2016年10月30日

#07 佐々木賢さん

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(ささき・けん)
1933年、中国・瀋陽生まれ。1961年〜1990年まで東京都立高校の定時制の教員として勤務。退職後は、和光大学公開講座講師、東京エアトラベル・ホテル専門学校講師、神奈川県高校教育会館・教育研究所代表、日本社会臨床学会運営委員などを務める。おもな著書に『高校生の意識と生活―戦後30年の軌跡』(三一書房1979)、『学校を疑う―学校化社会と生徒たち』(三一書房1984)、『怠学の研究―新資格社会と若者たち』(三一書房1991)、『親と教師が少し楽になる本―教育依存症を超える』(北斗出版2002)、『教育と格差社会』(青土社2007)、『商品化された教育』(青土社2009)、『教育×原発』(青土社2011)など多数。

インタビュー日時:2016年9月20日
聞き手:山下耕平、山田潤
場所:セントラルホテル東京喫茶店
写真撮影・記事編集:山下耕平

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〈テキスト本文〉

山下:まずは、佐々木さんの生い立ちからうかがいたいと思います。

佐々木:私は1933年に中国東北部の瀋陽で生まれました。旧満州の奉天ですね。父親が満州鉄道の社員だったんですが、私が4歳のとき、1937年に自殺しまして、いわゆる母子家庭で終戦を迎えました。終戦後の満州は無警察状態になって、人が殺されたり、チフスの流行もあって、そこらに死体がゴロゴロしていました。
 引き揚げることができたのは終戦の1年後で、名古屋に行きました。お寺の本堂が開放されて、引き揚げ者の仮設寮になってたんですね。そこで生活を始めました。

山下:ご兄弟は?

佐々木:2つ年上の兄と3つ年上の姉がいて、母と4人家族でした。戦後、母は“担ぎ屋”をやっていました。イモや米などを買い出しに行って、それを売る仕事です。列車に乗って田舎のほうに行くんですが、人が鈴なりになっていて、窓から乗り込んだりして、ようやく買い出してきても、警察の手入れがあると没収されました。「今日は統制があって取られたから何もないよ」とか言ってね。


●少年日雇い

山下:当時、学校はどういうことになってたんですか?

佐々木:旧制中学が1947年に新制中学に変わって、旧制中等学校併設中学というのがあったんです。しかし、私はそのころは少年日雇いで働いてましたから、ほとんど学校に行った記憶はないです。あのころは少年日雇いが多くてね。職安に行くと、天井からつるされたザルが並んでいて、そこに伝票が入っていて、その日の職を探す。「鉄塊」と書いてあった仕事に行ったら、大きな鉄の塊をトラックに乗せる仕事で、私にはどうしても無理だった。そうしたら、近くにいた復員兵が「おまえはいいから、掃除をしてろ」と言ってくれて、親切にしてくれたのを覚えてます。進駐軍のPX(*1)では、広い敷地で草取りなどをしていました。そこで、初めてコカコーラを飲んだ。まあ苦くて、こんな変なものをアメリカ人は飲んでるのかと思いました(笑)。勉強はしてませんでしたが、本といえば教科書くらいしかなかったんで、日雇いから帰ってきて、街灯の下で教科書を読んだりしていました。
 私の友だちは、下関で空襲に遭って、家族も親戚もなくして、小さいころの記憶をたどって、親戚がいるはずだと名古屋まで来ていました。それで、ウロウロしているところを復員兵に拾われて、闇物資を盗む「仕事」をしていました。その後、浮浪児の寮に収容されて、寮母さんが養子にしてくれて、「勉強したいなら定時制に行け」と言ってくれて、定時制高校に来ていました。最近、そいつも死んでしまいましたが、そういう時代で、みんなが苦労していました。



●本屋で働きながら定時制高校に

山田:佐々木さんも定時制高校に通われていたんですよね。

佐々木:中卒後は、本屋の店員をしながら定時制高校に通ってました。川瀬書店という、当時は名古屋で一番大きな取次書店でね。小僧が10人くらいいて、小売店に自転車やリヤカーで配達してました。
 でも、中卒で高校に行くのは半数以下でしたね。友だちからは、うらやましがられました。うちも、生活保護を受けていた時期があったんですが、兄が定時制高校に入ったら、それで生活保護を打ち切られましてね。母は、職業を転々としていました。

山田:中卒で働く人がたくさんいましたよね。当時は、定時制高校という選択肢があること自体、知らない人も多かったんじゃないでしょうか。

佐々木:そうですね。私の場合は、兄が定時制高校に行ってましたから、それで知ったわけですが、教師はずぼらで、ぜんぜん教えてくれなかった。本屋に勤めると言ったら、「本屋はいいぞ、本が読めるぞ」なんて言ってね。しかし、本なんかまったく読めなかった。本を読んでいたら「本なんか読むな!」と怒られたこともあります。
 本屋では朝7時から働き始めて、18時か19時まで残業させられる。定時制は17時からなので、逃げるように学校に行ってました。学校に行けば給食があって、コッペパンと脱脂粉乳が出る。脱脂粉乳にはウジ虫が入っていることもあって、家畜の飼育用だったらしいですが、多くの人が飢え死にしそうだった時代で、アメリカから送られてきたララ物資(*2)に救われた面はあります。

山田:4年で卒業されたんですか?

佐々木:2年生のときに結核になって休学したので、5年かかって卒業しました。その間、同級生が5人死んでます。結核、栄養失調、自殺などで、1年に1人ずつ死んでいく。当時の定時制は、ほんとうに貧乏人ばかりでした。労働組合の組合員もいて、1952年の大須事件で捕まったのもいました。仲間に感化されて、私もだんだん政治づいてきて、朝鮮戦争が始まったときは学校のなかに反戦組織をつくったり、大須事件(*3)で捕まった仲間を釈放しろと拘置所に行ったりで、授業なんかそっちのけでした。先生も「おお、行け行け」という感じでね。そういう雰囲気でした。


●人間どうしの付き合いがあった

山下:高卒後は?

佐々木:結核をしていたので、医者からは「きつい労働はしちゃいかん。事務労働がいいだろう」と言われていました。それで、職安に行って「事務労働希望」と書いて出したら、長いこと待たされたあげく、係官に「そろばんは何級? 簿記は?」と聞かれて、「持ってません」と言ったら「バカヤロー! そろばんも簿記もできなくて事務ができると思うか!」と怒鳴られて、追い返されてしまいました。それはショックで、「生きてちゃいかん」と言われたような気がして、「これは死ぬよりしょうがない」と思って、とぼとぼ歩いて、でも、お袋も悲しむなと思うと家にも帰れなくて、定時制高校の先生のところに行ったんです。
 古木一(ふるき・はじめ)という文学好きの国語の先生で、訪ねたら「そこに座っとれ」というので、半日ずっと座ってました。夕方になって、先生が「俺はこれから授業に行くから」と立ちながら、「なんとかなるよ」と気楽に言ってくれたんです。それで、「そうか、なんとかなるか」と思えた。
 定時制の教員には、管理職を狙う人もいれば、学問肌で大学の先生になるような人もいて、いろんなのがいましたね。そのなかで、生徒思いの人も何%かはいた。もうひとり、国語の田中先生が、結核で寝ているときに見舞いにきてくれて、白隠禅師の『夜船閑話』を持ってきて、「白隠禅師は座禅で結核を治したそうだ。おまえもやれ」って言ってね(笑)。ふらっと家まで来てくれて、そういうことを言ってくれる先生もいた。その二人の先生は覚えてます。
 学校はロクでもないところなんだけど、人間どうしの付き合いが、そのなかでありました。バイトも、職安では紹介してくれないけれども、定時制の仲間が紹介してくれて、いろいろやりました。そこで人間のコネを覚えた。勉強のことはぜんぜん覚えてない(笑)。
 高卒後は、国家公務員も県庁や市役所の職員採用試験もぜんぶ落ちて、しょうがないから大学を受けたんです。定時制高校の教員との出会いもあって、教員になろうと思ったのもありました。しかし、卒業年度では受験した2校とも落ちちゃって、もう1年、仕事しながら勉強して、都立大学(昼夜開講制*4)を受けて合格した。とにかく試験というものが苦手なんですね。大学卒業時も教員採用試験に落ちて、当時は新卒でないと教員採用がなかったので、仕方なく大学院に行って、ようやく教員になったのが1961年です。東京の足立高校の定時制で教員を始めました。


●活気ある定時制がしらけていった

山下:当時の生徒は、どんな感じだったんでしょう?

佐々木:最初に担任した生徒には、いわゆる戦争孤児もいて、まだ戦争の記憶がある世代でした。お母さんは空襲で死んでしまって、お父さんも戦死して、兄さんに育てられたという生徒もいました。その子たちとは、ものすごく気が合いましたね。授業は社会科担当でしたが、「先生、仕事で伝票書くときに字まちがえて怒られちゃったから、書き取りやってよ」「計算ができないから教えてよ」とかいうので、やってました。中学生の英語や数学なんかも、できもしないのに、いっしょにやってました。そうしたら、こっちもできるようになってくるんですね。勉強は人に教えるとできるようになる、教わっているとできないですね。何ごとも自分からやる気にならないと身につかないんでしょう。

山田:生徒の年齢層はそろってましたか?

佐々木:ばらついてましたが、2〜3年くらいのちがいでしたね。その後、うんと年上の人も入ってきました。「過年児」なんて言ってましたけど、教師のできないことを手伝ってくれたり、騒いでいる生徒をなだめてくれたり、ずいぶん助けられました。
 教員の関係も、当時は組合が強くて、人事も財務も、組合がつくった委員会が決めて、校長は追認する感じでした。いまは組合が弱くなって、学校は上から命令するようになっているので、びっくりしますね。

山田:私が定時制高校に勤め始めたのは77年です。そのころは、定時制高校の教員は自由出退勤に近い実態がありましたね。ほんとうは12時半に出勤しないといけない。しかし、実際は授業に間に合えばいい。授業がなければ来なくてもいい。そうしたなかで、非常にまじめに生徒に付き合おうとする教員がいる一方、自分は建築事務所で設計士をしていたりして、生徒には教える値打ちもないと思ってる教員もいて、いろんな人が混ざっていました。

佐々木:生徒にいっさいかかわりを持たないで、大学の先生になっていくような人もいましたね。

山田:しかし、私が勤め始めたころは、生徒のほうは昼間は働いて、やっとの思いで学校に来ていたんですね。だから、教員が1時間目の授業に遅れると、「何を考えてるんだ」と職員室に怒鳴り込んでくる生徒もいました。知識に飢えていて、勉強したくて、必死の思いで来ているのだから、それにちゃんと応えろ、ちゃんと授業をやれ、と。しかし、そういう雰囲気がなくなっていく。「先生、来んでもええで」っていうような感じになって、教員のほうも、それになれあってしまっていった。

佐々木:60〜70年くらいまでは、受験にしろ、実務にしろ、それを要求する生徒と、いっしょにやろうという雰囲気がありましたね。教員と生徒が討論したりね。たとえば、世界史でメソポタミアのことを説明していたとき、「土で高い塔をつくったのだ」と話していたら、生徒が「先生、土だけで高い塔は建てられませんよ。接着剤を使っているはずです。何を使ってるんでしょう」と聞かれて、そんなこと知らないものだから、いろいろ調べてたのだけど、わからない。実務を知っている生徒から、いろいろ教えてもらいましたね。それは非常におもしろかったです。
 しかし70年代に入ってから、生徒がしらーっとしだす。それは、高校が偏差値輪切りになっていったことが関係しているでしょう。東京なんかでは「普・工・商・農・定」と言ってました。それまでは定時制からでも大学に進学する人もいましたが、このころから進学は難しくなっていきましたね。

山田:私は工業高校にいたので、建築科で「積算」という工事の見積金額を出す実務の授業があったんですが、若い先生が「そんな積算やっていたら仕事の割に合わんよ」と生徒に指摘されてました。自分の仕事をかねて、ほんとうに勉強している生徒がいて、教員もそれに学んで、そういうやりとりのなかで、学んでいくということが成り立っていた。そういうことがなくなっていきましたね。そういう雰囲気がイヤになった、ということはありませんでしたか?

佐々木:イヤにはなりましたよ。でも、定年までは勤めました。


●75年から荒れ始めた

山下:ハッキリ変わったという節目はあったんでしょうか?

佐々木:1975年ですね。その年の1年生からうわっと荒れ始めました。当時は、荒れていると言っても、なかなか部外者には理解してもらえませんでした。廊下の蛍光灯を片っ端から割っていく、消火器を持ち出してぶちまける、タバコの吸い殻が学校中にある、授業になっても教室に入らないのが3分の2くらいいて、出ていくのを追っかけると授業にならないし、授業していると教室に牛乳瓶を投げつけられたりする。なんでこんなに荒れるんだろうと思いました。
 それから、70年代後半から80年代にかけて、暴走族が出てきましたね。「阿修羅」とか何とかいってね。50〜100人くらいの集団になって街を走る。鉄パイプで信号待ちしている車をぶっ壊したりね。警察も手を焼いてましたが、集団危険行為だということで、2〜3年くらいで制圧されていきました。うちの生徒も逮捕されて、その交通裁判なんかには、付き合ってました。
 まあ、そうした状況があって、私も授業がぜんぜんできなくなったので、生徒に「自分史」をやろうと提案して、始めたんです。「自分の歴史も社会のなかだ」とか言ってね。しかし、ぜんぜん書かない子がいる。それで、ひとりひとりに話を聞いてメモしていくようになりました。そのメモが押し入れいっぱいになって、それをもとに『学校非行』(三一書房1983)を書き始めたんです。とくに、暴走族なんかの話が、非常におもしろかったです。
 暴走族の連中が、深夜喫茶に集まって打ち合わせするのに出たことがあるんですが、私の存在を無視して、ほかの子と話しているのが、非常におもしろかった。暴走族には特攻隊があって、どの道を通って、誰が先鋒になってマッポ(警察)をぶったたくのかとか、わりと民主的に、イキイキと話し合っている。試験では0点ばかりでも、車の免許だけはパッととる。自分のやりたいことがあれば、人間は能力を発揮するんですね。少年たちの話を聞いていくうちに、世間一般の言うことより、彼らの言うことのほうが正しいのではないかと思うようになりました。そもそも人間は活動しようとして生まれてきている。「遊びをせんとや生まれけむ」(梁塵秘抄)ではないですが、動物だって腹がいっぱいになったら遊んでいる。そのエネルギーを学校は抑圧している。進学するやつは勉強してりゃいいけど、進学したくない大多数の生徒にとって、学校は抑圧の場になってしまっているのではないか。

山下:75年に荒れ始めたというのは、時代状況も関係しているわけですね。

佐々木:そのころから、定時制の卒業生の仕事がどんどん減っていきました。それまでは地元の商店、魚屋とか八百屋に勤めるのが多かったのが、ぜんぶなくなって、スーパーや駅ビルみたいなところに集約されていく。町工場も、どんどん海外に移転していく。工場に勤めても、旋盤がNC旋盤になったら、数値をインプットする仕事になりましたよね。以前だったら、技能オリンピックで金メダルをとる生徒がいたりして、その仕事の話を聞くのが好きだったんですが、だんだん、そういう生徒がいなくなりました。駐車場の管理人だって、メーターで自動管理になって不要になった。学校にも用務員さんがいたのが、警備保障会社に外注にするようになる。あらゆる分野で、そういう状況が進行して、どんな仕事をしていいのか、目標をなくしていったということがあると思います。
 エリート意識で大学に行く人以外は、どうしていいかわからない。大学も、有名大学以外は同じですね。しかも、それは日本だけではなくて世界中で起きていることです。自分がおもしろいと思える仕事、張り合いのある仕事が、どんどんなくなっている。自分でやりながら、だんだん覚えていって、先輩をまねながら学ぶ、そういう職場がなくなってしまっている。

山下:とくに手に職の部分がなくなっているわけですよね。それが、一部の進学組以外の多数が荒れていくこととつながっている。同じことは、不登校にも言えそうに思います。


●実質不登校は8割

佐々木:私は「実質不登校」という言葉を使っているんですが、学校に行っていても「実質不登校」は全生徒の8割はいると思っています。学校に出て単位だけ取りたい、資格だけ取りたい。しかし資格もインフレを起こして役に立たなくなっている。知識はネットや友だち関係から得ている。「読み・書き・そろばん」なんて昔は言いましたが、いまは自分でいくらでも情報は得られますね。けれども、やりたいことがないので困っている。

山下:職場の環境の変化と、生徒の荒れていることがつながっているというのは、当初から気づいておられたことでしょうか?

佐々木:「自分史」や暴走族の少年たちに教えてもらったことです。それまでは、よくわからなかった。私が教師として語りかけても返事もしなかったのが、いっしょに座って、仲間の話を聞いていると、いろいろ話をしてくれる。教師として話すと拒絶される。それは、いわゆる「底辺校」の生徒と付き合って学んだことですね。そこには、活気がありました。

山田:いまから思うと、乱暴ではあったけど、彼らにはエネルギーがありましたよね。しかし校内暴力がおさまったころには、僕らのほうから、どう働きかけていいかわからないような、よどんだ沈滞した感じになって、エネルギーが消えていった。

佐々木:消えていきましたね。校内暴力を経験して5〜6年たったころ、ある生徒が「この学校から東大に行けますか? ここはクズのいる学校だ。自分はもっといい学校に行きたい」と言って、転校していった。それは、学校が自分を何とかしてくれると思い込んでいるわけです。自分でなんとかできると思う子がいなくなっていった。とくに90年代以降は、しらっとしていった。
 消費社会というのはそうでしょう。人にどうにかしてほしい、こうしてほしい。今回の都知事選でも、「小池百合子さんになんとかしてほしい」とか言う。しかし、なんともしてくれないですよ(笑)。自分でなんとかしないといけない。自分が要求を出さないといけない。
 72年のオイルショックで高度成長が終わって、高度消費社会に入っていく。そのころから、消費欲だけが肥大化していきましたね。


●勉強が生活から乖離

山下:そういうなかで学ぶ意欲も減退していると指摘されてますが、そうした状況から出てきた現象のひとつに不登校がある、と言えますでしょうか?

佐々木:昔から不登校はいますね。私も学校に行かないで働いていた。だけど、そこでいろんなことを学んだ。環境や具体的なできごとのなかで学んでいく。そして、目標を見つけて、やるときはやる。そういうことが若者からなくなっていますね。そのことに大人が気づかないで「勉強しなさい」という。
 定時制の生徒が、「何のために勉強するの?」と聞いても、教師はそれにまとも応えられなかった。「数学のサイン・コサインって、どこに使えるの?」と聞かれても、「思考力そのものが大切で……」とか言ってね。勉強内容が生活から乖離してきたわけです。
 虚業というのか、消費社会のなかで、実態のない、生活に関係のないことばかりが膨らんでいる。そこに、若者が生きづらくなっている現状があると思います。実体経済と金融経済のちがいもありますね。実体経済というのは、モノを生産して消費することですが、金融操作のマネーゲームの経済は、その80倍以上の規模になると言います。そういう虚構の世界のなかで、少数の金持ちと大多数の貧乏人に二極化している。そういう変な社会に入ってきているわけですね。それは世界中で起きていることです。全世界で、若者の生きがいがなくなっている。だから、無差別殺傷事件が起きたりする。

山下:校内暴力で荒れていたというのは、こういう社会の変化に対する、プロテストという面もあったわけですね。しかし、学生運動が鎮圧され、その後に起きた校内暴力も鎮圧され、その後に、いじめだとか不登校が前景化してきた。

佐々木:いじめは、古今東西あるわけで、いじめと不登校を結びつけちゃいけないと思います。不登校というのは、学校がつまらないということで、もっと言えば教育を受けたくないということでしょう。受験でエリートになっていく人以外、残り8割の子どもにとって、学校は目的のない状態になっていて、しかし、ほかにしようがないから行っている。中卒の仕事もないし、やることと言ったら進学しかない。しかも、金はないから奨学金を借りながら行くことになっている。
 すでに1968年〜70年ぐらいの大学紛争の時代には、そうした社会変化は意識され始めていたと思います。当時、教員国内留学制度というのがあって、私は69年に一橋大学の南博さん(*5)のところに1年間の研究留学に行ったんです。そこで、学園紛争が起こった。南さんはリベラリストで、誰でも受けいれる人でした(石原慎太郎も南研究室にいました)。大学がバリケード封鎖されて、学生たちが荒れ始めたとき、南さんの助手が書物を荒らされると困るといって避難させようとしたんです。私もそれを手伝った。しかし、それを見て、温厚な南さんが烈火のごとく怒った。「学生に何をされようと、学生と我々との関係が大切なんだ。避難させるなんてよせ、元に戻せ!」と言ってね。あれがリベラリストなんだと実感しました。講義で何を聴いたかは覚えてませんが、彼の態度に教わった。人は、そういう関係のなかで学んでいくものでしょう。関係のなかで人は変わっていく。いま、そういう具体的な人間の関係、できごとのなかで変わっていくということが、少なくなってますね。

山下:具体的な手仕事や媒介するものがあって、関係は実りのあるものになっていくわけですね。

佐々木:言葉だって、国語の授業で学ぶのではなくて、聞いた言葉を重ねて覚えていくわけです。それが時代によって変化していく。地方がすたれていくと、生活用語の方言もすたれる。そういう全体の動きのなかで人間は生きている。関係、できごとのなかに変化がある。教育は、そういうものを、ことごとく疎外してきたわけです。
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●消費社会のなかで親は

山下:関係が空虚になっていて、その裏返しとして、資格しか信用しない、学歴しか信用しないようになっている。

佐々木:レッテルですね。ビールだって、味はほとんど同じだけど、ラベルは90種類以上あるそうですね。それを消費社会というのでしょう。資格も、国家資格だけで1500種類以上、民間資格は数えきれないほど増えました。しかし、そんなにたくさんの資格が必要な社会かといえば、実際はちがうのに、資格だけが増えている。

山田:オイルショックのあと、77〜79年ごろにかけて構造不況になっていく。そのころに、大阪では重厚長大型の造船や鉄鋼の会社がつぶれていきました。私の受け持っていた生徒には、全造船の青年婦人部長や、全金や鉄鋼労連の組合員もいた(*6)。しかし、希望退職募集が始まって、日本の労組はそれに対応できなかったですね。個別に切り離されて、彼らが身を寄せていた組合がつぶされていった。
 このころから、親たちも「この社会で働くというのは、こういうことだよ」ということが語れなくなった。仲間とともに働く場をなくした親たちは、子どもの教育に託すしかなくなった。そういう感じが強くするんです。大人の働き方の全般的な崩壊があって、そこで、親は子どもの教育にしがみついて、教育に圧力がかかっていく。それは子どもにとっては厳しいことだと思います。

佐々木:子どもが目的を見つけたら、親はやりなさいと言える。ところが先輩を見ていても、その仕事を子どもがやりたいと思えないですものね。深刻だと思います。
 私の長男が中学のころ、シカトにあっていたんですね。掃除をしないことに対して、ほかの生徒に注意したことがきっかけでした。以来、シカトされ始めてフォークダンスのときにも、女の子がみんな手を引っ込める。それで憂鬱そうな顔をしていてね。卒業式では「卒業式はいりません」なんてビラをまいて、「高校には行かない」と言いました。私も「行くな、行くな」と言って、八百屋さんで働かせてもらっていたんです。しかし、その八百屋さんがつぶれて、スーパーに吸収されてしまう。
 ちょうどそのころ、東京学芸大の新聞部にインタビューされたんですが、自宅で話していたんで息子も近くにいたんですね。その新聞部の部長さんは32歳で、高校で学園紛争で暴れて退学になって、通信制高校に入りなおして大学に入ったと言ってました。息子がそれを聞いていて、自分も通信制高校に行こうと決めたようでした。私が通信制や定時制があるよといっても、いっさい聞く耳を持たなかったのにね(笑)。いまは50歳くらいで、サラリーマンをやってます。
 親ではない、先輩のほうがいいんです。親と教師は、ものすごく無力ですよ。逆に言うと、教師は教師を辞めて、先輩の顔をして話せるようになったら、生徒と関係ができる。親も、人間の先輩として子どもの言うことを聞けるようになったら、子どもと関係ができる。関係が上下関係になっていて、「する・させる」になっていたら、話にはならないです。

山下:何かをやりたいというのも、関係のなかで生じるもので、それが消費しかなくなってしまっているわけですよね。佐々木さんは、教育も民営化して商品化していると指摘されてますね。


●民営化で損をするのは

佐々木:民営化の問題を指摘する人は少なくてね。しかし、現場でみているとよくわかるんです。まず、非常勤が増えてきて、それから、職階が多様になってきた。昔は教頭と校長とヒラしかなかったのが、いまは10種類くらいあります。そして、教員免許の更新研修が義務化した。先生は、やたら忙しくなったという。公立小中学校でも16%が非正規教員になっています(2011年/文部科学省「学校教員統計調査」)。非正規教員はボーナスも何もないから、賃金は正規教員の5分の1くらい。だから、学校をかけもちでやっている。そうなると生徒と話すヒマもない。学校側からすると、同じ予算で教員の人数を増やせる。そうすると少人数学級ができる。親御さんも少人数学級を求めるけれども、かけもちの非正規教員ばかりになっている。
 それから、品川区で学校選択の自由をやってますが、日野学園という義務教育学校(小中一貫)が五反田にあって、立派な校舎で、1年分の予算の大半をそこに使っています。新聞も、教育自由化で、これだけ立派な校舎が建てられたと報道していました。しかし、そこに入れるのは成績上位の5%くらいです。ほかの子どもたちのぶんも、そこに予算が使われているから、多くの子どもは、すごく損をしている。とくに貧乏な家の子や偏差値の低い子は損している。その損に気づかれないように民営化を進めてきた。「学校選択の自由に反対するのは難しい。親御さんが聞いてくれない」と品川区の教組の人が言っていました。品川区からは、ほかの区に転勤希望が続出しているそうです。そういう現場のことが、新聞記者も、学者もわかってない。
 現場を知らない人が教育を語っている。知らない人が立案している。だから教育というのは、信用しちゃいけないと思います。

山田:1984年に始まった臨教審(*7)の自由化論も、あれをどう評価するか、ほんとうに悩ましくて、僕らもわからなかった。

山下:同じ「自由」という言葉で、ちがうものをみてると思います。

佐々木:80年代半ばに、臨教審に対抗するといって、女性民教審(*8)という活動があったんですが、私もそこに呼ばれて、模擬授業をやろうということがありました。家庭科男女共修を主張していた人たちが企画して、自由討議の授業をやろうと、テーマを決めて、大人たちがみんなで討論した。その人たちは、教育を自由化して、こういうかたちの教育をするのがいいんだというのですが、私は、その場で大反対した。いま言われている自由化というのは、教育を商品化するということですと言ったんですが、みんなポカーンとして「佐々木さんは自由に協力しない」なんて言って、話がまったく噛み合わなかった。
 女性民教審には、小沢牧子さんも参加されてたんですが、小沢さんと私だけが、自由化論に反対したんです。小沢さんは「心の専門家」をやっていて、心理学は子どもに失礼だと気づいて、そこから考えていた。私は教師をやっていて、教育というのはどうもおかしいと思いはじめていた。学校がおかしいのではなく、教育がおかしい。教育というのは、大人が思ったことを子どもにさせることで、子どもたちのやりたいことを制限して、させようとする。そもそも自立性なんて尊重していないわけです。
 女性民教審は臨教審に対抗しようと言ってできたんですが、対抗になっていない。民営化に対して、ものすごく鈍感でしたね。
 それと、日本の親御さんは学校に対して従順ですね。子どもにも「先生の言うことは聞きなさい」なんて言う。山田さんが訳された『ハマータウンの野郎ども』(*9)を読むと、イギリスでは、親にも子どもにも、学校に対する反抗心がありますよね。

山下:労働状況の変化など、社会状況と切り離して、教育だけを語っているのもおかしいですね。進学組ではない多数派の足場が崩されてきた。しかし、イギリスも崩れていると思いますが。

佐々木:足場は全世界的に崩されてきてます。


●教育を疑う

山田:私も、ある意味でイギリスを理想化していたところがあるんですが、日本の教育論は、オランダ、デンマーク、フィンランド、ドイツなど、よそにはいい教育があるという幻想がありますね。理想の教育を求めて、それをいろんなところに探す。しかし佐々木さんは、教育そのものがいかがわしい、おかしいのは日本だけではなくて全世界的におかしいと指摘されている。そういう論点はめずらしいと思います。それは、いつごろから認識されてきたんでしょう。

佐々木:いろんな人に教えられたんです。ひとりは森重雄さん(*10)ですね。教育という言葉は、英語ではeducationというが、それも近代用語だと。近代以前にはないもので、教育という言葉そのものに疑問を呈されていました。教育アナーキズム、教育をいっさい信用しないという人は全世界にいます。ポール・グッドマン(*11)、イワン・イリイチ(*12)など。日本には、教育を根本的に疑う人が非常に少ないですね。ジョン・ホルト(*13)の『Instead of Education』は『21世紀の教育よこんにちは』(訳・田中良太/学陽書房1980)なんて訳されていましたが、とんでもないです。あれは「教育ではなく」という意味で、教育を否定する本です。
 みんなが教育に毒されているものだから、教育でなんとかできると思っている。政府も、何か困ったことがあると、教育が必要だと言い出す。性の乱れには性教育、道徳の乱れには道徳教育、戦争に対しては平和教育。しかし、教育なんかでどうにもならない。現場で運動していくほかないものです。たとえば人種差別問題では、キング牧師は公民権運動をして殺されましたが、それでも運動していく。そういうものでしょう。それを教育でできると思い込んでいる。しかし、そんなことできっこないです。

山田:学校は教育を行なう場となっているけれども、教育はひとまずおいて、学校という場は人が集まる場として大事ですね。

佐々木:それと、異世代が集まるほうがおもしろい。定時制なんかは異世代でしたし、非常勤講師をしていた和光大でも、異世代が集まったときに議論がおもしろかった。ちがう文化が交流することがおもしろい。しかし、そういう雑多に交流することがなくなって、みんなが話し合わなくなって、たこつぼに入ってしまってますね。地域社会も崩壊状態で、家族も離婚が増えている。学校も非常勤が増えて、教員がおたがいに話し合わない。職場でも臨時雇いが増えて、おたがいが話し合わない。組合は分裂して弱くなった。日教組は、ほとんど力がなくなった。あらゆるところで、議論する場が消えてなくなっている。セグメント社会、分節化社会に入っている。これはヨーロッパでもそうですね。

山田:1998年に、東京都教育委員会が公立学校の管理運営規則をつくって、「職員会議は校長の職務を補助するための機関であり、それ自体が決定権限を有するものではない」と決めたとき、大阪では笑っていたんです。大阪では、職員会議のとき校長は平場に座らせて、絶対に上座には置かなかった。議事運営は議長団がすべてやって、その場でどんな議題が出てもいいとやってきたんです。しかし、大阪でも、5〜6年で、東京と同じようになった。それに対して、ぜんぜん抵抗できなかった。「校長のマネジメント能力」なんて言い出してね。

佐々木:三鷹高校の校長など、抵抗している人もいますが(*14)、状況は厳しいですよね。それが民営化ということですね。PDCAサイクル(*15)とか言ってね。あれは生産管理のための企業の言葉なんです。しかし、教育は実績を示せといって、有名大学への進学者数や、企業への就職者数など、プランをつくって、自己評価させる。それで昇級するかどうかも判断する。金がからんでくる。そうやって教員を縛るようになった。この経済圧力は大きいですね。


●教育商品は詐欺

山下:教育を疑うというのは、近代社会への批判ですよね。それに対して、民営化や自由化を言う人たちも、「これまでの学校は第2次産業モデルで、これからの第3次産業社会のなかでは、学校を多様化・自由化させていく必要がある」と言ってきた。その論調と、近代批判の言説が、言葉の表面では重なる。それが民営化のあやうさへの鈍感さになり、抵抗できなかったことにもつながっているように思います。

佐々木:まず、生産資本主義と消費資本主義というのは、区別して考えたほうがいいと思います。生産というのは、モノをつくって、魅力ある商品をつくりだして、みんなが買って経済成長するということですね。これはわかる感じがするんです。しかし、いまはラベルだけを変えてイメージを売っていますね。教育商品は、その典型です。教育商品は、いくらでも理想郷みたいなイメージを勝手につくれる。親はあそこの学校に入ったらいい、有名大学に入ったら何とかなると思う。教育商品は各国で売り出されて、きれいごとを並べている。しかし、これは詐欺です。だから、教育を疑うことは何より大事です。
 世の中で実用性のある商品は、飽和状態になっている。家電製品でも何でも、売るものがなくなっているなかで、教育を商品化することが重要な時代になってきたと言えます。
 そして、もうひとつ、経済成長に必要とされているのは、戦争して兵器を売ることです。たとえばイスラム国がテロをやっていると言って、武器をどんどんつくって売っている。シリアには、アメリカと有志連合が空爆を1万6000回していると言います。それでもイスラム国のテロは、5年間ずっと続いている。
 これは資本主義の末期症状です。我々は、国民国家の崩壊と、資本主義の末期状態にいるということを認識しないと、これからの世界情勢はわからないと思います。
 そういう状況下、クルド人が自治区をつくりはじめています。第一次世界大戦後、クルド人の住む土地、クルディスタンは、トルコ、イラク、イラン、シリア、アルメニアに分割されてしまったんですね。クルド人は2000〜3000万人いると言われていますが、そのクルド人が、いま、ロジャバ革命といって自治区をつくっている。ロジャバというのは西クルディスタンのことですが、アサド政権が崩壊したあとに、勝手に自治区を始めて、放置された土地を共同農場にして、学校をつくって、国家が関与しないで、自分たちで勝手にやっている。ロジャバ憲法というのをつくっていて、直接民主制で、女性の権利や、文化的・宗教的・政治的自由を保障するなど、その理念は、とてもおもしろいです。

山下:資本主義の末期状況のなかで、いまの子ども若者が、時代状況も俯瞰することもできなくて、自己否定的になっているように思いますが、今後については、どのように考えておられますか?


●勝手にやるしかない

佐々木:ロジャバ革命のように、若者が勝手にコミューンをつくっていったらいいと思います。そんなことできない、と思うでしょうけれど、イタリアではアウトノミア運動(*16)というのがありました。勝手値引きとか、空き家占拠とかね。日本も空き家占拠したらいいですよね。なんか、そういう自分たちで勝手に運動するしかないのではないか。つぶされても、その次に別のことをやる。生きていかないといけないからね。そういう活動を、異年齢のものが集まって、やっていくことが必要だと思います。メキシコでもサパティスタ(*17)がありますし、そういう例はいろいろあります。
 グローバルな資本や超富裕層が金を持っていったとき、世界の庶民がどう暮らすかと言ったら、自治区しかないんじゃないか。庶民の生産能力はかなりある。多数派は庶民なんだからね。グローバル資本のおこぼれちょうだいと言ったって、くれやしない。庶民が生きるには、自分たちが勝手にやるほかない。暴走族が勝手にやっていたように、活気をとりもどすほかない。自治区でなくても、自分たちの仲間うちで何かを立ち上げる。趣味でも何でもいいから、何かを活動する。しかし、活気がないですね。野球の応援なんかでは活気があるのにね……。

山田:職業教育論で、熊沢誠さんや本田由紀さんは「教育の職業的意義」と言っていますが、私は、いまの学校で職業教育なんかできないし、したところでロクな結果を生まないと思っています。いちばん大事なものほど、学校なんかで教えちゃいけない。教育というかたちにしてはいけない。実際に仕事の現場で学んでいくことが大事です。もう一つは、「一定程度の専門性」と本田さんは言ってますが、労働の分野で、まとまった専門家というくくりはできなくなっている。だから、かけ声だおれで、職業教育論の具体論を書くことが誰にもできない。そこをみないといけないですね。

佐々木:村上龍の『13歳からのハローワーク』を読んだら、いまは存在しない仕事ばっかりが書いてある。何であんなものが売れるのかと思います。現場でみていると、定時制高校の卒業生の就職がいっさいなくなっている。神奈川県で調査したことがありますが、卒業生150人に調査をしたら、とにかく、まともな仕事がなくなっている。その現状を知らない人とは、議論がまったく噛み合わない。まともな仕事があるなら示してほしいです。魚屋でも、スーパーに入って魚を切り売りする。お寿司屋さんもチェーン店ばかり。床屋も、1000円床屋ができて、たくさん数をこなさないといけないから、雑談なんかしてたら怒られる。そういう現実をみないで、東大を出て官僚になったエリートが牛耳ってるから、おかしなことになる。だいたいエリート大学を出た人は現場を知らないですよ。山田さんみたいに、京都大学を出て板金工場に行くような例外もいますけどね(笑)。


●足場をどこに置くか

山下:学校が社会との接続機能を失っているなかで、学校を批判してきた不登校運動の言説も、問い直されていると思います。

佐々木:学校に行きたくない子たちが増えてきて、ひきこもりも高止まってますね。社会に出ようとしたって出られない。そこで居場所が必要とされている。居場所がないと、どこにも行きようがない。それを知らない人もたくさんいて、子どもを抱え込んだまま孤立している親がたくさんいる。居場所は非常に重要だと思います。
 なかには、ひきこもりを引っ張り出すと言っている人たちもいますね。「レンタルお姉さん」とかね。社会に引っ張りだすというのは、すごくイヤな感じがしますね。ただ、家庭ではすごく困っていて、親殺し子殺しにまでなることもある。そういうのは、ちょっと助けを必要とするから、居場所問題は、学校問題よりずっと大きいと思います。これも教育で解決する問題ではないですね。
 そして、同じことは世界中で起きています。高福祉国家と言われている北欧のスウェーデン、デンマークでも無差別殺人が起きている。自分たちの存在がきちんと認められないというので、若者が苦しんでいる。

山田:どこに足場を置くかというとき、佐々木さんは、自然と労働と協働の3つだとおっしゃってましたね。自然は地域に置き換えられると思います。労働は、頭ではなく身体全体を使った働き。そして協働。それはメンテナンスではないかと私は思ってるんです。いままでは、一からモノをつくるのは大量生産できた。しかし一度つくったものをどう上手に活かしていくかは、地域ごとに、そこに住んでいる人が、現にあるものをうまく再利用していくことが絶対に必要です。いま、鉄橋、トンネル、道路、電線、上下水道、みんな耐久年齢ギリギリのところにきています。これをムダにしてはいけない。それは、そこに住んでいる人が協働でメンテナンスしていくほかない。そうすると、特定の職業ではなく、そこで生じたことを協働してやっていくほかないと思うんですね。私は、そこに可能性をみています。

佐々木:それは重要ですね。成長経済ではなくて、メンテナンス経済。つくったものを長持ちさせる。そこにつくる喜びを見いだして、人間が活動する。それも、顔の見える関係のなかで活動する。弱い立場にある者は金もないし、協働しないとやっていけないですからね。
 ランドル・コリンズ(*18)は、昔は専門家や技術者という特殊な集団はなかったと言ってます。鉄橋をつくるときも、地域の人がほしいと言ったら、商店主や会計士がヨーロッパまで見に行って、素人が集まってつくった。弁護士や医者のような仕事も、徒弟的に実務を経験したものがなっていた。
 しかし、いまの社会はそうなってないから、自分たちで勝手につくってしまうほかない。誰かがなんとかしてくれると思ってたって無理な相談です。少しでもいいから、そういう実践を積み上げることでしょうね。いったん経験すると、みんながイキイキすると思います。

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*1 PX:Post Exchange アメリカ軍の基地内にある売店のこと。戦後、進駐軍によって多くの商業施設が接収され、米兵向けPXとして使われていた。

*2 ララは、1946年、アメリカ在住の日系人浅野七之助が中心となって設立した「日本難民救済会」を母体に設立された日本向け援助団体。LARA はLicensed Agencies for Relief in Asiaの頭文字。

*3 大須事件:1952年7月6日、日中貿易協定の調印式から帰国した議員を歓迎する集会が名古屋市の大須球場で開かれ、そこからデモへと発展したが、警官隊と衝突し、デモの参加者1人が死亡するなどの事件となった。

*4 昼夜開講制:大学や専修学校における授業開講方式で、同一の教育研究組織・教育組織において昼間及び夜間の双方の時間帯にまたがって授業を行なうこと。学生は昼夜の区別なく受講できる。

*5 南博(みなみ・ひろし/1914〜2001):日本の社会心理学者。日本女子大学教授、一橋大学社会学部教授や成城大学教授を歴任。

*6 全造船:全日本造船機械労働組合。1946年結成、2015年に解散。/全金:全国金属産業労働組合同盟。1964年結成。/鉄鋼労連:日本鉄鋼産業労働組合連合会。1951年結成。

*7 臨時教育審議会:1984年に発足した内閣諮問機関。中曽根康弘首相の下で、1985〜87年にかけて4次にわたって答申が出された。「教育の自由化」が論議となり、規制緩和や「教育の個性化」が謳われた。

*8 女性による民間教育審議会:1985年、政府の臨時教育審議会への代表提案機関として設立。世話人代表は俵萌子。樋口恵子、暉峻淑子、小沢牧子なども参加していた。

*9 『ハマータウンの野郎ども―学校への反抗・労働への順応』:ポール・ウィリス著。原題は「Learning to Labour: How Working Class Kids Get Working Class Jobs」で1977年刊。日本語訳は、熊沢誠、山田潤の訳で筑摩書房より刊行された(1985)。現在はちくま学芸文庫になっている。

*10 森重雄(もり・しげお/1956〜2006)教育社会学者。教育というカテゴリーそのものを批判的に研究した。

*11 ポール・グッドマン(1911〜1972):アメリカの社会・文学評論家、詩人。『不就学のすすめ』(福村出版1979)などの著書がある。

*12 イワン・イリイチ(1926〜2002):オーストリア生まれの哲学者、社会評論家、文明批評家。著書に『脱学校の社会』(東京創元社1977)など。

*13 ジョン・ホルト(1923〜1985):アメリカの評論家。ホームスクーリング運動の創始者としても知られる。

*14 2006年、東京都教育委員会が、職員会議で意向を聞くための挙手や採決を禁じる通知を出したことに対し、都立三鷹高校の土肥信雄校長は「言論の自由が消える。撤回を」と、都内の校長でただ一人異を唱えた。その後、ほぼ全員が採用される定年退職後の非常勤教員の採用試験で不合格となり、退職後の2009年、自身の不合格などに対する損害賠償を求め提訴。しかし1審2審とも敗訴している。

*15 PDCAサイクル:生産管理や品質管理などの管理業務を進める手法の一つ。Plan(計画)→ Do(実行)→ Check(評価)→ Act(改善)の 4 段階を繰り返すことによって、業務を継続的に改善するとされている。

*16 アウトノミア運動:autonomiaは、自主・自立の意。1970代にイタリアを中心として、学校・工場・街頭での自治権の確立を目指して行われた社会運動。労働の拒否、空き家占拠、自由ラジオ放送などを実践した。

*17 サパティスタ民族解放軍:1994年、北米自由貿易協定(NAFTA)発効に対し、「NAFTAは貧しい農民にとって死刑宣告に等しい」として、メキシコ南部のチアパス州で武装蜂起した。先住民族の農民たちを主体に組織されている。

*18 ランドル・コリンズ(1941〜):アメリカの社会学者、小説家。著書に『資格社会―教育と階層の歴史社会学』(有信堂高文社1984)などがある。
posted by 不登校新聞社 at 20:52| Comment(4) | 学校関係
この記事へのコメント
記事内容に同感するところが多いです。
Posted by 井上敏弘 at 2016年12月07日 16:22
ありがとうございます。また、今後もさまざまな方のインタビュー記事をアップしていきますので、よかったらお読みください。
Posted by 山下耕平 at 2016年12月09日 23:54
引き出し屋ですか、10年以上前からその類はいるようですよ。テレビで数度見た記憶があります。似た類になんちゃら先生とかね。不登校引き篭もりによる凶悪犯罪はそんなに増えてるんでしょうかね。まあ殺しに発展するレベルだと今更協働でイキイキすることはないと思いますが。
Posted by てぃー at 2017年07月24日 04:20
小沢さん、佐々木さんの記事へのコメント、ありがとうございます。引き出し屋は、昔からいますし、暴力的な矯正施設は戸塚ヨットスクールをはじめ、跡を絶ちませんね。不登校・ひきこもりの当事者による犯罪件数が増えているかどうかはわかりませんが、そこまで追いつめられてしまって、事件化していることはあるのだろうと思います。ただ、事件の動機と不登校やひきこもりを安易に結びつけるのはよくないと思います。
Posted by 山下耕平 at 2017年07月24日 07:37
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