2017年09月26日

#25 永井順國さん

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(ながい・よりくに)
1941年、広島県生まれ。早稲田大学卒。1964年、読売新聞社東京本社入社、社会部司法・教育担当、解説部次長などを経て、87年から論説委員(教育・文化・ボランティア論担当)。退職後、女子美術大学芸術学部教授(1998〜2007年)を経て、国立政策研究大学院大学客員教授(2007年〜2017年)。専門分野は教育制度・教育政策論、NPO・ボランティア論。著書に『学校をつくり変える―「崩壊」を超える教育改革』(小学館1999)、共著に『危機の義務教育』(読売新聞解説部/有斐閣1984)、『英国の「市民教育」』(日本ボランティア学習協会2000)などがある。文部省教育課程審議会委員、生涯学習審議会委員、中央教育審議会臨時委員、文化庁高松塚古墳壁画劣化原因調査検討会座長、文部科学省フリースクール等に関する検討会議座長などを歴任。現在は、放送大学教育振興会理事、国立青少年教育振興機構運営諮問委員などをつとめている。

インタビュー日時:2017年7月18日
聞き手:奥地圭子
場 所:東京シューレ葛飾中学校
写真撮影:木村砂織
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〈テキスト本文〉

奥地 今日はよろしくお願いします。まず、永井さんは何年生まれでしたでしょうか。

永井 1941年(昭和16年)です。

奥地 あ、私といっしょですね。

永井 奥地先生は広島県三原市出身で、三原高校を出ておられますでしょう。私は忠海高校を出たんです。

奥地 存じています。同郷の衆ですね。どちらも広島県で近隣の高校にいたことになります。忠海高校を出たあとは?


●新聞記者として

永井 早稲田大学に行きました1960年入学です。60年安保の年でした。大学を1964年に卒業して、読売新聞社に入って、1998年に退職するまで、34年間いました。

奥地 退職後は?

永井 女子美術大学の教授になりました。美術大学教授というと芸術系みたいに聞こえますけど、私は教養系で、教職課程も受け持っていました。2007年、65歳の定年まで勤めて、その年の4月に、政策研究大学院大学の客員教授になりました。それも、今年(2017年)3月で退職しました。

奥地 最近では、文科省のフリースクール等に関する検討会議の座長をされてましたね。それ以外に、どんな委員をされてきたんでしょう。

永井 文部科学省の中教審(中央教育審議会)で、初等中等教育分科会、教育制度分科会、大学分科会、生涯学習分科会に関わりました。

奥地 不登校に関わられたのは、学校不適応対策調査研究協力者会議(*1)ですね。

永井 その最終報告(1992年3月)に関わりました。

奥地 その委員になられたのは、読売新聞で教育や不登校について書かれていたからだったのでしょうか。

永井 1976年から、社会部記者として教育問題に携わるようになったんです。その後、文部省(当時)記者クラブに所属しました。教育問題を担当して、連載をやったりしていました。文部省記者クラブ詰めは3〜4年、その後も社会部、解説部記者として教育を担当していました。

奥地 うちの子が不登校になったのは78年ですが、そのころには、いじめや校内暴力が、けっこうありましたね。


●学校状況への意義申し立て

永井 あれよあれよという間に学校がおかしくなりましたね。私が最初に取りかかったのは、偏差値問題でした。大学受験には、以前から偏差値に近いものが目安としてありましたが、70年代後半には、偏差値は高校受験で猛威を振るうようになりました。東進研と進研が、模試で都内を二分する時期がありましたね。学校の息苦しさは、70年代には始まっていたと思います。枠組みにはめて、平均点主義で、その一方で、校内暴力が増えてきた。そして、それを抑えるために、校則を含む管理教育が強まった。また、いじめが同時進行で発生してくる。そうやって息苦しさを増していく学校状況への異議申し立てが、子どもは声が出せないから、体の反応として出てきた。それが不登校だったと思います。教育担当記者として、そういうことを年を追うごとに感じていました。

奥地 そのころは登校拒否と言ってましたよね。登校拒否の子たちが出るのも、学校の息苦しさに対する異議申し立てということですね。それを身体で示していたと。

永井 子ども、とくに小学生だと、論理立てて言葉では言えませんからね。身体が学校に行かない。学校に行くと存在不安を覚えるから、行きたくない。前日には学校に行こうとして教材を整えるんだけれども、朝になるとお腹が痛くなったり、頭が痛くなったりする。夕方には治ったりするんですけどね。

奥地 それは70〜80年代ごろですかね。

永井 そうですね。いまと比べると、数そのものはずいぶん少ないですが、当時の記事を読み直してみたら、すごい増え方なんですよ。

奥地 このグラフ(下図)ですね。70年代半ばぐらいから増えてますよね。年間50日で調べていたのが、91年から年間30日で調べるようになって、2001年までは急増していたんですよね。その後は横ばい状態ですが、それでも年間12万人前後で推移してきた。
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永井 そうですね。そして、ここ3年間は、また、ちょっと増えてきてますね。いずれにしても、80年代から90年代にかけて、不登校の数が急激に増えていることが世間の目にあらわになってきた。新聞記者としては、この増えようは何だと気になったわけです。

奥地 なるほど。


●塾の先生の集まりで

奥地 ところで、私が永井さんに最初にお会いしたのは、八杉晴実さん(*2)が主催されていた「わかる子をふやす会」でしたね。

永井 そうでしたね。わかる子をふやす会は、学習塾の先生の集まりでしたが、現職の教員を含めて人数がどんどん増えて、それが後の「学校外で学ぶ子の会・支援塾全国ネット」につながっていきましたね。私もずっとフォローしていて、会員にもなってました。

奥地 塾が、学校で傷ついた子を受けとめているという流れがありましたよね。

永井 居場所を提供していて、いわばフリースペースみたいな感じでしたね。

奥地 当時、まだ私も学校を中心に物を考えていて、受験競争を乗りきるために子どもがどんどん塾に行くようになるなかで、「学校と塾とどっちが大事?」と言っていました。でも、わかる子をふやす会の人たちに出会って、その塾の先生たちがほんとうに子どもに寄り添おうとしてるのを知りました。それで、それまでの自分の考えは、ちょっと恥ずかしいな、ちがってたなと思ったんです。学校ですごく、つらかったり苦しい思いをしている子どもが、塾ではイキイキしているのを見て、学校中心の考え方はちがうなって、初めて思ったんです。

永井 私も最初はひとくくりに、塾なんか邪道じゃないかと思ってたんですけど、ずっと観察したり取材したりしてますと、塾は、進学塾、テスト塾、補習塾の3つに分類できる。そのうち進学塾とテスト塾は、まさしく受験競争に放り込まれるものですが、補習塾は、そういう面がないわけじゃないけれども、いわゆるフリースペースや居場所的な要素がありました。

奥地 そういう民間の動きにも、取材で関わっておられたんですか。

永井 そうですね。フリースクール研究会に顔を出したり、一光社の鈴木大吉さんに会ったりしていました。

奥地 鈴木大吉さんは一光社という出版社の社長で、ジャーナリストの大沼安史さんがアメリカなどのフリースクールを取材されて書いた『教育に強制はいらない』という本なんかを出してましたね。そういう方々とお付き合いがあったんですね。

永井 新聞記者としての仕事を超えてるんですけれど、フリースクール研究会には、すっかり賛同しちゃって、その立ち上げの輪の中に入ってました。

奥地 80年代以降も、教育問題を取材されていたんでしょうか。

永井 1983年に社会部から解説部に移って、教育・司法を担当していました。解説部には4年ばかりいましたが、そこでも教育関係の連載を年がら年中やってましたね。

奥地 たとえばどんな連載でしょう。

永井 「What義務教育」という連載は、後に『危機の義務教育』(有斐閣1984)というタイトルで本にしました。この連載は、義務教育って何だというのがテーマでしたから、必然的に不登校問題も入ってました。それから、いじめ問題などですね。加えて、1984年から1987年まで臨教審(*3)の動きを取材していました。


●臨教審での自由化論争

 臨教審では最初の1年半ぐらい、教育の自由化をめぐって激しく論争になりました。そこで教育における「自由」とは一体何ぞやという話になった。たんに学校選択の自由とか、許認可を自由化して裁量を増やすとか、「教育の自由化」という議論はありましたが、「自由の教育化」という議論はほとんどなかった。それで私は「自由の教育化」が必要じゃないかと書きました。「教育の自由化」と「自由の教育化」を、ほどよく調和を保つ道を模索していけば、おのずから人間らしく生きられるような教育が見えて来るんじゃないかと。
 結局、臨教審の最終答申では、それを「個性化」に集約して、個性重視の原則に落とし込んでいったわけです。臨教審のキーワードは、「自由化」「個性化」「多様化」でした。教育改革は、いまだにその流れのなかを進んでいると見ていいと思います。
 そのころ京都大学のある先生から「オランダはおもしろいよ、学校を設立する自由と学校選択の自由がセットになっている」と聞いて、実際に行ってみたんです。

奥地 80年代に行かれているんですか?

永井 そうです。84年ごろから、合計3回、行ったかな。何しろ、あそこの国はおもしろかった。どんな小さな村でも、公立の小学校、中等学校、カトリック系の学校、プロテスタント系の学校と、最低3種類あるんです。それと、おもしろいことに、フリースクールが1000校を超えるんです。シュタイナー学校が多かったかな。シュタイナー、フレネ、モンテッソーリ(*4)、いろいろあって、フリースクールの見本市みたいになっている。何でそんなことができるんだと不思議に思って、いろいろ調べたら、オランダには学校を設立する自由がある。自治体の人口規模によって決まっているんですが、たとえば5万〜10万人ほどの人口規模の街では、135人ほどの出席児童を確保し、教員を集め、ヘッドティーチャーを決めてチームをつくり、カリキュラムなどは、そのチームが決められるんです。その書類ができたら、こういう学校をつくりたいと地元の自治体に申請する。

奥地 市民が、そうやって勝手にできるんですね。

永井 そうなんです。市民や教師たちがね。もちろん、そのなかにはフリースクールも入っている。とにかく、申請の中身が整っていれば、自治体に申請して、設立が認められるわけです。しかも、国が、土地、建物、教員の給料について、ぜんぶ負担する。

奥地 そこがすごいですよね。

永井 それで、いつからやってるのかと聞いたら、100年は経つと言うので、驚きました。

奥地 国家予算は決まっているけれども、市民に設立の自由があって、その予算枠を超えたら認めないかといったら、そうでもないわけですよね。どこかから予算を見つけて来るんですかね。私たちからすると不思議ですが、そこがすばらしいですね。

永井 それで思い出しましたが、そのころ、『こころの科学』(第18号/日本評論社1988)でフリースクールの特集がありましたね。奥地さんもお書きになっていましたが、私もオランダの教育について、「学校を選ぶ自由・つくる自由」というテーマで書いてます。オランダでは、中等学校の場合は、親と子どもがいっしょに説明会に行ったりして決めるんですけれども、小学校の場合は親が決めます。親は複数の学校を訪問するんですが、各学校の校長には会う義務があって、来年度担任予定の先生も紹介して、学校内を案内して、「質問はいくらでも受けます」とか言うんですね。親は、さらに、そこに通わせている子どものお母さんに質問したりして、いろいろ調べて学校を選んでました。


●「どの子にも起こりうる」の背景

奥地 80年代にそういうことを経験されたうえで学校不適応対策調査研究協力者会議に入られるんですよね。

永井 そうです。1989年に学校不適応対策調査研究協力者会議が始まって、あれは、けっこう長期間やりましたね。

奥地 1991年に風の子学園事件(*5)があった影響で、最終報告が出るのは1年くらい延びましたよね。

永井 そうです。それと同時期に、1987年に論説委員になって、やっぱり教育・司法を担当していました。そのころ、しきりに不登校問題やフリースクールについて書いてました。

奥地 では、オランダの教育を知って、日本の学校も、オランダのようになっていったほうがいいなと思っておられたんでしょうか。

永井 もちろん。そのままの導入はできないが、大きなヒントにはなると考えていました。また、実際、そういう記事をいっぱい書いていましたから、文部省からすれば、変な記者がいるなと思ってたでしょうね。

奥地 よく協力者会議に入れましたよね。

永井 おそらく文部省内でも、相当論争があったのではないかと思います。あのころ文部省は、登校拒否は特定性格傾向の子どもに起こると言ってましたよね。

奥地 1983年に文部省が出した手引き書「生徒の健全育成をめぐる諸問題:登校拒否問題を中心に」では、本人の自我が未成熟だとか、親の養育態度に問題があるだとか書いてありました。

永井 そう、そう。私は、そのころ取材で渡辺位(児童精神科医/ 1 9 2 5 ―2009)先生にインタビューしていたんです。渡辺先生は、不安心理にもとづく不登校というのは、学校批判者だとおっしゃってました。腐ったものを食べてお腹をくだすのは健康な防衛反応で病気ではないんだと。それを聞いてびっくりした覚えがあります。それから、ある茨城県の高校の校長先生は、不登校・登校拒否の子どもについて「治そうとするな、わかろうとせよ。それが登校拒否問題の出発点だ」と全教員に檄を飛ばしていたんです。こりゃ、いいなと思って、新聞に書きました。そういう記事を書いていたのに文部省に呼ばれたものですから、「あれ、変だな」と思いました。

奥地 80年代後半は、ものすごく不登校の数が増えてましたから、文部省も模索してたんですかね。

永井 これは今まで通りじゃどうにもならんと思ったんでしょう。学校不適応対策調査研究協力者会議の第1回会合で、私は「学校不適応と言うけれども、不適応を起こしているのは子どもじゃなくて学校のほうではないか」という趣旨の発言をしたんです。これ、かなり問題発言ですよね。

奥地 そうですね。文部省もびっくりしたでしょうね。

永井 私は、そういう視点からも、この問題を考えてみる必要があるというニュアンスで言ったわけですが、そうしたら、どんどん議論はそういう方向で進んでいきました。

奥地 その協力者会議のヒアリングに、山下英三郎先生(*6)と私が呼ばれました。これは私からすると思いがけないことだったんですが、永井先生が提案してくださったんでしょうか。

永井 そうかもしれないけど、具体的には覚えてないですね。

奥地 だけど、ほかの方たちは私たちのことは知らなかったでしょうし。

永井 そうですね。奥地先生の名前出せるのは、私しかいなかったかもしれません。

奥地 それで、会議の報告は「登校拒否はどの児童生徒にも起こりうるもの」という見解になった。これには驚いたんですが、協力者会議は、学校とは何ぞやを問わなければという方向に行っていたということでしょうか。

永井 「どの子にも起こり得る」と報告したことで、世間の反応は大きかったですけれども、会議のなかでは、それほど驚きはなかったんですよ。そういうふうに言えば、論争が起きそうな気がするでしょう。でも、論争はあまりなかったです。

奥地 そうなんですか。委員の人たちは、おおかた賛成だったということですか。

永井 そうです。もちろん、委員のなかに濃淡はありました。会議全体としては、学校という安定した装置は非常に重要だけど、その構造を柔らかくすることは大事だという議論でしたね。あまりラジカルなことを言っても、物事は結論を得られませんので、極論は排して、真ん中のグレーゾーンのなかで考え得ることからやっていくしかないでしょう。

奥地 そういう幅がないと、跳び跳ねても変わらないですよね。

永井 でも、協力者会議を開いている最中に、風の子学園事件が起きたので、これには困ってしまったんです。「これは論外だ」ということになって、民間施設のガイドライン(*7)をつくったんです。


●民間施設のガイドラインは

奥地 事件が起きる前は、民間施設のガイドラインの案はなかったんですか。

永井 なかったです。もちろん、事件の前にも、その手の議論がなかったわけじゃありませんが、事件が起きたために最終報告が遅れて、その間に一生懸命つくったのがガイドラインでした。あのガイドラインは、その後、公民協力や市民協働を進めていくうえでの目安になっていますよね。

奥地 そうですね。それと、協力者会議の報告書が出てから、民間施設への通学を学校の出席日数にカウントするということになりました。それは、あのガイドラインがなかったら難しかったことだと思います。出席日数にカウントする話も、会議のなかで出ていたんですか。

永井 ちらりとは出ていましたけど、あれは会議の結論を踏まえて、文部省が行政的に行なったことです。まず、指導要領上の出席扱いとして認めるという措置があって、その翌年に通学定期が認められましたね。

奥地 そうです。あれは私たちが「出席扱いになるのだったら通学定期を認めてよ」って大運動を起こして、全国から3万くらいの署名を集めたんです。それを参議院議員だった堂本暁子さんに持っていって、堂本さんが国会に出してくれたんですね。でも、出席扱いがなかったら実現できなかったと思います(本プロジェクト#19堂本暁子さんインタビュー参照)。

永井 そりゃ、そうでしょうね。

奥地 それから、「登校拒否はどの児童生徒にも起こりうるもの」という文部省の見解は、当時、新聞の1面トップに出たんです。そうしたら、母親たちは、それまで「母親の育て方が悪いから子どもが登校拒否になるんだ」と、さんざん言われたものだから、電話してきて涙ですよ。「どの子にも起こりうると国が言いだしてくれたんですね。これまで、親の育て方が悪いと責められまくって、ほんとうに立つ瀬がなかったんだけど、やっとちょっと国が進んできてくれましたね」って。4人のお母さんから電話があったんですが、みなさん、それぐらい「助かった」「ほっとした」という気持ちがありました。

永井 「どの子にも起こりうる」という見解になったのは、身体は学校にいるんだけど、心では学校を受けいれていない子もいるんだという話があったんですね。いまのように「潜在的不登校」とは言わなかったけれども、雑談レベルでは、「私たちだって、子どものころ学校に行きたくないなと思ったこともある」という話も出ていました。

奥地 協力者会議では、永井さんがワーキンググループに入っておられたと聞きましたが、最終報告の文章を書かれたメンバーだったんですよね。議論がいろいろあっても、まとめる人によってニュアンスは変わってくると思います。議論は、永井さんがまとめられたんでしょうか。

永井 ワーキンググループというのは起草委員会のことですかね。どうだったかな。坂本昇一先生(現在は千葉大学名誉教授)が協力者会議の主査をされていたんですね。彼は非常に穏やかな人で、まろやかに議論を進めておられました。「学校に行くことを登校下校と言うだろう。あれは江戸時代の登城下城から来てるんだよ」と言ってね。坂本先生も、どちらかというと学校を変えないといけないという問題意識を持っておられたと思います。彼がいなければ、ダメだったと思いますよ。

奥地 私たちからすると、80年代は「首に縄をつけてでも学校に戻せ」という方向が強かったので、92年の報告が出てから、ずいぶんソフトになったという印象だったんです。学校現場でも、「カウンセリングマインド」だとか「見守りましょう」だとか、80年代にはなかった言葉で、現場の先生も対応するようになりました。そして、スクールカウンセラーの設置とか、そういう方向に行ったわけですね。

永井 そうですね。登校刺激についても、してはいけない時と、してもいい時があるというような議論が、ようやく、そのころから出始めてましたね。

奥地 その後、90年代は不登校がどんどん増えていきましたが、「どの子にも起こり得る」と文部省が認めたことで、子どもたちからすると、多少は学校を休みやすくなったと言えるでしょうか。

永井 それはあると思います。私はそういう言い方は好きじゃありませんが、人によっては「1992年の報告書によって、明るい登校拒否が増えた」という向きがありました。「行かないなら行かないでいいんじゃないの」というような感じの不登校が増えたと語られた時期がありましたよね。

奥地 フリースクールなどに出会った子たちは、そういう意味では、ほんとうに明るくなっていました。それまではものすごく苦しかったのに、「なんだ、別にそういう育ち方でもいいじゃないか」とわかってくると、非常に力を発揮しました。ただ、大河内清輝くん(*8)のように、いじめ自殺の事件もまだまだありましたし、ひきこもっている人を無理に引き出すようなことは、90年代でもありました。このあたりのことはどう見ておられますか。


●学校外での学修を

永井 私は論説委員になってから、教育問題をもっとマクロに、全般的に見なきゃいけないという役割分担になったんです。同時に、文部省との関わりも、教育課程審議会、教育職員養成審議会、大学審議会、生涯学習審議会と、次から次に入るようになりました。

奥地 すごいですね。

永井 たとえば教育課程審議会のなかでも、不登校問題を意識して発言していましたし、生涯学習審議会では「地域共同体の崩壊こそ問題だ」と言ってボランティアやNPOの時代について語った記憶があります。

奥地 公的な審議会の場でも、オランダのように多様なあり方が認められる方向で、一貫して意見を言って来られたということですね。

永井 大きな流れは、臨教審の「自由化」「個性化」「多様化」という枠組みのなかにあって、ゆるやかでも、その方向に進みつつあるという認識はありました。ただ、昔ながらの路線にこだわるタイプの教育委員会や学校が存在したのも事実ですね(いまだに存在していますけれども)。いわば、硬い岩盤はありました。
 それで、2003年〜2007年にかけて、中教審の初等中等教育分科会で、私が意見を発表して、学校外の教育施設での学修と就学義務のあり方を審議したんです。いま考えると、前川喜平さん(*9)が仕掛けたんだろうと思いますが、なぜか私にお鉢がまわってきたので、私は文書にして「欧米や戦前の日本のように、学校以外での学びを認めることを検討すべきである」と主張したんです。つまり、フリースクールやアメリカンスクールなどでの学修を可能とする方向を模索すべきであるということです。
 ところがね、議論が深まらないんです。結論は出なくて、結局は両論併記で終わってしまいました。やっぱり私のような意見を述べる人は少なかった。

奥地 まだ時期が早かったのかもしれませんね。

永井 早かったですね。私の記憶では、賛同してくれる人は数人しかいなかったですね。私は、学校不適応対策調査研究協力者会議のときにも、戦前の日本の教育制度や、欧米におけるフリースクールやホームスクーリングについて、しきりに調べていたんです。報告には反映されませんでしたが、それをもとに、さかんに議論していたんです。
 戦前の日本だって、明治時代の教育令や小学校令を見れば、学校外が認められているんです。たとえば、明治12年の教育令第17条は「学校ニハイラスト雖モ別ニ普通教育ヲ受クルノ途アルモノハ就学ト做スヘシ」となってます。

奥地 ほんとうだ。すごいですね。教育令は見たことがなかったです。

永井 もっとすごいのは明治33年の小学校令です。第36条は「学齢児童保護者ハ就学セシムヘキ児童ヲ市町村立尋常小学校又ハ之ニ代用スル私立小学校ニ入学セシムヘシ但シ市町村長ノ認可ヲ受ケ家庭又ハ其ノ他ニ於テ尋常小学校ノ教科ヲ修メシムルコトヲ得」となってます。つまり、家庭を含めた学校ではないところで学びを修めることができると書いてあるわけです。

奥地 家庭も入っているんですね。

永井 実際に、これを使った人もいたそうです。しかし、なぜか国民学校令(*10)で、この条文は消えてしまいます。

奥地 国民学校令ということは、戦時体制ですね。

永井 そう。少国民(*11)錬成のための教育に切り替わる。でも、それまでは、わが日本においても、学校外で学ぶことが認められていたんですね。この資料は、「フリースクール等に関する検討会議」に出すはずだったんです。私から亀田徹さん(*12)に「戦前の規定をしっかり調べて資料にしておいて」と頼んでいたんです。ところが、流れが変わってしまって……。

奥地 多様な教育機会確保法案が、原案から大きく変わっちゃいましたからね。

永井 それで、とても踏み込めなくなっちゃったんです。なので、この資料は幻のペーパーになってしまった。

奥地 残念でしたね。戦前の教育令のことなどは、永井さんはいつごろからご存知だったんですか。

永井 1984年ごろだったと思います。臨教審の自由化論争のころに、あれこれ調べて知ったと思います。だけど、当時はそんなことを言っても、誰も振り向いてもくれなかった。


●教育再生実行会議からの動き

奥地 先ほど、2003年〜2007年の中教審では、両論併記に終わってしまったということでしたが、2013年からの教育再生実行会議でも、そっくりそのまま、その議論が出てましたね。それで、2014年7月の第5次提言で「フリースクールや、国際化に対応した教育を行うインターナショナルスクールなどの学校外の教育機会の現状を踏まえ、その位置付けについて、就学義務や公費負担の在り方を含め検討する」と打ち出されました。その後、9月に安倍首相が東京シューレを訪問、下村文科大臣(当時)がフリースペースえんを訪問、11月に文科省主催で全国フリースクール等フォーラムを開催、文科省内にフリースクール等プロジェクトチームを設置して担当官も配置、フリースクール等に関する検討会議の開催と、だーっと行きますよね。やはり、教育再生実行会議の提言の力は大きくて、中教審では中途半端になってしまった議論が、もういっぺん浮上したという感じを受けました。
 その一連の動きのなかでは、文科省主催の全国フリースクール等フォーラムで講師を務められてましたよね。それは文科省から依頼があったんでしょうか。

永井 文科省から電話があって、私は「こんな年寄を今さら引っ張り出してどうすんだ」って言ったんですが、それでも依頼するので、「最後ですよ」ということで引き受けました。だけど、結局はその後、フリースクール等に関する検討会議の座長も引き受けてしまいました。

奥地 フォーラムは文科省の講堂で開かれて、全国から600人くらい参加してましたね。フリースクール関係者もたくさん集まってましたし、文科省の職員もたくさん参加していました。私たちの仲間は「文科省の講堂で、国の教育以外もあるよということを目的に集会が開かれるなんて、すごい歴史の曲がり角に来た。感激だわ」と言ってました。

永井 前代未聞ですね、たしかに。

奥地 講師をされてみて、「やっとここまで来たか」というような気持ちはありましたでしょうか。

永井 もちろん、感慨はありました。フリースクールや不登校の問題は、私が若いときから言い続けてきたことですから、最後のご奉公みたいなつもりでしたが、もうちょっと若い層で、ほかにいないのかと聞いたんですけどね。あんまり、いないようですね。

奥地 そう思います。

永井 私も、大学の教員はしてましたけど、研究者ではなくて、もともとは新聞記者ですからね。ほんとうは50代くらいの研究者がいらっしゃればいいのにと思います。

奥地 多様な学び保障法を実現する会の共同代表、喜多明人さん(教育学者/早稲田大学教授)と汐見稔幸さん(教育学者/東京大学名誉教授、白梅学園大学学長)も、学校外を視野に入れての研究者は、教育学関係の研究者のなかにはいないっておっしゃってました。日本の教育関係の研究は、なかなか学校教育の枠から出られていないんですね。

永井 でもね、先ほどから申し上げているように、流れはあるんです。臨教審の第2次答申(1986)では、「教育を受ける側としての児童、生徒、学生、両親等の権利と意見を十分に尊重し、能力に応ずる機会均等と個別的な教育需要に弾力的に対応し得るよう、学校体系の多様化、学校、家庭、社会の諸教育機能のネットワーク化、年齢制限・資格制限等の緩和、例外の承認など、多様な選択の機会を拡大する」と書かれています。私は、これはうれしくて、あちこちで引用してきました。

奥地 永井さんのほかにも、どなたか委員の方が、そういう方向をおっしゃっていたということですかね。

永井 私は新聞記者として取材していただけです。しかも、この第2次答申では「画一よりも多様を、硬直よりも柔軟を、集権よりも分権を、統制よりも自由・自律を重んじるような諸制度、諸施策が一層導入されなければならない」とまで言っているんです。

奥地 そうですか。相当、意識が高いですね。

永井 そうなんです。それで、私は「社会のニーズ優先の改革論議から、個人のニーズにも心配りをする方向へと大きく舵を切った」と書きました。

奥地 なるほど。新聞記者として、そういう評価をしたということですね。そこで、もう少し議論が進めばよかったんでしょうけど、残念でしたね。

永井 もう一歩踏み出せば、就学義務の話になって、おかしくなかったんです。それで私は、先ほど申し上げたとおり、「教育の自由化」と「自由の教育化」のほどよい調和を、と書いたわけです。

奥地 なるほど。「登校拒否はどの児童生徒にも起こりうるもの」という見解が出された背景にも、そうした流れの影響はあったんでしょうか?

永井 それは、ありえますね。「教育を受ける側としての児童、生徒、学生、両親等の権利と意見を十分に尊重し」と書いているわけですからね。

奥地 そうですよね。歴史をひもとくと見えてくるものがありますね。


●教育機会確保法案の変遷で

奥地 話を最近の流れに戻しますが、フリースクール等に関する検討会議の座長を引き受けられるとき、どういう方向でやろうと考えておられましたでしょうか。

永井 文科省のフリースクール担当官だった亀田徹さんとも相談して、最初に不登校とフリースクールに特化して中間的にまとめたあと、不登校とは直接関わりのないフリースクールの扱いについて検討し、その後にインターナショナルスクールなどについて検討するという、大まかな流れを示していたんです。

奥地 そうですね。それは覚えてます。

永井 それを最初に確認しましたね。だから、話はぐんと広がりを持ったところに行くはずで、就学義務のあり方そのものまで行くと思ってました。検討会議の委員も、意気込んでおられたように見受けました。

奥地 最初は、みなさん明るい希望に満ちた感じだったんですけどね。

永井 しかし、結局、多様な教育機会確保法案が、立法チームのなかでゴチャゴチャになってしまったでしょう。

奥地 もう、ほんとうに。右も左も、そういう意味では学校中心主義がありましたね。古い考え方の、「不登校を助長するんじゃないか」みたいな、ゴリゴリの保守主義的な考え方もありましたし、革新系の党の人たちも、最初は協力してくれると思っていたのに、多様とか学校以外を認める前に、やっぱり学校を変えるべきだろうという主張になっていきました。それで、結局は中途半端な法律になってしまったということでしたね。一歩前進にはなるかと思いますが、法律の方向がそうなったので、フリースクール等に関する検討会議も影響を受けたんですよね。

永井 受けましたね。

奥地 座長としては、残念なお気持ちだったと。

永井 いや、座長というよりも委員としては、最初の交通整理のとおりのことをするつもりでしたから、荷は重いけど、やりがいはあると思っていたんです。ただ、そこで座長という立場を踏まえると、行政内部にある検討会議が、法律以上のことを言えるわけがないわけです。
 行政と立法とは、おのずから役割分担も機能もちがいます。文科省の役人も、ああいう法案になったら、その範囲以上のことは何も言えないことになるわけです。だから、みなさんのなかにも腹ふくるる思いがあったと思いますが、私は「こうなったら、この法案の枠組みのなかで、可能なかぎり、やるべきことと、できることを盛り込むことにしよう」と思った記憶があります。それしかないと。

奥地 そうですね。さいわい3年で見直しという目安もついたので、これから変えていくということですね。

永井 突破口は開けたと言ってもいいのではないかと思います。

奥地 そう思いますね。いままでは、学校以外を認めようにも、法的な根拠がなかったわけですからね。子どもたちは学校以外を必要とし、家庭を含めて、実際に学校以外で学んでいる子どもたちがいるわけですけど、法的な位置づけがなかったわけです。だから、一歩は踏み出せたかなと思います。ただ、就学義務を変えるところまではいかなかったので、相変わらず二重籍で、学校に籍を置きながら、実質的には、ほかの場所で学ぶような、ねじれ現象でやっているんですよね。

永井 しかし、教育機会確保法には、この手の法律としては異例とも思える文言が入っています。法律で「休養の必要性」なんて言葉づかいが入っているのは見たことないです。

奥地 そうですよね。これは、最初の案から現法律に変わるプロセスで入ってきた文言ですね。

永井 個々の不登校児童生徒の休養の必要性を認めたわけです。休んでもいいんだと。その次に、子どもが学習できる状態になったときには、学校以外の場所でも学ぶことが重要であると認めている。「不登校児童生徒が学校以外の場において行う多様で適切な学習活動の重要性に鑑み」と書いてあるわけですから、これはフリースクールや自宅でけっこうですよと言っているわけです。

奥地 その文言を残すのが、なかなか、たいへんだったみたいです。

永井 そうでしょうね。こんな異例の文言の入った法律はないので、これをベースにして、市民協働、公民協力で、つまり公共的なことを民間も行政もいっしょに担っていくようにしていきたいですね。

奥地 そうですね。フリースクール等に関する検討会議の報告書も、公民連携を強く打ち出しましたね。


●新しい公共に向けて

永井 そこが一番のミソだと思います。98年のNPO法(*13)施行以来、20年近く経って、ようやくNPO法の趣旨が成熟してきたように思います。私はNPO法のときも、その輪の中に入って、さんざんやっていたんです。

奥地 そうだったんですか。NPO法に関わった人たちからは、教育機会確保法はNPO法の成立過程とすごく似ているし、学ぶことがあると言われました。

永井 阪神淡路大震災が1995年に起きましたでしょう。あれをきっかけに、ボランティアや市民活動が広がって、NPO法につながりましたが、私は80年代半ばからNPO研究会に関わっていたんです。でも、当時は人が集まらなくてね。

奥地 ほんとうに早すぎですね。

永井 東京でも、大阪でも、名古屋でも、フォーラムなどを開いたんです。でも、人は集まらないし、「NPOってなんだい、プロパンのもとのLPGかい?」なんて言われたりしてね。そういうことをしていたものですから、NPO法のときには、それをつくる輪の中にいて、それも新聞記者の枠をはみ出しちゃうので、表向きは目立たないように、その運動に関わっていました。

奥地 やはり時期を待たないと、なかなか先駆的なものは実際のものにならないということですね。

永井 河合隼雄(心理学者1928―2007)先生が座長をされていた「21世紀日本の構想」懇談会というのがありましたね。2000年に最終報告書を出してますが、そこでは、公と民と官の整理をされていました。そこから新しい公共論がスタートしているんです。

奥地 なるほど。物事を進めるには時間がかかるということですね。機が熟さないと広がらない。そうやって、若いころから、ずっと日本の教育問題に関わってこられて、いま振り返ってみてどうでしょうか。

永井 30年ぐらい前に、オランダに行ったことが、いちばん感動しましたね。オランダでも、不登校や登校拒否問題について、役人、先生、校長など、もう会う人ごとに、いろんなところで聞いたんです。100人近くには聞いたと思います。でも、オランダでは、みんな、けげんな顔するんですよ。

奥地 わからないわけですね。そういう問題自体がない。

永井 そうなんです。それで、途中でわかったことは、イギリスの教育制度のように、オランダでも、公的支出の枠にフリースクールが入ってるんです。

奥地 イギリスには「学校教育その他の方法」というのがありますからね。

永井 イギリスでは、サマーヒルスクールが有名ですけど、それだけではなく、シュタイナー学校や、いろいろある。そういうところがあれば、不登校問題は起きないわけです。

奥地 「不」とは、ならないんですよね。政府立の学校には行かなくても、「不」ではない。別の学びを選ぶということになる。

永井 そうなんです。かつ、ホームエデュケーションが法の枠組みのなかで機能しているわけですから、不登校なんて、探してもいないんですよ。

奥地 私もイギリスに何回か行って、ホームエデュケーション家庭に泊めてもらったこともありますので、それは実感としてわかります。
  一人ひとりの可能性を
  引き出すには
永井 それを踏まえれば、やっぱりフリースクールを教育の枠組みのなかに認めて、公的な補助を出していく方向が必要だと思います。いまは少子化でしょう。子どもの数が減るということは、社会の活力を維持する人々が減るということです。そうすると、数少ない子どもたちの一人ひとりのポテンシャルを引き出して高めていく以外にないわけです。社会の活力維持という点から考えてみても、一人ひとりの子どもの可能性を最大限に引き出して伸ばしていくということに注力していかないと、日本はえらいことになると思います。

奥地 そこですよね。学校教育一本では、一人ひとりの子に合わないわけですよね。

永井 そうです。教育史を見れば、プライバダイゼーション、私教育という発想を、日本だって戦前は持っていたんですからね。日本においても、そんなになじめない発想ではないと思います。

奥地 まだまだ、教育は上から与えるもので、枠からはみ出さずに、いっせいに付与するものという発想が強いですよね。

永井 明治以前、江戸期の手習い塾や寺子屋は、みんな行く行かないは勝手だったわけですしね。学校というのは、兵士や近代化を担う人間をつくるために、もっとも効率のよい枠組みと方法でつくってきた側面があります。学校が、近代化と経済成長に資する人間を大量に育ててきたことはまちがいないけれども、それだけで、みんなが幸せになるのか、もうちょっと考えてみませんかと思います。

奥地 それが今後の課題だということですよね。ありがとうございました。

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*1 文部省(当時)が1989年に発足した会議(主査・坂本昇一)。1992年3月に最終報告『登校拒否(不登校)問題について――児童生徒の「心の居場所」づくりを目指して』を出した。

*2 八杉晴実(やすぎ・はるみ/1934―1990):1974年に民間教育研究会「わかる子をふやす会」を、1985年に「学校外で学ぶ子の会支援塾全国ネット」を設立。著書に『先生、塾は悪いのですか』(昌平社1975)、『さよなら学校信仰―自前の教育を求めて』(一光社1985)など多数。

*3 臨時教育審議会。1984年、内閣総理大臣(中曽根康弘)の諮問機関として発足(会長・岡本道雄)。4つの部会が設けられれ、1987年まで4次にわたって答申が出された。

*4 シュタイナー学校は、1919年、ルドルフ・シュタイナーがドイツで創設した12年一貫教育。緻密な人間発達理論にもとづき、各年齢に適した教育方法を取ることを重視する。モンテッソーリ教育は、1909年、イタリアの女医マリア・モンテッソーリによって創設された教育方法。子どもの発達の実証的研究にもとづき、子どもの自発性を引きだす教育方法と教具・教材を特徴とする。フレネ教育は、フランスでセレスタン・フレネが1920年代に創始した教育方法。権威主義を排し、自発的なグループ活動を重視している。

*5 風の子学園は、広島県三原市の小佐木島にあった、非行や登校拒否などの「問題行動」の更生を目的とした民間施設。1991年、入所していた当時14歳の男性と16歳の女性が、手錠につながれた状態でコンテナに監禁され、死亡した。坂井幸夫学園長(当時67歳)は監禁致死罪で起訴され、1997年、一審(広島地裁)で懲役5年の有罪判決、控訴および上告されるも実刑が確定した。

*6 山下英三郎(やました・えいざぶろう):1946年、長崎県生まれ。1986年から埼玉県所沢市において、日本で初のスクールソーシャルワーカーとして実践活動を行なった。

*7 1992年、学校不適応対策調査研究協力者会議の最終報告とともに、民間施設についてのガイドラインが試案として発表された(現在まで試案のままとなっている)。ガイドラインでは、著しく営利本位でなく入会金や授業料などが明示されていること、体罰などの不適切な指導や人権侵害行為が行なわれていないこと、保護者の面会や子どもの退所の自由が確保されていることなどの要件が示されている。これらの要件を目安として、民間施設への通所が指導要録上の出席扱いとして認められることとなった。

*8 1994年11月、愛知県西尾市の中学2年生、大河内清輝くん(当時13歳)が、いじめを苦に自殺。遺書には、同級生からくりかえし暴行を受けていたこと、多額の金銭をとられていたことなどが記されていた。

*9 前川喜平(まえかわ・きへい)文部科学省において大臣官房総括審議官、官房長、初等中等教育局局長、審議官(文教担当)、事務次官などを歴任。2017年1月、文部科学省の天下り斡旋問題により事務次官を引責辞任。

*10 国民学校令:それまでの小学校令を全面改正し、初等教育・前期中等教育を行なう国民学校について定めた勅令。1941年4月1日施行。「皇国の道に則って初等普通教育を施し、国民の基礎的錬成を行う」ことを目的としていた。

*11 少国民:年少の皇国民。銃後に位置する子どもを指した語。

*12 亀田徹(かめだ・とおる)元文科省官僚。2006年に文科省を辞職し株式会社PHP研究所へ。2014年、文科省に戻り、フリースクール等担当官に。2017年、再度文科省を辞職し、現在は株式会社LITALICO研究所の主席研究員。

*13 特定非営利活動促進法。1998年3月公布、同年12月施行。

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posted by 不登校新聞社 at 16:46| Comment(1) | ジャーナリスト・評論家
この記事へのコメント
一人娘が小学校二年生から不登校になり今五年生。不登校新聞を読んでいてこちらの記事にたどりつきました。
戦前の教育令の内容からの変遷は不登校という概念の始まりを確認できた気がします。
親として学校に行けないのなら無理にいかなくてもいいと娘を受けとめてやろうとするのですが、普通の生活から外れてしまったような考えから逃れられませんでした。その為に娘には苦しい思いをさせてしまったと思います。こちらの記事に出会えてよかったです。ありがとうございます。
Posted by 安宅奈津子 at 2017年10月01日 11:14
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