2017年08月29日

#23 児島一裕さん

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(こじま・かずひろ)
1956年兵庫県生まれ。小学校5年生で登校拒否になり、1966年から小学校卒業までの1年10カ月、大阪市立児童院(情緒障害児短期治療施設)に入所していた。大学時代にアメリカに留学、その後、日本語学校の教員を1年間勤める。アメリカ各地のフリースクールをまわり、1985年、兵庫県高砂市でフリースクール地球学校を設立。1999年に地球学校を閉じて、現在は、GHBセンター(グローバル・ヒューマン・ブリッジ・センター)代表、000グローバルビジョン代表、地球大学(NPO法人000 PAF GLOBAL UNIVER-CITY)プロジェクト会員など。愛称はうーたん。

インタビュー日時:2017 年5 月21 日
聞き手:山下耕平、山田潤
場 所:飲食店(大阪府堺市)
写真撮影:山下耕平

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〈テキスト本文〉

山下 児島さんにお話をうかがうのは、このプロジェクトのインタビューで2回目になります。大阪市立児童院(情緒障害児短期治療施設)で生活指導員をされていた竹渕陽三さんにコンタクトをとった際、偶然にも、児島さんに行き当たったのでした。児島さんは50年ほど前に児童院に入所されていた経験があって、いまも竹渕さんを囲んで、当時の入所者で集まっておられるということでした。竹渕さんへのインタビューでは、ご本人だけではなく、児島さん含む当時の入所者4名の方にお話をうかがうことができ、貴重な証言をいただいたと思います(#18竹渕陽三さんと竹の子会のみなさん参照)。今回は、あらためて、情短施設での経験だけではなく、フリースクール地球学校を始められた経緯など、いろいろお話をうかがえればと思っています。

児島 ほんとうに、偶然でしたね。児童院での経験は、自分にとって原点となる経験でしたので、いい機会だったと思います。

●まったく自由に育った

山下 まず、子ども時代のことからうかがいたいのですが、ご実家の家業は何をされていたんですか?

児島 うちは祖父の代から質屋をしていたんです。父は国鉄の職員でもあったので、建前上は副業を持てないですから、質屋は母親名義になっていましたが、実際は父が切り盛りしていました。ボクで3代目のはずだったのが、いきなりフリースクールを始めて、家業は継ぎませんでした(笑)。

山下 宮沢賢治みたいですね(笑)。1956年のお生まれというと、ちょうど物心ついたころに高度成長が始まっているわけですね。まわりの風景がどんどん変わっていく感じはありましたでしょうか?

児島 どうでしょうね。うちは質屋だったので、物はいっぱいありました。新しいものもすぐ入ってきて、カラーテレビなんかもいち早く家にあって、近所の子が見に来ていました。まったく自由に育っていたので、小学校のころは、ほんとうに自分のしたいことをして遊んでました。学校にも遊びに行っていて、机の中にはボクがおもしろいと思っているものを詰め込んでました。
 それと、家の金庫の開け方を覚えて、そこからお金を持ち出して、いまの金額にしたら10万円近いお金を持ち歩いていたと思います。そのお金で、学校の帰りに、たくさんの子どもを連れて、ごちそうしてました。人をもてなすのが好きだったんですね。そんな感じだったので、うちには子どもたちが集まっていて、遊び場にしていました。

山下 どんなことをして遊んでたんですか?

児島 まあ、いろいろやってましたけど、悪いところで言えば、小学校3年生ごろからギャング集団をやってました。どの店からどういう手順で盗むのか、毎日のように計画を立てるんです。手際はよかったんで、一度も捕まったことはありませんでした(笑)。そういうことを仲間と考えるのが楽しくて、学校に行ってたようなものです。ほんとうに楽しかったですね。パラダイスでした。
 だけど、それが学校で問題になっていって、あるとき、ホームルームの時間に教師が「児島におごってもらった人、何をいくらおごってもらったか、書いて出しなさい」と言ってね、ほとんど全員が出したんです。おそろしい金額になったと思います。
 ただ、こっちも負けてなくてね。いつもポケットにお金を入れてたんですが、荷物チェックがあるときは、誰かが情報をまわしてくるので、あらかじめ子ども銀行のお金にすり替えておいて、先生に「ポケットの中を出してみい」って言われたら、「これですか」と言って、出し抜いたりしてました(笑)。
 そういうことがあって、小学校5年生のとき、学校でいちばん厳しい先生が担任になって、その先生に給食でボクの大きらいなゆでたまごを無理やり食べさせられたことで、登校を拒否するようになったんだと思います(それは、前回に話しましたね)。


●「病気」が守ってくれた

山下 もともと好き嫌いはハッキリしていたんですか。

児島 ハッキリしてました。19歳まで、緑色の野菜はほとんど食べたことがなかったですからね。そんな感じだったのに、ゆでたまごを無理やり食べさせられたものだから、恐怖心が湧いてきたんです。学校に行って、給食でゆでたまごが出るかもしれないと思うだけで、ふとんから出られなくなりました。それで、「病気」になるわけです。実際に熱が出たり、お腹が痛くなったりして、いま思えば、それは「病気」がボクを守ってくれたんだと思います。そのおかげで学校に行かないですむ。
 でも、その代わり、精神科医や児童相談所に連れていかれました。学校に行かなくなったのは5年生になってすぐでしたが、5月には明石の児童相談所の一時保護所に入れられて、2カ月ほどいました。

山下 学校に行かなくなった当初、親御さんはどういう感じだったんですか?

児島 純粋に心配してましたね。熱が出るし、おなかも痛くなるし、チックも出る。ほんとうに、何がなんだかわからなかったんだと思います。だから医者や児童相談所にも行ったんでしょうね。

山下 無理に学校に連れていこうとは?

児島 それはなかったです。「病気」でしたからね。

山田 ゆでたまごを無理に食べさせられたことは、ご両親にはおっしゃっていたんですか?

児島 どうでしょう。言った記憶はないです。

山下 児童相談所にいた2カ月は、どういうふうに過ごされていたんですか?

児島 母親と離れるというのは、すごくつらく、さびしいことでしたけど、自分の意志では帰れないですし、会えないのは事実ですからね。脱走している子もいましたけど、ボクは開きなおって、思いつくかぎり、おもしろいことをやろうと思ってました。いちばん大きかったのは、プールをつくったことです。

山下 プールですか?

児島 そう。砂場にすべり台があって、その砂をぜんぶ出して、上からすべれるプールにしたいと思ったんです。夜、みんなが寝てから、友だちといっしょに砂をかき出したんですが、一晩では無理でね。朝になったら、砂がたいへんなことになっていて、職員に見とがめられました。だけど、懲りずに毎晩やってたら、とうとう職員のほうが根負けして、いっしょにやってくれたんです。それで、とうとう砂をぜんぶかき出して、水を入れてみた。でも、スキマがあって、水を入れても抜けてしまう。それで、コンクリを買ってきて補修して、とうとうプールにした。それで、次には木の上に家をつくって住みたいと思って計画していたんですが、そこで児童相談所は出ることになってしまったので、実現できませんでした(笑)。
 そういう感じだったので、当時、明石の児童相談所に関わっていた黒田健次さんがボクにすごく興味をもってね。まあ、ボクは変わってたんだろうと思います。すごく元気で、おもしろいことをいっぱいやるけど、学校には行かない。それで、その後は岡山の情短施設に行くはずだったところを、黒田さんから大阪市立児童院(情短施設)の所長だった林修三さんに紹介されて、大阪の児童院に入所することになったんです。

山下 児童相談所に2カ月いたとき、なぜここに連れてこられたのかは知らされていたんでしょうか。

児島 まったくわからなかったですね。だから、とにかく、どう時間をつぶすかばかりを考えてました。理由は、親にもまったく聞いてませんでした。レゴを買ってくれて、「いまから行くよ」と言われて、どこに行くのかもわからないまま、連れていかれました。その光景は、いまでもハッキリ覚えています。

山下 そのことは、その後、親御さんと話したことは?

児島 後になってから話したことはありますが、親からしても、仕方なかったんだと思います。学校に行かないまま、ずっと家にいることはできなかった。当時は、学校に行かない=病気という構図ができあがっていて、親も、どこかに入れて治療してもらわないといけないと思っていたんでしょうね。

山田 しかし親にとっても、子どもを手放すのは葛藤があったでしょうね。

児島 そうだと思います。学校に行かないという行為がまったく理解できなくて、謎だったんでしょう。親だけじゃなくて、児童院のほうも手探りだったと思います。竹渕先生も「わけのわからん子たちだった」って言ってましたでしょう(笑)。


●児童院での生活

山下 児童院では、いじめもあったとおっしゃっていましたが、具体的にどんないじめだったか、聞かせていただけますでしょうか。

児島 たとえば寝るとき、いじめっ子たちをうちわで扇(あお)がないといけなかったんです。腕がすごく疲れるんですけど、手が止まったらバーンとやられる。あとは、布団にくるまれて、2段ベッドの上から飛び降りられたりもしました。覚えてないことも多いですけど、とにかく殺されるかと思うほどでした。
 ですから、みんなが夕食を食べに下に降りたら、格子の入った窓の外の夕陽に向かって手を合わせて、「よい子になりますから、ここから出してください」と、毎日、神様にお願いしてました。でも、いじめは止まりませんでした。彼らにとってもヒマつぶしというか、楽しかったんでしょう。
 それで、まさしく窮鼠猫を噛むといった感じで、あるとき反撃に出たんです。サッカーをしているときに、いじめっ子の顔に、わざと何度もボールを当てて、そうしたら向こうから手をさしのべてきて、「おまえも仲間に入れてやる」と。そこで、やっといじめが止まったんです。そのあたりは、お話しましたね。それからは、逆に、彼らに時間のおもしろい使い方を提供して、いつのまにか5年生のボクがリーダーみたいになって、楽しくてしかたなくなりました。もちろん児童院のルールはあって、守らないとバシッと怒られましたけど、すっかり自分の居場所になって、将来は児童院の職員になりたいと言っていたそうです。

山下 どんな生活だったんでしょう?

児島 まずは、朝6時半に起きて、掃除ですね。それから朝ご飯を食べて、午前中は明治小学校という分校(院内の1階)に行く。授業は一般の学校より短くて、午後からは自由でした。それと、ボクらは情緒障害ということになっているから、情緒に支障を与えるとみなされる授業はなかったんです。国語・算数・理科・社会など、記憶する授業はない。そろばんはありましたけど、あとは絵画教室とか料理教室とか、そういう情緒を育むものが中心でした。おもしろかったのは、課外学習ですね。新聞社や電気館に見学に行ったり、体験学習がおもしろかった。テストや点数で評価されるようなことはいっさいありませんでした。なぜなら情緒に障害があるから(笑)。

山下 体験学習が多かったというのは、後につながってそうですね。

児島 後から考えると、まさにそうなんですね。地球学校を始めてしばらくして、体験入門というプログラムを始めました。学校のなかった時代、どうやって人は学んでいたのか。職人さんは、学校で学ぶのではなくて、棟梁のもとで仕事しながら学ぶわけですよね。そういうことができたらいいなと思ったんです。何かを勉強してから、それを使うというのではなくて、何かをしたいから、それを学ぶという順番。そこでボクがした仕事は、有名無名を問わず、いろんな人に会って、アンケートをとることでした。400人くらいの人に書き込んでもらって、それを情報源にしてリストをつくる。そのリストのなかから、自分がやってみたい職業の人にコンタクトをとって、実際に行くのは本人、行ってからやりとりするのも本人です。そのプログラムは、その後、兵庫県が採り入れて、県の職場体験事業「トライやる・ウィーク(*1)」になっています。

山下 学校で知識を蓄積するのではなくて、ダイレクトに子どもが職場や現場に出会って、そこから学んだほうがいいということですね。その発想の原点が児童院にあると。児童院も異年齢集団で、学校のクラスとはちがう集団だったようですが、そういう意味でも、フリースクールと似ていたのかもしれないですね。

児島 言われてみれば、そうですね。竹渕先生は、フリースクールのことを、当時はぜんぜん知っておられなかったですけどね。たぶん、人間の本質的なところにアプローチしていくと、似たようなカタチになるのかなと思います。人間に関わる仕事は、主義主張や思想ではないと思います。もっと、いのちの根幹的なところに何かがある。そのあたりで、竹渕先生たちは、いろいろな試行錯誤をしていたんだと思います。それに対して、心理屋は専門職として子どもを扱っていたから、現場とはギャップがあったようです。

山下 竹渕先生からすると、頭で分析して子どもを見るのではなく、あくまで「わけのわからん子たち」だったわけですね。

児島 そう、肌感覚、現場感覚です。その感覚が専門家にはわからない。


●中学校以降は

山下 児童院を退所後、中学校はどうされたんですか?

児島 それがウソのように、初日からふつうに通ってました。中学校はお弁当だったんで、自分の好きなものだけを食べられましたし(笑)。中学校では卓球部に入ったんですが、素振りとしごきばかりで、1年間、卓球をやらせてもらえなくてね。おもしろくないので辞めて、自分で卓球部をつくったんです。家に卓球台を買ってもらっていたので、「第2卓球部」を名乗って、自宅を部室にしました。20人くらいは来ていたと思います。最初は、第1卓球部と試合して勝つことが目的だったんですが、だんだんバカバカしくなってね。それよりも消える魔球とか必殺技を生みだそうと言って、みんな毎日、真剣に技に磨きをかけてやってました(笑)。

山下 遊びをつくりだすことは一貫していますね。中学校は行かなくなるようなことはなかったんですか?

児島 ずっと行ってました。それで、中学3年生のときに出会ったのが、バンジョーという楽器でした。学校の音楽は大きらいだったんですが、バンジョーと出会って、音楽が大好きになりました。当時は英語の教則本しかなかったので、それを取り寄せて、でも、よくわからなくてね。そのころちょうど、日本でもザ・ナターシャー・セブンが登場して、彼らがブルーグラスをやっていたので、ボクもブルーグラスをやってました。その後、アメリカに暮らすようになったのも、そのことが影響しているのかもしれません。

山下 中卒後はどうされたんですか?

児島 公立の工業高校の電気科に行きました。だけど、自分で望んだわけではなくて、先生が偏差値で振り分けちゃったんです。ボクの意見はどこにもありませんでした。ボクは数学が大の苦手でしたから、学校の科目には何一つ興味がなくて、ブルーグラスのバンドを組んで、それに熱中してました。
 でも、大学には行ってみたくなって、電気通信大学の推薦入学だったら可能性があると言われて、受けてみました。倍率が20倍以上で、とても受かりそうになかったんですが、面接で話が盛り上がってね。ふつうは5〜6分くらいのところ30分近く話し込んで、合格しちゃったんです。それで入った学科が、情報工学科。これまた、ぜんぜん興味がない(笑)。それで、毎日パチンコ屋に行って、腕はセミプロになって、生活費を稼いでました。


●アメリカで出社拒否

 大学2年生のとき、毎日新聞が1カ月の短期留学を募集していて、母が1回だけお金を出してくれると言って、アメリカに留学しました。ホームステイして大学で英語を勉強したんですが、その最後の日に、ホームステイ先の人が「日本食を食べてないだろう」と言って、リトルトーキョーに連れていってくれたんです。明日には帰るのにね(笑)。当時のリトルトーキョーは、いまとまったくちがって、建物もボロボロで汚れていました。入ったレストランも薄暗くて、料理も値段が高いうえにおいしくない。そこで、「ボクだったら、もっとこうできる」と思って、アメリカでレストランをやろうと決心したんです。
 そして、3年生のときに1年間、大学を休学してアメリカに行きました。その1年間の数カ月はファーストフード店で働いて、いったん帰国して大学を卒業してから、本格的にレストランの道に進みました。ロッキー青木という人が経営していた紅花というレストランに入ったんですが、とっても厳しいところで、1日18時間くらい必死に働いて、シェフになりました。
 ところが、シェフになって働き始めて、もうすぐ自分のレストランを持つという直前になって、出社拒否になってしまったんです。胸に穴が空いて、エネルギーが垂れ流しになっている感じがして、自分でもどうしようもできなかった。理由もまったくわからず、とにかく苦しくて、とうとう辞めてしまいました。
 そのとき、夢に児童院の子どもたちの手が出てきたんですね。毎晩、夢で「ハイ、ハイ」と子どもたちが手をあげるのが見える。誰の手だろうと思っていたんですが、6日目の晩、それは児童院の子たちの手だと気づきました。一度、児童院内の分校でアメリカの話をしたことがあって、そのときに質問であがったときの元気な子どもたちの手でした。それがわかってから、無性に子どもと遊びたくなったんです。そこで思いついたのが紙芝居でした。紙芝居も児童院でやっていたのを覚えていて、子どもとコミュニケーションをとるのにいいなと思ったんです。それで、紙芝居をつくって、アメリカ各地(46州)をまわりました。

山田 どんな紙芝居だったんですか?

児島 「聞き耳ずきん」とか「一寸法師」とか、日本の伝統的な紙芝居です。それを英語にして、絵は自分で描いたり、ルームメイトが描いてくれました。
 ところが、ビザがとっくに切れていたので、各地をまわっている最中、ナイアガラの滝のところでイミグレーション(出入国管理)に捕まってしまったんです。そこで強制送還になるところですが、イミグレーションの人が荷物のなかにあった紙芝居を見つけて「これは何だ」と聞くので、「ボーイズタウン(孤児のコミュニティ)で上演するんだ」と言ったら、「1カ月したら帰るんだぞ」と言って、見逃してくれたんです。アメリカだなと思いました。


●日本語学校からフリースクールへ

 そういうこともあって、2カ月くらい各地をまわって帰国したんですが、帰国してしばらくして、知り合いの日本語学校の校長から「先生の空きができたので、あなたに来てほしい」と連絡があったんです。「でも、ボクは何の免許もないんですよ」と言ったら、「テストを受けてライセンスをとればいいから」と言うので、日本語学校の教員になって、丸1年、勤めました。
 この1年はおもしろかったですね。たとえば、子どもが「外に行きたい」と言ったら、授業中でも何でも行っちゃうんです。宿題も出さないし、テストもしない。ボクがポイントを置いていたのは、子どもがイキイキと何かをなしているかどうか、でした。そうしたら、自然に日本語を学ぶだろうというのが、ボクの考えだったんです。でも、それが問題になってしまった。ボクと子どものあいだには何の問題もないし、楽しんでやっている。問題なのはシステムで、システムや決まりとボクのやり方が合わないから問題になっている。だったら、その決まりから自分たちでつくればいいと思ったんです。
 でも、辞めるときは、子どもたちはショックを受けてました。朝礼で、校長からボクが辞めることを聞かされて、子どもたちはバリケードをつくって、ボクを部屋から出さなかったんです。ボクは納得してもらおうと思って、なぜ辞めるのかをていねいに話して、「将来、家を1軒借りて、そこで自分たちで、いっしょに学び場をやろう」と言いました。そうしたら、子どもたちも納得して、出してくれました。

山下 日本語学校を解雇されたあとは、どうされたんですか?

児島 家を探してまわっていたんですが、そのころ、ケン・ジョセフという牧師が開いているアガペハウス(駆け込み寺的な場)に行ったことがあったんです。そこでスタッフになり、フリースクールを紹介した本、『教育に強制はいらない』(大沼安史/一光社1982)と出会いました。その本を読んで、「これがボクが求めていることだ」と思ったんです。その後、何カ所か実際に見学に行って、これはまちがいないと思いました。

山下 アメリカでまわったのは、どんなところだったんですか?

児島 たとえば、プレイマウンテインプレイスは、仏教と、A・S・ニール(*3)と、カール・ロジャーズ(*4)の考えを柱にしている学校で、おもしろかったです。クロンララ・スクール(*5)も行きましたし、85年には、全米フリースクールツアーをやって、キャンピングカーで20校ぐらいまわりました。フリースクールは言葉では説明できないので、これはいっしょに行くしかないと思って、以後、毎年、ツアーをしていました。

山下 アメリカをまわられて、その後、日本でフリースクールを始めようと思われたのは、どういう経緯だったんでしょう。

児島 1984年に帰国した際、本屋で林竹二(*6)先生の『教育亡国』(筑摩書房1983)という本が平積みになってるのを見つけて、パッと開いたら、フリースクールという単語が目に入ってきたんです。これは仲間だと思って、ぜひ会いたいと林先生に手紙を書いたんです。そうしたら「1時間くらいだったら会って話してもいい」というので、会いに行ったんですが、実際に会ったら、8時間ぐらい話し込んでしまいました。そのときのエピソードは林先生が『教育の根底にあるもの』(径書房1984)の中に書かれてます。
 林先生と出会ったことは大きかったですね。それまではアメリカでフリースクールをするつもりだったんです。でも、それまで日本語教師の経験しかなかったので、学校の先生をしたうえでフリースクールをやったほうがいいのか、それともいきなりフリースクールをしたほうがいいのか、ボクのなかで迷いがあったんです。それを話したら、林先生は独り言のように「児島くん、君も教師になるのかね」と言ったんです。その響きで、これはフリースクールだと思って、1985年10月から地球学校を始めたんです。


●地元の反対のなかで

山下 地元の、兵庫県高砂市で始められたんですよね。

児島 そうです。これは大変でした。当時は、学校に行かない子=悪い子というイメージでしたからね。シンナーを吸っていたり、暴走族だったり、病気だったり、何かワケありで、まっとうじゃないから、学校に行ってないんだとみられてました。ですから、地元は猛反対で、反対署名まで起きました。当然、全員反対で、賛成している人なんて誰もいない。きつかったのは、ボクの親まで反対していたことです。
 フリースクールを始めようと思ったとき、家を借りるお金もなかったので、実家の質屋の建物を使わせてもらおうと思っていたんです。ふつう、学校といえば、学校の建物があって、運動場もあって、というイメージがありますよね。でも、あるとき、加古川の土手を家に向かって自転車をこいでいたら、図書館や、テニスコート、いろんなものが、ボクにはぜんぶ学校に見えたんです。そうか、地域を学校にして、あとはミーティングをするところがあればいいんだと思った。それで、実家の建物を借りられればと思ったわけです。でも、親はダメだという。
 母親が言うには、たとえば医者や学校の先生だったら、そのための学校もあるし、資格もある。でも、フリースクールにはそれがない。しかも、対象にしているのは人間で、もし何かあれば、お金で弁償して解決することはできないし、取り返しがつかないというわけです。これには返す言葉がなかったですね。自分の熱い思いだけでは太刀打ちできない。しかし、アメリカにも研修制度なんてなかったし、どうすることもできずに、1カ月ほどは悶々としていました。
 ところが、それまではあまり話したことなかった父親が、「あれだけ熱心にやってるんだから、賛成はしないけど、反対はしないでおこう」と言ってくれたんです。それで、家を使えるようになって、始めることができました。
 ただ、地域の反対は根強かったです。当時、ボクは新聞によく出ていて、スタッフをやりたいという人や、生徒はたくさん集まるんだけど、地域の人は猛反対で口もきいてくれない。町内会長は「すばらしい教育ですね。でも、そういう教育は、山や川がある自然のなかでやってもらったほうがいい」という。地元の反対の声は、どうやっても変わらないなかで、ふと、おもしろいアイディアが湧いてきたんです。あるとき、ボクが「フリースクールはやめます」と町の人に言ったら、町の人たちは手のひらを返すようにニコニコして、あいさつしてくれるようになりました。でも、そう言っておいて、実際は始めたんです。これは、我ながらすばらしいアイディアでした。
 当然ですが、子どもたちはウロウロしてますし、町内会長は「児島さん、フリースクールはやめられたんじゃないんですか? でも、子どもさんたちがいますよね」と聞いてきました。そこでボクは「ああ、彼らはボクの秘書です。フリースクール研究所をやっているんで、その秘書です。何か問題があったら言ってください」と返事しました。
 彼らは登校拒否児を見たこともなくて、だからエイリアンみたいに思って、地元を侵略されると思っていたわけです。でも、実際には来ている子たちは、とてもやさしくて、ものすごくいのちに敏感な子たちでした。悪いことをするなんて、あり得ない。まあ、その後は暴走族の親分とかも来てましたけど、最初に来ていた子たちは、やさしい、おとなしい子たちでした。

山下 まず、実際に出会わせてしまう戦法だった。

児島 それは、意識してやったというよりも、ふと湧いてきたんです。自分でも不思議でした。それでも、理解されていったのは、時間をかけて少しずつで、10年くらいかかりました。


●地球がぜんぶ学校

山下 地球学校という名前はどこから?

児島 林竹二先生が「グローバルスクール」という言葉を使っていたんです。そこから地球学校としました。考え方としては、地球がぜんぶ学校だということです。そこに関わる人は全員が先生だし、子ども自身も誰かの先生になる。いまも、その考え自体は変わってません。何かをさせられるのではなく、自分で選択するのが人生だということです。

山下 地球学校に集まってきたのは、どのあたりの地域からだったんでしょう?

児島 寄宿制だったこともあって、地元の子はふたりだけで、全国各地から集まってました。在籍者数は平均して10〜12人くらいでしたね。入学するのも卒業も、ぜんぶ子ども本人が自分で決めることでしたが、最初だけ、条件として「結婚といっしょでお見合いをしてみて、いっしょに暮らしてみてから決めたい」と話してました。それで、1週間、長いときは1カ月ほど暮らしてみて、本人、ほかの子たち、スタッフやボクが話し合ってOKだったら、親に「本人は入りたいと言ってますけど、お金を払えますか」と確認していました。

山下 先に子どもと話し合っているわけですね。お金が払えない場合などもあったんでしょうか?

児島 親がヤクザだとか、お母さんが薬をやってるとか、児童相談所がらみでつながって、入りたいと言ってくることもありました。ある子はお金を払えない代わりに料理をすると申し出て、子どもたちと話し合って、OKだということで受けいれられたこともありました。

山下 寄宿制にしたのは、どういう理由からだったんでしょう?

児島 意識はしてなかったけど、それは児童院の影響かもしれないですね。

山下 生活ぐるみであることが大事だったと。

児島 そうですね。後から知ったところでは、ニールも親と離すことが大事だと言ってますよね。子どもは、親といると、その価値観の影響を受けるし、いろんなプレッシャーを受けてしまう。でも、それは後づけなので、自分たちでやっていくという共同体的な意識があったんだと思います。

山下 年齢層は?

児島 5歳〜23歳までいましたが、だいたいは小・中学生でした。

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地球学校の前にて(1989 年)/肩車をしている男性が若かりしころの児島一裕さん

●卒業生のその後は

山下 地球学校を巣立った人たちのその後は?

児島 ボクのほうからコンタクトはとらないことにしているので、わからない人も多いですが、毎年、同窓会をやってくれたり、ときどき訪ねてくれる人もいて、話を聞くと、それぞれ自分のやりたいことをやっていると思います。たとえば、環境問題をやっていたり、北海道で農業をしていたり、コンピュータープログラムをしていたり、飲食店をしていたり、海外留学をしたり。あと、家業を継いでいる人は多いですね。

山下 地球学校で学んだことがベースになっている感じはありますか?

児島 それは、どうでしょうね。何を学んだかというのも確認はしてないし、ボクからはわかりませんが、ひとつ言えるのは、地球学校では、すべてを自分で決めないといけなかったし、自分の言葉で話さないとあそこではやっていけなかった。だから、自分であることを大事にして、自分の意志をしっかり持っているだろうなとは思います。
 だけど、社会に出たら、いろんな人と出会うから、その後は、どうでしょうね……。

山下 地球学校の方針には、児島さんの児童院での経験や、アメリカでの経験、大沼安史さんの本の影響など、さまざまなことが影響していると思いますが、既存の学校に対して、明確な対抗軸みたいなものはあったんでしょうか?

児島 当時、どう思っていたかはわかりませんが、いまのボクが思うのは、シンプルに、自分を生きているかどうか、だけですね。軸足を自分に置く。人に言われたことをする場合でも、それを自分が選んでいるかどうか。既存の学校だと、まわりがそうしているからとか、決まりだから、校則だから、先生が言うからとか、そういうことになってしまってますよね。そうではなくて、あくまで軸足が自分にあるかどうか。

山下 なるほど。児島さんは、フリースクールスタッフ交流会もされていましたね。これは何かきっかけがあったんでしょうか?

児島 始めたのは1991年でしたが、当時、いろんなフリースクールができてきて、でも、おたがい個性が強かったせいか、団体間に往き来がなかったんですね。それはもったいないなと思って、団体間では無理でも、スタッフどうしだったら集まりやすいと思ったんです。そうしたら、あらゆる団体のスタッフがやってきて、あれはあのやり方でよかったと思います。アメリカではフリースクール連合があって連携していて、ああいうふうにならないかなと思っていました。途中からは子どもも参加するようになって、宿舎の定員を大幅にオーバーするくらい、人が集まってました。でも、最初から10年でやめると決めていたので、ちょうど10年でやめました。

山下 その後、その交流会のつながりは「ふりー!すくーりんぐ」という関西のフリースクール団体のネットワークになりましたね。

児島 そうみたいですね。でも、ボクは参加名簿に載っているだけで、ぜんぜんタッチしていません。


●地球学校をやめたのは

山下 地球学校も1999年にやめられたんですよね。これは、どういう経緯だったんでしょう。

児島 これは、不思議としか言いようがないんです。ある朝、起きがけに声が聞こえてきたんです。それは荘厳な声で、「あなたは何をしに、そちらへ行かれたか。早くそれを始めてください」と言うんです。ボクは地球学校をやることが天命だと思っていたから、無視していたんですが、1週間くらいして、また起きがけに、もっと荘厳な声で同じことが聞こえてくる。だけど、何をしていいかわからない。
 そう思っていたら、ある日、坂本龍馬みたいな女性が訪ねてきてね。話をしていて、ボクがコミュニティが必要だというようなことを話したら、急に土佐弁になって「それじゃけえ、それですべて解決じゃあ」と言ってね。ボクは「わかりました」と言ったんですが、そのとき、「地球学校は終わったんだ」と直観したんです。
 地球学校に何も問題はなくて、経済的にもうまく運営できていたんですが、そう思った瞬間、頭から消すことができない。日増しに、その思いがあがってくる。ボクはウソはつけないので、スタッフに正直に話したらショックを受けていました。しかし、それよりも子どもの前で言わないといけないと思うと、ほんとうに苦しかったです。
 実際、地球学校をやめると話したら、子どもからは「裏切り者」と言われました。ボクからすると、何かが呼んでいる、先にあるものはわからない、でも、説明できない。子どもや周囲からは、自分勝手と思われたと思います。いま思うと、地球学校という服が、ちょっと小さくなったと感じていたんだと思います。自分の身体が大きくなってきていて、着替えのときだった。でも、それも表現できないまま、やめたんですね。
 その後は、森眞由美(現在は神宮眞由美*7)さんといっしょに、地球大学の活動などをしています。そう考えると、地球学校はスタートラインだったんですね。いまの活動は、ボクが死ぬまで続くと思います。林竹二先生も、成長することは変わることだと言ってましたが、地球学校にとどまっていたら、いまのような動きはできなかったと思います。やめるのは、すごい勇気のいることだったけど、必要なことだったんだと思います。


●自分のポテンシャルを

山下 どのような活動をされているんでしょう?

児島 抽象的に言えば、「なんとか地球がよくならないかな」と思って活動しているということです。いまの地球の危機的な状況は、ひとりではどうにもならない。ネットワークを組んでも、どうにもならない。でも、どうにかしたいと思う。そこで何ができるか。
 森眞由美さんは地球大学で、教育、農業、アートの3つを柱に世界を拡げていました。森さんは、人間が持っているポテンシャルは地球を塗り替えることができると言っていました。英語ではRe-alignmentと言っていますが、Alignmentは、整列とか調整という意味ですね。自分自身をほんとうに整えることができたら、無限の可能性を実現できる。それをジャマしているのは、実は頭、思考なんです。自分の中心と対話ができてくると、すばらしい循環が起きてくる。たとえば、パートナーや親子との関係も、自分を調整することによって解けていく。仕事などの活動も、経済面でも、あらゆる面が正しくまわり始める。その流れが世界とつながっていくんです。それには順番があって、1が自分、2がパートナー、3が家族、4が活動、5が世界で、6が地球です。そこまで行くと、あらゆる自然環境とつながって、木や石、植物や微生物ともコミュニケーションできるようになります。それは、小さい子はふだんからやっていることなんですが、我々が理解できていないだけなんです。ポテンシャルを持っていても、ほとんどの人はそれを使わないまま、この世を去ってしまっている。

山下 学校は、むしろそれを阻害しているということですか?

児島 ハッキリいって、そう感じます。自分のなかに、すべてがある。たとえばタンポポは、種として自分のシステムを持っているでしょう。それが発芽する環境が整えば、ジャマさえしなければ、自分で育っていく。ボクらが、いまやっていることは、そういうことです。それは教育というくくりではないですね。子どもたち、人間が持っているものをヒラクきっかけづくりです。理解されにくいかもしれませんが、宗教ではないんですね。あちこちでフォーラムやセミナーやワークショップなどを開いてますが、それも向こうから、ちょうど風が吹くようにやってくるときが、いいタイミングなんです。その活動全体のなかに、デモクラティックスクールもあるんです。

山下 いまの文明社会へのラジカルな批判が、そこにはあるように思えます。そういう意味で言うと、ほかの多くのフリースクールの流れと、児島さんとは分岐したところもあるのでしょうか?

児島 いまのボクが、もう少し言葉をフリースクールに寄せて言うなら、フリーは自分を生きるという意味だと思います。以前、地球学校をしていたときは、フリーは国からの自由、freedom from governmentでした。しかし、自由は「自らを由とする」と書くように、自分を生きるということですね。

山下 なるほど。あまりご存じないかもしれませんが、2015年から2016年にかけて、不登校やフリースクール関係者のあいだでは、教育機会確保法が議論になりました。当初は、フリースクールなどでの学びを国に認めさせたいという法案でもあったんですが、それらの動きは、ご存じでしたでしょうか?

児島 聞いたことはありますが、くわしくはわかりません。

山田 児島さん自身の、いまの切実な関心からは外れていたのでしょうね。

児島 でも、人それぞれステップがありますから、自分たちのところから、それぞれが何らかの変革をしていくんだろうと思います。


●フリースクールの誤ったイメージを

 林竹二先生とは、亡くなるまで手紙でやりとりしていたんですが、最後の手紙は奥様が代筆されていて、「このことはくれぐれも慎重にされるように」と書かれていたんです。当時、ボクは、とにかくフリースクールを日本に広めることを考えていて、教育の多様性を訴えて活動していました。でも、あるとき、たいへんなことに気づいたんです。そのとき初めて、林先生が「慎重に」とおっしゃった意味に気づいたんです。
 マスコミは、よく中味を知らずに記事を書いて、そのイメージが広がっていきますね。ふと気づいたら、マスコミで広がっていたイメージというのは、子どもに何か問題があって、それを修復する場としてのフリースクールというものでした。活動を始めて何年も経ってから、そういうイメージが蔓延していることに気づいたんですが、それはどうすることもできませんでした。ですからボクは、心のなかで林先生にお詫びしていました。
 ところが、ここ最近になって、それを挽回するチャンスとして、デモクラティックスクール(*8)という概念が出てきました。デモクラティックスクールは、親が意識をきちんと持たないと成立しません。何年か前からポツポツとできはじめて、いまは日本全国で十数校できて、ネットワークを組み始めています。
 デモクラティックスクールに関わっていて感じるのは、親の意識が変わってきたということです。親が教育を選ぶようになった。学校でダメージを受けてからではなくて、その手前から学校を調べて、親が選ぶようになっています。林先生は、「親こそが教育の権利を持っているのであって、国が持っているわけではない。親が自分の意志で教育をつくっていかないと、この国に教育はない」と言っておられました。政治も同じですね。民衆の力、民衆が目覚めて、変えていく。そうでないと、取り込まれてしまう。いまになって、ようやく林先生の言葉にきちんと応えることができると思っています。

山田 子どもが学校でひどい目にあってからではなくて、最初から自分たちで新しい教育の場をつくろうという意見は、80年代に関西フリースクール研究会ができたころから、あった意見ですね。私たちが1991年に親の会をつくったときも、フリースクールは不登校児の受け皿ではないと言われました。それは一理ありますね。
 私は、林竹二さんとは不幸な出会いをしているんです。80年代の兵庫県は解放教育派の運動が活発で、その年次集会の場に林先生が呼ばれていて、広いホールの壇上で、理想の授業をやってみせていたんです。私は、それはちがうだろうと思っていたんですね。児島さんは、解放教育との関わりはあったんでしょうか?

児島 それはないですね。ただ、一度だけ集会に呼ばれたことはありました。

山田 解放教育の関係者は、学校のなかで理想の教育ができると信じている節があって、私は、それはちがうと思っていたんです。林さんとは、そこの部分でしか出会ってないのですが、林さんにしてみたら、いまの学校教育を少しでも変える力として考えておられたのかもしれないですね。しかし、児島さんは、そういう文化とはまったく別のところで、自分の天性に従ってやってこられたわけですね。


●自分に立つしかない

山下 学校に対するというよりも、もっと大きな枠組みということですよね。デモクラティックスクールは、ひとつの納得できるかたちになっているということでしょうか。

児島 そうですね。デモクラティックスクールは、誰かが教祖的になるのではなくて、みんなの話し合いによって生み出していくものです。

山下 でも、ほとんどのデモクラティックスクールは、「サドベリースクール」と名乗ってますよね?

児島 そうなんです。それは変だなと思っています。サドベリーバレースクール創始者のひとり、ダニエル・グリーンバーグにも聞いてみたけど、「勝手に名乗られていても、自分にはどうにもできない」と言ってました。
 ひとつの名前をつけたら、それに縛られるでしょう。でも、サドベリーを名乗りたがるのは、あこがれがあるのかもしれません。実際にサドベリーバレースクールに行ってみたり、あるいは映像を見たりして。

山下 以前、ある親の会の方から、「私は学校信仰の代わりにフリースクール信仰になっていたんだと気づきました」という声を寄せてもらったことがあります。児島さんのおっしゃるように、ほんとうの意味で自分に拠って立つというのは、なかなか難しいことで、既存の学校がちがうと思った人も、不安だから、何かすがるものを欲してしまうところがあるように思います。それが児島さんだったり、サドベリーだったりするのかもしれませんが、そのあたりはどう思われますでしょう。

児島 どうでしょうね……。でも、すがっていても、いずれ答えは出てしまいますからね。結局は、自分に立つしかない。それもレッスンだと思います。それを学べたらいいけど、学ばない人は、同じことをくりかえしていくように思います。

山下 そのあたりに、危うさもあるように思います。

児島 みんな人間だから、どうしても危うさはありますね。でも、依存しない人もどんどん出てきていて、ボクのまわりにもたくさんいます。最近、話題になった中島芭旺(*9)くんなんかも、すごいと思ってます。10歳で本を書いて、いま11歳ですが、彼は学校に行かない宣言をしてます。彼は、人に教えてもらうことを教育とは言わない、混ぜられたくないと言ってます。ボクも本で読んだだけですが、言葉がすごく響くんですね。そういう意味では、意識が変わってきていると思います。林先生も、educationは引き出すという意味で、こっちから塗るのではないと言われてましたが、そういう本質的な教育は、これからどんどん出てくるんだと思っています。

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*1 トライやる・ウィーク:兵庫県が、中学生に働く場を見せて学習させようとする趣旨から、県内の中学2年生を対象として1998年度から実施している職場体験事業。

*2 ザ・ナターシャー・セブン:1971年に結成された日本のフォークバンド。ブルーグラスは、アメリカに入植したスコッチ・アイリッシュの伝承音楽をベースにして発展させたアコースティック音楽のジャンル。

*3 A・S・ニール(Alexander Sutherland Neill/1883―1973):イギリスの新教育運動の教育家、フリースクールの先駆けと言われるサマーヒルスクールの創設者。

*4 カール・ロジャーズ(Carl Ransom Rogers/1902―1987):アメリカの臨床心理学者。来談者中心療法の創始者。

*5 クロンララ・スクール(Clonlara School):アメリカ、ミシガン州にある私立学校。1969年設立。1979年からホームスクーリング活動も行なっている。 

*6 林竹二(はやし・たけじ/1906―1985):日本の教育哲学者。東北大教育学部教授を経て、宮城教育大学学長を務めた。

*7 神宮眞由美(じんぐう・まゆみ):東京都世田谷区生まれ。自由が丘トモエ幼稚園出身。森眞由美名での著作多数。

*8 デモクラティックスクール:アメリカのサドベリーバレースクール(1968年設立)をモデルとしたスクール。自分の好きなことを学び、カリキュラムやテストはなく、運営や予算まで、子どももスタッフも、ともに1票のミーティングによって決められる。

*9 中島芭旺(なかしま・ばお):2005年生まれ。小学校へは通学せず、自宅学習という方法をとっている。著書に『見てる、知ってる、考えてる』(サンマーク出版2016)。
【居場所・フリースクール関係の最新記事】
posted by 不登校新聞社 at 15:49| Comment(0) | 居場所・フリースクール関係
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