2016年12月08日

#09 石川憲彦さん

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(いしかわ・のりひこ)
1946年、神戸市生まれ。精神科医。東京大学医学部卒。1987年まで東大病院を中心とした小児科臨床、とりわけ障害児医療に携わり、共生・共学の運動に関与。患者の子どもたちが成人に達したことなどから、東大病院精神神経科に移る。1994年、マルタ大学で社会医学的調査を開始し、1996年から静岡大学保健管理センターで大学生の精神保健を担当。同所長を経て、現在は林試の森クリニック院長。著書に『治療という幻想―障害の医療からみえること』(現代書館1988)、『こども、こころ学―寄添う人になれるはず』(ジャパンマシニスト社 2005)、『みまもることば: 思春期・反抗期になってもいつまでもいつまでも』(ジャパンマシニスト社 2013)など多数。また、雑誌『ちいさい・おおきい・よわい・つよい』編集協力人で、毎号、同誌に記事を載せている。

インタビュー日時:2016年9月21日
場 所:林試の森クリニック
聞き手:山下耕平、栗田隆子、山田潤
記事編集・写真撮影:山下耕平

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〈テキスト本文〉

山下:まずは、ご自身の子ども時代、学校経験からうかがいたいと思います。

石川:私は戦争直後(1946年)の生まれ。ある意味では、日本社会がどん底の時代に生まれたわけです。しかし、それは当時の世界のほとんどの人と同じ地平にいたということです。食うや食わずやで生きていながら、どん底で不安も大きかったけれども、そこから何かが開けるという開放感があった。そういう時代の空気のなかで育ってきました。
 学校はというと、まず幼稚園や保育園には行けませんでした。家の経済事情もあって、日曜日だけ隣の人に教会学校に連れていってもらいました。近所では、4〜5歳から中学1〜2年までの子が混ざって遊んでました。戦後すぐの神戸は焼け野原で、廃屋だとか、あやしげなものもたくさん残っていましたね。いまの神戸市の岡本のあたりですが、まだ田んぼも多かった。でも、4人兄弟の一番下だったこともあって、みんなが学校に行ってしまうと、ぽつんと家に残されてしまう。みんなが学校から帰ってくると、ようやく遊べる。学校って、どんないいところなんだろうと思ってました。だから、学校に行けたときは誇らしくてね。ようやく認められた、みたいな思いがありました。
 それと、戦後の学校は牧歌的な、開放された感じもあって、あまり、いやな記憶は残ってません。もちろん怖い先生がいたり、子どもどうしでケンカしたり、いろいろあったけど、私は病弱だったんで、イヤなときは都合よく体調が悪くなって、小学校の前半は、3分の1くらいは休んでいたと思います。学校を休んだとき、すごく楽しみだったのは、給食のコッペパンをザラバン紙にくるんで届けてくれたことです。けっしてうまくはないけど、友だちが届けてくれるのはうれしかった。そういう郷愁というか、楽しかった思いがあります。


●生活の場としての学校

山下:子どもどうしの人間関係は、異年齢で地域にあったわけですね。

石川:日本中、どこでも地域で異年齢で遊んでましたよ。同じ学年でしか遊ばなくなったのは、70年代に入って、都市部から少しずつ変わっていったように思います。
 大人の子ども観も、いまとはちがいました。戦争直後だから、栄養状態も悪いし、とにかく生きてくれてさえいれば、あとのことはどうでもよかった。それは親と教員の共通の願いでした。北村小夜さん(*1)がおっしゃってましたが、北村さんが教員になったころは、子どもたちは汚い服を着て、ノミやシラミもたかっていて、風呂にも入ってない。それで、北村さんが「今日は銭湯に行こうか」というと、子どもたちは大喜び。親も学校で銭湯に連れていってもらえるんだから、ありがたい。教員も楽しい。三者、利害が一致していた。学校は生活の場、暮らしの延長にあったわけです。
 私が、学校をイヤだなと感じだしたのは、中学校になってから。家から近かった灘中学校に行ったんですが、灘中学校というのは、もともとは酒屋さんの建てた平凡な学校だったのが、経済の変動を受けて受験校に変わっていく過渡期にあたりました。成績の評価がすべてで、教員の態度も、学業しだいであからさまにちがった。当時、朝日新聞が「教育か飼育か」と書いていたほどです。だから楽しみは学外に求めていました。でも一方でエリート意識はあって、それを苦痛の代償としていたように思います。

山下:時代は、高度成長期に入る時期と重なっているわけですね。

石川:そうですね。だんだん、学校の空気も変わっていったんだと思いますが、勤務評定で先生が締め上げられ始められるのは……。

山田:1957年ですね。石川達三の小説『人間の壁』は、そのころの勤務評定をめぐる闘争を描いています。しかし、勤務評定それ自体は徹底されず、やがて形骸化して、教職員の職場としての自由な雰囲気はまだしも保たれていました。

石川:いまから思えば、まだまだ牧歌的だったですよね。私が大学に入学したのは65年で、学生時代は教会学校やYMCAで子どもと付き合うことも多かったんですが、そのころでも、学校に行ってない子の問題は、まだ表面化していませんでした。当時、問題になっていたのは、カギっ子です。そういう子が開放的に遊べる場をつくろうということで、週3日くらい、集まりを持っていました。そこには、いまだったら診断名をつけられそうな子も来ていましたが、そんなことおかまいなしに、みんなで、わーわー、ただ遊んでいました。


●不登校との出会い

山下:学校に行かない子に出会ったのは?

石川:小児科医になって、東大で1年研修して、2年目に静岡県藤枝市の病院に勤めていたときです(74年〜75年夏)。自分の楽しかった学校の思いもありましたし、当初は、「え、なんで学校へ行かないの?」という感じで、素直にびっくりしました。

山下:当時の石川さんの見立てはどんな感じだったんでしょう。

石川:二人と出会ったんですが、ひとりは、正直に言って、よくわからなかったんです。精神科の教科書を読むと、「学校恐怖症」だとか「分離不安」だとか書いてありましたが、あまりあてはまらない。いまから思えば、たんに学校がイヤだったんだよね。でも、当時の私の学校イメージからは、それがわからなかった。
 私は子どもとキャンプしたり遊ぶのは好きだけど、小児科医だったし、それまでは個別に面接して話を聞く経験もなかった。ただ、つれあいは児童精神科の看護師をしていたことがあったので、「私はよくわからないから、会ってくれる?」と、お願いしました。その子は、当時は小学校5年生の女の子でしたが、いまはお母さんになって、いまでも、つれあいのところには年賀状が来ています。
 もうひとりは、当時はヒステリーと診断。いまで言う身体化障害(*2)や解離性障害です。当時、中学生の女の子でした。自殺企図もあって入院してきました。この子の場合も、ほんとうは、よくわからなかったんだけど、病室にいるかぎりは、命は守らないといけないという職業倫理から、とにかくわかったふりをして対応していました。話を聴くと、家にも学校にもいづらい、しんどい状況があったんですね。その子が退院するとき、「これでもう会えなくなるね。だって、命に影響しない人は診ないでしょう。私より苦しんでいる人がいるんだし、私なんかワガママだから、来ちゃいけないでしょう」と言われて、私のほうも、思わず「来ればいいじゃん。時間を決めておいでよ」って言って、その後も病院に来ていました。でも、私が東京に戻るころには、その子も高校生になって、そこで、いったん終わりました。
 もともと私の専門は神経学で、脳性まひなど脳のことは専門だったんですが、不登校のことはまったくわかっていませんでした。精神の弱い子という見方が私になかったかというと、あったかもしれません。
 たとえば身体に障害のある子が学校に行くと、教員からも生徒からもいじめられ、ひどい目にあっていた。知的に障害のある子で、ウンチやおしっこをなめさせられた子もいた。それでも学校に行っている。それなのに自分から行かないなんて、という思いはありました。まあ、倫理的に洗脳されていたわけです。

栗田:倫理的に洗脳って、すごいですね。


●日本の学校と倫理

石川:日本の学校は封建的倫理に支配されてきましたからね。だから、学校へ行かないことは道徳的に悪になってしまう。欧米であれば、学校というのは、行ったほうが出世するから得で、行かないのは損、という感覚が第一。つまり、損得の問題です。ところが、日本では、行く人は尊くて徳のある人で、尊徳になってしまっている。学校には二宮尊徳像がありますしね(笑)。欧米と日本では、学校の成立基盤がちがうわけです。学校の役割は、農民社会を工業社会につくり替えること、近代市民を養成して近代社会をつくることで、その時代の資本の要請に従うものです。欧米では倫理は教会が教えるもので、学校で教えるものではない。行かないと損するけれど、人間性は関わらない。
 私が94年から2年間、マルタにいたときには、学校に行かない子が5人に1人くらいいて、親がそれをほめることもあった。「おまえが行けないなら学校のほうに問題がある」という感じで、よく親が教師と怒鳴り合いのケンカをしていました。学校なんて植民地支配のなかでイギリスが持ち込んだものだし、小学校も出ないで腕に技術を身につけている人のほうが、大学出よりも給料が高かったりしましたしね。
 アメリカは、もっと徹底している。サンディエゴ滞在中に新聞を読んでいたら、教育委員会が全校長に「不登校が増えているから、学校に行く意欲を高めるために、校長は子どもが帰るときに25セントずつおこづかいをあげるように」と指示したと書いてありました。お金を稼げるようになるには学校に来たほうが得だよということですね。
 しかし、日本は道徳が残っている。損得ではなく尊徳だから、行かない人は徳に欠ける人、尊も徳もない人と見なされてしまう。これは、きついです。だから、子どもは身体の訴えで示すほかなくなるわけです。
 アメリカでも、school phobia(学校恐怖症)と言われていた時代、50年代ごろまでは、日本と似た状況があったのかもしれません。ところが、だんだんと、 school non-attendance(不登校)というように、言い方が変化していきます。70年代になると、アメリカではハッキリと、不登校問題は貧困や怠学の問題が中心とされていきます。60年代のある時期から起こった質的変換が、70年代にはハッキリしてきたのです。

山下:日本の学校の倫理というのは、どこから来ているものでしょう?

石川:日本の学校も、農村基盤を壊して、近代化・工業化を進めていく手段であったことは西洋と変わりませんが、一方では臣民教育、天皇の民となるための教育でもあったわけですね。それでも、戦前までは農村基盤が5割をしめていましたから、そこにある豊かな自然風土、そこに生きる人間集団のルールと大きく矛盾しなかったんだと思います。しかし、戦後は、そこが崩されていった。そういうなかで、学校に対する倫理支配は、長く社会管理に利用され続けました。この10年ほどは、だいぶ薄れてきたように思いますが、まだ残ってますでしょう。

山下:共同体が崩されてバラバラになるところを、国民として統合するものとしての倫理ということですね。

石川:ただ、そこには最初から差別があります。明治時代の小学校令では就学猶予・免除規定をつくっていますが、第3次小学校令(1900年)では「病弱または発育不完全」などを猶予に、「瘋癲、白痴、不具廃疾」を免除にすると明確に規定していたんです。つまり、てんかんや知的障害の子などは学校に行かなくていいということになっていたわけです。もっと言えば、第1次小学校令(1886年)では、貧乏な子も行かなくていいということになっていた。学校制度は、そういう差別的倫理のなかで、つくられていったものです。


●障害児運動と不登校は

栗田:障害児が学校から排除されてきた問題と、不登校の問題は、ご自身のなかでは、どのようにつながっていったのでしょう?

石川:私が診ていた子で、病気で入院して身体が不自由になったとたん、普通学校に来るなと言われたことがあったんですね。これには腹が立った。こんなに一生懸命に生きている子に「来るな」というのはけしからん。学校に対して初めてもった怒りでした。
 一方で、東大病院に戻ったころ(1975年)になると、小児科に連れてこられる不登校の子が増えてきました。言葉でイヤと言えないと、身体の症状で示すしかない。原因不明の熱などが続く。原因が心理的なものとわかると、心理の人たちといっしょに関わるようになりました。その東大病院の心理の人たちは、「どの子も普通学校へ」という運動をしていたグループでもあったんですね。
 当時の東大の小児科というのは、ラディカルな医者が集っていました。それでも古い権威主義は残っていて、心理などパラメディカルの人たちは、子どもが医者の都合で動かされることに対して、「医者の専門性で付き合うから、よけいしんどくなる子がいる」と言って、医者とケンカしながらやっていました。
 夏には「治療キャンプ」と称して、野外で遊ぶことを心理的な治療としていたんですね。そこに障害を持つ子が加わるようになって、キャンプの意味が変わっていきました。親子だけではなく、「どの子も普通学校へ」の運動に関わる教員や学生ボランティアなども含めて、いろんな人が自由に集まって、ゴチャゴチャとやるようになった。
 しかし、そうなると、病院が治療の一環としてキャンプを開くのは難しくなってしまう。そこで、77年に「医療と教育を考える会」という任意団体をつくって、大学のなかに事務局を置くというかたちで活動を始めました。治療キャンプとはちがい、全員が平等で、経費も全員、同額に負担。一昨年まで続きました。
 そのキャンプに、学校を休みはじめて3カ月の小6の男の子を誘ったんです。彼は平井信義さん(*3)の言うところの「優等生の落ちこぼれ」という感じの子でした。
 その子は来るなり、「ユニークな人たちの集まりですね」と言ってました。「なんで、こんな子たちといっしょにされたの」とは言えなかったんでしょうね(笑)。それでも、4日間、彼なりに車イスを押したり、いっしょに水に入って遊んだりして過ごして、何かを感じたんでしょう。帰る前の晩に、「先生、ちょっと付き合って」と呼ばれたんです。浜辺で、彼は「泳げるか見ていて」と言って、泳いで帰ってくると、「僕、こんど学校に行くよ」と言ったんですね。「どうしたの?」と聞いたら、「学校を休んだら人格ができた」と。つまり、学校では人格がなかったということですよね。「じゃあ、なんでそんなところに戻るの?」と聞いたら、「だって、みんなそうだから。僕、教員になりたい」と言っていました。
 学校を人格のできる場として、みんなに取り戻したいと思ったんでしょうね。そのときに、私が障害を持った子が学校から閉め出されるのに対して感じた怒りと、彼の言っていた人格を持てない学校というのが、自分のなかで結びついたんです。それでほんとうにわかったかどうかはわかりませんが、私が学校に感じていた開放感や希望、みんなが豊かに生き合うために、みんなが助け合っていこうという自由な開放感は、いまの子どもたちからは奪われているんだと思ったんです。そこで、不登校という課題と、障害という課題は同質だと、納得がいったんです。それで、それ以降は、不登校の子が来ても、専門性なんかいらないと思って、キャンプに行くことが治療だということにして、毎週末、ドライブしてキャンプして遊んで帰ってくることをしていました。キャンプでは、中学生でも酒を飲んだり、博打したり、勝手にしゃべってたりね(笑)。そういうふうに付き合っていると、みんな、なかなかおもしろかった。

山下:医者の専門性を脇に置くというのは、なかなかできないことですよね。


●当事者にとってはあたりまえのこと

石川:もうひとつ、未熟児網膜症の問題を通して、気づくことがありました。保育器の酸素濃度が濃すぎると起きてしまう問題なのですが、これが医療ミスだということで指弾されていました。しかし、そこで医者に向かっては「おまえたちは目を奪った」と言っていた人たちが、学校に向かっては「目が見えないくらい何が悪い」と言って、普通学校で学ぶことを求めていたんです。この矛盾をどう整理できるのかと悩みましたし、そこで運動から脱落した医者も多くいました。でも、当事者にとっては、そういう問題なんですね。学校があり、人間がいる。医療があり、人間がいる。ただ、人間が人間として生きることを求めているだけ。あたりまえの生に必要外の重圧がかかったり、問題があれば、そこを回避することもあれば、ノーと拒否することもある。このあたりまえのことに、医者という立場になって対応しようとすると、矛盾に引き裂かれる。そういうことが初めてわかって、それ以後、医者としてではなく、人間の問題に付き合うしかないと思って、やってきました。ただ、そうは言っても、医者の立場には戻されるんだけどね。

山下:障害児を普通学校へという運動と、不登校は噛み合ってこなかった問題でもあると思います。石川さんのなかでは、すんなりと噛み合ったんでしょうか?

石川:当初、学校のことはよくわからなかったんです。障害を持った子の医療に関わりはじめたころは、「勉強についていくのが大変な子には、特別な手助けも必要じゃないか」とも思っていました。ところが、40年ほど前、「子供問題研究会」で篠原睦治さん(*4)に一喝されたんです。「石川さん、学校を勉強する場だと思ってるでしょう。そうじゃない。子どもにとっては生活の場なんだよ。いっしょに生き合う場なんだ」と。つまり、シャバだというんです。たとえば、遺伝的に耳の聞こえない人が多い島があって、そこに行くと、みんなが口でしゃべると同時に手話をしている。シャバでみんなで生き合っていくには、生きるなかで必要なことをみんなで学び共有しないと、特定の人が特定の場で特定の技術で特別の人と接しているのでは、やっていけない。それは精神の問題でも同じで、たとえば、ひとりが何かを「怖い、苦しい」と言っていることを、「俺は怖くない」と言う人もいて、おたがいに両者が居合わせるからこそ、文化の多様性が生まれる。心とか精神っていうのは、そういう異質な全体性があるところで、はじめて生まれてくるものです。差異を重んじる。だから、不登校の場合でも、目の前に学校に行きたくない子がいるときに、私は自分の感覚ではわからないから、みんなで集まって話そうと呼びかけて始めたのが、医療と教育を考える会でした。

山下:学校について言えば、健常者と障害者を分ける別学体制は問題だということですよね。それと、不登校を認めるというのは、一見、矛盾するように思えますが?

石川:いやなときは行かないというのも、集団への参加のひとつのあり方でしょう。いろんな集団参加がある。多動の子なんかが、幼稚園から飛び出していくこともある。でも、また戻ってきたりもする。それをじっとしていなさいというのはバカげているわけです。その子なりの参加の仕方がある。ひきこもったまま社会に参加するということもある。ずっとひとりでいるなかで、集団とは何か、社会とは何か考えている、それは参加していることでしょう。それぐらい多様なのが人間性。その多様性を学校でも認め合い含みこむべきです。でも、自由というと、何かの問題があって、ひきこもらされて、そこで苦痛を感じていることまでが本人の自由なんだからと責任放棄されかねないので、注意は必要ですが。


●児童精神医学の動きとは

山下:70年代には、すでに児童精神科医のあいだでも、学校恐怖症の診断は問い直されていたと思いますが、石川さんは、当時、児童精神医学の動きとは関係していたんでしょうか?

石川:私は小児科医だったので、直接関係はありませんでした。精神科は、なんだかわからない無縁の世界でした。とくに、当時はユングやフロイトの影響がまだ強かったですから、医学という気がしなくて、別の世界だと思っていました。
 ところが、80年代に入ったころになると、稲村博さん(精神科医)のところで、閉鎖病棟に入院させられている子からの告発が出てきた。戸塚ヨットスクールのこともあり、頭に来ましたね。このころから、障害問題と並んで、不登校についても、発言し始めていると思います。

山下:それは何年ぐらいからのことでしょう?

石川:84年ごろからだと思います。同じころ、箱庭療法など不登校の心理療法も流行していました。学校に行きたいというのに苦しんでいる。そこに助けの手が必要だということでしたが、だからといって、なぜ病院に入院させられたり、心理療法なのか。治療より生活のなかでの解決が大切だと私は思っていました。それで、89年に学会で「登校拒否の「治療」とは何か:稲村助教授の言説に即して」と題して発表して、「不登校は何もしないと9割はよくなる」と言ったんです。その後、福島医大の星野仁彦さんが、「不登校は入院治療してもなかなかよくならない。よくなるのは6割」とか発表しているのに、その発表を引用して質問もした。「治療するからよくならないんではないか?」みたいな(笑)。何をもってよくなるとするか。彼は学校に戻る率を言っている。私は楽しく元気になることを言っている。だから、噛み合わない。
 その以前、70年代末ごろから、日教組の障害児部会に共同研究者として関わりはじめました。同じころ、養護教員のあいだで不登校のことも話題になっていました。そのあたりから、奥地圭子さんたちからも声がかかったりして、だんだん不登校運動と関係ができてきたんだと思います。


●稲村問題について

山下:88年に稲村博さんの「登校拒否症は早期に治療しないと30代まで尾を引く」という見解が朝日新聞夕刊の1面トップに出て大問題となって、その後に開かれた緊急集会には、石川さんも出ておられましたね。稲村さんについては、この以前から問題とされていたということでしょうか。

石川:稲村さんの治療方針については、記事になる前から批判していました。入院体験のなかで、いろいろひどい目に遭った人が来ていましたからね。
 緊急集会の際、奥地さんは「登校拒否は病気じゃない」と言ったわけですが、私は、この言葉はカッコ付きだと発言しました。あのときの状況に対しては、当然、怒りとして言わなければならない主張だったのは当然ですが、つきつめれば「あらゆる人は病気じゃない」ということまで言わないといけない。「登校拒否は精神障害じゃありません」といって、そこに線引きをはかることになるとしたら、それはたいへん問題です。ただ、そういう問題意識以前に、閉鎖病棟の状況など、もっとひどい状況がありましたから、一度はそう主張する必要があった。

山下:児童青年精神医学会のなかでも問題になっていましたが、そこには関わっていたんでしょうか?

石川:1988年ごろから人権委員会に参加しました。河合洋さん、川端利彦さん、小澤勲さんらが、同じような立場で主張していたと思います。不登校について一番発言されていたのは渡辺位さんだと思いますが、渡辺さんは学会と一歩距離を置いていましたね。学会全体としては、むしろ戸塚ヨットスクール問題が大きかったと思います。稲村さんの問題については、閉鎖病棟での入院治療への批判があって、学会内の人権委員会が問題にしていました。


●子どもと親と

栗田:30年くらい前から、NHKのラジオ相談に出ておられますが、親が聴いていたので、私も自然と聴いていたんですね。いつも、親から相談があるのに、親とすれちがっていますでしょう。どうしたら学校に戻れるのか、わが子をどうしたらいいのかと相談しているのに、その意識をいかに崩していくかと応えられている。よく、これで会話が成り立っているなって(笑)、ドキドキしながら聴いてました。相談というより問答ですよね。子どもと関わるというのは、親と対峙することも必要ということかと思いますが。

石川:小児科医は子どもの話を聴いて、子どもの側に立つことが多い。私も大人なので親と同様、洗脳されていて、子どもと出会うまで気づかなかったことが、たくさんあります。もちろん、親だって、一生懸命やっているわけですね。だから、心理の人とチームを組んで、子どもと親と分担して、それぞれの味方になって話を聴くというのが基本スタイルでした。

山下:87年に、小児科医から精神科医になったというのは、どういう事情からだったんでしょう?

石川:医者になって14年も経つと、子どもたちが大人になってきていました。内科的な病気とか身体のことは診てくれる人も多いけど、知的障害、精神障害、発達障害の人は、大人の精神科に行くと、ほとんど誰も対応していないというのが当時の実感でした。それと、ある時代によかった治療というのは、「賞味期限」を考えないといけません。大人はその場でいいけれども、子どもはそういうわけにはいかない。長く付き合う必要があるんです。それで、精神科医として、大人になっても付き合っていきたいと考えたのです。さらに、内部理由もありました。職場内部に亀裂があって、私はそこに挟まれる立場だったんですね。くわえて精神科で子どもを診る人がいないという事情もありましたが、最大の理由は、自分の診てきた子どもが大人になってきた、ということでした。


●「病気」「障害」とは何か

山下:「病気じゃない」の話に戻りたいと思います。石川さんは、そもそも病気とは何か、治療とは何か、治るとはどういうことなのか、治すとはどういうことなのかを問うてこられたと思いますが。

石川:何が病気かというのは、ほんとうはよくわからないんです。社会の病気観はどんどん変わってきています。たとえば「アル中」なんて、昔は文学的でカッコいい言葉でしょう。それぐらいでないと人間的じゃないというニュアンスもあった。そういう文化背景を別にして、人類が共通して何を病気と考えるかというと、急性疾患ですよね。いままである状態から、急に何かのきっかけで状態が悪くなる。このとき、早く元の状態に戻りたいという願いは、生き物としても、人間の精神性としても自然なことだと思います。ですから、急性疾患を病気と呼ぶことに抵抗感はありません。もちろん事故の場合もあるけど、その場合も、医学が関与することは当然と了解できますね。
 しかし、それ以外の現象について、何を病気と呼ぶか、障害と呼ぶかは、非常にあいまいです。たとえば、ガンをどう考えるか。80年代のジャイアンツに牧野茂さんというの名ヘッドコーチがいましたが、彼は「シーズンが終わるまでは、ガンなんかどっちでもいい」と言って、手遅れになって死んでしまった。まわりは「早期に治療すれば治っていたのに」と思いますが、彼はガンで死んだのか、みずからの生き方をまっとうして死んだと捉えるのか。これは文脈によってちがうわけです。長期に続く状態をどう捉えるかは、私はいろんな見方や裁量を置いておくべきだと思います。
 急性疾患に関しても、厳密に言えば同じなんですが、これはまあ人情としてわかる。命に関わることはしょうがない。命は二度ないですからね。ほかのことは多様性がある。ですから、命がからむものは病気と認めてもいいと思ってます。精神障害の場合でも同じです。命がからむくらい、しんどいとか、つらいとか、苦しいという場合は、病気と呼んで、医学的手段を使うことを否定しない。
 ただ、医学的手段というのは、いったん方向を決めたら、医者はそこからそれないほうがいいんですね。医者がその価値判断に加わっては、いくらでも人を生かしも殺しもできてしまう。医師に対してはルールや治療法など、医療的制約が必要です。でも、それは権力として医者は縛るが患者を縛るものであってはならない。そこが、いまは逆転しているわけです。医師は自由で、患者を縛るためにルールや治療が語られることがある。とくに昔は実験治療が多かったですからね。そういう人権問題もあります。だから、障害や不登校を「治療」という言葉で語る際は、まず社会的文脈で語ることが必要です。

山下:「障害」という言葉も、社会的文脈で見ることが重要ですね。

石川:「障害」という言葉は、新しい言葉で、国際障害者年(1981年)の前は、一般にはよくわからない言葉でした。国際障害者年は、medicaly orientedから、socially orientedへ、医学主導的世界観から、社会主導的世界観へということを掲げていました。
 そのころ、青い芝の会(*5)は「障害は個性だ。病気じゃない」と言ったわけです。ここの対比における病気と個性は、素直にうなづけます。それは社会的文脈を見よ、身体的文脈だけを見るな、と言っているわけですね。私も、この文脈において、障害と病気は明確に区別すべきだろうと思っていました。しかし、いまは病気も障害も社会的文脈で再整理しないといけないと思っています。我々が使うレッテル用語全体を考え直さないといけない。障害という言葉も、権力的に力関係が定められている言語ですからね。しかも、医療権力は圧倒的です。
 また、青い芝の会は、「愛と正義を否定する」と言いましたでしょう。牧口一二さん(*6)は「自分はクリスチャンだから、この言葉には引き裂かれる思いだった」と言ってましたけど、でも、そこに含められていたのは、ものすごい真実だったと思います。


●反精神医学について

山下:社会的文脈をみるというのは、精神医学では反精神医学という潮流になると思いますが、石川さんは反精神医学については、どのようにお考えでしょう?

石川:反精神医学の思想には基本的に共鳴しますが、私は医学否定論者ではありませんし、疑問に思うところもあります。たとえば、反精神医学に立つ多くの人は、電気ショック療法に反対してきました。私も、当時の電気ショック療法には反対していました。しかし最近、ある一定の範囲内では、多量の薬を使うよりも有害性は少ないということがわかってきました。これは認めざるを得ない。ですから、形式的に否定するものではないんですね。しかし、反精神医学など人権を訴えた人たちのなかには、電気ショックや身体拘束には反対しても、多量の薬を使うこと、薬による管理はよしとする人もいました。これは医者としてはおかしいです。薬という猛毒を使って、脳を操作しているわけですからね。あるいは、脳外科手術はダメで薬による操作はいいというのも形式主義です。医者は医学的見解のベースに立つべきで、その自制を持ったうえで反精神医学を考えないといけません。私はその安易さは、自己批判し続けています。

山下:東大病院ではどうだったんでしょう?

石川:東大病院の精神科は大学闘争で二分し、病室(通称:赤レンガ)は完全に開放病棟化していました(*7)。しかし、その結果、どうしても引き受けられない患者を、よその閉鎖病棟に送ることもまれにありました。それまでの檻を廃してカギをかけないので、誰かが飛び出したら、みんなで追いかけることになる。でも、そこには限界があるわけです。病院という特殊なところではなくて、地域のなかで折り合っていかないと成立しにくいことです。そういう意味では、イタリアのトリエステの取り組み(*8)は、それなりに評価できるものです。
 そこでも、拘禁をまったく認めないわけではありませんが、拘禁する場合は、よっぽどの場合をのぞいて24時間以内に拘禁を解くことが原則です。そういう制約を病院がみずからに課しながら、戻れる地域を最大限に創造しないといけない。しかし、そういうふうに地域を巻き込んで変わろうとしないで、病院の中だけで反精神医学をやろうとしたために、どこでも、反精神医学の動きはつぶれていってしまいました。


●生活を足場にできない?

栗田:生活の場としての学校が奪われている。人格をなくしていく場になっている。それがおかしいというのはわかるんですが、私自身、自分が経験してきた生活というのが、はたしてどういうものだったかと考えると、それを足場にはできないとも感じます。

石川:だからこそ、ですよね。それは子どもや若い人たちだけの問題じゃなくて、私たちみんなの問題です。そもそもを言えば、人類は弱い哺乳類だからこそ、共同で生きてきたんですね。それと、ウソこそ人間の文明や文化の本質です。動物をワナにかけてとらえるというのもウソを使うわけでしょう。それは人間が弱いからです。まともにやったら勝てないから、ウソやトリックを使う。
 生活のイメージが湧かないという背景には、いろんな問題があると思いますが、少なくとも私たちが人間として生きていて、そこには敵対関係もあるけど、ひとりだけでは生きられないから、最終的には、みんなが協力して生き合う方向を目指していく。それが生活ということだと思ってます。

栗田:すでにある生活というよりも、目指していくものということでしょうか?

石川:そうですね。私自身、生活を奪われていると思います。たしかに、私には戦後の牧歌的な学校のイメージだったり、そこに一定の生活イメージはあります。戦後のどさくさの生活のなかで、欠乏のなかで、ひとりでは生きられないから、一生懸命、いかに助け合って生きていけるか、模索していた時代のイメージ。しかし、それは戦後が特殊だったというより、いまの状況のほうが特殊なんです。人類はずっと欠乏を生きてきたわけですからね。欠乏を体験していない生物って、ここ数十年の我々だけですよ。それも人類のごく一部だけのこと。その特殊な生き方が奪ってきたものがある。
 いま、日本の農業人口は4%を切っているでしょう。食べ物を自分たちで得ていくということをしている人がほとんどいない。ある意味で、みんな、まっとうには生きていないわけです。昔の苦痛だった労働をしないでも生きられている。しかも、そんな豊かさや自由さを大事なものとして受けとめられるかというと、それもできていない。情報産業社会のなかで、どう生きるかに追われて、苦しくて、将来がわからなくて、どんどん先の見えないところに追い込まれている。そういうふうにして奪われているものを、どう取り戻していくことができるか。自分に与えられた命の摂理を壊さずに、ときにウソをついたり、やりすぎても「ゴメンな」ぐらいで、迷惑をかけ合って生きていけること。それが私の生活のイメージです。もちろん、全員が農業に戻れというわけではないですが、そのまっとうさから生み出されてきた文化を、私たちが生きるなかでどう共有しなおすことができるか。

栗田:生活に関わる仕事というと、介護などケアワーカーは女性が低賃金で担っていますよね。それも問題だとは思いますが、石川さんは、欠乏を前提に助け合うことを、生活のイメージに置いているわけですね。

石川:これから、そうなると思います。私たちの身体は、欠乏を共有するように、40億年かけてつくられてきたんです。そのなかで人類が選び取ったパターンが、人間一匹ではやられてしまうから、おたがいに守り合って、ちょっとズルし合って生きるということです。40億年かけてつくられたものは、簡単には変わりませんよ。生き物学的にそうなっている。にもかかわらず、いまはまったくちがう豊かさを生きているわけですから、その豊かさ自体が本質的に怖いし、何かを失っているのだと思います。それに、いまの豊かさが成り立っているのは世界の一部の人間だけだからで、世界の全人口がこの豊かさを享受できることはないでしょう。
 もちろん、いますぐ欠乏に向き合えと言われてもできないと思います。また、欠乏したからといって、すぐに助け合う生き方が戻るとも思わない。大事なのは、その時代が来たとき、楽しめるかどうか。エネルギーを消費しなくても楽しめる。ネットも、ある意味では、そういう文化になりつつあるということだけど、それがほんとうに、生きていて楽しいと思える文化を創り出せるかというと、あやしい。

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●足場の見えないなかで

栗田:お話はわかるんですけどね。昔の話を聴くと、労働現場でサークルをつくっていたりして、良くも悪くも労働文化がありますよね。いまの私たちには、そういうイメージも湧かない。イメージの湧かない人が「生活」という言葉を聞いても、抽象論になってしまうように思います。

石川:言葉の問題じゃないでしょう。私は、自分の時代に原点として持っていることを、生活という言葉で語っただけです。それは生活という言葉でなくてもいいわけです。自分のリアルな原点にどういう言葉をあてるかは、新しい時代の人が考えたらいいことです。

山下:学校恐怖症が問題化したのは、高度成長にともなって、生活が消費に置き換わっていった時代ですね。学校も労働も、めまぐるしく変化して、農業から工業へ、情報産業へと、モノと関わることから離れていったわけですね。そういう状況への違和感から学校恐怖症的なものも出てきたように思います。あるいは、そういうものが「障害」と名指されてきた。石川さんに教わったことですが、社会のオーダーが変わることで、ディスオーダー=障害が増えてきたわけですよね。そこで障害なり病気なりと言われた人たちが、抵抗できる足場を持てずに、医者にかかったり、カウンセラーにかかったりして、その枠組みのなかで自己規定している。発達障害などは、その典型ですよね。そこが、すごく苦しいところではないでしょうか。

石川:まったくそうですね。

山下:大ざっぱに区分けすれば、高度成長以前を知っている世代は、それを原風景として、それを足場として、これはおかしいと言っているように思います。ところが、その後の世代は、それが難しい。そして、不登校やひきこもりが本格化したのは、その世代からですね。

栗田:だから、身体とか症状に出て、身体は社会的なものをあらわす依り代ではあるけど=社会ではない。だから容易に、薬とか病院とか、狭いところに吸い取られてしまう脆弱さがありますよね。そこから抵抗する足場をつくっていくことが困難な状況は広がっていると思います。

石川:それは、ほんとうにそうだと思います。ただ、いまはたしかに足場が見えなくなって空疎になったように感じているけど、生き物であるかぎり、足場としての身体性はなくなりはしない。助け合って生きていく、その機構は生き物としての人間に豊かに残されていると思います。いまは、煽られるなかで、意識がちがうところに向けられていますけどね。そこに気づかせないように、ちがう方向に向かわせるような圧力を権力側は持っている。その力は圧倒的で、私たちの力はとても及ばないように見えるけど、ほころびは出てきているから、チャンスはありますよ。あるとき、ふっとちがうものが見えて、その瞬間に気づかされること、そこで出会うこと。そこから、これまでとはちがう経験を共有しうるんだと思います。

山下:そこにいたるまでが、きついですよね。足場を壊されていて、そこに立てないなかで、そのむかつきみたいなものが、「人格障害」みたいなかたちで現象化して、依存症や暴力の問題にもなっているように思います。

石川:きついですよね。まだ、これからもっと壊れていくでしょう。それが、過去に幻想を持てる人間に比べたら、ずっときついのはあたりまえだと思いますが、その先に、次の風景が広がると思います。たとえば、障害者運動に関わったころは、「みんなで迷惑をかけ合おう」と言っていました。いまは、同じことを熊谷晋一郎さん(*9)などは「依存先を増やそう」と言ってますね。そういう言い方のほうがわかりやすければ、それでいいんです。同じことです。
 しんどくなってきているのは、上の世代の人間も同じです。でも、生き物としての人間を考えたら、その命や生き物を産みだした原点である空も太陽も空気もあるわけですからね。それくらいまで戻らなかったら見えないことって、あるように思います。


●いまの親子に届く言葉は?

山田:1996年に、箱根で登校拒否を考える夏の全国合宿が開かれたとき、石川さんがシンポジストのひとりで、私が司会をやっていたんですが、そのとき、私が「二次症状」という言葉を使ったら、石川さんに「それは何ですか?」と指摘されたのを覚えています。登校拒否は病気じゃない。けれども、学校に行かないことを異常視する社会が子どもを追いつめて、二次的に病的なものが現れる。それが当時の親の精いっぱいの理解だったんだと思います。とくに母親は、「子どもの育児はおまえに任せておいたはず」と責められ、子どもと父親の板挟みになって、四苦八苦していた。しかし逆に言うと、そこに、90年代いっぱいを通じて、親の会が力をもったエネルギーの源があったように思います。ところが、2000年代に入ったあたりから、その元気がなくなって、親の会の力は限界に来ています。もう旧来のスタイルでは続かない。そして、そのきわみで、教育機会確保法案が出てきて、親の会は分裂してしまった。この30年間ほどの動きをちゃんと考え直さないといけない時期に来ていると感じています。
 いま、私がいちばん気になっているのは、貧困による長期欠席です。学校基本調査の統計を見ていると、貧困を理由にするものが全国で100もないんですね。ところが、たとえば大阪の門真市では、中学生の7〜8%が不登校で、しかも80〜90年代までの親の層とは、ぜんぜんちがう層で不登校が起きている。そして、この子どもや親の気持ちを語る語彙がないんですね。一方で教員のほうも、長期欠席に経済的な問題がからんでいるのはまちがいないのに、それを見る力がなくなっていて、不登校に分類するほうが無難ということになっている。難しいところに来ていると思います。欠乏のなかで、一生懸命、生きようとしている人たちに、語彙を与えるというのはおこがましいですが、そこに届く言葉を生み出していく必要があると思っています。

石川:不登校という言葉で共通軸を求めるところから解放されていかないと、言葉は見つからないでしょうね。でも、そのためにも、不登校から出発することに、ものすごく意味はあるから、とことんこだわってほしいとも思います。こだわることは大事だけど、しかし、そこから次に開かれていく、普遍的な視野に開かれていかないといけない。その問題が持っている大事さをデリケートに捉えつつ、そこにとらわれすぎて足をすくわれないことだと思います。
 それと、「貧困」というのも、よく考えないといけませんね。日本で生活保護を受けている人は、たとえばモロッコに行けば大金持ちです。もちろん相対的貧困の問題だから、いっしょにしてはいけないけど、我々の考えている貧困は、お金がないと生きられないというイデオロギーに洗脳されすぎて、お金に縛られているわけです。私は、否定する言葉におびえるのではなくて、大胆に、貧困のなかから「ここを目指そう」と言えるような共通用語を見つけたいですね。

栗田:貧困問題でも、学歴を持つことで就職しやすくなる、だから学力保障をということになってますね。それは方便や処世術としてならわかるんですが、こういう言葉だけで貧困を語っていいのかは疑問ですね。不登校の地平で見えてきたものが後退している。ここでも、共通の言葉が見いだせないでいるように思います。

山下:いまの貧困は、生活が消費になっている問題の一側面ということでもありますね。社会学者の見田宗介さんは、「二重の疎外」と言っています。貨幣でしか生活できない社会へと疎外されているから、貨幣からの疎外=お金がなくなることが問題になる。貨幣ではない経済があった社会で貧乏というのと、貨幣でしか生きられない社会でお金がないことの意味は、まったくちがうわけですね。言葉を換えれば、足場がない。そのなかで、不登校は、いまの社会を相対化して、足場を取り戻していくきっかけにできるものだったと思います。この社会でやっていけると思っているうちは、がんばってしまう。がんばろうと思っても無理になって、ようやく気づくきっかけになる。


●ピンチからの希望

石川:たとえば、モーセの十戒では、人間世界について言っているのは、「殺すな」「姦淫するな」「盗むな」「偽証するな」「隣人の家をむさぼるな」の5つです。それをやっちゃおしまいよ、ということ以外は言っていなかったわけです。ところが、ユダヤ民族が奴隷生活から解放されて国家をつくっていく時代になると、律法主義になって、やたらルールが細かくなって、社会は、ごく一部の富裕層と圧倒的な貧民層に分かれていく。貧民層がまとまることのできる言葉がない。そこに登場してきたのがイエスですね。
 イエスの言う愛は、日本人にはなじみが薄いですが、いま、そこで生きている人間どうしが信頼し合え、大切にし合えということでしょう。それ以外のことは排除していく。イエスは私生児で、革命主義者で、いちばん差別されている人間とともにいて、そこに天国があると主張して、あげくの果てには権力から犯罪者とみなされて殺されていった。抵抗して、軍事革命すらできずに、十字架にかけられて殺されたわけです。でも、そういう人間の最貧の敗北者を、神の子だと認める宗教が世界に広がったというのは象徴的なことだと思います。まあ、私は隠れキリシタンなので、その思想に拠るわけですが、もちろん、宗教に縛られなくていい。人類はそんなふうにデザインされた生き物なのだということを押さえたい。
 大切なのは、人類はそういうことをくり返しながら成長してきたこと。日本の敗戦も、その小さな例でしょう。あのとき、もっと徹底していれば、もっとちがう地平が生まれたかもしれません。私が言う生活というのも、その地平が生み出したものです。でも、これから世界を襲うものは、当時の敗戦よりも、もっと大きな意味を持ってくるでしょう。それは現象としては貧困や苦悩と見えるかもしれない。でも、生き物はずっと、栄養素のないなかで、どう生き残るかというところで、生きてきたわけです。たとえば肥満というのも、栄養欠乏状態に対して備えようとする身体のつくりがあるから、食べ物が足りる状況が続くと問題化する。我々は欠乏になったときにこそ、本領を発揮できる身体を与えられているんです。ユダヤ教からキリスト教へというのも、そういう身体性の一つの象徴的表現です。私たちは、そういう歴史を背負いながら生き物として生きている。ピンチで苦しいときほど、そこから出てくる希望は大きい。いまは、誰をどう信頼していいかわからないけど、そこから人と出会って生まれてくるものが人を生かすのだと思います。
 それが局地的なものではなくて、全世界的なものとして語る共通言語にならないと本物にならない。マルクスの時代だったら、「全世界の労働者よ団結せよ」という言葉に、一定の意味はあったけど、その限界もあった。いよいよ、それよりももっと深く、我々の言葉をこれから苦労して見つけていく時代でしょうね。

山下:しかし、不登校の場合でも、そこから見えていた共同性があるのに、それが消費社会に呑み込まれてきているように感じます。そういう意味では、教育機会確保法案は象徴的ですね。あるいは、阪神大震災でも、東日本大震災でも、いっとき見えていたはずのものが、またたくまに消費社会に呑み込まれているように感じます……。


●もがくしかない

石川:そうですね。それが、ずっと、くり返されてきた人間と権力とのダイナミズムです。しかも人間は昔のように、見えるかたちでなく、権力に操作されるようになった。権力を持つ側ですら自覚がない。その解決方法はわからないけど、もがくしかないでしょう。そのもがきにおいて生を共有していくしかない。いろんな人間が生きている。言葉も、ぶつかったり葛藤しながら見いだしていくほかないと思います。そこまで分解されながら、それでも残っていくものを見いだしていけばいい。みんな、まだ生きているわけですし、そこから始まるんだと思います。

山下:石川さんのおっしゃることは、極論すると、破綻してから先のことですね。破綻が前提にあって、その先の普遍性を見据えている。しかし、当面の問題として、いまの学校や働き方をどうするかを考えたとき、そこでどうしたらよいのかは、みんなが見えにくくなっているように思います。たとえば、生活の場としての学校といっても、現実のいまの学校は、それと真逆の方向にありますね。理念としてはともかく、具体的には、どこにそれを見いだせるのか、苦しい問題だと思います。そこで、自殺などの問題も起きている。いまの問題については、どうお考えでしょう?

石川:たとえば障害児の問題にしても、特別支援教育によって、細かく分断されて、そこにはまっているあいだは、何も見えなくなってしまっています。むしろ分けてもらったほうがありがたい、もっといい指導を、ということになってくる。そのなかで、我々はもがかざるを得ない。もがこうが、もがくまいが、分断のなかで人を求めて生きていくことには何の変わりもないわけです。ただ結果がどうなろうと、もがいたことがぜんぶムダになることはない。ムダだというのであれば、生きるってこと自体、ムダです。やがてはみんな死ぬんだから。でも、そうじゃない。そのなかで生きていく。一つひとつを大事にして、いたわりあったり、つむぎあったりする。それをブルドーザーみたいにつぶそうとするものには抵抗するしかない。

山下:もがくことと、逃げることは、つながっているように思いました。いまは、逃げることも難しくなっていますが、逃げつつ、もがきつつ、ゲリラ戦をやっていくようなイメージでしょうか。

栗田:局地戦とかね。

山下:全体を押し返すのは無理ですしね。

石川:この「バラバラに散らされていることこそ共通している」というなかで、闘っていくということでしょうね。少人数でしか共有できなくても、そこで共通できるものでないと普遍性もない。昔のような大きなスローガンには、どこかウソがあるんです。私たちの世代にも、どこかウソやゴマカシがあった。だから、まちがいだったということではなくて、そこで生き残ったもの、大事であり続けたものは、いまの時代のなかで、もがきつつ大事にしていく。すでに、大きな力で進歩、進化、前進するような歴史観は崩れています。その歴史観は、我々の世代までは支配していましたが、いまは崩れています。崩れていいんです。変な幻想がなくなったところから、一人ひとりが、もがいていくことでしょうね。

栗田:このプロジェクトも、もがきのアーカイブスになっていく、みたいな(笑)。

山下:不登校でも、かつては大人が高度成長モードに乗っかっていったのに対し、子どもがそこに乗らないという問題だったわけですね。しかし、いまは大人世代が崩れて、不登校は楽になった面もある。それは、かならずしも悪いことじゃないですね。

石川:そうですね。一昔前には、管理教育×反管理教育の時代があったけど、管理教育というのは、管理する方向が見えていたからできたことです。だから反対するほうも方向が打ち出せていた。それはモノを生産する時代だったからです。それが情報社会になったなかで、誰もわからないところにいる。それに気づいて、それでもどっこい生きている。そこで共感できるものを、ようやく大事にできる時代に近づいているとも思っています。


●オルタナティブ教育はエリート養成?

山下:フリースクールのあり方も、80年代のような枠組みでは考えられなくなりましたね。文科大臣が「未来のエジソンやアインシュタインを発掘する」といって、安倍政権がフリースクールを支持する時代です。

石川:フリースクールやオルタナティブスクールなんて、いつの時代もそうですよ。たとえば、イギリスのイートン校も、最初は貧民のために教会がつくった学校だったのが、そのなかに優秀な人がいたものだから、パブリックスクールの代表みたいになって、ケンブリッジやオックスフォードに行くための学校になった。イートン校も最初はフリー(無料で権力から自由)から出発したんです。いつの時代も、オルタナティブ教育なんて、エリート養成に転化するに決まってるんです。
 教育機会確保法案(*10)が通ろうが通るまいが、先は見えています。どっちみち、たいしたことにはなりません。だからといって黙認するわけではなくて、そこで足をすくわれないために、ハッキリ反対を言う必要はありますけどね。こんな法案、通っちゃったら、通した人のほうが心配です。

栗田:歴史を知るというのは大きいことですね。これが自分たちの最初の苦悩と思うと大変だけど、起きてきたことの焼き直しで、それがどういうふうに、いまの私たちにつながり、どこを変えていく必要があるのか、考えていくことが大事ですね。


●破綻からがスタート

山田:産業構造が高度化して第3次産業に移ったと言いますが、すべての人がそこに適応できるはずがないですね。教育によって、みんなが産業構造の高度化に適応できるわけではないし、それがいいことでもない。絶対に破綻するし、すでに破綻はきたしていますね。

石川:ヨーロッパがいい例ですが、第2次産業の時代までは、社会民主主義で成り立っていたわけです。どの人種であれ、同じ生産力を持つということで、移民を受けいれることができていた。でも、いまは福祉国家と言われてきた北欧でも移民排斥が起きている。それは第3次産業だからです。第3次産業はイメージが重要ですから、そこで一致しなかったらダメなんです。そこで人種問題が起きている。人種間の平等を謳っていた社会民主主義が、もろくも崩れた。でも、そこからなんだろうと思います。

山田:雇用労働だけではなくて、その価値だけではかろうとすることも変えないといけないですね。新自由主義は、非常に大きな力を持っているかのように見えているけど、一枚岩ではない。いまの破綻を糊塗しているだけのように思います。

栗田:いまの社会を破綻しているとみるのと、破綻しないとみるのでは大ちがいですね。

石川:私は破綻していると思っているわけです。すでに、90年代には破綻していたんです。ですから、破綻をおそれたり、破綻しているものをつくろおうとするのではなくて、破綻からスタートしようということです。そこをハッキリさせれば、逆に希望は見えてくると思います。

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*1 北村小夜(きたむら・さよ):1925年福岡県生まれ。1950年〜1986年まで東京都で小中学校の教員。障害児を普通学校へ・全国連絡会世話人。

*2 身体化障害:痛みや胃腸症状などのさまざまな身体症状が何年にもわたって続くが、身体疾患や薬による影響としては説明できないもの。

*3 平井信義(ひらい・のぶよし/1919〜 2006):児童心理学者、医師。ウィーン大学でハンス・アスペルガーに学び、自閉症を研究した。不登校についても独自の見解を示した。

*4 篠原睦治(しのはら・むつはる):1938年、東京生まれ。子供問題研究会代表、社会臨床学会運営委員、和光大学名誉教授。

*5 青い芝の会:1970年代から全国的に活動を展開してきた脳性まひ当事者のグループ。

*6 牧口一二(まきぐち・いちじ)1937年、大阪市生まれ。グラフィックデザイナー。障害者の社会進出、自立などを考え、活動している。障害者文化情報研究所所長、被災障害者支援「ゆめ・風基金」代表理事。

*7 赤レンガ:1969年9月、森山公夫らを中心とする東京大学精神科医師連合は病棟を占拠し、自主管理した。対立する東大当局側の医師たちは「外来派」と呼ばれた。東大精神病棟の分裂は、1996年まで続いた。病棟の外観から赤レンガ闘争とも呼ばれる。

*8 トリエステの取り組み:イタリア北部の都市トリエステでは、すべての精神病院が廃止され、地域精神保健医療へと転換している。精神科医のフランコ・バザーリアが主導し、1978年に180号法(通称バザーリア法)を制定。1980年からは精神病院への新規入院が禁じられ、精神医療は原則として地域精神保健サービス機関で行なうことになった。

*9 熊谷晋一郎(くまがや・しんいちろう):1977年、山口県生まれ。小児科医、東京大学先端科学技術研究センター准教授。脳性まひで生まれ、車イスの生活を送っている。アスペルガー症候群の当事者である綾屋紗月と二人で、障害者の立場からの当事者研究を行っている。

*10 教育機会確保法案:2015年5月、超党派の議員連盟により提案された法案(座長・馳浩議員)。不登校児童生徒など「義務教育段階に相当する普通教育を十分に受けていない者に、多様な普通教育の機会を確保すること」を目的とし、対象は、年齢、国籍を問わないこととされた。これにより、フリースクール、家庭学習、夜間中学校や外国人学校などを含め、多様な場が教育機会として認められ、経済的支援がなされると期待する声もあった。しかし、反対や慎重論の声も多く、2015年の通常国会では上程が見送られ、大幅に変更された案が2016年の通常国会に上程された。しかし、審議にはかけられないまま見送られ、インタビュー時の2016年9月現在は「継続審議」扱いだった。その後、2016年12月、法案は可決・成立した。
posted by 不登校新聞社 at 13:10| Comment(0) | 医療関係
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