2017年01月15日

#11 森英俊さん

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(もり・ひでとし)
1955年、鳥取県生まれ。小児科医。自身、中学3年生のとき(1969年)に不登校経験がある。高校在学時にハンセン病療養施設でのボランティア経験などから、医師を志す。1981年、杏林大学医学部卒。1993年より、鳥取タンポポの会(不登校の子と親の会)を立ち上げ、代表世話人として活動している。

インタビュー日時:2016年11月6日
場 所:とりぎん文化会館(鳥取市)
聞き手:山下耕平
写真撮影・記事編集:山下耕平
記事公開日:2017年1月15日

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〈テキスト本文〉

山下:まずは、子ども時代のことからうかがいたいのですが。

森:父親が医者で僻地勤務をしていて、島根と鳥取を往き来していたので、私は小学校を2回転校しています。私が小学校6年生のときに、父は転勤をやめて岩美郡(現在の鳥取市)で開業しました。その6年生のときの小学校で、担任の先生から「いいチャンスだから、鳥取大学教育学部の付属中学校を受けてみなさい」と言われて、あまり深く考えることもなく、言われるがままに受験したんですね。実は、今日のインタビューのこの場所(とりぎん文化会館)が、その中学校のあった場所なんです(笑)。

山下:そうだったんですか。因縁のある場所なんですね。

森:そうなんです(笑)。それで、合格して入学したんですが、入ってみて、その中学校のあまりの競争的な状況に驚きました。1学年180人ほどのうち、毎年3〜5人は東大に、10人くらいは京大、阪大に入るような学校でした。5月の連休明けに最初の中間テストがあったんですが、テストが終わった翌日に学校に行くと、成績順に廊下に名前が張り出されていました。しかも、上位から最下位まで全員です。

山下:それは酷ですね。小学校までとはまったくちがう世界だったわけですね。

森:酷ですよ。そのことに、とてもショックを受けました。自分の成績は平均以下でしたしね。「すごいことをするんだな。このなかで生きていかないといけないんだ」と思って、漠然と不安に襲われたのを覚えいます。

山下:お生まれが1955年ということは、中学校に入られたのは1967年ですか。

森:そうですね。中学2年生のころ、全国的に学生運動が広がっていったんですが、教育実習に来る学生さんたちはネクタイをしめて、教員らしい格好をして授業をしていますでしょう。子どもから見ると、大人側、体制側の人たちです。でも、その人たちが大学に戻ると、ゲバ棒を持って火炎瓶を投げていたりしていた。大人の二面性をかいま見たように思いました。鳥取大学の付属中学校だからこそ見えたことだったのかもしれませんが、それも、ある意味ではショックを受けたことでした。そういう状況が、私にはとても耐えがたかったんですね。


●穴にこもる

山下:学校に行かなくなったのは、いつからだったんでしょう?

森:中3のときです。夏休みに自分の部屋の床をはがしたら、下に土が見えたんですね。そこを掘ったら穴ができて、地下室みたいなのをつくって、2カ月くらいこもったんです。

山下:文字通りのひきこもりですね(笑)。穴にこもって、学校には行かなかったということでしょうか。

森:夏休みが明けても学校には行きたくないので、朝、「行ってきます」と出かけたふりをして、そのまま勝手口から部屋に戻って、地下室で過ごしていました。それで、夕飯のときには出てくる。両親は、自宅と渡り廊下でつながった診療所で働いていたんですが、ご飯どきにならないと家のほうにはもどらなかったので、夕飯までは穴で過ごしていました。

山下:学校から連絡は?

森:あったと思います。親は「出たと思います」とか言っていたんでしょうね。それでも、見つかったのは11月末ぐらいだったので、いま思えば牧歌的ですよね。3カ月ぐらいは、穴で過ごしていました。実際には、ほとんど寝て過ごしていたんですが、自分なりには充実した時間でしたね。

山下:露見したきっかけは?

森:弟が見つけたんです。それで、父親にはこっぴどく怒られました。「世の中で生きていくためには、競争を生き抜いて勝ち残らないといけないんだ」と言われて、「世の中はとか言うけど、そう思っているのはおまえだろう」と反発もしましたが、その言い方には傷つきましたね。

山下:お母さんは?

森:母親は泣いていましたね。あまり言葉はなかったです。


●家出して大阪に

山下:その後は?

森:12月半ばに家出しました。学校までは、いつもバスで通っていたんですが、その日は中学校のある停留所で降りられなくて、バスの一番後ろに隠れて鳥取駅まで行って、そのまま、駅の1番ホームに止まっていた大阪行きの鈍行に乗り込みました。

山下:その日は学校に行こうと思ってバスに乗ったんですね。

森:そうです。でも、どこかで家出したい気持ちは持っていたんだと思います。「いましかチャンスがない」と思って、電車に飛び乗りました。それで、深夜に大阪駅に着いた。お店はシャッターが降りていて、ホームレスの人たちがダンボールハウスで寝ていました。私は学生服に学生帽という姿だったんで、家出してきた少年だなとわかったんでしょう。ホームレスのおじさんのひとりが「捕まるから入れ」と言ってくれて、その人のダンボールハウスで一夜を過ごしました。そこで学生鞄と帽子は捨てて着替えて、朝になって起きたら、まわりには若い人がほかにもいるんですね。当時は「金の卵」と言って、集団就職で都市に出てきていた人たちがたくさんいて、そこでうまくいかなかった人たちが、大阪駅のコンコースに集まっていました。そういう人たちと顔見知りになって、そのなかに、屋久島から来ていた、私よりひとつ年上の男の子がいたんです。彼は中卒でお寿司屋さんで働いていて、自分で文化住宅を借りて住んでいました。その文化住宅に転がり込んで、いっしょに生活させてもらいました。そこには彼の友だちもやってきていて、大検(*1)の予備校に通っている人なんかもいました。それで、進学するとしても、いろんな方法があるんだなと知ったりもしました。
 1969年だったので、ちょうど万博の前の年ですね。翌年から万博が始まったんで、万博会場で下働きをさせてもらっていました。いわゆる日雇い労働ですが、働くのにも、名前も住所も何も聞かれなかったです。だから、働けたのかもしれないです。万博会場では、アイスクリームやジュースを売っていました。万博の期間中は、毎朝6時に起きて、夜9時くらいに帰る生活でした。

山下:家出してみて、ぜんぜん別の世界に出会ったわけですね。そこで感じたことは、どういうことだったのでしょう?

森:親や家族を抜きにして考えれば、すごく自由に生きられると思いましたね。働いてお金を得ようと思ったら、いろんな方法はあるし、学ぼうと思ったら学ぶ機会もあるし、どんな生き方も可能で、ここから自分の生き方を考えていけばいいと思えました。それまで束縛されていたところから解放されたという気持ちが強かったです。
 ただ、万博会場に修学旅行生が来るのはつらかったですね。鳥取から来てないだろうかと思って、学生服の集団を見かけるたびに隠れていました。いまでも、学生服の集団を見ると、ぞっとしますね。集団のなかで生きているんだなと思って……。

山下:万博で働いていたのは、どれくらいの期間ですか?

森:70年3月に万博が始まって、9月までの半年ほどですね。その期間に30万円ほどお金が貯まりました。働きづめでしたからね。そのお金をどうしようかと思ったとき、せっかく自由になったんだから日本全国を旅行してみようと思って、まずは北海道まで行って、そこから南下して各地をまわりました。旅行といっても、旅館には泊まらないですからね。国鉄の駅員の部屋に泊めてもらったり、駅のベンチで寝袋で寝たこともありました。昔は、そういうことができましたね。
 日本海側を南下してきて、新潟、金沢(石川県)と来たんですが、鳥取は飛ばして、松江(島根県)に行きました。金沢で、学生さんと友だちになると、学生さんのアパートに転がり込めるということを覚えて、松江でも、島根大学の学生さんのアパートに身を置かせてもらいました。そればかりか、学生証をコピーさせてもらって、そこに自分の写真を貼って、松江市営バスの車掌さんのバイトをしていました。そうすると、車掌さんの宿舎に泊めてもらうこともできたんですね。しばらくは、それで生活をしていました。
 ところが、ある日、車掌の休憩室で朝日新聞を読んでいたら、たずね人の欄に「父危篤、英俊帰れ」と出ていたのを見つけたんです。これは私のことだ、家族は探しているんだなと思って、ずいぶん迷いましたが、ハガキに何月何日に帰るから鳥取駅に迎えに来てほしいと書いて出したんです。家に帰ったのは73年5月だったと思います。69年12月に家出したので、3年半ほど経っていました。


●家にもどってから

山下:そのとき、親御さんは?

森:母は、私が家出をしているあいだ、どこにも行かなかったそうです。夜は電気をつけて、冬は高く積もった雪をかき出して、いつでも玄関が入れるようにして待ってくれていた。それは、こたえましたね……。でも、最初は涙の対面でしたが、その後は、腫れ物にさわるような感じはありました。弟は先に高校に進学していましたし、妹とも、もう1年遅れたらいっしょになってしまうところでした。私はというと、帰ってきた年の8月から、高校に入るための予備校に通うようになりました。父親は「人生まわり道する人もいるから、そういう経験も悪くない。そういう人たちのための学校があるから行ってみないか」と言っていました。

山下:「父危篤」というのは方便だったわけですね。

森:そうです。そう書かないと、帰らないと思ったんでしょうね。

山下:その後の状況はどうだったんでしょう?

森:その予備校にも、いろんなおもしろい人たちがいました。そこで出会った数学の先生とは、いまだに付き合いがあるんですが、実は、のちに自分のお子さんが3人全員不登校になって、私のところに相談に来られたことがあって、そこから親の会ができたという経緯があるんです(笑)。
 その後、高校には進学しましたが、同級生と3年ほど年齢差があるというのはイヤでしたね。どうしても人と自分を比べてしまう。大学では年齢差なんてぜんぜん感じなかったんですが、高校ではイヤでしたね。でも、まあ、中学の先生と比べれば、高校の先生はおおらかでした。僕が通っていたのは全日制でしたが、その高校には定時制も通信制も併設されていて、いろんな人がいましたしね。私は高2のときに20歳になったんですが、成人式は通信制の職員室でやりました。


●ハンセン病との出会い

山下:大学に進学されたのは、お医者さんになろうと思ってだったんでしょうか?

森:高校の現代国語の先生が変わっていて、教科書を使わない先生だったんですね。代わりに、岡山県にある長島愛生園というハンセン病の療養施設の人たちの詩集を題材にしていたりしました。先生自身が、詩集づくりを手伝っておられたんですね。ハンセン病の人たちは学校にまったく行っていなくて、だけど、自分たちのボキャブラリーを持っていて、それを文字化していく作業を手伝われていた。その詩をいくつか選んで、原作はひらがななんですが、それを漢字に直しなさいというようなテストがあったりしました。
 それで、私も高校3年生のときに、長島愛生園にボランティアに行きました。そこで聞いたのは、お医者さんが足りないということでした。こういうところで働くなら医者も悪くないと思って、医者になろうと思ったんです。愛生園には、大学の医学部に入ってからも、何回か行きました。
 また、大学5年生のとき、インドのアグラにある、アジア救らいセンターにも行きました。熊本県の菊池恵楓園の園長だった宮崎松記(*2)先生が私財を投じてつくったセンターで、観光地として有名なタージマハールの横にあります。そこで衝撃を受けたのは、インドではハンセン病患者を施設に収容していなかったんですね。月に1回、お薬を配給して、保健師さんが患者さんをチェックしていました。その薬を闇市で売っている人もいましたけど(笑)。日本のような隔離政策ってなんだろうと考えさせられました。
 インドにはもう一度、大学6年生のときにも行ったんですが、滞在中に腎結石ができて膿瘍ができてしまったんですね。高熱が出て、でもインドでは手術ができないので、東京に帰ってきて手術を受けました。そのため、私には左の腎臓がありません。それで母親が「もうインドには行かないでくれ」と懇願するので、大学を卒業後は鳥取に帰ることにして、県の中央病院で働き始めました。
 日本でも、ハンセン病に関わるつもりでいたんですが、鳥取に帰ってきて、一番最初に診た患者さんは、16歳の白血病の患者さんでした。当時は、まだ骨髄移植が技術的に難しく、保険適用もなかったんですが、兵庫医大では、すでに骨髄移植をやっていたんです。そこで兵庫医大に電話をかけて、見学させてほしいと申し入れて、骨髄移植を鳥取でやろうと思ったんです。県庁まで陳情に行ったり、院長に交渉したり、「研修医のくせにナマイキだ」なんて言われて、なかなか大変でしたが、兵庫医大に見学に行った人たちといっしょに、鳥取で初めての骨髄移植に成功しました。87年のことでした。


●医者として不登校と出会う

山下:小児科医になろうと思ったのは?

森:私は日本小児科学会にも、内科学会にも入ってますが、小児科だけをやっているわけではありません。たとえば白血病には大人も子どももないですしね。血液内科の骨髄移植チームは、小児科と内科が連携していました。
 骨髄移植に成功した翌年、88年4月に父親が心筋梗塞を起こして入院したため、私が森医院を後継開業しました。そして、そこで初めて診たのが、原因がないのに頭痛や腹痛がして学校に行けないという16歳の女の子でした。「この子は病気としてではなくて、時間をかけて話を聴いていきましょう」とお母さんと話して、それから私の不登校相談が始まったんです。以来、不登校で相談のある方は毎週土曜日の午後に来ていただいて、ゆっくり話を聴くことにしています。本人がどう思っているのか、どうしたいのかをいっしょに考えていく。とくに看板を掲げているわけではないんですが、毎月、何人か来られるようになって、いまもずっと続いています。1回にかかる時間は、1時間〜1時間半くらいですね。

山下:開業して最初の患者さんが、不登校だったというのは、因縁めいたものがありますね。当時、不登校については、どのように見ておられたんでしょう? 88年というと、それまでの精神医療の見方も大きく問い直されていたと思いますが。

森:渡辺位(*3)先生の本は、すでに読んでいて、ある程度、知識としてはあったんですが、患者さんを目の前にして、とりあえずは血圧をはかったり血液検査をしたり、一通りの診察はやりました。しかし何も異常がないので、不登校として対応したほうがいいだろうと、お母さんに話しました。
 最初は、自分のところで何とかなるだろうという考えが強かったと思います。しかし、ひとりで話を聴いているよりも、とくに親の方は親の会で複数で話し合ったほうがいいんですね。グループの必要性というのは、白血病患者との関わりから学んだことでもありました。白血病患者には、ドナーが見つからない人もいますし、手術が成功する人もしない人もいます。でも、そこでおたがいに支え合うような仲間がいると、ずいぶんちがうんです。治ることがすべてではなくて、残された時間をいかに充実して、家族として生きられれるか。それは、患者さんからも、ご家族からも学んだことでした。

山下:「治る」ことが、すべてではないわけですね。

森:あるおばあさんから、国民学校での不登校経験を聴いたこともあります。その方は、戦時体制下、学校に行かなくなって、千人針などもぜんぶ拒否して閉じこもっていたそうです。その後、結婚もしないで、自宅の離れにひとりで住んでいた。その方は、白血病を高齢者発症して亡くなられたんですが、往診で2〜3回うかがった際に、その経験をうかがいました。戦時中にも登校拒否をされていた方があったんだと思って、感慨深かったですね。ちょうど親の会が始まる前のことでした。

山下:医者として不登校の子と出会うなかで、自分の経験が整理されていった面はあるのでしょうか?

森:もちろん、それはあると思います。それまでは、自分の不登校のことを人に話すこともなかったですからね。講演に呼ばれて不登校のことを話す機会があると、それで昔の友人が知って、そうだったのかと言われたこともあります(笑)。

山下:親の会を立ち上げられたのは何年のことでしょう?

森:93年です。タンポポの会という名前で、どんなに踏みにじられても、そこから根をはって花を咲かせていくタンポポからつけました。そして、やがては綿毛になって、親から飛んでいくよ、と(笑)。
 ちょうど親の会も全国ネットワークができて、全国合宿も始まって、私が初めて合宿に参加したのは94年の広島大会のときでした。そこで全国のみなさんと出会うようになったんですね。

山下:お子さんは3人おられるとのことですが、学校との関係はどうだったんでしょう?

森:3人とも不登校ではなかったですが、2番目の子はアトピーがひどかったので、高校時代、行ったり行かなかったりの時期はありました。長男は反抗期が激しくて、壁にいっぱい穴が空きました。パッチワークにしてつくろってますが、いまは孫がそれを触ってはいだりしてます(笑)。
 孫は二人いて、上の子は4月から幼稚園に行き始めたんですが、行きしぶる日があるんですね。そうすると、親(私の娘)が大人の視線を押しつけているのが見え隠れして、「どうして行けないのか、ちゃんと子どもの声を聴いてあげないといけない」と、娘にも話してるんですが、なかなか難しいなと思います。

山下:そういうおじいちゃんがいることは、お孫さんにとって大事でしょうね。ところで、森さんは校医もされておられますが、校医として不登校の子と出会うことは?


●学校で子どもは

森:校医をしている学校はすごく小規模校で、1学年14〜15名です。でも、たまに不登校の子もいます。いじめがあって、それが教員の目に入っていない。そういうことを子どもさんから聞くこともあります。ただ、基本的に、学校では子どもは話しません。学校に来ている大人は、みんな学校の味方だと思ってますからね。ですから、自分の診療所で話を聴くときは、私は白衣を脱ぐようにしています。これは内田良子さん(*4)のアドバイスなんですが、内田さんは「子どもをひとりの人間として受けとめるには、大人が鎧甲を着ていたらいけない。それでは子どもの心は開けない」と言われていました。それはとても大事なことだと思います。

山下:白衣は象徴的ですね。親も「親」の衣を脱げたらいいんでしょうけど(笑)。それとは逆に、子どもに付けられるラベルとして、2000年代に入ってから「発達障害」が急増していて、就学時健診などで早期から振り分けるようになっているかと思います。この点については、どう感じておられますでしょうか。

森:就学時健診で発達障害と診断される子もいますが、高学年になってからの子もいるし、逆に、低学年のときに落ち着きのなかった子が、学年が上がると落ち着いてくることもあります。学校では、まず担任や養護の先生に相談があって、それから校医に相談があります。私は、あまり発達障害でラベリングしないほうがいいと言っています。
 一時期は、発達障害児の子を探す傾向が強かったですが、いまは、差別と捉える先生もおられるし、またちょっと風向きが変わってきている面もあると思います。そもそも、発達障害は、ある割合はいて不思議ではないことですからね。

山下:不登校の問題が発達障害にスライドされた感じもありましたね。

森:そうですね。おかしいなと思うのは、中・高生の子どものなかには、発達障害と診断されていて、学校に行く日だけ薬を飲んで登校している子もいます。

山下:発達障害があるとしても、そこだけに焦点を置くべきではないですよね。不登校を理由に病院につれてこられるケースは、いまでもあるでしょうか?

森:それは、いまでもあります。最近は鳥取でも、不登校や発達障害をいっしょに考えて診療していますというクリニックが多くなってきて、それはちょっと危ないなと思っています。

山下:親御さんが診断名を求める傾向は強くなっていますよね。不登校は診断名ではないですし、発達障害と診断名がつくと安心する面がある。本人も、もやっとしたものが、ある意味では整理がつく面もあるとは思いますが……。

森:そうですね。親御さんも情報過多になっていて、いろんな情報を持っておられるけど、どれがほんとうかわからないという面があると思います。多くの情報は、学校復帰のためにはどうしたらよいか、適応指導教室をどう利用するか、学習を遅れないようにするにはどうしたらよいか、というようなことですよね。しかし私は、相談に来られた方には「まずはゆっくり休ませてあげたほうがいいですよ。きちんと休まないと、回復する力が出てこない」と言っています。そうすると、「いつまで待てばいいんでしょう」となるわけですが(笑)。

山下:待つことが難しくなっていますよね。早く見つけて、早く専門家に対応してもらって、早く解決してほしい、となっている。しかし待つ、見守るといっても、親のほうも、精神的にも経済的にも余裕がなくなっているとも思います。第一、自分が休めてない。

森:そうですね。そういう意味でも、ほんとうの意味で、子ども自身がゆっくり休める状況をつくれない親の方は増えていると思います。

山下:子どもの変化は感じておられますか?

森:相談に来ていても、ずっとスマホを見ている子もいますし、コミュニケーションのとり方が下手になっているかなとは思いますね。

山下:かつて森さんが穴を掘ってひきこもっていたように、ほんとうに世間から撤退して自分と向き合うようなことは、なかなか、いまの子どもはできないですよね。学校から身を引いてもネットでつながっている。いじめでもネットでのいじめが問題になっています。撤退することが、かつてのようにはいかないように思います。逆に言えば、孤立しないですむ面もあると思いますが、じっくり自分と向き合うのは難しくなっているような気がします。

森:環境がちがいますよね。ネットやスマホまで切れるかといったら、難しいですし、大変だなと思います。


●新しい状況のなかで

山下:話は変わりますが、教育機会確保法案(*5)をめぐって、親の会のあいだでも意見は対立していますね。90年代からつながってきた親の会が、いまは難しいところに来ている。意見のちがいが法案を通じて顕在化したのかもしれませんが、この現状については、どう見ておられますか。

森:なんで、対立してしまったのかと思いますが、どこかで擦り合わせてもいいのではないか、自分たちだけの意見を通そうとしないで、歩み寄れるところは歩み寄ったらいいのにと思っています。タンポポの会では、法案にはなるべく触れない感じになっていました。

山下:法案をめぐっては、不登校とフリースクールを重ねて考えている人は、どちらかというと賛成していたような印象があります。しかし、不登校している人のなかでフリースクールに通っているのは3・5%という調査結果でしたし、都市部に偏っていますよね。都市部と地方では状況がちがうという問題もあるように思います。

森:ぜんぜんちがいますね。地方には地方の事情がある。現状はなかなか難しいです。鳥取でもフリースペースを開いていた時期がありましたが、いまはやっていません。学校の対応も、自治体の対応も、地域によってちがいますしね。

山下:不登校その後の問題もありますよね。少し前までは、あせって追いつめるのではなく、ゆっくり休んで自分に軸ができれば、その後はなんとかなると言えた。しかし、いまは学校に行ってようが行っていまいが、どちらにしても若者の状況はたいへん厳しい。「学校に行かなくても社会でやっていける」という言説は通用しなくなっていると思います。そのうえで、不登校やひきこもりをどう肯定できるのか、いまの子どもにどう語れるのか、問い直されているように思います。

森:たしかにそうですね。「働かざる者、喰うべからず」というような、働かない若者たちへのバッシングが押し寄せてますよね。しかし、アリの社会だって、働かないアリがいることでアリ社会のバランスが成り立っていると言います。それに、実際は「ニート」と言われる若者たちも、親が倒れたり動けなくなると、コンビニで働いたりしていますからね。それなりに生きるすべを持っている。にもかかわらず、実態以上にバッシングされているように思います。それは怖いですね。

山下:森さんが家出していたときと比べて、大人の懐が狭いですよね。

森:そういうゆとりがないですね。最近は、駅にだって泊めてくれないですからね。そういう社会の余裕のなさが、若い人をしめつけていると思います。

山下:いまは若者が反抗しようにも、何に反抗していいかもわからない、大人の側もどうしていいかわからない状況があるように思います。

森:みんなが同じようには生きられなくなっているというのは、困難さをともなうと思いますが、そのなかで自分なりの生きがいを見つけて、生きていかざるを得ないのだろうと思います。それは個々の判断になると思いますが、学校では教えてくれない生き方をしていくことが大事だと思います。

山下:みんなが「正解」を失っているわけですからね。

森:たとえば鳥取にも、60歳を過ぎて、UターンやIターンで農業を始めている人がいます。そういう人は「農業を教えてほしい」と言うんですが、農家の人は、みんな誰からも教えてもらってないんです。それぞれが自分の感覚でやってきたことで、それを「教えてくれ」と言われても、難しいという。自分で試行錯誤をくり返しながら、身につけていくしかないものなんですね。それは農業にかぎらず、どんな職業でも、失敗や挫折をくりかえしながら、自分なりのやり方を模索して、自分の生業が成り立っていくんだと思います。教科書や先生がいなくても、生きていける。それが、これからの生き方の希望になるのかなと思います。

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*1 大検:大学入学資格検定。2005年度からは、高等学校卒業程度認定試験(高認)に移行している。

*2 宮崎松記(みやざき・まつき/1900〜1972):熊本県出身の医師。国立ハンセン病療養施設の菊池恵楓園園長を勤め、退官後、1964年にインドにアジア救らいセンターを設立した。


*3 渡辺位(わたなべたかし/1925〜2009):児童精神科医。元国立精神・神経センター国府台病院児童精神科医長。

*4 内田良子(うちだ・りょうこ):1942年生まれ。心理カウンセラー。子ども相談室「モモの部屋」主宰。

*5 教育機会確保法案:2015年5月、超党派の議員連盟により提案された法案。不登校児童生徒など「義務教育段階に相当する普通教育を十分に受けていない者に、多様な普通教育の機会を確保すること」を目的とし、対象は、年齢、国籍を問わないこととされた。これにより、フリースクール、家庭学習、夜間中学校や外国人学校などを含め、多様な場が教育機会として認められ、経済的支援がなされると期待する声もあった。しかし、反対や慎重論の声も多く、2015年の通常国会では上程が見送られ、大幅に変更された案が2016年の通常国会に上程された。しかし、審議にはかけられないまま見送られ、インタビュー時の2016年11月現在は「継続審議」扱いだった。その後、2016年12月、法案は可決・成立した。
【インタビュー:当事者の最新記事】
posted by 不登校新聞社 at 14:20| Comment(0) | インタビュー:当事者
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