生まれの団塊世代なので、子どもがめちゃくちゃ多い時代でした。地域(名古屋市)の公立小学校に入りましたが、教室は運動場の隅に急造した平屋の木造校舎でした。1年生のときはワケもわからず過ぎてしまった感じでした。児童数も1クラス50人以上はいましたからね。その後、本来の校舎に移って、子どもにとっては向こうが見えないほどの長い廊下だとか、階段の下なんかが、ちょっと怖い、不思議、という感じがありましたね。

山田:私も同年代ですが、1クラスに55〜56人はいましたね。

滝川:クラスも10クラス以上ありましたしね。てんやわんやで過ごした気がします。あのころの子どもたちは、いまと比べるとかなり乱暴で、クラスは騒然としてましたね。しかし、私は運動が苦手で身体が弱かったので、その乱暴な雰囲気には入れなくて、どちらかというと観察していた気がします。
 先生は、怖いという感じはまったくなかったですが、授業中に友だちとふざけていて立たされたりしたのは、なつかしく覚えてます。あのころは、それが当たり前のことでしたね。

山下:ご自身が、学校へのすくみなどを感じることは?

滝川:そういうことはなかったと思います。ただ、ぜんそく持ちで、4年生ごろまではよく学校を休んでましたし、まごまごすることは多かったですね。成績はいいほうだったんですが、あまりそれは意識していなくて、むしろ、みんなが当たり前にできることが自分にはできないことを強く意識していました。運動会ではビリだし、歌は下手だし、字も下手くそだとか。

山下:遊び場はどんな感じだったんでしょう?

滝川:学校の東側が急斜面になっていて、その斜面で遊んでいました。いろんな雑木が植わっていて、その下には汚い池があって、あのころの学校は手入れが行き届いていないですから、隅っこのほうは雑草で、どこまでが運動場でどこまでが野原かわからない。その斜面や池が、子どもたちにとっていちばん楽しい遊び場所でした。すべり台でも遊びましたが、それよりも赤土の斜面をすべり降りるのが楽しかったですね。それから、池がひょうたん型だったので、どこまで跳び越えられるのか、度胸試しでやっていて、跳び損ねるとお尻からどぶ池に落ちて、泥まみれになったり。そうすると、先生も「家にもどって着替えてらっしゃい」と言うので、家に戻る。学校のある昼間の時間に家に帰るのは、子どもにとっては知らない時間で、この時間は街はこんなふうなんだと思ったり、それは何か特別な時間でしたね。そして、母親にお小言のひとつももらって、学校に戻る。

山下:子どもが学校のやっている時間に外にいても、周囲も目くじらは立てなかったわけですね。

滝川:そうですね。

山田:そういうとき、僕なんかは、いてはいけないところにいるという気持ちで、学校に飛んで帰ったような記憶がありますけどね。

滝川:たしかに、学校を休むことはとんでもないという意識はありましたね。ですから、病気になるとうれしいわけです。公然と休めますからね。

山下:学校の存在は大きくても、当時は、大人の目の届かない領域が豊富にあったんですね。


●楽園喪失

滝川:そうですね。ただ、その遊び場だった斜面は、私が小学校5〜6年生のときに整備されて自然観察園になったんです。そして、勝手に入って遊べなくなってしまった。理科の授業のときだけ入って、観察学習する場になってしまった。それは、子どもにとっては一種の楽園喪失でした。

山下:そういう領域が、失われつつある時代でもあったんですね。子どもの人間関係は、学校中心だったんでしょうか、それとも地域のなかにあったんでしょうか?

滝川:地域のなかでしたね。友だちどうし兄弟づれで、異年齢集団で遊んでました。私が小学校高学年のころは、高度経済成長に入った時期です。社会が豊かになって、システムがどんどん近代化されていく。放っておかれた空き地やマージナル(周縁的)な空間がなくなって、次々に整備されていきました。子どもが自分たちだけのテリトリーとして遊んでいた場がなくなっていったんですね。

山田:中学校に上がる緊張感というのは、どうでしたでしょう。当時は、決心して、丸刈りにして、黒い制服を着るという感じがあったように思いますが。

滝川:男子は丸刈りでしたね。それを当たり前のこととしていました。当時の子どもは、いまみたいにファッショナブルではないですしね。たしかに、中学校は何か別の世界に入るという感じはありましたね。

貴戸:女性の場合はどうだったんでしょう? おさげですか?

滝川:記憶が確かでないですが、とくに決まりはなかったように思います。

山田:私の場合、中学に入って成績を意識させられるようになった記憶があります。テストの成績上位者は学年別・クラス別で貼り出されるんですが、私は最初のテストで学年・クラスで1番を取ってしまったもので、いっぺんに意識するようになってしまった。

滝川:中学校も、入ったときはワケがわからなくて、まごまごしてました。鉛筆を噛む癖があったり服も鼻水でテカテカだったり、だらしがなかったものですから、ある同級生から意地悪をされていて、気が重い毎日でした。ところが、最初の中間テストで上位に入っていたので、意地悪していた子が「君できるんだね」とびっくりした顔をして、それから意地悪がなくなった記憶があります。

山下:成績がよいことの価値が大きかったんでしょうか?

滝川:あの当時は、勉強ができるのはリクツ抜きに一目置かれることでしたね。足が速いとか、絵がうまいとか、ケンカが強いというのと同じように。それと、成績以前に、「勉強することそのもの」に価値があると見なされてました。あのころだって、勉強ぎらいな子はたくさんいたわけですが、できる・できないにかかわらず、みんなでいっしょに座って黒板に向かってノートをとることが、意味のあることでした。そういう意識が子どもにも親にもあったように思います。

山田:高校進学については、いつごろから意識されてましたか?

滝川:あんまり考えなかったですね。親と担任の先生まかせでした。

山田:それほど高校のランクは意識するものではなかったですよね。いまのように偏差値で輪切りのイメージはなかった。

滝川:そもそも偏差値という概念がなかったですからね。


●高度経済成長と学校の価値

山下:高度経済成長期に入る前後で、学校のあり方が大きく変わったんでしょうか?

滝川:まず、戦前の中学校について言いますと、完全なエリート教育の場ですよね。大多数の子どもは小学校ないし高等小学校までで、社会に出て大人になっていた。ところが、戦後は中学校が義務教育化されて、全員が15歳まで学校に行かないといけなくなった。言い換えると、15歳まで「子ども」として生きることになったわけです。子ども期が延びてしまった。それは、社会的にものすごく大きな変化だったと言えます。
 それでも戦後間もなくは、佐藤修策先生がおっしゃっていたように、「中学校なんか行かせてどうなる。英語で鯛は釣れん」という状況だったわけですよね(*1)。ところが、60年代に入って高度経済成長が始まって、それまでは農林水産業を中心とした産業構造が、製造業を中心とする産業構造に大転換する。そうすると、鯛を釣る仕事自体がなくなっていってしまう。農林水産業をしていた人たちは、どんどん都会に吸い上げられていきましたね。
 一方で、工業社会では、学校で学ぶことが実際に役に立ったわけです。計算したり、設計したり、そういう力が問われる分野が広がった。それから、勉強以上に大きい意味を持ったのは、学校が集団行動を身につけさせる場だということです。工業社会では、集団協力がないと生産性が上がらない。みんなでいっしょに力を合わせること、勤勉にコツコツ努力することが大事だった。つまり、学校と社会につながりがあったわけです。学校での体験が、その後の仕事、将来につながっていた。さらに、中学校だけでは足りないということで、高校をどんどんつくっていったわけですね。
 親の願いは、子どもが将来生きていくのに役立つことを残したい、ということですね。以前の社会であれば、漁師だったら海で魚をとる技術を、農家だったら田畑で農作業を、商家だったら店で商いを、そういう子どもに残し与える技術なり資産なりを持っていたわけです。ところがサラリーマンには、それがありませんね。受け継がせられる技術もなければ、資産といっても知れている。では、子どもに何を与えられるかといえば、学歴しかなかった。子どもを育てることと、子どもを学校に行かせることがリンクしてくる。実際、工業社会のなかでは、学んだ知識や勤勉性、協調性が生産の場で力になっていた。だから、高度経済成長時代には、学校へ行くということが当たり前の価値になっていたんですね。

山下:集団行動にも、坊主や制服などが画一的であることにも、当時は価値があったわけですね。一方で、高校に進学するかどうかで子どもが振り分けられていくこともあったと思いますが。

滝川:私たちの世代までは、中卒で社会へ出る者もけっこういました。当時の高校進学率は70%くらいでしたでしょうかね。

山田:そうですね。高校に進学しない生徒は3割くらいはいたと思います。その子たちは、もう自分は学校は終わりで高校には行けないと、中学校卒業する前後に、さみしそうだったのは覚えています。でも、逆に言うと、当時は中卒で雇おうとするところがありましたからね。

山下:大人になっていく同級生に対して、自分は子どもであるというような意識もあったでしょうか。

滝川:よく覚えているのは、進学した高校には定時制もあって、定時制の生徒は働きながら来ていて、すごく大人でしたね。

山田:私は77年に定時制高校の教員になりましたが、当時は、教師が授業に遅れたら生徒が怒ったんですね。僕らは昼間働いてから来ているのに、教師が遅れてくるなよと。

山下:高度経済成長への反発から、学生運動も起きていた面があると思いますが、ご自身はどうだったんでしょう?

滝川:私は全共闘世代なんですが、少しタイムラグがあるんですね。浪人中にネフローゼ症候群で入院して、結局は二浪して大学に入ったんですが、入学後に再発して1年留年したので、同世代から3年遅れているんです。安田講堂の事件は、病院のベッドからテレビで見ていた記憶があります。私も、いちおうデモに行ったりはしましたが、医者から「過激な運動はいけない」と言われていたので、そういう意味でも過激なことはしませんでした(笑)。
 全共闘世代は、社会が高度経済成長で近代的な秩序になっていくなかで思春期を過ごして、ある窮屈感というか、抑圧感を、すごく鋭敏に感じたんだと思います。小学校時代にはあった、よくも悪くもラフでマージナルな世界が、高度経済成長とともに失われていった。ふるさとのようなものを奪われたことに対する反発というか、世の中が秩序化していくことへの反発意識があった気がします。イデオロギーを取っ払って、気分みたいなところで言えば、そういうものがベースにあったような気がします。


●反精神医学の異議申し立て

山下:大学は医学部で精神医学を学ばれたわけですね。当時の精神医学は力動精神医学(*2)が主流でしょうか?

滝川:まだ生き残っていた、という感じですね。ちょうど学園紛争と重なるかたちで、反精神医学の運動が世界的に起きました。その背景には、当時の精神医療の状況が非常に悪かったことがあります。ひとつには、当時の精神医学は、どちらかというと研究主体で、患者さんを治療する、患者さんをいかに幸せにしていくかという視点は少なかった。そのことに対する異議申し立てが反精神医学でした。
 もうひとつには、精神医学が、力動精神医学にせよ生物学的精神医学にせよ、精神障害を患者個人の問題としてきたことがあります。患者の脳に何か異常が起きている、あるいは心理に問題が起きていると見て、いずれにしても、それは患者さん個人に起きている異常現象だというとらえ方です。それに対して、はたしてそうだろうか、という異議申し立てが起きた。当時は精神分裂病(現在の統合失調症)を中心に問題になったんですが、ここでは、現在に即して、うつ病を例に考えてみましょう。
 うつ病は、現在の医学では、脳の神経伝達物質であるノルアドレナリンやセロトニンの不足によって起こる生物学的な障害と考えますね。患者さんの脳の問題と見ているわけです。だから、ノルアドレナリンやセロトニンを増やすクスリを使えば治ると考えて、そういうクスリを開発するのが精神医学ということになっています。それに対して、反精神医学では、だったらどうして、いま、こんなにうつ病が増えているのか、それが説明できない、と問う。こんなにうつ病が増えているのは、いまの社会が人びとに与えている労働条件などの問題がある。無理な労働、無理な生活を社会全体が強いている。そのなかで、なんらかの弱さを持った人、あるいはそういう条件に合わせようとがんばりすぎた人が、うつ病になっている。そういう社会状況を放って置いて、患者さんにクスリだけ与えれば治るというのは、おかしいじゃないか。仮に治ったとしても、状況をそのままにしていれば、次々に患者が出てくる。むしろ問われるべきは、うつ病を生みだし、増やすような社会状況ではないか、という主張ですね。
 もうひとつには、障害者差別の問題がありました。患者を生み出すような社会状況があるのに、その社会のあり方を棚上げにして、患者個人の病理にしてしまっている。それが患者が病的な存在として社会から差別・排除されることにつながっている。つまり二重に精神障害者を苦しめている。
 こうした問題意識から、むしろ社会を変えていかないといけない、それが精神医学のほんとうにすべきことではないのか、というのが反精神医学の基本的な主張でした。それは、リーズナブルな主張だったと思います。
 たとえば、渡辺位(*3)先生の不登校論は、反精神医学をベースにして不登校を論じたものですよね。大人の精神障害をめぐる問題を、子どもの不登校の問題に採り入れたところに新しさがあって、大きなインパクトと影響力を持った。
 私が精神科医になったのは、学園紛争のあと、反精神医学運動も収束しつつあった時代で、その残り火が生きていた時代でした。だから、ある意味で、なんでもありみたいな自由な雰囲気がありました。台風が過ぎたあとって新鮮でしょう。もちろん枝がちぎれていたり、傷はあるんだけと、一方でみずみずしい新鮮な空気がある。そこから精神医学の勉強を始められたのは、とてもよかったと思いますね。

山下:臨床医を始められたのは? 当初から子どもの臨床だったんでしょうか?

滝川:75年に、名古屋市立大学の大学病院に入りました。ちょうどそのころ木村敏先生が名古屋市立大の教授になられて、助教授に中井久夫先生が来られて、山中康裕先生が講師としておられたんですが(*4)、山中先生が子どもに力を入れてやっておられて、私も、山中先生のご指導のもとに、不登校や自閉症など、子どもの臨床に踏み込みました。


●不登校との出会い

山下:ご自身の臨床医としての不登校との出会いは?

滝川:私が最初に出会った不登校のケースは、中学校1年生の男の子でした。学校に行かなくなって家庭内暴力も出ていて、児童相談所に一時保護されていました。そこで、相談所の心理判定員が統合失調症ではないかと心配されて、精神科医の私にリファーがあったんです。いま、一時保護というと「虐待」のケースが多いですが、そのころは、くわしく調査診察をして、ハッキリ診断するために、一時保護することが多かったんですね。

山下:何年ごろの話でしょう?

滝川:医者になって2年目でしたから、76年だと思います。彼は、ふくれっ面して何も言わなくて、腕を組んでいました。いきなり児童相談所につれてこられて、一時保護されてるわけですから、無理もないと思いました。診察の結果、おそらく統合失調症ではないとの判断を心理判定員に伝えて、本人には「これで家に帰ることになると思うけれども、よかったら家から病院に話しに来てくれないか。自分が無理だったら、お母さんと話がしたいけれどもいいか」と聞きました。うなずいたので、その後は、お母さんと面談を続けました。その間、本人は、自分の部屋に閉じこもって、家族とも顔を合わせようとしない、食事は運んでもらうという生活でしたが、お母さんの話から、暴力が出なくなったり、部屋のそうじをするようになったり、少しずつ変わっていくようすが伝わってきました。そして1年ほどしたある日、突然、本人があらわれて、「いつまでも、こうしていてもしょうがないと思ったので来ました」と言って、その後は定期的に通ってきました。
 何をしていたかというと、おもに絵を描いてもらっていました。中井久夫先生の風景構成法(*5)を入れながらやっていくと、少しずつ風景が変わっていきました。彼は結局、学校へは戻りませんでしたが、学校には「少しずつ成長しているように思うから、よろしくお願いします」と伝えて、ちゃんと卒業はさせてくれました。卒業後は、東京の美術専門学校に行って、彫刻家になりました。私も彼の絵は見ていたんですが、美術的観点はなくて、その道に進むとは思いもよらなかったです(笑)。ただ、彫刻で食べていくのは厳しかったので、ほかの仕事をしながらですが、ときどき個展を開いていて、案内が来ます。大人になってから会ったとき、「あれはどういうことだったんだろう」と聞くと、「それは今でもわからない」と言っていましたね。それが、私が最初に出会った不登校でした。

山下:臨床医としての当初、不登校については、どのように考えておられたんでしょう?

山田:登校拒否という言葉でしたか? 学校恐怖症や不登校ではなく。

滝川:登校拒否でした。ただ、あまり登校拒否というところから見ていたという感じではなかったですね。分類して、そこで見ていくというよりも、その子を見ていくというのが、治療の基本ですしね。


●学校へ行く意味は?

 70年代末に出会った、別の高校生の女の子のケースで言いますと、彼女の場合は、こういう理由で学校に行けないということが、心理学的に説明できる、よくわかるケースでした。しかし、少しずつ彼女が抱えている問題が解決して、元気になって学校へ戻っても、続かないんですね。それは、当初は不思議に思えました。治療がまずいのかな、見落としがあるのかなと思っていたんですが、ふと思い当たったのは、学校に戻っても、勉強についていけなくて、いわば「お客さん状態」になってしまっていた、ということでした。それでは続くわけがない。
 当時はすでに、勉強がわかってもわからなくても、学校に行って座っていること自体に意味があるという時代ではなくなっていました。心理学的な問題が解決したからといって、続かないのも当たり前だなと気がつきました。あらためて、一人ひとりの子にとって、学校へ行く、学校にいることに、どんな意味があるのかを考えないといけないと思って、子どもが学校へ行く意味とは何なのかを考え始めました。
 それまでの不登校の議論では、学校を休む意味ばかりを考えていたんです。学校を休むからには原因がある。それを親子関係に求めるにしても、学校の管理教育や戦後民主教育に求めるにしても、いずれにしても原因があるから不登校があると考えていたわけです。しかし、そうではなくて、そもそも、なぜ子どもが学校へ行くのか。
 給料も出ないのに、毎日、学校へ行くというのは、けっこう大変なことです。何か理由や動機があるはずです。不登校というのは、学校へ行く理由や動機づけが失われてしまう、見えなくなってしまうことから起こってくる現象ではないかと、見方が変わってきたんですね。

貴戸:それは、渡辺さんのような反精神医学的な見方とは、どうちがうのでしょうか?

滝川:反精神医学が意義のある主張だったのは確かですが、私からしますと、渡辺先生は、少しイデオロギーが勝ちすぎていたのではないかと思います。「反精神医学」よりも「反学校」ですね。学校が子どもにとって管理的で抑圧的な場になってしまっているという見方で、現実を一色に塗りつぶしてしまった。思いが強すぎて、そちらに引き寄せすぎていたというのが、私の率直な印象です。頭のなかに、どこか「理想の学校」みたいなものがあったんでしょうね。ほんとうに一人ひとりの子どもが見えていたのかなと疑問にも思っていました。

山田:なるほど。それがフリースクールなどにつながったわけですね。理想の子育て、理想の教育像があるから、必要以上の批判になってしまった面もあると?

滝川:そう思います。ただ、逆もあるんですよね。渡辺先生を左派としますと、反対に、右派からの学校批判もありますね。戸塚ヨットスクールの戸塚宏さんなんかも、そうでしょう。

山下:その場合は、家庭に問題を求める向きも強かったですよね。

貴戸:理想が強すぎると、臨床現場で出会う子によい影響を及ぼさないのでしょうか?

滝川:もちろん、渡辺先生と出会って、それまで学校に行かなきゃいけないとあせっていたのが、「学校に行かないほうが健康だ」と言ってもらって、ホッとしたということはあったと思います。一方で、なんとか学校に行けるようになりたいと思って行ったのに、それ自体を否定されて傷ついたという子どもたちもいましたよね。そういう面はあっただろうと思います。

山下:反精神医学的な見方への違和感というのは、最初から持たれていたものですか?

滝川:どこかぴったりこない感じはありました。渡辺先生が言うほど、ほんとうに学校は校則や試験で子どもをがんじがらめにして抑圧しているんだろうか、と。

山下:そういうあたりから、不登校を問題にして論争するのではなく、そもそも学校へ行く意味そのものを問い直されていったわけですね。そこで「学校の聖性」とおっしゃってますが、これはどういうことでしょうか。


●学校の聖性

滝川:たとえば、教科書を廃品回収に出すなんて、ある世代まではできなかったですね。兄弟があれば下の子が使うとか、そうでなくても取っておく。台風で避難するときには、子どもたちはランドセルに教科書を詰めて避難した。そういうリクツ抜きの感覚がありました。ところが、私の体験でも、引っ越すときに息子に「いらないものはできるだけゴミに出しなさい」と言ったら、そのゴミのなかに中学校の卒業証書が入っていて、びっくりしたことがあります。リクツでは高校に入ったら不要になるわけです。しかし、みなさんはどうでしょうか? 私には、やっぱり卒業証書を捨てるのには抵抗がありました。
 学校を休むこともそうですね。みんなが学校に行っている時間に、自分が学校にいないこと、理由なしに休むことはいけないこと、とんでもないことでした。ある時代、ある世代までは、学校というのは大事な場所で、尊いものだという意識がありました。それが定着しているときは、子どもは、よくよくのことがあっても、学校を休まなかったわけです。その結果、長欠率もどんどん減っていました。ところが、ある時代から、学校をリクツ抜きに尊いものだという意識は社会から減っていきます。子どもより先に、大人の側から、そういう意識が消えていったんですね。

山下:しかし、「英語で鯛は釣れん」という時代は、学校への思いはそんなに強くないですね。戦前と戦後でもちがうと思いますが?

滝川:戦前にも学校の聖性はあったと思います。たとえば1872年の「学事奨励に関する仰せ出され書」(学制序文)ですね。学問こそが身を立てる基本で、学校を門戸にして、私たちは初めて高い存在になれるし、豊かな社会を築ける、ということが書かれています。実際に、非常に貧しい社会のなかで、人びとが個人的にも、社会全体としても、豊かになるには、学校は唯一の貴重な回路だったわけです。いまみたいに、これだけ情報化されてしまえば、高度な情報にいくらでもアクセスできますが、以前は、学校を通じて、初めて学問や知識にアクセスすることができたわけです。そういう意味で、学校というのは、かけがえのない、ほかに代わるもののない大事な場所という時代があった。もちろん、学校に行けば誰もが豊かになれるわけではないことは知っていたわけですが、その可能性に開かれていることが大事だったわけです。
 そういうなかでは、子どもたちにとって学校に行くことは、リクツ抜きに大事なことだった。そういう意識が根づいていたわけです。その意味で、戦前のほうが、学校の聖性は純粋なものとして定着していたんだと思います。学校に行って、こういうスキルが身につくからということではなくて、行くこと自体に聖性が生きていた。
 戦後になると、それが、よくも悪くも実利的なものになっていきます。ただ、60年代までは、戦前からの聖性と実利性がうまくセットになっていたんだと思います。


●高度消費社会と学校の価値

貴戸:60年代に問題となった学校恐怖症の子どもたちの場合、学校の聖性を内面化して、行かなければと思いつつ、なぜか行けなかったわけですね。しかし、学校の聖性が弱まるなかで、そういう臨床像がバラけていったということでしょうか。学校へ行く意味が見いだせなくて休む、というように。

滝川:学校の聖性が社会に生きているときは、行く意味が見いだせないという意識は生まれませんね。行くこと自体に意味があるわけですから。ピタゴラスの定理がいったい何の役に立つのかとか、そういう意識自体が生まれない。戦後になると、たんに聖性だけではなくて、そこに実利性がリンクしてきて、一時期はそれが機能していたわけです。しかし、その後、学校に行くことの実利性が下がってきた。どういうふうに下がったかというと、ひとつには、工業社会から高度消費社会に、社会の基本構造が変わったということがあります。つまり、労働のあり方が変わった。
 社会のなかで何が価値とされるかというと、労働に役に立つものが価値とされるわけですね。工業社会では、勤勉に働くことが生産性につながり、それが社会の豊かさにつながっていた。しかし高度消費社会では、基幹産業が消費産業ですから、勤勉はあまり価値にならない。むしろ、一人ひとりのお客さんのニーズや欲望・欲求を満足させることが価値になります。そして、さらにその欲望をふくらませていかないといけない。「こんなものもほしいでしょう。これはどうですか」と提示して、欲望をふくらませて、それを充足させていく。
 高度経済成長の時代は、みんなが同じものを持てるようになることが大事でした。しかし高度消費社会では、自分はこんなものがほしいと、欲望が個人化・私化していく。サービス産業は、一人ひとりにサービス感、心地よさを与えないといけない。不快を与えてはいけない。それが高度消費社会の価値観です。
 そうすると、学校教育がそれに応えるのは難しい。そもそも公教育は、全員に同じもの、同じ体験、同じ知識を与えることを大きな目的としてつくられたものですね。一人ひとりが自分の欲求を追求するなかでは、学校教育のシステムは、すんなり受けいれられなくなってきますね。そのあたりから、学校の聖性は失われていかざるを得なかったわけです。
 それに、消費産業は、個別サービスですから、集団で協力する意味もないですね。学校でみんなで力を合わせてというのは、消費産業のなかでは役に立たない。協調性とか、勤勉性は価値ではなくなってくる。そうすると、学校で培うものと、実際に社会に出て労働の場で求められるものとのあいだに亀裂が入ってくる。学校でこんなことをしていて、何の役に立つのか、何のメリットがあるのか、どう将来につながるのかが見えなくなってくる。学校に行く意味がわからなくなってくるわけです。そこで、昔だったら、この程度のことでは休まなかった、というようなことで、子どもたちが学校を休むようになってくる。
 それと、もうひとつには、渡辺先生のような学校批判が、学校の聖性にとどめを刺したところがあったと思います。学校は悪い場所である、むしろ学校に行かないほうに価値があるという主張が、学校は大事な場所なんだ、勉強することは大事なんだという意識を、突き崩したところがあったと思います。

山下:そういった変化に気づかれたのは、いつごろでしょう?


●長欠率のカーブ

滝川:70年代半ばに、それまで下がっていた長欠率が逆転して上がり始める。そのことに気づいたのは、情緒障害児短期治療施設(以下、情短施設)にいたときでした。情短施設は、法律的には12歳未満を対象としてつくられた施設で、小学校の不登校を念頭につくられた治療施設ですね。私が関わり始めたのは84年ごろで、そのころには、不登校はむしろ中高生の問題になっていて、中学生の受けいれの必要性が高くなっていました。実際に中学生も入っていましたが、厳密には法律違反の状態でした。
 しかし、80年代に入って厚生省(現・厚生労働省)が中学生まで受けいれていいという通達を出します。きっかけは戸塚ヨットスクール事件(*6)でした。戸塚宏校長が「社会は自分を非難するけれども、じゃあ中学生は誰がみるのか。どこもやってないじゃないか」と抗弁したんですね。行政としては図星で痛いところを突かれたわけです。そこで、情短施設の対象年齢を引き上げたわけです(※その後、98年の児童福祉法改正で20歳まで入所可能となっている)。
 しかし、実際に中学生が入れるように部屋を改修したり、中学生の分教室をつくるためには、行政を説得できるデータが必要でした。それで、中学生の長期欠席者数を調べ始めました。そうしたら、たしかに増えてはいたんですが、いつごろから増え始めたのかとさかのぼると、以前はずっと多かったんですね。そこで、これはどういうことか、これをどう説明できるのかと考えたのが、きっかけでした。また、名古屋市と全国を比べると、あるときから、名古屋市が全国よりも増えていく。それまでは長期欠席はどちらかというと地方の現象だったのが、ある時期から都会の現象になっている。大づかみに言えば、長期欠席が社会的後進性の問題から近代性の問題に転換したのです。長期欠席の意味、学校を休むことの背景がここで大きく変わったんだろうと考えました。そこで、不登校の増加と近代化が、どこかでつながっていると考え始めたんです。
 もともと学校というのは、社会を近代化するためにつくられた制度ですね。実際に、学校を通じて、どんどん社会の近代化が進められていった。そうとすると、近代化が達成されたことで、学校の役割は終わったと言えるんじゃないか。学校は役割を果たしきったために、学校に行くことの値打ち、学校の存在価値が社会のなかで下がったんじゃないかと考え始めたんです。
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山田:長欠数の推移をどう読むか。このグラフだけで、ほんとうに、いろんなことが考えられますね。

貴戸:女子労働力率や離婚率の変化も、長期的に見るとU字型を描きますね。前近代的な女性労働や離婚が減っていき、近代化の達成とともに底を打ったあと、今度は近代的な理由から増加していく。長欠率もそれと同じで、社会の変化を映し出していますね。

滝川:長期欠席が増えたと言っても、そちらだけを見ていると片手落ちで、裏を返せば、そうは言っても、9割以上の子は毎日学校に来ているわけですね。それはどういうことなのか。一番の理由はおそらく、ほかに行く場所がないからだと思います。
 幼児期までは、基本的には親の懐のなかにいて、そこで成長することが大事です。保育園や幼稚園というのは、いわば親の懐の延長ですね。小学校は、いよいよ親の懐から離れる体験ですね。親の懐を出た先の社会として、小学校がある。
 しかし、私たちが小学生のころは、学校から帰ってきてからが、子どもの世界の始まりでした。帰宅後、地域の異年齢集団で遊んだりケンカしたりしていた。ですから、ある時代までの子どもにとっての社会は、ひとつが学校で、もうひとつが地域の遊び集団の世界だったわけです。重なっている部分もありますが、二つの世界からなっていた。
 ところが、高度経済成長が終わって、高度消費社会に入るにつれて、社会から学校の外の子ども集団の世界が消えていきましたね。子どもが社会体験をする世界が学校しかなくなった。子どもにとって、社会的な居場所をつくるのは、成長のために必要不可欠なことです。しかし、その場所が学校しかなくなってしまった。そうすると、勉強以前に、親の懐を離れた社会的な体験が得られる場として、学校へ行くしかない。そのために、9割以上の子どもは学校に行っているのでしょう。学校でしっかり勉強して、いい大学に進みたいというのは、全体のなかでは一握りです。むしろマイノリティと言っていい。大部分は、ほかに社会体験の場がないから、学校に来ているんだと思います。ですから、子どもたちにとって学校は居場所として不可欠な場で、学校がなくなればいいということではすみません。
 しかし、子どもは学校で人とまじわることを求めているのであって、学校が本来の役割として与えられている、アカデミックスキルを身につけるとか、集団体験をするとか、勤勉に努力するとか、そういうものを求めているわけではないですね。そこにギャップが生まれていて、学校は、子どもにとってストレスの大きな場所になっているのだと思います。
 昔は、わからなくても座って授業を聞いていること自体に価値があったわけです。仏教を深く信じている人が、お経の内容はわからなくても、ずっと座って聞いていることに価値があったのと同じですね。なかには、力と意欲があって、内容を理解していく人もいるけれども、理解しなくても、座って聞いていることに意味があったわけです。ある時代までは、学校体験、学校の授業とはそういうものだった。しかし、いまはそうではないですね。わからない授業なのに、じっと座っていることはストレスでしかありません。まじめに黒板に向かって黙って座って授業を聞いていることが価値とは思えないから、きっかけがあれば騒ぎ出すし、私語することも多くなる。学級崩壊も起きるわけです。そこで、何かつまずきがあれば休みだしてしまう。

山下:でも、怠学というのは昔からありましたね。

滝川:もちろん昔から、ある割合で怠ける子はいたわけです。非行で学校で暴力沙汰を起こす子どももいましたね。でも、それは聖性や秩序に対する反発の色の濃いものでした。一種の確信犯的な子だけがしていました。一般の生徒が逸脱することはなかった。ところが、いまは誰でもが逸脱してしまう。それもハッキリした反発や反抗ではなくて、つまらないからとか、ささいなフラストレーションから、すぐ遅刻したり、休む子が増えている。さらに、そのなかでストレスを解消しようとすると、そのひとつのかたちとして、いじめが出てくる。いまのいじめは、どこまでが遊びで、どこからがいじめなのか、線がハッキリしないですね。基本的には、現在のいじめは、キュークツで退屈な、やっていることに意味を感じられない学校生活に対するストレス解消として、出てきていると思います。


●不登校と診断名

山下:不登校には「学校恐怖症」「登校拒否」など、さまざまな診断名がついてきましたね。ご著書(『学校へ行く意味・休む意味』日本図書センター2012)で、診断名には、休んでもいいという免罪符的な役割、意味があったと書かれていますが、70年代後半以降、臨床像が変わってくるなかで、診断名については、どう考えてこられたのでしょうか。

滝川:まず、そもそも精神医学における診断とは何かを考えないといけないと思います。内科における診断と精神医学における診断は、同じ「診断」という言葉を使っていても、まったく別のものです。内科の診断というのは、病因、病巣、病理、この3つが同じものを、ひとつの疾患としてカテゴライズします。たとえば、結核菌という病因を特定しますね。そして、肺に起きていると病巣(場所)を特定する。そして、結核菌が増殖して肺組織が壊死するなど病理(病気のメカニズム)を解明する。この3拍子がそろって、「肺結核」と診断できる。
 このように近代医学の診断には、症状は入ってないんです。なぜなら、症状というのは、しばしば主観的ですね。「頭が痛い」「だるい」と言っても、ほんとうなのか、あるいはどの程度なのか、わからない。熱のように客観的な症状もありますが、非特異的で、カゼのときも結核のときも出る。症状による診断は客観性に乏しいわけです。そのため、現代医学では症状による診断は科学性に弱いとして捨てている。
 それに対して、現代の精神医学の診断は、症状による診断です。たとえば「落ち着きがない」「じっとしていられない」などの症状のリストをつくって、そのリストのなかの症状が5つ以上あったらAD/HD(注意欠陥・多動性障害)などと診断しているわけです。同じ診断といっても、とらえているものがちがうわけです。
 精神医学でとらえているのは、患者さんの行動や訴えですね。どういう行動をするのか、どうふるまっているのか、何を訴えているのか。それらを組み合わせて、診断している。ですから、それが本当にひとつの病気のカテゴリーかはわからないですし、多くの場合は主観的です。誰かの声が聞こえるとか、誰かが自分のことを見つめているとか、みんなが自分のことを嫌っているとか、ぜんぶ主観的なものでしょう。あるいは、同じ寝込んでいる状態でも、うつ病の場合もあれば、統合失調症の場合もあって、非特異的です。精神医学の診断は、厳密な意味で同質性を持ったものとは言えないのです。
 ですから、DSM(*7)でも、disease=疾患とは言わず、ぜんぶdisorderになっているんです。disorderというのは、標準的なあり方からズレているということですね。厳密な意味では病気の分類ではない、と言っているんです。しかし、disorderは日本語では障害と訳されていますから、混乱を招いてますね。
 不登校というのも、あくまで行動から捉えたものですね(DSMには不登校というカテゴリーはありませんが)。身体疾患とか、外的な事情は見いだせないにもかかわらず、学校へ行っていない。学校に行っていなくても、本人がそれで納得していれば、別にいいわけですが、そのことで本人が悩んでいる。あるいは、本人が平気でも、家族が悩んでいる。それが本人の悩みや生きにくさを生み出している、そういうものを不登校と名づけているわけです。これは、肺結核やがんという診断とは、まったく次元がちがうものだという理解が必要ですね。

山下:なるほど。不登校について、情緒障害という診断名もつけられてきたと思いますが、これについてはどうでしょう。


●混乱を招いた情緒障害

滝川:情緒障害というのは、emotional disturbanceの訳語です。順を追って話しますと、神経症(neurosis)という概念は、身体的・生物的な異常はないけれども、メンタルな失調が起きるものを言います。神経症は大人の精神障害の臨床概念だったんですが、子どもにもそういう状態は起こる。そこで、小児神経症という言葉が使われるようになったんです。佐藤修策先生の「神経症的登校拒否」というのも、そうですね。しかし、厳密に考えると、すでに一定の精神形成がなされた大人が環境との関係のなかで失調を起こす神経症と、まだ精神発達途上の子どもが失調を起こすものを、同じ神経症とカテゴライズするのは妥当性を欠くという指摘があって、そこで出てきたのがemotional disturbanceという概念でした。これは、子どもの情緒的な活動や成長が、なんらかの環境的要因によって、さまたげられている状態を指す言葉です。ホテルのドアなんかでも、「don't disturb」とありますね。あれと同じです。この場合も、disturbanceを障害と訳してしまったのが混乱のもとだったと思います。

山下:情緒障害の状態像は、不登校と関係していたんでしょうか?

滝川:常識的な意味では欠席の理由が見当たらないのに学校を休む小学生が出てきて、それを神経症的な問題と捉えたものが、emotional disturbanceにカテゴライズされたと言えます。

山下:年代的には、いつごろでしょう?

滝川:昭和30年代だと思います。勉強も好きで家庭環境もよく、先生や友人との関係もうまくいっているのに、なぜか学校へ行けない小学生が出てきたのです。そのころ、ひとつはロジャーズのカウンセリングが入ってきましたね。もうひとつは、ロジャーズのお弟子さんのアクスラインが子どもの遊戯療法を導入した。それから、河合隼雄先生がスイスからユング派の心理療法や箱庭療法を採り入れてきた。とくに、遊戯療法や箱庭療法は子どもを対象とした療法で、子どもの心理療法の考え方が日本にも導入されてきました。でも、それはまだ専門家のなかの話で、いまのように、誰もがカウンセリングやメンタルケアという言葉を知っている時代ではなかったですね。

山下:自閉症の場合でも情緒障害学級がつくられていましたが、emotional disturbanceと自閉症は別ですよね。

滝川:まったく別ですね。自閉症を情緒障害と呼んだのは、教育の世界なんです。アメリカの児童精神科医カナーが自閉症をはじめて報告した論文のタイトルが「Autistic disturbance of affective contact」でした(1943年)。情緒的な対人接触が、自閉性によってさまたげられている、という意味です。ここから「情緒障害」という用語をつくったんでしょう。これも混乱のもとでしたね。


●情短施設の経緯

山下:情緒障害児短期治療施設ができたのは、不登校に対応するためだったんでしょうか?

滝川:1962年に全国で3カ所(大阪、岡山、静岡)できたのが最初ですね(現在は37カ所)。そのころ出てきた、小学校低学年の不登校と、小学校低学年の非行を対象とした施設でした。どちらも、いままでの児童福祉では出会わなかった現象でした。不登校も、従来の貧困などを理由とした長期欠席や怠学では理由のつかない現象でしたし、非行も、従来は思春期の問題で、家庭状況に問題を抱えていたり、生活困難を抱える子どもの問題だったのが、恵まれた家庭で、大事にされているのに小学校低学年で万引きしたり、家のお金を持ち出してしまうなどの現象が出てきていました。そういう理由のわからない現象に対して、これはなんらかの神経症的な心理学的な問題だろう、情緒障害(emotional disturbance)の問題だろうということで、この二つをおもなケアの目的としてつくられたんですね。

山下:短期というと期間は?

滝川:原則3カ月で、長くても6カ月というのが最初ですね(※2011年現在の平均在園期間は2年4カ月)。

山下:入所型(宿泊型)になったのは、不登校=分離不安説から、母子分離をはかるためだったんでしょうか?

滝川:私が調べたかぎりでは、入所型になった理由のひとつは、それまでの児童福祉施設(乳児院や児童養護施設など)が、ぜんぶ入所型だったからです。戦後、つくられた児童福祉のシステムは、非常に貧しい社会環境のなかで、子どもを保護する目的でつくられたものでした。当時は、家から通えるような子は福祉の対象とする必要はなかったんですね。もうひとつは、当時、現れた不登校も年少非行も、都会から出てきた問題だったということがあります。高度経済成長期、都会の近代化が急速に進められて、環境が急変していくなかで、それが子どもにストレスを与えるんじゃないかと考えられていました。子どもの欲望を過度に刺激したり、大人数詰め込み教室だったり、そういう都会の悪環境から子どもを離して、自然に囲まれた環境に置くことで、のびのびできるのではないかと考えられたわけです。それが、もうひとつの理由だったと思います。

山下:disturbしているのは、家庭よりも、都会の環境だということですね。

滝川:社会環境そのものですね。だから、施設に集めて集中的に生活的なケアもするし、専門的な心理治療もする。学校も施設内学級で少人数で、カウンセリングマインドを持った教育をすれば、学校恐怖症の子も教室に入れるだろうと考えられていました。集中的にケアすれば、短期間で回復するだろうというのが最初のコンセプトですね。家庭分離が目的ではなく、週末はかならず帰省させるのが当時の原則でした。

山下:ところが、現実とのギャップが生まれてきたわけですね。いつごろからギャップが出てきたんでしょう?

滝川:実際に情短施設が動き始めたときには、不登校は中学生のほうが多くなって、問題がシフトしていたと思います。それなのに小学生をターゲットとした施設をつくった。物事って、そういうことがありますよね。問題が起きて計画を立てて対応策がとられたときには、すでに事態が変わっている。

山下:ご自身が情短施設に関わり始めたのは84年からということでしたね。

滝川:そうですね。名古屋市のくすのき学園に関わりはじめて、その後、園長になりました。私の場合は、情短施設に関わりながら、一方で児童相談所の診療所の医師でしたから、両方の事情がよくわかる立ち位置にありました。当時、児童相談所が、こういう子どもを受けいれてもらいたいという要望と、施設側の考えにはギャップがあったんですね。児童相談所としては、小学生の不登校や軽度の非行だったら、当時はもう在宅支援で対応できるわけで、むしろ、家庭基盤の崩れている、いまで言えば「虐待」にあたる子どもこそ、入所治療でやってもらいたかったわけです。しかし、施設側としては、それは元来の目的ではないし、法律上は12歳未満で短期が対象ということになっていましたから、厳密に言えば法律違反になってしまう。そこにズレがあったんですね。
 また、家族の側も、ものものしい名前の施設で、しかも入所は措置になりますから行政処分になる。とても大げさなことで、まだ年端もいかない小学生の子どもを、短期間とはいえ、手元から離して入れたい親は、そうはいませんでした。
 私は両方の言い分がわかるので、両方に、それぞれの事情を理解してもらって、タテマエはともかく、実際に困っているのは家庭基盤の崩れたなかで心理的問題にぶつかっている子どもたちでしたから、少しずつそちらを増やしていこうとしていました。そのうち、中学生が公式に認められて、先ほど申し上げたように、中学生の部屋や分教室をつくってもらって、対応できるようになりました。また、通所枠を増やして、中学生の不登校は通所でケアするようにしました。そうやって、入所対応は家庭基盤に問題のある子にシフトしていきました。

山下:情短施設には反対運動もあったかと思いますが、そのあたりは?

滝川:88年に横浜で情短施設(横浜いずみ学園)がつくられた際、反対運動がありましたね。私たちとしては、実際に情短施設がどういうものか知っていただこうと、バスツアーを組んで、くすのき学園に招待して、施設や子どもたちのようすを見ていただいたこともありました。そんな、とんでもない施設ではないんですよ、と。
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山下:不登校に情緒障害という診断名がつくことへの反発、精神科における診断名が、ラベリングとして機能してしまうこともあったのではないでしょうか?

滝川:そうですね。診断名とは何であれ、すべてラベルです。しかし、診断名というのは、その人につく名前じゃないんですね。あくまで、その人の行動をいくつかセットにすると、あるカテゴリに入るというのが診断名です。たとえば、「太郎くんは自閉症です」というのは、ほんとうはおかしいんです。太郎くんが自閉症という存在なわけではないですからね。人とうまく関われないとか、感覚が過敏だとか、そういう行動の特徴に診断名がつくわけです。しかし、なかなかそういうふうには理解されなくて、どうしても日本語では、「太郎くんは自閉症です」というように、太郎くん=自閉症のようになってしまう。

山下:なるほど。それから、戸塚ヨットスクールの戸塚校長も情緒障害という言葉を使っていましたね。

滝川:戸塚さんの言う情緒障害児は、英語ではemotional troubled childrenという英語があてられてましたので、「情緒的にトラブっている子どもたち」という意味で、また別内容ですね。
 戸塚ヨットスクールについては、少し事情を知っていた管轄の児相の所長から聴いた話では、最初はよかったんだそうです。児相でケースを選んで紹介していたそうです。実際に、自然のなかでヨット訓練をして、それで自信がついたり、乗り越える体験をしたりして元気になっていく子どもはいたんですね。また、そのころは、ふつうのヨットスクールとして開いているなかで、不登校や家庭内暴力や非行の子たちも受けいれていた。ところが、有名になって、メディアが持ち上げたでしょう。そこから、アセスメントなしに、直接、申し込みが殺到するようになって、そういう子に特化した施設になっていった。そこから、いろんな問題が出てきたんだと思います。

山田:わが子をヨットスクールに入れて鍛え直してほしいと願った親たちが、少なからずいたのも事実ですね。
 かつて、大阪の親の会で知り合った中学生の子が、戸塚に電話したそうなんですね。その子が言うには「戸塚さんって、いい人だよ」と。「僕の話をじっと聴いてくれて、最後に、うちに来られなくなった子は精神病院に入れられるんだよ。それで直ると思うかね。もっとひどい処遇になってるんだ」と、くやしそうにその子に語ったと言ってました。
 戸塚には、彼なりの人間観、教育観があるのでしょう。それにも「よい点があった」と美化するのではありません。ただ、一方では、精神病院が多くの不登校児を受けいれたり、薬を処方していた事実があります。親子関係の問題と決めつけて、親と子をともどもに苦しめた精神科医や心理療法家がたくさんいたことも忘れてはならないと思います。


●稲村問題をめぐって

山下:88年に稲村博さん(精神科医)の「登校拒否症は早期に治療しないと30代まで尾を引く」という見解が朝日新聞夕刊の1面トップに出て大問題となりましたが、いま振り返って、この件については、どのように思われてますでしょうか。

滝川:これまで申し上げたように、診断名というのが、あくまで行動についている名前だということが充分にわかっていれば、そんなに揉めることではなかったと思います。学校に行けない、人と会うのがつらいなどの行動や特徴を、不登校と呼ぼうと、情緒障害と呼ぼうと、○○症候群と呼ぼうと、本質的な問題ではありません。ただ、精神分裂病が統合失調症になったように、語感として響きのよくないものは、社会的な意味で避けたほうがいいことはありますね。それは妥当なことだと思いますが、それ以上に呼び名にこだわることはないと思います。

貴戸:当時、稲村さんの見解は、親にとって、一般論として受けとめられるものではなかったんじゃないでしょうか。わが子が30代まで尾を引くんだと言われたと受けとらせるような、社会的力学もあったように思いますが。

滝川:稲村先生がおっしゃったこと自体は事実で、実際に、不登校していた人で、そのままひきこもって30〜40代になっている人はたくさんいるわけです。それが望ましいことかどうかというのは、価値観の問題ですね。ひきこもっていたっていいじゃないか、それもひとつの生き方だという意見はあると思います。でも、それはまずいんじゃないか、ほんとうに本人は幸せなのか、と考えるのも、否定してはいけないことでしょう。登校拒否は学校状況が悪いから起こる問題で、学校に行かなくても当然だという認識に対して、それではすまないと、稲村先生としては言いたかったんだろうと思います。

山下:一方で、無理な入院治療が問題にもされていましたね?

滝川:そうですね。しかし、そのあたりは、実際にどうだったのかをよく知らないので、コメントできません。


●聖性なき学校の行方は

山下:今後について、うかがいたいと思います。かつてのように学校が聖性を持つことはないかと思いますが、この高度消費社会のなかで、学校へ行く意味は何なのか、あるいは学校と社会の接続はどうあったらよいのか、そのあたりはいかがでしょう。

滝川:ねじを巻き戻すことはできないですし、何もかも昔がよかったわけでもないですからね。多くの子どもたちは、学校で勉強すること自体に価値や意味を見いだすことができないけれども、ほかに居場所がないので、やむを得ず学校に来ている。それはストレスの大きいことですね。それがいろんな問題につながっている。ですから、ひとつには、学校しか社会的な場がないということを、なんとか変えていく必要があると思います。
 学校は当初の役割を果たし終えたわけですが、なくせということではなく、縮小していくことが必要だと思います。朝から夕方まで毎日というのを、もっと減らして、それ以外の子どもたちの社会的居場所をつくっていく。そこでは勉強ではなくて、子どもにとって、意味のある体験に取り組めるようにする。そうすると、それは子どもによってちがいますから、いろんな種類のものが必要ですね。
 それから、もうひとつには、集団のあり方を変えていく必要があると思います。いまの子どもたちは3歳ごろから保育園に行って、集団で成長していますが、ぜんぶ同年齢集団ですね。ずっと同年齢集団のなかで大人になっていくというのは、長い人類の歴史を考えたら初めてのことで、とても不自然なことです。子どもにとって同世代の友人は絶対に必要ですが、同世代オンリーになってしまっているのは、かなり、やばいんじゃないでしょうか。きわめて均質な人間関係のなかだけで育っていく。そうすると何が起こるかというと、小さなズレやちがいに、必要以上に過敏になってしまうわけです。ですから、いまの子どもたちは、人とちがうことをすごく恐れますね。子どもだけじゃなくて、大人もそうなってますね。片方では「個性尊重」や「多様性」と言いながら、実際には、人と自分がちがうことを、すごく恐れている。
 もう少し、いろんなものが混ざり合っている集団が必要じゃないでしょうか。僕らのころは、異年齢集団がその役割を果たしてくれていました。そういう集団体験が必要だと思います。
 もうひとつは、大人との関わりが少なくなっていますね。子どもが出会う大人は、親か学校の先生しかいない。そして先生とのつながりも薄くなってますね。大学生に小学校からの担任の名前を聞くと、言えない学生がけっこういます。子どもが大人になるには、大人と関わる体験が必要です。とくに思春期以降では、親の懐を出て、親以外の大人と親密に関わることが必要で、子どもは、それをモデルにしたり反面教師にして、大人になっていきます。それが同年齢集団のなかにいると、そういう経験が乏しくなってしまう。これは、やはり不自然なことだと思います。戦前だったら、思春期になれば大部分は働いていて、働いている大人に鍛えられたり、導かれて大人になっていったわけです。そのあたりを何とかしないといけないと思いますね。

山下:子ども扱いする学校に閉じ込められているわけですよね。

滝川:高校生まで小学生と同じ生活スタイルで過ごすわけでしょう。それは、どう考えても無理があります。

山下:親の懐という言葉が何度か出てきていますが、その懐の機能も、厳しくなっているように感じます。学校も家族も個人化して、消費社会に浸食されているように感じます。家族のあり方については、どうお考えでしょう?

滝川:昔は家族どうしのつながりが地域共同体のなかにあって、その土台の上に、子どもの異年齢集団もありました。いまは、家族どうしのつながりがなくなって、それぞれの家族が孤立して子育てをしていますね。家族だけの世界というのは、一面では、親の思いを子どもに集中できる世界で、こまやかに育てられている面もあります。昔に比べれば、子どもたちはデリケートに、おだやかに育っていると言えます。しかし、逆に言うと、ひとたび親が子育ての力を失うと、一遍に厳しい状況になりますね。これが「虐待」というかたちにもなる。個々の家族の子育てが社会から守られてない、社会とのつながりを失っている。そこをどうしていくかは、とても大きな課題ですね。

山下:家族がブラックボックス化してしまってますよね。

滝川:これだけみんなの意識が個人化してしまうと、昔の地域共同体の回復は難しいですが、そこで失ったものは大きいですね。それに代わるものをどうやってつくっていくかは大事な問題だと思います。


●個人化社会のなかで

山田:話は戻りますが、長欠率の推移で言うと、2001年に不登校の数がピークになって、その後は高止まりで横ばいで推移してますね。それまでは、このまま不登校の数がうなぎのぼりになっていくと、私たちは思っていました。しかし、それ以上は増えなかった。これは大事な点だと思います。それは、先ほどおっしゃっていたように、学校以外に行く場所がないからでしょうね。もうひとつには、みんながいる場所につながっていたいという気持ちがあるんだと思います。これは、まっとうな気持ちだと思います。家でも安住できないということがありますから。しかし、そういうなかで、それらの気持ちが混ざったような、子どもからすると、どこにどう反抗すればいいのかわからないような、もやもやとした状態が続いているようにも感じます。そういうなかで、わけのわからないことが出てくるような不安感を私は持ってます。
 それから、学校を学びの場としてよりも生活をともにする場に、というのは、イメージとしてはわかるけれども、現実のいまの学校は、どんどん教科の数も勉強時間も増えて、「あれもいる、これもいる」と突っ込まれる状況になってしまっている。これは具合悪いなと思いますね。

滝川:学校になんでもやらせようとしすぎてますよね。

山田:イギリスやドイツでは、学校以外にスポーツクラブや教会なんかがありますからね。日本では、そういうものがないなかで、「学校だけではない」と言いつつ、実際には学校以外がないというのは、子どもにとってピンチだなと思いますね。

滝川:そうですね。

貴戸:不登校も個人化して、あなたの人生の選択だということになっている。社会に問題を帰すのではなく、個人で解消するリスクになっていて、そのことの息苦しさを感じます。学校以外の場所としては、渡辺位さんの言説を根拠に、親の会やフリースクールなどの運動も立ち上がってきましたが、それについては、どのように?

滝川:いま、親の会などの運動はどういう方向になっているんでしょう?

山田:親の会は曲がり角に来ていると思います。不登校が母親の育て方のせいだと責められるなかで、90年代いっぱいくらいまでは、母親たちが、そのことを真剣に問い直すエネルギーがあったように思います。でも、いま思えば、その担い手となったのは、どちらかというと裕福な家庭の専業主婦ですね。いまは、新しく入ってくる親は少なくて、一方で、厳しい家庭、母子家庭、貧困層の長欠率も上がっています。そこでは親の会は成り立たないんですね。ただ、私はやっぱり、親どうしが交流できる場は必要だと思ってます。バラバラになってしまうと厳しい。親たちが同じレベルで話し合えて、場合によっては子どもをあずかってもらえるような関係は必要だと思って、細々と続けてます。

山下:子どもにとって、学校ではない社会は、いずれにしても必要だと思います。ただ、学校/不登校の対立構造は、高度消費社会のなかで消えてきています。そこで、いままで活動してきた居場所や親の会は、どうやっていけるのかが問われていると思います。台風一過の話ではないですが、これまでのものが成り立たなくなってきているがゆえに、できることもあるのかなと思います。

滝川:精神医学について言いますと、反精神医学の主張はリーズナブルなものだったと思いますが、それがだんだん理念化して、イデオロギー化していくと、極論になって先鋭化してしまいますね。運動というのは、どうしてもそういうところがあります。そうすると、そもそも精神障害なんてものはないんだ、精神医療という存在自体が悪なんだと、自己否定まで進んでいってしまう。しかし、それでは自縄自縛になって、身動きがとれなくなってしまう。そこで行きづまってしまったところがあると思います。そして、そうなると、揺り戻しが来るわけです。その後の精神医学の流れは、むしろ、精神障害の個人化が進んでいます。

山下:力動精神医学から脳の問題になって、クスリ一辺倒になってますよね。そこには社会や関係を問う余地がない。

滝川:そうですね。渡辺先生が、不登校について、子ども個人や家族ばかりではなく、学校や教育体制の問題を問うべきだとおっしゃったのは、その通りだと思います。ただ、その批判の矛先が、受験体制や管理教育や、それを推し進める文部省や自民党だということになると、問題がひたすら悪玉づくりみたいになって、ちょっと飛躍や無理が生じる。私は、これまで申し上げてきましたように、不登校が増えた理由というのは、むしろ、社会構造の変化によって学校へ行く意味が揺らいでいて、そこで生じている現象とみたほうが合点がいくと思います。

山田:しかし、社会構造が変化したといっても、すべての子が、サービス産業に適応できるわけではないですね。私自身、大学で歴史を勉強していたけれども、大学院に行かず、板金工作の訓練に行って、そこで救われたという思いが強くあります。具体的に働きかける対象があるというのは、人間の精神にとって大事なことです。いまの社会では、発想の奇抜さや斬新さ、機転のよさみたいなものばかりが求められていますが、そんなことでみんながやっていけるはずがない。
 また、いまは高度経済成長時代にできたインフラがダメになっていく時期で、メンテナンスは個別に細かく手入れしていくしかないですね。私は、そういうところにチャンスの芽を見ています。対人サービスだけではない、働く場所があることが大事です。
 70年代半ば以降というのは、オイルショック後の構造不況のなかで労組がつぶされていって、親たちが職場でもバラバラにされていった。そういうなかで、親が仲間と働く姿を子どもに示せなくなった。そうすると、いよいよ学校にしがみつかざるを得ない。学校教育に期待を込めるというよりも、学校にすがりつくほかなくなってしまった。それが子どもの側からすると、何のために行くのかわからない学校になったんではないか。そういう見方を、滝川さんの議論から与えられたように思っています。

滝川:どんどん人が生産労働から離れていますよね。でも、生産労働なしでは社会は成り立たないですからね。

山下:学校の先生も親も消費者でしかなくなっているところがある。そういうなかで、大人になるとはどういうことか、大人の側が考えるべきことは多いですね。今日は長時間、ありがとうございました。

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*1 本プロジェクト#01「佐藤修策さんに聞く」参照。

*2 力動精神医学:精神現象を生物・心理・社会的な力のぶつかりあいや相互的因果関係の結果として捉える精神医学。狭義には精神分析を指す。これに対し生物学的精神医学は、精神疾患を「脳の病気」と捉える。

*3 渡辺位(わたなべたかし1925〜2009)児童精神科医。元国立精神・神経センター国府台病院児童精神科医長。

*4 木村敏(きむらびん1931〜)精神科医。京都大学名誉教授。元名古屋市立大学医学部教授。元日本精神病理学会理事長/中井久夫(なかいひさお1934〜)精神科医。神戸大学名誉教授。甲南大学名誉教授。/山中康裕(やまなかやすひろ1941〜)精神科医。京都大学名誉教授。

*5 風景構成法:中井久夫によって1969年に創案された、絵画療法(芸術療法)の一つ。

*6 戸塚ヨットスクール事件:戸塚ヨットスクールは、戸塚宏校長が1976年に開設したヨットスクール。厳しいスパルタ式のヨット訓練によって情緒障害などを治療できるとの触れ込みでマスコミにも大きく取り上げられた。79年〜82年にかけて、職員らの暴力などによって5人が死亡し、83年6月、戸塚宏校長は逮捕された。 戸塚校長らは、2人に対する傷害致死、2人に対する監禁致死、その他20人に対する暴行、傷害、監禁などで起訴された。97年、名古屋高裁は戸塚校長に懲役6年の実刑判決を言い渡した。02年、最高裁は戸塚校長の上告を棄却し、判決が確定。06年4月、戸塚校長は満期で出所し、現在もスクールで「指導」を続けている。

*7 DSM:Diagnostic and Statistical Manual of Mental Disorders アメリカ精神医学会によって出版された精神障害の診断と統計マニュアル。現在第5版まで出されている。

【インタビュー:精神科医の最新記事】
posted by 不登校新聞社 at 20:55| Comment(0) | インタビュー:精神科医
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