2017年01月14日

#10 村上幸子さん(仮名)

murakami.jpg

(むらかみ・さちこ)
1958年、宮城県生まれ。社会福祉士、精神保健福祉士、保育士。
1964年、公立小学校入学、1970年、公立中学校入学、中学2年生のときに不登校を経験した。1973年、公立高校(全日制)入学。高校卒業後、大手企業に事務職で就職。1978年、保母(現在の保育士)資格を取得。1979年に結婚し、その後、夫の転勤で関西へ。1994年、保母として就職。2001年、宮城に戻って児童館の臨時職員になる。2009年、大学(通信制)に入学。2014年、大学卒業と同時に、社会福祉士・精神保健福祉士の国家資格を取得。社会福祉協議会に入職(臨時職員)。現在、放課後等デイサービスで働きながらスクールソーシャルワーカーとしての就職を目指している。

インタビュー日時:2016年10月17日
場 所:東京シューレ
聞き手:奥地圭子
まとめ:奥地圭子、勝野有美

--------------------------------------------------------------------------------
→PDF(組版データ)をダウンロード  10futoko50murakami.jpg
--------------------------------------------------------------------------------

〈テキスト本文〉

奥地:お生まれはどちらですか?

村上:生まれは宮城県で、生まれた町は、企業誘致で作られた工業地区と商業地区、昔ながらの農村の色合いが濃い地域が融合している町です。


●小学校時代〜1960年代後半

奥地:小学生時代は1960年代後半ですね。学校はどんな感じでしたか?

村上:小学校3〜4年生くらいまでは、学校に行くのが楽しくて仕方がなかったです。私は、山を越えて探検するほどに活発な子どもで、学校自体も、のんびり、ほのぼのとしていました。

奥地:私が教師になったのも60年代ですが、ほのぼのとしていましたよね。人情が厚いというか、学校の先生も、おっかなく取り締まるような感じではなくて温かかったですよね。東京もそうでした。 

村上:ですが、初めて学校に対して違和感を持ったのが、小5のときです。カゼをひいたのをきっかけに、仮病を使って何週間か長く休んだことがありました。いま思えば、プレッシャーを抱えていて、「学校を休みたい」「学校に行きたくない」という気持ちが芽生え始めていたのだろうと思います。

奥地:カゼが治っても学校に行きたくなかったのは、何か学校に対して思うところがあったんですか? もし小4までのように楽しく通っていたのならば、カゼが治ったら、また学校に行きたいだろうと思うんですけれど。

村上:はっきりとした記憶はないのですが、礼儀作法の指導が厳しい担任の先生に対して思うところがあったのかもしれませんね。私自身は当時、学級委員をやっていたし、学校の成績はよくて、1番か2番でした。みんなのお手本にならないといけないというプレッシャーがありました。

奥地:なるほど。それはわかります。本音を言うと、しんどかったかもしれないですね。ときにはがんばって得意な気分だけど、ときにはしんどい気持ちになっちゃう。カゼを含めて、どれくらいの期間、学校を休んだか覚えていますか?

村上:あいまいですが、半月ほど続けて学校を休んだと思います。そのころ、教師から「長いね。こんなに長引くなんて、万病の元だからしっかり治しなさい」と言われたことを記憶しています。

奥地:親御さんは、長く学校を休んでいることについて何か言っていましたか? よろしければ、ご家庭の職業を教えてください。

村上:何も言われませんでした。父親は農協職員、母親は専業主婦で、家で内職をしていました。よく言えば放任主義で、子どものことにはほとんど干渉せず、一度も「勉強しろ」とは言われませんでした。

奥地:たしかに、そのころは東京の下町でも、ほとんど、勉強しろとかこうしろとか言う親は少なかったですね。だから楽しかったのかもしれませんね。学校ものんびり、家庭ものんびりだった気がします。

●不登校をした中学校時代〜1970年代前半から

奥地:このプロジェクトでは、不登校経験や、それに関する思いをうかがうことにしているんですが、何年生ぐらいのときに不登校をしたんですか?

村上:中学校2年生(1971年)の夏休み明けからです。

奥地:中学校はどんな中学校でしたか?

村上:地元の公立中学校で、生徒総数は540名くらい、小学校からほぼ全員がそのまま進学しました。でも、中学校1年生になると、小学校ののんびりムードから一転、いまで言う先生の“体罰”があって驚きました。先生が長い物差しで子どもを叩く、アタマに拳骨を落とす、教室でうるさくしていると廊下に出されるなどは、あたりまえ。授業も、威圧的に感じられました。

奥地:体罰による管理教育ですね。たしかに、そういう先生がいましたよね。私も赴任したばかりの新卒の頃、女の先生でも授業に使う物差しで子どもをバシッと叩く人がいて、仰天しました。ほかの子がバシッと叩かれるのを見たりその音を聞いたりすると、どんな気持ちでしたか?

村上:「ちゃんとしなければいけない」「勉強もがんばらなければならない」と緊張した記憶があります。それと、ちょうど中学校入学のころに地元に塾ができ始めて、クラスのほとんど全員が塾に行くようになりました。

奥地:いわゆる受験競争のスタートですね。村上さんも塾に行かれたんですか?

村上:行きませんでした。自分の家は裕福ではないと思っていたので、塾に行きたいと親に言えず、ガマンしました。ピアノ教室もガマンしました。

奥地:高度成長の途中で、まだまだ多くの人が貧しさのなかでやっていた時期ですよね。自分だけ塾に行っていないことは、平気ではなかったですか?

村上:学校での友だちの会話が塾のことだらけになって、自分が取り残される気持ちになったことを覚えています。中2の1学期は行っていて、夏休み明けの9月から行かなくなりました。そして、2学期いっぱい、学校を休みました。3学期は、登校したかどうか記憶があやふや。中学校3年生になっても何かと口実をつくって休んでいた記憶がありますが、いちばん、つらかったのは中学校2年生のときです。中学校になってからも、あまり勉強しなくても相変わらず成績はよかったんですが、学校に行かなくなってからは成績が急落、提出物も出したくなくなりました。もともとは美術系が好きだったんですが、それも「なんで、やらなければいけないんだろう」と思うようになって。とにかくやりたくない、何もしたくないと思うようになりました。
 学校に行こうとすると身体の調子が悪くなる。頭は痛くなるし、お腹もおかしいし、めまいのようなものもあったので、休むようになりました。学校で「大学病院に行ったらいいのではないか」と言われたので、受診して脳波の検査をしましたが、問題はなく、身体も正常。ホルモンのバランスが崩れているという診断のみでした。

奥地:うちの子の不登校も、村上さんよりも少し後の時期ですが、体調が悪いので病院に連れて行ったら脳波の検査をされました。いま考えると、不登校でなぜ脳波の検査をするのか不思議だけれども、脳波がおかしいから不登校をしているんだなんて医者に言われました。村上さんは、病名はついたんですか?

村上:名前のある病気の診断は、つきませんでした。処方された薬のことは、いまでも覚えています。白い錠剤なんですが、それを飲むと眠くて眠くて。家にいて四六時中頭がボーっとして、とにかく寝ていました。やる気がないのが、ますますやる気がなくなる状態でしたね。

奥地:薬を飲んだほうがボーっとして、それでおかしくなったかもしれませんね。

村上:たった一つの救いは、親が「学校に行きなさい」「勉強しなさい」と言わなかったことです。

奥地:それがよかったですよね。

村上:もし何か言われたり強制されたりしていたら、非行に走るか、身体症状ももっとひどいことになったりしていたと思います。親には感謝しています。

奥地:子どものようすを見ていると何か言いたくなってしまうのが常なのに、専業主婦だったお母さんが何も言わなかったのは、めずらしいですね。お母さんだけじゃなくて、お父さんも何も言わなかったですか?

村上:当時、平日に父が帰ってくるのは23時ごろで、休日もほとんど家にいない状態でした。私がそういう状態だったことを父が知っていたのかどうかも、わからないです。母は、自身が10歳くらいのころ(1936年)、腸に寄生虫が寄生して、腹痛のために長期で小学校を休み、学年を1年留年した経験があったので、学校を休むことに理解があったのかもしれません。

奥地:中学3年生のときは、どうだったんでしょう?

村上:中学3年生になって、高校進学が気になり始めました。成績が5段階の5から2や3に下がっている状態。このままでは高校に行けなくなるのではないかと思いました。学校に行くのはつらかったですが、休みながらも、努めて行くようにしていました。


●高校時代〜“学校”から解放されるまで

奥地:高校選びは、どのようになさったんですか?

村上:当時は自分の家が裕福ではないと思っていたので、高額な通学費のかかる仙台の高校を選択することは考えなかったです。中学校の子がみんな行くような地元の公立の全日制高校に進学しました。
 受験勉強は、いっさいしませんでした。でも、もっと勉強をするか、将来の夢を持って進学をしておけばよかったと、20代30代になってから後悔しました。ほんとうは、小学校時代は学校の先生になりたかったのですが、中学校時代の自分の経験や弟のこともあって、学校の先生に対して失望して……。挫折ですね。

奥地:入れる高校に入ったけれども、もっと勉強しておけばよかったと後悔したわけですね。

村上:高校に入ってからは、食が細り、胃の調子が悪く、激やせしました。本気を出すことができずにいたし、中学校時代の不登校経験を抱え込んでいて、心の底から楽しむということはなかったと思います。

奥地:不登校のことをずっと抱え込んでいたんですね。それって、ときどきあるんですよね。でも高校は卒業できました?

村上:はい。高校をどうにか卒業したときに感じた、なんとも言えない解放感……あれは、何だったんでしょうか。学校から解放されたという、強い解放感。一生忘れられないですね。ふわ〜っとするような開放感。“晴れ”“快晴”、軽くなった感じでした。
 中学高校時代のことは、思い出したくない、フタをしておきたいと思いながら、これまで生きてきました。


●いま思う、不登校の理由

奥地:なぜ学校に行けなくなったのか、自分では心当たりはありますか?

村上:なぜ不登校になったのか、当時はわかりませんでした。それから40年近く、引きずってきました。まわりは「不登校に罪悪感を持つ必要はない」と思うかもしれないですが、本人としては、罪人であるかのような思い……罪悪感のようなものをずっと抱えてきました。

奥地:罪悪感は、ずっと抱え続けていたんですか?

村上:罪悪感は、長く引きずりました。不登校をして以降は、自己肯定感が低くて、結婚する21歳くらいまでは下を向いてばかりで顔を上げて歩くこともできなかったです。人と目を合わせたくないんです。人と会いたくないし、関わりたくもなかったです。いまでも、なにかあると「あのときの不登校が……」と、昔に引き戻されるんです。

奥地:尾を引くんですね。現在、70歳代の不登校の経験者が同じようなことを言っていました。その方は、いまも精神科に通っておられるんですけれど、結婚もしてお子さんが大きくなられてからも、ずっと罪悪感を抱いて、家族のなかでもうまくいかなくて、ずっと尾を引いているっておっしゃっていました。

村上:転機になったのは、私が51歳のときに入学した大学の心理学の講義のなかでの「将来、ソーシャルワーカーとして相談を受けるにあたって、自分のことをよく知っておかないと苦しくなる」とおっしゃった教授の発言でした。それで、過去の不登校経験と向き合わざるをえなくなりましたが、いまだに、自分の不登校は解決されていないのかもしれないと思うことがあります。
 今年(2016年)の夏、仙台で開かれた「登校拒否・不登校を考える全国大会」では、思いきって大勢の人の前でお話ししました。隠しておきたいというのが本音でしたが、一方では、当時の自分を丸裸にしないと解決しないのではないかと思い、自分で自分を押し出すようにして語っていたのが実情です。

奥地:あのときは雰囲気に乗って話しちゃったってことでしょうか。自分のことを話すのは、めったにないことなんですか?

村上:自分のことを話すことに抵抗はないのですが、不登校体験だけは別です、自分にとっては、勇気のいることなので、語ることはめったになかったですね。
 実は、中学時代に1歳下の弟が非行に走ったんです。弟から暴力を受けたときに「なんでそんなことをするの?」と訊いたら、学校で先生から「お姉ちゃんはあんなに優秀なのに、おまえはなんで出来が悪いんだ」と言われたからだと言ったんです。母親からは、家庭訪問のとき、別の先生から「姉弟でこんなにちがうのは、別々の育て方をしているのですか? 親の育て方が悪いんじゃないですか」と言われたと聞きました。

奥地:先生が、姉弟を比べたのですね。それってイヤですね。

村上:そのように弟から責められて、ショックを受けました。“弟がグレたのは、自分のせいなのか……”という自責の念を持つようになったんですね。それと、弟から暴力を受けても反抗することができない情けなさ。自分を責めて責めて……。先生から直接何か言われたわけではないですが、学校や先生に対する不信感も強く持ってしまいました。

奥地:それも、自己否定感につながっちゃったかもしれませんね。不登校において、きょうだい問題は大きいです。中高生くらいだと、自分ではどう考えたらいいのかわかりませんよね。自分のせいだと言われれば悶々としてしまう。弟さんも学校で成績優秀なお姉さんと比べられてつらかっただろうし、別々の人格なのに比べることがまちがっていたんですよね。

村上:もしかしたら、弟のほうがつらかったかもしれませんね。私が社会人になってから間もなく、私は弟に言ったんです。「社会に出たら、テストで100点とったか、20点とったか、わからない。社会に出たら、みんな同じだ!」と。あとから弟の友だちに聞いたのですが、弟はとてもうれしそうに、姉ちゃんがそう言っていたと、その友だちに話していたそうです。でも、弟は社会人になってから自殺して帰らぬ人となってしまったので、もう語り合うことはできませんが……。
 当時は、自分に起きていることがなんなのか、なぜ起きているのか、わからなかったです。理由を訊かれてもわからなかっただろうと思うし、自分が弟との関係で不登校になっていると客観視することもできていませんでした。40年という時間を経て、自分はどうしてあのころ、ああだったのだろうかと自分と向き合った結果、いま、ようやく言葉にできるようになったのだと思っています。

奥地:それは大変つらく、苦しいことでしたね。ずっと重いものを抱えて生きてこられたんですね。


●高校卒業後〜就職、結婚、子どもと関わる仕事へ

奥地:そして高校を卒業して学校から解放されたあとは、どのようにやっていこうと思われたんですか?

村上:高校を卒業したあとは、大企業に事務職で就職しました。当時はオイルショックの後でしたが、まだ高卒の就職率がよく、就職できない人が大学に進学するような時代だったんです。でも、就職後、これでよいのかと思い始めました。

奥地:就職してから思い始めたんですか。

村上:いったん学校から解放されて、落ち着いて、仕事も充実したところで、“教師になりたい”という思いが再び首をもたげたんですね。いまから大学を受験しようかと迷いつつ、21歳のときに親の薦める人と見合い結婚しました。

奥地:昔は結婚も早かったし、見合い結婚の時代でしたよね。

村上:私の両親は大正生まれです。「女性が大学に行っても、ろくなことにならない」と言われて育ちました。

奥地:私も祖母から言われた経験があります。女は大学に行くとろくなことにならない、って。

村上:教師になるのは無理だとしても、人と関わる仕事がしたいと思うようになり、結婚前に6カ月間、勉強して、当時は大学卒業を必要としなかった保母の資格を取りました。

奥地:大企業に就職したあとに資格を取って保母になられたんですね。仕事をしながら試験勉強したんですか。

村上:仕事をしながら、夜、参考書と向き合いました。ピアノの実技試験もあったので、日曜日に近所のピアノ教室に通いました。ただ、資格はあってもハローワークに行くと「短大卒以上」という条件に引っかかるんです。学歴を理由に門前払いで面接を断られるような状況でした。「あー、しまった」「あのときがんばっていれば、大学に進学していれば」と、過去の挫折を後悔しました。短大に進学した同級生よりも早く資格を取得したのに、悔しかったですね。

奥地:そんなことがあったんですか。やっぱり学歴社会ですね。立派な社会人としての経験もあって、資格を取って保母になってるのにね。

村上:その後、時代が変わって、学歴不問の求人時代が訪れました。地域性もあって、宮城県では学歴が重視されたんですが、夫の転勤で大阪に行ったら、学歴が重視されなくなったというのもあります。36歳ごろ、子育てがひと段落してから、保母の資格を活かして保育所に就職しました。
 43歳で宮城に戻ってから現在にいたるまでも、ずっと子どもに関わる仕事をしています。最初は、町の児童館の臨時職員。児童館での実績と資格を評価されて、文科省の委託事業として放課後居場所事業のコーディネーターに抜擢されました。児童支援センターの指導員もしました。

奥地:いま現在は、どのように子どもと関わる仕事をなさっているんですか?

村上:現在は、障害のある児童生徒の放課後等デイサービスが主な仕事です。週休2日で、勤務時間は朝9時から19時までです。

奥地:仕事で接する子どものなかには、不登校の子もいるでしょう?

村上:児童館では不登校の子ども1人に接しました。いまの職場にも不登校の子どもがいます。
 その前に、自分の子どものことですが、実は息子も小学校1年生のときに不登校を経験しました。自分が不登校を体験していても、自分の内では未解決で、罪悪感を持ち続けていたので、そのときは息子の不登校も肯定的に受けいれることはできませんでした。また、自分が不登校時代に学校のあり方と先生に対して不信感を持っていたので、息子の友だちのお母さんの紹介で、全寮制のA学園に小学校2年生のときに送り出してしまったのです。個別性が尊重され、子どもが主体的に学び、自分らしく生きられるような“場”で子どもがのびのび育ったらよいという願いからでした。でも、それは失敗でした。息子から、あとで聞いたのですが、本人は「親に見捨てられた」と思い、ガマンしてつらい思いをしたそうです。
 フリースクールのように親元から通うのとはちがって、生活の場が家庭ではなくなったわけですから、青天の霹靂だったでしょう。ましてや、子どもにとっては親に甘えたい時期です。本来なら、夕食をいっしょに食べ、親子で団欒するなどの暮らしをして、相互に育むべき親と子の親愛関係を築くことができなかったのです。この失敗から、「親は子に自分の価値観を押しつけてはならないこと」と、「先走りせず、あせらず、じっくり待つ」こと、「子どもの意思を尊重し、子どもが自己決定しやすい環境を整えていく」こと、そして「子どもにとってどうだろうかと、子どもの側の視点を意識する」ことなどの大切さを学びました。息子は通信制の高校を卒業し、いまは社会人として働いています。
 その当時、東京シューレや親の会の存在を知っていたら、息子と私の人生は変わっていたでしょうね。そんな息子に似た子どもたちに仕事で出会うと、うれしくなるんですよ。

奥地:そういう子に出会ったとき、どのように思って、どう対応されるんですか?

村上:やはり、自分が不登校のときにされたくなかったことは、したくないと思いますね。不登校の子の言動はまるごと受けいれ、関わりのなかでは否定しないことを意識しています。ほめたり支持したりしながら、その子らしさのなかから、強みやよいところを引き出し、伸ばし合う働きかけや環境を用意することを心がけています。もちろん、不登校の理由を聞いたりはしませんし、学校に行ったらよいとは、私は絶対に言わないです。
 でも、親をはじめとした、職員も含めた関係者すべてが「なんで学校に行かないの」「行きなさい」と言うのです。親は、脅迫してまでも学校に行かせたがります。自分一人だけが「それはいちばん、子どもにとって酷なんじゃないですか」と言っても、なかなか理解されません。職場の上司から「ほかの職員と一致してやるように」とたしなめられたこともあります。

奥地:わかります。学校に無理に行かせなくてもいいんじゃないかとか、少し休ませてあげたほうがいいんじゃないかとか言っても、親に変な顔をされたり「それでいいんですか」という反応されると、当事者としてはつらかったり、困ったでしょう?

村上:つらいというより、がっかりしますね。何十年たったいまでも、まだ、理解されていないのかと。親はつらいし、あせるでしょう。それは、当然だとは思います。でも、「子どもたちは、先の見えない暗い洞窟の中にいて、手探りで、不安や、ときにはあせりを抱えながら、安心して、心も身もおける、居心地のよい居場所を必死でさがしているような状態」であることをくみとってほしいです。
 子どもたちは、いまは勇気を持って不登校という選択をしているのですから、まずは、認めてあげてほしいという気持ちがこみあげてきますね。でも、そのことを強く言えない、情けない自分がいますが……。

奥地:お母さんたちに、自分も不登校だった時代があるという話はされていますか?

村上:自分が不登校だったということを、まわりの職員に知られたくないので、話していませんでした。ほかに不登校経験のある人がまったくいないせいもありました。一度、勇気を振り絞るようにして言ったことがあります。変な顔をされ、沈黙され、次の言葉が返ってこなかったですね。

奥地:シューレなんかだと、みんなが不登校経験があるので自分の経験を話しやすいし、スタッフになった人もいますが、不登校をした人がまわりにいないし、ましてカミングアウトしている人が身近にいなかったら、自分からは話しにくいですよね。

村上:とくに、地元では言いにくいんです。また変な顔をされるのではないかという思いが脳裏を横切りますね。仙台の全国大会では、まわりが理解のある人たちだとわかっているからこそ、思いきって発言することができたのだと思います。

奥地:全国大会では、参加者みんなが不登校の当事者か保護者か支援者だったから、理解があったんですよね。仙台には親の会がないんですよね。11月5日に親の方で集まります。親の会では、少し話しやすいのではないかと思います。みんな、経験者の話を聞きたがっています。当事者の話には説得力があるので。親は不安から学校に行かせたがるけれども、子ども側はつらいのだということがわかれば、親もあまり無理強いしなくなるだろうと思います。ほんとうは不登校経験があることは強みなのに、それを言えない空気があるということですよね。

村上:数年前から、学校では学力を上げるために積極的に補習を行なっています。自分も勉強を教えることがあるのですが、年々、全体のレベルは上がっています。子どもたちは、遊ぶ時間をけずって勉強しています。また、学校で見せている顔と児童館で見せている顔は別で、顔を使い分けています。児童館に学校の先生が来ると急に、子どもたちは“いい子”になるんです。日々の子どもたちのストレスを肌で感じましたし、学力の課題や家庭の問題、学校でのいじめなどの実態も子どもたちの口から聞こえてきました。なんとかしなければ……このままでは、いつ、自殺者や不登校、非行行為が起きてもおかしくないと思え、ほうっておけない気持ちになりました。でも、職場での仕事上の私の立場では、学校への介入や家庭への介入はできません。せいぜい、子どもたちの話を聞いてあげるくらいの支援しかできないのです。なので、役割として、また、自分の存在の意味づけとして、スクールソーシャルワーカーになりたいと考えるようになりました。

奥地:いろんな子どもと付き合うなかで、そう思ったということですね。

村上:ソーシャルワーカーとして働くのに必要な国家資格をとるには、大学卒業が要件です。そこで、51歳のとき、働きながら通信制の大学に入りました。精神保健福祉士の資格も同時にとりたかったので、1年余分に必要で、都合5年間通いました。

奥地:年齢にこだわらずに若い人といっしょに大学でがんばったところがすごいですね。ほんとうは、学びに年齢は関係ないのだけれども、それでも、その年で勉強するのは相当大変だったでしょう。生活もあるし、体力や記憶力も落ちるし。そこまで大変な思いをしてもスクールソーシャルワーカーになりたい気持ちを持っておられたんですね。

村上:課題を抱えて苦しんでいる子どもたちの命を守りたいと思ったからです。自分も自殺したいと思ったこともありましたし、弟をはじめ、同級生、いじめで自殺した近所の子など、自ら命を絶った子を数人、目の当たりにしているからです。同じ悲惨な出来事をくり返させてはならないという使命感のようなものが原動力に思えます。
 睡眠時間を削っての受験勉強と大学生活でした。朝4時に起きて、家族の朝ごはんをつくる前に、まず3時間です。夕方、仕事から帰ってからでは、眠くて集中できないんです。とにかく、物理的に机に向かう時間を生み出せないので、暗記するものはICレコーダーに吹き込み、料理しながら、清掃しながら、車を運転しながら、それを聞いて覚えました。毎週土日は、スクーリングで大学に行く生活でした。

奥地:そういうなかでも、資格を取るのだということが支えになったかもしれませんね。

村上:そうですね。そうすることが、自分自身へ向けた“励まし”だったのかもしれません。56歳で大学を卒業し、その年の社会福祉士と精神保健福祉士の国家試験に同時に一発で合格できました。その勉強の過程で自分に向き合うことができましたし、多少は自己肯定感も上がった気がしますね。

奥地:不登校のことも含めて、ご自分のことをどのように整理されたんでしょうか。

村上:それまで、“よい子であらねばならない”ことを自分に強いてきたんだと思いました。嫌われることを恐れ、まわりに気をつかっていたのです。
 自分の心の内では、「よい子でいるには、学校に行かなければならないよ」と強迫命令する自分と、「行きたくない」と反発するもう一人の自分とのせめぎあいで苦しんでいたように思えます。本当は、あるがままの“素”の自分でありたいのですが、よい子を偽装しようとする自分に嫌悪感を覚えていたようにも思います。また、自己否定が根底にあるので、私にとって不登校は、「自分を認めてほしい。苦しんでいる私に誰か気づいてほしい。たすけて!」という心の叫びの発信であったのかもしれません。
 不登校後は、自己肯定感は低下し、罪悪感を抱えながら、不登校経験を隠して生きてきました。でも、習い事教室や職場を休んでも罪悪感は抱かないのに、なぜ不登校となると、まるで法律を犯した罪人のような罪悪感と負い目を抱くのだろうかと思い、自分に問い続けました。そして、見えてきたのが、学校教育は国家が強制する規範であり、“学校は行かなければならないところ”という誤った固定観念で自分自身をがんじがらめに縛っていたということです。不登校経験を隠しておきたかったのも、自分が社会の脱落者というレッテルを貼られ、偏見の目で見られるのではないかという恐れが根強くあったからです。

奥地:いまは、不登校を起こした自分をどう思っておられるんですか?

村上:いまは、あの不登校は自分を守るために必要だったのだろうと理解しています。弟の件もあって、自分にとって必要なことだったんだろうと。不登校があったからこそ、いまの私があるわけで、自分が不登校を経験したのには意味があったと感じられます。


●いま、不登校している子たちへ伝えたいこと

奥地:大学を卒業してすぐに社会福祉士として仕事を始められたんですか?

村上:現在は、社会福祉協議会に臨時職員として勤めています。勉強として、障害児の支援にも関わってみたかったのです。

奥地:目的のスクールソーシャルワーカーにはなることができましたか?

村上:まだです。欠員が出ないので、求人がないんです。

奥地:資格は取れているわけですから、チャンスがあればいつでもなれるわけですね。

村上:もちろんです。あきらめないでチャンスを狙っています。実は、仙台の全国大会で人前で話をしたことで「自分は当事者なんだ」と自覚して、当事者として何かできることがあるのではないかとも考えるようになりました。

奥地:発言されたことをきっかけに、当事者だということを自覚されたのですね。現在も、不登校などの相談にも乗ったりされているのですよね。

村上:放課後等デイサービスで働くなかで、学校を卒業後、不登校だということが響いて望む仕事に就けなかったり、暮らした居場所で暮らすことができなかったりする子どもの存在を目の当たりにしています。でも、ほかの職員も親も、自分以外のすべての大人が「学校に行くのがあたりまえ」という考え方です。国の仕組みを変え、世間の不登校に対する認識を変えないことには、苦しみ続ける子どもがいるということを痛感しています。

奥地:最後にうかがいます。自分が不登校をしてきて、不登校について、こうだったらいいなと思うことは?

村上:文科省が定める学校だけを学ぶ機関とするのではなく、フリースクールやホームエデュケーションなど、多様な学ぶ場が必要であると痛切に感じています。学校教育を根本から見直し、変えたいとも思っています。そして何よりも、社会・世間の認識を変えること、理解してもらえるような社会づくりが急がれます。

奥地:それをわかってもらわなければ、自殺も止められないですものね。

村上:子どもたちは、かけがえのない一人ひとりです。早まらないでほしいです。「お願いだから、自ら命を絶たないで!」と叫びたいですね。
 そして、“学校に行きたくない”という気持ちが出てくるのは“あたりまえ”のことであり、“必ず学校に行かなければならないわけではない”ということ、“学校が……成績が……友だち関係がすべてではない”ということを伝えたいです。ほんとうは行きたくないけれど自分の気持ちを殺して無理に学校に行っている子には、「休んで、充電して、エネルギーが溜まり、自分から行ってみようかと思えるようになったときに行っていいんだよ」と言ってあげたいですね。もともと人間には自然治癒力のような、みずからを修復しようとする潜在能力が備わっていると言われています。なので、社会やまわりの人たちは、先入観や価値観にとらわれず、登校をせかさず、子ども自身の力を信じて“待つ”という勇気を持ってもらえたらと思います。ただ、その“待ち方”は、受動的ではなく能動的に待つということです。その子らしさや強みや良さを意識してとらえる視点を持ち、受容し、支持しながら、その子が主体的に自分自身の意志で歩めるようにしていきたいですね。どの子も未来に向け、かぎりない可能性を秘めているのですから……。
 いずれにしても、子も親も、ひとりで抱え込まないことが重要だと思います。そのためには、その子にとっての居心地のよい居場所で、さまざまな人たちとの関わりがあること、親どうしのつながり、地域や関係機関との連携の広がりと充実が必要であると感じています。

奥地:ありがとうございました。当時の時代のようすもわかったし、なかなかほかの方からは聞けない話もうかがうことができました。
posted by 不登校新聞社 at 10:21| Comment(0) | 当事者
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: