2016年11月27日

#08 藤野興一さん

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(ふじの・こういち)
1941年、鳥取県生まれ。同志社大学卒業。学生運動、労働運動を経て、1976年、鳥取こども学園の児童指導員となる。1994年、情緒障害児短期治療施設「鳥取こども学園希望館」の開設に関わる。現在、社会福祉法人鳥取こども学園常務理事・園長。

鳥取こども学園:前身は、鳥取孤児院・育児院(1906年創設)。1949年、財団法人「鳥取子ども学園」に名称改称。1952年、社会福祉法人へ組織変更。ゆったりとした敷地内に、児童養護施設、乳児院、保育所、情短施設、診療所、養育研究所などを開設、その他、自立援助ホーム、若者サポートステーション、作業所など幅広く児童・青年のための福祉施設を運営。

インタビュー日時:2016年10月3日
聞き手:増田良枝、関川ゆう子
場所:全国社会福祉協議会種別談話室(東京都千代田区)
写真撮影:関川ゆう子
まとめ:増田良枝、関川ゆう子

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〈テキスト本文〉

増田:はじめに、鳥取こども学園とご自身についてうかがいたいと思います。

藤野:僕は孤児院の住込み職員の子どもだったものですから、戦後、まわりがみんな戦災孤児の時代に、自分だけが目の前に親がいるので、逆に、非常に不便な思いをして育ちました。ですから、施設のなかで生まれて、そのなかで育って、ずっと施設と関わってきたんですね。そのことが、いまに活きているのかなと思っています。
 大学は、同志社の福祉を選びました。1960年入学ですから、学生運動の時代です。学友会という全学自治会の委員長までやっていたんですが、60年安保で挫折を味わいました。その後、やっぱり労働運動だということで、全電通労働組合という、電電公社(現NTT)の労働組合の専従書記として入りました。当時、ILO(国際労働機関)で、在籍専従(組合員が勤務先に籍をおいたまま、労働組合の専従者になること)が廃止になって、そういうなかで大卒の専従を募集するというので書記になったんです。先だって亡くなった日本労働組合総連合会初代会長の山岸章さん(1929〜2016)が、当時は書記長的なことをやっておられました。

増田:藤野さんが、児童養護施設それから情緒障害児短期治療施設をやってこられた理由が、なんとなくわかりました。

●横浜・寿町から鳥取こども学園へ

藤野:しかし、70年でまた挫折というか、行き詰まって、もう1回、労働運動をやり直そうと、東京に出てきたんです。そのころ長女が生まれたんですが、同い年の女房も教員で組合運動をやっていましたので、ふたりともいつ首になるかわからない。とにかく食べていかなければいけないというので、吉祥寺で、ウニタ書店という本屋を始めました。神田にあったウニタ書店から、その名前をいただきました。
 石油ショックのときは、横浜の寿町で、日雇い労働者が失業してホームレスになっていたので、反失業闘争をしていました。そのときは、野本三吉(*1)なんかといっしょでした。カンパを集めたり、炊き出しを1年半ぐらい1日も休まず続けて、寿日雇い労働者組合をつくったり、『どっこい!人間節』(監督・湯本希生、構成・小川伸介1975)という映画の上映運動をやったりもしました。
 そこで骨をうずめようと思っていたんですが、家族が「鳥取に帰って来い」という。僕は7人きょうだいの男一人なんですね。それで姉たちがうるさくてね。「寿でやり残していることがあるから、俺はゆっくり帰るから」と、女房に頼んで先に帰ってもらってたんですが、自分はなかなか帰れない。そのうち、女房が怒り出して、頭から一升瓶の酒をかけられて、ようやく帰りました(笑)。寿の仲間には、「たぶん2年ぐらいしたら親は死ぬだろうから、また帰ってくるから」と話して、家財道具から何からぜんぶ寿に残して、鳥取に帰ったんです。ところが、女房の看病もいいし、結局は両親を見送るまで15年経ちました。ともかく、鳥取こども学園で働くこととして、1976年12月1日採用となりました。当時、鳥取こども学園は80名定員の児童養護施設で、そのころから8ホームの小舎制(*2)でやっていました。最初は、その指導員ということでした。

増田:鳥取こども学園は、最初から小舎制だったんですか。

藤野:小舎制に切り替えたのは、1960年に建物を建てて、1961年からです。建物を建てなければ切り替わりませんから、建てながら、順次、移行していきました。

増田:1961年から大舎制から小舎制への移行が始まったんですね。いまだに大舎制の所があるなかで、とても早いですよね。

藤野:最初は文字通り、10人の子どもに1人の職員配置でした。二つのホームが双子ホームみたいになっていて、一人の職員が休みのときには両方みられるようにしていました。幼児さんは四六時中いるので、幼児ホームと年少児ホームが二つくっついた格好になっていました。そういうかたちでしか、小舎制にはできなかったんですね。東京都も長いこと小舎制でやっていますけれども、やはり8人のホームが二つくっついているんですね。そういうかたちでないと、できないんじゃないかな。それが、いいんじゃないかと思っています。


●不登校との出会い

 鳥取こども学園で、僕が最初に受け持った子どもが、不登校の子だったんですね。当時、小学校3年生だったと思います。寿町では、ストリートチルドレンがいて、学童保育をやったりしていましたけど、僕は不登校なんてぜんぜん知らなかったんです。児童相談所からは、その子のケースの厚い児童票が来て、そこには箱庭療法の写真がいっぱいついていました。でも、僕にはぜんぜんわからなくて、本を探したんですけど、平井信義さん(*3)の『登校拒否児 学校ぎらいの理解と教育』ぐらいしか資料がなかったんですね。それを読むとタイプが分けられていて「自主性が育ってないのだから、まずは放っておきなさい」と書いてありました。僕は、当時は「学校へ行かせればいいんだな」と思っていたんですが、その子は、施設に入ってすぐ、学校に行きだしました。学校へ行って、ちゃんと発表したりもするんですよ。ところが、正月を越して、お母さんに会わせたら、それからしばらくして、また行かなくなりました。不登校については、彼から徹底的に学びましたね。
 その後、あらためて、うちのケースを見たら、1974年ぐらいから、すでに、不登校の子どもがどんどん入ってきていました。その後、入ってきた小学校6年の子どもは、平井信義さんのタイプ分けによると、「優等生の挫折型」というようなタイプで、次に入ってきた子どもは「怠学」というタイプ。僕は学校へ行かせればいいと思っていたものですから、毎朝、ホームに迎えに行ったんです。それで、「行けるところまで行こう」と言って、今日はしんどくなったらここまで、電信柱のところまでとやっていました。結局、1年以上かかって、ようやく学校にたどり着いたとき、その子は、校門の前でランドセルをポーンと投げ出して、ばあっと走っていなくなりました。探したら、川べりにいてね。「だいたいこんなところ(うちの施設みたいなところ)があるけぃ、行けんだがなぁ」と言っていました。そんないろんなことがありました。ところがその後も、そんな子がどんどん来るようになりました。


●全面受容を問われた

 その後、うちが「高校全入と18歳までの養護保障」という運動をやったんです。僕が1976年に来て、1978年4月入学の子どもたちから、高校全入をかかげました。その前は、うちにいた9人の中3のうち、高校に行けたのは2人だけでした。7人が就職です。非行がピークのころです。そのころから1985年にかけて、中学校が大荒れに荒れましたからね。養護施設の場合、成績優秀な子どもだったら、高校に行かせるというふうになっていたんですが、僕らは「それはおかしいんじゃないか」と。成績が悪くて、品行も悪くて、そのまま社会に出たらどうなるかわからない子ほど、高校へ行かせて、施設でみるべきではないかということで、「うちは全員行かせます」という方針をとって、かなり、いろんなことをやりました。その結果、全員、高校へ行かせることができました。80名定員の養護施設で、28人の高校生、しかも非行がピークのころです。品行が悪くて、成績も悪くて、このまま社会に出たらどうなるかわからん子ほど、高校に行かせて施設でみるんだということをやったものですから、ほんとうに大変でした。
 要は、全面受容を問われたんです。たとえば「悪いことをしたから、もうみられません」というようなことをすれば、誰もいないようになるぐらいの状況でした。週に1回は、かならず高校生の会を開いて、高校生に「鳥取こども学園を君らがつぶそうと思ったら、すぐつぶれる。なんとか良くしようと思ったら、君らががんばったらよくなるから」と言って、「いっしょに良くしようや」「君らになんでも相談する」と言いながら、高校全入運動をやりました。うちの職員は全員が住み込みで、若い人ばっかりだったですからね。結婚したら辞めるというような時代でしたから。28人の高校生が生まれて、そこからいろんなことが変わっていったんです。変わらざるをえなかった。たとえば、職員の通勤制を導入するとかですね。だから、全面受容を問われました。僕は、この高校全入運動があったから、その後、情緒障害児短期治療施設(以下、情短施設)をはじめ、いまのいろんなことができる施設になったんだと思っています。


●不登校の治療として養護施設に

 児童相談所からは、難しい子でも、どんな子でも、とにかく、あそこに持っていけばいいやとまわしてくるので、大変な子を、いっぱいうちが引き受けたんです。それで、職員も鍛えられました。不登校の子どもについて言いますと、その当時は全国的に、養護施設に入れれば学校に行くようになるというので、不登校の子どもの治療の場として、養護施設が使われるようになっていました。

増田:どうして、児童養護施設に行くと学校に行くようになるのでしょうか。

藤野:たとえば集団登校でしょう。平井信義さん流に言えば、主体性が育ってない子どもが養護施設に来て、子どもたちの流れに逆らうのは、これはよっぽどの力がないと逆らえません。子どもたちはいっしょに誘って行きますから、行くんです。そこで行けない子どもは、施設から逃げ出します。それで、よく家まで迎えに行って、連れて帰って、というようなことをしていました。「施設に帰ったら、学校に行かざるをえないから、いやだ」と、家の便所に立てこもったりする子もいました。それをかなり強引に、また連れてくる。児童相談所でも、学校に行かずに閉じこもっている子どもを強引に連れてきたり、そんなことをした時期がありました。ところがね、うちの場合で言うと、8人のホームのうち、1〜2人が、そういう子だったら、学校に行くんですけれども、3〜4人が行かなくなったら、今度は、行っていた子まで行かないようになるんです。ある時期は3〜4割がそういう子どもになりました。

増田:3〜4割というのは、すごいですね。

藤野:うちは4人部屋と2人部屋、1人部屋があったのですが、ベッドに目張りをして、暗くして、そこから出てこない子どもだとか、いろんな子どもがいて、住み込み断続勤務なんて成り立たなくなってきたんです。
 これは、何とかしなければとなって、山陽3県に情短施設があったので、僕が最初に受け持った子どものケースをもって、「こういうことをやっているのですけれども、どうなのですか」と、情短施設を見てまわりました。最初、岡山の津島児童学院へ行ったら、そこでは、生活部門と治療部門と教育部門がありました。生活部門は、養護施設のほうがはるかにすぐれているなと思いました。津島児童学院は当時、夜は岡山大学の学生がアルバイトで来ていたりして、「ちょっとひどいな」と思いました。教育部門も、うちは80名定員の養護施設で、公立の学校に通っていますから、教育部門はそのほうがいいなあと思いました。津島児童学院は、当時は同じ敷地内に2人ぐらいの教員がいて、そこへ行けば学校という感じの、まだ学校にもなっていない感じでした。

増田:院内学級みたいな感じでしょうか。

藤野:そうです。教育部門もうちのほうがいいな、と。それで、問題は治療部門ですね。結局、精神科医とセラピストを養護施設に連れてくればいいということになりました。そこで、ボランティアで週1回来てくれる精神科医はいないかと探したら、僕の友人で同級生が、島根で小児病棟のある病院の院長をやっていたんですね。しかも、そこには学校もあるんです。その友人に頼んだら、うちの近くの国立病院の医師が週1回ぐらいで来てくれるようになりました。それからは、しょっちゅう、うちの施設の子どもが、そこに世話になっていました。
 山陽3県を見て回ったとき、山口は学校型の情短施設でした。学校の寄宿舎みたいなところに、不登校の子ばかりを集めて、養護学校みたいな格好で、不登校の子どもを合宿させてめんどうをみていました。
 広島は、その当時、杉山信作(*4)先生が、がんばっておられました。児童相談所と併設で、どちらかというと病院みたいな、きれいに整って、生活のにおいがしない、病棟型の施設でした。
 それらの施設を見てまわって、結局、僕は、あくまでも児童養護施設でいきたいと思ったんです。何より生活を大事にしたかったんですね。そこで、児童養護施設に治療的機能を付加するということで、まずは1週間に 1回、ドクターにボランティアで来てもらおうと。そうしたら、若い医者で一生懸命やっている人を紹介してもらったんですが、その人が、いまのうちの川口孝一ドクターです。彼が国立病院から派遣されて、来てくれたんです。彼は、一生懸命やってくれて、「ここは1週間に1回来ていても追いつかない。臨床の宝庫だし、僕は病院を辞めてここに来る。指導員でもいいから」と言ってくれたんです。それだったら、医者として来てもらわなければいけないし、だったら情短施設をつくろうという話になりました。それで、生活型の情短施設をつくることになったんです。


●情短施設を開設

 1996年は鳥取こども学園の創立90周年だったんですが、その記念事業として、情短施設の併設、OB会館の建設を主とする第1次5か年計画を91年1月19日の理事会で決めました。また、91年に厚生労働省が不登校・ひきこもり児童指導強化施設の指定をして、若干の心理職をつけて、若干の補助金をつける事業をやって、それに乗っかって500人ぐらいの登校拒否を考えるシンポジウムを鳥取で開いたんです。そこで、「情短施設を併設します」と、みなさんにも披露して、鳥取県民生部、教育委員会、病院関係などで検討委員会をつくって、2年の準備期間をもって、93年に施設名を鳥取こども学園希望館として、管理治療棟及び工作室の建設に着工しました。そして、94年4月1日に開設しました。
 当時、養護施設の8つのホームのうちの4ホームがひとつの棟にあったんですが(2階が2ホーム、1階が2ホーム)、その1棟を情短施設の宿泊棟として、管理治療棟を新たに建てたんです。養護施設の80名定員をふたつに分けて、児童養護施設は45名に減らして、情短施設は入所30名、通所10名でスタートしました(現在の通所部門は15名定員)。また、養護施設のほうは、4ホームのほかに、ひとつのグループホームをもって、45名と30名に分けました。施設長も2人に、職員も倍増しました。しかし、子どもたちは、動かしませんでした。情短施設と分けないで、児相と協議して、措置だけ変えたのです。だから、最初は一つのホームに情短措置の子どもと養護措置の子どもとが、ごちゃまぜでした。職員もそのままの職員と、新しく入った職員が、ごちゃまぜでしたしね。でも、職員が増えましたし、情短の定員が30名ということで、専門職のセラピストも3人増えました。そこで、「ああでもない、こうでもない」と言いながら、いろんなことをやりながら、やってきました。
 最後まで残ったのは、学校の問題でしたね。生活部門や治療部門は何とかなりましたけれども、問題はやっぱり学校だったんです。まず、検討委員会のなかで、公立の中学校から、「なんで鳥取県下から、そんな問題を抱えた子どもばっかりを公立が引き受けなければいけないのか」と言われました。でも、僕らは「これまでだって、80名定員の養護施設から、みんな中学校へ行っていたじゃないですか」と反論してね。「情短施設になったからといって、ひとつも変わるわけじゃない、いままでだって難しい子をみてきたんですから」と言いました。その結果、中学校には情緒障害児クラスを設けることになりました。
 通所部門もあったので、僕らとしては、通所部門の教育保障を求めて、教員の派遣をお願いしたんですが、なかなか学校が動かないので、高校で校長をされていた方を施設長に持ってきたんです。教育長候補にまであがったような人だったので、そうしたら、すぐ動きました。分教室に教員を派遣してもらうという格好になりました。
 運動の結果、今は中学校は分校になっていて、教頭以下、けっこうな人数の先生が来てくれています。小学校は人数が少ないので、分級です。分校・分教室には、うちの通所部門の職員が教員といっしょにいろいろ関わっています。それでも、やっぱり学校というスタイルになってしまうので、当然、そこに入らない子どもはいっぱいいます。そういう子どもたちには、「てくてく」という名前のフリースペースを開いています。


●施設内にフリースペース

増田:同じ敷地内で、ですか。

藤野:教育棟と言うんですが、通所部門の2階が学校になっていましてね。その1階がフリースペースみたいになっています。両方とも、うちの職員が関わっています。

関川:自由な雰囲気のフリースクールみたいなものですか。

藤野:そうです。それと、過年度生が来ます。中学校を出てしまって、でも受験は目指している子とかですね。うちに来る子は、たいてい「あそこに行けば高校に入れる」とか聞いて、中3になってから来たりするんです。もうちょっと早く来ればいいのにと思うんですがね。

増田:比較的、学校にいづらい子どもたちが集まっているのですか。

藤野:いやいや、いまは虐待ですね。すさまじい虐待のトラウマを抱えたり、発達障害を抱えたり。不登校というのは、結果ですから。

増田:そうですね。行ってない状態ですね。ということは、もともと養護施設にいる子もいるということですか。

藤野:いまは、養護施設と情短施設は分かれています。

増田:養護施設で不登校になった子は、こちらに移るのですか。

藤野:そういうことは、ありません。養護施設で不登校の子は、けっこういます。分教室に通所している子も、していない子もいます。いま現在も、学校へ行けなくて、ずっと引きこもっている子が一人います。その子は、通所部門に入って学校に行っていたりしましたし、いろいろ連携して対応をしていますけれどもね。


●通学の形態は多様に

増田:情短施設は、地域に開かれているということなのですか。

藤野:もちろんです。通所のほうは、いろんな地域から来ています。入所も児相を窓口に、いろんなところから来ています。県外からもけっこう来ています。あまり県外を受けると鳥取の子をみられないからというので、県外の定員は6名までになっていますが。学校のことについては、とにかく、子どもに合わせて、通学形態はいろんなかたちをとれるようにしています。原籍校から籍を移さずに通所部門に通ってくる子、本校の情緒障害児学級に行く子、それから本校の普通学級に行く子。子どもの実態に合わせて、登校形態はいろいろにしましょうということで、やってきました。
 ところが、だんだん、そのあたりが変わってきて、学校のほうは、どちらかというと、やっかいな子は分校へとなってきました。希望館(情短施設)に来た子どもがどこに通うかは、就学指導委員会で検討することになっています。「いままで、養護施設の80名の子どもは、みんな学校に行っていたじゃないか」と、いろいろやりとりはしましたけれども、いまは、就学指導委員会で決めているんですね。もちろん子どもの希望を聞いて、うちも方針を出して、だいたいは、うちの方針で行くんですけれども。
 養護施設の子の場合は、施設に入ったら、次の日からすぐ学校に行けます。しかし、情短施設の子は、すぐには学校に行けない。「情短の子だけが、なんでそういうことをしなければいけないのか。おかしいじゃないか」と僕らは言っているんですが、いまは、そういうシステムです。全員を検討しますからね。子どもが情短施設に入ってきたら、教育委員会に話をしなければいけない。ケースについても、事前に話をしなければいけない。養護籍の子は、そんなことはない。養護施設に来る子でも、情短施設に入ればそのようなシステムになります。
 希望館の事業概要は、僕が検討しながらつくったんですが、施設での治療的援助、生活療法、個人心理療法、集団心理療法、家族療法、園での生活、ホームでの生活を大事にしています。それから教育についても、原籍校への通学、施設の子どもたちが通っている地域の学校への通学、希望館分教室への通所などが考えられますが、通学のどのかたちを選ぶかは治療のなかで判断されます。また、園内分教室独自の教育生活活動に参加したときは、原籍校でも出席扱いとなります。入所後まもない観察適応期間や、治療導入期にある場合には、希望館分教室を使います。それから、症状そのものが、登校及び教科学習そのものに支障となっているため、情緒障害児学級などに在籍しても通学できないという場合、通所部門に措置された場合ということで、そこの分教室に通うと規定しています。とにかく、自由に、選べるようになっていました。ただ、僕もいまは離れているので、いまはちょっと変わってきているかもしれません。
 僕が、まだ指導員のころ、月刊『社会福祉研究』で「総合子どもホームの試み」を掲載しました。うちは、情短施設と養護施設ですけれども、両方コミコミでやっているわけですね。それが理想で、そういうことができるような総合子どもホームをつくろうと提案したんです。それから、「子どもと家庭」という題名で、厚生労働省の機関誌のようなものに書いたこともあります。「養護施設における不登校児童の処遇」をテーマに書いてくれと言われたんですね。たとえば養護施設に入所すれば登校できるわけですが、そこでの、不登校児の治療の場としての養護施設の利点と問題点などを書きました。養護施設における処遇の実際、タイプによる処遇の違いなど、うちで実践してつくったマニュアルですね。

増田:子どもに合わせた処遇ということは、子どもの多様性を尊重して、子どもとつき合っていくということでしょうか。

藤野:そうです。


●費用負担は

増田:ところで、情短施設の運営費というのは、どのようになっているのですか。

藤野:措置になっていますので、措置費は、以前は国が8割だったのですが、いまは、都道府県と国が半額負担になっています。措置が残っているのは、養護施設や社会的養護の部分ですね。それと、虐待を受けている障害児です。措置が残っているのは、少ないですけれども、僕らは、その措置を残してくれと言ってきました。措置というのは、行政処分で、親から子どもを取り上げるということも含んでますね。

増田:児童養護施設もそうですね。

藤野:そうです。情短施設もそうです。

関川:利用している人たちは、お金を払わなくてもいいということですか。

藤野:いえ、措置の場合は、負担金というかたちで、収入に応じて何十段階かあります。生活保護家庭の場合は、負担ゼロです。

増田:うち(越谷らるご)がやっている自立援助ホームは、子どもが働くようになったら利用料を払ってもらうのですけれども。それなりに負担してもらうという感じなのですか。

藤野:そうですね。たとえば、情短施設の場合、収入の多い方は全額負担のこともあります。それが、とくに通所の場合はネックになっているんです。通所の費用は、入所の半分となっています。知的障害の通所に準ずる扱いです。通所は不登校の子がけっこう多いんですが、「学校から被害を受けて学校に行けなくなったのに、なんで私たちからお金をとるんだ」と言われる人もいます。収入が多かったら、たとえば月額20〜25万円になることもあります。全額となったら、誰でもすぐやめますよ。効果があがればいいいですけどね。なかなか、そんな急に学校へ行ったりするのは無理ですからね。

増田:それは無理ですね。フリースクールの高いところでも、1カ月5〜6万円です。

藤野:実際には、ほとんど負担のない人が多いです。希望館では、措置でない場合は費用徴収はしないので、通所部門は正式な措置で来る子は少ないんですね。しかも、うちの場合は正式な措置でなくなっている子も、来る子はめんどうをみています。1年近く通っているのに、措置になっていない子がいっぱいいます。

増田:一般に児童生徒が不登校になって、さて、困ったという場合は、親はたいてい学校や教育委員会に相談しますよね。適応指導教室に行ったり、フリースクールに行ったりすると思うんですが、情短施設を利用する場合は、児童相談所に相談されるのでしょうか。

藤野:そうです。学校が紹介する場合もいっぱいあります。

増田:鳥取こども学園の場合は、活動が認知されているから、学校が紹介したいという流れができていると思うのですけど、私のいる埼玉にも情短施設が1カ所あるものの、まだ一般的には知られていないように思います。

藤野:情短施設も、いろいろですからね。通所部門をやっている情短施設は少ないです。


●不登校という言い方をやめよう

増田:私たちは、不登校が登校拒否と言われている時代から市民運動をやっています。登校拒否・不登校は病気ではないというところから出発して、運動に入ってきています。いまは、文科省も「不登校は問題行動ではない」という認識です。これからの情短施設は、どうなっていくのでしょうか。

藤野:情短施設は、不登校の子どもを矯正する施設ではありません。だから、僕らは「不登校という言い方はやめよう」と言っています。というのは、不登校という言い方では、本質が見えないんじゃないかと思うんです。学校へ行く・行かないが問題なのではなくて、その子が抱えている問題こそが問題なんでね。いろんな問題を抱えて、結果として、学校に行けなくなっているように思います。
 僕は、よく引き合いに出すんですが、中学2年ぐらいまでは1日も学校に行かずに、ずっと不登校だった子が、高校へ行ったら、今度は1日も休まずに学校へ行っていたんです。こういう場合は、異常なことだと思わないといけない。案の定、高校に入ったとたんに、今度はすさまじい摂食障害になって、大変な状況になったんです。子どもが抱えている問題を脇に置いて、学校へ行くか行かないかの問題にしていたら、そういう不幸が起こる。実際に、その子の抱えている問題にきちっと対応する必要がある、ということだと思います。

増田:情短施設は、不登校の子のためにつくった施設ではないということですね。

藤野:そうです。もともと、情短施設というのは、非行がピークのときに、早期発見・早期治療を目的につくられたものです。ですから、かつては、おおむね12歳までという規定があったんです。僕らが、情短施設をつくったときには小学生まででしたし、大阪児童院は、ずっと小学生まででやってきていました。その後、不登校が表面化してきて、入所対象が移ったり、そのときどきの問題に移っているわけです。

増田:そのときどきの社会現象に照準が移るということですね。

藤野:ですから、いまは虐待の問題と発達障害への対応が中心になっています。いま、情短施設は全国でだいたい39〜40カ所になっていて、次々にできてきています。


●小規模化には反対?

増田:今後も、厚労省としては増やしていくような方向なのでしょうか。

藤野:ええ、もちろん増やす方向です。いま、虐待や発達障害の対応で、情短施設はますます必要になっていると思います。全都道府県に1カ所はつくろうという話になっています。しかし、東京都は情短施設はつくらないと宣言しています。

増田:東京都には、ないのですか。

藤野:ないです。一時、東京都の局長さんだったか、うちに来られて、都立の養護施設の何カ所かを情短施設にしたいとおっしゃっていたことがありますが、その後、石原都知事になってから、その話は立ち消えになりました。東京都は、情短施設のようなことをやっている養護施設には、職員の費用をつけています。いろんなタイプの養護施設をやってくださいという制度になっています。
 社会的養護の課題と将来像は、施設の小規模化、生活単位を小規模化していくことで、個別ケアを徹底していくということです。いま、塩崎厚生労働大臣直轄の検討委員会ができていまして、先だって9月16日のヒアリングでは僕も話をしたんですね。大勢としては、社会的養護に養子縁組を入れ込んでいこうという方針のようですが、そのヒアリング中で全国情短施設協議会の副会長は、小規模化には反対だということでした。しかし、うちなんかは、徹底した小規模化、小規模ケアでやろうとやってきたわけです。建物も建て直して4ホームを5ホームにしました。30名定員で5ホームですから、1ホーム6名の少人数です。ところが、「難しい子がいっぱい入ってきているので、小規模化すると問題がいっぱい出て、職員が受けとめきれない。だから、小規模化には反対だ」というんですが、それはないだろうと。

増田:それが仕事ですよねえ。本末転倒ですね。

藤野:それは、ないですよね。結局、集団でみようとするから、管理になっちゃうし、外からの枠付けになってしまう。部屋に鍵をかけたり、包丁を置かないとかね。うちの施設に、ほかの情短施設の人が見学に来られたら、「ここはちゃんと包丁があるんですね。プラスチックじゃないですよね」と驚きます。でも、鍵をかけまわったり、包丁を置かないなんて異常ですよ。何それって思います。むしろ、生活のなかで子どもたちといっしょにやればいいことです。徹底して「うちは小舎制でやります」と言っています。実際にうちを見学して、「小舎制でやろう」というところがけっこう出てきていますから、僕らとしては、その小舎制のグループで何か研究会を持とうと話しているところです。

関川:国の方針としては、人数も増えているし、職員の仕事も大変だから、小規模化には反対ということなのですか。

藤野:国ではなくて、全国情緒障害児短期治療施設の全国協議会のいまの流れとして、そうなっているということです。だから、僕らは、反主流派です。委員会のヒアリングのときは、福岡の児相の所長さんが「鳥取こども学園の情短施設も小舎制でやっておられるようですけれども、そのへんはどうなんですか?」と質問されたら、副会長が「反対です」とハッキリ言ってたんですね。あれは、議事録に残るなあと思っています。

関川:子どもたちにとっては、小規模のほうが、ずっといいですよね。

藤野:いいと思います。職員は大変ですが、そうでないと、前に進めないですよ。

増田:私たちもそう思います。

藤野:先日、福岡の小倉で西日本の養護施設のセミナーを開いたら、600人ぐらい集まりました。そこでの井上雅彦さん(鳥取大学)の基調講演が、非常によかった。発達障害についての話でしたが、発達障害は一人ひとりちがうんだと言うんです。個別に、一人ひとりにプランを立てて、さらに、ある程度経ったら、その一人ひとりに社会的スキルも含めてプランをていねいに組み立てていかないと、発達障害への対応はできないと話されていました。だから、ますます小規模の生活単位でないとできないということを言われたと思っています。情短施設に関しては、そのあたりをこれから議論していきたいと思っているところです。

増田:フリースクールのやり方と重なる部分があります。フリースクールにも、最近は「発達障害かな」という子どもたちも入ってくるんですね。やっぱり、一人ひとりちがうので、それぞれの子どもに向き合って、子どもから学んでいかないと、コミュニケーションもとれないし、いっしょに何かをつくるということも、道筋も見えてこないです。管理することなんて、できないですよね。お話をうかがいながら、共感しました。


●入所者のその後は?

関川:いろんな不登校のお子さんたちと関わっていらっしゃったわけですが、そのお子さんたちは、いまはどうしていらっしゃるのでしょうか。

藤野:みんな、それぞれです。高校全入のときに、高校に行って卒業した子も中退した子もいますが、とくに中退した子については、その後、こういうふうに歩んでいますという表をつくったことがあります。一昨日、鳥取こども学園の110周年で、OBたちが100人ほど集まりましたけれども、僕らは、初期のころについては申し訳なかったなと思っています。これは、わからなかったですからね……。

増田:私たちもそうでした。

藤野:わからないから、学校へ行かせればいいと思ってね。施設に来ているのは、過剰適応している仮性適応期だと考えて、それが過ぎたら、そこからが勝負で、そのときに行かせるべきだと考えていました。そのときが勝負だからと、子どもを担いで学校へ行ったこともあるんですよ。たしかに、それでうまくいったケースもあるんですけれども。先日、集まったOBのなかには、その当時の子がいてね、「先生、いまは、ここの子たちはいいなあ。わしらは、担いで行かされた」と言っていました。その人は、いまは畳職人になってらっしゃるんですが、自分が職人になって、若い子を鍛えようというとき、フラッシュバックが起こるんだと言うんです。「いやあ、それはほんとうに申し訳ないなあ。それはカウンセリングを受けたほうがいいよ」って言ったりしましたが、そんな話もあります。

関川:不登校自体は問題ではなくて、その子の背景とか、その子の抱えている状況が問題だとお思いになったきっかけというのは、その経験からということなのでしょうか。

藤野:いろんな子がいたんですが、とくに、かなりトラウマを抱えた子も来ていましたからね。きっかけは、先ほどお話した、1日も行かなかった子が急に行くようになって、その子が高校生になってから、ひどい拒食症になったことでした。それは、やっぱり問題を見ていなかったんだと気づかされました。それと、うちの川口ドクターも、一生懸命そのことを言っていますし。川口ドクターも含めて、情短施設では、不登校に関する本を分担して読んで、レクチャーして、みんなが共有しようとしたんですが、そのときにだいぶ整理できましたね。


●子どもの持つ力を信じる

 いまは、かなりの議論をして、生活型の情短施設でいこうとしています。養育と治療という概念がありますね。うちは、治療ではなく、養育でいくのだということです。トラウマの問題にしても、たとえば阪神大震災でも、トラウマを抱えた子もいれば、そうでない子もいる。これは、人間の持つ自然治癒力みたいなものです。養育、生活型というのは、そういう人間の持つ自然治癒力、それを大切にしていこうということです。うちの事業計画には、必ずその文章が載っています。これは、ほんとうに大議論してつくったもので、つまりは、子どもの持つ力を信じるということです。

増田:不登校というのは現象であって、不登校そのものが問題というよりも子どもが抱える背景が問題なのであって、だから一人ひとりの子どもに向き合って、情短施設で子どもといっしょに過ごすスタッフをそろえて、ずっとやってこられたというお話ですね。

藤野:僕は、養護施設も情短施設も、ぜんぜん変わらないと思っていたんです。養護施設に治療機能を付加すればいいと思っていたんだけれど、情短施設という看板を掛けたとたんに、難しい子が束になって、ばあっと来た。養護施設でも、1年に何人か難しい子は来ていたんですけどね。そうすると、やっぱりちがうんです。だから、ほんとうを言うと、うちが最初にやっていたように、健常児も障害を抱えた子どももいっしょにホームが分散してできればいいんですが、なかなかそうはいかないです。
 それと、養護施設の子どもと情短施設の子どもとでは、回転がちがうんですね。養護施設の子は、スパンが長いですが、情短施設は短いですね。ところが、うちなんかは、情短施設から大学に行ったりする子もいます。おおむね12歳までが入所対象のときも、高校生まではなんとかみさせてくださいと言ってきました。どこの施設でも、中学まではみていますが、高校生はダメだということになっている。でも、高校生になったら、措置を変えればいいじゃないですか。そうやって、ホームを変えずに、子どもの実態に合わせてきたんです。ところが、そういうことが、だんだん難しくなってきましたね。

増田:まだまだ興味が尽きず、もっとお話をお聞きしたいところですが、今日は社会的養護施設と不登校という貴重なお話をうかがうことができました。ありがとうございました。

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*1 野本三吉(のもと・さんきち):1941年、東京都生まれ。教育学者、評論家、ノンフィクション作家。横浜市立大学名誉教授、沖縄大学学長も務めた。本名は加藤彰彦。

*2 小舎制は、1舎につき12人までの児童が住む。生活の単位が小集団で、家庭的な生活体験を営むことができる。

*3 平井信義(ひらい・のぶよし/1919〜 2006):児童心理学者、医師。ウィーン大学でハンス・アスペルガーに学び、自閉症を研究した。

*4 杉山信作(すぎやま・しんさく):1945年、岡山市生まれ。精神科医。1975年、現在の広島市こども療育センター(前の児童総合相談センター)に着任。子どもの情緒障害・発達障害の臨床に携わり、同センター愛育園長、医療部長、センター所長を勤めた。2011年3月に定年退職し、現在は広島市で開業医。

posted by 不登校新聞社 at 20:21| Comment(0) | 施設関係
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