2017年06月09日

#19 堂本暁子さん

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(どうもと・あきこ)
1932年アメリカ合衆国カリフォルニア州生まれ。東京女子大学文学部卒業後、1959年、TBSに入社。記者・ディレクターとして、教育、福祉、ODA問題はじめ、チベットや北極への取材、日本女性マナスル登山隊同行取材など、報道番組やニュース番組の制作に携わる。1989年より2001年まで参議院議員、2001年より2009年まで千葉県知事を2期務めた。著書に『生物多様性』(岩波書店1995)、『堂本暁子と考える医療革命』(中央法規出版2009)『生物多様性―リオからなごや「COP10」、そして…』(ゆいぽおと2010)など多数。

インタビュー日時:2017年4月6日
聞き手:奥地圭子、木村砂織
場 所:堂本暁子さんご自宅
写真撮影:木村砂織
記事公開日:2017年6月9日
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〈テキスト本文〉

奥地 おひさしぶりです。今日は不登校について、いろいろお聞きしたいと思います。

堂本 私が奥地さんとお会いしたのは、82年か83年だったと思います。どういう経緯だったかは覚えてませんが、水道橋の交差点で「それじゃあ、またね」って言った景色はよく覚えてます。

奥地 水道橋で集会をやったので、そのときに来てくださっていたんですね。

堂本 私がTBSにいたころです。奥地さんに会わなかったら、私は、あんなに登校拒否の子どもの取材をして、番組をつくることはなかったと思います。おたがいに何か相乗効果があったんでしょうね。
 今日、お話しすることを整理しようとメモをつくったんですが、テーマとしては5つほどになりました。まず印象に残っているのは、奥地さんの3人のお子さんについてです。長男さんは、いま、どうされてるのですか?

奥地 いまは科学者です。京都大学を卒業して、東工大の大学院に行って、いまは地球物質科学系の研究所にいます。

堂本 そうですか。 2番目は、渡辺位先生(児童精神科医/1925―2009)のことですね。すごく大きな影響を受けました。3番目は、私が取材した登校拒否の子どもたち。4番目が、国会議員になってから出会った子どもたちです。いまでも覚えているけれど、文教委員会(当時)に東京シューレの子どもたちが傍聴に来てくれたでしょう。子どもたち自身が実際に国会審議を傍聴し、議員に要望して、自分たちの通学定期が使えるようになった(*1)。それは、すごく大きな経験だったろうと思うんです。5番目は、私が千葉県知事になって、県のモデルスクールをつくったりしたことです。

奥地 千葉県の「菜の花スクールモデル事業」で、無料で県の施設を貸してくださいましたね。

堂本 でもね、そのあたりは少ししか覚えてないのです。県のことは、たくさん、いろいろなことをやりましたからね。

奥地 そうですよね。では、その5点を中心に聞くとして、まずは、ご自身のことからうかがいたいのですが。

●奔放に育った少女時代

堂本 私は、1932年、アメリカで生まれました。戦前に帰国して、最初は聖心女子学院の語学校へ行くんだけど、そこでは英語ばかり使っているので、親が心配して、青山にあった啓明学園という帰国子女の学校に移りました。この学校に行ったおかげで、私は、いじめとか不登校ということに、比較的無縁で過ごせた気がします。啓明学園では、隣の席にオノ・ヨーコ(小野洋子)がいたのよ。

奥地 そうなんですか。学友なんですか。

堂本 戦争で、じきに別れちゃったけど、小学校4年ぐらいまで、いっしょでしたね。もうひとり、女の子では川島陽子がいて、この方は超優秀な人で、日本で最初の国連職員になって、30代で慶応大学経済学の教授になりました。ほかに男の子が3人いて、全員で6人しかいないクラスだったので、授業も、ほとんど個人教授でした。

奥地 よく、そんな学校がありましたね。

堂本 1940年に、三井家の三井高維さんが、自分の子どものために創った学校で、私も設立当初に入ったんです。三井家ですから、お金はいくらでもあって、成蹊学園から先生たちをリクルートしてきてね。いまの高橋是清翁記念公園(港区赤坂)のところにあった三井さんの自宅を開放したんですが、広い芝生のお庭でね。栗山重先生の自然観察の授業は、いまでも忘れられないですね。絵の先生も、画家の方が来られていたり。

奥地 超一流の人たちに育てられたんですね。

堂本 ええ。しかも個人授業に近い。みんな帰国子女でレベルもちがいましたし、6人でしたから、一人ひとり、ていねいに教えてくれた。そういう学校だったので、奔放に過ごすことができました。普通の小学校に行っていたら、いじめに遭っていたかもしれません。当時は「鬼畜米英」という時代で、非国民にされてしまいますから、必死になって英語を忘れないといけない、というような時代でしたからね。

奥地 『窓際のトットちゃん』(*2)みたいですね。

堂本 そうそう、同じ。あれを読むと、なんか自分のことが書いてあるような気がします。でも、だんだん戦争が激しくなってきて、1945年3月10日の空襲で自宅も啓明学園も焼けちゃったんです。私たちは、その前に集団疎開していたんです。

奥地 私も、集団疎開の経験があります。東京大空襲も経験しました。

堂本 東京大空襲のときは、ずうっと火の海が見えていました。集団疎開した先は、拝島にあった三井さんの別荘でね。立川の陸軍の飛行場のすぐ近くだったから、そこにも毎日空襲があったの。すごかった。近くに爆弾が落ちて、生きているほうが不思議なぐらいの感じでした。
 でも、逆説的ですけど、よかったことは、戦争中だったので、あんまりかっちり勉強しろと言われることがなかったんです。その後、信州に疎開するんですが、学校が焼けちゃったから転校証明をもらえてなくて、軽井沢の小学校には入れてもらえなかったんです。そうしたら、もう本当に自由な毎日。1年ぐらいは学校にも通わず、母が貸本屋から借りてきた本を読んだり、数学と絵の先生に、算数と絵を教えてもらったりしていました。勉強らしいことは、それだけで、あとは田舎の子と遊ぶ毎日でした。

奥地 ホームスクーリングですね。

堂本 そう、ホームスクーリング。ですから、不登校の子に出会うたびに思ったのは、私も、ちがう時代に生まれていれば、この子たちの仲間だったにちがいない、ということです。私も、あまり人と合わせることが得意じゃなかったんです。
 戦時中は、兵隊さんが来て教練をやらされたり、そういう全体主義的なことはあったけど、いまのように勉強でガチガチ、偏差値教育なんてことは皆無でしたからね。子どものことなんて、ほったらかしだった。いわば野生動物みたいなもので、奔放に育っちゃった。だからね、実力はないんです。何にも教育を受けてないから(笑)。

奥地 国会議員をやって、知事をやって、充分に社会で活躍されてるじゃないですか。

堂本 何にも勉強しなくても、国会議員はできるし、県知事ぐらいはできますよ。私なんて、小学校の勉強もまともにしてません。終戦後、1945年から中学校に行きましたが、その3年間も啓明学園で個人的な授業だったから、1年生でも、できる子はどんどん2年生や3年生の教科書を使っちゃうような、そういうやり方だったの。だから、好きなように伸びた。でも、そのほうがいい教育だったのだと思います。
 小学校でも中学校でも、毎日、日記を書かせていて、それを先生が読んで、かならず感想を書いて返してくれる。だから、ほんとうは文章力がつくはずなんだけど、私はつかなかった。一番困ったのは、そこなんですよ。小さいころにアメリカで生まれ育ったものだから、日本語を忘れて英語だけになっていたんです。ところが日本に帰国したら、戦争が始まり英語は忘れなさいと言われる。青山に憲兵隊があって、「英語を話すと、あそこに捕まるよ」とか言われてね。ですから、一生懸命、英語を忘れたんです。でも、そうすると言語混乱が起きるの。私は混乱して、それがいまだに影響しています。後に、帰国子女のことを取材してわかったんですが、言語というのは、10歳までは母国語をきちんと教えなければいけないんです。フランスは、その方法なんですよ。10歳まで、きちんとフランス語を教えて、そこから先は何語を教えてもいい。

奥地 でも、いまは小学校から英語を必修にするという動きがありますね。

堂本 それは、私の経験から言うと、まちがってます。帰国子女で、私みたいに言語混乱を起こしている子はいっぱいいます。そういう子たちの何割かは、不登校になってます。私が取材したところでは、日本の大学にもアメリカの大学にも入れない子たちが、けっこういました。結局、どっちつかずになっているということです。私も、言語混乱はずっと引きずっていて、みなさんは「日本語も英語も下手じゃない」と言ってくれるんだけど、本人は、すごく言語劣等感を持っているんです。


●私の教育は「どさくさ」

奥地 中学卒業後は、どうされたんでしょう。

堂本 東京の自宅は焼けてしまったので、神奈川県に引っ越して、清泉女学院高校に行きました。そこで初めて、大人数のクラスに入ったんですね。カトリックの学校ですけれども、これがまた幸せなことに、1期生だったんです。ちょうど、そのときに学制改革で旧制一高(現在の東京大学教養学部)が閉じたんですよ。それで、一高から清泉に雇用された先生がかなりいたんです。私たちは大学の先生に高校1年から教わったの。だから、授業はとてもおもしろかった。

奥地 恵まれていたんですね。

堂本 ものすごく恵まれていました。国語は言語学者の大野晋さん、英語はケンブリッジを出たイギリス人の先生で、科学は津田栄さん、物理は竹内潔さん、東洋史は三上次男さん。日本史は亀井勝一郎さん。みんな一高の先生を引っ張ってきていました。

奥地 どさくさがよかったのかもしれないですね。

堂本 そうなの。私の教育はぜんぶ、どさくさです(笑)。受験勉強らしい勉強はしなくて、いきなり中学から大学に入ったという感じでした。

奥地 そのなかで、堂本さんが興味を持った分野は何ですか?

堂本 生物でした。なぜかというと、言語混乱の人だったからです。英語も国語もみんなきらいでした。数学は、ぜんぜん試験勉強しなくても、いつも100点で、科学が好きだったのと、とくに生物の授業は、先生が大学でご自分のやっている研究を持ってきて話してくれるので、とってもおもしろかったんです。それで、ほんとうは北海道大学に行って生物学を学びたかったんですけど、母に「北海道なんて行かないでくれ」と反対されて、結局は東京女子大に行きました。でも、つまらなくてね。大学の4年間は山登りに夢中になっていました。だから、いまの制度で受験しろと言われたら、私なんて、どの学校も受からなかったと思います。受験勉強なんて、まったくしないまま、私は通ってきたの。

奥地 それは、幸いだったかもしれないですね。やみくもに覚えて吐き出すみたいなね。

堂本 そう、記憶力は悪いし、もし、時代が10年ずれていたら、私は、相当苦労したと思います。母は絵描きで、あんまり価値観を押しつけない親だったのも幸せだったと思います。この絵も母が描いたものです(写真)。
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奥地 いきいきとした絵ですね。

堂本 油絵です。昔の帝展に入るくらい、ちゃんと描いていたの。でも、私が描く絵について、「こうしたほうがいい」なんて、まったく言わない。自由でした。私には、こういう絵は絶対に描けないですね。彼女は几帳面な絵を描くんですが、私は奔放な絵しか描けない。それから、本なんかも、借りてきてくれましたけど、けっして押しつけることはなかったんですね。それも幸いだったと思うの。
 それと、ちょうど戦争が始まる直前に、父がアメリカに行ってしまったんです。だから、母ひとり子どもひとりになっちゃった。

奥地 そうやって奔放に自由に育って、大学へ行ったけれども、つまらないから山登りばかりしていたわけですね(笑)。


●TBSの記者に

堂本 それで、一番困ったのは就職先です。当時、女性には就職先がなかったの。雇用機会均等法なんてない時代ですからね。どこを見ても就職するのは男ばっかり。

奥地 女は家庭で男に仕えるみたいな感じでしたよね。

堂本 そうそう。奨学金があったから大学は出られたけど、そこから先は、生活のために働かなくてはならない。だけど、ほんとうは大学院に進みたかったんです。中根千枝さん(社会人類学者)のチベットの本を読んで、文化人類学を研究したかったんです。だけど、どうしても働かなくてはならないので、最初は学校の食堂の皿洗いから始めました。アメリカ大使館の求人もあったんですが、タイプライターで80ワード以上打てることが条件というので、習いに行っているあいだに、ほかの人が採用されてしまいました。その後、女子大の先輩の紹介で、USIS(United States Information Service)というアメリカ大使館の外郭団体で経理の仕事に就きました。ちょうどそのころ、USISで、日本向けのアメリカの宣伝放送みたいなことをやりだしたのね。気がついたら、その手伝いとして、ラジオのディレクターみたいなことをしていました。そうすると、毎日、新聞を読まなければならないし、いろいろやりました。
 そのころ、TBSが婦人ニュースを始めるというので、女性キャスターを探していたんです。なぜか女子大ばかり探しに行っていてね。それで、先生の紹介で、私と私の親友の名前があがって、でも、友だちのほうは結婚して妊娠していたので、私に話がまわってきたんです。私は、あんまりテレビに興味がなかったんだけど……。

奥地 まだ、テレビが出始めたころですよね。

堂本 そう、テレビ局といっても、お給料さえ出るかどうかわからないという時代です。

奥地 当時、私は大学に入ったころで、お風呂屋さんに大きいテレビが置いてあって、洗面器抱えて、みんなでいっしょに見ていました。家にテレビなんてなかったですものね。

堂本 そうよね。それで、各大学から10人ぐらい候補者がいて、何度も試験はあったんですけど、仕事で毎日、すべての新聞を読んでいたのがよかったんでしょうね。時事問題の試験は100点だったと思います。断ろうと思ってTBSへの坂を登っていったところで「あなたに決めました」と言われたのを覚えてます。
 でも、私はどうしても文化人類学を研究したいと思っていたので、そのころは昼間は働きながら、夜は都立大の聴講生をしていて、TBSに入っても、しばらくは続けていました。でも、運悪く都立大の試験の日に、ソビエトのガガーリンが、初めての宇宙飛行に成功したんです。私は会社と大学のどっちに行こうかと思って、駅の赤い公衆電話から会社に電話をかけたら、「いま、どこにいるんだ。早く来なきゃダメじゃないか」と言われて、会社に行くことにしました。それで試験を受けられなくて、文化人類学は、あきらめたんです(笑)。でも、会社に入ってからも、チベットやミクロネシアをテーマにした、文化人類学的な番組をいっぱい制作して、学者並みに勉強して、チベット学会にも入っちゃった。生物のほうも、何冊も本を書いてます。学者じゃないくせにね。
 最初、TBSは「イヤだったら1年で辞めればいいや」と思っていたんですが、それから30年続いちゃったの(笑)。人生って、すごく不思議なもので、初めは「テレビなんか」と思っていたんだけど、母が絵を描いていたこともあって、やってみたら映像が好きだったんですね。私を紹介してくれた先生は、ジャーナリストに向いていると見抜いてくれていたんだと思います。自分で思っているよりも、人から見たほうがあたっていることってありますね。国会議員になるときもそうでした。ずっと断っていたんですけど、みんなが国会議員に向いているというので、やってみたら、3日でおもしろくなりました(笑)。ですから、県知事になったときは、みなさんが勧めるんなら、たぶん向いているのだろうと思って、あまり抵抗感なく、決心しちゃったんですね。

奥地 県知事は、何年なさいましたか?

堂本 2期、8年やりました。国会議員は12年、TBSは、ぴったり30年。だから、私の職歴はちょうど50年です。ジャーナリスト30年、政治家20年。そして政治家を辞めてから8年間は、市民活動をやってます。
 そのときどき、無我夢中で走ってきましたが、85年生きてみると、けっこうドラマチックな時代に生きたなと思います。それも、どこか外れてきたのがよかったのかなと思います。真ん中を生きていたら、とってもつらい時代だったと思います。

奥地 そういう時代だと、自分のほうが負けちゃうことってあると思いますけど、堂本さんはおもしろがって、どんどんやっていくという感じがありますね。

堂本 それは、ありますね。どの仕事でも共通して言えるのは、好奇心が強かったことですね。好奇心が強くなかったら、ジャーナリストでも政治家でも、おもしろいと思えなかったと思います。


●不登校と出会ったのは

奥地 不登校の話に戻りますが、学校に行っていない子に関心が向いたきっかけを教えてください。

堂本 それは、まったく覚えてないんです。水道橋で奥地さんに出会ったことからしか覚えてなくて、その前段はぜんぜん覚えてない。たぶん取材で出会ったということでしょうね。

奥地 そのころは、不登校になると、病院に行って薬漬けにされたり、あるいは戸塚ヨットスクールのような矯正施設に入れられたり、いずれにしても、施設に入れられて「治す」というようなことが多くありましたでしょう。堂本さんは、その取材をされていましたよね。

堂本 先にその関係を取材していたんですかね。でも、奥地さんのお子さんのことが、とても印象に残っているので、先にその話をしますとですね。ご長男が登校拒否になって、拒食症になられたという話をされて、渡辺位先生のところに行こうと思ったんだけど、何カ月も待たされて……。

奥地 3カ月待ったんです。

堂本 それで、やっと会えて、渡辺さんのところから帰ってきたご長男が最初に言った言葉が「お母さん、おにぎりが食べたい」だったって。もう、その話がすごく印象的でね。

奥地 よく、覚えてらっしゃいますね(笑)。

堂本 それから、ご長男は明星学園に行かれてましたでしょう。そのときも、学校に支配されるんじゃなくて、自分で授業を選択して、出たくない授業には出ないとおっしゃっていて、子どもというのは、苦労すると、そういうふうになるんだな、すごいなと思って、印象に残ってます。でも、その後どうされたかは知らなくて、あるとき私が京都大学に講演に行ったとき、帰り際にやってきた青年が「奥地です」と挨拶されてね。

奥地 京都大学の文化祭の実行委員長をやっていたんです。長男は大検(現在の高卒認定試験)で受験資格を取って、京都大学を受けて入ったんですが、みなさん、すごい受験競争をくぐって入ってきているので、「おまえ大検かよ」みたいな蔑視があったんですって。それがくやしくて、一念発起して文化祭の実行委員長になって、堂本さんを講演に呼びたいと思ったと言ってました。

堂本 そうだったんですね。それは初めて知りました。私は、誰かが呼んで、たまたまそこに奥地さんがいたんだとばかり思っていたんですが、逆さまだったんですね。

奥地 逆さまなんです。でも、それも小さなエピソードなのに、よく覚えていてくださったですね。


●旧陸軍病院と児童精神科

堂本 それから、渡辺位先生への取材ですね。渡辺先生のいらした国府台病院に取材に行ったんですが、強烈に印象に残っているのは、旧陸軍病院が残っていたことです。その隣に、児童精神科があったんです。両方とも格子の入った窓でね。それで、渡辺さんが入口のところで、旧陸軍病院のほうを指して、「こっちには戦争で精神障害になった人がいる。戦争がなければ、もしかしたらバイオリニストになったかもしれない、あるいは絵描きになったかもしれない、そういう繊細な神経を持った人たちが戦場で耐えられなくて、神経症になって帰ってきて、この中にいる」とおっしゃったんです。当時、白服を着た傷病兵がおられたんですね。そして次には児童精神科のほうを指して、「こっちには、受験戦争の犠牲になった子どもたちがいる」とおっしゃったの。「いずれも戦争の犠牲者で、片方は、自分が人を殺さなきゃならなかったり、それに自分の神経が耐えられなくて、神経が壊れちゃった人たち。片方は、受験戦争という戦争のなかで、壊されてきた子どもたち」だってね。
 それから、いろんな子どもたちに出会ったんです。ある中学1年生の女の子は、シャガールが好きな、おしゃまな子でね。話はとてもおもしろいし、詩も上手で、絵を描かせると、校庭の真ん中にカラスが叩きのめされた絵を描いたり、自分を象徴した絵を描くの。彼女がなぜ学校に行けなくなったかというと、担任が代わって、その先生に美術とか文学とかの感性を全否定されて、いわば自分が壊れちゃったのね。でも、すごくセンスのいい子どもでした。何度かラジオやテレビに出てもらって、自分の詩を詠んでもらったり、学校に行けなくなった話をしてもらいました。でも、その後、短大に入って「もう出ません。自分が不登校だったということとは縁を切ります」とおっしゃって、私もそれっきり縁がなくなってしまいました。その子のことは、いまでもよく覚えてます。ほかにも、渡辺先生のところで何人もの子どもに取材させてもらいました。私自身、渡辺先生に出会ったことで、いかに学校教育や偏差値教育がまちがっていて、そのために子どもたちがどんなに苦しんでいるかということが如実にわかったのね。彼があって、その後のいろんな動きが起きたわけですよね。

奥地 そうですね。私も、渡辺先生にそのお話をうかがって、びっくりした覚えがあります。国府台病院はもともと陸軍病院で、戦争神経症の人たちが入院していた。その人たちは、頭では「お国のために命を投げだそう」と思っても、命のほうが拒否して、そこで葛藤が起きて神経症になった。それと、不登校の子たちが学校から自分を守るために、登校を拒否しているのは同じだと言われて、「ああ、すごい。本質がパッとつながった」って思いました。人間は生き物だから、環境との関係で、そういう反応もするものだと、とてもよくわかりました。

堂本 子どものほうがナイーブだから、より反応が出やすいんでしょうけれども、それにしても受験「戦争」というのは、すごいことですよね。いまもシリアとか、あちこちで紛争が起きていますが、いっぱい、そういう人たちがいるでしょうね。人間は、戦争のなかでは、みんな病んでいく。そのことをはっきり、わからせてくれたのは、渡辺先生でした。


●不登校の取材を通して

 その後、帰国子女の不登校の子どもを取材しました。最初は、当時、小学校5年生ぐらいだった女の子で、ロサンゼルスで生まれ育って、フィギュアスケートの選手をしていました。彼女は、日本語がよくできないために、いじめられていました。彼女は家に帰ると、ベッドの下に入っちゃうのね。私自身が帰国子女だったので、彼女の気持ちがイヤというほどわかるわけです。たぶん、彼女との出会いが、不登校にのめり込んでいった一つの原因でしょうね。彼女とは、いまでも連絡をとっています。いまはアメリカにおられて、芸術家になっています。
 その後、青森県の精神病院に不登校の子どもたちが入っていると聞いて、取材に行きました。そこは、かならずしも悪い病院ではなくて、精神科の先生もいい先生だったんですけど、中学生の子どもが何人もいて、そのうちのひとりの男の子に話を聞きました。彼は保護室という牢屋みたいな独房から1カ月ぶりに出てきたところでした。もうひとり、同じような子がいましたが、彼がその子に「すぐ走るなよ。足がふらふらになっているから、骨折するから危ないから気をつけろ」と、先輩面をして言っててね。
 その子のお父さんは赤十字病院の外科部長で、子どもが学校へ行かなくなって、自分の友人の警察官に相談したそうなんです。それで「病院に入れるのが一番いいよ」と言われて、彼は入院させられて、いきなり独房に入れられて、1カ月経って出てきたところに、私と出会ったわけです。「どうして、こういうことになったの?」と聞いたら、茶髪にして、それを直せと言われて、抵抗したら先生に叱られて、学校に行かなくなったら、親が病院に連れてきたと。「俺は何にも悪いことをしてない。なぜ、こんな、格子の中に入れられなきゃならないのか」と言っていました。それで、テレビカメラに向かって、けっこう長いことしゃべったんです。そのテープは捨てずにとってあったんですが、2〜3日中に捨てられることになってるの。もったいないわね。

奥地 そうですね。二度と撮れないものですからね。

堂本 おもしろかったのは、その子は自分がそこに入れられた経緯を、テレビカメラの前で話したわけですが、医者のほうは「えっ、どうして堂本さんには言うんだろう。僕には何一つ言わないのに」というのね。その子は「医者とか看護婦というのは、判断するんだよ。それで、点数をつける。躁だとか鬱だとか、必ずそういうレッテルを貼る。堂本さんは、医者じゃないし、専門家じゃないから、安心して話せる」と言っていました。それで、私たちに対しては、むしろ訴えるような意味で話してくれる。それは、ほかの子たちもそうでした。話すことで、ここから解放されるんじゃないかと思って、期待を持って話すのね。
 でも、その病院の先生は、とてもいい方だったので、その後も連絡はとっていて、何年か後に「あの子どうしてる?」って聞いたの。そうしたら、お父さんが手術でミスをしたらしくて、それまで親と口をきかなかった子どもが、初めて「お父さんがんばれ」みたいなことを電話で言ったんですって。親がとても大変な目に陥ったときに、初めて優位に立ったのね。それで電話をかけたというのを聞いて、「ああ、そういうことがあるんだな」と思いました。


●全国の児童精神科に

 ほかの個別のケースはあまり覚えていませんが、日本各地の、子どもの入っている精神病院をまわりました。そのなかでも、東京のU病院には驚きました。不登校の子どもがゴロゴロいたの。しかも、大人の病院よりひどかったです。二重の扉で、ガチャンと鍵をかけられて……。U病院のF先生は児童精神科の大ベテランで、不登校の子の示す、幻覚を見たり、部屋に閉じこもってしまうような症状は、分裂病(統合失調症)に酷似しているけど、これは不登校だから、「学校へ行かなくていいよ」と言えば治ると言っていました。児童精神科医は、その判断ができるけれども、大人の精神科医は分裂病だと診断してしまうことも多くて、誤診で、人生を誤ってしまう可能性もあると言っていました。それを聞いて、私はすごく怖いと思ったんですよ。当時、児童精神科って、ものすごく少なかったの。子どもたちは、児童精神科だけじゃなくて、普通の精神病院にも入れられていました。

奥地 東京では、U病院は、すぐ入院、すぐ薬漬けというので、有名だったんです。そのころは稲村博という筑波大学の医者が、文科省の登校拒否対策でも中心的な役割を持っていて、1988年には、朝日新聞に「30代まで尾引く登校拒否症」「早期完治しないと無気力症に」の見出しで、トップ記事として稲村さんの治療が紹介されて、大騒ぎになりました。つまり、不登校は見守るだけじゃだめだ、病院に行かせろとなった。お父さんがお母さんに言うとか、学校の先生がその記事を送りつけてくるとか、それまで、親の会の広がりで、子どもを受けとめよう、見守ろうという流れもあったのが、東京では自殺者も出たほどです。U病院には、稲村さんと方向性がいっしょの医者が多かったと思います。それを渡辺位先生たちは批判して、児童青年精神医学会のなかで、何人かの先生と改革に取り組まれて、数年後には、不登校を病気扱いしないという学会の方針が出たんです。

堂本 でも、その数年間がかわいそうだった。

奥地 その通りです。でも、いまも変わらないとも言えます。最近でも、昼夜逆転とゲーム漬けを治すということで、U病院の独房に1週間入れられた子を知っています。

堂本 ひどい、信じられないですね。むしろ、悪くなっていますね。

奥地 専門家依存は、いまもありますね。でも、私たちのような取り組みの輪も広がっているんですよ。親の会、居場所、フリースクールなどに、世間の関心も向いている。この流れのなかで、やっと最近、文科省が「不登校は問題行動ではない」という通知を出すようにまでなったんです。

堂本 「50年遅い」と言うべきですね。

奥地 そういう意味では、いい方向もあるんですが、一方では、まだまだ病気扱いも多いですね。

堂本 発達障害なんかもありますからね。

奥地 それが重なっちゃっています。堂本さんは、精神病院以外にも、仏祥庵(*3)などの矯正施設も取材されていましたね。


●「地獄」だった仏祥庵

堂本 仏祥庵は、ほんとうにひどかった。建物からはいっさい出られないように囲われていて、入所者のなかには足枷もされて動物のようにつながれている人もいて、地獄のようでした。独房の小屋は、いっさい光が入らないようになっていました。アメリカでは、刑務所で真っ暗な部屋に入れるのは人権侵害だから廃止されたと聞いたことがあります。そういう小屋に、小学校6年生の女の子を入れていたのね。ちょっと太った大柄な女の子だったけど、暴れに暴れまわって、どんどんと壁を叩いていたらしいんだけど、あるのは、トイレと水だけ。そこに1週間、入れられてました。

奥地 真っ暗な部屋だから、入れられている子は、外に出るときは目をいきなり開くと危なかったという話もされていましたね。また、よく親がそこへ入れましたよね。

堂本 そう思うでしょう。親には「罰する」という感覚があるのでしょうね。主宰者は、坊さんみたいな袈裟を着たおじさんで、職員もヤクザな人たちで、入所者への殴る、蹴るは、朝飯前。食べ物をちゃんと与えなかったり、座禅のようなことをさせたりするんですが、男女関係なく、入所者には大人もいましたが、ひたすら虐待に近い暴力が振るわれてました。私たちが取材で訪れたときに、ちょうど親に車で連れてこられた子もいました。家で暴れるので、父親も母親も「自分たちが殺されてしまう」「もう手に負えない」となって、仏祥庵に入れて、罰してもらおうとしていました。
 取材中、私を見張っていた男がいなくなったとき、ある高校生の子に「あなた大丈夫なの?」と聞くと、「これ以上、ここにいたら、たぶん発狂すると思います」と言ってました。「親にそのことを知らせてあげるから」と、彼の自宅の電話番号を聞いてメモしたんです。それで、彼の実家に電話したんです。「仏祥庵の取材に行って、息子さんにお会いしました。これ以上、ここにいたら発狂してしまうかもしれないし、殺されるかもしれない。だから助けてほしい≠ニ伝えるよう頼まれました」と言ったんです。でもね、お母さんは「あなたは、あの子が私の大事なグラスをどのぐらい割って、家じゅうの家具をめちゃくちゃ壊して、暴れまわったか知らないから、そんなことをおっしゃるんです」「迎えになんて行きません。もう少し懲らしめます」と言われたの。

奥地 うわあ。

堂本 私は、「いったい、家具と息子とどっちが大事なの?」と言いたかったけど、言えませんでした。その子はたぶん、出してもらえなかったと思います。「いい気味だ」と言わんばかりの親でしたよ。親にとって、子どもはかわいいものだと私は思っていたんですけどね……。
 ほかにも、女の子で、何度か逃げ出しては私へ連絡してきた子もいました。そのたびに、こっちも救援活動をしていましたが、あるときピタッと連絡が取れなくなったのね。亡くなってしまったのかもしれないと思いますが、とにかく消息がわからなくなってしまいました。
 もうひとり、ある小学生の子は、いっさい笑わず、ひたすら棒を振りまわしていました。入所させられている子には、暴力をふるうタイプの人が多かったと思います。だから、抑えるほうもそれに対して、手足を縛るとか、独房に入れるとか、そういう対応になっていた。あそこは、ほんとうに地獄でしたね。
 私は、仏祥庵で行なわれていることは人権侵害だと、さんざん訴えましたが、当時の法律では、取り締まることができなかったのね。結局、人が何人か亡くなって、火災事件が起きたりして、ようやく問題になりましたが、それまでに、すさまじい人権侵害行為が、たくさん行なわれていたと思います。

奥地 戸塚ヨットスクール以上のひどさですよね。しかし、そんなところなのに、よく取材できたと思います。

堂本 そうですね。映像も撮らせてくれましたからね。TBSには映像が残っているかもしれません。

奥地 なんで不登校というだけで、そんな目に遭わなければいけないのかと思いますね。

堂本 暴れることでしか表現できない子どももいる。ひきこもる子もいるけれども、逆もいるわけです。


●国会議員に

 同じころ、民間施設の問題として、「ベビーホテル」の問題がありました。「ベビーホテル」というのは、劣悪な無認可保育所のことを私たちが名づけたものですが、乳幼児の死亡事故が多発していました。でも、行政が監査に入れなかったんです。相手は赤ん坊ですから、被害を訴えることもできないですしね。それで、1980年にローカルニュース「テレポートTBS6」で毎週取り上げて、何度も国会へ陳情もして、1年間、キャンペーンを続けました。その結果、なんとか児童福祉法改正まで漕ぎつけることができたんです。
 その件で、私は有名になっちゃって、国会議員になってくれと、自民党からも社会党からも言われました。選挙のたびに依頼があったのですが、そのころはTBSで、ようやく思う存分仕事ができるようになっていたので、3回は断ってました。でも、89年に土井たか子さんが社会党(当時)の党首だったとき、「もっと女性議員を増やしたい。市民派の議員を増やしたい」「あなたを待っているのよ」と言われて、「やっぱり、ここは行くべきかなあ」と思って、大好きな映像の仕事を辞める決心をしました。選挙の2週間前でした。
 当時の土井さんは、すばらしかったですね。いま、彼女のことは忘れられているけど、女の人があれだけ活躍して、土井さんのときに、参議院で与野党が逆転したんです。だから、フリースクールの子どもたちの通学定期のこともできた。いまとちがって、ちゃんと与野党のバランスがとれていて、野党からの要求でも、いろいろなことが実現していた時代でした。通学定期のことで国会に来られていたのは、何年ごろだったでしょうかね。

奥地 92年ごろですね。その年に文部省(当時)が「不登校はどの子にも起こりうる」という見解を示したんです。そのころには民間施設もだいぶ増えていて、民間施設への通所を出席日数に認めるという方針も出て、「だったら通学定期を出してください」と、私たちが運動したんです。実現したのは93年でした。署名活動もしていて、子どもたちといっしょに堂本さんにも持っていったと思います。

堂本 文教委員会の傍聴に来られてましたよね。私、その光景を覚えています。

奥地 通学定期の件で、子どもたちが「国会の傍聴に行きたい」「文部省に交渉に行きたい」と言っていたんですが、当初、文部省は「子どもはダメ」と言ってたんです。なぜなら、「学校に行っている子は、授業を受けている時間だから」と(笑)。それで、堂本さんだったら力になってもらえるんじゃないかとお願いしたら、堂本さんは「何を言ってるの。市民になる立派な勉強じゃないの」って言って、交渉してくれたんです。それで、国会や文部省に行くのがOKになったんです。びっくりしました。

堂本 ああ、そうでした。いろんなことがあったわね。文科省は、そういうところね。私は文教委員にもなったこともあって、そのときは文部省不要論を唱えたんです。大学入試もなくして、偏差値教育をなくしてしまう。そのときは、不登校のことも、かなり質問していたと思います。
 国会議員時代、私はNPO法にも関わってたんですが、シューレもNPO法人にされたんですね。それはどうしてだったんですか?

奥地 東京シューレは、もともと任意団体でやってきていたのですが、何か適切な法人があれば移行させたいと思っていました。たとえば寄付や後援のお願いに行っても、「どこの馬の骨かわからない団体にはできない」と、公的機関にも民間団体にも言われました。それで、NPO法が通ってすぐに、内部で決議して申請したんです。

堂本 私は、この法律づくりに全力投球したんですね。大変でしたが、できてよかったと思います。

奥地 98年にNPO法ができて、99年にNPO法人に認証されて、堂本さんが千葉県知事になられたのが、2001年でしたね。それで、行政とNPOとのコラボレーションということで「菜の花スクールモデル事業」を打ち出されて、2003年に千葉県と協働で、流山シューレを開設することができました。


●千葉県知事として

堂本 NPO法は、自分が携わってできた法律ですし、千葉県をNPO立県にしようと思ったんです。それまで千葉県の県政はトップダウンで、NPOの数も、千葉県は47位のビリでした。それを、県民の活動を活発にして、ボトムアップにしようということですね。そういう意味でも、コラボレーションは重要でした。
 私が幸せだったのは、その前にジャーナリストや国会議員としての活動があって、県知事として携われたことです。それぞれの関わり方はぜんぶちがうから、おもしろかった。不登校の問題でも、ジャーナリスト時代に出会った問題を、国会議員として国会で訴えて、法律をつくって、そして、自分のつくった法律を県知事として実行することができた。

奥地 とても筋が通っていると思います。千葉県の「菜の花スクールモデル事業」には、6団体ぐらいが立候補して、私たちも委員会にプレゼンに行きました。結局、シューレとニュースタートの2団体に決まって、ニュースタートは何年かでやめましたけど、シューレは11年間やらせてもらっています。県とのコラボレーションは終わってしまいましたが、いまも初石駅(東武野田線)近くのマンションを借りてやっています。

堂本 いまの知事が、私がやったことを、みんな廃止にしているのは残念なことです。

奥地 ほんとうに残念です。でも、その期間は、子どもと親のサポートセンター委員の半分は市民で、私も入らせていただきましたし、相談センターでは、当事者や親の会の人が親の相談を受けたり、子どもの場でも、当事者の青年がスタッフに入ったりして、画期的でした。

堂本 そのあたりは、だいぶ忘れてしまってますが、そうでしたね。言われて思い出しました。

奥地 全国的にも例があまりなかったので、私たちは行政との協働の例としてアピールしました。でも、それは知事部局でやっていたことで、教育委員会はちがっていましたね。

堂本 それはもう、大反対ですよ。文科省と同じですからね。

奥地 いま、千葉県では、ネモネットという団体が活発に活動しています。現在の理事長は前北海さんですが、自分自身が不登校経験者で、子どもと親のサポートセンターの職員も経験して、いま、フリースクールを船橋で開いています。それから、現在のフリースクール全国ネットワークの事務局長、松島裕之さんも不登校経験者で、堂本さんがつくった仕組みのなかで育ってきた若者です。彼は教育機会確保法のときも、一所懸命動いてくれました。ですから、堂本さんが種まきをした仕組みのなかで、人が育って、実を結んでいます。

堂本 すごいですね。うれしいことです。ずっと、いっしょにやってこれて、よかったわね。

奥地 よかったです。私たちが東京シューレ葛飾中学校を開校したときも、堂本さんは合計50万円相当の映像作品や教材を寄贈してくださいました。3周年のときには講演にも来てもらいましたね。日本の学校は学習指導要領1本ですが、葛飾中学校は、構造改革特区を活用してできた学校で、学習指導要領を緩和して、子どもに合わせたやり方ができるんです。ですから、不登校の子どもたちが120人来ています。充電が必要な子にはゆっくり充電してもらって、いろいろ自分に合ったかたちで、子どもが創る学校です。
 ですから、堂本さんには、ジャーナリスト、国会議員、千葉県知事、どの時代にも、非常に助けられてきたなと思っています。

堂本 いいえ。私のやってきた仕事のなかで、立場を変えても、ずっと接点があったことは、すごくよかったと思います。

奥地 私も、今日ひさしぶりにお会いして、とてもうれしかったです。多くの人に知ってもらいたい不登校の歴史そのものでした。お話、ありがとうございました。
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*1 1993年、小中学生で民間施設に通う場合、在籍校の校長が出席扱いと認めた場合、その施設への通学に「実習用通学定期」の使用が認められるようになった。それまでは通学割引はなかった。

*2 黒柳徹子さんが小学校時代に通学したトモエ学園でのようすを描いた自叙伝。1981年、講談社刊。

*3 1972年に合田正が静岡県富士市に設立した「更生施設」。1984年に火災事故、1985年に集団暴行で入所者1人(当時26歳)が死亡、1987年には火災で「反省室」に閉じ込められていた入所者3人が焼死するなどの事件を起こす。しかし、施設は茨城県かすみがうら市に移転し、名称を「心道園(通称:仏祥院)」と変えて現在も活動している。2011年には、被害者の男性(当時52歳)が慰謝料などを求める民事訴訟を東京地裁に起こした。男性は、2006年に自らの意思に反して収容され、3年間にわたって監禁され暴行を受けたという。2013年、裁判は、心道園が入所者の行動の自由を確保し、暴力行為をしないことなどを約束することで和解した。
posted by 不登校新聞社 at 15:21| Comment(0) | ジャーナリスト・評論家
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