2017年03月06日

#14 中島浩籌さん

nakajima01.jpg

(なかじま・ひろかず)
1946年生まれ。慶應義塾大学経済学部卒業。同大学院修士課程終了、パリ大学ヴァンセンヌ校で哲学を専攻。東京都立高校教員時代に、いわば教員の「不登校」となって退職した経験がある。その後、河合塾COSMO講師、法政大学非常勤講師、日本社会臨床学会運営委員、YMCAオープンスペースLiby運営委員などを務める。著書に『逃げだした教師の学校論―良心的教師・その権力性』 (労働経済社1986)、『心を遠隔管理する社会―カウンセリング・教育におけるコントロール技法』(現代書館2010)、小沢牧子さんとの共著に『心を商品化する社会―「心のケア」の危うさを問う』(洋泉社2004)。

インタビュー日時:2017年1月23日
場 所:東京YMCA山手コミュニティセンター
聞き手:山下耕平
記事編集・写真撮影:山下耕平
記事公開日:2017年3月6日
--------------------------------------------------------------------------------
→PDF(組版データ)をダウンロード  14futoko50nakajima.jpg
--------------------------------------------------------------------------------

〈テキスト本文〉

山下 中島さんご自身は、子どものころ、学校との関係はどうだったんでしょう?

中島 学校そのものは、それほどキツいとは感じてなかったんですが、それ以前に他人との付き合いが、ほとんどダメだったんですね。10歳ごろ、なぜかわからないんだけど、「他人って自分と同じ人間かな?」と思い始めたんです。でも、いくら考えても確証は持てないですし、まわりの人は、みんな超人間みたいで、「実は自分の心を読んでいるんじゃないか」と思っていました。でも、おふくろに「あなた人間ですか?」と訊くわけにもいかないですしね(笑)。

山下 家族に対しても、その感覚だったんですね。

中島 自分以外は、みんなです。友だちもいるんだけど、しっくりしない。自分と同じ仲間だという意識はありませんでした。でも、スポーツは好きだったんですね。スポーツだと、考える前に動けて、そこで関係ができますからね。
 ときどき、離人感というか、この世界から抜け出して、自分をななめ後ろの上のほうからから見ている感じもありました。リアル感が薄くて、広い意味で解離的だったとも言えるかもしれません。「自分はほんとうに、この世界にいるんだろうか?」と思ってました。
 そんな感じで、自分でも異常なのかなと不安に思っていたんですが、ずっと、人には言わずにいました。他人にそういうことを話したのは、50歳も過ぎたころで、河合塾COSMOに勤めているときに、生徒と話したのが最初でした。たまたま生徒3人と立ち話で、そういう話になって、ひとりの子は「自分の身体はガンダムのモビルスーツみたいで、奥にある操縦席から画面を見ながら自分を操作しているような感じ」と言ってました。私も自身の離人体験を話しました。あれは楽しかったですね。その子も「これ、話していいことなんだ」と言ってましたし、私自身も楽しく話しました。


山下 離人感はいくつぐらいまで?

中島 じょじょに薄れていき大学時代にはなくなっていました。他者存在への疑問はいまでも、あります。でも、年齢とともに、「まあ、いいや」という感じにはなり、別の問いの立て方で他者存在を考えるようになっています。

山下 そういう感覚で、学校でうまくいかないことは?

中島 教師は教える機械のように思ってましたからね。いろんなことがあっても、「あいつは許せない」という感情も湧きませんでした。友だちに対しても、引いた目で見ていたので、トラブルがあっても流していて、「こんなもんだ」と思って生きてました。

山下 そういう感じがあって、哲学に関心を持たれたんでしょうか。

中島 そうですね。周囲との不調和があって、その不調和から問いが立ち上がってきたように思います。直接には、高校3年生のときにサルトルの『存在と無』を読んだのが大きかったですね。他人とは何なのか、対他存在がひとつのテーマになっていて、難しかったんだけど、「あんなにすごい人も、ここから考えているんだ」と思って、すごくほっとしたのを覚えてます。

山下 その後は大学で哲学を学ばれたんですか?

中島 慶應大学の経済学部に入ったんですが、哲学をやりたくなって、経済思想のゼミでマルクスの思想などを勉強していました。経済学部なのに卒論のテーマはサルトル(哲学者)の疎外論で、いったん就職したあと、大学院は哲学に進みました。
 当時、サルトルの研究者は多かったんです。サルトルは、慶應に来たことがありましたしね。でも、サルトルは実存哲学なのに、その研究者の多くは、研究と自分を切り分けて考えていました。学問と自分の生き方とがつながってない。私は「実存主義なんだから、そこは自分の生き方に関わらないとおかしいだろう」と思っていました。私自身は、大学闘争のとき、観念の世界が現実に通じた感じがあって、そこではじめて、自分と現実がつながった感じがありました。
 大学院に入ったのは1969年だったんですが、そのころ、慶應大学医学部に米軍から資金が提供されていたことがすっぱ抜かれて問題になっていました。批判に対して、大学側は「研究の自由だ」と突っぱねていましたが、そこでは学問と社会のあり方、学問と権力との関係が問われていたわけです。私も大学に残って研究者になろうと思っていたので、研究者とは何なのか、自分の足下が問われました。


●自分の足場に根ざした知

 それで、72年からフランスに留学したんです。サルトルの影響もありましたし、私はメルロポンティ(哲学者/現象学)の研究もしていたので、メルロポンティの研究者だったリオタール(哲学者)のもとで勉強したいとも思っていました。当時、サルトルは教えてなかったんですが、リオタールは5月革命(*1)に積極的に関わって、パリ大学ヴァンセンヌ校にいました。ほかにも、その大学にはフーコーもドゥルーズもいました(両者とも哲学者)。フーコーは70年にはコレージュ・ド・フランスという大学に移りましたが、ヴァンセンヌ校哲学科の最初の学科長でした。その二人の対談を読んでみたら、サルトルよりもずっと私たちが問題にしていたことに近かった。フーコーとドゥルーズは、知識人といっても、上空から俯瞰して全体を語るような、そんな立場はあり得なくて、特異的知に根ざさないような語り口はおかしいと言っていました。ヴァンセンヌは実験的な大学で、ラディカルでした。そこには、ゲイリベレーションもあったし、反精神医学の運動もあったし、いろんな闘争が混じり合っていて、そこと哲学が直結していた。おもしろかったですね。私たちはヨーロッパの思想家って、すごく緻密に論理構築を積み重ねていると思ってたけど、フーコーもドゥルーズもリオタールも、授業に参加してみると、意外と思いつきでやっていました。でも、そのぶん柔軟で、学生との対応もイキイキとしていました。そこでは、68年の5月革命以降の問題と学問とが密接につながっていました。
nakajima02.jpg
(フランス留学時代の中島浩籌さん/コレージュドフランスの前にて)

山下 そこが日本とはちがったわけですね。

中島 日本では、学問は中立的なもので、権力者が利用するかどうかは別問題ということになっていました。それが大学闘争の中で問われたのです。知も権力で、研究者の権力こそ問題なわけです。フランスでも、それを問う姿勢が強くありましたね。その意味で、問われている問題は日本と通底していたと感じます。しかし、女性が壇上に駆け上がっていたり、個人主義が徹底していたり、いろいろ日本とちがうなと思うことはありました。ヴァンセンヌ校では、単位なんて関係ないですし、講義にはどんな人でも参加できるし、カリキュラムも無視していた。ただヴァンセンヌ校は特別で、アカデミズムからは疎んじられていました。ドゥルーズは「アカデミズムには私の発想はわからないけど、高校生はわかる」と言っていました(笑)。
 そこでは、なんで勉強するのか、他人っていったい何なのか、セクシュアリティって何なのか、そういう問題が根底から考えられていました。抽象度はちがうかもしれないけど、ヴァンセンヌ校で議論されていたことも、河合塾COSMOやフリースクールで話されていたことも、同じです。

山下 パリ大学ヴァンセンヌ校は、問題意識を持った人が、現実と結びついて考えられる場だったわけですね。日本に戻ってこられてからは?


●教員の不登校に

中島 74年に帰国して、77年から都立高校の教員になりました。私はヴァンセンヌの授業をモデルにしたいと思っていて、試行錯誤しながらゼミをやったりしていて、すごくおもしろかったです。
 教えていたのは倫理社会でしたが、80年ごろ、ある男子生徒がレポートに「中学は楽しくて、やりたいこともあったんだけど、高校に入ってから、どんどん流されて、自分がどうしたいかわからなくなった。どこかで考える場を持ちたい。そこで大人物なら、大所高所に立ってと言うだろうけど、私の場合はそういう立場にないから、できるだけ小さくなりたい。先生や親の目から見えなくなって、そこでゆっくり考えたい」といったことを書いてきたんです。そして、それから1カ月くらいして学校に来なくなった。私は、なるほどと思ったんですが、私が教員のまなざしでつかまえてしまうのもまずいと思って、何もできずにいました。でも、3〜4カ月したら戻ってきて、そのまま、ふつうに卒業して進学していったんですね。後になって、「あの間にどうしてたの?」って聞いたら、「釣りをしていた」と言ってました。誰からも見えなくなるというのは、ドゥルーズなんかも語っていたことですが、現実にそれを宣言してやるというのは、すごいなと思いました。
 当時、「不登校」が問題化されてきていましたが、そういうことを「病気」のように言ってしまうのは何なのかと思いました。と同時に、自分が教員であるということ自体が、問われたんですね。教員の仕事は楽しかったんだけど、それだけに疑問が蓄積していったんだと思います。教員を始めて6年くらい経って、定時制高校に移ったんですが、ひと月くらいで、学校に行こうと思っても、脱力感が出てきてしまったんです。それまでに何人か知っていた、「不登校」の子と同じ状況になったわけです。それで、イヤだったら辞めるしかない、逃げるしかない、自分も、ここからとりあえず逃げるしかないと思って退職しました。83年のことです。

山下 何か具体的なトラブルがあったわけではないんですね。

中島 何もなかったんです。むしろ楽しかったんです。教師であることの矛盾を強く感じていましたが、その苦悩・感覚は漠然としたものでもあり、生徒たちの「不登校」とどこかで通じあっていたと思います。いまは、その苦悩や矛盾感はめずらしくもないでしょうけど、その走りみたいなものでしょうね。

山下 いまは精神疾患で休職している教員も増えてますね。毎年5000人以上いて、全教員の0・55%になるそうです。小学生の不登校は全体の0・42%(2015年度)ですから、それよりも多いんですよね。

中島 これも精神疾患にしてしまっていいのかと思いますけどね。

山下 そうですね。中島さんが感じておられたのは、教員の持つ権力性に対しての葛藤だったと言えるでしょうか?

中島 そうだと思います。ハッキリ意識して考えていたわけではないですが、そのあたりの疑問は通底していますね。それで、しばらく教員からは離れたいと思っていたんですが、1年ほど休んで、教員という仕事をちがう角度からやってみたくなり、公立高校の非常勤講師を始めました。85年からは横浜YMCAでフリースクールに関わるようになりました。ちょうど、各地でフリースクールが立ち上げられ始めていたころですね。
 そうすると、それまでと自分の視点がぜんぜんちがったんです。それまでは、学校になじめない生徒に「私は将来大丈夫なんでしょうか?」と聞かれたりすると、「なんとかなるから大丈夫だよ」とか応えてたんだけど、フリースクールでは、「いやあ、わからないね」と素直に言えるようになった。教員として背負っていたまなざしから、少し離れられたんだと思います。もちろん、まったく同じ立場には立てないわけですが、いっしょに考え合う関係に近づけたように思いました。


●情短施設への疑問から

山下 高校の教員を辞められたあと、86年に『逃げ出した教師の学校論』(労働経済社)を出されていますね。この本では、「登校拒否は病気なのか」と疑問を呈しつつ、「登校拒否は病気ではない」と言ってしまうのも危険だと指摘されてますね。そういう問題意識は、どこから来ていたものだったのでしょう。

中島 教員を辞める直前くらいから、渡辺位さん(*2)の発言などを聞いていました。先ほどの生徒との出会いもありましたが、教員を辞めたときには、不登校をめぐる言説の影響もあったように思います。
 それと、85年から「子どもの宿泊治療に反対する会」という運動に関わっていました。当時、全国に11カ所あった情緒障害児短期治療施設(*3)や、東京の児童相談所で始められていた宿泊治療を問題にしていました。情緒障害とは何か、短期治療とは何か、いろんな人に聞いてまわって、情短施設の見学にも行きました。情短施設は「3〜6カ月の短期で治る」という触れ込みでしたが、実際は入所期間が長期化している人も多くいました。これは何なんだろうと思いました。
 それから、日本臨床心理学会(*4)に入っていたので、そこで渡部淳さん(*5)たちが立ち上げた「がっこの会(教育を考える会)」を知りました。そこに来ていた親御さんたちは、なんで病気にするんだ、という問題意識を強く持たれていました。
 一方では、宿泊治療に反対する運動をするなかで、石川憲彦さん(精神科医/本プロジェクトインタビュー#09参照)と出会ったんですが、石川さんたちには「言いたいことはわかるんだけど、病気と判定された人はいいの」って問い返されて、そもそも病気とは何かを考えるきっかけにもなりました。

山下 「子どもの宿泊治療に反対する会」の運動からどんなことを感じたのでしょうか?

中島 運動には2〜3年関わっていて、集会をやったり署名活動をしたりしたんですが、一方では、文部省(当時)の認識や対応も変わってきていたころでした。その過程で、情緒障害というのは、精神医学の用語というよりも行政用語なんだと感じました。医療より行政の問題だったと言えるかもしれません。


●カウンセリングと自己コントロール

山下 臨床心理学会に関心を持たれたのは?

中島 1979年に養護学校が義務化されて、そのときに、日本臨床心理学会はこの問題をきちんと受けとめて考えていました。子どもを養護学校に振り分けるのに、心理テストが大きな役割を果たしていたんですね。それはいったい何なのかというのが、大きな問題でした。
 それと、私自身も高校教員になったころ、カウンセリング講座を受けたことがあったんです。カウンセリングが浸透しはじめたころで、無料で受けられたので、4〜5年のあいだ受講していました。当時はロジャーズ(*6)が主流で、その考え方は、教員のように上から押しつけるのではなく民主的な感じもして、おもしろかったんですね。でも、何かおかしいと感じていて、そこに問題意識を持っていたのが臨床心理学会だったんです。
 臨床心理学会に参加し始めたのは80年代初めです。東京都でカウンセリングが導入されることが問題になっていました。そのころは戦後非行の第3のピークと言われていて、校内暴力、いじめ、家庭内暴力、登校拒否などにどう対応するかということで、東京都は「しなやかですこやかな自我形成」を掲げて、そのためには3つのポイントがあると言っていました。ひとつは力で抑えること。もうひとつは環境を変えること。そして、もうひとつは、消費社会のなかで自己規制力が弱まっているから、それを育成する必要がある、ということでした。家庭が過保護過干渉になっていて、子どもの自己規制力が弱まっている。だから家庭だけにまかせるのではなく、学校で育成しないといけない。力で抑えるのは短期でできるが、環境を変えるのは長期の課題になる。中長期で必要なのは自己規制力の育成で、そこでカウンセリングが必要だと言い出していました。そして、教員全員がカウンセリングマインドを持つべきなのか、カウンセラーという専門家が学校に入るべきかで、議論になっていたんですね。その結果、東京都では、専門家まかせにするのではなく、全教員がカウンセリングマインドを持つべきだという方針になっていました。ところが、河合隼雄さん(*7)を中心とする日本心理臨床学会が動いて、専門のカウンセラーを学校に配置することになった。スクールカウンセラーですね。河合隼雄さんは、85年には新聞で「不登校は薬では治らない。その対応にはカウンセリングが必要で、そのための専門家が必要」だという言い方をしていました。

山下 力で抑えるのではなく、カウンセリングで自己規制力へと導こうとしている。それは、規律型社会からコントロール社会へというフーコーやドゥルーズの分析と重なりますね。

中島 日本でも、80年代ぐらいから自己コントロールの必要性が言われるようになってきました。いまはカウンセリングでも、認知行動療法なんかだと、内面の共感なんて言わないですね。必要とされるのは自己コントロールやコミュニケーション能力、問題解決能力です。そういう力を育成する。つまり、いまの心理学は、心の「病気」を問題にするよりも、心の健康増進、心の健康開発を目指す傾向が強くて、そういう人間をつくる方向に向いてます。「一億総活躍」なんていうのも、その一つですね。

山下 しかし、80年代ごろは、まだ「病気」扱いの圧力も強かったですよね。登校拒否にしても、「病気」のようにまなざされ医療の対象とされていたことに対して、いったんは「病気じゃない」と言う必要はあったように思います。

中島 そうだと思います。私も、いまでも「病気じゃない」と思ってます。いまだって「病気」にしようという力はありますしね。だけど、いまは病気か健康かという二分法ではなく、もっと分け方がきめ細かくなっています。たとえば「自閉症」でも、線引きは難しいからスペクトラムということになっていて、でも、それぞれに合わせて、分相応に生きるように、ということになっているわけです。


●「公教育を見限る」をめぐって

山下 「登校拒否は病気じゃない」という異議申し立てと、「障害児を分けるな」という異議申し立ては、ある意味で同じことのようにも思います。どちらも、「ふつう」から分けてくれるなということですよね。学校に行かないことを認めろというのと、学校から排除するなというのは、一見、反対の方向のようですが、つながっていることのように思うのですが。

中島 つながっているんでしょうけど、すれちがってきた問題ですね。でも、ここはよく考えないといけないところだと思います。85年に臨床心理学会で、渡部淳さんが「公教育を見限る?――登校拒否体験を聴くことから」というテーマでシンポジウムを呼びかけました。このとき、登校拒否を考える子どもの会の篠原史さんが当事者として話されています。
 がっこの会などで、養護学校義務化に反対して「どの子も地域の学校へ」という運動をしてきたなかで、渡部さんはずいぶん思いきって発題されたのだと思います。渡部さんは「学校教育そのものが登校拒否を生み出している」「内なる学校を見限ろう」と話していました。それに対して、篠原睦治さん(*8)は「ちょっと待ってよ。子どもが共に育つ場としての学校を見限るわけにはいかない」「登校拒否している人も、ひと休みしたら、学校を関係の創造という文脈で意味づけなおして、もう1回学校に行ってほしい」と反論していました。シンポジウムの議論はすれちがっていましたが、ここでは重要な問題が語られていたと思います。

山下 渡部さんが発題されたのは、どういう経緯だったんでしょう。

中島 がっこの会は『がっこ』という刊行物を出していましたが、その誌上での議論や渡部さん自身の経験もあってのことだと思います。私もその刊行物を読んでいましたし、このときの問題提起を受けて、その後社会臨床学会で何度かにわたって議論の機会を設けてきました。でも、いまは、もっときめ細かく分ける流れですよね。同じ「不登校」でも、「発達障害」の場合は特別支援教室へとか、コース別にして、早めに分けて対応するようになってます。それだけに、このときの「公教育を問う」という問題提起は、いまこそ考えないといけない問題だと思っています。

山下 篠原睦治さんがおっしゃっていたのは、学校は勉強の場よりも生活の場であって、いろんな子が共に生きていく場なんだということですよね。学校という以前に、地域ということを足場にしているのかと思います。でも、具体的には学校という場しかない。渡部さんが指摘されたような学校のあり方の問題も認識されているけど、その問題とせめぎあっていくには、生活の場としての学校という場を手放しちゃいけない、ということですね。フリースクールなどの運動は、ある意味では、「共に生きる場」を学校外につくろうとしてきたとも言えると思いますが。

中島 そうですね。いま、生活というものが見えなくなっている状況のなかで、どうやったら、「共に」という関係をつくれるのかは、試行錯誤するほかないでしょうね。それは、学校を見限って、学校の外にユートピアをつくればいいという話ではないと思います。学校外といっても、それがまた「一億総活躍」の文脈に位置づけられてしまってきている。学校に通えない「心理的な問題を抱えた子」には特別な教育の場を与えて、そこで活躍してもらおうという発想法に回収されてしまう可能性があるわけですしね。
 98年に東京YMCAでオープンスペースlibyが立ち上がったときも、不登校の子だけが来る場ではなくて、誰でも入れるようにしようと私たちは考えていました。でも、実際には学校に行ってない子が集まってきました。まあ、当然かもしれません。でも、99年にURA―libyという若者の話し合いの場も始めたんですが、こちらのほうは、いろんな立場の人が集まってきました。いずれにしても、いろんな立場の人をつなぐネットワークを、いかにつくれるか。微妙なあいだを縫いながら、うまい具合にできないかなと思ってますが、なかなか難しいところですね。とくに子どもの場合は、難しいところがあると思います。

山下 「共に」というとき、古い共同体をイメージした濃い関係を想定するのか、ネットワーク的なゆるい関係を想定するのかで、ちがうような気がします。

中島 今までの多くの社会運動においては、濃い人間関係を求めている傾向があります。強い連帯を求めていたのですね。でも、私みたいに「他人って何だろう」とか考えてしまう人間には、薄い弱い関係のほうがいい。ある場がきつくなったら逃げちゃおうと思っている。そこをどう考えるかは難しいですが、濃淡いろいろ混ぜ合わせたネットワークができたらいいんじゃないかと思っています。いずれにしても、どのように「共に生きる場」を作るのかというのは、すごく難しくなってはいますよね。


●学校から「逃げる」

山下 中島さんは不登校にシンパシーがあるというか、感覚的にわかるんじゃないでしょうか。熱い関係には包摂されたくない感じがあるというか(笑)。

中島 そうなんですよ(笑)。私はもともと他人が疑わしくて、「逃げる」ことを大事にしてきました。でも、逃げるというのも簡単ではないですね。
 ドゥルーズは「逃走線」という概念を使用し、「逃げる」ことを積極的に支持しているんです。向かうべき方向性が決められている場、閉じられているテリトリーから逸脱し、逃走していくことはむしろ創造的な行為であるとしているんですね。世間的には、直面すべき問題や現実から目をそらし、責任から逃れようとするダメな行為であると見られていますが、けっしてそうではない。むしろ既成のあり方を壊し、新たなあり方を模索し創造していくものなのだとドゥルーズは主張しているんです。学校のなかで行きづまり、どうにもならなくなったら「逃げる」しかない。これから先どうなるのだろうという不安は確かにあるとは思いますが、それはけっして現実から目を背けることではない。
 私が出会った「不登校」経験者の多くは苦しみながらも、現実の社会でこれからどうしようかと模索しているのです。ですから、大学に入った「不登校」経験者からよく聞くのは、「『普通』の大学生ってこれからのことをあまり考えていないんだね」という言葉なんです。幸か不幸か、学校をやめたとたんに「これからどうするの?」という問いに直面せざるを得ないのです。どんなかたちにしろ、現実に目を向けざるを得ないのです。
 でも、「逃げればなんとかなる」ということではありません。不安に押しつぶされることもあるし、これからのあり方を模索することすらできなくなってしまうこともあります。だからこそ逃げる方向性をいっしょに考え合う関係が必要だと思っています。どうやって逃げたらいいのか、新しいあり方をどうやって模索しあえるのか、それを共に考えていけるネットワークが必要だと思うのです。いまの社会のなかで、どうやってネットワークを張っていけるか。それは、どこかに理想的な空間をつくればいいということでは済まない。そうすると現実の社会のなかに、「特別な場」をつくることになり、「特別な支援」「特別な教育」を受ければよいというかたちになりやすくなる。それでは「あの人たちは特別な人たちだ」という周囲の眼差しを強めてしまうことになりかねないのです。

山下 たんに不登校するだけでは、「学校」から逃げることにならないわけですね。フリースクールに行っても、「学校」の力学から逃げたことにはなっていない。とくに最近は、学校の外も含めてコントロールされてきていて、学校に対するアンチとしての不登校やフリースクールという図式は成り立たなくなったと言えると思います。でも、逆説的に言えば、コントロール社会になってきたからこそ、ネットワークが可能になったとも言えますよね。

中島 そうです。昔がよかったわけではないですからね。でも、ミクロレベルでの政治、ミクロポリティクスでせめぎあっていかないと、フリースクールなども新自由主義の文脈に回収されてしまいます。教育機会確保法が、まさにそうでしたね。政府や文科省が多様な教育機会とかバウチャー制度を言うようになって、そこで何を言えるかが問われたわけですが、学校外の教育が認められたというだけでは、柔軟化した学校制度に呑みこまれてしまうように思えます。

山下 そのあたりは、ねじれてますよね。


●早期発見・早期対応の問題

中島 先ほどお話ししたように、私自身、「他人って何だろう」という感覚のことを気楽に話せるようになったのは50代になってからだったわけです。それは、いまの時代状況になったから、話せるようになったのかもしれません。昔だったら、とても言えなかったと思います。こういう問題は人には言ってはいけないと思って、抑えていた。
 河合塾COSMOやフリースクールみたいな場で、こういうことでも言っていいんだと思えて、それが考える経過点になった。そのことの意味は大きいと思います。

山下 でも、逆に言えば、そういう言いにくさのなかで、自分自身で深く考えていかざるを得なかったがゆえに、それが自分をかたちづくってきた面もあるのではないかと思います。たとえば不登校でも、かつては「学校」をシャットダウンしてひきこもって、そのなかで自分と向き合っていたところがあると思います。それがよかったとは言えませんが、いまは、撤退しようにも撤退しきれないですよね。いまの子ども・若者には、そういう苦しさがあると思います。

中島 そうですね。たとえば「生きるって何だろう」「勉強って何だろう」とか言っていると、「そういうことを考えてるんだったら、カウンセラーのところに行こうね」とか言われてしまいますよね。そういう傾向は学校で強まっていると思います。早期発見・早期対応で、早めに対処されて、発達障害と診断されたりして、その枠組みのなかで考えることになっている。まともに「他人とは何か」「生きるとは何か」という問いに応えてくれる人はいないですよね。

山下 いまは、柔軟化の一方でコントロールの網の目が切れ目なく張りめぐらされて、根本的に学校を問い直したり、俯瞰して物事を観て考えるようなことが難しくなっているように思います。それは、フリースクールに来たからできるというものでもないように思います。そして、発達障害のように、専門家によってカテゴライズされた枠組みのなかで自分のことを整理することが増えている。

中島 そうですね。しかもボーダーライン上にあると見られることが多いんですよね。診断される人は増えているけど、圧倒的にボーダーが多い。それに、障害名や診断名では、自分を整理しきれないですよね。


●ズラしながら、共に

山下 いま、当事者研究が盛んになっていますが、元祖と言われる「べてるの家(*9)」の当事者研究は、認知行動療法の発想なんですよね。自分に自己病名をつけて、自分を「見つめる」のではなく「ながめる」。原因を考えるのではなく、抱えている困難さに対する工夫を、どうやったら具体的にうまくいくか、仮説を立てて検証する。そういうことを当事者研究と言っています。
 でも、どうしても見つめてしまう、考えてひっかかってしまうことって、あると思うんです。そういうもやもやを自分に抱え込んでしまっていると、むかつきや暴力になってしまう。そうなると、治療対象となって、薬を処方されていたりする。もやもやを共有して考え合っていける場を、いかにつくれるか。かつてのように、アンチでは成り立たないなかで、試行錯誤していくほかないのだと思いますが、難しさはありますね。

中島 難しいですよね。たしかに、別の対抗軸をつくるのは難しくなってますが、コントロールに捕らわれながらも、それをズラしていくことはできると思います。そこで、ネットワークでつながって、共に逃げながら、共に物事を考え合っていく。それは楽しいことだと思います。「それでは教育機会確保法を推進してきた人と変わらないじゃないか」と言われるかもしれないですけどね。どっちにしても、捕らわれることは確実ですが、そこに穴はあけられると思ってます。

山下 たしかに、ズレる部分こそが可能性なんでしょうね。たとえば「発達障害」と診断されても、そことズレる部分がある。フリースクールなども、法律で規定されても、そことズレる部分は、かならずあるわけですから。

中島 先日、あるテレビ番組で見たんですが、「発達障害」と診断された人が自分の特性を職場で理解してもらおうと思って、上司に「発達障害の本を読んでください」と頼んでいたんですね。ところが、その上司は「絶対に読まない」と言うんです。でも、「君は何ができなくて何が得意なのか教えて」と言って、それにいちいち対応していたんです。それはおもしろいなと思って見てました。「発達障害」という枠組みありきでなくても、対話していくことはできるわけですよね。

山下 ズレが引き起こす摩擦や葛藤があって、そこで対話があればいいわけですが、あらかじめ専門家の枠組みで整理されてしまっている面はありますね。当事者も、その枠組みをアイデンティティにしていることもあるように思います。
 自分自身のことを考えると、なんにせよアイデンティティがカッチリするほうがしんどくて、むしろ、ズレているほうが心地いいんですね。でも、たとえば不登校の当事者にしても、学校から外れてしまったがゆえに、ちゃんとアイデンティティを確立したいという気持ちを持つ人もいます。その気持ちは否定できないですが、たしかなアイデンティティを求めすぎると、それはかえって苦しい面もあると思います。

中島 そうですね。しかも、コントロール社会は、アイデンティティの管理ではなくて、データ管理の社会なんですね。個人はデータの束でしかない。ビッグデータなんかもそうですが、企業はそれぞれのデータだけを知っていればよくて、個人全体は知らなくていい。個人のある側面のデータがあればよい。各企業がほしい好みのデータ、たとえばこの人はどんな本を読みたいのか、どんな食品を買いたがるのかといったデータがあればよいのです。アイデンティティは問われないのです。ただ他方で、「社会人」としてのアイデンティティ形成も強く求められています。自己実現も求められている。しかしそのアイデンティティの部分は自己責任でやってください、ということになっている。それは、つらいですよね。そして、つらくなったときのためにカウンセラーやソーシャルワーカーを配備しますよ、と。

山下 いまの社会でアイデンティティ問題が苦しいのは、不登校などの場合にかぎらないのでしょうね。いろんな立場の人が、専門家の枠組みでは整理しきれない部分、ズレた部分で、摩擦や葛藤をはらみつつ、ゆるゆるとつながっていけるといいなと思います。今日のインタビューは、一見わかりにくい部分、かゆいところに手が届いた感じがしました。ありがとうございました。

--------------------------------------------------------------------------------


*1 5月革命:1968年5月、パリの労働者や学生によって行なわれたゼネラル・ストライキを中心とする反体制運動。大学もストライキに入った。ベトナム反戦運動をはじめ、さまざまな問題提起をしていた。

*2 渡辺位(わたなべ・たかし/1925〜2009):児童精神科医。元国立精神・神経センター国府台病院児童精神科医長。

*3 情緒障害児短期治療施設:1961年、児童福祉法で定められた施設。当初は学校恐怖症(不登校)や年少児童の非行のメンタルケアや情緒発達の環境整備を目的とし、12歳未満を対象としていた。しかし、近年は児童虐待への対応が求められるようになり、現在は在籍児童の7割以上を被虐待児が占めるという。また、約3 割が広汎性発達障害の児童となっている。現在は全国に45施設できている。情緒障害の概念については、本プロジェクト#06滝川一廣インタビュー参照。

*4 日本臨床心理学会:1964年に設立された学会。1969年ごろから、臨床心理士の国家資格化をめぐって意見が対立し、国家資格化を目指す人たちが脱退し、1982年に日本心理臨床学会を別に立ち上げた。その後さらに、国家資格化に異を唱える人たちが脱退し、1993年に日本社会臨床学会を設立している。

*5 渡部淳(わたなべ・あつし) 大学卒業後、国立小児病院(現在は国立成育医療研究センター)に心理職として勤務。自閉症児のデイケアを行なうなかで「自閉症」というラベルを貼り、子どもを「治療」することに疑問を覚え、1971年に「がっこの会」を結成。日本での「どの子も地域の学校へ」運動の先駆者の一人。

*6 カール・ロジャーズ(1902〜1987):アメリカの臨床心理学者。来談者中心療法の創始者。

*7 河合隼雄(かわい・はやお/1928〜2007):日本の心理学者。京都大学名誉教授、国際日本文化研究センター名誉教授、文化庁長官などを務めた。専門は分析心理学(ユング心理学)、臨床心理学、日本文化。箱庭療法を日本に初めて導入した。1988年に日本臨床心理士資格認定協会を設立し、臨床心理士の国家資格化を目指していた。

*8 篠原睦治:1938年、東京生まれ。子供問題研究会代表、社会臨床学会運営委員、和光大学名誉教授。

*9 べてるの家:1984年に設立された北海道浦河町にある精神障害等をかかえた当事者の地域活動拠点。
【インタビュー:学者の最新記事】
posted by 不登校新聞社 at 21:53| Comment(0) | インタビュー:学者
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: