2017年02月23日

#12 無着成恭さん

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(むちゃく・せいきょう)1927年、山形県沢泉寺の長男として生まれ、跡継ぎとして育てられる。山形師範学校に進み、1948年、21歳で同県山元村中学校に赴任。戦後の民主主義教育の実践として展開した「生活綴方」は、後に『山びこ学校』として出版され(現在は岩波文庫所収)、大きな反響を呼んだ。1952年、沢泉寺住職に。1954年に上京し駒澤大学仏教学部に学び卒業。私立明星学園教諭を経て、千葉県香取郡の福泉寺、大分県国東市の泉福寺住職を歴任。1964年からはTBSラジオ「全国こども電話相談室」の名物回答者として33年間出演した。

インタビュー日時:2016年10月30日
場 所:無着さんご自宅マンションの共同図書室(大分県別府市)
聞き手:奥地圭子
写真撮影:木村砂織
記事公開日:2017年2月23日

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〈テキスト本文〉

奥地 こんにちは、おひさしぶりです。

無着 奥地さんは、私と出会ったころと比べて、ずいぶん貫禄がつきましたね、顔に。

奥地 そりゃあ、そうですよ。だって40年以上経っていますよ(笑)。


●子ども電話相談室で

無着 その本(『TBSラジオ全国こども電話相談室』)、読んでくれた?

奥地 読みました。おもしろかったです。私が知っている無着さんと変わらないなあと思って。

無着 その昔、奥地さんにも出演してもらいましたね。子ども電話相談室に現場の教師を入れたいので紹介してくれと言われて、30人ぐらい紹介したんだけどさ、みんなマイクの前に立って、質問になったら、ふるえあがってしゃべれないのよ。堂々としゃべったのは、奥地さんだけでね。この人なかなかやるなあと思いましたよ。

奥地 おもしろかったですね。「馬の顔は、なんで長いんですか」とか、珍問の連続で。無着さんは33年間、回答者を務められたんですよね。

無着 番組開始から33年間やりました。1987年にお寺の住職になってからは、お葬式やなんかあったら、行けなくなってね。1997年に放送が日曜日になったので辞めたんですが、俺が受けた最後の質問は、「仏様と神様では、どちらがえらいんですか?」という質問でした。

奥地 それで「神様にはお経がなくて、仏様にはお経があるから仏様のほうがえらいのです」と(笑)。

無着 そうそう。それから、「私のおちんちんは、小さいんだけど、こんな小さいおちんちんでも子どもをつくることはできるでしょうか」とかね。それで、「いざとなったら、大丈夫だから」とか(笑)。

奥地 子どもたちに非常に人気のある番組でしたね。ラジオの前に、私は明星学園(*1)の教育研究会に毎月参加していたので、そこで知り合ったのが最初だったかと思います。

無着 そうでしたね。いろいろ質問したり、発言したりしておられて、この人は大丈夫かもしれないと思って、推薦したんだ。だから、明星に来なければ、ご縁がなかったんだよ。

奥地 その後、私は教師を辞めて、いろいろな人のご縁もあって、1985年にフリースクール東京シューレをつくったんです。それで、フリースクールでお寺の体験をやりたいと思って、無着さんに電話したんです。そうしたら、「弁当は持ってくるな」とおっしゃって。ここでつくったものを食べて、お箸もお茶碗も、ぜんぶ自分でつくるんだと。2回ほど、20〜30人の子どもたちと行かせていただきましたが、雑巾がけとか、竹から箸をつくったりとか、いろんな体験をさせていただきました。
 今日、別府に来られたのも、ご縁のおかげです。いま、東京シューレに来ている子どものお母さんが、明星学園での無着先生の最後の教え子だったんですね。佃恵さん(現在は木下恵さん)ですが、その方から無着さんが別府にいらっしゃることを教えていただきました。

無着 だから10円より5円を大事にしないとね(笑)。5円は真ん中に穴が空いているから、ひもで結べるでしょう(笑)。
 学校ではね、校長とか教頭になるとクラスを持てなくなるでしょう。でも、俺は自分の受け持った子どもがかわいくてね、校長とか教頭にはなりたくなかったの。でも、そういうわけにもいかなくて、教頭は引き受けたんだけど、新卒の先生の担任のところに副担任として就いて、毎日、顔を合わせるように仕組んだわけ。だって、子どもの顔を見られない先生なんてね、そんなの私の性格に合わない。だから、教頭を10年間やったんですが、ずっと副担任をさせてもらったんです(笑)。学籍簿をつくったり、めんどうなことはぜんぶ担任にまかせて、副担任は、生徒をちゃんと、掌の上に乗っける。その連中は、いまでも集まってくるからね。わざわざ大分まで来てさ。担任より、副担任のほうに来ちゃう(笑)。佃恵は、その最後の生徒だね。


●子ども時代は

奥地 それだけ、魅力があったのでしょうね。ところで、無着さんは何歳になられましたでしょうか。

無着 妊娠からですか、生まれたときからですか?

奥地 仏教って、おなかの中にいるのを1年と数えるんでしたね。あれはすばらしい発想ですよね。命としてもう存在しているんだから。じゃあ、それを含めて。

無着 お腹の中で約1年間育てられてから、出てくるんだから、ちゃんとお母さんのおなかの中で育てられた時間も年齢に数えなくちゃいけないということは、お経に書いてあるんです。その数え方で言うと、いま90歳です。

奥地 すごいですね、長生きですね。

無着 はーって、長息(笑)。

奥地 なるほど(笑)。お生まれはどちらで?

無着 山形県南村山郡本沢村のお寺の家に生まれたんです。非常に貧しいお寺でしたから、母親は学校の先生をしていました。ところが、ある日、干していた私のおむつが、こたつに落っこちて火がついて、お寺が全焼してしまったんです。学校とお寺は歩いて30分くらいの距離だったんですが、学校からは見える場所にあって、燃えているのが見えて、母親は裸足で駆け出して行ったそうです。総代さん(檀家の代表)が尽力してくれて、お寺は再建できました。母親も、月給をぜんぶお寺の再建に出したからね。もう再建できないだろうと言われたのに、全焼して1年半後には、立派なお寺ができちゃったの。
 その総代さんが、子守もしてくれていて、桑を摘む「はけご」という藁で編んだ背負子で、俺を背負ってくれてたんです。いまは背負子もぜんぶ商品になってますけどね。

奥地 無着さんの子ども時代、学校はどんな感じだったんでしょう?

無着 学校で、「ワタシタチハテンノウヘイカノコドモデス」と教えられたの。それを家に帰って父に言ったら、「テンノウヘイカモホトケノコデス」と教えられたの。それで私は「学校では親子だけど、家に帰れば兄弟なんだ!!」と思ったんですね。あとは、そんなに深い印象はないですね。ただ、学校を休むと遅れるという気持ちはあったから、休みたくないという気持ちだけは、ありました。


●国の部品だった

奥地 戦争中は、兵隊さんには行かれてないんですよね。学徒動員で、ゼロ戦や戦闘機をつくっていた中島飛行機(群馬県)に行かれていたとか。

無着 中島飛行機の工場に、昭和19年(1944年)の7月から動員されました。中島飛行機はゼロ戦のほかにも、銀河という双発爆撃機なんかをつくってました。私は、銀河とゼロ戦の油圧パイプをつくらされていました。最初は、油圧パイプをくねくね上手に曲げることができなくてね。だんだん、熟練工になってきて、カッカッと曲げては出していました。
 昭和19年の11月ごろ、秋晴れのいい天気のときに、B29がゆうゆうと飛んで来たんです。きれいだったですよ。1万メートルの上空を飛んできてね。でも、我々のところは爆弾も何も落とさなかった。だから、空襲警報が鳴って、防空壕に入れって言われても、入らないで眺めていたんです。

奥地 軍事工場は狙われそうなものですけどね。

無着 そのころは航空写真を撮って調べていたのでしょう。(*2)

奥地 どういう気持ちで爆撃機をつくっていたのですか。

無着 いや、爆撃機をつくるという意識は、ないですね。パイプを曲げるという意識しかなかった。これが、飛行機のどの部分に使われるかなんて、考えたこともなかったです。

奥地 そういうものかもしれませんね。

無着 部品ですから。だって、人間自体が日本という国の部品だったわけですから。

奥地 なるほど。そのころは何歳ですか。

無着 17歳ぐらいですね。旧制中学5年生でした。昭和20年3月に旧制中学を卒業したんですが、お寺の跡継ぎだから、卒業後は駒澤大学に行くように言われてたんです。でも、文科系だと招集受けて兵隊に行かなくちゃいけないでしょう。まだ戦争は終わってなかったですからね。それで、山形師範学校に進学したんです。学徒出陣を免れられるのは、医学系と高等工業学校と師範学校系統だけでした。お寺だから、生き残ったとしても役に立つとか、いろいろ考えてね。そりゃあ、みんないろいろ考えたんですよ。
 つまり、医学も、工業も、師範学校(教員を養成する学校)も、日本の軍国主義国家をつくるための重要な役割を果たしていたわけです。

奥地 戦争が必要とするものをつくるということですね。師範学校では、少国民(*3)教育をしっかりやる教員を養成するということですね。


●先生は軍国主義の手先

無着 そうです。日本の教育者というのは、国家権力を握っている人の理想を実現する教育しかできない。現在の日本の学校だって、自民党の権力の下に学校が支配されているから同じです。日本の学校教育というのは、そのときの権力者が、国民を利用できるように教育するわけです。
 山形師範学校の学生も、卒業すれば山形32連隊に招集されていました。最低の二等卒から始まって、3カ月経つと伍長になって、兵隊を10人ぐらいあずかるようになる。だから、学校の先生というのはね、軍国主義教育の手先だった。

奥地 敗戦の日のことを覚えておられますか。

無着 覚えてます。8月15日は羽黒山の山中にいました。日本は石油がないので、飛行機を飛ばすために松の根っこを蒸して油を採ってたんです。その松の根っこを掘るために、羽黒山の山中に動員されてたんです。その管理をしていたのは海軍でした。山麓の手向村から5キロほど山道を登ったところで、松の根を掘っていたら、玉音放送があるから12時までに社務所まで戻って来いと言われたんです。「天皇陛下が放送するんだってさ」「何だろうね、がんばれってことじゃないの」なんて話しながら、山から降りてきました。
 でもね、ラジオを聞いていても「耐えがたきを耐え、忍び難きを忍び」しかわからない。「耐えがたきを耐え、忍び難きを忍び」戦争しろって言ってるのかな、いや、負けたって言ってんじゃねえのって、わかんないわけだ。そうしたら、教師が「戦争は終わりだ。負けたんだ」と言い出した。それで私は「ああ、終わったのか。山から降りてくるときにシャベルを持ってくるんだった。また、取りに行かなくちゃ。失敗したなあ」と思った。でも、泣いている人もいてね。「おまえ、何泣いているの?」「いや、負けたからだよ」「そりゃあ、なかんべえ」って具合でした。
 8月6日に広島に原子爆弾が落ちたときも、8月7日か8日の山形新聞に「熱線利用の爆弾」と書いてあってね。「原子爆弾」とは書いてなかった。だって、当時はわかんなかったですからね。「熱線利用の爆弾って、すごいんだってさ」「いやあ、こりゃ大変だよ。こんなのなら、熱くてしょうがないだろうなあ」なんて、言い合ってたの。

奥地 だんだん本当に負けたんだとわかってくるわけですよね。

無着 漢文の教師が「要するに負けたらしい」「自分の家に帰れ」という。負けたんだからね。海側の人は、まだ帰りやすかった。でも、内陸の人は月山という山を越えて帰らないといけない。漢文の教師いわく、鉄道もアメリカ軍に抑えられるかもしれないから、内陸の人は山を越えて行かなくちゃならないと。だから「一晩山の中で野宿しないと帰れないなあ」なんて話してました。我々は山一つ越えれば行けるところだったんですが、米沢の人はもう一山越さないといけない。「それは大変だなあ」とね。でも、汽車は動いているということで、午前2時か3時に起きて、荷物背負って駅まで20キロぐらい歩いて、汽車で家に帰りました。

奥地 それはたいへんでしたね。

無着 寺に帰ると、伯父(母親の兄)が憲兵に捕まったとのことでした。坊さんなのに、村に男がいなかったから村会議長になっていて、8月1日の村会で「アメリカ軍が日本に入ってきたときは、女子どもを隠さなくちゃだめだ、男はみんな殺される」と話したそうです。それを密告されて、翌日には憲兵たちが来て、牢屋にぶち込まれてしまった。戦争に負けるって、見える人には見えていたわけですね。


●「山びこ学校」ができたのは

奥地 戦争後、教員になられたのは?

無着 昭和23年(1948年)4月から、地元の山元中学校に赴任しました。

奥地 そこで、のちに有名になる「山びこ学校」(*4)の実践に取り組まれたわけですね。

無着 そうです。

奥地 一方的に教えるのではなくて、子どもの生活から学びとって、それを書きつづっていくという「山びこ学校」の発想は、どこからお考えになったものだったのでしょう。

無着 それは、須藤克三(*5)先生のおかげです。敗戦後、師範学校でも、先生たちは何を教えたらいいかわからないという状況があったわけです。それで、山形新聞の社説を読んでいたらおもしろくて、その社説を書いてたのが須藤克三先生だったんです。小学館の編集もしていた人ですが、そのころは山形新聞の論説委員をしていた。それで、新聞社に遊びに行ったんです。だって、学校に行ってたって、何も教わるものがないんですからね。
 そして、私は師範学校1年生のときに生徒会の文化部長になったんですが、生徒で講座をつくりたいと学校に申し入れて、須藤克三先生の講座を開いたんです。そこで初めて、須藤克三先生から、鈴木三重吉(*6)という人物や大正デモクラシーのことを教わったのです。そこで、生活綴方運動のことも出てきたんです。ですから、須藤克三先生と出会わなかったならば、あるいは、私が師範学校に入って文化部長になってなければ、「山びこ学校」はなかったと思います。

奥地 それも、ご縁ですね。須藤先生と出会って、心を動かされたから実践されたということですよね。

無着 とにかく、おもしろかったのよ。村山俊太郎(*7)とか国分一太郎(*8)のように牢屋にぶち込まれた先生もいたとかね。須藤先生から聞いて初めて知ったことがたくさんありました。

奥地 そうすると、現場の先生として教壇に立つまでに、教師になったら、こういうことをやりたいなというイメージがおありだったわけですね。

無着 ええ。生活綴方で自分たちの生活を書かせなくちゃということは、徹底して言われてましたからね。どういうふうに書かせれば、書かせたことになるのかというのが、師範学校の学生だった俺にとっては問題でした。もともと専門は数学だったですからね。頭の中は理科系なんですよ。

奥地 大田堯先生(教育学者/本プロジェクトインタビュー#05参照)が「山びこ学校」をすごく高く評価されていました。教育って、戦後になっても、上から国が教える内容を伝達していくようなものが主流ですよね。でも、「山びこ学校」では、子どものほうから出発していた。子どもの現実とか生活とか、子どものなかにあるものを引き出していく。それから子どもどうしで関わっていく。それがすばらしい、そういうものこそ学びだとおっしゃっていました。


●自分たちの問題から社会を

無着 そうですか、ありがとうございます。私の考えとしては、子どもたち自身がどういう問題を抱えているのか、自分の抱えている問題がいったい日本の中ではどういう意味を持っているのか、人類史のなかではどういう意味を持っているのか、それを考えさせるところから始めればいいという思いでした。

奥地 生活のことを書くだけではなく、そういった広い学びをやってこそ、自分の問題が見えてくるということですね。

無着 そりゃ誰しも、自分の問題、目先の問題は小さな問題だと思っているわけです。その小さな問題が、実は全体のなかでどういう意味を持っているのかということがわからなければ、行動は起きてこない。

奥地 そういう意味では、大きい学びというか、深い学びを追求されていたわけですね。

無着 まあ追求といっても、俺もいい加減だからね。

奥地 子どもたちといっしょに考えていったということですかね。

無着 そうだね。子どもたちは「何でこうなの?」と聞いてくる。子どもが書いたことをそのまま謄写版で刷って渡してね、みんなで討論する。そうすると、わかんないところはみんなに意見を言われますからね。最初はみんな短い文章なんですけど、それがだんだんだんだん、ふくらんでいく。子ども自身が書いたものが教材になったということが、山びこ学校の原点でしょうね。

奥地 山元中学校で生活綴方教育をなさっていたのは、何年間ぐらいですか。

無着 6年間です。師範学校に入ったら、義務として3年間は先生をしなくちゃいけないので教員になったんですが、私はお寺を継がなきゃならなかったんです。だけど学校がおもしろくなってね、あと3年、教師をさせてくれって、親父に頼んだんです。それで6年間。世間ではクビになったように言われましたが、実際はそういう事情です。
 それから、私は駒澤大学に入ったんです。学問よりも先にそういう経験を積んで、大学に入ったので、大学も非常におもしろかった。とくに仏教史がおもしろかったですね。「ああ、宗教ってそうなのか」とか、先生たちの話に、いちいちうなずくことがあった。だから大学には入ったほうがいいですよ。かならずしも高校を卒業してすぐさま行くんじゃなくてね。何年かいろんなことを経験してから行くといいと思います。

奥地 不登校の子どものなかにも、そういう生き方をする子がいます。自分は、学校が好きじゃない。それで、中卒で働くんだけど、やっぱり知りたいことがいろいろ出てきて、それから大学に入る。高認試験を受けて大学に入るとか、それがよかったと言っている子がいるので、まったくそうだなと思いますね。

無着 だから、そういうシステムを日本がちゃんと認めてくれないとね。なんでもストレートに行った人がいいんじゃなくてね。竹だって、ところどころ節がないと、丈夫じゃないんですよ。尺八だって節があるから、いい音が出るんだ。


●長期欠席の子どもは

奥地 山元中学で教員をされていたとき、長期欠席の子はいましたか?

無着 いたよ。働かせられるから長期欠席してたね。そこでうちのクラスでは、みんなで仕事を手伝って、学校に来られるようにしてあげたものだから、休む子はいなくなった。

奥地 なるほど。そのころは、いまの登校拒否や不登校のような子は見かけたことはなかったということですね。

無着 そうです。

奥地 駒澤大学を卒業後は、お寺を継がれたということですか。

無着 昭和27年から沢泉寺の住職をしたんです。ところが、親父が兄さんの子どもを弟子にして、「おまえは自由にしていい」と。それでやっと、昭和33年、お寺の鎖から解き放たれて、髪の毛を伸ばしました(笑)。

奥地 それで、選んだのが教員の仕事だったんですか。

無着 いや、その前に、いろんなことがありましたね。ひとつには、お寺に生まれた赤松俊子さん(丸木位里さんと結婚して丸木俊子さんなりました)が、原爆の図を描いて、丸木美術館を立ち上げるという話が持ち上がって、美術館を建てるための事務局長に俺が選ばれたんですよ。

奥地 そうだったんですか。知らなかったです。

無着 でもね、美術館の事務局長は、俺がやりたい仕事とちょっとちがうなと思ってたんです。俺は、今でもそうだけど、根っからが子どもと同じでしょ。発想や喜び方がね。建物を建てたり、美術館の館長というのは似合わない。そこに、明星学園の方から手伝ってくれないかという話があってね。子どもといっしょに遊んでいたほうがいいんだ、やっぱり。子どもが掌のなかにいるというのは、うれしいことですからね。明星学園の校長から「人からこういうことを教えろと言われたことを教えるのはダメなんだ。何を教えるかということを、自分で考えなきゃ教育者じゃないんだ」と言われてね。「おっ、いいこと言うなあ、この校長」と思ってね。そんな言葉に、こちょこちょっとくすぐられて、「はい、わかりました」って返事をしたんです。


●明星学園で「続山びこ学校」

奥地 それで、明星学園に赴任されたんですね。何年のことでしょう?

無着 昭和31年、1956年ですね。

奥地 それで、『続山びこ学校』が出ますよね。あれは、明星学園の実践が土台になっているのですね。どういう実践だったんでしょうか。

無着 たとえば、小学校1年生の教科書で最初に出会う文字は、「はい」と「せんせい」です。「はい」は問題ないんだけど、「せんせい」は「せんせー」と言うでしょう。「い」とは読まない。1年生を担任した先生から、俺が質問されてね。「せんせい」を「せんせえ」と読むのはどうしてですか、と聞かれてね、「はあ、それは大問題だな」と。
 それから、日本語の音声教育とか、発音、ふりがなを考え出したんです。「時計」も「とけい」と書く子と「とけえ」と書く子がいる。「とけえ」や「とけー」をまちがいだとしていいのかどうか。あるいは、「ていねい」と書いて「てえねえ」と読む。「ねいさん」と書いて「ねえさん」と読む。もちろん、そこで悩まない教師もいます。でも、それがなぜかを子どもにわからせないと、教えたことにならないんじゃないかと思ったんです。ですから、何を教えたら教えたことになるのかということが、明星学園では重要なテーマになりました。

奥地 それで、そういう問題に取り組む研究会をつくられたわけですね。

無着 あなたが明星学園に来られるようになったのは、そのころですね。

奥地 はい。そして雑誌『ひと』を出されるようになるんですね。私も、『ひと』の編集のお手伝いをしばらくやりました。当時の明星学園は、ほかの学校とちがって、教材を自分たちでつくってましたね。教師言葉で言うところの自主編成ですね。

無着 そうそう、教科書もね。

奥地 国が決めた指導要領に沿うのではなくて、ゼロから自分たちでつくり出すんだという意気込みで、いろいろ研究したり、実践したりしてましたよね。当時、私は一般の学校の教師だったんですが、明星学園に魅力を感じて研究会に参加していました。その後も、明星学園とは深い関わりがありました。うちの子どもが不登校して小学校高学年は休んでいたのですけど、明星学園から出ていた本を子どもが読んで、ここだったら行きたいと言ったんです。それで入学したんですが、そのころ、明星学園はだんだん曲がり角に来ていましたね。明星学園のなかでも「受験派」と言いますか、とにかく点数を上げていい学校へ行かせようという親や教師の人たちと、本来の人間教育をやるべきだという人たちとが、そうとう揉めていましたね。
 そこから、別に新しい学校をつくるべきだという話が持ち上がって、自由の森学園をつくる流れもあって、PTA総会が大変でしたよね。そういうことを糾弾されたりしていました。

無着 問題が起きだしたのは昭和50年代で、私は、昭和48年から教頭をやって、昭和59年に退職しているんです。そのころ、遠藤豊(*9)たちが、自由の森学園をつくると言い出した。でも、俺は「もう学校をつくることからは抜けるよ」と。同じことを繰り返すだけだってね。それで、成田空港のそばの空き寺に入って住職になったんです。


●学校はもういいよ

奥地 自由の森学園と東京シューレは、同じ1985年に始まったんです。東京シューレのことを考えているときに、自由の森学園の小学校を千葉につくらないかという話が来たので、私もちょっと悩んだんですね。いい学校をつくりたいという思いと、不登校のことを考えて、学校以外の場がいるんじゃないかという思いのあいだで、ちょっと悩んだんですが、いい学校をつくる運動をしている人は、ほかにもいたんですね。学校以外の場をつくるというのは、まだ本当に誰もやっていなくて、私はそっちをやったほうがいいと思って、教師を辞めて東京シューレを立ち上げたんです。

無着 ちょうどあなたがシューレのほうに頭が行ったころ、俺も学校はこれで卒業だと思ってました。自由の森学園をつくるとき、遠藤豊に頼まれて埼玉県知事と会ったりしてたからね。遠藤豊や松井幹夫(*10)は、明星学園を出て、俺もいっしょに自由の森学園に行くと思ってたと思います。でも、俺は「学校はもういいよ。わかった」って。お寺のほうがずっといいって思ってね。だって、死んだ人が相手だもの。生きている人が相手だとね、めんどうくさくて。死んだ人はね、なんでも俺の言うこと聞くんだ。「あら、シンデレラ」ってね(笑)。

奥地 明星学園では、不登校の子はいましたか? うちの子は、中学校で明星学園に行って、高校も明星に行って生徒会の活動をしていたりしたんですが、学校が荒れていたり、教師にもがっかりしたりして、結局は中退したんです。そのころは学校の雰囲気も、本で読んだような実践とは変わってきているので、私もちょっとがっかりしました。それと、不登校だった子が、うち以外にも、行っていたんですね。一般の学校は、もうイヤとか合わないとか。明星だったら、子ども一人ひとりの個性を大事にしたり、子どもの声を聴いてくれるからということで。だから、不登校の子が、かなりいたと思うのですけれど、ご記憶にありますか?

無着 公立の学校になじまないということで来ていた子が、私のクラスにもいました。でも明星には、みんな喜んで来ていましたよ。だから、私のクラスにいた子どもで学校に来たくないという子は、いなかったですね。クラス全体が、ダジャレの連発ですからね。

奥地 なるほど。楽しい雰囲気がいろいろあったでしょうからね。

無着 でもね、中学生ぐらいで雑巾の絞り方もわからない子もいたからね。「おまえら、勉強なんかしなくたっていいから、雑巾というのは、こういうふうにざぶざぶと洗ってキュッと絞るんだ」ってところから教えないといけなかった。拭き方もなってなくてね。お母さんが拭いてくれるらしくって、「おまえらテーブルの拭き方も教わってないのか」ってね。俺がそこから教えた子どもたちは、いまでも会いに来ます。「おまえら、飛行機賃まで出して、わざわざ俺に会いに来なくたっていいじゃないか」って言うと、「いや、無着先生と会わないと死にきれないから」とか言って、来るんだよ(笑)。


●不登校するのはおもしろくないから

奥地 日本では、1970年代からどんどん不登校が増えるんですね。無着さんから見て、どうして日本の学校は不登校をたくさん出したのだと思われますか。

無着 日本の義務教育では、操作的知識だけで詰め込んで内部構造を見せないからでしょうね。『おっぱい教育論』』(無着成恭/どう出版2016)に書いたように、ナメクジに塩をかけるとちぢむ≠ニいうことは教えるが、なぜちぢむのかを教えないからでしょう。

奥地 そうですよね。

無着 学校の教師も、教えられる内容も、おもしろくない。それは明快でしょう。どういうことに子どもが問題意識を持っているかを教師は考えなければ、子どもはついてこないですよ。だって、子どもはおもしろいですよ。たとえば、お母さんが赤ちゃんにオッパイを飲ますときに乳首からおっぱいが出るでしょう。それで「おっぱいの乳首に穴が何個あいているんですか」という質問をしてくるんだから。教師が「おっ、いい質問だ」とか「わかんないよ」とか言うと、みんながわあっと笑うでしょ。そうやって、みんなしてしゃべってみようとなって、わあっと集まってやってました。
 それで、クラスの子のなかに、お母さんに「ちょっとおっぱい見せて」って言った子がいてね。そのお母さんから「無着先生、何を教えてるんですか? 娘が虫メガネを持って、おっぱい見せてと追いかけてくるんです」って(笑)。あのころは、俺も副担任だったから自由でね。

奥地 そういう授業が、もう、なくなっちゃいましたね。いまの教育のあり方が変わらないと、不登校の状況も変わらないだろうということですね。

無着 そうですね。きわめて悲劇的なことですけれども、文部省、国家の側が子どもたちを自分たちの思いどおりの人間につくりあげようとするシステムがあるかぎり、登校拒否は、増えてくるでしょうね。だから、そういう意味では、日本の教育システム、教育者のレベルは、世界のなかでは、非常に低いのでしょうね。

奥地 日本の教育制度は、政府が決めた学習指導要領でやる学校のみを正規に認めて、私たちがやっているようなフリースクールとか、シュタイナー教育、モンテッソーリ教育などには、何の応援もしないし、予算もつかず、正規の学校じゃないということで、らち外にされてきたんですね。
 私たちは、政府が用意する学校も当然あって活用すればいいけれども、ほかの多様な教育も認めてくださいと言ってきたんです。多様な教育を選べるのがいいんじゃないかということで、ずいぶん動いてきて、最近、ちょっと変わり目にあるぐらいのところです。政府の用意した学校だけが正規の教育で、学校へ行けなくなったら学校へ戻さなきゃというような考え方をしてきた国って、北朝鮮と日本ぐらいと言われているんですね。ほかの国々は、政府の用意した学校教育もあるけれども、ホームエデュケーションも含めて、ほかの教育方法でもいいことになっている国が多い。そういう意味では、日本は非常に遅れているんですよね。

無著:北欧3国と言われているスウェーデン、ノルウェー、デンマークなどでは、教師自身が何を教えたくて、どういう子どもを育てたいのかという考えがないと、教師になれないんですね。

奥地 教師の主体性ですよね。


●教師の条件は

無着 北欧では、人間として幅広く豊かであるというのが教師の条件です。だから、学校の教師は尊敬されている。日本の教師は、先生あがりというのはまったく使いものにならないでしょう。俺も先生あがりだから言ってもいいでしょうけれども。なぜかと言うと、やっぱり視野狭窄なんでしょうね。日本が滅びるとしたら、日本の教育が視野狭窄になっていることが大きな原因になるでしょうね。
 江戸時代には、文部省なんてなかったんですよ。徳川幕府は、各藩が自分の藩の子弟を教育するには、藩校が責任を持たなければいけないと考えていた。教育を中央政府が監視してないわけです。江戸時代では、佐賀藩が一番教育のシステムが進んでいて、米沢藩がそれを見習って続いていた。
 明治政府は薩長がつくって、総理大臣やなんかは薩長がとったけれども、実質の部署には佐賀藩出身が一番多いんじゃないですかね。

奥地 佐賀藩や米沢藩は、どう進んでいたんですか。

無着 自由だったんですね。藩の教育というのは、儒教ですから。儒教というのは、宗教ではないということになっているけれども、世界的に孔子や孟子の教えというのは、本になっていて、教えた人がちゃんといるでしょう。仏教も、お経という本があって、教えた人がお釈迦様となっているでしょう。教えた人がいて、教えた本があるというのは、これは世界宗教になりうるわけです。NHK朝の連続テレビ小説「あさが来た」に出てきた大阪の商人たちも、寺子屋ですから仏教の系統で教育されていた。江戸時代は明治以後の学校教育とちがって、生徒に点数をつけてなかったんですね。

奥地 なるほど、寺ですものね。


●「お経」がない日本

無着 それに対して日本の神様というのは、お経がないんです。神主はいるけど、「おーおーおー」なんて言ってね。空から神様を松の木の枝に降ろして、地面に降ろしてくるという所作しかないわけです。だから、歌舞伎なんかでも松の木の枝が書いてあるでしょう。松の木の枝に神様が降りてくるわけ。だから、日本では神社に松の木を植えないといけないのです。日本の神様には、松の木に神様を降ろす祝詞と、神様を松の木から天に昇らせる祝詞の二つしかないのです。
 そして明治維新では、天皇を絶対的な神様にするために、仏教から天皇家を切り離したんです。そもそも日本に仏教を持ち込んできたのは、天皇家なんですけどね。日本が仏教国になったというのも、天皇家のおかげなんです。ところが、その天皇家と仏教を切り離して天皇を生き神様にした。しかし、お経がないんです。お経がないので、仕方なしに教育勅語をつくった。そして、廃仏毀釈運動が起こる。これは、すさまじい運動だったわけです。廃仏毀釈運動は、明治の慟哭と言ってね。日本はこれで滅びると書いた本がたくさんあります。そういうことを、ほとんどの方は知らないわけです。つまり、明治維新以後、このスイッチを押せばあの蛍光灯がともる、ということは教えるが、カラクリはすべて壁の中に隠されているわけです。

奥地 戦争が終わって、民主主義教育となっても、そこの部分はあまり変わらなかったと感じておられるわけですね。

無着 そうそう。日本の教育風土というのは、「なぜ」という内部構造については教えないで、操作的な知識と技術を教えることに終始しているのですね。


●知識とはいかなるものか

奥地 いま、無着さんから見て、日本の教育がもっとこうなったらいいと思っておられることを教えてください。

無着 教師自身が、北欧やアメリカで子どもをどう教育しているのかを学ばないといけないですよ。知人でアメリカ人と結婚した人がいるんですが、その子どもが日本の国籍を取るとき、日本の上智大学に行ったんですが、「日本の学生って、つまんない。話に幅がないの」「日本に来て失望した」と言ってました。

奥地 そうでしょうね。でも、それはどこから来ると思いますか。

無着 日本のテスト体制も問題ですけれども、知識というものは何なのかということの哲学が不足しているんじゃないでしょうか。知識がいかなるものかという哲学がないと言っていいと思います。この『おっぱい教育論』なんか読むと、そこのところがハッキリしますよ。
 TBSで子ども電話相談室をやっているとき、NHKが見学に来ていたんですが、NHKラジオでは、いまも子ども科学相談室をやっているでしょう。でも、聴いていると、回答者がすぐに質問に答えているんですよね。たとえば、「ナメクジに塩を振りかけるとちぢむと聞いたんだけど、それなら砂糖をかけるとふくらみますか?」というような質問が来るでしょう。俺だったらね、「なぜ砂糖をかけたらふくらむって考えたの」って聞くね。そうすると「砂糖は甘いからふくらむんじゃないかと思った」とか答えると思うのね。「わはは、おもしろいねえ」と。そうすると、そこで初めて水に溶けるとは何かということが問題になってくる。水に溶けるというのは、いったい何なのか。溶けるというのは、塩も水に溶けるし、砂糖も水に溶ける。じゃあ、デンプンはどうか、粉石けんはどうか。だから、ナメクジを10匹くらい捕まえてきて、砂糖かけてみたり、塩かけてみたり、実験してみたらいいと思うの。いろんな粉を振りかけてみて、どうなるかを見てみる。ナメクジにとっては迷惑だけどね(笑)。人間の考える豊かさをつくるために、ナメクジに犠牲になってもらう。そういう教育がないんですよ、日本には。

奥地 そうですね。私らの時代には、わりとそういう授業を勝手にやっていたんですけどね。いま、そういう授業をする先生は減りました。たぶん、仕組みとしてできないんですよね。教えなきゃいけないことも増えていて。

無着 そもそもナメクジを見たこともなければ、塩を振りかけたこともない子どももいるからね。日本の子どもの思想が貧困になるのは、当たり前ですよ。


●戦争は餓鬼のすること

奥地 無着さんは平和こそ大事と強調されていますが、戦前からいろいろな経験をされてこられて、いま、平和についてどう思われていますか。

無着 地球を壊すのは、ヒトだけです。戦争というのは、地球を壊すんですよ。ヒト以外の動物は戦争をしません。ゴリラだって、象だって、ライオンだってね。そりゃケンカはしますよ。でも、武器は持たない。武器を持つのはヒトだけです。畜生という言葉がありますが、自分は何もつくらないけれども、大自然がつくってくれたものをいただいて生きているものを畜生と言うんです。ですから、畜生は中立なんです。ところが、武器を持ったとき、ヒトは畜生以下の餓鬼になっちゃうんですね。仏教で言うところの餓鬼です。

奥地 餓鬼は畜生よりも下なんですね。

無着 餓鬼は欲ばりで、人を助けることができない。人が餓鬼になったときに、戦争が始まるんです。だから、戦争というのは餓鬼がやるもので、人がやるものではないんです。畜生は奪い合いはするけど戦争はしない。奪い合っても、あまったら、ほかにあげちゃうんです。
 我々は、畜生として生まれるんです。すべての生物は畜生として生まれる。犬、サル、猫、虎、人、ぜんぶ同じレベルで畜生です。ですから、赤ちゃんや子どもには人格はないんです。赤ちゃんや子どもは、人であって畜生です。
 人格というのは、自分以外の人を楽にさせることができたときに初めて、「格」ができるんです。あるいは、「働く」というのは、「はたのひとを楽にさせる」ことだと言います。かたわらの人を楽にさせることを働くという。それが人格の形成ということです。
 しかし、世界中で人格のレベルが落ちていますね。地球をいったん、しっちゃかめっちゃかにするところを見てから俺が死ぬか、俺が死んでからそうなるのかわかりませんが、このままいったら、そうならざるを得ない状況にあると思います。

奥地 それでも、できるだけそうしない方法はあるでしょうか。


●欲ばらず、本当のことを

無着 欲ばらないことですよ。資本主義社会が、どういうかたちで終わりになるかわからないけどね。いまや円やドルを指先でピッピッと動かす世界になってきているでしょう。俺にはわからない世界だからね。俺は店に行って現金で買うことしかしないんだよ(笑)。たいへんな時代に、人類は差しかかっている。逆に言えば、人類は大変な時代をつくり出していると言ってもいいでしょうね。人類は世界中の畜生を痛めつけている。

奥地 教育は、そういう本当の意味の平和に貢献できるでしょうか。

無着 貢献しようと思えば、教育は貢献できますよ。そのためには、本当のことを教えることですよ。いま教えていることも本当のことの一部かもしれないけれども、それは一部の富裕層が利用するために、その部分だけ教えているわけです。
 たとえば、水は高いほうから低いほうに流れるというのは、本当のことです。そこで、水をせき止めてダムを造るというのも、人がやったことでね、ダムを造ることによって、大変な利益を得るけれども、そのことによって、困ることもあるわけです。そういうことを考えていくと、なぜアメリカでも日本でも、一握りの富裕層と言われる人、権力者どもに富が集中するのかという大問題が出てくるでしょうね。

奥地 もう、世界的にそういう構造になっていますからね。

無着 だから、資本主義って何なのかというところまでいくでしょう。まあ、たいへんな時代になると思いますが、そのころには俺はもういないからね(笑)。だからと言ってはおかしいのですが、この『おっぱい教育論』を私の遺言書として残しておこうと思ったのです(笑)。日本の学校教育が、ヒトという哺乳動物、つまり畜生が傍(かたわら・はた)の人を楽にさせることで格が上がるのだという教育をしなければ、ヒトが餓鬼になって地球をダメにしてしまうのではないかと、まあ、よけいなと言われるかもしれない心配をしているわけです(笑)。

奥地 どうか、お元気でお過ごしください。今日はたいへん長時間、2時間以上、お話しいただきまして、ありがとうございました。
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*1 1924年に大正自由教育運動の流れを汲み、創立された私立学校。現在は小学校、中学校、高校がある。所在地は東京都三鷹市。

*2 編集部注:その後、昭和20年2月以降に何度か空襲を受けて中島飛行機の工場は破壊されている。

*3 年少の皇国民。銃後に位置する子どもを指した語。

*4 山形県山元村(現在は上山市)の山元中学校の教員だった無着成恭さんが、教え子の中学生たちの生活記録をまとめて、1951年に刊行した書籍(青銅社)。現在は岩波文庫所収。舞台となった山元中学校は2009年3月に廃校となった。

*5 須藤克三(すどう・かつぞう 1906―1992):日本の教育者・児童文学者。山形県出身。教員、編集者を経て山形新聞社論説委員など。農山村へ深く関わりながら、教育文化運動の実践に力を注いだ。

*6 鈴木三重吉(すずき・みえきち 1882―1936):広島県広島市出身の小説家・児童文学者。日本の児童文化運動の父とされる。

*7 村山俊太郎(むらやま・としたろう 1905―1948):教育運動家。山形県の小学校教員となり、教育労働者組合を結成して検挙された。1940年には、生活綴方運動を理由に治安維持法で検挙されている。

*8 国分一太郎(こくぶん・いちたろう 1911―1985):日本の教育実践家、児童文学者で綴方教育の実践家・理論家だった。1941年に治安維持法により検挙された。戦後は、日本作文の会などの民間教育研究団体や新日本文学会などで活動した。

*9 遠藤豊(えんどう・ゆたか):1925年栃木県生まれ。明星学園教師を経て、全人教育を行う自由の森学園を設立。

*10 松井幹夫(まつい・みきお 1927―2012):1959年明星学園の教師に。数学教育協議会の中心的メンバーとして活動。95〜97年自由の森学園学園長。 
【インタビュー:学校関係の最新記事】
posted by 不登校新聞社 at 10:29| Comment(0) | インタビュー:学校関係
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