2017年07月07日

#22 北村小夜さん

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(きたむら・さよ)
1925年、福岡県久留米市生まれ。1950年〜1986年まで都内の小・中学校で教員(そのうち1965年から86年の退職まで中学校で特殊学級担任)。子どもたちとのつき合いのなかから、子どもを分けてはならないことに気づき、共に学ぶ地域の学校づくりを目指して、障害児を普通学校へ・全国連絡会世話人などで活動してきた。1990年〜1991年、中国の長春師範学院で日本語を教える。著書に『一緒がいいならなぜ分けた』(現代書館1987)、『再び住んでみた中国』(現代書館1992)、『能力主義と教育基本法「改正」』 (現代書館2004)、『戦争は教室から始まる』(現代書館2008)など。

インタビュー日時:2017年6月5日
聞き手:山下耕平
場 所:北村小夜さんご自宅(東京都大田区)
写真撮影:山下耕平

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〈テキスト本文〉

山下 北村さんは、お生まれは何年になりますでしょうか。

北村 私は1925年、福岡県久留米市に生まれました。92歳なので、明日には死んでるかもしれません(笑)。私が生まれた年に治安維持法が公布されて、その後、どんどん戦争に向かっていって、20歳のときに敗戦になりましたが、戦後の混乱期は相当なものでした。食べ物はないし、多くの人が死んでいるか生きているかわからなくて、人さがしをしていて、進駐軍の検閲も厳しくて……。
 来年が明治維新から150年ということですが、大ざっぱに言えば、明治維新から敗戦までが70年ちょっと、敗戦後から現在までが70年ちょっとですね。いまは、私が子どものころ、戦争前の状況とよく似ています。ちょうど少し前に震災もあって、偶然かもしれないけど、いろんなことが重なる。戦後、こんなに物騒な時代はなかったと思います。

山下 なるほど、たしかに符合することが多いように思いますね。まずは、ご自身の子ども時代の、学校との関係からうかがいたいのですが、小学校に入学されたのは何年になりますでしょうか?

●みんな軍国少女だった

北村 1932年、昭和7年でした。小さいころは、わりとひ弱で、学校を休むことも多かったです。だけど、家で寝ているのは、とってもしんどいし、友だちが来ても縁側までで、それ以上、親しくできないし、ものすごく学校に行きたくてね。二度くらい、親の目を盗んで学校に行ったことがあります。でも、二度とも、お手伝いさんが先回りして待ちかまえていて、連れ帰られてしまいました。運動会の日は、家族でいっしょに行って、先生が「よく来たね。みんなといっしょに走ってもいいよ」と言うんだけど、私からしたら、運動場はゴビ砂漠みたいに見えて、おそろしくて走れない。低学年のときは、そんな感じでした。

山下 何か、病気をされていたんですか?

北村 大きな病気ということではないですが、いわゆる虚弱児童だったということです。しょっちゅう病気をしていて、カゼでも、最初に私がひいて、兄弟4人が次々にひいて、最後に一回りして、私がもう一度ひいて終わり(笑)。

山下 一方で、軍国少女だったということですね。

北村 あのころは、軍国少女(少年)じゃない子はいなかったですよ。日中戦争が始まって、軍国主義の強まる時代でしたからね。たとえば、小学校の作文の時間では「今日は満州の兵隊さんにお手紙を書きましょう」と言われて、兵隊さんの慰問袋に入れる慰問文を書いてました。学校に頼まなければ数を得られないから、子どもに書かせていたんでしょう。書き出しはかならず「極寒のみぎり、さぞ匪賊討伐も困難のことと思います」でね。もう覚えてしまっていました。当時は、匪賊というものがいると思っていたわけです。正体は何だと思いますか?

山下 中国の人たちということでしょうか。

北村 そうです。中国の人たちからしたら、愛国の志士ですよね。でも、中国には匪賊、悪い人がいるもんだと思っていた。だから討伐するんだって。後に、日本人から匪賊と言われた人たちに実際に出会って、私は愕然としました。

山下 疑いがなかったわけですね。

北村 それが教育ということですよね。いま、教科にしようとしている道徳もそうです。大げさな言い方をすれば、真理の探求をさせない仕組みになっている。いまだに、教育勅語はよいという人がいますが、あそこで言われているのは、たんに親孝行だとか夫婦仲良くというものではない。肝心のところは絶対に見せないわけです。国民ひとりひとりに考えさせないというのは、権力者が治めるうえでは有効な手段でしょうね。

山下 肝心のところというのは、「一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ」というところでしょうか。

北村 その後に「以テ天壤無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ」「忠良ノ臣民タルノミナラス又以テ爾祖先ノ遺風ヲ顯彰スルニ足ラン」となっているでしょう。要するに天皇制国家を維持することが最終目的になっているわけです。国民が死ぬのも生きるのも、すべてそのためになっている。1930年には文部省(当時)が教育勅語の通釈を出してますが、そこには「神勅」にもとづいて、と書かれています。そこまでが一連のものなわけです。

山下 国民が主語ではなく、あくまで天皇が主語になっているわけですね。

北村 そうです。1948年に国会で教育勅語の排除を決議したとき、参議院で羽仁五郎(1901―1983)は「たとえ完全なる真理を述べていようとも、それが君主の命令によって強制されたというところに大きなまちがいがあった」と述べています。要点は、この一言に尽きると思います。日本は、いまだに、そこを抜けられてないわけですね。


●修身と道徳

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【1938年、福岡県久留米市立南薫小学校6年3組(北村さんのいた学級)の最後の授業(国語27課)】


山下 この写真(上)は、北村さんがおられた教室ですか?

北村 そうです。1938年、私が小学校6年生のとき、国語の授業で、読本「ハナ・ハト・マメ・マス」の最後をやっているところです。小学校でも男女共学ではなかったので、教室にいるのは女子だけですね。
 この写真1枚から、いろんなことがわかります。たとえば、壁の右上には日本全図が貼り出されてます。日本は、日清戦争(1894―1895)で台湾を植民地にし、日露戦争(1904―1905)で樺太の南側を日本領にして、1910年に韓国を併合しますね。さらに第一次世界大戦(1914―1918)で、ドイツから山東省とパラオやマーシャル諸島などの統治権をとる。それが、この1枚の地図に書いてあるわけです。
 黒板の上のほうにあるのは年表なんですが、天照大神から今上天皇までの国史年代表で、歴史に神代が入っているわけです。年表の右下には伊勢神宮の写真が飾ってあって、左下に皇居の写真があります。
 当時は、修身が首位教科で、あとの教科は、算数も国語も音楽も、すべて手段だったんです。それで、4年生になったら教育勅語を暗唱させられる。そういうところで育てば、ひとり残らず軍国少女です。あと、右側の壁には、机に座る際の姿勢の絵があります。姿勢にまで、道徳が貫かれているわけです。
 それは、いまも同じですね。文科省は、道徳というのは、すべての教科が道徳的でないといけないと言っているでしょう。そして、来年度から道徳を「特別の教科」にするとしている。健康診断でも、昨年から「四肢の状態」を検査することになって、子どもの四肢の機能、姿勢までチェックするようになってきている。

山下 北村さんは、「修身に書かれている内容は立派すぎて、ほんとうのことなんですか?」と聞いたそうですね。

北村 自分でもいいことを聞いたと思います(笑)。子どもは、なかなか親孝行なんてできないし、むしろ困らせたりしているのに、修身では、そういう子はまったく出てこない。みんな刻苦勉励して、えらくなるだけです。それが不思議でした。それで、卒業前に担任の先生が「間もなく卒業だけど、聞いておくことはないですか?」と言うので、そう聞いたんです。そうしたら、担任の先生には「ほんとうに決まってます。6年間、一所懸命勉強してきたのに、そんなことを考えながら勉強してたの? がっかりした」と言われました。そのとき、隣のクラスの若い男の先生が「みんなが親孝行で、みんなが忠義だったら修身の本はいらないね」「修身を教えるのは、親孝行してもらいたいから、忠臣になってもらいたいからだよ」と言ってくれたんです。それで、長年の疑問が解けたように思いました。でも、「誰がやってもらいたいんですか?」と聞いたら、「それは自分で考えなさい」ということでした。いま考えると、よく言ってくれたなと思います。子どものまわりには、そういう大人がいないとダメですね。

山下 上の言うことを忖度するばかりの大人では、ダメですよね(笑)。小学校を卒業したあとは、どうされたんでしょう。

北村 旧制の女学校に行きました。女学校は制服があって、すごく自慢に思っていたんです。でも、それを着る期間は少なくて、だんだん、もんぺを履くようになりました。錬成服と言ってましたね。
 女学校にいたのは日米開戦前ですけど、防空演習があって、そのころは、よく防毒マスクつけて演習をしてました。学校の校庭は畑になっちゃうし。体育のなかに長刀が入ってきたり、そういう感じでしたね。


●看護婦として満州に

山下 女学校を出られたあとは、救護看護婦として満州に行かれたそうですね。

北村 そのあたりは、ほんとうは消してしまいたい過去です。何度か書いたり話したりはしてますが、そこをどう考えるかは、まだ課題として残ったままです。
 女学校を卒業後、いろいろあって進学できなくて、たまたま新聞で募集しているのを見つけて、応募しました。ソウルの養成所に2年いて、ほんとうは養成期間は3年なんですが、戦争になって繰り上げられて、満州に派遣されました。
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【1942年、救護看護婦養成所入学時の北村さん】

山下 関東軍付の看護婦ということですね。

北村 そうです。陸軍病院があったのは鉄嶺という町で、満州の南のほうです。そのあたりは、政治的な争いの非常に激しいところで、政治犯の刑務所もありました。そこで敗戦を迎えたんですが、鉄嶺に最初に来て関東軍を武装解除したのは、ソビエト軍でした。その兵隊の大部分は、少年兵で、自動小銃を引きずって歩くような小さい子もいました。
 ソビエト軍のあと、国民政府軍が来て、そのあとに八路軍(*1)が来ました。みんな片っ端から物を持って行くんですが、八路軍は、前の二つに比べたら、礼儀正しかったですね。それで、どういうわけか、私は八路軍に随行することになったんです。

山下 看護婦を必要としているから、連行されたということでしょうか?

北村 そうだったんだと思いますが、よくわかりません。ぜんぶ、なりゆきだからね。その場にいたら、そうなってしまったんです。1年ほど、八路軍とともにいました。当時の八路軍は、毛沢東の「民衆の物は針1本、糸1筋も盗るな」などの規律が守られていて、ぜんぜん居心地は悪くなくてね。そのとき初めて、餓えというのは量の問題じゃないと思いました。平等に分けられているときは、1日におかゆ1杯でも飢餓感は感じませんでした。八路軍は関東軍とは大ちがいで、そして、この人たちが、私が慰問文に書いていた「匪賊」だったわけです。それには、ほんとうに愕然としました。
 私は、ずっと八路軍とともにいてもいいと思っていたんですが、1946年の夏、ハルピンに出たときに、日本人が引き揚げているという噂を聞いて、私もちょっと日本を見てこようと思って、知人のつてを頼って帰国しました。結局、そのままになってしまいましたけれど。

山下 実家に帰られたんですか?

北村 実家に帰ったんですが、さまがわりしていました。それまでは不在地主(*2)で、いわば余米で暮らしていたんですが、農地改革で許されなくなって、在村地主だったら、1町は残せるというので、父の実家の蔵に住んで、1年ほどは1町のうち1反で稲作りをしてました。あのころは、お金がなかったうえに、円が新円に切り替わって、価値が10分の1くらいに暴落したりして、どうしていいかわからなかったですね。


●エロ本の絵師から教員に

 そんななか、絵描きになろうと思って、東京に出たんです。当時、芸大は女子を受けいれてなくて、日大の芸術科は受けいれるというので、入学しました。そのころは軍隊の兵舎跡のボロボロの校舎でね。そこから煙が出ているときは、裸婦を写生しているときで、ほかの学科の学生も興味を持っていました(笑)。ふだんは、寒くても薪なんかないときだけど、裸になってもらうために薪を焚いていたんです。
 ただ、ここにいても何ともならないと思って、2年で辞めて、エロ本の挿絵を描く仕事をしてました。

山下 エロ本ですか! それはびっくりです。

北村 これはね、おもしろかったよ。「上手じゃなくていい、下手ほどエロを目的にしている人にはいい」と言うわけ。けっこう売れてね。これでしばらく食えるなと思ってました。だけど、一般の本屋には出ない、別ルートで出回るものでしょう。後楽園の白山通りに面した一角に闇市があって、そこにミルクホールというのがあったのね。いつも、そこで取次と交渉していたんだけど、ピンハネされているにちがいないと思って、出版社に直接交渉しに行ったんです。そうしたら、それが問題になって、クビになってしまった。それで困ってしまって、どうしようかと考えて、教員にでもなるかと思ったんです。

山下 なんでまた、教員だったんでしょう。

北村 父も教員をしていたことがあったんですね。父は、工業高校を出て、神戸造船で技術者として働いていて、加賀という軍艦の設計なんかもしていました。ところが、海軍とのあいだで事件を起こして解雇されたんです。解雇されたばかりか、工兵少尉の位と選挙権も剥奪されて、九州へ戻ってきたんです。でも、戻ってきたら、そんなことは誰も気にしなくて、久留米市立の商業学校の教員の口が空いているからと声をかけてもらって、理科の教師になったんです。
 それと、私の伯母(父の姉)も教員をしていたんです。最初の夫を早くに亡くして、昔のことで、その弟と結婚することになったんですが、これが売れない絵描きで、みんな反対するんです。そうしたら「私が働けばいいんでしょ」と言って、教員になった。それは、子どもから見ても見事だと思いました。親戚の女連中は、伯母の悪口を言っていましたけど、子ども心には、あっちのほうが絶対に格好いいと思ってね。
 そういうことを身近に知ってたものですから、いざとなったら教員になればと思ってたんです。最低限の給料はもらえるし、そんなに悪い仕事じゃないでしょう。父も、困っている生徒の授業料をちょっと立て替えてやったら、その人は、ずっと父のことを信じてくれていたりね。昔の教師は、その人を丸抱えにして、人情的につき合うことができた。

山下 いわゆる「でもしか先生」ですね。教員免許は持っておられたんですか?

北村 大学にいたとき、ほとんど単位はとってなかったんですが、教員の臨時免許があって、それだけは取っておいたんです。それで、東京都の教育委員会に出向いて「教師になりたいんですけど、どこか口はありますか?」と聞いたら、「川向こうならありますよ」と言ったんです。墨田川の向こう側を指していたんですが、花街みたいなのもあって、下町でね。私は何だかよくわからないまま、いったん帰って、そのうちと思っていたんです。それが1950年6月29日のことだったんですが、その晩、江東区の平久小学校の校長が家までやってきて「明日から来てください。明日からおいでになると、6月分の給与が差し上げられます」と言うんですね。それで、のこのこ教員になったんです。
 当時、江東区の永代通りから海岸側には、公立では平久小学校しかありませんでした。あと、豊洲小学校が平久の分校だったんです。それから、水上学校があって、これは水上生活者の学校だったんです。寄宿舎制で平日は学校が子どもをあずかっていて、土曜日になると、親が船で迎えに来る。それから、朝鮮学校がひとつありました。あのあたりには、学校はその4つしかなかった。いまは、すごくハイカラなところになって、学校もたくさんできていますけど。

山下 親は、木場で仕事している人が多かったんでしょうか。

北村 あのあたりは、いまは堀を埋め立てられているけど、ほとんどは材木置き場で、材木関係の人は多かったですね。それと造船関係。造船といっても大きな船ではなくて、木の船を造っている職人さん。仕事はたくさんあったけど、材料がないとできないから、みんな工夫して生きてました。


●授業中に銭湯に

山下 当時の小学校のようすは、どんな感じだったんでしょう?

北村 何しろ、何もなかった。平久小学校は鉄筋コンクリートで、空襲で焼けても建物は残っていたものだから、空襲で焼け出された人が住んでいたんです。窓ガラスがなくて雨の日は困りましたし、地下には水が溜まったままで、探すと、まだ遺体がある状況でした。
 そういう状況でしたから、何かすれば、それだけで、みんなが喜んでました。当時は、学習指導要領も試案でしかなかったので、教師は子どもと相談して、自由にできましたしね。

山下 授業中に銭湯に行かれたと聞きましたが。

北村 学校の近くに都営住宅があって、そこに都営浴場があったんです。ふつうの銭湯はやってなくても、都営浴場はときどきやっていて、それをみんなが注目している。あるとき、授業中に子どもたちが「先生、ほら煙が出てるよ」って言ってきてね。それで「じゃあ、行こうか」って。ほかの人に知られないように、ひそかに歩いて、30人くらいでいっしょに行きました。道すがら、親の人に「どこに行くの」と聞かれて、「風呂だよ」と行ったら、大急ぎで手ぬぐい2〜3本集めてきて「これ持ってきな」って言ってくれて。帰ってきたら、校長が「どこへ行ってきたんですか」と聞くので、「風呂に行ってきました」と言ったら、「ああ、いいことなさいましたね」と。誰だって風呂に行きたかったわけで、でも、学校中でいっしょに行くわけにはいかないから、認めるほかなかったんでしょうね。

山下 お風呂代はどうされたんですか?

北村 どうしたんだろう、払った覚えはないね(笑)。

山下 当時、学校に来ない子はいたんでしょうか?

北村 いたかもしれないけど、登校拒否という感じの子はいなかったですね。子守をしている子なんかもいて、むしろ学校には来たかったんだと思います。学校に来るほうが、何かと付き合ってもらえるわけですしね。 当時は、登校拒否なんて考えたこともなかったです。ずっと後になって、自分が直面するより先に、世間で話題にされているのを聞いたときは、「なんて上等なことを考えるんだろう」と思いましたね。当時は、学校に行かないとか、行くのがイヤだというほど、学校を批判的に考えたことはなかったです。

山下 時代状況もちがいますし、同じ長期欠席といっても、その背景はずいぶんちがったのでしょうね。その後、大田区に移られたのはいつごろだったのでしょう?

北村 4年ほどして、同僚と結婚したことで(のちに離婚したんですが)、大田区の大森第六小学校に異動しました。

山下 そのあたりの地域は、どんな感じだったんでしょう。

北村 ちょっと海岸に行くと、海苔屋さんが多く、広い海苔の干し場があったりしました。いまは、みんな漁業権を放棄しちゃいましたけどね。あとは、やっぱり造船関係の人は多かったですね。

山下 いずれにしても、自営業の人が多くて、サラリーマンなんかは、あまりいなかったのでしょうね。北村さんは、大きな変化は1958年にあると書かれていますが。


●1958年、すべてが変わった

北村 1958年にすべてが変わったんです。その以前の話からしますと、1950年に教師になって、最初に組合活動に参加したのは、朝鮮学校廃止反対の運動でした。教員の政治活動は、1954年の教育公務員特例法「改正」で制限されてしまいましたが、その以前は、任地を離れれば政治活動ができたんです。任地が江東区だったら、隣の江戸川区に行けば、都議選の選挙活動もできました。いまは国家公務員並に制限されてますけどね。それとともに、国民は力を失っていくんです。
 1956年に、初めて日教組の教研集会に参加しました。愛媛県の松山で開かれて、当時は新幹線なんてないですから、長い時間かけて電車に乗って、船で高松に渡って、塩田を眺めながら予讃線に乗ったのを覚えてます。何せ1万人も集まるものだから、久松定武(1899―1995)知事があいさつに来て、「人の来ない寒い時期に、おおぜい来てくださって、ありがとうございます。日教組はおそろしい団体だと思っていたけど、ありがたいです」と言ってたんです。ところが、それから何カ月もしないうちに、彼は勤務評定の実施を強行したんです。

山下 愛媛からだったんですね。

北村 久松知事が、財政難から教員の人件費を抑制するために思いついたんです。その後、佐賀でも闘争になって、石川達三の小説『人間の壁』のモデルにもなりました。同時に、それは国の政策でもあったんですね。文部省は勤務評定の全国実施を要望し、都道府県教育長協議会が「教職員の勤務評定試案」を発表します。国の目的は教員を管轄下に置くことだったんでしょう。それで、1957年〜1958年にかけて、勤評闘争が本格化します。日教組は「勤評は戦争への一里塚」というスローガンを掲げて激しく反対運動をしましたが、勤務評定は1958年から実施されることになってしまいました。

山下 教員が、上からの評価を気にしないといけなくなったわけですね。

北村 そうです。そのへんのことは、いろいろありますね。1958年は、それだけではなく、いろんなことがいっせいに始まったんです。まず、学習指導要領が「試案」から「基準」になりました。そこで基準にについていけない子、「できない子」が出てくる。そして、学校保健法が制定されて、就学時健診が実施されるようになりますが、健診項目には知能検査が義務づけられた。つまり、子どもを分け始めたわけです。くわえて、「道徳の時間」が始まります。学習指導要領には「儀式など行う場合には国旗を掲揚し、君が代を斉唱することが望ましい」という文言が入りました。

山下 1958年に打ち出された一連の動きは、セットだったということですね。

北村 そうです。その後、1961年に文部省は「我が国の特殊教育」という文書を出しますが、その第1章「特殊教育の使命」には、こう書いてあります。

 この、五十人の普通の学級の中に、強度の弱視や難聴や、さらに精神薄弱や肢体不自由の児童・生徒が交じり合って編入されているとしたら、はたしてひとりの教師によるじゅうぶんな指導が行われ得るものでしょうか。特殊な児童・生徒に対してはもちろん、学級内の大多数を占める心身に異常のない児童・生徒の教育そのものが、大きな障害を受けずにはいられません。
 五十人の普通学級の学級運営を、できるだけ完全に行うためにも、その中から、例外的な心身の故障者は除いて、これらとは別に、それぞれの故障に応じた適切な教育を行う場所を用意する必要があるのです。


 つまり、障害のある子のためだけではなくて、普通学級から障害のある子を追い出すと、普通学級の能率がよくなる。ここに、特殊教育が推進されてきた理由があるわけです。


●特殊学級の教員に

 「能力適性に応じた教育」ということだけを聞けば、そんなに悪いこととは思わないかもしれません。私自身、最初から問題をわかっていたわけではありませんでした。小学校の教師をしていて、最初は、「できない子」を気にしたことなんてなかった。それが学習指導要領が試案から基準になって、それに合わせようと思うと、「できない子」が出てくる。そこに、特殊教育の情報が入ってくるわけです。「その子に合った教育」という言い方をされると、何か特別の教育法があるように思ってしまう。それぞれの子どもに合った、いい教育をしてくれるように思う。それで、私も特殊教育なるものを勉強してみようかと思ったんです。
 それまで、特殊教育の教育法を学んだ教師はいなかったんですね。1961年に、東京学芸大学が特殊教育課程を設けて、現職の教員から受講者を募集したんです。学費はかからないし、給料をもらいながら勉強できるし、学割で映画に行けるし(笑)、これはいいと思って、喜んで応募しました。ふつうの先生より、もっと行き届いた教育をできる先生になれると思ってましたが、あとから考えたら、そこで教わったことは、子どもの見分け方でしたね。

山下 おもには、知的障害(当時で言う精神薄弱)を見分けようということでしょうか。

北村 いちばん大きな目標は、そこですね。でも、当時は問題意識はまだなくて、学生生活はおもしろかったし、特殊教育の免許状をもらって、1965年、大田区立志茂田中学校の特殊学級の担任になりました。
 まあ、すごく素直だったんです(笑)。でも、考えてみると、ちょうど60年〜65年ごろは、第1次ベビーブームが終わって、子どもが減る時期だったんですね。だから、現職の教員を派遣する余裕があった。特殊学級をつくるための空き教室もある。そういう条件がそろっていたんですね。

山下 いったん増やした教員と教室の使い途をつくる必要があった。

北村 うまくやるよね。少なくとも大田区の場合には、特殊学級は、ぜんぶ空き教室から始まってました。障害児教育にかぎらず、子どもの減る時期に改革をやると、お金をかけずにできるんです。だから、子どもの減る時期は危ないよ。

山下 日本で、いわゆる登校拒否の子どもが病院や児童相談所に連れてこられ始めたのも、1958年前後のようなんですね。その時期に、学校に拒否感を覚える子が出てきたことと、「できない子」が出てきたのとは、つながっていることのように思います。

北村 つながっているでしょうね。そう言われてみれば、当時、たしかに学校に行けてない子の話はあったように思います。しかし、それは何かの障害のような言い方をされていて、登校拒否という認識はなかったですね。


●いっしょがいいならなぜ分けた

山下 子どもを分けることの問題に気づいたのは、いつごろだったのでしょう。

北村 それは、赴任したその日に気づいたんです。私が特殊学級に赴任して、その学校の教師たちは喜んでくれました。「誰もやり手のなかったところに、あなたが来てくれてよかった」と言ってね。それで、教師がそんなに喜んでくれるのだから、子どもたちも喜んでくれるだろうと思って教室に行ったわけです。ところが、教室に入ったとたん、Hくんに「先生も普通学級落第してきたの?」と言われたんです。つまり、自分自身も、落第して、ここに来させられたと思っているわけでしょう。でも、とっさには意味がわからなくて、返事もできずにいたら、その子は肩をたたいて「先生なら大丈夫だと思うよ。もう1回、試験を受けて普通学級に戻れば」と励ましてくれたんです。それでやっと、特殊学級は、けっして子どもが望んで来ているわけではなくて、そこに分けられているんだと気づいたんです。
 でも、そのことを特殊学級担任の同僚に話したら、「そういうことは教育を受けた時期にも聞いたでしょう。でも、それにとらわれてちゃダメだよ、それが教師なんだから」と言われました。一方で、少し経ってから、その話を金井康治(*3)くんのお母さんにしたら、「あなた、よくその子の声が耳に入ったね。子どもたち、みんなそう言っているよ。だけど先生の耳には入らない」と、ほめてくれました。

山下 善意だと耳に入らないんでしょうね。

北村 そうでしょうね。それで、その日に決心したのは、なるべく特殊学級には受け入れない、なるべく普通学級に返すということです。でも、それは容易なことじゃない。自分たちを追い出したところに、おめおめと戻れるわけがない。
 そこで私は、おろかにも、交流を思いついたんです。普通学級の子といっしょに交流する時間が1時間でもあれば、そのぶん分けられた時間が減る、いっしょにいる時間が増えるほどいいと思ったんです。それで、学芸会なんかも、企画の段階から委員を出して、いっしょに話し合いをしながら対等にやろうと提案しました。もちろん教員仲間の抵抗もあって、ひとりひとり説得するのに時間もかかったし、たいへんでしたが、なんとか説得した。
 でも、それはまちがっていたんです。まず、教員を先に説得しようと思っていたことが変ですね。子どもたちと先に話し合うべきでした。教員を先に説得して、喜びいさんで「今年から学芸会をいっしょにやろうよ」と子どもたちに言ったら、Hくんから「いっしょがいいなら、なぜ分けた」と言われたんです。その一言で、またしても、私が何もわかってなかったことを思い知らされました。
 分けておいて、分けてないふりをするのはよくない。分けておいて交流しようというのは、分けられた子どもからしたら、おかしいわけです。そういう意味では、『みんなの学校』の大空学校なんてインチキだと思うよ(笑)。分けておいて、いっしょにしているわけだからね。大阪全体では、そういう雰囲気はあるでしょう。でも、私は、分けておいてのところが許せない。だって、ここは並の人では教育できない、たいへんな子どもがいると説明しているからこそ、そのための人件費だとか、お金が動いているわけでしょう。それをもらっておいて、子どもには「いっしょに」なんて、私だったら、そういうウソはつきたくないね。

山下 なるほど(笑)。要点は、シンプルにそこにあるわけですね。北村さんは、特殊学級は先に箱をつくっておいて、後から入れる子を探したんだと指摘されてますね。けっして子ども望んだわけではない。しかし、いまは発達障害などでも、より早期に分けていく方向になってますね。そういう意味でも、1979年の養護学校義務化は大きな分岐点だったと思いますが。


●養護学校義務化問題

北村 東京は5年早く、1974年から始まったんです。美濃部亮吉(1904―1984)知事が「心身障害児の教育機会均等をはかる」と都議会で発言したのを受けて、都は「全員就学」を掲げて、次々に養護学校をつくりました。
 たとえば、いまの七生特別支援学校は、もともと養護施設だったんです。親が養育できない子も含めて、いろんな子がいましたが、なかでも、おもに障害を持っている子が入所していました。私も、学芸大にいた1961年に見学に行ったことがありますが、その前は満州の開拓団の人たちのための訓練所だったところで、広い草っ原があってね。校庭の裏門のところでは、男性職員と男の子たちが、おしっこの飛ばし競争をしてました(笑)。そのころは、入所している子どもたちは、なるべく地域の学校に行こうとしていて、職員が、毎日、手分けして送り迎えしてたんですね。途中からは、子どもどうしにまかせたりしながら。
 ところが、そこに美濃部知事が見学に来て、「これは大変だ。土地はいっぱいあるんだから、ここに学校をつくればいい」と言って、学校をつくってしまったんです。そうすると、子どもたちも必然的にその学校に行くことになる。それで喜んだ親もいるけど、結果的には、分けられてしまったわけです。「全員就学」というのは、あくまで子どもを分けたうえでの就学だったんですね。
 その後、79年の養護学校義務化に対しては、養護学校義務化阻止共闘会議をつくって、八王子の養護学校を中心にして反対運動を展開しました。79年は共通一次(現在のセンター試験)が始まった年でもあって、そこはつながっていると思います。

山下 養護学校の義務化を推進した側の理屈としては、それまで就学免除・猶予だった子たちが就学できるようになったのだから、それはよいことだと言っていたわけですよね。

北村 そうですね。しかし実際のところは、学籍は与えても訪問指導が増えたんです。とくに地方では、週に2回ぐらい、先生が2時間ずつくらい来て、それで就学したということにしていました。
 また、そのころ岩手に行ったとき、おばあちゃんにこう言われたことがありました。
「昔、息子を軍隊にとられましたが、こんどは孫を学校にとられました」
 岩手では、養護学校が県にひとつとかしかなくて、家からは通えず寄宿になってたんです。そういうことはいっぱいあったと思います。でも、教研集会で報告されるときは、「自然豊かなところに学校があります」とか言う。自然はあっても、そこに社会はないわけです。
 その後、1981年は国際障害者年で、「完全参加と平等」がスローガンに掲げられます。中央心身障害者対策協議会(政府の有識者会議)に、文部省がこういうメモを渡してるんです。

障害の重い子どもを小・中学校で教育することの問題点

@障害の重い子どもに対しては、小・中学校では適切な教育ができない。
a.一般の教育課程に適応することが困難。
b.障害に応じた特別指導(点字学習、口話法等の指導、機能訓練など)を受けられない。

A一般の子どもたちの教育に支障が生じる恐れがある。
a.40人学級では、担任教員が、障害児の世話に追われ、一般児童の教育に支障が生ずる。
b.教員および一般児童の負担が増える。(善意の手助けのみを当てにできない)

B多額の財政負担を強いられる。
a.学校施設の改善(スロープ、エレベーターなど)や、特別設備、スクールバスの整備が必要となる。
b.専門教員、介助職員が必要となる。
c.盲、ろう、養護学校整備との関連で二重投資となる。

C現行の特殊教育制度、ひいては学校教育制度全体の根幹に触れる大きな問題となる。


 私たちは、ここに書いてある@〜Cを論破しないといけないと言ってきました。実際、親は@の「障害の重い子どもに対しては、小中学校では適切な教育ができない」という文言には反発できても、Aの「一般の子どもたちの教育に支障が生じる恐れがある」と言われたら、こたえます。「支障が生じてもいい」とは言えない。結局、日本の教育は、できる子をもっとできるようにするのが方針なわけです。だから、「完全参加と平等」を謳いながらも、結局は、障害への理解推進という方向になって、分けておいて、交流するにとどまった。けっして、いっしょにはならなかったわけです。

山下 79年の養護学校の義務化と、いじめなどが深刻化した80年代以降の学校のしんどさはつながっているように思います。そこに不登校の増加も重なるわけですが、北村さんは、教員として不登校にどう関わっておられたんでしょう。


●「障害児を普通学校へ」と不登校

北村 私は、いわゆる「学校ぎらい」「登校拒否」という子どもには、あまり出会ってないんですね。ひとりは、家に遊びに来ているうちに、それで済んでしまいました。それから、小学校で不登校になって、中学校は特殊学級だったら行くようになるのではないかということで来ている子もいました。その子は、家庭状況がたいへんで、小学校のときは、先生が迎えに行くと来るんですが、迎えに来られることは、彼にとってはたいへんな苦痛だったようでした。私が「来られるときに来ればいいじゃん」と言っていたら、毎日ではないけど、てきとうに来るようになって、卒業してからも、遊びに来てくれてました。
 別の中学校で不登校になって、教師に特殊学級でみてほしいと連れてこられた子もいました。その教師は、仲のいい友だちに迎えに行かせていたんですね。その友だちが迎えに行くと、確実に連れてくる。それでいいと思ってたんですが、実際は、その子にとっては、怖い存在だったから従っていただけで、朝、迎えに来る前に逃げてしまうようになったんです。その子は、結局、私の担任していた特殊学級に来るようになって、そのときは居心地よくしていましたが、卒業後特殊学級で過ごしたことをくやしがっていました。「特殊学級なんかあるからいけないんだ」と言っていましたが、そのとおりだろうと思います。
 何人か、そういう子はいて、特殊学級のほうが居心地よくしていることもありましたが、担任のほうは、そういう子を特殊学級へはじき出すことで、ほっとしているわけですね。それは、子どもをはじき出した普通学級の問題を助長することにもなる。だから、私はできるだけ普通学級へ戻すようにしていました。

山下 学校が変質していくなかで、そこで養護学校や特殊学級へ分けられた子と、みずから学校に拒否反応を示す子が出てきたのは、同じ状況のなかで生じたことですね。それに対する「障害児を分けるな」という異議申し立てと、「登校拒否は病気じゃない」「学校に行かないことを否定視するな」という異議申し立ては、どちらも、「ふつう」から分けてくれるなという意味では同じことのように思います。しかし、この二つの異議申し立ては、どうも噛み合ってなかった面もあるように思います。そのあたりは、どうお考えでしょう。

北村 80年代だったと思いますが、登校拒否が問題になったころ、障害を持った子にも似たようなことが起こりました。一所懸命、運動して、がんばって入った地域の普通学校に、子ども自身が行きたくないという。運動をしてきた側としては、がんばり続けてほしいじゃない。せっかく運動して入ることができたのに、やっぱり普通学校にはついていけないとなると、運動にとってはマイナスになるから、怖いわけです。でも、子ども自身は、そうはいかないわけだ。そこで、障害児を普通学校へ全国連絡会でも、ずいぶん話し合って、「ただでさえ、ふつうの子よりしんどいんだから、登校拒否になっても当然のこととして認めないといけない」「それぐらい学校ってひどいんだよということを訴えていこう」という話になりました。

山下 まわりの大人にとってではなく、当の子ども本人にとってどうか、ですよね。


●「いいところ」じゃない、シャバなんだ

北村 そうですね。全国連絡会の運動に関わっている人のなかには、「ふつうがいい」と言う人もいますが、私は、「ふつうは、いいところじゃない。シャバなんだ」と言ってきました。いいところ探しを始めると、特殊になってしまうんです。だから、「いいところ探しはやめよう。それよりも、いま、自分のいるところを少しでもいいところにしていこう」と言ってきました。

山下 シャバは問題含みのところだと。

北村 そう。将来にわたって、特別なところで生きるのでなければ、シャバに暮らしつづけるほかないじゃない。だから、学校だけの問題じゃないよね。

山下 その時期だけ守られるのはちがうということですか?

北村 その時期に守られるクセがついたら、シャバにはいられないよ。シャバはいいところじゃない。ふつうのところです。

山下 でも、そのシャバの寛容度が低くなってきたから、子どもが苦しんできたわけですよね。

北村 ふつうが狭まってきたからね。できる子も、できない子も分けられてきたから、ふつうがどんどん狭まってきた。

山下 なるほど。障害児だけではなくて、できる子も分けられてきたから、ふつうが狭まっているということですね。でも、実際のところは、子どもたちは、より細かく分けられてきていますね。2000年代に入ってから発達障害がクローズアップされて、特別支援学級へ分けられる子どもは急増しています。発達障害については、どうお考えですか?

北村 私たちから見れば、その子の性格だなと思う程度のことに、ぜんぶ診断名がついてしまってますね。知らない診断名がどんどん増えて、それには、ちょっと付き合いきれないなと感じてます。
 障害児教育の分野でも、なぜ発達障害が増えるのか、ずいぶん論議した時期があります。いろいろ調べたりもしました。診断が的確になったとか、学校がしんどくなったとか、いろんな見方がありますが、要は社会の懐が狭くなったということでしょう。
 しかも、発達障害のなかでも、できる子だけが特別扱いされてますね。2000年の教育改革国民会議の最終報告には、こう書いてありました。

 不登校や引きこもりなどの子どもに配慮することはもちろん、問題を起こす子どもへの対応をあいまいにしない。その一方で、問題児とされている子どもの中には、特別な才能や繊細な感受性を持った子どもがいる可能性があることにも十分配慮する。


 できない子を普通学級から追い出すと同時に、そのなかにいる、できる子を探せということです。

山下 教育機会確保法も同じですね。下村博文文科大臣(当時)は、2014年に「不登校児のなかには、未来のアインシュタインやエジソンが眠っているから、そういうダイヤモンドの原石を発掘したい」と言って、フリースクール支援を言明しました。そういう選別のまなざしは、かたちを変えて、くりかえしているわけですね。

北村 そうですね。ぜんぜん変わってない。


●シャバは完全にはならない

山下 インクルーシブ教育というとき、合理的配慮ということが求められますね。それは子どもを分けて配慮するのではなく、いっしょに過ごすために必要な配慮ということだろうと思います。しかし、この「いっしょに」というのは、ややもすると同調圧力になってしまって、「ふつう」とちょっとでも異なることが、抑圧になったり、攻撃対象になったりしてきたように思います。それは、とても息苦しい。「いっしょに」には、合理的配慮がないと、抑圧になってしまう面もあるのではないでしょうか。つまり、シャバのあり方が問われている。そうでないと、個人の力だけではがんばれないように思います。

北村 合理的配慮も勘ちがいされてるからね。でも、いくら手入れしたって、シャバって完全にはならない(笑)。だから、絶えず何か言っていくこと、論争していくことが必要なんです。いい世の中なんて、あるはずがないんだから。

山下 どこかに理想郷があるわけではないわけですね。それは、フリースクールなどにも問われることだと思います。

北村 私は、本気でつき合ってれば、子どもはなんとかなるよ、としか思ってないんだけどね。

山下 分ける見方というのは、その人のある面だけを見るわけですね。でも、シャバでつき合うというのは、その人と丸ごとつき合うことになる。それは、つき合う大人のかまえの問題なんでしょうね。子どもが求めているのは、そういう大人のように思います。でも、いまの教員には、そういう余裕もないように思います……。

北村 忙しいですし、夜中まで働いていて、とてもいまの教員には要求できないと思います。


●障害者雇用はつまらない

山下 シャバということで言えば、雇用環境も厳しくなってますね。かつては自営業など、地域で生きていける場があった。それがどんどん衰退して、若者全体が厳しい状況にいる。そういうなかで、障害者が働ける場も、障害者雇用という分けられたところにしかなくなっていますね。

北村 法定雇用率を満たそうと思ったら、大きい会社は特定子会社をつくるしかないですね。障害者がそこに集まっている。それじゃ学校と同じでつまらないよ。
 いまや養護学校にも序列があってね。たとえば杉並区にある永福学園は、就職率100%を目指すと宣伝していますが、入学者を選んで入れているんです。そういう養護学校が増えてます。一昔前だったら、「どうしてこんな子が支援学校に行くのか」というような子が特別支援学校に行ってます。
 私の知っている子でも、中学校までは普通学級でがんばったけど、先生に「就職できるから」と勧められて永福学園に行った女の子がいます。卒業して、ゆうちょ銀行の子会社に入ったんですが、仕事内容は宣伝材料の袋入れです。卒業しても、こういう単純作業の仕事しかないんです。ただ、待遇はいいし、保険も休暇もあるし、寮もあって、労働条件はそろっている。親からすれば心配はない。でも、決まったことを決まったようにこなすだけの毎日で、本人はつまらない、自分なりに能率よく工夫することも許されなくて、指導員の指示どおりにしないといけない。それがイヤになって、家出したんです。それで、夜、街を歩くと、おもしろいことがいっぱいあるって言うのね。それをぜんぶ試している。もちろん親や周囲から見たら危なっかしくて、何が起こってもおかしくないから心配なんだけど、本人はそれがおもしろくて仕方ない。それが、シャバで生きるということなんでしょうね。

山下 どんなに危なくても、仕分けされた安全なところにいるよりはいいわけですね。

北村 そう。こたえられないくらい、おもしろい。

山下 状況は厳しいけれども、「分けてはいけない」が要点ということですね。学校外の取り組みについて、もう少しうかがいたいと思います。北村さんは、らんがく舎という塾とも、お付き合いがあったようですね。いわば学校外の居場所のひとつと言えると思いますが、そういう取り組みについては、どう考えてこられたのでしょう。


●学校外の取り組みは

北村 らんがく舎というのは、和久田修さんという弁護士が東大の学生だったころに、この近くで始めた塾でね。「受験を目指す塾ではない」「能力主義教育のなかで子どもは疎外されている」「1人ができるよりは10人がみんなで少しずつ進もう」とか、えらそうに言っているので、「私が付き合っているような子どもとつき合うのだったら、あなたのことを信用するよ」と言って、うちの勉強会に来ている子や特殊学級の子を紹介したんです。そうしたら、「あそこは障害児の塾だ」ということになって、繁盛しなくなった。家主も、近所の人も、みんないやがるわけです。それでも、とにかく非常識を押し通して、いろんな事件を起こしながらも、地域で生き続けることの困難な子どもや若者のたまり場として活動してました。
 そのあたりのことは『がんばれガキンコ』(らんがく舎/国土社1985)という本にまとまってますが、私は、その本の最初に悪口を書いたんです(笑)。何を書いたかというと、ひとつには、ありがたい存在ではあるけれど、こういうたまり場を必要としない地域こそを目指すべきだということ。条件の悪い人がそこに集まってくるのではなくて、そういう人が生きていける地域を、それぞれが身のまわりで目指すべきだということですね。もうひとつは、らんがく舎だけで通用する非常識で通すのではなくて、共に生きるという主張を自分たちの外に広めることで、世間の常識も、自分たちの非常識も修正されるだろうということです。とにかく非常識だったからね(笑)。

山下 たまり場としての必要性はあっても、そこが特殊な場になってしまうといけないということですね。らんがく舎は、いまも活動されてるんですか?

北村 あることはあるけど、ちがう人が、ちがうかたちでやってますね。支援にお金が出るようになってから、すっかり変わりました。

山下 なるほど。制度の狭間で場をつくろうとしてきた人たちも、結局は制度に回収されてしまったところがありますね。運営だとか、お金の問題も大きいように思います。

北村 丸めこまれてしまったんです。たとえば、養護学校義務化反対のころは、学生やら労働者が集まって支援してましたけど、お金のことなんか、ぜんぜん考えてなかったね。助け合って活動してました。もちろん、たいへんだったし、そのころの障害者はしんどかったわけです。急に泊まりの介助の人が来てくれなくなったとか、それをどうするとか。でも、障害者のほうも、すでに仲間だと思った人にはいろいろ要求するけど、隣の人には何も言えてなかったりしてね。

山下 関係が、わかってくれる人とのあいだだけのものになってしまう。だから、シャバに立っていかないといけないということですね。しかし、地域も衰退してますし、足場をどこに置くかは難しいですね。私はフリースクールなどに関わってきたんですが、東京シューレを始めとした学校外の居場所は、もともとは、いまの学校や地域で失われてしまったものを、制度の狭間でやろうとしてきたところがあったように思います。しかし、それが制度に回収されてきている面もある。教育機会確保法は、不登校を学校から分ける法律とも言えますしね。

北村 そうね。東京シューレの奥地圭子さんは、障害児を普通学校へ全国連絡会の会員になっていただいていて、一時期は実務も含めて、ずいぶん関わってくださってたんです。でも、いまはフリースクールに集中しておられるようですね。
 私は、やっぱりシャバで、地域で生きていくことが大事だと思います。いいところだから分けてもいいということではない。原則として言えるのは、良くても悪くても、子どもは分けてはダメだ、ということです。私の言いたいことは、それだけです。

山下 長時間、ありがとうございました。とても刺激的なインタビューで、たいへん楽しかったです。

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*1 八路軍:日中戦争時に華北方面で活動した中国共産党軍の通称。1947年、人民解放軍に改編。

*2 不在地主:小作地などを所有しながら在村していない地主のこと。戦後の農地改革で、不在地主の小作地は、政府が強制的に安値で買い上げ、実際に耕作していた小作人に売り渡された。

*3 金井康治(かない・こうじ):1969年、東京都足立区生まれ。脳性まひの障害を持ち、養護学校に就学するが、8歳のときに(1977年)普通学校への転校を希望。しかし、足立区教育委員会は拒絶。金井さんは自主登校などの就学闘争を始める。1983年、足立区教委は、中学校は普通学校への入学を決定。金井さんは、障害児が普通学校で学ぶことを求める全国的な運動の先駆けとなった。1999年、慢性アルコール性肝障害で30歳の若さで亡くなった。
posted by 不登校新聞社 at 13:40| Comment(1) | 学校関係
この記事へのコメント
「子ども達を分けちゃいけない」という意見に共感です。
塾という現場から思う事は、一つの物差しで測る、基準を決めて分けることに親たちが従って、一喜一憂している現状があり、それは違うなという事。
何とかしたいですね。
Posted by 山口 博久 at 2017年08月22日 17:31
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