2017年09月09日

#24 中沢たえ子さん

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(なかざわ・たえこ)児童精神科医。1926年、兵庫県神戸市生まれ。旧姓・鷲見たえ子。戦争中に東京女子医学専門学校(現在の東京女子医科大学)に入学し、戦後に卒業。1950年より、名古屋大学医学部精神医学教室にて児童精神医学を専攻。最先端を知りたいと思い、アメリカ行きを決心。1955年から3年間、マサチューセッツ州ボストンにて、当時アメリカで主流だった精神分析学および幼児のplay therapyを修める。帰国後、国立精神衛生研究所(現在の国立精神・神経医療研究センター)に勤務し、1960年に論文「学校恐怖症の研究」を発表。この論文は注目を集め、今なお不登校の初期の論文として引用されることが多い。結婚後の1962年、再度渡米し、ロサンゼルスで障害児保育を学ぶ。帰国後は児童精神科のクリニックを開き、その草分けとなる。2016年まで院長を務める。著書に『子どもの心の臨床 心の問題の発生予防のために』(岩崎学術出版社1992)、『障害児の心の臨床 知的・情緒的障害児とその親の心』(岩崎学術出版社2001)など。翻訳書にアンナ・フロイト『家庭なき幼児たち : ハムステッド保育所報告 : 1939-1945 上・下』 (岩崎学術出版社1982)など多数。

インタビュー日時:2017年7月7日
聞き手:奥地圭子、朝倉景樹
場 所:中沢たえ子さんご自宅(神奈川県藤沢市)
写真撮影:朝倉景樹、奥地圭子
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〈テキスト本文〉

●児童精神医学の研究を始めたころ

奥地 どうして児童精神医学を学ぼうと思われたのでしょうか。

中沢 精神医学を学び始めたときは、とくに子どもをとは思ってはいませんでした。ただ、従来の精神医学が人間をきちんと見ていない、そこを見なければという思いはありました。出会いとつながりのなかで、子どもを診るようになったということでしょうか。

奥地 そのなかで不登校の子どもと出会ったのでしょうか。

中沢 そのころは、まだ登校拒否なんてことは、まったく話題になっていませんでした。

奥地 そうですよね。

中沢 思い返せば、1例だけあったように思いますが、まだ、そういう相談もない時代でした。そのころのことで言うと、当時、ずっと診ていたKちゃんのことがありました。お世話になっていた村松常雄(*1)先生からレオ・カナー(精神科医/1894―1981)が自閉症について書いた論文を勧められて読んだのですが、子どもをよく見て書いてありました。その論文とKちゃんが、マッチしていたんですね。それで、村松先生が、「何でもいいから九州の学会へ出してみろよ」と言われて。私はぜんぜん自信がなかったんですけれども、「困ったら僕が何とか応援するよ」っておっしゃるので、1952年の日本精神神経学会で、自閉症の第一例を報告しました。それをきっかけに、私は、子どもにどんどんのめり込んでいったんですね。

朝倉 報告の反響はいかがでしたか。

中沢 「鷲見さん、早く結婚して、自閉症の子どもをつくれよ」って言われました。

朝倉 まあ、なんとごあいさつな。


●アメリカへ留学

朝倉 その後、アメリカに行かれていますね。なぜ行かれたのでしょうか。

中沢 自閉症について、誰かにしっかりと教えてもらいたいと思ったんです。自分で学会発表したものの、それでよかったのかどうか、たしかめたかった。そうすると、アメリカに行かざるを得なかったんです。それで仕方なく英語の勉強から始めたんです。それと、留学の前に、それまでの名古屋大学から国府台病院(千葉県市川市)に移りました。村松先生のお弟子さんたちが、みんな国府台病院や国立精神衛生研究所にいらっしゃったものですから。

奥地 渡辺位先生(児童精神科医/1925―2009)はご記憶ですか?

中沢 はい。渡辺先生もおいででした。

奥地 うちの子が不登校になった際、渡辺位先生にお会いして、救われたんです。

中沢 渡辺位先生は本院の児童病棟にいらっしゃって、私は分院にいました。病院で大人と子どもと両方を診ているうちに、どうしてもアメリカに行って自閉症について勉強したいと思って、飛び出して行ったんです。

朝倉 その時代にアメリカに3年間留学するというのは、簡単ではなかったでしょうね。

中沢 そうですね。フェローシップ(研究者に与えられる奨学金)が、ありましたけれど。

朝倉 フルブライト(*2)のような?

中沢 フルブライトはありましたが、英語が相当できないと受かりませんでしたから、私は手当たり次第にアメリカの国立精神衛生研究所あたりに手紙を送ったんです。「私は日本の精神医学者で、子どもの精神医学をやりたいのだが、どこか私にフェローシップをくれないか」と。

朝倉 すでに日本に紹介されているフェローシップではない制度を探されたんですね。

奥地 積極的でしたね。

中沢 何も恐れを知らなかったんですよ(笑)。

朝倉 そうやってお手紙を出されたなかで、マサチューセッツから「いらっしゃい」というお声がかかったのでしょうか。

中沢 そういうことです。しかも、2年というところを3年に延ばしてもらいました。それで、自閉症の、とくに幼児期の子どもたちを保育して治療している施設と、マサチューセッツ総合病院と両方を掛け持っていました。それと、そのころのアメリカは精神分析学一辺倒でしたから、精神分析学研究者の牙城だったボストンの精神分析学協会の講義も受けさせてもらいました。

奥地 そのころ、先生は何歳だったんでしょう。

中沢 28〜29歳ですね。母親に「よく20代後半になった娘をアメリカへ出したわね」って言いましたら、母は「自分の子どもが、自分が経験しなかったことをするなら、私は何も止める気持ちはなかった」って言ってました。

奥地 それはすばらしいお母さんですね。

中沢 すばらしいかどうかは知りませんけれども、心配はしただろうと思います。いまの学生は留学したがらないようですけど、あのころは、勉強するには、やっぱりアメリカに行きたかったんですね。
 実際、子どもと接していると、アメリカの人たちよりも、日本人のほうが感性が鋭いみたいでね。私は、子どもの扱いがすごく上手だったんです。私は末っ子ですから子どもなんて知らなくて、最初は怖かったんですけど、名古屋大学でKちゃんなんかの後を追っかけ回しているうちに、子どもがかわいくなってきてね。アメリカではとても楽しく、子どもと遊んでいたようなものでした。私のやり方は、とても子どもと親和性があって、自閉症の子どもでも受け入れていると、センターの長が認めてくれてました。それで「アメリカに残らないか?」と言われてたんですが……。

朝倉 相当、認められたんですね。

中沢 ええ。親がいなかったら、きっと残っただろうと思います。でも、やっぱり親に悪いと思って、どうしようかと思っていたところ、国立精神衛生研究所から「ポストを空けたから来い」という手紙をいただいて、「これはもう帰らなきゃならない」と思って、帰ってきました。


●学校恐怖症を知ったのは

奥地 国立精神衛生研究所に入られたのは、1958年からですね。

朝倉 アメリカでは子どもの自閉症を中心に学ばれたのですか。

中沢 そうです。同時に精神分析学ですね。

朝倉 すでにそのころ、学校恐怖症についてご存知でしたか。

中沢 ぜんぜん。まだ、アメリカでも話題になっておりませんでした。私が知ったのは、国立精神衛生研究所に戻って来てからです。

奥地 そうですか。

中沢 日本でそういう例に出会って、アメリカの文献を探して見つけたんです。アメリカでも非常に初期のものだったと思います。まず、school reluctant(*3)という名前で文献が出ておりました。school phobia(学校恐怖症)ではなくて。

朝倉 先生は、アメリカの研究をていねいにフォローされて論文を書いてらっしゃいますけれども、日本に帰国されてから、学校恐怖症の研究のためにリサーチされたものが多いんでしょうか。

中沢 そうです。日本へ帰ってからです。

朝倉 そうですか。

中沢 でも、その後2年ほどで、結婚して精神衛生研究所を辞めちゃったんですね。まわりは、これからますます子どものことを、国立精神衛生研究所や日本全体で広げていかなきゃならないという気運で、私は、そのリーダーにならなきゃいけないと思われていたんですが、結婚して辞めちゃったんです。やっぱり束縛されることがきらいだったんですね。このままリーダーになっていったら、私は一生、独身だわいと(笑)。

奥地 なるほど(笑)。

朝倉 当時では、そうなんでしょうね。

中沢 そうですよ。アメリカ留学中にアメリカ人から「結婚しよう」と言われたこともあったんですけど、アメリカ人と結婚するのはイヤだったんです。それと、アメリカから帰るとき、父がお金を出してくれまして、ヨーロッパを1カ月かけて、ひとりで周ってきたんです。そのときにパリで、セーヌ川のクルーズに乗ったら、両岸でベンチに座っているのは、みんなアベックなんです。

奥地 あははは(笑)

中沢 ひとりで勉強だけという生活よりも、「かならず結婚して、ここへ彼といっしょに来るわ」と思って(笑)。

奥地 まあ、若者らしい(笑)。

中沢 わがままだって人に言われたこともあるんですけれども、何か自分を固めてしまうのはイヤだったんですね。それで、「日本に帰ったら結婚する」って、ヨーロッパから父に手紙を出したら、父はプンと怒っちゃって(笑)、でも、母が考えてくれて、ある方と出会いまして。

奥地 それが中沢さん。

中沢 そうです。私の主人は、大学か専門学校かの1年生のときに韓国から引き揚げてきて、代用教員をしながら受験勉強をして、東大の法学部へ行ってました。素直で、勉強するのが好きで、えらい人だったなって思います。お兄さんは医者で、先に東北に帰っていたんですが、お子さんも4〜5人いらして、ご自分の家庭で精いっぱいですから、あてにはできなくて、ひとりで、がんばってました。
 彼の麻雀仲間だった方が、私に紹介してくださって、それでお会いしたら、「彼となら、どんなに困難なことがあってもやっていける、戦友だな」と思ったんです。彼は当時、まさに一文無しでしたけど、私は後悔していません。ほんとうによかったと思ってます。

朝倉 それで結婚されて研究所をお辞めになられて、その後は、いったん、お仕事は身を引かれたんですか?

中沢 研究所で、ときどき講演などに出ていたりはしていました。それから平井信義先生(児童心理学者、医師/1919―2006)が愛育研究所(*4)にいらっしゃって。

奥地・朝倉 はいはい。

中沢 平井先生から愛育研究所の相談室に週1回来てくれないかと言われまして、週1回ならと思って、引き受けました。その間に子どもが生まれて、それでも行っていたんですが、今度は国家公務員をしていた主人がロサンゼルスに転勤になったんです。

朝倉 そうすると、ロサンゼルスへは研究のために行かれたというよりは……。

中沢 彼の転勤にくっついて行ったんです。私は「もうアメリカいやだ」って言ってたんですけど、役所の命令ですから仕方なく、再びアメリカに行くことになりました。その間、やはり子育てだけではつまらないと思って、ボストン時代に知り合った医者の紹介で、ナーサリースクールという障害児保育の施設で働いてました。そこでも、とてもよい経験をしました。

朝倉 精神医学をやってらっしゃる方がナーサリースクールに行かれるというのは、めずらしいですね。

中沢 やっぱり幼児期を診たかったんですね。精神医学は、ほとんど子どもの分野に手が及んでいなかったですからね。名古屋大学で大人の精神疾患を診ていて、精神分裂病(現在の統合失調症)になったり、性格障害がある人たちは、子ども時代はどうだったんだろうと思って、とてもそこを知りたかったんですね。それにくわえて自閉症があって、子どもに関心があったんです。
 障害児のナーサリースクールは、アメリカで流行していたんです。アメリカの精神分析学では、大人から子どもの世界に探索の目が入っていってましたからね。アンナ・フロイト(*5)なんかが盛んに子どものことを言ってました。私も、ヨーロッパを周っているときに、アンナ・フロイトに会って来ました。

奥地 あ、そうですか。

中沢 ええ。とてもいいおばあちゃんでした(笑)。そういうこともあって、私は、やはり大人はいいから、子どもを診たいと思っていたんです。子どものときの問題を診たいと。それで、精神科医がやっている、障害児とふつうの子どもたちをいっしょにしたナーサリースクールに、週2回ぐらい行ってました。娘はベビーシッターにあずけてね。


●再び愛育研究所で

奥地 アメリカにおられたのは4年ぐらいですか。その後、帰国されて開業されたんですね。

中沢 1966年に帰国して、今度は牛島義友先生(教育心理学者/1906―1999)に「また愛育へ来ないか」って言われて行ったんです。牛島先生は当時、障害児の入所施設をつくられていました。
 そのころ、平井先生はドイツのアスペルガーの研究所へいらっしゃって、自閉症はアスペルガー・シンドロームだとおっしゃってました。「アスペルガーというのは、才能はあるけど、自閉的で人間関係をつくれない人たちのことを言うので、けっして知恵遅れではない。だから普通学級で教えるべきだ」と盛んにおっしゃっていました。そういう確固とした信念を持って日本に戻ってらして、愛育におられたんですね。そこには、親たちが一生懸命、通ってました。
 でも、それは私の考えとはちがったんです。だって、知恵遅れの子もいるじゃないですか。全員才能があるなんてね、おかしいです。たとえば子どもが何かの絵を描いて、ど真ん中が空けてあったんです。平井先生は「これは才能があるから、真ん中に将来何を描こうか考えているから空けてあるんだ」って言うんです。でも、私は中心視野欠損じゃないかって思っていました。

朝倉 見立てがまたくちがったんですね。

中沢 それで、平井先生のそばには寄らないで、愛育養護学校の前身だった、障害幼児の保育グループに関わってました。家庭指導グループと言ってました。そのころの日本では、障害の重い子は、どこの施設でも受け入れてなかったんです。すべての地域ではありませんが、ようやく幼児期の通園施設が始まったころでした。
 当時、就学猶予も盛んに行なわれていた時代で、言葉がしゃべれなかったり、おしっこ・うんちの自立ができない子は、通園施設でも拒否されていました。しかし、牛島先生が始められた家庭指導グループは、すべて受け入れたんです。あれはすばらしかったと思います。

朝倉 そうですね。画期的ですね。

中沢 家庭指導グループは、1977年から愛育養護学校に機構改編されたのですが、ほんとうに子どもをしっかり観察して、受け入れようとしていました。牛島先生とは、おたがいに心がマッチしたものですから、愛育養護学校にはずっと関わって、いまだに学校との付き合いがあります。先生の弟子たちのグループも、みんな年をとって辞めていきましたけれども……。とても良い経験で、牛島先生にはほんとうに感謝しています。

奥地 なるほど。


●児童精神科開業の走り

中沢 それと、アメリカから帰国後、私が学んできたことをやれる場所があるだろうかと、ずいぶん悩みまして、1971年に開業したんです。

奥地 40歳を過ぎたころですね。

中沢 45歳ごろです。でも、児童精神医学で開業したって儲からないですからね。場所代も払えない。精神医学で開業というのは、私が走りなんです。病院じゃなくて開業医で、しかも児童精神科なんて、当時はまったくありませんでした。

奥地 たしかに。

中沢 それからね、高年結婚も、高年初産も私が走りです(笑)。

奥地 そうなんですね(笑)。いろいろ、道を拓いて来た感じがあるわけですね。

中沢 いばるわけじゃありませんけどね(笑)。それで、午前中は小児科をやって、午後は相談を受けたり、心理の遊戯治療などをやっていました。主人もいい人で、「借金してもいいから、やりたいことやりゃいいじゃないか」って言ってくれて、主人の給料をだいぶ注ぎ込んでね。

朝倉 それはやはり、よい同志、よい戦友ですね。

中沢 ほんとうに、あの人は不思議な人でした。いわゆる「外地育ち」がよかったんですね。主人も「外地育ちのほうが、いいことをやっているやつが多いぞ」って言ってました。

奥地 渡辺位先生も「外地育ち」で、韓国から引き揚げてますね。

中沢 そうですね。それで、もうすってんからりになったところで、やっと少しプラスが出て、継続できたんです。でも、開業して4年ほどしたころ、1975年に片瀬山(神奈川県藤沢市)へ移ってきたんです。それからは、また午前中は小児科、午後は心理治療で、それから、本物の登校拒否に、たくさん出会うようになりました。

奥地 そのころの登校拒否の実例というのは、どんな感じだったんでしょう?

中沢 いまと同じです。家で暴れているとかですね。それ以降、自閉症の心理治療は学校の先生の指導に任せることにして、もっぱら、登校拒否の方たちの心理治療にあたるようになりました。お母さんの指導、学校の先生の指導、ご本人の治療ですね。


●「学校恐怖症の研究」について

朝倉 1960年に発表された「学校恐怖症の研究」は、不登校の歴史を学ぼうと思うと、かならず拝読する代物ですので、そのことをもう少しくわしくお聞きしたいと思います。

中沢 実は、くわしいことはないんです。ともかく、言いだしっぺをやったということです。当時は、それだけ子どものことを研究する人が少なかったんでしょうね。子どもの心理的・行動的問題の相談というのは、およそどこでもやってない時代でした。
 名古屋大学で堀要(*6)先生が児童相談を早くからやっていらっしゃり、私もごいっしょしましたが、当時は、ほとんどは知恵遅れの問題でした。単純な知恵遅れだけではなく、戦後、日本脳炎が非常に流行りまして、脳炎による障害で大変になったお子さんたちが診療所にあふれていました。
 そのころ、登校拒否に出会ったのは1例だけで、小学校1年生ぐらいの子でした。両親が、おじいちゃんにその子をあずけて、どこかに行っちゃったんですね。その1例ぐらいで、後はもう、アメリカから帰ってきて、国立精神衛生研究所に行くまでは、登校拒否の話は忘れていたんです。
 それで、国立精神衛生研究所にいるころ、玉井収介先生と小林育子さん(二人とも「学校恐怖症の研究」の共著者)と、「最近、子どもが学校に行かないって相談が多いわね」って話になったんです。でも、当初は、相談してくる親は、研究所のある市川市近隣の人たちばかりで、東京からわざわざ来るなんてことはなかったです。

朝倉 では、「学校恐怖症の研究」では13例を出されていますが、ほとんどは近隣の市川の方なんですか?

中沢 そうです。研究所に入って1年目に学会へ「幼年性精神病の臨床的研究」という論文を出したんですが、そうしたら、どういうかたちで一般に知られたのかわかりませんが、2年目に小・中学生の登校拒否を含めた相談が来るようになったんです。

朝倉 1年目は小・中学生ではなかったんですか?

中沢 小学校の低学年が多かったですね。

朝倉 「学校恐怖症の研究」で3群に分けられている、ひとつ目ですね(*7)。

中沢 はい、そうです。


●教育状況はわかってなかった

奥地 この論文のころは「学校恐怖症」と言っていて、開業のころには「登校拒否」とおっしゃっていましたが。

中沢 学校恐怖症という名前は英語のschool phobiaの翻訳なんです。

奥地 そうですよね。どなたが訳されたんでしょう。

中沢 たぶん、私です。児童精神医学会の第1回総会に出す論文を考えていて、自閉症は当然出すとして、学校に行かない子たちのことも出そうと、玉井さんと小林さんで話し合って、何とかでっち上げたんです。けれども、そのとき私たちの頭のなかでは、世間のことは何もわかってませんでした。国立精神衛生研究所なんていうのは、大学の精神科と同じで、いわば象牙の塔みたいなところで、庶民のことはわからない。教育状況もわからない。だから、アメリカの文献を見て、そこにschool reluctant , school phobiaという言葉を見つけて、じゃあ「学校恐怖症としよう」と、名づけたんだと思います。

朝倉 なるほど。でも、「学校恐怖症の研究」では、「登校拒否」と「学校恐怖症」と両方使われてますね。「この子が登校拒否を始めたのは……」など、個別に関しては登校拒否という言葉もお使いになっていますが、それは使い分けをなさっていたんでしょうか?

中沢 いいえ、使い分けはしていません。混ぜこぜになっているんです。ただ、school phobiaという言葉はきわめて精神医学的な表現であって、行動を表現しているわけではありませんね。phobia(恐怖症)と言うときには、私なりに精神分析学的な心理的メカニズムが頭にあるわけですが、行動上としては登校拒否という言葉を使ったんだと思います。

朝倉 なるほど。

中沢 言葉としては、登校拒否はschool reluctantから始まったんです。

朝倉 school phobiaを学校恐怖症と訳されたのは中沢さんということですが、最初に登校拒否という用語を使われたのも中沢さんなんでしょうか。

中沢 私だけじゃなくて、仲間の連中が何となく使っていたんじゃないかと思います。

奥地 すでに使われていたということですか?

中沢 ええ、まあ、そうですね。玉井さんも登校拒否という言葉を使ってましたが、「rufusal(*8)ってのはきついねぇ。reluctantでいいよ」と言ってました。いずれにしても、登校拒否という言葉にして、始めたと思います。

朝倉 少なくとも、使い初めのお一人ではあるわけですね。

中沢 そうです。


●母子分離不安は

奥地 「学校恐怖症の研究」でも、経済的な理由や病気で休んでいる場合は除いて研究されていますよね。

中沢 そうです。そこで問題になったのが恐怖症だったんです。しかも、背景に母子分離不安があるということですね。これもアメリカの文献の受け売りなんです。実際に世間のことはわかっていませんでした。自閉症もそうです。当時は、アメリカの翻訳しか方法はなかった。それで、母子分離不安については、牧田清志(*9)先生に「日本人のように川の字になって寝ている家族に何で母子分離不安が起きるんだ」と言われまして。

奥地 あはは(笑)。

朝倉 なるほど。アメリカでは、そういう習慣はないですからね。

中沢 ええ。ただ、たしかに母子分離不安の反応というのはあります。私は母子分離不安は、幼児期や小学校低学年の子どもの場合だけではなくて、大きくなってからも起きるものだと思ってきました。たとえば、子どもが家のなかでは「もうお母ちゃんいらないよ」って言っていても、ひとりでどっかに行って遊んでいるときに、「お母ちゃん!」って泣いて帰ってきて抱っこされたりしますでしょう。人間は、世間、外界からストレスを受けたときに退行現象を起こしますね。

奥地 そうですね。

中沢 その退行現象を起こしたときに、ちょうど2〜3歳のあいだの正常な分離不安が、人間の成長過程として持ち上がってくる。そうやって、成長の過程として一歩一歩進むことによって自我の成長は始まる。子どもの自我成熟の過程として、正常な過程として母子分離不安が起こると、マーガレット・マーラー(精神科医、児童心理学者/1897―1985)が言っていました。そこのところで上手く行かなかった子どもが、後になって外界からストレスを受けたときに退行現象を起こして、2〜3歳のころの分離不安状態に病的にもどるというわけです。ところが、これは非常に精神分析学的な子どもの発達過程における理論であり、一般の人はそれを知らないわけです。

朝倉 そうですね。

中沢 私は「そんなことをいちいち説明するのは、めんどうくさい」と思っていましたが、母子分離不安という言葉は、いま申し上げたような意味で使っていたんです。
 実際、高校生ぐらいになって登校拒否になった子どもたちでも、すごく不安になりますよね。朝起きられなかったり、母親を嫌っていて「何だこのクソババア!」って言っていても、一方では「お母ちゃん、怖いよー、いっしょに寝よう」と言って、母親のベッドに潜り込んだりする。まさに母子分離不安の様相を示す。母親がいない場合でも、ものすごく不安状態を示して、やっぱり自分の家にしがみつきたいという子が多い。その場合の家は親のシンボルですね。ともかく外へ出られない。
 ですから、母子分離不安という言葉はまちがっていなかったと思いますが、通用しなかった。それで、私は使うのをやめちゃったんです。その後、アメリカで「母子分離不安は日本では通用しなかった」って言ったら、「やはり、その退行現象は母子分離不安が起きているにちがいない」と言われました。日本でも、わかる方にはわかったと思いますが、いろんな反論があったものですから、私は、それっきり学会に行くのはイヤになってしまいました。
 自閉症のことも、親のせいだと言われても、どうにもわかりませんでした。あのころ、親がエリートで、父親はしょっちゅう外へ出ていて、母親がつめたいとか、よく言われてましたね。働き盛りで父親不在になって、母親は子どもにしがみついている。自閉症でも登校拒否でも同じことが言われている。でも、私にはわからなかった。ほんとうに、わからなかったんです。3年間アメリカにいたって、何がわかるものかって……。やはり日本でいろいろと経験してみなければ、ほんとうのことはわからない。やっぱり、ほんとうにわかろうと思ったら、開業して、自分で経験するしかない。

奥地 文献ではなく、直接にね。

中沢 ええ。ほんとうに自分でわかりたい。そのころ、世田谷区に嬉泉子どもの生活研究所(*10)ができて、自閉症と思われる子どもを追いかけ回したりしてましたが、私は、どうにも賛成できなくてね。私は開業したころ、1970年前後から、ひそかに「自閉症は親子関係の問題ではない」と思っていたんです。でも、言えなかった。あるところで心理学の専門の方たちと話していて、そういうことを私が話したら、猛烈に反対されたことがありました。とくに関西の方たちからの反対が多かったですね。それから、牛島先生の開いた御殿場コロニーという障害児の入所施設で夏期講習があり、そこで話をしたときに、「原因は何だ?」と訊かれて、私が「器質的なものだと思う」と言ったら、猛反発にあって、ほんとうに立ち往生させられたこともありました。
 この人たちは、一生懸命、自閉症を治そうとして取り組んでおられるのに、私がこんなことを言っちゃいけないなと思いまして、その後はいっさい言わないことにしたんです。私は、戦うのは、めんどうくさくてイヤなので(笑)。

奥地 あはは(笑)

中沢 それで、藤沢で開業してから、自閉症の親の会の方たちに、「あなたたちが、ほんとうの自閉症というものを専門家に知らせてよ」って頼んだんです。専門家は頭ばかりで考えて「親のせいだ」と言ってるけど、そうは思えない。「あなたたちが、ほんとうに感じることを言ってよ」って。そうしたら、親たちは「やっぱり親だけのせいとは思えない」と言ってました。それと同時期に、イギリスのモズレー病院の医者たちが、自閉症は器質的な問題だという論文を発表し始めたんです。それで、私はホッとしました。

奥地 ここでも、やっぱり先生が走りだったんですね(笑)。

中沢 いやいや、怖くって言えなかったんです、みんなに叱られるから(笑)。
 私は国立精神衛生研究所にいたときに1年間、自閉症と言われる子どもの遊戯治療をやって、「やっぱり、これはけっして、ふつうには戻らない」ということを体験して、遊戯治療はやめてしまいました。だけど、親御さんに助言したりはしていて、そのあたりのことは後に『障害児の心の臨床』(岩崎学術出版社2001)に書いています。


●登校拒否の子どもたちと出会って

奥地 開業されてからは、登校拒否の子どもにも、たくさん出会われたわけですよね。

中沢 ほんとうに。

奥地 やっぱりアメリカの学校恐怖症の捉え方とは、日本は社会的背景もちがうし、ちがっていたんでしょうか。

中沢 そうですね。もちろん、捉え方は変わっていったというか、発展していきました。最初のころは、自分の診察でしか診ませんから、そこで学校恐怖症とか母子分離不安と言っていましたが、だんだん、世の中でも、増えていきましたよね。それでも、ほかの国では、日本ほど猛烈に増えてはいませんね。

朝倉 そうですね。ぜんぜんちがいますね。

奥地 だいたい不登校って言葉がないですものね。

中沢 そうですね。私も外国旅行に行ったとき、ドイツだったかの汽車のなかで、隣におばちゃんに、「あなたの住んでいるところで、学校へ行かなくて困っているっていう問題はある?」って聞いたら、「ぜんぜんない」って言ってました。やはり日本独特のものなんだなと思いました。それだけ、やはり日本の社会が厳しかったんですね。

奥地 そうですね。「学校へ行って当たり前」みたいな考え方になっていますからね。

中沢 ええ。当たり前だけじゃなくって、言ってみれば点数を取ることが一大事になっている。5段階評価になったのは最悪でしたね。

奥地 相対評価で、内申書でも評価されて。

中沢 それで、生徒を締めつけましたね。

朝倉 そうですね。偏差値がすべてで。

中沢 私の娘は1961年生まれで、中学校2年まで東京にいて、3年生のときに藤沢へ移って来ました。そうしたら、5段階評価になっていて、先生が、ことあるごとに「そんなことだと湘南高校へは行かれないぞ」って言ってたりするのね。生徒たちは「先生だって湘南高校には行ってないじゃないか」って(笑)。

奥地 あははは(笑)。このあたりは湘南高校がステータスだったんですね。

中沢 そうです。その次は鎌倉高校なんですよ。だから「鎌倉にも行かれないぞ」とかね。それから生活のなかに中間テストだ期末テストだって次々に続き、その合間には体育祭でしょう。子どもがのんびりする暇がない。それから部活の最悪なこと。部活に燃えさせられてね。その相談も、よく受けました。

奥地 そうなんですね。追い立てられてね。

中沢 そういう子どもが高校に行って、学校に行かれなくなったりする。子どもたちは、じっくりと本を読む暇もないし、親たちが何を思っても、先生に反抗することはできない。夏休みでも、自分の子どもを連れて旅行にも行かれない。家で何か教えてやることもできない。そういうなかで、子どもたちが非常に追い詰められて、どこかでパタンと、神経症的な状況になる。どなたかが登校拒否は自己防衛だって書かれてましたよね。

奥地 渡辺位先生は、古くから、そうおっしゃっていました。

中沢 ああ、そうでしたね。このままでは、もう続かないよっていうことなんだろうと思うんですね。学校では一律にされても、それぞれの子どもには、それぞれの体質、環境がありますからね。


●フリースクールについて

奥地 私たちはそれで30年ぐらい前から学校以外の居場所で、まあ今はフリースクールと言っていますが、そういう場をつくってきたんですが、そういう活動についてはどう思われますか?

中沢 私は最初は「何じゃこれ」と思ったんですけどね。

奥地・朝倉 あははは(笑)。

中沢 でも、ともかく、子どもたちが家だけにこもっていないで、親以外の人たちとしゃべれる、友だちと遊べる、そういう場所があるっていうことは、こんなよいことはないと思いますね。それでフリースクールを一種の教育の単位として認めさせようという運動を、私もやりました。

奥地 いまは、フリースクールへの通学が学校の出席にも認められるようになりました。

中沢 そうですね。それと、ある時期からは、教育委員会が文部省(当時)の指導により特別指導教室のようなものをつくるようになりましたね。

奥地 適応指導教室ですね。

中沢 私も、藤沢市の適応指導教室にしばらく関係してました。

奥地 そうですか。

中沢 そこには、カウンセラーなども来ていました。それで、そこにも来れないという子どもには家庭訪問をしていました。
 ある子は、小学校高学年からすごく落ち込んでたんですが、やはり家庭事情が影響していたんですね。お母さんもときどき相談にいらっしゃっていましたけど、家庭のなかで年寄りの支配があってね。
 フリースクールとまではいかなくても、適応指導教室で、高校には何とか行かれるようにと相談を受けてました。高校に行かれない子はどうするかという場合は、学校の先生はいろんな手立てを知ってらっしゃるので、私も相談しました。そのときの最後の決め手のひとつが、日々輝学園(*11)だったんですが、ご存知ですか?

奥地・朝倉 はい。

中沢 私は、その学校のカウンセラーというか相談役もしていました。

奥地 そうでしたか。

中沢 学校へうかがって、先生たちと話し合ったり、心理の方々と話し合ったりしていました。でも、私も年をとってきて「もう日々輝まで行くの無理だ」って言ったら、「いいですよ、先生。生徒を寄こしますから」って言ってね。それで、ずいぶん、いろんな方にお会いいたしました。

奥地 では、非常に古くから、つい最近まで、相当な長い期間、不登校に関わってこられたんですね。

中沢 もう、ずうっとです。


●時代による変化は

朝倉 時代による変化を、どう感じておられますか。古い登校拒否から今の不登校で、変わった部分と変わらない部分と、いかがでしょうか?

中沢 変わったというよりも、むしろ掘り起こされてきたんだと思います。昔は掘り起こされてなかった。

奥地 そうですね。

中沢 当初、私は大人の精神科に来ている患者さんを診て、「この人たちの子ども時代はどうだったのか」と疑問に思ったのがきっかけで、登校拒否にもつながっていったんです。大人の患者さんで、子ども時代に学校へ行ったり行かなかったりしていて、なかには「ぜんぜん行きませんでした」とか「近所の田んぼで、いたずらばっかりしていました」とかいう方もいてね。そういうことが見えてきたわけです。それから家庭の問題ですね。
 後になって、発達障害という概念が入ってきましたけれども、そういう方たちも登校拒否をしていらっしゃることが多かったですね。以前からボーダーラインの知能の方たち(IQが80〜100前後)は、非常にアンバランスで情緒的にも不安定だという話を聞いていたんです。そのなかに、登校拒否もけっこういたんですね。集団指導の学校をイヤがる。
 発達障害という言葉もまだ出ない時代ですけれども、私は、そういう子たちの親を説得して、普通学級から特別学級へ移してもらったんです。そうすると嬉々として行くようになりました。
 教育熱心な親たちが、重度の障害の子どもを、どうしても普通学級へ入れようという運動がありましたね。

朝倉 ありました。

中沢 そのなかで、学校へ行かない子が出てきたんです。それは登校拒否だということで、私のとこにいらっしゃる。「どうしたら学校へ行きますか?」って言うから、「それなら養護学校へ行きなさい。そうしたら行くから」と勧めたら、行くんです。子どもたちは、やっぱり自分に一番合うところを知っていたんですね。
 完全に自閉症の女の子で、勉強だけは親が教えればできる子がいました。それで、親はもう一生懸命になって受験させて、高校に入れたんです。でも、入学後に行かなくなった。それで、登校拒否ということでいらっしゃったんですけど、私は「高校生は自分で論文を書かなきゃならないけど、それはできないはず。それから、友だちと話せてないはず」と言ったんです。そういうなかで、その子は少し錯乱的になっていたんですね。お母さんはまじめで一生懸命な方で、「先生、無理してここまで入れましたのに」って、残念そうにおっしゃるから、「お母さん、わかりますけど、ちょっと休養だと思って、この子は養護施設へ」と勧めました。神奈川県には、情緒不安定で、知力の遅れている子を入れてくれる施設があったので、私は、それは収容じゃなくて治療だと思って、入所を勧めました。それで、入所したら、よくなって落ち着いてきました。
 お母さんも、さんざん暴れられたので、「わかりました。結局、あの子は知恵はダメだったんですね。でも、生きていくのには知能だけではないですから」と言って、立派だったのは、帰って来てからは、勉強はいっさいやらないで、家事、料理を教えた。そうしたら、お母さんが病気になったときには、いっさいの家事をやってくれたって、お母さんが電話くださいました。「ほんとうによかったです」って。
 ですから、登校拒否も変わったんじゃなくて、掘り起こされてきたんだと私は思います。変わったということで言えば、子どもたちの個が弱くなってきたように思いますね。

奥地 そうですよね。

中沢 学校では集団で行動しなきゃならないでしょう。トイレもつるんで行くし、学校の往き来もみんな集団ですね。つるんで歩くって私はよく言ったんですけど、そういうことは、私が最初に診たころにはわからなかったんですけど、登校拒否がだんだんひどくなったころには、集団でつるむのもひどくなりましたね。
 学校へ行かれなくなった子どもたちが、「先生、学校でお昼のお弁当食べるときに、ひとりで食べるって、こんな悲惨なことはないんです」って言うのね。つるむことに入れない子と、つるむのがイヤな子がいる。私からすると、つるんだり集団に従うだけの学校がイヤな子っていうのは、それなりに問題、あるいは個性の強さがあると思います。でも、そのことで、ひどいストレスを受けなきゃならない。そういう意味では、社会の価値観の変化により、子どもたちがつらい思いをするようになってきたことは事実だと思います。

奥地 そうですね。お約束の時間をすっかり過ぎてしまいました。長時間、お付き合いくださって、どうもありがとうございました。

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*1 村松常雄(むらまつ・つねお 1900―1981):精神科医。日本の児童精神医学者の草分け。

*2 フルブライト・プログラム(Fulbright Program)は、アメリカの研究者などを対象とした国際交換プログラム、および奨学金制度の総称。1946年にウィリアム・フルブライト上院議員(当時)によって設立された。

*3 reluctantは、気が進まない、しぶしぶ、などの意味。

*4 母子愛育会が運営する研究所。児童及び母性の養護、教育に関する総合的研究を行なうことを目的に、1938年に設立された。

*5 アンナ・フロイト(Anna Freud 1895―1982):精神分析の創始者・ジークムント・フロイトの娘で、イギリスの精神分析家。児童精神分析の開拓者。

*6 堀要(ほり・かなめ 1907―1983):児童精神科医。1936年に日本で初めて児童精神科の外来を始めた。

*7 「学校恐怖症の研究」では、13の症例を小学校1〜2年生を第T群、小学校3〜6年生を第U群、中高生を第V群にグループ分けして分析している。

*8 登校拒否はschool refusalの訳語。refuseは拒否と訳されるが、立ちすくむというニュアンスがあると、滝川一廣(精神科医)は指摘している。

*9 牧田清志(まきた・きよし 1915―1988):精神科医。レオ・カナーのもとで学び、日本に自閉症の概念を紹介した。

*10 嬉泉子どもの生活研究所:1975年設立。自閉症や知的障害の療育事業などをしている。

*11 日々輝学園高等学校:栃木県に本校を置く高等学校。広域通信制、単位制、普通科があり、栃木のほか、埼玉、神奈川にキャンパスが複数ある。
posted by 不登校新聞社 at 08:56| Comment(0) | 医療関係
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