2017年04月25日

#15 山田廣子さん

yamada.jpg

(やまだ・ひろこ)
1943年、山口県下関生まれ。1962年に大洋漁業へ入社し、1968年に退社、その翌年に結婚して1971年に長男が、1974年に長女が生まれる。1986年、長男が高校1年のときに登校拒否し、1989年に高校を退学。1990年に親の会「下関虹の会」を発足。1991年、長男は東京へ。同年、「下関虹の会」の代表になり、現在にいたる。

インタビュー日時:2016年10月29日
場 所:ご自宅(山口県下関市)
聞き手:奥地圭子、木村砂織、山口幸子
写真撮影:木村砂織
--------------------------------------------------------------------------------
→PDF(組版データ)をダウンロード  15futoko50yamada.jpg
--------------------------------------------------------------------------------

〈テキスト本文〉

奥地 親の会を立ち上げられたのは何年ですか?

山田 1990年1月です。

奥地 ちょうど登校拒否を考える全国ネットワーク(現在はNPO法人登校拒否・不登校を考える全国ネットワーク)を立ち上げた年といっしょですね。全国ネットのことは、すでにご存知でしたか?

山田 知っていました。主人といっしょに東京で開かれた合宿に行って、主人が「父親が語る不登校」というシンポジウムに出させていただきました。内容はとても深刻な話なのに、みなさんそれを笑いに変えていて、とても盛り上がりましたね。その主人も2009年に亡くなりましたけれども。


●高校で不登校に

奥地 そうでしたね。お子さんは、何年ごろから学校に行かなくなったのでしょう。

山田 1986年で、高校1年生のときでした。ただ、その以前にも、小学校5年生の3学期に、1カ月ほど行かれなくなったことがありました。そのときの担任は50代の女の先生だったんですけど、すごい厳しい先生でね。息子は学級委員をしていたんですが、先生にとってよくないことがあるたび、クラスで何かあるたびに、息子に「あなたのせいだ」と言って、すべて息子が悪いように言われていたんです。それで、理科室には鍵がかかるんですが、先生がそこに入って泣くと言うんです。そこに息子が行って謝るわけですね。「悪かったです、悪かったです」って。そうこうしているうちに、息子のほうが学校に行けなくなってしまいました。息子は「僕が悪いせいで先生がいつも泣いてしまう」と言っていました。
 休んでいるあいだは、同じ団地に住んでいた同級生の男の子が、パンとか宿題を持ってきてくれていました。それで、その持ってきてくれる荷物のなかに、3学期の終わりごろ、「何でもいいから先生のことについて書いてきなさい」という用紙があったんです。全員に配られたものなのか、息子だけに渡されたものなのかはわかりませんし、私は、たぶん書かないだろうと思っていたんですが、息子は「書く」と言って、自分がしてほしくないことを箇条書きにしたんです。「理科室に入ってすぐ泣くようなことはしないでほしい」とか「授業中に机のイスを外に出して、教室で床に座らせたりしないでほしい」とか10項目ぐらい書いて、それを学校に持って行ったんです。

奥地 床に座らせるというのは、ひどいですね。その用紙を学校に持っていったのは本人ですか?

山田 本人が持って行ったんです。それからは学校に「行く」と言って、行くようになったんですね。

奥地 それは勇気がありましたね。

山田 私のほうは、「ヒステリックな先生だから、これはひどいことになるぞ」「また親が呼び出されるな」と思って覚悟をしていたところ、案の定、呼び出されたんですが、ところがどっこいですね、先生のほうが「いろいろ反省せんといけんところが私にあります」と言われたんです。怒られると思っていたんですが、反対にしょぼんとされて、それから「実は……」と、自分の子育ての悩みごとを話し始めたんです。具体的な内容は省きますが、そのイライラが子どもに行っていたんだろうと思います。
 まあ、そういう経過があって5年生は終わって、6年生は休まずに行きました。中学校も何とか通っていました。高校は自分が希望して、中学のときの剣道部のお友だちも「いっしょに行かないか」と言ってくれて、本人も納得づくめで行った県立高校だったんですが、5月の連休明けからパッタリ行かれなくなったんですね。それからもうずっと行かれなくなって……。


●理由はまるでわからなかった

奥地 お母さんから見て、不登校の原因や事情は、どのように思われてましたか?

山田 まるでわかりませんでした。1986年当時は、周囲には不登校の子どもなんてまったくいなかったんですね。誰にも打ち明けられない状況で、もう、ほんとうにつらかったです。主人も遠洋漁業の船に乗っておりましたから家にはいませんでしたし、ほんとうに一人で孤立って言うか孤独って言うか、ぜんぶ自分に背負いこんでしまっていました。主人は1年間ずっと家にいないんです。戻ってきても、また2カ月ほどで出てしまう。長いときは1年半ぐらい出たきりです。主人のいないあいだに、誕生日を2回迎えたこともあります。そんな感じですから、息子が小さいときなんて、主人のいないあいだに大きくなっちゃって、会っても「どこのおじちゃん?」という感じでね(笑)。

奥地 当時のことだから、携帯もメールもないですものね。手紙は届いたんですか?

山田 手紙は出せたんですが、本人に届くのは3カ月ほど経ってからで、その返事が届くのがもう半年後ぐらいになるので、そのころには「ええっと、そんなこと書いたっけ?」っていうような具合でした(笑)。
 でも、本当に救いだったのは、主人が、ただの一度も私を責めなかったことです。

奥地 それは、すばらしいですね。

山田 ほんとうにね。亡くなったから、すばらしいところだけが見えるのではなくて、私は生前から常に主人のことをほめていました。友だちからは「また、あんたノロケ言うてから」って、よく言われました。主人のことで悪く言ったことはないですね。

奥地 親の会では、お父さんがなかなかわかってくれないという話がほとんどですよね。

山田 そうですね。まず主人が大変、それから自分の父、母、お姑さん、舅さん、兄弟、地域の人……。たいがいは、理解しない大変な人がまわりにいる。そういう話を聞かされて、いつもいっしょに涙するんですが、ご主人に肩書がある場合は(先生と名のつく弁護士とか教師とか医者とかね)、とくに難しいなって思います。やっぱり社会的な地位のある人は「学校も出んでどうするか」って言いますね。

奥地 そうね、体面を気にされるからね。

山田 体面をね。そういう点でも、主人はただの一度も私を責めたことがなくて、むしろ協力的でした。1990年に全国ネットワークができて第1回の大会が開かれたときも、主人から「よし行こう」って言ってくれたんです。


●「乗り切る会」から「虹の会」へ

 私たちの会は1990年の1月に立ち上げたんですが、最初は、実は「登校拒否を乗り切る会」っていう名前でした。

奥地 そういう名前だったの(笑)。

山田 最初のきっかけは、お二人の子どもさんが不登校になった親御さん(現在も虹の会の会員)が、ある中学校の先生のところに相談に行ったことだったんですね。その先生は「そりゃいけんなあ」と言って、大阪の工業高校の方を講師に呼んで講演したんです。1989年11月でした。そのお知らせを新聞か何かで見て、私も行ったんです。会場はいっぱいでした。
 その後、「下関にも親の会をつくるので、気持ちのある方は残っていただけませんか」というような呼びかけがあって、私も残ったんですね。

奥地 「会をつくりたい」っておっしゃったのは?

山田 その中学の先生です。とりあえず翌年1990年1月に向けて立ち上げようという話で、大阪に「登校拒否を克服する会」があったので、それにあやかって「登校拒否を乗り切る会」になっちゃったんですね。その先生は大阪とつながりがあったんです。そこに、いろんなお医者さんが来られたりしてたんですが、その方たちの言われることは、やっぱり何かおかしい。そしてあるとき、「電話をするときにこちら登校拒否を乗り切る会の何々ですが≠ニは名乗れん」という意見があがったんです。「もし万が一、本人が出たときにまずいじゃないか」って。

奥地 そうね。「乗り切る会」なんて本人を否定しているみたいですものね。

山田 私も「名前を変えたほうがいい」と言いました。それで、新しい名前を次の例会(1990年6月)までにみんなで考えようと決めたんです。でも、その先生が「名前を考えてきた方は?」と聞いたら、ほかに誰もいなくて、私ひとりが「はーい」って手を挙げたんです。それで「虹の会」という名前を提案しました。なぜ「虹の会」かと言うと、そのころ山下英三郎さん(*1)の『虹を見るために――不登校児たちの伴走者として』(黎明書房1989)という本を読んでいたんです。そのあとがきには、こう書いてありました。

 学校へ行かない(行けない)ということを、一人で雨に打たれているように感じる子どもたちがいるとすれば、私はとりあえず、一緒に雨に打たれてみたい。そして、共に虹を見るために歩み続けたい。
(中略)
 晴れた日ばかりでは、虹を見ることはできない。厳しい季節のあとには、色彩に満ち溢れた春の訪れがある。つらいことや苦しみを味わうことによって、私たちは優しさや思いやりを身につけることもできる。だから、私は進んで雨に打たれよう。雨の後に、虹が見えることを信じているから……。


 私は「これだ!」って思ったんです。それで、この文章をみなさんの前で読んで、その先生が「みなさんどうですか?」って聞いたら「いいです」ってみんなが言ってくれて、あっけなく決まりました。そういうことで、半年間ぐらい「登校拒否を乗り切る会」だったのが、6月から「下関虹の会」になりました。
 そして、その年の8月に東京で開かれた全国ネットの第1回大会に参加したんです。渡辺位さん(児童精神科医:1925―2009)が講演をされていたんですが、主人も私も「わからんね〜。日本語かね」って言っていました。あんまり深いお話だから、わからなかったんです。「猫の話はいいから本題に入ってよ!」ってね。「猫の話が大事なのに」って、娘と今日もその話で大笑いしてました。その後、渡辺位さんは、2回ほど虹の会でお呼びしましたし、各地で講演されたときなどに10回以上お話を聴いて、ようやく渡辺さんのお話が理解できるようになりました。

奥地 第1回の大会で「父親が語る登校拒否」のシンポジウムにご主人が出ていただいたときで、お子さんが不登校されて何年経っておられたことになりますでしょう?

山田 1986年からなので、4年ですね。高校は留年になって、次の年も最初の1日だけ行ったけど、2日目から行かれなくなりました。その後は、まったく一度も行きませんでした。1年の担任だった山田先生は、毎日、家に来てくれました。私も主人はいないし、すごく不安だったので、先生に来てくれるよう、頼み込んだんですね。いまから思えば、息子には、ほんとうに申し訳ないことをしたと思っています。

奥地 お子さんはどんな気持ちだったかよね。

山田 とんでもないことですよね。先生が来られるたびに、2階にいる息子の名前を呼ぶけど、絶対に出てこない。でも、あるとき先生が突然来て、たまたま息子がこの客間にいたんです。

奥地 この部屋は、玄関のすぐそばですね。

山田 そうしたらどうしたと思います? カーテンに、身体をグルグル巻きにして、身を隠したんです。

奥地 姿を見られたくなかったんでしょうね。まだそのころは、親もどうしていいか、よくわからなかったんでしょうね。

山田 私もストレスがたまっていて、カーッと頭にきたときは、2階のあの子の部屋から、教科書や何か、ボンボン下に物を投げ落としたり、いま考えたらひどいことをしました。そうしたら、バリケードを張られてね。息子の部屋の中に入らせんようにされました。そして、2年目に精神科医を紹介されたんですよ。


●薬なんか飲ませないと思っていても……

奥地 学校の先生から?

山田 2年目の担任の先生からです。その当時から、絶対に精神病院なんかに行くようなことではないというのは、わかっていました。でも、そうは言っても、担任の先生には無下に逆らえないと思って、義理で、行くだけ行こうと思ったんです。「行きました」って言えば先生も安心するかと思って。それで医者に「昼夜逆転している」とか正直に状況を話したら、「それじゃ、社会人になれません」「薬飲ませんといけん」とか、延々と言われました。私が「息子は薬なんか絶対飲みません」と言うと、「それはお母さん、頭を働かせなさい」と言うんですね。つまり、薬をご飯に混ぜるとかジュースに混ぜるようにと言うわけです。

奥地 昔は、こっそり薬を混ぜて飲ませることも、よくありましたね。病院はお母さんだけが行かれたんですか?

山田 息子は絶対に行かないですから、私だけで行きました。それで、とりあえず「はいはい」と言って、いちおう薬をもらって帰ったんですけど、やっぱりね……揺らぐんですね。「絶対、何を言われても、薬をもらっても飲ますものか」と決心して、「ただ義理で行くだけだ」って自分に言い聞かせて行ったにもかかわらず、帰るときには「本当にそうなのかな」「社会人になれんのかな」って揺らいじゃってね……。

奥地 不安になっちゃうんですよね。

山田 そうなんですね。それで、大分で小児科医をされている矢野英二先生に相談しようと思って、電話したんです。矢野先生は、下関の「子どもの広場」という子どもの本を売っている書店によく来られていたんですね。そこでお話をうかがっていて、不登校に対する姿勢はちゃんとされていたので相談しようと思ったんですが、もう、けんもほろろ、ものすごい勢いで怒られたんです。「今まで何を勉強していたんですか!」「あれだけ、いろんなこと勉強されてきて、山田さん、薬を飲ませるだ何だってどういうことですか!」って怒られて、「うわー、ほんとうにそうだ」と思って、「わかりました」と言って、電話を切ったんです。それで薬は捨てました。
 後日、矢野先生と下関でお会いしたとき、矢野先生は「山田さん、あのときはひどい口調で言うて、すまんやったけど、目と目とを合わせている場合とちがって、電話越しでは、あれぐらい強く言わないと、やっぱり揺らぐと思ってね。ありったけの声をふりしぼって言ったから、驚いたやろう」って言われたんです。私も「すいません、もうよくわかりました。一度も飲ませていません」って言いました。


●会の代表に 

 虹の会の代表は、最初の1年間は別の方がされていて、私は何もしていなかったんですね。でも、その方はご主人を亡くされていたので、会が2年目のころ、「自分はやっぱり働かないと、子どもも2人いて、食べさしていかんといけないので、代表を降りたい」って言ったんです。それで、その中学の先生に「お願いできませんか?」って言ったら、「自分には引き受けられない事情がある」と言われて、その先生は1992年にガンで亡くなられたんです。9月26日が命日なので、毎年、命日には娘と二人で拝まさせてもらっています。会を最初につくられたのはその先生ですから、私はその恩は忘れたらいけないと思ってます。
 それで、主人が私に「おまえが代表をやれば」って言ったんです。私は「とんでもない!」って。私はそんな器ではない、内助の功の役割はできるけれども、人前に出てしゃべったり文章を書いたりが一番苦手なもんで、「できない!」って。
 でも、主人は「じゃあどうするんだ」と言うし、中学の先生も「実務的なことはとにかく、外面の代表の名前をやっぱり決めんとまずいから、山田さんなっておくれよ。あとはぜんぶ私がします」と言うので、「まあ、それならしようがない」と思って、代表になりました。そうしたら、その先生が亡くなられたので、もうショックでした。
 くわえて、主人が「月に1回の例会では少ない。もう1回を家でやれば?」と言ってきたんです。

奥地 それはすごいね。

山田 主人は「うちの家だったら、子ども連れてきてもいいし」と言うので、その後、10年ぐらい、この部屋に親が集まっていました。子どもは子どもで2階で遊ばせてね。息子の部屋にはマンガ本もたくさんありましたし。

奥地 じゃあ、ちょっとした居場所になっていたんですね。

山田 そうそう。そういう感じで10年ぐらいはやっていました。最初のころは100名近い会員さんがいたんです。集まるのは20人ぐらいですけどね。だけど、じょじょに少なくなっていって、いまは細々とやっています。


●たいへんなのは学校

 あるとき、家で会を開いているところに、NHKの方が来られたんです。そうしたら開口一番、息子がこう言ったんです。
「僕はこの家で、家庭で守られている。いま学校へ行っている子どもたちは、たいへんな状態で学校に行っている。ほんとうにたいへんなのは、学校に行っている子どもで、家にいる僕は守られているから、どうもないんだ。だから学校のほうに取材に行ってくれませんか。僕は何も言うことありません」
 それは忘れもしないですね。

奥地 すばらしいね。

山田 ほかにも、息子には、親の会とか講演会の際に、質問に対して応えてもらうようなことをしていました。かならず出る質問は、「どうして学校に行かれなくなったんですか?」ですね。息子は「自分でもわかりません。ただ、しいて言えば、学校の校門に入ろうとしたら、何か莫大な、大きなものが自分に覆いかぶさってきて、息苦しくなって、すごく何とも言えん気持ちになる。息苦しくなる」と言っていました。
 それから、ある講演会で先生方もたくさん来ているなかで、そういう質問が出たときは「原因はわかりませんが、あえて言えば、学校というところで人間を5、4、3、2、1とランク付けするということが僕はどうしても許されません」と言ったの。そのとき、私は「穴があったら入りたいな〜」と思ったの。「先生方がたくさん来ているのに、ひどいことを言うな。やっぱり、少しおかしいなと思われただろう」と思ったのね。それほど学校信仰が私の中で根深かったんです。それがね、2014年に埼玉で全国大会があったとき、講演会で、奇しくも大田堯先生(本プロジェクトインタビュー#05参照)が同じことをおっしゃったんです。私は息子が何十年も前に言ったことを思い出して、尊敬する大田堯先生が息子と同じことを言われるのを聴いて、「今日はほんとうにうれしかったです」と、会場で言いました。

奥地 息子さんは、本質的なことをわかっていたんですよね。直観力も優れているし、それを大勢の前で表現できるし、お子さん自身が自分を持っていたということですよね。そこがすごいですよね。

山田 息子には、ほんとうに、いろいろなことを教えられました。もう一つ、こうも言っていました。
「学校の先生は、その日によって機嫌が悪かったり良かったりする。それは教室に入るときにパッとわかるんだ。機嫌が悪いときは、たぶん家で何かいざこざとかケンカとか、何かあったな。大人である先生が、まるで子どもじみていて、こんな人から自分は習う必要はないと思った」
 最初のころは、そういうことを大勢の前で言われると、私はもう、困っちゃいました。でも、大田堯先生の講演を聞いて、息子はすでに気がついていたんだなと思いました。

奥地 息子さんは、高校2年目以降はどうされたんですか?

山田 3年目になって「もう辞める」と本人が言いました。

奥地 学校に行く意味を考えちゃったのね。


●劇団に入って

山田 そうですね。それで20歳になって半年で東京に旅立ったんですが、それまでは、高校の教師になりたいと言っていて、大検(現在の高認試験)を取るために小倉の予備校に手続きに行ったんです。でも、小倉から帰ってきて、急に変わったんですね。「予備校には行かない。あるちがうことをやる。でも、それはまだ言えない」って言うんですね。それで、ある日突然「ちょっと東京に行ってくる」って言うんですよ。「何ごとかね?」と聞いても「はっきり決まるまでは、ちょっと悪いけど絶対に言われない」と言って、東京に行って帰ってきたんです。そして、1カ月ぐらいして東京から電話がかかってきたんです。
 それで、「劇団健康(*2)」という劇団に入ったんです。KERAさんという方が主宰する劇団で、ちょうど福岡へ公演に来ていたんです。そこで息子が製作者募集というチラシを見て「よし」と言って行ったんですね。先方も「自分の劇団は貧乏でお金がないので汽車賃も出せないが、それでいいか?」ということで。
 私も、東京へはついていかなかったです。自分で不動産屋さんに行って、下北沢の、家賃3万ぐらいの、安くて古い風呂もトイレも共同の下宿に決めて。私は布団だけ送ってね。

奥地 劇団に通ったの?

山田 そうですよ。それで猛烈にがんばったけどね。何年目かで辞めて、独立ってわけじゃないけど、いまも演劇には関わっていて、自分で脚本書いたりとかしているようです。

奥地 いま何歳になられたんですか?

山田 45歳です。いま、いっしょに暮らす彼女もいて、やりたいことをやっているみたいです。


●「はい、さよなら」は絶対にできない

奥地 親の会を始めたきっかけは、ご自分のお子さんの不登校だったわけですけど、お子さんが自立して暮らすようになってからも、ずっと虹の会をやってこられたわけは?

山田 よいところを聞いていただきました。それはですね、息子の不登校時代、ものすごく私自身が孤立して、孤独でつらくて苦しくって、関門海峡に息子と身投げしたいぐらいの気持ちだったんです。
 私は学生時代はほんとうに生真面目な生徒で、町で教師に会ったときには立ち止まって、最敬礼して、「先生こんにちは」と言ってたくらいです(笑)。

奥地 戦後すぐですよね。

山田 小学校入学が昭和25年です。小学校4年から、私は100円持って、手編みの買い物籠をさげて、夕飯のおかずを買いに行ってね。家が貧しくて、両親とも働いていたから、自分でおかずを買ってきて、七輪に火をおこして、でも消し炭がないと火がなかなかおこらない。消し炭がなかったら涙が出てきてね。その時代でも、子どもが「ただいま〜」って帰ったら、おやつのある家もあったんですよ。「うちは、どうして貧乏なんだろう」と思ってましたけど、貧乏で生まれたことに、年が経つにつれて感謝しています。すごくよかったなって。
 だから私は、自分のパートナーを選ぶときは絶対に貧乏人を選ぼうと思ったの。なぜかと言うと、金持ちの人だったら絶対に合わないだろうと思ったんです。おたがい貧乏で育っていたら、貧乏人の苦しみや、人の優しさがわかるから。そうしたらほんとうに的中して、主人は貧乏人だったんです。貧しかったから、自分でアルバイトして高校まで行って、船に乗ったけど、いつまでも下積みだからと言って、船から上がって、自分でアルバイトしたお金で大学に行って、そこで勉強して免許を取って大洋漁業に入社して、私と出会って結婚しました。

奥地 なるほど、なるほど。話を戻すと、虹の会を続けてこられたのは、ご自身がすごく孤立してつらかった経験があって、ということでしたね。

山田 話が飛んじゃって、すみません。そんな苦しみがあったものだから、自分の子どもが不登校でなくなったからと言って「はい、さよなら」は絶対にできないと思ったの。自分と同じ苦しみを、ほかの親御さんに味わってほしくなかった。ただ、私の場合、主人はつらくあたらなかったから、そこは別問題ですけど。

奥地 ほかの人はそうだもんね。

山田 そう。もう、ほんとうにすさまじい。相談者の方といっしょに泣いてしまいます。「こんな嫁もらうんやなかった」と言われたとかね。その方は医者の奥さんでしたけどね。そういうことを思うと、やっぱり、さっさと逃げるわけにいかんって思ったの。防波堤というか、私は残って、いっしょにやるべきだと思いました。不登校を正しく理解してもらわないと、子ども自身も不幸だし、母親も大変な状況ですからね。渡辺位さんは、学校に行かなくなったら、子どもが犬や猫になるのか(犬や猫に失礼だけど)って、よく言われていたけど、そういう社会の異常な状態を、少しでも地域の人たちにわかっていただききたい。そのためには、すばらしい方を呼んで講演をして広げたいと。不登校を正しく理解していただくように広めたいっていう思いがすごくありました。
 ただ、自分の弱点は自分がよく知っているものですから、誰か次の代表になる人をと思って目星をつけるんですが、みんな子どもが巣立つと「お世話になりました」って辞めていくんですね。もうがっくりですよね。でも反面、とてもうれしいことでもありますけれどね。それで、いつか、奥地さんに講演に来ていただいたときに……。

奥地 会を辞めようかってね、相談があった。

山田 相談しましたね。そうしたら、「いいじゃない。あなたがやってて、やれなくなったら、もうそのときは虹の会を辞めたっていいじゃない。だから、あなたがやれるまでやったらどう?」って。ふつうだったら「そうよね。がんばって後継者を決めなさいよ。ここがつぶれたらどうするの? 責任を持って、ちゃんと後継者を決めなさい」って言うと思うんです。私も、相談する前には、そう言われるかなと思っていました。でも、反対のことを言われて、奥地さんは大物だと思いました(失礼な言い方でごめんなさい)。それから、ずいぶん楽になりました。

奥地 いつでも辞められると思ったら。

山田 よけいに、ますます元気になって(笑)。

奥地 別のときに相談していただいたことで、ある矯正施設が、フリースクールを名乗っているけど、そこに行ったら1杯数千円の水を買わなきゃいけないとか、子どもが逃げ帰ってきていて、それをお母さんが連れて行こうとしているとか、すごい怖い犬がいて、脱走した子どもを追っかけて来るとか、話されていましたね。そこは、今も活動しているんでしょうか。


●この地獄から逃れるには

山田 今もあるかなあ……ちょっと、わからないです。そのとき相談させていただいた子というのは、進学校に行っていて、すごく頭がよかったんです。あのときは高校2年だったんですが、虹の会につながったきっかけは、おばあちゃんが虹の会のことが載った新聞記事の切り抜きを持っていたんですって。「うちの孫がもし登校拒否なったらここに行かせよう」と思って。そうしたら、ほんとうに不登校になって、まずはおばあちゃんが相談に来られたんです。その次にお父さんが来て、その次に、お母さんと息子さんが来ました。お母さんが先に帰って、私は息子さんと一対一で話したんですが、すばらしい息子さんでした。
 彼は、「おばちゃん、いまが地獄だ。社会に出たら、もっと地獄なんでしょうか?」って言ったんですね。私は「いや、そんなことない。いまが一番たいへんだと思う」と言ったのね。そうしたら、「おばちゃん、この地獄から逃れるにはどうしたらいいでしょうか?」って言うのね。私も涙してね。「学校と関わり合いのあるものを、ぜんぶ身の回りからよけてみたら? 24時間、あなたの好きなように、朝から晩まで寝ようが、テレビ見ようが、パソコンしようが、マンガ読もうが、ほんとうに学校のことを忘れて、自分の好きなことをして過ごしたらどう?」って言ったの。「そうしたら地獄から逃れられるでしょうか?」って聞くから、「たぶん逃れられるんじゃない」って言ってね。彼は「自分の苦しみで、大人でいっしょに泣いてくれたのは、山田のおばちゃんだけだ」って言ってました。
 その子はね、優しいんですよ。だから、親がキリスト教に行ったらキリスト教に、仏教に行ったら仏教に、新興宗教に行ったら新興宗教にという具合で、とうとう、そういう変なところにあずけられたんです。でも、苦しくて脱走して、ところが、そこでは犬を5〜6匹飼っていて、犬に追わさせて噛まさせたんです。それを聞いて腹が立ってね。ほんとうに、そのことを思うと涙が出ます。ずうっと、つらいことをさせて、あの子がかわいそうで……。

奥地 ほんとうにね。その子、その後はどうなったんでしょうね。

山田 その後、四国の大学に入ったんですね。

奥地 そう。親から離れたんですか?

山田 そうですね。でも、それからはわかりません。私からは、いっさい聞かないようにしているんです。向こうから報告があったら、「ああ、よかったですね」と返しますけど。ほかの方でも、「結婚しました」「孫ができました」「就職できました」「大学行きました」と聞けば、「ああ、よかったね」って言うんですけど、けっしてこっちからは「どうされました?」って聞かないことにしています。気になっても。

奥地 そうね。そういうもんです。最後に、もう一言。

山田 ここ30年間くらいで、いい方向へ変わってきているけれど、不登校やいじめで死を考える子どもが減らないという状況であることは、まだまだ日本の教育の現場は異常なのだと思います。絶対に多様な学び方が、子どもに約束されていてほしいと思っています。

奥地 今日は、どうもありがとうございました。いまよりずっと不登校が理解されない時代に、下関の地に虹の会があったこと、会を続けてきておられることの意味が、よくわかりました。息子さんが不登校になられてからのご縁、そして、山田さんというお人柄のつむがれた30年間の心打たれるお話、ありがとうございました。

--------------------------------------------------------------------------------


*1 山下英三郎(やました・えいざぶろう):1946年、長崎県生まれ。1986年から埼玉県所沢市において、日本で初のスクールソーシャルワーカーとして実践活動を行なった。

*2 1985年、バンド有頂天のボーカルだったKERAさんを中心に旗揚げされた劇団。田口トモロヲさんも参加していた。92年に解散し、93年からは「ナイロン100℃」として活動している。
【親/親の会の最新記事】
posted by 不登校新聞社 at 17:30| Comment(0) | 親/親の会
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: