2017年06月23日

#20 吾郷一二実さん、木村悦子さん

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(あごう・ひふみ)1951年、島根県生まれ。1989年より、3人のお子さんが、それぞれ不登校に。1991年、木村悦子さんたちとともに親の会「カタクリの会」を立ち上げ、1997年から世話人を務める。子どもの居場所「フリーダス」にも、立ち上げ当初から現在まで関わっている。(写真左)

(きむら・えつこ)1948年、岡山市生まれ。1990年より、3人のお子さんのうち2人が不登校に。1991年、吾郷一二実さんたちとともに親の会「カタクリの会」を立ち上げ1997年まで代表世話人を務めた。1991年より子どもの居場所を始め、1992年より「フリーダス」としてスタート。1997年までスタッフ代表を務める。2004年よりNPO法人YCスタジオを立ち上げ、理事長を務めている。(写真右)

インタビュー日時:2017年2月6日
聞き手:山下耕平
場 所:かたくりのはな(島根県松江市)
写真撮影:山下耕平
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〈テキスト本文〉

山下 まずは、それぞれ、お子さんの不登校経験からうかがいたいと思います。


●転校をきっかけに

木村 子どもは3人いるんですが、一番上の長女は不登校経験はなくて、2人目の長男と3人目の次男が学校に行きませんでした。長男が小学校6年生の夏休みに、神奈川から松江(島根県)に転校してきたんですね。そして2学期始業式の日、帰ってくると泣いていたんです。神奈川の学校では、先生が机の上に立ってギターを弾いて歌っていたり、木をくり抜いてつくったボートをプールに浮かべて遊んだり、遊びほうけていて、楽しい学校だったんですね。松江では、自然もいっぱいあって、もっとのんびりできるかと思っていたんですが、実際は、まったく逆でした。小学校なのに制服はあるし、道徳教育研究校で、校則や管理も厳しくて、班競争なんかもあって、すごくカチカチしていた。あとからわかったところでは、体罰もひどくてね。担任はヒステリックな女の先生で、算数なんかでも、決まった解き方をしないといけないし、どうでもいいことが厳しかった。いじめらしきものもあったようです。言葉がわからなかったこともあったでしょうね。「ほるもん持ってこい」と言われて、スーパーで肉のホルモンを買って持っていったら、「ほるもん」というのは彫刻刀のことだったり。
 それでも、かなり無理をしてがんばってたんだと思います。3カ月くらいは、行ったり行かなかったりしていて、まったく行かなくなったのは、12月ごろでした。
 その後、小学校は行かないまま卒業になって、中学校の入学式は、ちがう学校に行くから、すごく楽しみにしていて、飛び跳ねるようにして行ったんです。私たちも後ろからついていったんですが、クラスに入ったとたん、ダーッと飛び出てきて……。きっと、いじめっ子がいたんでしょうね。雨のなか傘をさして、校庭から恨めしそうに校舎を見てました。
 中学校には自学室というのがあって、しばらくは、そこに行ってたんです。でも、そこにいるのがわかると、ほかの子たちが外から石を投げてきたりするので、隠れて入ってました。窓に半紙を貼って見えないようにしてね。そのうち、その自学室に行くのもつらくなって、「もう自分は絶対に学校に行かない。もう学校やめた」と言って、中学校も行かなくなりました。
 「なんで行かないの?」と聴いたら、彼は「学校では、先生の体罰もあるし、陰湿ないじめもある。でも、それだけだったら耐えられた。僕は、なんとも言えない画一的な雰囲気がイヤなんだ」と言ったんです。それからは、頑として行きませんでした。

山下 行けなくなった当初は、どう受けとめておられたんでしょう?

木村 よく言われるように、まさに「青天の霹靂」ですよね。夢であってほしいと思ってました。「首に縄をつけてでも」ではありませんが、背負ってでも行かせようとしていたと思います。でも、いざ学校に行こうとすると、靴ひもがなかなか結べなかったり、「お母さん、学校はイヤだ」と言ってしがみついてくる。それでテコでも動かない。

山下 年代はいつごろになりますでしょうか。

木村 最初、長男が小学校に行かなくなったのは1990年のことでした。そのとき次男は小学校3年生で、やんちゃな子だったから、転校後も、いっしょにいたずらする友だちもいて、この子は大丈夫と思ってたんですが、長男と同じぐらいの時期に、だんだん行かなくなりました。次男のほうも、石を投げられり、物をなくされたり、教科書やノートが墨汁で真っ黒になってたり、「宇宙人みたい」と言われたり、いろいろやられてたみたいです。でも、学校の配慮もまったくなくてね。

山下 次男さんのほうは、どんなようすだったんですか?

木村 まず、制服に手が通せないんです。コタツのなかで軟体動物みたいになっていて、8時半ごろになると、おなかが痛くなってトイレから出てこない。それで9時ごろになると、ニッコリして出てくるの(笑)。
 学校のほうは、先生が迎えに来たり、クラスの子にお花とケーキとか持ってこさせたりしてね。「みんな、いい子ばっかりです」とか言うんだけど、子どもからしたら残酷ですよ。その子たちが帰ったあと、泣いちゃって大変でね。家を飛び出して、宍道湖がすぐ裏にあるので、飛び込まないかと心配で追っかけていったり、夜も泣くので抱いて寝てました。


●親の会の立ち上げ

山下 その後、親の会を立ち上げられるまでの経緯をうかがいたいのですが。

木村 まったく、どうしていいかわからないなかで、同じような人はいないかと聞いてまわってたんです。学校は「おたくだけです」とか言って、ぜんぜん教えてくれなくてね。でも、実際は、同じ学校の同じ学年に3人いたんです。そのうちひとりが吾郷さんで、もうひとりの方と3人で1991年に親の会を立ち上げました。

山下 出会うきっかけは?

吾郷 あるPTAの役員の方から私のところに電話があって、「吾郷さん、おたくのお子さん、学校に行かれないそうですね。実は木村さんという方が話したいと言っているので、電話してください」と言われて、電話したんです。もうひとりの方は、もともと知っていた方だったんですね。長女さんが、だいぶ以前から不登校していて、でも、そのころは、お母さんの育て方の問題じゃないかとか、お父さんが単身赴任しているからじゃないかとか、私はそういう見方しかしてなかったんです。でも、自分の子が不登校になって、それで3人で会いましょうということになったんです。当初、私は親の会なんて思いもよらなかったですが、不登校の親どうしで集まるのは、すごくうれしかったですね。でも、木村さんは、すでに奥地圭子さんのことも、全国の動きもご存じでしたね。各地に親の会があるから、松江でもやろうとおっしゃって。どこで、そういう情報を得ていたんですか?

木村 どこで知ったんだろう。ぜんぜん覚えてないですけど、最初、1990年ごろに山口県で開かれた親の会の世話人合宿に行ったのは覚えてます。あと、内田良子さんの本を読んだ記憶はあります。

山下 90年代前半は、あちこちで親の会や居場所ができていった時期ですね。そこで、全国の親の会の人どうしが知り合って、全国ネットワークができていった。

吾郷 その影響は大きかったですね。地元では私たちだけですが、合宿に行ったら、世の中には、こんなにたくさんの不登校の人がいるんだと思って。しかも、みなさんニコニコしていて、不登校で笑うんだと思って、びっくりしましたね。

木村 どんどん不登校の数も増えていて、数が増えるほどうれしかったですよね。

吾郷 親の会に出会うまで、私は、ずっと自分を責めてました。育て方が悪かったから、こんな弱い子になってしまったんだと思ってたんです。でも、木村さんが「学校がおかしい。学校ってきついところよね」と言うのを聞いて、初めて、学校を疑っていいんだと気がついたんです。学校に行けない息子が悪くて、そういう子を育てた自分が悪いと思ってたけど、学校がおかしいのかと思ったら、見方が変わってきて、パーッと視野が広がったんです。私はこれでいいんだと思えたし、それは大きかったですね。

木村 うちの場合は、転校してきたから、学校の問題が見えやすかったんだと思います。


●子どもが悪い、私が悪いと思ってた

山下 なるほど。話を先に進める前に、吾郷さんのお子さんの不登校経験について、うかがえますでしょうか。

吾郷 うちも3人の子どもがいて、1人目の長女、2人目の長男、3人目の次男と、3人とも学校に行かなくなりました。最初に行かなくなったのは、まんなかの長男で、小2の5月連休明けごろ、1989年のことでした。
 彼は最初、学童保育所に行かなくなったんですね。私たちは学童の共同保育所をつくって運営していたんですが、そこに行かなくなった。その後、学校も行きづらくなったんです。でも、イヤだったのは学童保育所よりも学校の雰囲気だと言ってました。毎朝、行きしぶるので、いっしょについて行くんですが、途中でしゃがみこんで、動かなくなる。そうなると、押しても引いても動かない。こちらも出勤しないといけないからイライラしてきて、「いいかげんにしなさい! 好きにしなさい!」と言い置いて、出勤したこともありました。長男は、そのまま家に帰ったんだろうと思います。
 そうこうしているうちに、家から出られなくなって、玄関で足が固まって、靴を投げたりしてね。とうとう学校に行かなくなって、それからは、私は子どもを家に置いて職場に行ってました。夫のほうは、自宅と職場が近かったので、お昼ご飯は帰ってきて、いっしょにつくって食べてました。そのうち、料理を覚えて自分ひとりでも食べられるようになって、でも、家にいるのは、よっぽどヒマだったんでしょうね。私が帰ると押し入れのものがいっぱい出して遊んだあとがあって、それでまた叱ってしまう。
 だんだん、家の外にも出るようになったんですが、そうすると、近所のおばちゃんに「なんで学校に行かないかね」と言われたり、あちこちで説教されたりしているうちに、家にこもるようになったんです。そうすると荒れて、物を蹴散らすし、穴は開けるし、たいへんでした。いま思えば、私の対応もまずかったと思うんですけど、私もワケがわからなくて、「暴力をふるう子になってしまった。こらえ性のない、あの子の性格の問題で、ぜんぶ、あの子が悪いんだ」と思ってました。
 一方で、そういう子にしたのは母親の育て方の問題だと思っていて、平井信義の『「心の基地」はおかあさん』(企画社1984)を読んで、登校拒否の状況も、お母さんの対応で変わると書いてあるから、一所懸命、努力したんです。でも、ぜんぜん変わらなくて……。
 私が「なんで学校がイヤなの?」って聴いたら、長男は、「だって、並んでばかりいる」と言ってました。体育のときに並ばされることとか、音楽室に移動することとか、聞けば、いろいろ理由を言いましたが、まあ、いろんなことが積み重なったんだろうと思います。
 夫のほうはと言うと、もともと、すごく子ども好きで、保育園でも小学校でも、子どもを迎えに行くと、よその子が群がってくるんですね。でも、それを見ていた担任に、「お母さん、お父さんには父親の権威が足りないですよ」と言われたんです。それは、さすがに疑問に思いましたけど、「平井信義もそう言っていた」とか思って(笑)、夫とやり合ったんです。「お父さんが、もっときちんと決めるところで決めてくれないと、結局、叱るのはいつも私がやっているじゃないの。こういうときはお父さんの出番でしょう」とか言って。でも、彼が叱ったところで、子どもも見抜いてるから、ぜんぜん言うことなんて聞かなかったですね(笑)。
 そうこうしているうちに、3番目の次男も、入学してしばらくして、行かなくなりました。絵が好きだったのに、小学校にあがってから、「先生がこれじゃダメだと言うんだ」と言って、描いた絵を何度も消しては描いていて、おかしな感じがありました。兄弟ゲンカもあって、私が長男に当たるから、長男は次男にあたる。だから次男も荒れて、でも、当時の私は「この子もなんだ。うちの子はどうして、こんなに荒れるんだろう」って思ってました。いま思えば、いろんなことが、弱いところに向かっていたんだと思います。

山下 その後、長女さんも行かなくなったんですよね。

吾郷 下の2人が行かなくなってからも、長女は行ってました。いま思えば、それもしんどかったんだと思います。ただでさえ、お姉ちゃん≠してきて、たいへんだったと思うのに、先生に、弟たちのことをたびたび聞かれてましたし、持ち物をあずかってきたり、宅配便の役割もしていて……。
 それに、長女は少し大人びた子で、先生との折り合いもよくなかったんですね。あの子がまっさきに不登校になっていても、おかしくなかったと思います。4年生ごろから、「宿題を出す意味は何ですか」と先生に聞いたりして、担任に目をつけられてました。担任は厳しく体罰も多い女の先生で、長女も「先生って変だよ」と言ってました。もともと、泳ぐのは大好きだったんですけど、体育の授業ではプールに入らなくなって、理由を聴いたら、「体育の先生は泳げる人だけに教えていて、そうでない人には教えない。それがイヤだから、自分は出ない」と言ってました。ほかにも、長女なりに一所懸命、反発、抵抗していました。そういうことがあって、その後、6年生からは行かなくなりました。
 でも、そのときは長男が不登校になってから2年ぐらい経っていて、親の会もできていたので、ほんとうに親の会が救いでした。例会のあと、1週間くらいは、子どもを責めなかったと思います(笑)。

木村 あのころは、集まると明け方4時ごろまでしゃべってたよね。

吾郷 そうそう、木村さんの家に集まってね。文部省の資料とかを集めて学習会をしたり、すごく刺激的でした。

木村 当時、県教委の不登校の手引きには、自我の未成熟だとか、親子の不和だとか、過干渉、母性がどうのとか書いてあって。次男は、それを見て「こんなことを言うおまえがノータリンだ」と言ってました。


●専門家をめぐっても

山下 親の会ができるまでは、どこか相談に行ったりは?

吾郷 親の会ができる前の2年間ぐらいは、児童相談所、教育センター、青少年センターとか、いろんなところに行きました。相談員はカウンセリングの手法で、「そうなんですね。そのとき、こういうふうに考えたんですね」って、私の言ったことをオウム返しでくり返すでしょう。それで、どっと疲れてね。当時は批判的な視点はなかったですから、「これをくり返すと、子どもが学校に行くようになるかな」と思ってました(笑)。

木村 あのオウム返しの疲れること。

吾郷 そう。それで、児童相談所に子どもを連れて行くと、子どもを検査されるでしょう。絵を描かせたり、心理のテストを受けさせられたり。それには、当時でも、すごく腹が立って、ひどいと思いました。つらいときに描いた絵は、つらい絵になるに決まってるし、それを分析するなんて失礼だなと思いました。

木村 いまでも、あちこちでやってるからね。

山下 木村さんは、専門家めぐりはされたんでしょうか?

木村 私は、あまり行ってないです。長男は、教育センターに連れていこうと思っても、「なんで、そんなところに行かないといけんの」と言って、テコでも動かなかったですから。

吾郷 結局、親の会が、自分の思いをいちばん出せて、共感してもらえて、そして、広い視野で考えられて、よかったですね。ほかの人が語っていることで、自分が気づくこともあるし、毎月の例会が待ち遠しくて、1カ月が長かったですね。

山下 たんに仲間と出会えるだけではなくて、専門家や世間とはちがう見方と出会えたことが大きかったんでしょうね。

吾郷 そうですね。

木村 自己紹介を始めると、みんな泣いてね。

吾郷 そう。ほかのお母さんの話を聴くと、こっちも自分のこと思い出して泣けてきたりしてね。それと、全国合宿に行くようになって、さらに視野が広がりました。全国合宿で聞く話は、どなたも、とことん子どもの側に立って考えようとしていて、それはすごいことだなと思いました。もちろん親は子どもの立場にはなれないんだけど、子どもの側に立って、ひとりひとりを人として大事にしようとする。それは全国合宿で学んだことです。初めて参加したのは、1992年の高知合宿でした。
 その後は、ほぼ毎年、参加してました。とくに世話人合宿がよかったですね。それぞれの会の通信を回し読みしたり、夜通し、おしゃべりしたり。

山下 カタクリの会という名前は?

吾郷 マンガ好きの夫が提案したんです。『家栽の人』(毛利甚八作・魚戸おさむ画/小学館)に、カタクリというのは、最初は葉っぱだけなんだけど、7〜8年、芋を肥え太らせ、やっと花が咲くという話が出ていて、その話を聞いて、決まりました。いろいろあるけど、いつか花開くだろうと(笑)。

山下 親の会の名前は、植物由来が多いですよね(笑)。フリーダス(子どもの居場所)を始められたのは、どういう経緯だったんでしょう。


●子どもの居場所フリーダス

吾郷 親の会を始めると、子どももついてくるようになり、小学校低学年ぐらいの子たちですから、学校に行かなくて、家ではしおらしくしてても、集まると、すごく元気でね。「静かにしなさい!」と言ったって、ちっとも静かにならない。それで、子どもにも居場所がほしいね、ということになったんです。それで、木村さんがお世話してくれて、最初は公民館で週何回かというかたちで始めました。

山下 実際上の必要性からだったんですね。

木村 自然発生だったね。親だけが盛り上がっていて、子どもがつまらないというのも何だかなと思いましたし。

吾郷 木村さんのお宅でも集まってましたよね。

木村 そう。明け方までいて、ずっとしゃべってんだよね。

吾郷 ゲームがあるわけでもなくて、小学生の子どもたちで、そんなにしゃべることあるのって思いましたけど、あいつも、こいつも学校に行ってないというのが、よかったんでしょうね。仲間が見つかったというか。

木村 最初は公民館だったんですけど、みんな、いたずらするんですよ。走り回ったり、いたずら書きしたり……館長が「不登校の子はあいさつもせん」と言ってきたり、不自由さがいろいろあって、自前の部屋がほしくてね。探したんですけど、不動産屋を何軒まわっても、「不登校の子になんて貸せない」と言われて断られて……それは忘れられないです。偏見がひどかった。それで、やっと見つけたのが、市役所のそばのビルだったんですが、雀荘が夜逃げしたあとの部屋で(笑)。少々やかましくても、近所に迷惑がかからないというので、貸してくれました。

吾郷 子どもたちは喜びましたね。野球道具も、マンガも、いろんなものを置いておけるし。大人は、誰かが交代でいることにして始めたんですが、途中からは、中学生ぐらいの年齢の子たちが自分たちで運営してました。自分たちで経理もして、通信も出して、こちらが口出しすると、その子たちが怒るんです。「おまえたちに言われる筋合いはない」とか言ってね。とくに女の子たちが強かった。

山下 フリーダスの名前の由来は?

木村 長男が発案したみたいですけど、「カメダス」というマンガがあって、それと自由のフリーをくっつけたとか何とか……。

吾郷 聴いたんだけど、くわしいことは教えてくれなかったですね。

山下 名前も子どもたちが決めたんですね。

吾郷 そうなんです。まったくの自主管理で、花札とか麻雀とか、夜を徹してやってたりしてましたね。

木村 すごい人たちだったですよ。中海の淡水化問題に取り組んだりね。

吾郷 宍道湖と中海(ともに汽水湖)を淡水化して農業用水にするという国のプロジェクトがあったんです。それに反対する運動があって、子どもたちで中海の中にある大根島の八束町の町長に会いに行ったんです。中学生ぐらいの子たちだったんですけど、町長も会ってくれたんですよね。それで、もうズバズバ質問して、そのインタビューを冊子にして販売して儲けようとかね。

木村 あと、光人塾という適応指導教室があって、そこに、みんなで見学に行ったんですが、そこの塾長が上から目線の人でね。「ピアスして茶髪の子は精神病院に行ったほうがいい」とか言うので、「こんど行くときは、みんなで茶髪でピアスで行こう」と言って、もう一度行ったんです。そうしたら、塾長が「君たちはどういうところだったらいいと思うのか」と聞いてくるので、ある子が「まずは、あんたが辞めてほしい」って(笑)。ほんとうに強者でした。

吾郷 どこにでも爆弾を投げる感じでしたね(笑)。


●公的機関での人権侵害

木村 親の会では、県内のいろんな専門機関の人を呼んで話を聞いたんですけど、とにかくひどい現状でした。
 島根では、「松」と「竹」があったんです。「松」は、湖陵病院(現在は島根県立こころの医療センター)思春期病棟の若松分校。「竹」はわかたけ学園という教護院(現在の児童自立支援施設)。
 若松分校では、「不登校の子は弱いから、鍛えるために」と言って、生ゴミを素手で拾わせるとかやってました。湖陵病院では薬の問題もありましたし、嘘をついて、だまして入院させていたり、問題だらけでした。あるとき、入院している子から電話がかかってきて、「おばちゃんの家、畳一畳あったら貸してくれる? 私、逃げたいから」って言うのね。それは忘れられない。

吾郷 電話もできなかったって言う子もいたね。

木村 わかたけ学園では、いじめで万引きをさせられたりしていた子が、松江市内の中学校から措置されてました。中学校では「あそこはすごくいいところだ」って言うのね。でも、実際には施設内虐待もあって、最悪の状態でした。

山下 教護院は、虞犯(罪を犯すおそれのある)少年を措置することになってましたから、いじめの背景を見ずに、万引きを理由に入れられていたということですね。教護院は、1997年に児童自立支援施設に変更される際、不登校の子も対象にするといって反対運動もありましたね。私自身、その運動に関わっていたのですが。

木村 そうでしたね。鹿児島の教護院、牧ノ原学園(現在の若駒学園)では、職員による集団暴行で入所者が亡くなる事件(*1)もありましたね。ほんとに、受難の時代だったよね。いろいろあったな……。

山下 民間の矯正施設は、島根にもありましたか?

木村 それはなかったですね。ただ、東京のタメ塾(*2)に連れていかれた子はいました。

吾郷 そうそう。逃げて帰ってきてね。

木村 ものすごく傷ついていて、いまだに、ずっと引きずってます。

山下 矯正施設の問題は、ひきこもりなどを対象にして、いまでもずっと続いてますが、90年前後というと、不登校への偏見は、いまよりずっと強くて、きつい時代だったと言えるでしょうね。

吾郷 そうですね。でも、そういう偏見があるから、親の会のつながりは強かったのだとも思います。いまはまた、別のきつさがありますよね。選べるものがいっぱいあるだけに、苦しい。ですから、いまのほうがよいとは言えないですね……。

山下 逆説的ですが、偏見や圧力があったからこそ、根本的に見方を変えないといけなくて、それゆえの勢いが、親にも子どもにもあったのでしょうね。

吾郷 フリーダスの子たちは、ポケットに手を突っ込んで、肩で風を切って歩いている感じでしたね。「俺たち学校行ってないぜ」って。

木村 「学校に行かない、自由な子だ」みたいな感じがあった。

吾郷 でも、いまはちがいますね……。


●あの活気はどこへ

山下 90年代ごろは、親の会も居場所も、すごく活気があったのに、その勢いは続かなかったところがありますね。それは、いまの子どもや親のしんどさとも、どこかつながっているように思います。それは、なぜだと思いますか?

吾郷 なんででしょうね……。一時期は、不登校を考えなくていい時代になりそうだったんですけどね。

木村 また、専門家にからめとられてしまっているところもありますしね。

吾郷 カタクリの会も、参加者が減ってしまって、一時期は参加者がひとりだけということもありました。辞めようかとも思ってましたが、ひとりでも来られるうちは続けようかと思って、続けてきました。そうしたら、ここに来て、またどっと増えてきました。
 参加者が減ったのは、スクールカウンセラーが配置されたり、学校内に居場所がつくられたり、学校で相談できるところが増えたこともあるでしょうね。それと、行ける高校が増えて、サポート校なんかもできて、お金を積めば、選択できるところが増えたということもあると思います。松江にもいっぱいサポート校があります。

山下 サポート校の人は、フリーダスにも営業に来られたのでは?

吾郷 生徒を紹介してくださいって、来られましたね。お断りしましたけど。各市にある適応指導教室も、フリーな感じになってきているようですね。以前は学校復帰のために来させる感じでしたけど、だんだん、自由になっているみたいです。でも、行っている子は、そんなに増えてないようですけど。

山下 公共機関が柔軟化したのは、いい面もあるでしょうけど、やさしく、きめこまやかに見守られていているのは、子どもからしたら、かえって苦しい面もあるでしょうね。

吾郷 学校のオーラを出しながらですし、ゆるいところなんだから、行けるでしょうってなりますしね。


●医療への敷居が下がった

 それと、親の会に来られる人が、だいたい医療にかかっておられるようです。例会後、会員どうしで「あそこの心療内科がよかった」と紹介し合っていたとも聞きます。即改善させたいという思いがあるんだと思います。

山下 早期発見・早期対応ですからね。

木村 発達障害の影響も大きいよね。発達障害が理由で不登校になっていると言われることも増えてます。

山下 就学時健診などで診断名がついて、不登校になる前に、特別支援学級に行かされたりしてますよね。

吾郷 不登校になって、さみだれで行っていたら、学校から「発達障害ではないかと思うから、診断してもらいなさい」と言われた方がいました。「中3の時点で特別支援学級に所属していると、高校は特別支援学校へ進学しやすいし、将来の就職のことを考えたら、そのほうが就労支援を受けやすいですよ」と言われてね。お母さんは悩んでおられます。お子さん自身は、「障害者雇用で就職すると賃金は安いんでしょ」と言ったそうです。もう少し、ゆっくり考える時間があってもいいんじゃないかと思うんですけど。いま特別支援学校もいっぱいみたいで、学校からは早く判断して、在学中に支援学級に移っておくほうが有利だと、せかされているんですね。
 それから、お子さんが不登校してまもなく、家にひきこもっておられる方は、まわりから思春期のうつとか、統合失調症だったら、早期に発見して早期対応したほうがうまくいくと言われて、お母さんも揺れています。
 そうやって、病気や障害ということで、子どもや親が追いつめられている。親の会に来ている人でも、あちこち専門機関に行かれていて、やっぱり病院にかかっている方は多いなと思います。


●やさしい顔して薬が出る

山下 でも、吾郷さんのころだって、ろくな専門家はいなかったわけですよね。専門家めぐりもしていた。何がちがうんでしょう?

吾郷 そうですね。ひとつには、医療の敷居が低くなっているのは感じます。私たちのときは、偏見もあったかもしれないけど、こんなに市場が広がってなかったですね。いまは話をじっくり聴いてくれるけど、薬も出す。そういう真綿でくるむような状況があるかなと思います。それと、学校からも、病院を勧められていますよね。

山下 昔は親が否定されて、それはちがうと思えた。いまはやさしく、くるまれてしまう……。

木村 やさしい顔してね。だけど、薬が出る。

吾郷 子どもが変わったというより、ソフトにじわっと来られることのストレスがあるのかなと思います。そうすると、昔のように、暴力として出るだけではなくて、いろんな症状として出さざるを得ないことになってきているのかもしれないと思いますね。それで、お母さんの調子も悪いんですよ。昔のように、親の会に来て元気になるという感じは、あまりなくなっていますね。
 学校との関係でも、「担任の先生がすごくよくて、連携をとっている」と言われる方が多くて、「あの先生はけしからん」と言う人は少ないですね。「学校の対応がすごくいい」と言う。でも、親がそう言うと、子どもはイヤだと言えないし、よけいつらいように思いますね。

木村 親も発達障害と言われたりしてますよね。

山下 不登校を問題視するというよりも、問題のまなざしが細分化して、そこで対応されているわけですね。親の会や居場所などは、90年代には勢いがあって広がったものの、2000年ごろから、発達障害やひきこもりが問題化されるにつれて、また高校が柔軟化するなどの変化などもあって、状況が変わってきた。

吾郷 でも、相談は増えているんですよね。PRはまったくしてないのに。

木村 いろいろやってみてダメだったから、親の会に戻ってきているんだと思います。


●若者の居場所YCスタジオ

山下 木村さんは、その後、若者の居場所として、YCスタジオを始められましたね。いつからだったでしょう?

木村 2004年3月です。韓国のハジャセンター(*3)みたいなところをつくろうと思ったんです。

吾郷 98年ごろ、韓国の教育雑誌『ミンデュルレ』にフリーダスが紹介されて、そこから交流が始まって、毎年、韓国に行っていました。初めはサイバーユース、そしてハジャセンターのことを知って……。

木村 せっかく学校に行かなかったんだから、その後もオルタナティブな生き方を模索できたらいいと思って、でも、ひとりではしんどいから、みんなで模索できる場をつくろうと思ったんです。若者文化の発信基地ということで、ユースカルチャースタジオ=YCスタジオという名前にしました。

山下 実際、始めてみて見えてきたことは?

木村 最初から、不登校の子たちだけを対象にするのではなくて、路上で音楽活動している子たちとか、家出している子とかにも声をかけたんですね。そのうち、家にも学校にも居場所のない子たちが押しかけてくるようになって、来るのはいいけど、帰らない。家から逃れてやって来ている。そういう意味では、不登校の親の会とか、そこでつくった居場所とは、またちがう人たちが来るようになったと言えます。それから、東京のクッキングハウス(*4)の人たちを招いて講演会を開いたことがあって、そこから精神的な障害を持つ人が増えました。

山下 不登校その後というよりも、もっと広い問題に直面したわけですね。

木村 そうですね。ほかに行き場のない人、いろんな困難を重ねて抱えている人がたくさん来るようになって、なかなか、たいへんです。もちろん、経済的な困難を抱えて、食べるのに困っている人もいますし……。


●学会に物申す

山下 そういうこともあってか、木村さんは、精神医療の問題で、ずいぶん発言されてこられてますね。児童青年精神医学会でも、発表されていたり。

木村 それは、YCスタジオを始める前からですね。親の会やフリーダスの相談のなかでも、いろんなケースがありました。パキシルとかルボックス(両方ともSSRIと呼ばれるタイプの抗うつ剤)が出たとき、このへんのクリニックでは「新薬でいい薬ができた」と、みんな使ってたんです。でも、「あの薬を飲んだら、夜中に風呂のなかで叫んでる」という相談があったり、入院の話が増えたりして、何かおかしいと。それで、2000年代初頭に松江の精神保健福祉センターで不登校シンポジウムが開かれたとき、席上で意見を言ったら、当時、児童青年精神医学会の理事長をしていた山崎晃資さんが、「この学会はオープンだから、そういうことは学会の会員になって、人権委員会に言うといい」と言われたんです。それで、「多剤多量処方の問題や、暴力を使ったり、本人をだまして入院させていたり、本人の同意のない入院治療に対して当事者サイドから言いたいことがある」と言って、学会に入りました。

山下 いわば乗り込んだんですね(笑)。

木村 そうです(笑)。2004年に理事になって、子どもの人権と精神医療を考える市民の会を立ち上げ、理事会や「子どもの人権と法に関する委員会」で、お薬の問題や子どもへのインフォームドコンセントのあり方について、受け手の側から問題提起をしてきました。また毎年の学会総会に合わせて、味方になってくれるお医者さんや各地の親の会や居場所のみなさんと市民学習会を開いてきました。
 奥地圭子さんもいっしょに、学会の倉庫で、学会の第1回の資料から、不登校の文字が入っている資料をぜんぶコピーして調べたり、情報公開で、精神病院の実地指導について調べたりして。
 学会で「学会誌に薬屋の宣伝が多いのはなぜなのか。あなたたちはどういう契約をしているのか」と発言して、シ―ンと、しずまりかえっちゃったりね。怖い者知らずと言えば、そうだったと思います。医者からは、すごくバカにされましたし、いろいろ、たいへんでした。

山下 かつて、不登校では家族が問題視されてましたね。母親が過保護だとか、父親に父権が足りないだとか。いまは、親の育て方の問題にはされなくなってきたものの、いろんなことが、すべて脳の問題になってしまってますね。それは、ある意味では親にとって楽な面もあるのかもしれませんが、薬物療法一辺倒になってしまっているのは怖いですね。

木村 薬物オンリーです。精神医療被害連絡会の方の話などを聴くと、あまりにひどい状況があるので、一刻も早く止めたいと思いますね。最近になって、被害者の側から、いろんな動きが起きています。一方で、島根県で減薬を指導しているのは島根医大だけです。
 何しろ、製薬会社の力は大きいですからね。たとえば、パキシルは18歳未満の重度のうつ病患者への処方は禁忌になっていた(*5)んですが、それを学会が理事会にはからず、厚労省に禁忌を解くように要望を出していたこともありました。
 いまや小学校入学以前の子どもにも向精神薬が処方されてますよね。不登校だけではなくて、薬を処方する対象が広がっていて、いろいろ、おそるべき実態があります。なかなか、少数で勝てる相手ではないです。


●学校に行かない生き方は

山下 医療の問題も大きいですが、それだけではなく、2000年代後半ごろから、いろんな面で若者が厳しい状況にあることが見えてきたということもありますよね。YCスタジオを立ち上げた当初と比べて、そこで実際に、いろんな現実と出会ってきて見えてきたことはあることと思います。かつては「学校に行かなくても、社会でやっていける」という思いがあって、活動に勢いもあったわけですが、いまや学校に行っていても行かなくても、若者の状況は厳しい。そのなかで、いかに不登校を肯定できるのか、というあたりはいかがでしょう。

木村 そうですね。やっぱり現実はそうとう厳しいですよね。「学校に行かない生き方を」と言ってきた立場としては、そこに責任も感じています。自分の子だけじゃなくて、ほかの子どもたちにも、もしかすると「学校に行かない生き方」を強いていたかもしれないという反省はあります。まちがっていたとは思いませんが、理想の話と、現実の問題がありますからね。実際に、この社会で生きのびていかないといけないときに、どう折り合いをつけていくかは、考えないといけないことだと思います。

吾郷 難しいですね……。いまと昔の社会の何がちがうのか、わからない面もありますが、実際には、学歴を必要としない仕事もあるのに、学歴がないと生きていけないかのように思わされているところも、相変わらずあると思います。でも、就職では、とても大きな問題になっているのは、たしかでしょうね。実際の仕事内容としては、学歴なんて関係ないことが多いと思いますけど。

木村 学校歴はどうでもいいことにちがいないですが、手段として必要なこと、持っておいたほうがいい場面はたくさんある。長男も、40歳手前になって、仕事しながら放送大学に行っています。それで、「仕事もしないで、好きなことを学ばさせてもらうのは、どんなぜいたくなことか」と言っています。
 親としては、そういうぜいたくをさせてやれなかった、という思いはあります。存分に本を読んだり、知識を蓄えたり、そういう時間をたっぷり持つことは、幸せなことだと思います。ですから、手段としての学校歴の問題だけではなくて、学ぶ機会の問題としても、学校が必要なことはあるだろうと思います。もちろん、自分で学べる人もいますし、生きていくうえで必要なことは、学校外でいくらでも学べるんだけど、学校で学ぶチャンスをわざとつぶす必要はないと思います。

山下 木村さんの問題意識として、学歴を身につけた人は都市部に出ていく一方で、学校に行かない生き方というのは、もっと地に足のついた、地域に根ざしたものを模索されてますよね。もちろん、現実問題としては難しいところはあると思いますが。

木村 そうですね。そこは、ものすごく試行錯誤してます。でも、単純に食べるところと住むところと、話のできる仲間がいれば、現金収入が少なくても生きていけると思うんですよね。いまの日本の社会保障制度では、なかなか厳しいところがありますが、とにかく農と食は手放さないことが必要だと思います。自給自足まではできなくても、まずは食べ物と屋根があることの安心感。そして、いっしょに話ができる仲間がいること。ひとりでいると、どんどんつらくなってきますでしょう。心の食べ物も大事ですからね。絵だとか詩だとか、そういう栄養がとれることも必要です。現実は厳しいですが、そういうセーフティネットをつくることが大事だと思って、やってます。

山下 不登校その後も、都市部と地方で、ちがいはありますよね。

木村 島根県内でも、不登校の後、みんなどうしているか、たずねたいという思いがあります。たとえば、一歩も外に出ないと言ってた若者が、地域の子どもたちと野球をやったり、お年寄りと話をしたりしてるんですね。賃労働はしていないけれども、草刈りをしたり、畑仕事を手伝ったり、あるいは、おじいちゃんやおばあちゃんを看取ったり、地域にとって大きな仕事をしている。それをひきこもりと呼ぶのかどうか。
 地域や家に残っている人に対して、そのことを白い目で見ず、否定しないことで、大事な何かが生まれるんじゃないか。そういう可能性はあるんじゃないかと思ってます。それで、まずは「いまどうしている?」って、訪ねてまわりたいと思っています。東京や都市部周辺の、不登校その後の話ではなくて、地域のなかで、どうしているか。
 東京は情報が多くて、キラキラしていて、たまに行くのはいいですけど、食糧危機になったらどうするのって思います。
 それと、東京一極集中ということでは、不登校新聞にも言いたいことがあるんです。さっきも話にあがってたみたいに、全国ネットでは、昔は各地の会の通信を回し読みしていたんですよね。そこでは、地方も都会も対等の関係だったと思います。でも、それが不登校新聞が出てきたことで、東京、大阪、名古屋中心のかたちになってしまった。あそこで、関係が変わってしまったと思ってます。

山下 それは、ご批判として承ります。親の会の全国ネットワークは、教育機会確保法(*6)をめぐって、だいぶ亀裂が入ってしまいましたね。その現状については、どう思われてますでしょう。


●原点に戻る必要が

木村 どうして、からめとられてしまったのかと思います。その以前から、どんどん居場所が「スクール」にシフトしてましたよね。居場所という言葉で、私がとてもよく覚えているのは、新潟で親の会をされていた桜井裕子さんの言葉です。桜井さんは、「子どもが来ても来なくても、とにかく開けて待っているのが居場所だ」っておっしゃっていたんです。いまは、そういう話から、どれだけ遠くなってしまったのかと思います。いつのまにか、柔軟なカリキュラムがどうのとか、そういう話になって……。子どもの居場所という原点に立ち戻ることが必要だと思います。

山下 吾郷さんはいかがでしょう。

吾郷 いつごろからか、全国ネットの世話人合宿も、とてもスケジュールを追うようになってしまったんですね。議題がたくさんあって、じっくり話すことができない。参加者の半分くらいは東京シューレのスタッフの方で、各地の会の話は、いちおうするんですけど、やりとりがなくなった。
 それは、教育機会確保法より前に、オルタナティブ教育法案と言っていたころからですね。2010年ごろだったでしょうか。あのときも意見を言ったんですけど、「あなたのそういう心配を払拭するために、これをつくるんです」と言われて……。私は、法律をつくること自体が、すでに、そこからはみ出す子をつくることになると思ったんですが、フリースクールのネットワークで検討してきたことを、とにかく了承してください、というかたちでした。フリースクールと言っても、子どもとの関係を大事にしているところばかりじゃない。スタッフも働いているわけだし、経営が第一にならざるを得ない。そのあたりから、全国ネットも雰囲気が変わったなと感じました。とりわけ、教育機会確保法は決定的でした。

山下 教育機会確保法は、突然出てきたものではなくて、それまでの経緯がありましたね。だんだん、そういう方向に行っていたのが、とうとう、あのかたちにまでなった。2000年代に入って風向きが変わってきたときに、どっちを向くかが問われていたのでしょうね。私自身、ずっとフリースクールに関わってきていますので、とても考えさせられました。

吾郷 そうですね。私自身も、全国ネットに学んできたので、揺らいでくれるなと思って、舌足らずでしたが、がんばって意見してきたんだけど、もう無理かなと感じてます。

木村 逆に原点に戻る必要は出てきてるでしょうね。それは、自分たちでやっていくほかない。

山下 かたちは変わってもいいですし、反省点はあるにしても、親の会で見えていたものを昔話にしてはいけないのではないかと思います。お話をうかがっていると、いまの現役の親世代とは、だいぶ感覚がちがってきているところもあるのだと思いますが、共有して考え合っていける可能性は、どうでしょうか。

吾郷 そうですね。何度もお話はしているのですけど……。

木村 私たちのときは、親が自分の毛穴をぜんぶ開いて、自分で感じて、考えるほかなかった。いまだって、いじめの重大事態だとか、子どもを薬漬けにされてしまった場合だとか、土壇場に追い込まれたら、お母さんは、子どもを守るために何でもする。追い込まれたら、誰かにゲタをあずけるのではなくて、自分で考えるほかない。不登校とかひきこもりを経験した人って、親も含めて、そういうところを経ていると思います。そこは共通すると思います。

山下 かといって、そこまで追いつめられないといけないのか、という問題はありますね……。話が戻りますが、不登校その後について、それぞれのお子さんは、どうされているのでしょう。


●それぞれ不安定

吾郷 うちの子は3人とも家を出てしまいました。長男は演劇をやってたんですが、いまは京都の建設会社で働いてます。最初に入った会社では、部分的な仕事しかできないので満足できなくて、施工関係の資格をとって辞めて、小さい会社に転職しました。家を建てたりリフォームしたり、全般をやっているようです。いまは最高にやりがいを感じてやっているようですが、忙しくて身体を壊さないか心配です。
 次男はずっと家にいて、パソコンばかりやっていたんですが、22歳ごろ、突然出てしまって、いまは東京でプログラマーの仕事をしてます。私には、仕事の内容はまったくわからないですけど、おもしろがって熱心にやってます。でも、仕事漬けだったせいか、一時は、うつっぽい状態になってました。ちょっとようすがおかしくて、周囲から病院に行ったほうがいいと言われ、結局、少し休養して回復したようです。本人も「日進月歩の世界だから、いつどうなるかわからない」と言うので、私は「ダメになったら、いつでも帰っておいで」と言っています(笑)。それこそ、屋根とご飯はありますからね。いまは、休日はしっかりとって、自分の身体のことも思いながら働ける状態になったのかなと思います。
 長女は、東京でシューレ大学の学生をやってますけど、バイトもしながら生活してます。「東京はいいところじゃない」とは言ってますが、こっちに帰ってくるのかどうかはわかりません。
 3人とも中卒ですけど、学校に行かないで生きるという信念は、長女にはあるかもしれませんが、下の2人にはまったくないと思います。彼らは、とにかくお金を稼ぎたい人たちです。まあ、親からすると、お金のかからない人たちでした。「ひもつきの金はいらない」とか言って、16〜17歳から年齢をごまかして夜のバイトをしてたりしましたからね。
 学校に行かない生き方がよかったどうか、本人たちがどう思ってるかはわかりません。そういう生き方を強いてきたつもりはないですけど、私自身のなかには、そういう気持ちはあったので、子どもは何か感じていたかもしれません。学歴があったほうがよかったのかどうか、私にはわからないですね……。でも、いずれにしても、どの子も不安定な状況にいることはたしかです。でも、学校歴のある人も、いまは同じように不安定ではないでしょうか。

山下 そうですね。若い人の置かれている状況は、不登校であったかどうかに関係なく、不安定になっていると思います。フリーダスのほかの方のその後は?

吾郷 フリーダスを出た子の多くは、関東に行っています。ひとり行くと、みんなつられて行くような感じで。それは止めようがないです。


●答えは出てないけど

山下 木村さんのお子さんたちは?

木村 長女は岡山にいますが、長男と次男は親元にいます。長女は大学まで、ずっと学校に行った子で、「自分は弟たちのように強くないから、しんどくても行き続ける」と言ってました。それで、「ちゃんと働く人と結婚する」って言って(笑)、結婚して子どもを3人育てています。
 長男は、高校は通信制に行って、2年くらいでやめて、大検(現在の高卒認定)を取得してました。それからずっと家にいて、そのころは、しんどそうでしたね。でも、あるとき突然、技術訓練校に入ったんです。それまでずっと家にいたのに寮に入って、ぜんぶ自分で決めてきて、「初めてお母さんの手垢のついてないところに行った」と言われた(笑)。

吾郷 ずばり(笑)。

木村 左官屋さんのコースでね。高所恐怖症を克服しようとして、バンジージャンプをしたり、ジェットコースターに乗ったりしたらしい。職人の先生は、学校の先生とぜんぜんちがって、よかったみたいです。いろんな友だちができて、寮も楽しかったみたいです。卒業後も家にいて、ときどきバイトをしてましたけど、いまは知人の介護の事業所で事務の仕事をしています。それで、放送大学も受講しています。介護の仕事もたいへんですね。夜勤もあるし、働き過ぎですね。身体を壊さないといいんだけど……。
 次男は、YCスタジオのスタッフをしています。

吾郷 役者をやってたよね。

木村 役者というより、音響とか照明でがんばってたんだけど、田舎のアマチュアの限界というかね。一度、俳優座の人と仕事をして、あまりのレベルの差にショックだったと言ってました。
 飲食店で働いていたこともあって、YCスタジオでも、お総菜のメニューや調理法を考えたり、ものすごくがんばっていました。でも、なかなか思うようにはいかなくて……。30代半ばですし、何か考えているとは思いますけど、よくわかりません。
 あと、YCに来ている子は東京に行かないですね。動けない子も多いですし、お金もないですし。

山下 いずれにしても、若い人が苛酷な状況に置かれているなかで、不登校から問われてきたことを、もう一度、どう考えられるのか。本音で考え合っていくことが必要かなと思います。

吾郷 そうですね。そうでないと、状況に振り回されてしまいますね。

木村 私たちは若いころに学生運動をやっていて、そこで命を落とした同級生もいるし、あのときに考えてきたことと、不登校で見えてきたことは共通するところがあります。そういう意味では、みんな子どものころから、がんばったなって思います。でも、答えは出てないよね。たぶん……。

山下 私自身もですが、不登校に関わってきた人が、あらためて問い直しつつ、話せる場をつくっていかないといけないと思います。一方で、NPOの関係者も、食べていかないといけないですから、そのあたりは悩ましいですね。NPOはブラック企業以上にブラックになってしまっているという問題もあります。そこはきついところだと思います。

木村 きついよね。若い子には、下手にNPOで働かせられないです。生活を保障できないですから。

吾郷 たしかに、お金の問題は大きいですね。そういう意味では、フリースクールが経営重視になったのも、わからなくはないですね。

山下 お金の問題を軽視できるのは、これまでの「遺産」を使える立場の人で、いまの多くの子ども・若者は、あてにできないですからね。自分の労働力を売るほか生きていく道がない。でも、お金に屈したくはないですし、お金との折り合いをどうしていくかは、大きな問題だと思います。いろいろ悩ましいですが、試行錯誤しながら、いっしょに考え合っていければと思っています。今日はありがとうございました。

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*1 1987年12月3日、鹿児島県立牧ノ原学園に収容されていた13歳の男児が職員7名から集団で暴行を受け死亡した。職員は逮捕され、懲戒免職。その後起訴され、鹿児島地方裁判所で有罪判決を受けた。

*2 1977年、工藤定次氏が東京都福生市に開設した学習塾。地方の登校拒否生徒の復学を支援するとして、入寮施設なども開いてきた。1999年からはNPO法人化し、青少年自立援助センターとして活動している。

*3 1999年、ソウル市が延世大学に運営委託した青少年職業体験センター。ハジャは韓国語で「やってみよう!」の意。

*4 1987年、ソーシャルワーカーとして病院の精神科で働いていた松浦幸子さんが、「心の病気をした人たちが孤立せずに暮せるよう、食事づくりで交流する場をつくろう」と、東京都調布市で始めたレストラン。

*5 現在は、次のような警告が表示されている。「海外で実施した7〜18歳の大うつ病性障害患者を対象としたプラセボ対照試験において有効性が確認できなかったとの報告、また、自殺に関するリスクが増加するとの報告もあるので、本剤を18歳未満の大うつ病性障害患者に投与する際には適応を慎重に検討すること。」

*6 2015年5月、不登校児童生徒など「義務教育段階に相当する普通教育を十分に受けていない者に、多様な普通教育の機会を確保すること」を目的とする法案が超党派の議員連盟により提案された。これにより、フリースクール、家庭学習、夜間中学校や外国人学校などを含め、多様な場が教育機会として認められ、経済的支援がなされると期待する声もあった。しかし、反対や慎重論の声も多く、大幅に変更された案が2016年の通常国会に上程され可決・成立した。
【親/親の会の最新記事】
posted by 不登校新聞社 at 20:17| Comment(2) | 親/親の会
この記事へのコメント
こんばんは
私の息子も、フリースクールへ、行けて
幸せでした。
記事を、拝見させて頂き、本当に、初期の頃は、大変だった。
と、感じながら、読ませて頂き ました。
本当に、ご苦労様でした。
息子を通わせられた頃は、親の会も出来ていて、おかげで私は、助かりました。
服薬の話は、知的障害ある、息子の事、で、私も勉強しました。

フリースクールや、親の会がもしも
無ければ、どうしていただろう?
と、考えました。
本当に、偉いお母様、いらっしゃると
感じます。
記事ありがとうございました。
Posted by 丸子七重 at 2017年07月22日 21:35
コメント、ありがとうございます。当事者や、その親は、ほんとうに苦労してきた歴史があると思います。いただいたコメント、吾郷さん、木村さんにも伝えておきますね。
Posted by 山下耕平 at 2017年07月24日 07:24
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