2017年05月11日

#18 竹渕陽三さんと「竹の子会」のみなさん

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 今回は、情緒障害児短期治療施設(以下、情短施設)の実際をうかがいたいと、大阪市立児童院(情短施設)で1962年から27年間、児童指導員を務めていた竹渕陽三さんと、60〜70年代に情短施設に入所していた方で、現在も竹渕さんを囲む「竹の子会」に集まっておられる4名の方に、お話をうかがった(偶然にも、そのうちのおひとり、児島一裕さんは、日本で最初期のフリースクール「地球学校」創設者であり、本プロジェクトで、あらためてインタビューにうかがう予定)。前半は竹渕さんに、後半は、おもに「竹の子会」のみなさんにお話をうかがっている。

◎竹渕陽三さん

(たけぶち・ようぞう)1932年、長野県生まれ。立教大学卒業後、牧師になるため神学校に進むが中退し、法務教官として神戸再度山学院(初等少年院)に勤務。その後、大阪少年鑑別所を経て、1962年、大阪市立児童院(情緒障害児短期治療施設)開設当初から、児童指導員として1989年の定年まで勤めた。定年後は、児童養護施設で働いていた。(写真中央)

◎竹の子会

大阪市立児童院の入所経験者の有志で竹渕さんを囲む会。インタビュー当日は、以下の4名の方が参加しておられた。

・児島一裕さん:1956年兵庫県生まれ。小学校5年生で登校拒否になり、小学校卒業までの1年10カ月、児童院に入所していた。その後、1985年にフリースクール地球学校を設立。愛称はうーたん。(写真左から2番目)

・Aさん(男性):1962年大阪市生まれ。小学校4年生から5年生にかけて児童院に入所していた。

・森脇涼美さん:1956年兵庫県生まれ。小学校をほとんど行かず、6年生終了時に原級留置となり、その後の1年間を児童院で過ごした。(写真一番右)

・Bさん(女性):1955年兵庫県生まれ。登校拒否の経験はないが、小学校5年生のとき(1966年)に児童院に入所し、1年を過ごした。

◎情緒障害児短期治療施設

1961年の児童福祉法改正で定められた施設(開設は1962年〜)。当初は学校恐怖症(不登校)や年少非行児童のメンタルケアなどを目的とし、12歳未満を対象としていた。しかし、近年は児童虐待への対応が求められるようになり、現在は在籍児童の7割以上を被虐待児が占める。また、約3割が広汎性発達障害の児童となっている。現在は全国に45施設できている。2016年の児童福祉法改正で、2016年4月より児童心理治療施設と名称変更された。


インタビュー日時:2017年2月19日
聞き手:貴戸理恵、山下耕平
場 所:竹渕さんが入所されている老人ホーム(大阪府堺市)
記事編集・写真撮影:山下耕平
記事公開日:2017年5月11日
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→PDF(組版データ)をダウンロード  18futoko50takebuchi.jpg
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〈テキスト本文〉

貴戸 今日はよろしくお願いします。滝川一廣先生(本プロジェクト・インタビュー#06参照)のご著書『学校へ行く意味・休む意味』で竹渕先生のことを知って、ぜひ情緒障害児短期治療施設での実際をうかがいたいと思い、インタビューをお願いした次第です。

竹渕 情緒障害児短期治療施設(以下、情短施設)は、1962年に児童福祉法の改正施行で認められた施設で、当初は岡山県立津島児童学院、静岡県立吉原林間学園、大阪市立児童院の3カ所でした。どの施設も、施設長は児童精神科医で、大阪市立児童院の施設長は林修三先生でした。当時、林先生は児童相談所の所長もしていました。フランスへ視察に行かれて、そこで情緒障害というものを勉強して日本に概念を持ち帰って、厚生省(当時)で勉強会を開いて、児童福祉法が改正されて、情短施設がつくられたという経緯だったと思います。私は、1962年の開設直後から、定年になる1989年までの27年間、児童指導員として勤めていました。

貴戸 まずは竹渕先生の個人史からうかがいたいのですが、情短施設に勤め始めるまでの経緯を教えてください。


●牧師への道から福祉へ

竹渕 私はクリスチャンで、親父も聖公会(*1)の牧師でした。長野県の岡谷、諏訪湖の近くで生まれ育ちましたが、子ども時代は戦争の時代でしたからね。アメリカと開戦したと聞かされたのは、小学校3年生のころでした。霜柱の立ったグラウンドに裸足で立たされてね。ラジオ放送を聞かされた。情緒障害なんて関係ない世界です。そういう時代でした。
 8人兄弟で貧乏人の子だくさんでしたし、アーメンソーメンの道に行けば、なんとか喰っていけると思って、立教大学に進むことにしたんです。大学に入学したのは1950年のことです。まだ戦後の混乱期で、受験するのに宿泊したときは、「米扶持」といって、宿代代わりに米を持参しないといけませんでした。
 大学に行く経済的な余裕はなかったんですが、聖公会の中部教区を通じて、カナダ聖公会の婦人会がスカラーシップ(奨学金)を出してくれたんです。学費から生活費まで援助してくれました。
 大学では、文学部社会科に入って、社会事業について学びましたが、ケースワークとかグループワークだとか、わけのわからん横文字だと思ってました(笑)。当時は社会福祉という概念もほとんどなかったですから、慈善事業という認識でしたね。
 大学を出たあとは、牧師になるために神学校に入ったんですが、ここは講義が英語でね。英語はちんぷんかんぷんで、わかるのは聖人の名前くらいだったもので、困ってしまって、1年が終わったところで校長に相談しました。校長は「牧師になるだけが神に仕える方法ではない」と言ってくれて、中退することを認めてくれました。ただ、問題はスカラーシップをもらっていたことで、中部教区の司教邸に頭を下げに行きました。司教も「イエスさまにお願いしましょう」と祈ってくれまして、中退を了解してくれました。こういうとき、神さま仏さまはありがたいですね(笑)。
 しかし、中退して、さてどうするか。私は金儲けには向いてない。商売人と付き合うのは無理。だけど、牧師の家に生まれ育ったので、人と出会うことには慣れている。大学でも社会事業なんてけったいなものを勉強した。それで、児童福祉の仕事を考えたんです。ちょうど大阪矯正管区で教官の採用試験があると聞いて受験しました。しかし、発表がなかなか出ない。結果が出るまで10カ月ほどかかったんです。後から聞いたところでは、法務省関係では、身元調査があるそうです。それで待たされていたわけです。
 それで、法務教官になって、1955年に初等少年院(現在の第一種少年院)、神戸再度山学院で勤め始めました。


●少年院と鑑別所で

貴戸 少年院では、どんな関わりだったのでしょう。

竹渕 基本は刑務所の看守と同じです。夜勤もあって、夜9時から翌朝6時まで9時間、寝ずの番をする。巡回していて音がしたら、壁に穴を空けてないか、悪いことをしていないか確認する。神戸だから山口組とかの影響もあって、ごっつい子もいました。
 その後、1年足らずで大阪少年鑑別所に転勤しました。鑑別所は大人で言うところの未決です。そこでも、盗みや殺しを自慢するように話している連中がいっぱいいました。1950年代半ばで、まだ世情も不安定でしたしね。少年が暴れたりすると、力ずくで抑え込む。「介護」と言うんですが、がんじがらめにして身体拘束する。「トンコ」=遁走されたら、24時間以内に連れ戻さないといけない。事故発生から24時間以内だったら裁判所を通さないでいいですからね。
 しかし、私は柔道も剣道もやっていなかったんで、そういう仕事には向いてなかったんです。鑑別所には独居房と雑居房があるんですが、私はもっぱら独居房で少年の話を聴く担当でした。いまで言うカウンセリングのようなことです。とにかく話し相手になる。上司は「おまえの性格は、じっくり話をするのが向いているから」と言っていました。
 いずれにしても、大学で学んだ福祉の知識や、教会のアーメンソーメンの世界とは、まったくちがう世界でした。そこで、現実の世界で人とぶつかる厳しさを学んだと思います。いまにして思えば、いい経験だったと思います。

山下 鑑別所では、少年からどういう話を聴いておられたんですか?

竹渕 たいがいは武勇伝のような話で、反省した話なんかまったく出てきません。家庭裁判所の審判にも付き合いましたが、連中は少年と言ったって、すれっからしですからね。審判でも、家裁の裁判官の前ではぺこぺこして、いかにして印象よくするか、保護観察を引き出すかを探っている。しかし、少年院送致が決定するとガラッと態度が変わる。


●魔法がかかった登校拒否?

山下 少年院や鑑別所で出会った子どもたちと、その後、情短施設で出会った子どもは、まったくちがったわけですね。

竹渕 ぜんぜんちがいましたね。それまで少年院や鑑別所で付き合ってきたのは、手癖足癖の悪い、けったいな連中でしたからね。大阪市立児童院(情短施設)で出会った子たちとのギャップは大きくて、すごくとまどいました。
 いちばん最初に出会ったのは、小学校5年生の、登校拒否の女の子でした。ベレー帽をかぶって、あいさつも礼儀正しくて、どこかのお嬢さんという感じでね。身体的にも異常はなくて、勉強も好きなのに、朝になると、どうしても起きられなくて学校に行けないという。当時は、魔法がかかったとしか思えなかったです。
 彼女は、その後、劇団に入って、劇団で出会った人と結婚しました。何年かして会ったときには、子どもも産まれていて、その子にも会いました。ただ、本来、僕らの仕事は施設内だけの関係で、退所後は関わりを持ってはいけなかったんです。最初のころは、そのルールをやかましく言われてました。とくに心理屋=セラピストはうるさかったですね。現場のことは何もわからん口先人間です。しかし実際は、「その後」がすごく大事なんです。出会いは最初のスタートで、児童院にいるあいだはよくても、退所後にたいへんになることも多いですからね。アフターケアが必要だと職員のなかで話し合いを続けて、だんだん、それが理解されるようになっていきました。
 しかし、そのための手当が出るわけでも職員が配置されるわけでも、訪問する交通費が出るわけでもなかった。すべて手弁当でやっていました。それでも、出会い続けていくことが大事だと思っていました。

貴戸 訪問されていたんですか。

竹渕 そうです。幸か不幸か、その当時、うちのカミさんが児童相談所のケースワーカーだったんでね。そちらを通して情報をもらって、訪問していました。うちは子どもがいなかったこともあって、家でも人さんの子どもの話ばかりで、どっぷり生活ぐるみで関わってました。


●どろくさい生活のなかで見えること

山下 情短の入所期間は、開設当初は3〜6カ月だったんですよね。

竹渕 そうですね。最初は文字通りの短期入所でした。しかし、実際には、そんな短期間ではどうにもならない。というよりも、短期では猫をかぶっているだけで、いわば「仮性適応」なんですね。早く退所するためにいい子をしている。それでよくなるわけがない。そういうことが職員の側もわかってきて、だんだん長くなっていきました。今日、ここに来ている人たちも、1年以上は入所していたと思います。

貴戸 現場の職員のなかで、認識を変えていくチームワークがあったのでしょうか。

竹渕 チームワークと言えば聞こえはいいけど、現場の人と心理屋=セラピストでは見方がちがうのでね。緊張関係がありました。心理屋はまったく現場がわかってないし、担当者によって見方がまったくちがうんですよ。心理屋の見方は、それなりのリクツはあるだろうけど、口先だけだと思ってました。実際の生活場面に付き合う児童指導員は、どろくさいところで関わっているわけです。心理屋は距離を置いて見ている。そのくいちがいがありました。でも、ちょっと考えてみたらわかると思いますが、少年審判で、少年が裁判官の前でいい顔するのといっしょで、心理屋の前の顔と生活での顔はちがうんです。ですから、職員は経験を積むのが大事だと思います。年数をかけて、ようやく実際のところが見えてくるんです。

山下 実際、最初の登校拒否の子のほかに、どんな子がいたんでしょうか。

竹渕 それは、ここに来ているみなさんに聴いたほうがいいでしょう。


●入所者から見た情短施設

・児島一裕さん

児島 1966年、小学校5年生のときに入所して、1年10カ月いました。
 当時、ゆでたまごが食べられなくて、学校に恐怖感を覚えるようになったんです。僕は天真爛漫なところがあって、好き嫌いがハッキリしていたんですが、ダントツできらいだったのが、ゆでたまごでした。でも、給食で出るでしょう。4年生までは、母親が先生に声をかけてくれて、食べなくてもいいことになっていたんです。ところが、5年生の先生は厳しくて、手もあげる人でね。無理やり食べさせられたんです。そうすると恐怖心が生まれて、学校に行くたびに、給食にゆでたまごが出るかもしれないと思うだけで、固まってしまう。でも、そうなったら、ちゃんと病気が助けてくれたんです。熱が出て、お腹も痛くなる。仮病じゃなくて、ほんとうにそうなってしまうんです。ただ、途中からは温度計をお湯に入れてごまかしてましたけどね(笑)。
 そうこうしているうちに、おふくろが心配して、僕を病院や児童相談所に連れて行くようになって、児童院に入所することになったんです。ほんとうは岡山の情短施設に行くはずだったんですが、担当した先生が大阪の児童院を勧めてくれて、大阪市立児童院へ行くことになりました。
 入所してからは、一方ではいじめもひどかったし、先生も厳しかったし、ルールもうるさかったし、たいへんだったんですが、あそこで自分にもどったように思います。なぜかと言えば、自分の時間があって、思いきり遊べたからだと思います。その後、まさか自分が日本で最初のフリースクール(*2)をつくることになるとは思ってなかったですが、児童院での経験が原点にあります。あそこに行っていなかったら、まちがいなくフリースクールは始めてなかったです。

山下 竹渕先生に連絡をとって、まさか児島さんに出会うとは思ってませんでした。児島さんのお話は、あらためてインタビューさせていただきたいと思ってます。

貴戸 児島さんから見て、当時の竹渕先生は、どんな感じだったんでしょう。

児島 恐ろしかった(笑)。竹渕先生は覚えてるかわからないけど、面接のとき、竹渕先生は僕のことを「好きじゃないタイプの子だ」と言われたんですね。それは正直だなと思いました。児童院では、上っ面の関係ではなくて、みんな素で、裸で生きていた。思ったことをバンバン言う。だから、よかったんだと思います。ほんとうに安心できる、家族みたいな関係ですね。竹渕先生は、そういう空気をつくっていたんだと思います。おかしいと思うときは、ハッキリおかしいと言う。だから、けじめもついた。それと、いろんなことが体験できたのがよかったですね。
 僕にとっては児童院は運命的な場所です。竹渕先生とも当初は犬猿の仲だったのが、ずっと長い付き合いになりました。いまでも、毎月1回、集まってますからね。ほんとうに長い、親密な関係で、宝物みたいに思っています。

・Aさん(男性)

A 私の場合、自分が幼稚園のときに母親が亡くなって、父親と二人暮らしをしていたんです。児童院にお世話になったのは、小学校4年生から5年生いっぱいにかけてです(1972年〜1974年3月)。
 朝になると、学校に行けない状態が続いていて、父親も仕事があるから困るし、学校の先生が児童相談所の方と知り合いだったみたいで、「いっぺん考えてみよう」となったようです。児童相談所の一時保護所に1カ月ほどいて、児童院に入所することになりました。児童院では、いじめもあったし、グループが分かれて対立したり、いろいろありましたけど、いろんなことを経験させてもらいましたし、私にとっては楽しい生活でした。退所してからも、また行きたいなと思ってたぐらいです。退所後も、折々に竹渕先生と会って、近況報告させてもらったりしてきました。

山下 学校に行けなくなったときのことを、もう少し聴かせていただけますか。

A 不思議ですよ、ほんまに。毎朝、「行かなあかんな」とは思うんですけど、足が向かない。自分でも、なんでかわからない。それは、いまだにわかりません。友だちが迎えに来てくれても、玄関から一歩が出ない。これは、実際になってみないとわからないと思います。私だけではなくて、児童院に来ていた人のなかには、同じことを言う方もおられましたね。

山下 児童院は学校とはちがったんでしょうか?

A 月曜日から土曜日のお昼までのあいだ、朝から晩まで生活がいっしょでしょう。その間、卓球やったりボウリングしたり、屋上で野球したり、私は兄弟がいなかったので、兄弟ができたようで、あたたかみがあって、児童院で生活を味わえたように思います。週末は家に帰るんですが、もうひとつの家族という感じでしたね。

山下 情短で生活しながら分校に通っていたわけですよね。でも、そこは登校拒否はしなかったんでしょうか。

A いやあ、分校は階下にあったからね。3階に住んでて、1階が教室だから、そこに行かないと、よけい大変だから(笑)。

貴戸 竹渕先生は、どんな感じでしたか?

A いや、怖かったですよ。もっと怖い女性の職員もおられましたけど(笑)。でも、振り返ってみると、楽しかったです。だから、いまでも集まってるんだと思います。もちろん、お誘いしてもここに足の向かない方もいらっしゃいますから、あくまで私にとっては、ということですが。

山下 中学校は行かれたんでしょうか。また、児童院での経験が、その後に活きたという感じはありますでしょうか。

A 中学校は行って、中卒後は働いてきました。それまでは引っ込み思案で、これでも無口でしてん(笑)。ところが、学校ぎらいだった私が、いまでも学校や地域の行事には、できるだけお手伝いに行っております。そういう面ではよかったと思いますね。

・森脇涼美さん

森脇 私は、小学校1年生から、ほとんど学校に行ってなかったんですね。はじめは幼稚園のときに風邪で休んで、テレビがおもしろかったんで、そのまま見たくて休み始めたんです。でも、だんだん、行きたくても行けなくなって、ときどき行っても、へとへとに疲れて「ああ、しんど」となって、ほとんど行かなくなりました。小学校の勉強も、ぜんぶ親に教えてもらってました。父が校長先生に「今年こそはがんばって行かせるようにしますから」と言ってくれて、進級はできていたんですが。6年生になっても行けなくて、「このままでは卒業させられない」と言われて、中1になる年の1年間、児童院に入っていました。入っていた時期は、児島さんと同時期ですね。児童院は楽しかったので、もっと早いうちに入れてくれたらよかったのにと思いました。女の子は人数が少なかったんですけど、毎日、みんなで遊んでいて楽しかったです。

山下 児童院を出たあと、中学校には行ったんですか?

森脇 1年遅れて中学に入ったんですけど、1年生だけ行って、2年生の1学期に、また行けなくなったんです。それで夏休みに、また児童相談所の一時保護所に入れられたんです。そのときには竹渕先生も心配して手紙をたくさんくださって、文通させてもらっていました。もう児童相談所に入れられるのはイヤだなと懲りて、その後は行くようになりました。

貴戸 竹渕先生とは、お手紙でやりとりされてたんですね。

森脇 竹渕先生は、私にとって第二の親で、いつも見守ってくれている人です。大学受験のときに浪人したときも、「おいしいものを食べさせてあげよう」と励ましてもらいました。

・Bさん(女性)

B 私の場合は、登校拒否ではなかったんです。なんで入れられたのかは、いまでもよくわからないです。半世紀も前のことですし、ハッキリとは覚えてないですけど、いつも人に対してきつく当たっていたせいかなと思います。
 私が小学校2年生のころ、両親が別居し始めて、母親は勤めるために、私と弟二人を義兄夫婦にあずけたんです。僻地で、まわりでは登校拒否の人なんて見たことも聞いたこともなかったです。私も、学校には絶対に行きたくなかったんですけど、親戚にあずかってもらっていたこともあって、いい子をしていたんだと思います。学校には行くものの、授業だとか、先生の言うことはまったく聞いてませんでした。ぜんぜん勉強はしてなくて、ただ行っているだけの状態でした。
 集団登校で、1年生〜6年生までいっしょに行くんですが、私は下級生に対して厳しい言葉をぶつけてたんですね。どんなことを言っていたかは覚えてないですけど、イヤミを言っていたんだと思います。それが原因だったのか、5年生のときに児童院に入れられました。児童院で起こったことは、断片的にしか覚えてないです。きっと楽しかったからだと思います。

山下 大事な場だったと思うから、いまでも、この会に来られているわけですね。

B そうですね。でも、ずっと年賀状ぐらいだったんです。10年ほど前から参加するようになって、そのあいだは、ぽかっと抜けています。


●親元から離されることは

山下 みなさんにうかがいたいんですが、小学生の年齢で、親元から離されて施設に入れられるというのは、ショックなことだったのではないでしょうか。

児島 僕の場合は、児童院に入る前、児童相談所(一時保護所)に2カ月ほどいたんです。そのときも、わりとすうっと行ったんですが、母親と離れることは、ものすごくさびしかったです。2カ月ほどして、やっと帰れると思ったら、帰って3日後くらいに「児童院に行って」と言われて、そのときは、ずっと母親の後ろにひっついていました。でも、実際に行くときは、わりとあっさりと「バイバイ」と言ったのは覚えてます。
 その後、地獄のようないじめがあったので、家に帰りたくなったんですけど、自分の意志で帰ることはできなかったですからね。
 でも、そのうち、不思議なことに自分がそこのボスになっていったんです。僕をいじめていた子が何人かいたんですね。僕はサッカーが得意で、思った通りのところにボールを蹴ることができたんです。それで「このままだと殺される。やっつけるしかない」と思って、ゲーム中、ボールを彼らの顔面に当てたんです。誰もわざとだとはわからないけど、あてられた当人にはわかる。彼らには、3階から下に降りるところで待ち伏せされていて「殺したるぞ」と言われていました。怖くて、僕は女の先生の後ろについてまわってました。ところが、あるとき手を出してきて、「おまえも仲間に入れてやる」と。そこで、やっといじめが止まったんです。
 そのころ、洗い場で顔を洗ってたら、僕より年下の子が来て「おまえ、ここのボスになると思うぞ」「だけど、人をいじめたら、おまえもいじめられるで」と言って、どこかに行ってしまったんです。なぜかはわからないんですが、その言葉はすごく残りました。そうこうしているうちに、あっというまに自分が児童院の中心になったんです。みんな暇そうにしていて、僕は遊びを提供するのが大好きだったんで、いろんな遊びを考え出しては、提案していっしょにやってました。

山下 まさに、その後の原点になったわけですね。親元から離れるのはさびしかったということですが、見捨てられたような感じはなかったんでしょうか。

児島 それはなかったですね。そのうち児童院が自分の居場所になって、6年生に入ったら、土日も家に帰りたくなかったほどです。週末でも、先生に頼んで残らせてもらったこともありました。卒業が近づくと、ここを出ないといけないと思うとさびしくて、なるべく帰らないようにしてました。


●人生で一番の大暴れ

A 最初、児童相談所に連れていかれたときは、大暴れして、職員3〜4人がかりで押さえ込まれました。私は身体が大きくて、5年生当時で70キロはありましたからね。押さえるほうもたいへんやったと思います。父親と二人で生活していて、何も聞いてないのに、突然、なんでこんなところに入れられるんだろうと思いました。あのときは、人生で一番暴れたと思います。ベルト通しがとれましたからね。
 それで、1カ月ほど一時保護所に入れられていて、児童院に移るとき、竹渕先生が迎えに来られて、「ほら、向こう行くで」と言うんで、「どこ行くんですか?」って聞いたら、「隣や」って。それを聞いて「いまからここで生活せなあかんねやな」と思って、観念しました。その後は、逃げ出すようなことはなかったですけど、1回だけ、先生にお迎えに来られたことがありましたね。週末に家に帰って、週明けに行かなかったので。それからは、おとなしくしてました。

山下 おとなしくしてれば帰れるという思いはあったんでしょうか?

A 多少はね。だけど、むしろ割り切って、ここに溶け込んでいこうと思ってました。いじめもあったし、いろいろありましたけど、だんだん、居場所になっていきましたから。そのうち、上の年齢の人は出て行くし、こっちが長いことおるから、居心地もよくなるでしょう。

森脇 私も、最初、児童相談所に運ばれたときは暴れまくって、車の中で押さえ込まれて、車の窓から空を見上げながら、「私、どこに連れていかれるんやろう」と思ってたのを覚えてます。児童相談所に着いて、抱え込まれたまま部屋に運ばれて。それがすごくショックでした。でも、児童院に行くときは、そうでもなくて、すんなりと行きました。
 児童相談所に連れていかれるまでは、ずっと家の中でひとりで本を読んだり、猫と遊んで、平和に暮らしていたんです。平日は家にいて、週末は外で元気に遊んでいたんです。それが、あるとき急に、私の部屋に知らない人が入ってきて、連れていかれたのはショックでした。

山下 親への恨みはなかったですか。

森脇 それはなかったですね。その後が楽しかったからかもしれないです。楽しくなかったら、親を恨んでるかもしれません。あのとき、人生で最初で最後、365日、日記をつけたんです。そのときだけです。竹渕先生が日記の担当で、いつもコメントを書いてくださるのが楽しみでした。私は「女の先生がいいから代わってほしい」と頼んだんですけど、先生は「女の子が好きだからダメだ」と言って、代わってくれませんでした(笑)。

B 私の場合は、児童相談所に連れていかれて、1泊したと思います。突然ではなくて、数日前から聞かされていたと思います。でも、「こんなところに連れていかれるんやから、私はよっぽど変わってるんや」と思ってました。最初は姫路で、しばらく経ってから、大阪のほうに連れてこられました。すでに、親戚の家にあずけられた時点で、母親と別れる経験はしてたので、そういうショックはなかったです。でも、いまでもドラマで母親と別れるシーンなんかを見ると、ものすごく涙が出てきますね。気持ちがわかるので。


●情緒障害という名前は?

山下 みなさんは、当時、自分が「情緒障害」だと聞かされていたんでしょうか?

児島 そういう言葉は聞いてないです。

A 私も聞いてないですね。

森脇 自分がおかしいとは、まったく思ってなかったです。自分はふつうやと思ってました。

B なんで私だけ、こんなところに連れてかれるんやろうと思って、それは自分がおかしいからだと思ってました。でも、情緒障害とは聞いてなかったです。

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貴戸 竹渕先生にお話を戻したいと思いますが、何人ぐらいの子と関わったんでしょう。

竹渕 27年間で500人くらいになりますね。とにかく、わけのわからん子たちと出会って、過ごしてきたということです。自分から辞めようと思ったことはありません。大阪市には定年があるから、それで区切りがついただけです。まあ、きざな言い方だけど、勤め上げたということです。
 情短施設で、ずっと児童指導員として続ける人はめずらしいそうです。どろくさい児童指導員として、わけのわからん子どもを相手にしてね。心理屋は華麗に転身しますけど、情短施設では、その心理屋が一番えらいことになってました。そして、児童指導員は一番下にみなされてたんです。生活指導なんてのは、寝かして、ご飯食べさせて、それだけだという見方ですね。「小間使い」と言われることまでありました。でも、僕は生活指導というのは、生活を支えているわけですから、一番大事なことだと思っています。心理屋は当たるも八卦、当たらぬも八卦で、ケースカンファレンスだとか、えらそうに言うけど、現実を見てない。僕らのように、現実を見ている職員がいたから、児島みたいなワルがいられたんです(笑)。

山下 お話をうかがっていると、「情緒障害」というのは、現場では関係なかったようですね。

竹渕 まったく関係なかったですね。それは、僕がもともと法務教官の経験があって、それがベースになってたからかもしれないです。それは、よかったと思います。

貴戸 その人をトータルに人間として見てこられたんですね。


●セラピーや医療の実際は?

山下 セラピーは、みなさん受けてたんでしょうか?

児島 みんな受けてたんちゃう。1週間に1回、セラピーの時間がありましたね。

A 箱庭療法とか、木の絵を描いたりね。あんまり印象深くはないですけど、そんな感じでしたね。

山下 医者とのつながりは、どうだったんでしょう。

竹渕 僕は直接は関係してなかったです。セラピストはそれぞれの病院と関係してたでしょうけれど。

山下 みなさんは医者にかかることはあったんでしょうか?

一同 なかったですね。

竹渕 所長は精神科医だったですし、精神科の医者も非常勤で来ていましたけど、基本的には医療行為はなかったです。

貴戸 親のネットワークはあったんでしょうか?

竹渕 最初は親も定期的に来て会を開くとかしていたんですが、だんだん養護施設的な感じになっていったので、難しかったですね。親担当の職員がいるわけでもなかったですし。

貴戸 定員は何人ぐらいで、児童指導員は何人ぐらいいたんでしょう?

竹渕 児童指導員の職種でおったのは、男は僕以外にもうひとり。女性は、保母として何人かいましたね。

森脇 私の記憶では先生(児童指導員)は5人で、男の先生2人と女の先生3人でした。

児島 僕の記憶では、入所していた子どもの数は28人だったと思います。


●出会ってしまったから

山下 情短施設には、登校拒否の子だけではなくて、場面緘黙とか自閉症とか、いろんな子がいたわけですよね。情緒障害と簡単にくくることができない。そういういろんな子たちと、ごちゃごちゃといっしょに、もみ合いながら生活してきたということだったわけですね。

竹渕 そうです。児童相談所の措置として入ってくるから、児相では心理判定はするけど、実際のところは関係なかったです。

山下 生活をともにされてきた。だからこそ、入院期間だけの関係では切れなかったわけですね。それを手弁当でやってきたと。

竹渕 なんか知らんけど、出会ってしまったから、やってきたということです。僕らには子どももいなかったし、それが楽しみでもあったからね。
 逆に、貴戸先生に聞きたいんですが、不登校や情短施設に、どういう関心があったんでしょう。

貴戸 私も、小学校6年間、学校に行ってなかったんですね。私は、学校にぶら下がってるレモン色の石けんがきらいだったんです。あれが廊下の洗い場のステンレスにずらっと並んでいて、子どもたちがいっせいに教室から出てきて手を洗う……自分がそのなかの一人になるとは思えなかった。あと、給食のピーナッツバターがイヤだったとか、ストーブ近くの席で身体の片方だけが熱くなるのがイヤだったとか、そういう細かいところから、「あ、無理」という感じがあって、行かなくなったんです。

児島 かなり自分を持ってはったんやな。

貴戸 いやいや、自分の意志を持ってというより、ふとんをかぶって、動かなかったという感じだったもので。

児島 でも、それはかなり意志を持ってないと、できないことだと思います

貴戸 そうかもしれません。私が学校に行かなくなったのは80年代半ばで、いろいろ施設を紹介されたものの、どこにも行けなくて、家でずっと本を読んでました。

竹渕 それが許されたんですね。

貴戸 そうですね。母は東京シューレを中心とした不登校運動のつながりのなかで、不登校を認めていこうとしていました。そういう経験のなかで、学校って何なのだろうという問いをずっと持ってきたんですね。精神科医の本などを読んでも、不登校を病気とみるまなざしは受けいれられない。社会学の不登校研究は大きな問題になってしまって、自分の経験からは遠い。そこで、いろんな人の不登校経験の語りのなかで、その人にとって不登校はどういう経験だったかを見ていきたいと思って修士論文を書いたのが、研究者としてのスタートでした。ですから、今日はみなさんのお話をうかがえて、すごくよかったです。竹渕先生、みなさん、今日はありがとうございました。

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*1 イングランド国教会の系統に属するキリスト教の教派のひとつ。カトリックとプロテスタントの中間と位置づけられている。

*2 1985年10月、児島一裕さんは兵庫県高砂市で「地球学校」を開設された。
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