2017年04月29日

#16 清水將之さん

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(しみず・まさゆき)
1934年、兵庫県芦屋市生まれ。1960年、大阪大学医学部卒業、1965年、同大学院修了。医学博士。大阪府立中宮病院、大阪大学医学部精神医学教室、名古屋市立大学医学部精神科助教授を経て、三重県立こども心療センターあすなろ学園園長(現在は三重県特別顧問)、日本子どもの未来研究所所長、関西国際大学名誉教授、神戸レインボーハウス顧問。著書に『青い鳥症候群』(弘文堂1983)、『思春期のこころ』(NHKブックス1996)、『新訂 子ども臨床』(日本評論社2009)、『養護教諭の精神保健術―子どものこころと育ちを支える技』(北大路書房2013)など多数。

インタビュー日時:2017年1月30日
聞き手:山下耕平、田中佑弥
場 所:ご自宅マンションの談話室(神戸市)
記事編集・写真撮影:山下耕平
記事公開日:2017年4月29日
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〈テキスト本文〉

山下 今日は、長期的な視野から、不登校についてお話しいただけるということですが。

清水 学校がない時代には不登校はあり得なかったですね。まずは、そこから考えてみたいと思います。
 近代に入るまでの時代は、ほとんどの民衆は農漁民で、子どもは農作業や浜仕事のできる年齢になれば、親と作業をともにしながら、大人になっていったわけです。
 701年に大宝律令が施行され、都に大学が、地方主要都市に国学が設置されました。大学は貴族のため、国学は郡司の子息のための学校です。いわば支配層の子弟のための、公務員養成所のようなもので、おもに儒教を教えていました。
 平安時代に入って、821年、京都に勧学院ができます。藤原冬嗣が建てたもので、これは一般貴族にも開かれた寄宿舎制の学校だったと言えます。
 さらに829年になると、空海が綜藝種智院を開きます。これは身分貧富にかかわりなく、勉強したい人は誰でも来ていいという学校だったんです。学費は無料で、教員にも生徒にも給食まで供されていたそうです。空海は教育論も書いていて、その写本が残っています。儒教だけではなく、仏教、道教など、あらゆる思想・学芸を総合的に学ぶことのできる場だったようです。しかし、綜藝種智院は空海が他界して4年後に閉鎖されてしまいます。もちろん、史料もほとんど残ってないから、実態はわかりません。


●庶民に開かれた寺子屋

 その後、庶民に教育の機会が広がるのは寺子屋です。室町期に始まり、神官、僧侶、医者などによる、いわばボランティア活動で成り立っていました。
 本格的に広がるのは、江戸時代に入ってからです。社会が安定してきたことも影響しているのでしょう。とくに、大坂では商取引が盛んになったこともあって、読み書きそろばんが庶民にも必要になり、広まっていきました。その数、日本全国で1万とも3万とも言われますが、いずれにしても、万単位であったことはたしかのようです。ちょっとした町には寺子屋があって、一般庶民の子が通っていた。武士の子どもは藩校に通いました。備中松山藩は禄5万石の小藩ですが、幕末には領内に62カ所の寺子屋がありました。
 寺子屋には授業料がなかったようです。盆や暮れに、親の出せる範囲で付け届けをするぐらい。寺子屋は来るのも帰るのも三々五々。そのようすが描かれたものが浮世絵に残っています。こちらで遊んでいて、あちらで勉強して、バラバラで自由自在だったようです。不登校など生じ得ない状況だったと言えるでしょう。
 子どもは、悪いことをすると、左手に火の付いた線香、右手に水の入った手桶を持って、文机の上に正座させられた。懲罰と言っても、牧歌的なものです。ただ、それでも言うことをきかないと、師匠の一存で破門となり、自分で持ってきていた文机を背負って、出て行かされたということです。
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一掃百態 寺子屋図 渡辺崋山画 文政元年/田原市博物館蔵


山下 寺子屋は集団教育ではなかったわけですね。それにしても、近代以前に民間による教育の場が、それだけ広がっていたというのは、すごいことですね。

清水 そうですね。ほかにも、江戸時代で特筆すべき学校のひとつに、閑谷黌(閑谷学校)があります。1670年、岡山藩主の池田光政が開いた学校です。光政は領内をくまなく視察し、場所を選定して敷地を定め、学校に領地を与えました。学田や学林を運営させ、藩の財政から独立させたんです。自分が藩主でなくなっても学校が残るようにと考えていたわけです。
 初代塾頭に任ぜられた熊沢蕃山の影響もあって、おもに陽明学を教えていたようです。武士だけではなく庶民にも開かれていた学校で、この学校は1964年まで続いたんです。いまも見学できます。
 池田光政は、他藩に先駆けて、藩校の岡山学校も開設しています。
 閑谷黌は勉強したい子は誰でも、1年間、無料で食事もついて、寄宿舎で生活できました。この学校、明治以降も師範学校として続きました。倉敷紡績の大原孫三郎さん(1880―1943)も、閑谷黌の出身です。強烈ないじめもあったそうですが(城山三郎『わしの眼は十年先が見える』新潮文庫)、資産家の子も庶民の子も、いろんな学生がいたようです。


●民衆がつくった学校

山下 日本には、近代以前にも、身分を問わずに学べる場所があったわけですね。

清水 それは日本のユニークな歴史だと思います。教育の場が、支配層や金持ちや宗教家だけではなく、庶民にも開かれていた。
 良し悪しは別にして、1872年の学制施行後、たった40年ほどで就学率が100%近くにまでなった背景には、そうした素地があったゆえだと思います。もちろん、国家の側からすれば学制は富国強兵のためでもあったわけですが、それ以前からの寺子屋などがベースになっていたわけです。
 学制発布の3年前に、京都市内では番組小学校ができています。番組というのは、住民自治組織のようなものです。番組ごとに京都市内に64の学校をつくった。しかも、町方の寄付だけでつくっています。これはすごいことです。番組小学校は、たんに学校機能だけではなくて、保健所機能や、消防団機能もあって、いわば地区センターのような役割も持っていました。
 それが可能だったのは、京の都という自負もあったでしょうし、それを支える旦那衆もいたということでしょう。西陣があり、知識人が多くて、ゆとりのある子弟を学ばせようという発想があったのかもしれません。当時の京都市はお金がなかったですからね。市の年間予算と西本願寺の予算が同じくらいでした(津本陽『大谷光瑞の生涯』角川文庫)。いま、この番組小学校のひとつは京都市学校歴史博物館になっていて、当時の教育関連資料が展示されています。また、スタインウェイ社のグランドピアノが置かれており、当時の旦那衆の財力が推量されます。
 それから、1889年に山形県鶴岡市の大督寺境内で開かれた忠愛小学校があります。お坊さんたちが話し合い、宗派を超えて、貧しくて学校に行けない子どもを引き受ける学校をつくったんです。赤ん坊の弟妹を連れてきてもよかったし、弁当を持ってこれない子も多かったので、無料の給食もやっていました。ここが学校給食の元祖なんです。いまも学校給食発祥の地という石碑が寺の境内に建っています。

山下 松本市の開智学校も寄付でつくられてますし、学校は上からつくられただけではなく、下からつくられてきた動きもあったわけですね。

清水 そうです。1872年に学制ができた当初は、義務教育の公立学校でも有料だったんです。原則無料になったのは1900年のことです。そういうこともあって、1873年6月には、鳥取県で徴兵制の反対と小学校廃止を求めて農民が蜂起していますし、同じ月には徳島でも学校焼き討ち事件が起きています。そういう事件が各地であって、けっして順調に就学率が伸びていたとは言えないのです。
 上から学校をつくってきたという面を言えば、1884年には、文部省が不当と認めた場合には、その教科書は使用を禁止することになり、1886年には検定制度が開始されています。1888年1月には、小学校の教科で兵式体操実施を行なうことが明文化されます。これらなどから、あきらかに兵士養成を前提としていたことがわかります。
 それから、1886年に師範学校(教員養成所)ができました。同年に第1次小学校令と中学校令が出されて、何度か改訂されて、だんだんに法制化されていったわけです。第1次「小学校令」に就学猶予規定が設けられ、猶予の理由に疾病や貧困などが入りました。1890年の第2次「小学校令」では「白痴」が、1900年の第3次「小学校令」では「病弱又は発育不全」が猶予理由に入って、就学免除理由には「瘋癲、白痴又は不具廃疾」が入っています。こうした障害者などに対する就学猶予・免除規定が廃止されたのがいつかと言えば、1979年です。養護学校が義務化されたときです。
 文部省の統計では、学制発布から40年ほどで就学率が100%近くに達していることになっていますが、実際問題としては、貧しかったり、家業を手伝う労働力だったり、幼い弟妹のめんどうをみないといけなくて、学校に行けていない子はたくさんいたわけです。私は1934年生まれですが、私のころでも、そういうことはありましたね。子どもが赤ちゃんをおんぶして子守をしていた情景の記憶があります。写真家の土門拳さん(1909―1990)が、そうした子どもたちのようすを写真に残してますね。

田中 清水先生の小学校時代のことをうかがえますでしょうか。


●国民学校で

清水 私は、じつは小学校に在籍していないんです。

山下 国民学校(*1)だったということでしょうか?

清水 そうです。ちょうど6年間、国民学校でした。

田中 国民学校は、どういう感じだったでしょうか?

清水 1年生の12月8日の朝、「戦争が始まった」と運動場で校長から聞いた記憶はあります。まさに戦時下ですし、竹槍訓練だとか手榴弾(木製)を投げる練習だとか、そういうことをさせられていました。そして、5年生の夏に敗戦となったんです。
 敗戦の年は10カ月ほど、縁故を頼って福井県へ疎開していました。もともと住んでいたのは芦屋で、いまでこそ高級住宅街と言われていますが、クラスには貧しい家庭の子もいましたし、漁師町もあって、いまとはだいぶ様相がちがいました。自宅のあたりは無事でしたが、空襲もありました。

田中 中学校は新制中学校でしょうか?

清水 新制中学校の第1期生です。しかし、中学校に入っても校舎がありませんでした。隣の小学校の講堂を借りて、間仕切りして授業を受けたり、空き教室を使ったりしていました。
 ひとつ鮮明に覚えているのは、進駐軍の抜き打ち検査があったことです。抜き打ち検査が来ると「世界地図を隠せ」と言われて、窓の外のひさしに隠したりしていました。当時の世界地図は、朝鮮半島が日本領になっていましたから、それを使って教育をしているとなれば大変なことになる。

山下 国民学校時代に教えられていたことがウソだったというような思いはあったんでしょうか?

清水 そう思っておかしくないはずですが、なぜか、私の場合、そういう記憶はあまりないのです。世間で語られているほど鮮明には覚えてないんです。よく墨塗の教科書だったと言いますが、なぜか、その記憶もないですね。一学年上の中井久夫さん(精神科医)も記憶にないと言っていました。
 5年生はそんなものかもしれません。父親がクリスチャンで、戦中は反体制的なところがあったので、その影響もあったのかもしれません。戦争中から「この戦争は負けるよ」と言ってましたね。


●民間による福祉

清水 学校だけではなくて、福祉も下からの動きがありました。そのことも少し、教育との関連で思い出しておきましょう。
 1887年に石井十次さん(1865―1914)が日本孤児教育会(後の岡山孤児院)を開設します。そもそもは、お遍路さんの女性が、子どもを二人は育てられないので、一人あずかってもらえないかと言われて引き受けたところから始まった。それが口伝えで広まって、孤児院になったそうです。社会福祉制度のない時代に、寄付を集めて運営して苦労されたことと思います。岡山孤児院では、最盛期には1200名の孤児を養育して、その後、宮崎に移って孤児院を立ち上げますが、石井十次さんは48歳の若さで亡くなってしまいます。巨額の借金が残ったようですが、大原孫三郎さんが「石井先生の名前を汚してはいけないから」と、利息も含めてぜんぶ支払ったそうです(兼田麗子『大原孫三郎――善意と戦略の経営者』中公新書)。いまどきの財界人に、そういう懐の深さを持つ人はいるでしょうか。

山下 ここまでのお話で、教育にしても福祉にしても、国が上から統制してきたものと、民間人が下から立ち上げてきたものとが、せめぎあっていたということが言えそうですね。

清水 そうなんですね。一面的ではないわけです。
 もうひとつ、虐待についての視点も重要です。明治以降、近代に入ってもしばらくは、子どもの虐待という視点はなかったのです。子ども虐待という視点が日本でいつできたか、1916年に三田谷啓医師(1881―1962)が指摘したのが最初です。三田谷医師はドイツへの留学から帰国後、大阪市に児童課がつくられて初代課長になっています。そして、大阪市立の児童相談所、助産院、乳児院、少年教育相談所をつくった。先駆的な施策だったと思います。
 三田谷医師は新聞記事から116例の事件を拾い上げて、いまで言う身体的虐待、心理的虐待、ネグレクト、性的虐待などを記述しておられる。医者が児童虐待について語った例としては、世界でも最初ではないかと思います。ずっと後になって、1961年に、アメリカの医師ケンプ(Henry Kempe 1922―1984)が、不自然な骨折のレントゲン写真をみて、おかしいと思って調べはじめて、子ども被殴打症候群(battered child syndrome)を報告して、児童虐待研究の元年と言われていますが、その45年前に、日本人が指摘していたわけです。
 1919年には、社会運動家の賀川豊彦さん(1888―1960)が「児童虐待防止論」という論文を書いています。これは完全に貧困の問題です。たとえば、赤ん坊を貸す親がいて、それを借りた人が繁華街に座っていると、お金をもらえる。その何割かを親に渡す。そういった、いろんな貧困の実態を書いています。日本では、1933年10月1日に児童虐待防止法が施行されましたが、子どもの貧困のすさまじさが、法制化につながったと言えます。
 そのころの政治情勢を考えると、国際連盟を脱退したり、治安維持法が制定されたり、急速に右傾化が進んだ時代でした。その時代背景を考えれば、子どもを守るといっても、将来の兵卒を傷つけるのは困るという思いのほうが強かったのではないでしょうか。
 不登校を多角的に論議するのであれば、貧困や虐待を含めて考えることが必要だと思います。古い時代の話だけではなくて、それはいまに続く問題でもあるわけですからね。いまだって行政上、行方不明の子もたくさんいる。そういう問題意識が大正時代から出発していたのは、押さえておきたいことです。


●児童精神医学の始まりは

山下 児童精神医学は、どういった観点から子どもに着目し始めたんでしょうか。

清水 ドイツでもフランスでも、アメリカでも、子どもへの関心は知的障害から始まっています。目につくし、家族にも地域社会にも影響したからでしょうね。社会から排除されていたわけですが、そこを何とかしようというところに、医療が参入していったわけです。

山下 それまでは私宅監置だったりしたわけですよね。それを病院に収容していった。

清水 病院というより施設です。施設化が始まった。ドイツでは、1887年にエミングハウス(Hermann Emminghaus 1845―1904)が教科書を刊行したのが児童精神医学の最初です。フランスでも同じころに医師セガン(Onezime-Edouard Séguin 1812―1880)が、パリ大学精神科の病院で、知的障害児の療育を始めています。セガンはナポレオン・ボナパルトの圧政を避けて、1848年にアメリカへ渡り、アメリカで最初の知的障害児学校の校長に就任します。
 日本でも、児童精神医学は、知的障害児の観点から始まっています。民間の善意の人による福祉が先行していて、だいぶ遅れて医療が入ってきた。
 本来、児童精神科の臨床というのは、医療、保健、福祉、教育の4つの領域が積み重なった上に成り立つものです。それは、医者にできるところは限られているということでもあります。そこをしっかり理解していない医者は、ほんとうの児童精神科医とは言えません。そういう意味では、日本にどれほど児童精神科医と言える医者がいるか、疑問ですね……。

田中 投薬だけの治療も多くなっているようですね。

清水 それは、おおいに問題ですね。そういう医者には、児童精神科医と騙らないでくれと言いたいです。2000年に愛知県豊川市で主婦が殺害される事件がありましたでしょう。加害者の少年がアスペルガー症候群と鑑定されたことで、発達障害が一躍注目されるようになった。その後、児童青年精神医学会に登録する医者が急増しました。何かおかしいですよね。

山下 児童精神医学で不登校に着目したのは、誰が最初と言えるでしょう。

清水 1932年にブロードウィン(Isra T. Broadwin)が怠学(truancy)を提唱しますが、この人が最初だと思います。その9年後、1941年にジョンソン(Adelaide M. Johnson 1859―1955)が学校恐怖症(school phobia)を提唱する。この二つの論文はいずれも、アメリカ矯正精神医学雑誌(American Journal of Orthopsychiatry)に載っています。いまからすると、書く媒体がちょっとちがうように感じますが、あのころは、ほかに書く場所がなかったようです。この雑誌には、米国の児童精神医学が立ち上がったころの論文が、いくつも出ています。当時、子どもの社会問題としては非行が目についたんでしょうね。
 ブロードウィンもジョンソンも、着眼点から言えば同じだったのではないかと思います。そのほか、学校ぎらい(reluctance to go to school)、登校拒否(school refusal)、不登校に相当するnon-attendance at schoolなど、いろいろな用語が出てきました。
 どんな病気でもそうなんですが、初期のころは、その人の見方によって表現や枠組みが変わるのです。たとえば、1943年にカナー(Leo Kanner1894―1981)が幼児自閉症の論文を書いた。その2年前に、ブラッドレー(Charles Bradley 1902―1979)が、子どもの精神分裂病(現在の統合失調症)の事例を書いていますが、カナーの数年後だったら、そういう見方はしなかったのではないかと推量される例です。

山下 高木隆郎さん(*2)の場合も、当初は不登校を児童の精神分裂病ではないかと考えていたそうですし、それと似ていますね。

清水 そうですね。従来、精神医学は統合失調症が主要な課題でした。それで、まずはそういう枠組みで見たということでしょう。ところが、入院させると、治ってしまう。これはおかしい、となった。

山下 アメリカでは、カナーが最初の児童精神科医ということのようですね。

清水 アメリカで最初に児童精神科医を名乗ったのはカナーですが、児童精神医学の発想は、アドルフ・マイヤー(Adolf Meyer 1866―1950:精神科医)の頭のなかで、最初にできたようです。
 カナーはドイツ人で、初めはベルリン大学で内科医をしていました。アメリカに移住して、メリーランド州のジョンズ・ホプキンス大学でマイヤーと出会って精神科に移り、1930年から小児科で精神科医療を担当するようになったんです。しかし、当初は児童精神医学部門は独立したユニットではなく、常設でもなかったようです。ある財団からの財政支援を受けて、常設化していったようです。
 以前、1936年のアメリカの精神科診療所の住所録を見つけて、子どもだけに特化したクリニックを数えてみたことがあります。189カ所ありました。しかし、ニューヨーク州に90カ所、マサチューセッツ州に33カ所と、3分の2は東部の大都市に集中していました。
 日本人で唯一、カナーの下で学んだ牧田清志医師(1915―1988)は、「カナーに自閉症のことは何も教わったことがなかった」と言ってました(笑)。ただ、臨床家としての作法は徹底してたたき込まれたそうです。カナーは臨床家だったんですね。だから、あいまいな問題にしっかりした枠組みをつくることができたのでしょう。


●自閉症と登校拒否

山下 いずれにしても、アメリカで1930年代に児童精神医療がつくられて、それが日本に入ってくるのは、1950年代ということでよいでしょうか。

清水 そうです。登校拒否については、佐藤修策さんの論文(「神経症的登校拒否行動の研究―ケース分析による―」1959)が初めてだったのはまちがいないです(本プロジェクトインタビュー#01参照)。同年に、高木隆郎医師が京都市で長欠児の調査を行なっていますが、高木医師の頭のなかで、登校拒否という概念があって調査されたのかどうかはわからないですね。調査の結果、後に登校拒否と呼ばれることになる事例も入っていたということでしょう。
 1960年に鷲見たえ子さん(精神科医/現在は中沢たえ子)が「学校恐怖症の研究」という論文を発表して国立精神衛生研究所(現・国立精神・神経医療研究センター)の紀要に掲載されました。そして、児童精神医学会の第1回大会で報告なさった。そして第2回大会になると、何ケースか報告されて、いっとき学校恐怖症がブームになった。
 そのあたりで、日本で児童精神医学が始まったと言えます。日本児童精神医学会の設立は1960年の11月です(1982年に日本児童青年精神医学会に学会名を変更)。

山下 児童精神医学の始まりと、学校恐怖症と自閉症の「発見」が同時期だったのはなぜでしょう。

清水 たまたま、そうだったのでしょう。
 日本での自閉症についての最初の報告は、鷲見たえ子さんの「レオ・カナーのいわゆる早期幼年性自閉症の症例」(1952)です。ただ、議論が活発になったきっかけは、比叡山シンポジウムと呼ばれる、1957年の第1回精神病理懇話会でした。精神病理懇話会は、日本精神神経学会のなかにつくられた会で、おもだった精神科の教授や若手が集まって、その年ごとにテーマを決めて議論していました。第1回の世話人が村上仁教授(1910―2000)で、児童にとても関心がおありで、子どもをテーマにしようと提案したんです。そして、その当時は大阪市立大学精神科にいた黒丸正四郎助教授(1915―2003)と高木隆郎さんにまかせた。黒丸さんは当時、近江学園によく相談に行っておられたそうです。近江学園は、『この子らを世の光に』(2003年にNHK出版で復刊)で知られている糸賀一雄さん(1914―1968)が開設された知的障害児の療育施設ですね。糸賀さんと黒丸さんは京都大学の同期で、ずいぶん親しくしておられて、酒を飲みながらいろいろ話し合っておられたそうです。
 そのシンポジウムで、黒丸さんが精神遅滞(知的障害)のみでは捉えがたい子を2名、近江学園から連れてきて報告されたんです。黒丸さんは、これがカナーが言うところの自閉症だとおっしゃって、その2例をめぐって、いろいろ活発な議論がありました。島崎敏樹さん(1912―1975)など、そうそうたる教授が参加しての議論で、カナーのところへの留学から帰ってきたばかりの牧田清志さんも参加しておられて、お墨付きをもらった。このシンポジウムが学会を組織する引き金になったと言えます。

山下 発達障害は2000年以降もクローズアップされて、不登校とも重ねられていますが、出発点も同時期で、不即不離の問題のように思えますね。

清水 2010年に学会50周年で記念誌を出したとき、私は過去の学会誌掲載論文を計量的に振り返ってみたんです。そうすると2000年以降、不登校を扱った論文がゼロになっています。発達障害や自閉症論も何度か山あり谷ありで、関心が強まったり弱まったり、そのあいだに拒食症がブームになったり、ボーダーラインパーソナリティがブームになったりしている。しかし、ベースにはずっと自閉症があるように思いますね。アメリカでも「Journal of Autism and Developmental Disorders」という、タイトルそのものが自閉症・発達障害の雑誌が、いまだに続いています。
 今世紀に入ってから、高機能自閉症への関心が高まり、自閉症にからんで学校生活を続けられなくなる児童・生徒が増えてきました。学校適応がうまくいかなくなった子どもたちを引き受けている私立学校は、そのことで新たな課題に直面しています。特別支援教育の範囲を引き受けているそれらの学校へ、新たな公的(財政的)支援が必要な時代を迎えていると考える必要がありましょう。
 不登校と自閉症スペクトラムとの関連について論じたのは、日本の栗田広さん(児童精神科医)が最初でしょう(『精神科治療学』第2巻69p/星和書店1987)。


●高学歴化社会と不登校

山下 不登校が増えた時代は、高度経済成長期で、高学歴化が進んだ時代でもありますね。

清水 私が大学に入ったのは1953年、そのころの大学進学率は8%ほどでした。60年代から、急速に大学進学率が高まっていく。その高学歴化の流れと、不登校とはどう関連するのか、考えてもいい主題だと思います。

山下 高校進学率の上昇もありますよね。戦後、新制中学で子どもが中学校に行くようになって、高校、大学と学校へ行く期間が長くなってきたわけですね。

清水 そうですね。私が、なぜ医学部を選んだかと言うと、自分自身が、子どものころ虚弱児だったことがありました。小・中学校時代は、運動会に出たことなかった。小児ぜんそくで2学期はずっと自宅で寝ていました。でも、小児ぜんそくは思春期を過ぎるとおさまる。それで、高校ではがんばって大学に入れたんです。医師資格を取っておけば、病弱でも食べていけるという助言をくれた人もいました。父親は職人でしたが、駅前のたばこ屋の権利を買って、息子にやらせてやれば、日銭は入ってくるんじゃないか、ひとり独身で食べていけると、真剣に考えていたようです。
 当時は高学歴などという言葉もなかったですね。60年代以降、大学の数が増え、師範学校が大学になり、大学進学率が急激に上昇した。そこには、戦争で青春の夢を果たせなかった親たちが、「せめて子どもには」という思いもあったのでしょう。
 でも、一方で高学歴化は、いまの日本経団連など経営者団体が、高度経済成長を進めるための人材養成を国に要請してきた加圧の結果でもあるので、国家主義的な側面もあったと思います。戦前の国家主義がどういう事態を起こしたか。それと通底するものがある。かたちを変えて、同じ構造を持っている可能性についても考えておきたいものです。

山下 戦争だけではなくて、経済成長も高学歴化も上からの側面があったわけですね。

清水 だから、外国から経済侵略と批判的にも見られたのでしょう。しかし高学歴化の内実を見れば、大学が乱立して、いろんな名前の学部がやたらと増えて、大人数授業で内容にとぼしい。粗製濫造と言うほかない。そんなことに、親も子もあおられてしまって、そこに疑問を感じる子はワリを喰ったと言えます。そういう意味では、不登校と高学歴ブームとは関係があるのでしょうね。
 60年代に高校全入運動が始まって、高校が増設され、74年には高校進学率が9割を超えます。不登校の数は、66年の統計開始から減っていって、75年から増加に転じる。
 不登校が減ってきたのは、全入運動の成果とも言えると思います。しかし、なぜ増加に転じたのかは、よくわかりません。いろいろなことを言う人がいますが、あまりいい説明はないように思います。
 いずれにしても、大学の粗製濫造は、日本の教育を大きく乱したと思います。

山下 大学や学部は増えても、かたちばかりで、多くの子ども・若者にとって、進学の意味も空虚にならざるを得なかったと言えるでしょうね。

清水 そうです。高学歴化は、大学に行く行かないにかかわりなく、若い世代に悲劇を与えていると思います。勉強が大好きで、研究者を目指して進学する人は別にして、多くの子ども・若者にとっては、高等教育の意味がわからない。
 政府は、いまごろになって給付型の奨学金を創設すると言っていますが、そんなことでは追いつかない、基礎構造の問題がある。偏差値という数字や学歴で人間が査定されてしまっているのですからね。教員にも結果が求められるし、小学生にまで選別のまなざしが入ってしまっている。これは大きな問題でしょう。

山下 何のためか、よくわからないことのために、がんばらないといけなくなっている。

清水 子どもだけではなく、保護者も教員も見えていない。それなのに競争させられて、そこで一服したい子が生きづらくなっている。遅咲きの子もつぶされている。金子みすゞの「みんなちがって、みんないい」という言葉が、いちばん伝わらないのが教育界です。


●「不登校」という言葉は

山下 不登校という言葉は、清水先生が最初に使い始めたということですが、その経緯を教えていただけますでしょうか。

清水 1965年7月6日の火曜日、午後1時から、大阪大学病院の精神科外来で思春期外来を始めました。それまでも、思春期に関心を持っていた精神科医はいたのだけど、思春期外来を始めたのは、これが最初です。その準備をしていたころ、「不登校」という言葉をふと思いついたんです。学校恐怖症(school phobia)と登校拒否(school refusal)は、言葉の感覚からして、逆方向ではないかと思ったんですね。定義もされていないし、まずは「不登校」という言葉で、ひとつのバスケットに入れておいて、後で整理すればいいと思ったんです。アメリカで何人かの人が「不登校」に相当するnon-attendance at schoolと言っていることは後から知りました。

山下 翻訳ではなかったんですね。学校恐怖症(school phobia)と登校拒否(school refusal)が逆方向というのは、どういうことでしょう。

清水 恐怖症(phobia)は、いわば、びびっているわけでしょう。それに対して拒否(refusal)は意志表示じゃないですか。だから別物かと思っていたのです。65年というと、60年安保のあと、全共闘の大学紛争の前の時代ですから、拒否(refusal)という言葉に見合う青年も、たまにやってきていました。なんで学校に行かないといけないのか、自分で勉強したほうが効率いいという感じでね。これぞrefusalという感じがあった。
 あるいは怠学(truancy)がぴったりという子もいた。学校に行かない子のなかには、いろんな子がいたから、最初にラベリングをして仕分けてしまうと、ラベルに合致するように観てしまうと思って、思春期外来を始めるときに、「不登校」という言葉をつくったんです。

田中 思春期外来を始めた経緯を教えてください。

清水 65年の春に大学院を出て博士号を取得しましたが、それまでは離人症の研究をしていました。それなりにおもしろかったけれど、そんなにいつまでも研究を続けるほどの材料ではない。次に何をやるかと考えたとき、統合失調症の好発年齢は思春期であるにもかかわらず、思春期に焦点を当てた臨床をする精神科医がいなかった。それで、同期の精神科医数名でやってみようと思ったんです。しかし、思春期外来を始めてみたら、医局のほかのドクターは、統合失調症なら自分たちでも治療できると思っておられたのか、患者を紹介してくれない。そして、不登校は病気かどうかわからない、どう相手すればいいかわからないということで、どんどん送ってくる。拒食症や自己臭症の患者もですね。不登校外来とまでは言わないけど、一時期はかなり不登校の数が多かったです。

田中 同じく大阪大学ご出身の藤本淳三先生が「登校拒否は疾病か」という論文を1974年に書かれていますが、当時、阪大のなかで、登校拒否を疾病とみなすことを疑問視する認識があったのでしょうか?

清水 ありました。藤本さんは同級生です。

田中 そうだったんですね。学会で不登校という概念を使われたのは?

清水 1968年の日本児童精神医学会シンポジウム「思春期心性とその病理」で初めて使いました。その2年前、1966年に「学校精神衛生」というシンポジウムが同じ学会でありました。そこで京都市児童院の松下裕さんが「情緒障害児と学校生活」という論文を発表しています。そこで情緒障害児とされた者は67名あり、それをさらに、学校恐怖症の神経症型であるとか怠学型であるとか、未熟型であるとか、細かく分類されていたんです。それを受けて、細かな分類よりも、まずは大枠で捉えたほうがよいと私は思って、68年のシンポジウムで「不登校」という概念で発言しました。
 それから、1978年の学会で「思春期登校拒否児童の治療・処遇をめぐって」というシンポジウムがありました。そのときに、阪大病院の精神科の外来カルテをぜんぶ見ました。そこに不登校と書かれた数の推移がこのグラフ(下図)です。昭和33年(1958年)から昭和35年(1960年)にかけては、すごく低いけれど、その後、昭和49年(1974年)まで上昇の一途をたどっています。ちなみに最初の一例は病名欄に「学校に行かない子」と書かれていました。病気かどうかわからなかったんでしょうね。
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『児童精神医学とその近接領域』第20巻より転載

山下 昭和41年(1966年)から急上昇していますが、思春期外来の開設と関係していたんでしょうか。

清水 どうでしょうね。無我夢中だったから、増えているという実感よりは、不登校の子が来るのがあたりまえという感じになっていました。だんだん受診児も仲間も増えてきて、週1日では対応しきれなくなって、週2日に増やして、夜7時くらいまで外来をやり、その後にケーススタディをしていました。

田中 思春期外来に来ていたのはどんなタイプの子だったんでしょうか?

清水 タイプ分けしないために不登校という概念をつくったわけです。そのころは不登校をどう分類するかということよりも、私が悩んでいたのは「これは病気なんだろうか?」ということでした。病気と断言できないものを健康保険で診療して診療報酬を請求することは許されるのか、という倫理的な悩みもありました。
 ただ、そういう問題は、不登校にかぎった話ではありませんね。思春期外来をやっていると、いろんな子どもが来て、結局、病気ではなかったけど、伴走して付き合っていたことが、その子が大人になっていくうえでの添え木になったということは、いろいろとありました。その典型的な事例を『思春期のこころ』(NHKブックス1996)に書いておきました。私自身、だんだん開き直っていきましたけれども、理念的にどうなのかは、ずっと考えていたことです。
 そこに答えを与えてくれたのは、ドイツに留学したときに師事したミュラー・ズーア(H. Müller-Suur 1911―2001)教授でした。ミュラー・ズーア教授は、哲学的精神医学の方ですが、私の悩みに対して「そんなふうに考えることは何も必要ないんだ」と言って、「Bitte um Hilfe」という言葉で語ってくれました。つまり、助けを求めて医者のもとにやってきた人は、ぜんぶ患者なんだということです。そう捉えればいいんだ、と。


●学校精神保健の取り組み

 1969年から大阪府岬町の公立中学校で学校保健の仕事を始めました。その学校の生徒が軽いノイローゼで通院していて、学校でその子を支えてやることはできないかと、生徒指導主事が私のところまで相談にきたのがきっかけでした。
 具体的には、学年始めに、知能テストと、バウムテスト(投影描画テスト)、思春期用のSCT(Sentence Completion Test:文章完成法テスト)の3セットを1年生全員に行なって、それを大学に持ち帰ってサイコロジストがスクリーニングします。気になる子をピックアップして、それを7月ごろ学校に持っていき、2泊3日で、1クラスに2時間か2時間半くらいかけて、担任とディスカッションするんです。学校のほうからも、気になる子を挙げてもらって、学校と医者と、どちらかが気になった子について、ショート・ケーススタディをする。わりと早くに教育委員会が予算化してくれて、私はもう関わっていませんが、現在まで48年間続いています。

山下 医者の仕事としては、だいぶはみだしているけれども、だからこそ見えてきたことがあるのですね。

清水 そうなんです。診察室だけでは見えてこない部分が子どもには多いのですね。私はのぞき見根性が強くて(笑)、病気ではない、ふつうの子どもとも付き合いたかったのです。中学校での精神保健活動がうまくいったので、隣の府立高校からも依頼されて3年間やりました。しかし中学と高校では、子どもの育ちも学校の構造もちがうし、同じやり方では無理で、こちらはうまくいかなかった。

田中 先ほどの中学校でのご実践は、『青年期の精神科臨床』(清水將之編、金剛出版1981)で北村陽英先生が書かれているものと同じでしょうか?

清水 そうです。北村さんの博士論文(「思春期危機の継時的研究」1979)のテーマでもあります。私がドイツ留学で大阪を去ったあと、この中学校での仕事を北村さんが引き継いでくれました。

田中 その中学校では不登校の事例はどれくらいありましたか?

清水 不登校はあまりなかったです。医者としては、現場へ行って早期に問題を把握して、早期に支援を開始すれば、予防効果が生じるのではないかという思いはありました。結果、長期化する不登校はほとんどいない時期もありました。

山下 学校の教員との具体的なやりとりは、たとえばどんな感じだったのでしょう?

清水 たとえば修学旅行に行ったとき、ある男の子が過換気症候群を起こした。枕投げをしているなかで興奮して発作を起こして、私が呼吸管理をしたらおさまりました。ところが先生たちは緊急会議を開いて、「加害者とおぼしき生徒を集めているので来てください」と言ってきたんです。私は、「加害対被害ではないから、生徒を戻してやってください」と伝えました。生徒たちには「旅先で興奮しているから気づかないかもしれないけど、疲れもある。そういうことも起きうるから気をつけてね」と伝えました。
 そういう具合に、ひとつのケースで教員と医者が意見を交わすことで見えてくるものがあるんですね。教員に向かって、精神保健を講義しても伝わらない。現場で考えて、現場で何が出てくるかが大事です。

山下 岬中学校のような精神保健の枠組みは、全国的にも例がなかったのでしょうか。

清水 長期的に同じ学校で継続するというのは、いまでも、ほかに例がないと思います。

山下 ケース会議を開くことは、めずらしくなくなっていると思いますが。

清水 そうですね。でも、実際のところは、やりましたという形跡を残すためであったりして、ほんとうに、その子を大事にしているわけではないことも多いでしょうね。要保護児童対策地域協議会(要対協)も、機能していないところが多いことと似ています。


●養護教諭の役割

山下 先ほど、ドイツで「助けを求めて医者のもとにやってきた人は、ぜんぶ患者」と教えられたとおっしゃっていましたが、そういう意味において、学校のなかでは養護教諭の存在が大きいと、清水先生は指摘されてますね。生徒が「おなかが痛い」と言ってくれば、診断して治療的に対応するというよりも、子どもの訴えをそのまま受けとめる。そういうことが大事なんだと。

清水 私は1990年代から養護教諭に関心をもっていて、『養護教諭の精神保健術』(北大路書房2013)という本を書きました。
 1990年ごろ、高木隆郎さんが養護教諭の現状を勉強しようと提案されて、学会の教育に関する委員会に、中・高の養護教諭の方を招いて、話をうかがったんです。そこで示された円グラフでは、来室生徒の割合が上半分が外科系疾患、下半分が内科系疾患になっていて、きれいに二分されていたんです。「精神疾患はないの?」と聞いたところ、外科系も内科系も、ぜんぶメンタルの問題が関係していると言われたんですね。それは衝撃的で、その後、養護教諭とかかわるようになりました。
 96年に山形で児童青年精神医学会があり、その翌日に、山形の中学校にうかがって、ケーススタディをしました。それから毎年、学会のたびに、あちこちでやりました。そうすると向こうも旅費を考えないですみますからね。途中で切れてしまったり、根付かなかった地方もありますが、いちばん続いたのは山形と青森です。いまでも、青森の情短施設のケーススタディには行っています。情短は24時間交代勤務なので、全職員が参加するためには2日間滞在して、半日ずつ。1ケース3時間〜3時間半かけてケーススタディをします。宿泊しますから、その晩の飲み会で、いろいろ職員とおしゃべりして、そういうなかで見えてくることもある。まあ、ふつうの医者がやらないことを、いまでもやってます。

山下 80歳代にして、活動的でいらっしゃいますね。

清水 多動爺と言われています(笑)。

山下 生野学園(*3)にも関わっておられるそうですね。

清水 前理事長の森下一さん(精神科医)から相談を受け、2001年に日本子どもの未来研究所をつくったり、生野学園20周年記念本の編集をお手伝いをしたり、講演会の講師を紹介するなどして、関わってきました。生野学園は、一人ひとりの生育可能性をしっかりと見明かし、そのところに自分で気づいていく作業へ、信じられぬほどに根気よく、教員たちが寄り添い、そっと支援し続ける学校です。
 いまは不登校の子を、無責任に引き受けてしまうところも多いでしょう。通信制や単位制高校でも、ほんとうにひどい実態がある。月1回、出席する生徒が50%以下でも助成金をもらっている。最近、ウィッツ青山学園(*4)が問題になりましたが、当然のことだと思います。安易な道に保護者が流れる風潮の時代、誠実に事を進める生野学園は、生徒募集に苦労しています。

山下 営利目的で規制緩和を利用している学校も増えているように思います。


●稲村問題をめぐって

山下 登校拒否と医療をめぐっては、80年代に、稲村博さん(1935―1996)の入院治療をめぐって、学会でも問題になりましたが、こうした問題は、どのようにお考えでしょうか。

清水 戸塚ヨットスクールの問題もありました。あれは言ってみれば、不登校史の恥部ですね。戸塚宏は刑法犯として服役したので、法的には責任を取りました。でも、戸塚ヨットスクールは、いまでもやっているようですね。幼児教育と称して、3歳児に海でサーフィンをやらせたりしていて、子ども虐待防止学会でも問題になっています。
 稲村さんの問題については話しにくいところもありますが、学会としては一定の批判をしたわけです。他方、あの事件では報道のあり方にも問題がありました。たとえば、堂本暁子さんは、当時TBSの記者で「精神分裂病の人でもイヤがる閉鎖病棟に、不登校の子どもを入院させている」とコメントしていました。それはひどく差別的な物言いだったと思います。
 ひきこもりにしても、家庭内暴力にしても、数から言えば、不登校していた時期にうまく支援できていなかった人が非常に多いという問題はあると思います。それは無視できない問題ですね。不幸せな状態にならないため、不登校の段階で何ができるかを考えないといけないと思います。そういう意味でも、早期に関わったほうがいいのはたしかです。その関わる人が教師なのか医者なのかが問題ではなくて、単一の人ではなく、システムとしてセーフティネットがあることが大事だと思います。

山下 稲村さんがおっしゃっていたこととして、早期対応だけではなく、入院治療のあり方が問題になったわけですよね。そのあたりはいかがでしょう。

清水 そうですね。入院させていた人数も多かったですね。国立大学に勤めながら民間病院でやっていましたから、兼業問題で告発されることもあり得たのではないでしょうか。

田中 清水先生は、不登校の子が家で親に責められているとき、入院でいったんリセットすることも必要だと書かれていますね。

清水 そういうことは、あり得ます。入院が絶対ではなくて、入院が必要な場合、必要な時期もあり得るということです。子どもを親から離すためには、病院はいいシェルターになります。専門家のいる、屋根のあるシェルターですね。

田中 治療というよりも環境調整として必要ということでしょうか?

清水 そういうことです。

田中 稲村先生は、社会復帰を早めるために投薬治療も必要だと書いておられましたが、清水先生は、投薬はどのようにされてきたのでしょうか?

清水 たまには使いました。睡眠リズムを調整するために睡眠薬を出したり、いらつきがひどいときに、本人が納得すれば、軽い安定剤(トランキライザー)を出したり。しかし、治療の主役が薬なんてことは考えられないです。

田中 「治療の主役」というのは何になるのでしょうか?

清水 育ちをサポートするネットワークをどう構築するかです。

山下 そこに力を注がれてきたということですね。しかし、一方で精神医療の流れとしては、むしろ投薬治療一辺倒になってますね。

清水 そうですね……。とくにAD/HDなんて薬物療法だけでしょう。メチルフェニデートなぞ、十数時間効くだけです。療育を抜きにして、治療は考えられないです。

田中 『青年期の精神科臨床』(金剛出版1981)は、渡辺位さん(*5)が1章書いていますが、渡辺さんとお付き合いがあったのでしょうか?

清水 共著を出したり、シンポジウムでお声かけしましたが、その程度でしたね。渡辺さんはがんばっておられたとは思いますが、私からすると、やや批判が先走ってしまっていたように思います。私は、批判や批評よりも、学校現場でのケーススタディを重視していました。医者だけではできないことを、具体的に誰とどう組むか。商人の町の大学を出ているので、私は実務家なんです。

山下 社会的批判に傾きすぎていたということでしょうか。

清水 渡辺さんにかぎらず、全般に社会批判へ傾きすぎていた時期はあったように思います。たとえば、92年に新潟で「不登校問題を巡って」という講演を行なった際、質疑の時間に、現地の親の会の方から批判されたことがありました。奥地圭子さんたちの全国ネットワークの方ということでしたが、とにかく専門家として関わることがよくない、不登校をあってはならないものとして見ているのはよくない、というような批判でした。よく聴いていただければ、私がそのような考え方をしている人物ではないことは理解していただけたと思うのですが、やや硬直した批判だったように思いました。

山下 そこには、不登校が精神医療の問題にされすぎていたことへの批判もあったのだろうと思います。不登校というのは、精神医療と重なる部分もありますが、そこでは切り取れない面も多く含みますね。社会的な視点は不可欠と思います。とくに、いまは発達障害に傾きすぎて、不登校から問われていた社会的文脈は、忘れられてきている面もあるように感じます。清水先生は、不登校という概念で、社会的文脈も含めて包括されようとしていたのだと思いますが、そのあたりはいかがでしょう。

清水 社会的視点は必要不可欠です。たしかに、医者でも医療の視点のみで仕事をしている人が圧倒的に多いです。最近だと、認知行動療法のみとかね。
 しかし、くりかえしますが、とくに児童思春期は、セーフティネットが必要な年ごろです。自分だけでは生きていけない年ごろ。複雑化、硬直化した社会のなかで、いかにセーフティネットを構築できるか。そこに着目しない人は児童・思春期の臨床家とは言えません。そういう臨床家を育てていくことが、児童精神科医としては必要なことだと思っています。

山下 今日は長時間、ありがとうございました。

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*1 国民学校:1941年の国民学校令によって設立された、初等教育と前期中等教育を行なっていた学校。教育勅語の教えをもって皇国の道にのっとって初等普通教育を施すとしており、国家主義的色彩が濃厚だった。1947年の学制改革で新制小学校と中学校に改組された。

*2 高木隆郎(たかぎ・りゅうろう):1929年、三重県生まれ。精神科医。1956〜1957年に京都市で長期欠席児童の実態調査を行ない、1959年に発表した(「長欠児の精神医学的実態調査」)。

*3 生野学園:兵庫県朝来市にある、不登校を経験した子どもたちを対象とした全寮制の中学・高等学校。1989年設立。

*4 ウィッツ青山学園:三重県伊賀市にある株式会社立の高等学校。2015年、広域通信課程における就学支援金不正受給や、学習指導要領違反などが発覚して問題となった。2016年、同校は閉校し、伊賀市は学校運営を学校法人神村学園に変更した。 

*5 渡辺位(わたなべたかし 1925―2009):児童精神科医。不登校を個人の問題とみるのではなく、学校のあり方や社会のあり方を問う問題として捉え、不登校の運動に大きな影響を与えた。

【インタビュー:医療関係の最新記事】
posted by 不登校新聞社 at 11:50| Comment(0) | インタビュー:医療関係
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