2017年10月20日

#26 松浦幸子さん

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(まつうら・さちこ)
1948年、新潟県生まれ。働きながら法政大学文学部で学び、1972年卒業。1982年、東京YWCA専門学校社会福祉科を卒業し、精神科ソーシャルワーカーに。1987年、心を病む人たちが食事づくりで交流する居場所、クッキングハウスを設立。クッキングハウスは、1992年に玄米食のレストランを始め、2001年にはティールームも開設。2005年12月、精神障害者自立支援賞(リリー賞)受賞。著書に『不思議なレストラン』『続不思議なレストラン』『生きてみようよ! 心の居場所で見つけた回復へのカギ』(教育史料出版会)など。

インタビュー日時:2017年9月14日
聞き手:山下耕平
場 所:クッキングハウス(東京都調布市)
写真撮影:山下耕平

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〈テキスト本文〉

山下 まずは、松浦さんの子ども時代のことから、うかがいたいと思います。お母さんは満州から引き揚げてこられたそうですね。

松浦 母は満州の安東(現在の丹東)に13年住んで、1946年11月に引き揚げてきました。父とのあいだには子どもが3人いて、私は3番目、生まれたのは1948年5月ですが、とても貧しくて、ほんとうに食べていけない状況だったんですね。父は病に臥せっていて、このままだと赤ん坊の私を育てられない、とにかく、この冬を越せるだけでもという思いから、その年の12月30日、母は子ども2人を置いて、私をおんぶして、新潟の農家に嫁いだんです。その家では、結核で先妻を亡くして、先妻の子どもも2人いて、働き手を探していたんですね。
 でも、当時の農村は貧しかったですし、育ての父の暴力がひどくて、母はすごく苦労していました。いまだったらDVで問題になるところですが、しょっちゅう殴られたり蹴られたりしていて、ケガをして働けなくなると、私は母を連れて、友だちの家に避難していました。それで、その家の方が「ご飯食べてきた?」と聞いてくれると、すごくホッとしたんです。聞いてくれないと、「ご飯食べてない」とは言えない。だから、「ご飯食べてきた?」と聞いてくれると、子どもながらにすごくうれしくて、安心しました。でも、かならず父が見つけて迎えに来て、帰らないといけない。そのときは屈辱的な思いがありましたね。
 それでも、私がいじけないですんだのは、母が子守歌のように、実の父のことを話してくれていたからだと思います。母は隠さない人だったので、「あなたのほんとうのお父さんは」とよく語ってくれて、母も父のことを尊敬していたことが伝わってきました。自分の心の誇りとして、暴力をふるう人はほんとうのお父さんではなくて、ほんとうのお父さんは立派な人だと思うことで、あの状況に耐えられたんだと思います。それと、口グセのように言っていたのは、「戦争は絶対にしてはいけない」ということでした。「戦争をすると人の心がずたずたに引き裂かれてしまうから、戦争はしてはいけないよ」と。

山下 実のお父さんは、満州では、どんな仕事を。

松浦 満州鉄道の社員で、安東で税務署の署長をしていたそうです。引き揚げのときは、最後まで引き揚げ者名簿をつくっていて、過労で担架で船に運ばれて、帰国後も何年も病気が癒えず、復帰するまでがたいへんだったようです。その後、いまの新潟県三条市で信用組合をつくって、信頼のある仕事をして亡くなったそうです。
 父が亡くなったとき、遺産相続の手続きで私の存在が兄弟にわかって、兄たちと会うことができました。しかし、私は父には1回も会うことはできませんでした。母は「そのことだけは申し訳なかった」と悔いていました。

山下 戦争が引き起こしてしまった事態のなかで、お父さんにもお母さんにも、引き裂かれるような思いがあったのでしょうね……。松浦さんが育ったのは、1950年代の農村地域で、しかも、もともとは小作農の家だったんですよね。かなり生活状況は厳しかったんでしょうか。

松浦 ほんとうに貧しかったですね。母が再婚した家は、玄関はむしろがかかっているだけで、むしろ戸を開けると馬がいて、その馬が横を向いているあいだに、そっと通り抜けないと中に入れない。屋根も、杉皮を葺いた上に重石が乗っかっていてね。台風なんかが来ると、屋根の石がごろごろ落ちてくるんです。
 おじいさんは、口ぐせのように「塩をなめなめ金を貯めて田んぼを買うたんだ」と言ってました。ぜいたくは許せないというので、あるとき、料理にしょうゆや油を使ったというだけで怒鳴られて、養父に茶碗を投げつけられて、母は足をケガしていました。でも、うちだけではなくて、当時は、どこの家も貧しかったですね。
 母は、夜遅くまで畑にはいつくばって働いていて、そこで泣いていたそうです。ほんとうにどうしようもなくて泣いたとき、誰にも言えない思いを、土が受けとめてくれて、癒やしてくれる。それで、「土はいいもんだね。さんざん泣いても、土の上だと、あとが元気になって体がしゃんとする」と言っていました。

山下 松浦さん自身も、ご苦労があったでしょうね。

松浦 当時、私は栄養失調みたいな状態だったんですね。就学前にそう言われたものですから、母は心配して、夜、寝ていると、布団のなかに煮干しとかを入れてくれるんです。ふとんをかぶりながら、煮干しをかじるんだけど、音を立てないようにするのが大変でね。あと、一番つらかったのは、私の茶碗だけ、ご飯の下に生卵が沈めてあることがあってね。丸いちゃぶ台で、まわりには、お父さん、おじいちゃん、おばあちゃん、先妻の子も2人いるでしょう。どうやって隠して食べていいかわからない。必死になって、真っ赤な顔をして緊張して食べていたのを、いまでも覚えてます。でも、それくらい、栄養が足りなくて弱かったんですね。
 そういう経験があるから、後に、私が心の病気をした人と出会ったときに、やはり、ご飯が大事だと思ったんです。緊張しないで、みんなで明るく笑い合ってご飯を食べられることができたらいいのにと、ずっと思っていたんだと思います。

●学校が居場所だった

山下 学校との関係はどうだったんでしょう?

松浦 小学校2年生のとき、作文に、家のことを書いたんです。誰にも言えなくて、書かずにはいられなかったんだと思います。それを教師が読んで、「幸子、もっと書いていいよ」と言ってくれたんです。それまでは、父が暴力をふるっていてつらいなんて、人に言ってはいけないことだと思っていたんです。ですから、作文に書いたことで先生に怒られるんじゃないかと思って、びくびくしていたんですが、先生は「もっと書いていいよ」と言ってくれた。それで緊張がほぐれて、それからは、学校のなかでは明るくなったように思います。先生も気にかけてくれて、私の家によく来てくれるようになりました。家で飼っていた馬に乗せてくれとか言ってね。父と酒を飲んで、話し込んでもくれました。心配してくれていたんだと思います。
 だから、私自身には、学校にはいい思い出が多いんです。先生と人間的なつきあいができた。家はぜんぜん居場所ではなくて、むしろ学校が居場所だったんです。家がとってもつらいときは、日曜日でも学校に行って、そうすると日直の先生がいて、そこで勉強したり、話をしたり、おやつを分けてもらったりしていました。

山下 学校に行くことで、生活苦から逃れることができたわけですね。子どもたちも生活を担っていたわけでしょうし。

松浦 子どもでも、仕事はいっぱいありましたからね。学校から帰ってきたら仕事をしないといけない。当時は、田植え休み、稲刈り休みと1週間ずつの休みがありましたが、学校は休みといっても、家の仕事は手伝わないといけない。町の子は遊べるから、うらやましくてね。農作業で楽しい思い出はないです。
 でも、高校ぐらいになると、逆手にとって、学校にいたくないときは、学校の先生に「家の仕事があるから」とか言って、休んだりしてました(笑)。先生のほうもわかっているんだけど、「ああ、そう」って言うだけ。抜け道がいっぱいあった時代でしたね。そういう意味では、いまの子はたいへんですね。

山下 高度経済成長期に入ると、農村も変化していったのではないかと思いますが。

松浦 経済成長は、ちょっと遅れてやってきた感じでした。農村では、冬場は収入がないので、男性は、オリンピックや地下鉄の工事で、東京に出稼ぎに出てました。それで行方不明になって帰ってこないお父さんもいました。そのうち、洗濯機とかテレビとか、少しずつ入ってきてね。テレビの入った家には、みんなで集まって見せてもらうとか、宝物みたいにしていました。それと、私が中学生ぐらいのとき、兄にお嫁さんが来て、嫁入り道具に洗濯機を持ってきたんです。手動でしぼっていく洗濯機でしたけど、すごくびっくりして見た覚えがあります。

山下 生活改善運動なんかもあったそうですね。

松浦 村の公民館に女性が集まって、料理を教えてもらうんですね。そこで、マヨネーズづくりを教わったりしました。卵とお酢と油を混ぜると、マヨネーズができて、それでサラダをつくる。サラダにはマカロニが入っていて、そんなものは食べたことなかったですから、おいしかったです。でも、お母ちゃんたちは「おいしいね。でも、こんなおいしいもの、家ではつくれないよね」と言ってました。家では、ぜいたくだと怒られてしまう。だけど、みんなで集まって、つらい話も出し合って、ご飯を食べるのっていいなって感じてました。そこでは、母もイキイキしていました。考えてみたら、それも自分の原点なんですね。


●進学組と就職組と

山下 松浦さんは、中卒後、高校に進学されてますが、当時、高校に進学する人は、まだ少なかったんですよね。

松浦 私の育った村の近くに、栃尾市(いまは合併して長岡市)があって、繊維の町だったんです。町中で機織の音がガチャガチャしていてね。中学卒業近くなると、織物工場の社長たちが、菓子折のなかにお金を入れて各家に来てました。中学を卒業すると、みんな機織女工になっていました。高校に進学したのは、全体の3分の1ほどだったと思います。でも、私は機織の音がきらいで、こんなことをするのかと思うと、気持ちが真っ暗になるくらいイヤだったんです。
 それと、教師たちも、私を高校に行かせてあげたいと思ってくれたんですね。そのためには先妻の子である姉を先に高校に行かせないといけない。それで、先生たちが家に来て父を説得してくれたんです。父には世間体があるから、義理の子だけ高校に行かせないということはできないからと、私も高校に行かせてくれることになりました。
 でも、高校に行くということは、また3年間、家で過ごすということでしたからね。それは、私にとっては耐えられないことでした。家を出たいと思っていたけど、どうしていいかわからない。それで18歳で高校を卒業して、集団就職で東京に出てきたんです。
 当時、北里研究所が、貧しくて、学校に行きたいけど行けない人たちを採用してくれていたんです。最初の年は、独身寮に入って、その1年後に法政大学の夜間部に入りました。

山下 進学することへの、うしろめたさみたいな気持ちはありましたでしょうか?

松浦 すごく、ありました。中学校3年生の後半になると、進学組と就職組で分けるんですね。そうすると生徒間に断絶が生まれる。それはつらかったですね。進学組に入った男の子でも、お父さんが行方不明になって出稼ぎから帰ってこなくて、就職組に移った子もいました。そのときの、ほんとうにつらそうな顔は忘れられないですね。いまでも思い浮かびます。あの時期は、子どもたちもたいへんだったなと思います。
 それと、東京に出るということは、母を置いていくことでもありましたし、そういう意味でも、うしろめたさはありました。それで、あんなに農村がイヤで、あんなに離れたいと思っていたのに、大学の卒論では、農民文学をテーマにしたんです。やっぱり、どこか忘れられなかったんだと思います。

山下 文学部だったんですね。

松浦 そうです。働きながら夜間部に行ってたんですが、当時は学生運動がすごくてね。暴力から逃れたくて大学に行ったのに、毎日が闘いで、とにかくすさまじかった。しょっちゅう誰かが「自己批判しろ」って糾弾されていたり、学長も館詰めにされたり、中核派とか革マル派が内ゲバをしていたりね。暴力がイヤで田舎から出てきたのに、なんで暴力に直面しないといけないのって思いました。大学のまわりは機動隊が盾を持って囲んでいて、しょっちゅう、ロックアウトになって大学に入れないし……。だから、あまり授業を受けてないんです。

山下 大学入学は何年だったんでしょう。

松浦 1968年でした。学生運動真っ盛りのころで、私も上京してすぐに、同郷の先輩に誘われて横田基地にデモに行って、「アメリカはベトナムから出て行け」ってシュプレヒコールをあげたり、国会議事堂前でフランスデモに参加したりしたことはありました。でも、私はどうしても暴力がダメで、そういう場にはいられなかったんですね。むしろ、逃げてくる人をかくまったりしていました。友だちが、夜中の2時くらいに、3畳の部屋に逃げこんでくるのね。よく泊まれたと思いますが、何人も来たりしてました。いま考えても、あの時代はすさまじかったと思います。

山下 そんななか、大学生のときにお子さんを出産されたんですよね。

松浦 2年生で結婚して、3年生で出産しました。出産後も学生は続けて、4年生のときには、母に子どものめんどうをみてもらって、母校で教育実習をしたりしてました。家庭教師もしていましたし、あの当時は、学生結婚で出産するというのは異端の目で見られてもいましたし、いろいろたいへんでしたね。

山下 おつれあいも学生だったんですか?

松浦 いえ、中国文学研究会の友人のお兄さんだったんです。7歳年上で、東京ガスで技術者として働いてました。


●子どもの不登校で見えたこと

松浦 70年に長男が生まれて、その子が学校に行かなくなったんです。私にとっては学校は文化の場で、逃げ場でも居場所でもあったので、まさか自分の子どもが学校を拒否するとは思ってなくて、ショックでした。

山下 学校に行かなくなったのは何歳ごろだったんですか?

松浦 行きしぶり始めたのは、小学校3年生ごろからでした。教科書をズタズタに破られたり、いじめもあったみたいですが、ぜんぜん知らなくてね。休みたいと言っても、「明日1日でも行きなさい。そうしたら休んでいいから」と言ったりして、無理に行かせたりしていました。それで、ここだったら大丈夫かもしれないと思って、中学校は私立の明星学園に行ったんですが、そこでも同じでした。中学校1年の5月の連休明けから、まったく行けなくなりました。まっさおな顔をして、ご飯も食べない。昼夜逆転して、夜通し起きていて、私たちが起きるころに寝ますでしょう。本人もたいへんでしたけど、親としても、ずいぶん心配しましたし、たいへんでした。
 私も息子を追いつめてしまいましたが、私自身、夫側の親たちからは、ずいぶん責められていたんですね。私が大学に通うために息子を保育園にあずけたりして、愛情が足りないからそうなったんだ、とかね。子どもに対しても「教科書1冊勉強したら、お小遣いあげる」とか言うんです。

山下 母親が責められることは多かったですよね。

松浦 あの当時は、どこの家でもそうだったと思います。一時期は、夫も私を責めていたんですが、あるときに変わって、自分の親に「いっさい干渉しないでくれ」と言ってくれたんです。それからは、夫側の親から責められることはなくなりました。

山下 おつれあいが変わったきっかけは?

松浦 なぜでしょうね。それはわからないです。ただ、そのころから、私がこの活動を始めていたから、そういう影響もあったかもしれません。

山下 一方で、松浦さんのお母さんは、だいぶ見方がちがっていたそうですね。

松浦 母は、私を育てるとき、いのちそのものを育てることしか思っていなかったんですね。だから、孫が学校に行かないことよりも私の心にゆとりがないことが心配だと言って、「幸子が心にゆとりをとりもどせますように」と、毎日、お地蔵様に祈っていたそうです。そういうことが、カタカナまじりの手紙に書いてあって、それを読んだときは、ほんとうに涙が出ました。息子が悪いのではなくて、心にゆとりがないのは私だったんだと気づいたし、生きていくエネルギーを息子から奪ってはならないと思いました。そこで初めて、息子に「学校に行かなくてもいいんだよ」と心から言えるようになりました。
 息子もずいぶん苦しい時間を過ごしてましたが、自分なりに結論を出して、中学2年生になるとき、「学校には行かないことにしたよ」と宣言して、その後はまったく行きませんでした。
 そのころ、奥地圭子さんの登校拒否を考える会に出会ったり、佐々木賢さん(本プロジェクト記事#07参照)の学習会に参加したりして、不登校について学んだりもしていましたね。

山下 そうすると、見方が変わったのは、親の会などとの出会いより、お母さんの手紙が大きかったんですね。

松浦 知識は得ていたかもしれませんが、本を読んで勉強しても頭の理解ですよね。それよりも、ハートに直接、飛び込んできたのは、母の手紙でした。もちろん、親の会などでの出会いも大事でしたけど、母のことを思い返すと、母は私のいのちを育てることしか思っていなかったんですね。それなのに、私は自分の息子に、学校に行ってほしいとか、成績をよくしてほしいとか、いつのまにか学校の尺度で自分の息子を見ていた。

山下 松浦さんが子ども時代を過ごした農村と、親として生きてきた都市部では、生きている世界も大きくちがったということもあったかもしれないですね。息子さんは中学校卒業後は、どうされたんですか?


●英語もできないままアメリカに

松浦 中学校は形式的に卒業して、府中市にあった地球の子どもの家というフリースクールに通い始めました。そこはよかったんですね。その後、スタッフになって、しばらく活動していました。
 22歳ごろ、恋愛をしたからなのか、勉強する気になったみたいで、突然、アメリカに行って勉強してくると言い出して、ペンシルバニア州のアパティナス・スクールというフリースクールに行ったんですね。自分で就学ビザを取って、『地球の歩き方』という本だけを持って、英語もできないのに、ひとりで行ったんですよね。何を聞かれても「ノー」とだけ言って、なんとかたどりついたそうです。でも、着いたら、すぐに「トリップに行くよ」と言われて、そのまま1カ月ぐらい、メキシコを旅してきたそうです。ほかにも、アパラチア山脈を3カ月かけて越えるキャンプをしたり、そういう学校だったようです。
 半年ぐらいしてから、自分のできる仕事をするから、授業料をまけてくださいと校長と交渉して、学校のペンキ塗りとか、ワックス掛けとか、牧場の馬の世話をしたりして、まけてもらっていました。彼は、学校に行かなかったというコンプレックスを、そこで消すことができたんですね。生きていくためには、学校も教養も関係ない。わからないことは教えてくださいと聞けばいいんだと。そういうことは、日本ではできなかった。アメリカに行ったことで、それまでの心の傷を癒やすことができて、自分の力で生きていくことができるようになったんだと思います。
 3年ほどアメリカにいて、帰国後は大工になって、25歳で結婚して、26歳で父親になって、いまは47歳で3人の子どもの父親です。
 大工仕事も、朝5時に起きて、厳しい親方のもとで夜遅くまで働いて、たいへんだったと思いますが、学歴関係なし、腕1本でやってきました。時代的に言えば、不登校の先駆者みたいなところがありますね。
 昼夜逆転していたことも、その起きている夜のあいだに、ひたすら怪獣とか木彫りの仏さまとかを作っていて、結果としては、それが大工の仕事にもつながった。いま思うと、あのころの子どもたちのほうが、パワーがあったかもしれないですね。

山下 ほかのお子さんたちは、どうだったんでしょう。

松浦 子どもは3人いて、次男は不登校はしなかったですが、3番目の娘も、一時期は不登校でした。小学校5年生のときの担任が暴力をふるう人で、自分が直接やられたわけではなかったんですが、それを見ているのが耐えられなかったそうです。長男のことがありましたから、私は認めていたんですが、そうすると、先生が「お兄さんが不登校だから、この子もそうなんですかね」とか言ってきたりね。あるいは、クラスの子が娘を取り囲んで「あんたが学校に来ないことで、担任の先生が教育委員会に呼ばれて大変なのよ」って詰問したりして、これではどうしようもないと思って、転校しました。それからは自由になって、学校に行っていました。小学校6年生から絵を描いていて、クッキングハウスのパンフや本の挿絵は、ずっと彼女が描いてくれています。長男も大工なので、クッキングハウスの内装なんかは、彼がぜんぶ手がけてくれてます。


●クッキングハウス立ち上げまで

山下 クッキングハウスを始められたのも、お子さんたちの不登校経験がきっかけだとか。

松浦 そうですね。私は82年に東京YWCA専門学校の社会福祉科に入学したんですが、息子の不登校を通して、自分自身の生き方がこれでよかったのか、考え直したいという思いがありました。子どもが学校に入ったときから、成績がよくなってほしいとか、ほかの子と同じようにできるようになってほしいと思うようになった自分でいいのか。それと、何か判断するときは、常に少数者の側で考えたいと思うようになりました。それで、専門学校で実習に行くというとき、精神科病院を選んだんですね。当時は、あまり行きたい人がいなかったんです。1年間、毎週1日、実習先に通って、スーパーバイザーの先生にレポートを出して指導してもらうというプログラムです。昭和大学付属烏山病院という単科の精神病院でしたが、そこでの経験は強烈でした。
 初日に閉鎖病棟を訪れると、職員がドアを開けたとたん、人がわあっと駆け寄ってきて、握手を求められました。病棟内は、おしっこや汗のにおいと、食事のにおいがごちゃごちゃに混ざりあって、吐き気がするほどでした。10畳の部屋に10枚のふとんが敷いてあって、窓には鉄格子がはまっていて、そこにパンツやタオルが干してあって……。こんな高度成長した日本のなかで、忘れられたように精神科にずっと入院している人たちがいる。とても素直で、正直で要領が悪くて不器用な人たちが、私たちがあたりまえにしている日常生活を送ることができず、閉鎖病棟のなかで生きている。当時、約35万人が精神病院に入院したまま生活していました。そういうなかで、自分の人生をあきらめかけている人たちに、たくさん出会いました。そして、そういう事実が誰にも知られていない。そういう社会への怒りも湧いてきました。
 それと、実習を重ねるうちに、だんだん心が通い合うようになったんですね。この人たちといっしょに生きていきたいという共感を覚えましたし、しっかり自分を受けとめてくれる場さえあれば、可能性はあるんだと感じて、それを自分の仕事にしていきたいと思ったんです。

山下 クッキングハウスを始められるまでは、ソーシャルワーカーとして仕事をされていたんですね。

松浦 そうです。ただ、まだ制度のない時代で、医療点数にもならないので、どこの病院も雇いたがらないですし、保障はどこにもありませんでした。
 最初の5年間は、退院した方をマンツーマンでサポートする仕事をしていました。実習でお世話になった精神科医の恩師に、長期入院していた女性が地域で暮らせるようにサポートしてほしいと依頼されたんですね。その方は、国立下総療養所(現在の下総精神医療センター)に18歳から20年間、入院していました。下総療養所は、戦争神経症になった人が入っていた病院で、当時は、兵隊さんだった人もいっぱい入院していました。親は社会的地位のある人だったので、世間体を気にして、娘のことを隠していたんですね。親が亡くなって、退院させてあげたいけど、社会的サポートがないと退院できない。それで、サポートできないかということでした。
 それで、その方を自宅に泊めたり、アパートを借りたりして、地域で暮らせるように取り組み始めたんですが、ほんとうにたいへんでした。てんかん性の精神病で、知的障害もあって、被害妄想や幻聴もあって、こちらがいくらエネルギーをつかっても、ひとりではどうにもならない。そこで、逃げるか続けるかの、崖っぷちに立たされたんです。マンツーマンでは限界がある、これは居場所をつくるしかないと思って、クッキングハウスを立ち上げることにしたんですね。


●「おいしいね」から始まる文化

 当時、精神障害をもつ人の共同作業所は、いくつかはできていましたが、調布にはなかったんです。だから、つくるしかなかった。ほかの作業所も見学しましたが、内職仕事を黙々としているだけで、なんか雰囲気が暗いのね。こちらまで憂鬱になってしまう。本人も、イヤだと思ったんでしょう。私に茶碗をガンとぶつけてきてね。20年も入院していて、せっかく退院できたのに、こんな暗いところに行きたくないという、彼女の表現だと思いました。だから、そういう仕事ではなくて、文化をつくっていけるような場所を開かないといけないと思って、居場所を始めようと思ったんです。
 クッキングハウスという名前は、誰が読んでも、ご飯を食べられる場所と想像できる。ご飯を食べられること、そのものが人間らしい文化で、「おいしいね」ということから気持ちのいいコミュニケーションは始まっていきますでしょう。そこから、いっしょに人間らしく暮らせるかもしれないと思ったんです。
 当時、病院の食事事情はとても悪かったんです。黙って、誰とも話さずに食べて、余ったら、青いバケツに入れて病室に帰っていく。そういうわびしい暮らしを見ていて、食事は、気持ちよくコミュニケーションできる媒体になる、食事を文化にしたいと思ったんです。

山下 なるほど。食べることを大事にするというのは、子ども時代の原風景もあるということでしたね。その最初に関わった女性は、いまはどうされているんでしょう?

松浦 いま、彼女は74歳になりますけど、いまもクッキングハウスに来てくれていて、元気にしています。

山下 それはよかったです。ところで、精神疾患のある人に地域に居場所が必要だと思われたことと、息子さんが学校外の居場所に通っていたことは、松浦さんのなかでは、つながっていたのでしょうか?

松浦 そうですね。息子は地球の子どもの家にも行ってましたが、その前に救われたのは、地域の小さな本屋さんだったんです。脱サラしたおじさんが個人で開いた本屋さんで、そこで立ち読みしているうちに、ぽつぽつ、おじさんと話し始めて、バイトをするようになったんですね。配達と集金の仕事ですが、夕方からの配達でOKだったから、昼夜逆転していても大丈夫だったんですね。その本屋さんが居場所だったんです。
 息子が孤立しないですんで、話のできる人を見つけたように、私も居場所を開きたいと思いました。最初、不登校に無理解だったことへの償いという気持ちもあったかもしれません。私が子どものころは、学校が居場所だったんですが、自分の経験としても、居場所というものに自分なりの思いがあったと思います。

山下 クッキングハウスと、ほかの作業所の雰囲気のちがいというのは、来る人を問題のある人とまなざすのか、その人をその人として受けとめて、その人が生きられる場として開いているかのちがいかもしれないですね。私もフリースクールなどに関わってきたので、その感じはわかるように思います。

松浦 先ほどお話ししたように、自分が子どものころ、ケガをした母と友だちの家に行ったとき、「ご飯食べてきたかい」と聞いてくれたことで安心した思いがありましたから、そういうことを心から言ってあげられるような居場所をつくりたいと思っていました。だから、クッキングハウスでは、何より先に、おいしいものを食べられるようにしています。どんなにカッカカッカ怒って興奮している人でも、ここで何か食べてもらうと、だいたい落ち着くんです。

山下 よくわかります。症状に目をとられて、そこにどう対処するという話ではないわけですね。

松浦 どういう状態で来ても、その人がそのまま、丸ごと受けとめられる場所ということです。そうすると、最初は顔を伏せていた人や、帽子を深くかぶって顔を見せなかった人でも、だんだん顔を上げるようになる。そういう心を開く瞬間ってあるんですね。ここは、そこに立ち会える場なんです。ただ、いつ、そうなるかはわからない。その人を迎え入れているうちに、いつか自分から、なりたいようになっていくんです。

山下 こっちが変えようとするのではなく、本人が変わっていく。

松浦 それをみんなで喜べる場なんです。
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ランチの準備のようす


●不思議なレストラン

松浦 心の病気は誰でもかかるもので特別なことではないですから、堂々と生きてほしいですし、死にたくなるような不安や孤独のなかで、一生懸命、生きてきたことはすごいことなので、胸をはって生きてほしいと思ってます。
 そのためには社会参加も大事で、クッキングハウスを立ち上げて5年後に、玄米食のレストランを始めました。みんな、お店の経験なんてなかったですけど、ファーストフードのように、マニュアルがあって、それから始めるのではなくて、人がやっているのを見ながら覚えていこうということで始めたんですね。最初に出すのは、熱いお茶か、つめたいお茶か、ご飯は玄米か胚芽米か、などなど、私とお客さんとのやりとりを見ているうちに、自分でもできそうかなと思って、じょじょに動き始めて、始めてみたら、みんな私より接客が上手なんです。そして、いつのまにか不思議なレストランになりました。
 お店に来て、つらいことをすぐに話せるレストランなんてないですよね。ここでは、みんなが心の病気を体験しているので、つらそうにしていたら、わかるんです。だから、お客さんには、「今日はゆっくりしてくださいね」など、かならず声をかけます。そうすると、思わず泣き出す人もいる。そういうときは、せっけんとタオルを持っていって、「これで顔を洗ってください」と言ったりしてね。ここでは本音で話しても大丈夫というサインを、いつも送ってます。
 お店を始めてから、メンバー自身も変わりました。汚いかっこうをしていた人たちも、レストランなんだからと、きれいにしようと自分で思って、身ぎれいにするようになりましたし、レストランが繁盛したので、売上から材料費を引いた残りは給料として渡すことができるようになりました。とはいっても、みんなで分けるのでわずかですが、自分が働いたことが認められて、給料のかたちで返ってくるというのは大事なことで、それで生きる張り合いを取りもどしたところはあると思います。
 いま、20代から70代まで、60名を超えるメンバーがいますが、全員が精神疾患を持っていて、それぞれ主治医にかかって、薬も飲んでいます。しかし、薬で少し眠れたり、妄想がとれたり、改善することはあっても、薬だけでは人は回復しないんです。自分の気持ちを伝えられる人間関係があって、いっしょに食べて、語って、仕事をして、遊んで、そういう場で、仲間とともにでなければ、人間らしくは生きられません。ここでは、そういうことをしています。

山下 まさに、不思議なレストランですね。


●登校拒否と医療について

山下 また、不登校に引き寄せてお聴きしたいと思います。80年代は、登校拒否で精神病院に入れられるケースも多く、問題になりましたね。それに対して、登校拒否は病気じゃないという異議申し立てもありました。しかし一方で、登校拒否と病気を線引きしていいのかという疑問も呈されてきました。松浦さんは、精神疾患の人とともに活動されてきたわけですが、そのあたりはどうお考えでしょう。

松浦 そうですね……。ここに来ている人で、優等生だったのに学校に行かなくなって、ものすごく混乱状態になって、病院に入れられたとき「自分の人生はおしまいだ」と思ったという人がいます。ところが、実際に入院してみたら、そこにいる人たちは、みんなふつうの人たちで、やさしくて、親切で、とてもいい時間を過ごせたというんです。いまは、ここに来てますけど、その後も、親から自立するために、もう一度、自分から入院を選んでいました。退院後は、実家にはもどらず、いっしょにアパートを探して、ひとりで暮らしています。そうやって自立した人もいます。
 ですから、「登校拒否は病気じゃない」というと、私は「病気の人は差別されちゃうの?」と思いますね。私は「病気でもいいじゃないか」と思います。学校に行かなくなって、いっとき病気状態になるときもあります。いま思えば息子も、いっときはうつ状態だったと思います。

山下 しかし、一方で、閉鎖病棟の問題などもありましたし、精神疾患にかぎっても、日本は極端に入院が多いという問題もありますね。

松浦 たしかに、それはあります。児童病棟ではなく大人の病棟に混ぜられていましたし、それは問題だったかもしれない。でも実際に入ってみたら、その大人たちが親切で、同世代の人間関係に苦しんでいた子たちが、そこで救われたということもあったりするんですね。

山下 ある種、シェルター機能を果たしていて、一面的に入院が悪いとは言えないということですね。

松浦 私はそう思います。うちのメンバーも、学校時代にいい思いをした人はひとりもいません。何年もいろんなことがあって、ここに来ている。その人たちで、病院に入って、むしろ人間的なふれあいがあったという人は、けっこう多いです。

山下 おっしゃることはわかります。ただ、ここは、ていねいに問い直さないといけないところのように思います。一方で、社会の偏見もあって、登校拒否を医療の対象にしてきた面はありますね。それがよかったとは言えないように思いますが。

松浦 そうですね。稲村博さん(精神科医/1935―1996)など極端な人たちもいましたし、民間でも、戸塚ヨットスクールのような、鍛え直せばいいという矯正施設もありましたし、痛ましい現実があったと思います。学校に行かなくなったあと、どういう場に出会うかによって、人生が分かれてしまう。
 クッキングハウスを開いた当時は、私も不登校の親の会によく行ってましたから、クッキングハウスには、統合失調症の人も、学校に行かない子も親も、よく来てくれてました。子どもも、親も、みんなでご飯をつくって食べて、いろんな会話して元気になって、エネルギーを充電したら、出て行っていました。ですから、ゆるやかで、決めつけないで、大人も子どもも混じり合えるような場所があるといいと思います。
 いまは、うちのメンバーで結婚して子どもができた人たちが、赤ちゃんを連れてきたりしています。みんなで、わーわー言いながら、めんどうをみて、それで、子育ての不安を解消できたりね。そういう意味でも、そのままで生きていて大丈夫という場が必要だと思います。いまは、あまりにも分断されていて、学校に行かない子はこっちとか、そういう流れになっていますね。それはよくないと思います。


●混乱を招いた発達障害

山下 そういう意味では、発達障害については、どう思われてますでしょう? 特別支援学級などに振り分ける流れは強くなってますね。発達障害にかぎらないですが、その人の存在を見るのではなく、とにかく分類していく流れは強くなっているように思います。

松浦 問題だと思います。国が研究のお金を出して、突然、発達障害がクローズアップされて、病院でも混乱が起きています。発達障害外来ができて、でも半年待たないとそこで診てもらえない。診てもらっても、ほんとうは、ていねいに診ないと診断できないはずなんですが、1時間くらいの診察で診断してます。ですから、すごく混乱を起こしていると思います。

山下 医療にかかることへの偏見を変えることは必要だと思いますが、一方で、学校も社会も、分類しないでいっしょに過ごせるはずのところを医療に丸投げして、自分たちの世界から排除してしまっている面もあるように思います。

松浦 医療にかかったからといって、発達障害がよくなるわけではないですからね。多少、改善する薬はあるでしょうけど、基本的には、その人のペースを保障できるように環境を整えるほかないんです。うちにも発達障害も持っている人がいますが、たしかに、こだわりが強かったりするから、まわりも、たいへんなところはあります。その場の状況を読めないことも多いですし、一度こだわると、ずっとそのことを言い続けたりしますしね。だからといって、医療にかけたからといってよくなるものでもない。いっしょに生きていくしかないことだと思っています。

山下 特別支援学級はパンク状態になる一方で、学校は異質な子を排除することで、ますます苦しい場になっているとも言えます。それと、子どもと精神医療ということで言えば、就学前の子どもに向精神薬が出るなど、過剰に薬物が処方されていることが問題になっていますね。親も教師も、ちょっと落ち着きがなかったり、こだわりの強い子を、受けとめるのではなく、薬や医療で対処する流れは強まっているように思います。

松浦 それは、その通りですね。クッキングハウスでは、自分の気持ちが語れることを何よりも大事にしています。そうすると、いろんなことを話してくれます。そして、そこで安心をプレゼントしてもらえれば大丈夫なんです。ところが、自分の気持ちが言えないまま、医者のところに行って、「イライラしてます。眠れません」と言うと、医者も忙しいですから、手っ取り早く薬を出すだけになって、ちっとも解決しない。何より話せる場は必要だし、話を聞いてくれて安心感をくれる場が必要だと思います。私の仕事は、1日中、話を聴くことです。みんな、ちょっとでも不安があると「話していい?」とやってきます。


●安心感のプレゼント

山下 クッキングハウスも、べてるの家(*1)も、医療と関わりを持ちつつも、医者ではなくて、当事者とともに生きてきた人から生み出されてきた場ですね。

松浦 べてるの家でも「三度の飯よりミーティング」と言っていて、話すことを大事にしていますね。最近では、フィンランドのオープンダイアローグ(*2)が紹介されて、話題になってますが、クッキングハウスでは、ずっとオープンダイアローグをやってきているんです。毎日、みんなで話して、聞き合っていれば、そんなに薬に頼らなくても大丈夫なんですよ。

山下 私も、オープンダイアローグって、いまさらフィンランドの例を紹介しなくても、日本でも居場所などでは、ずっとやってきていることのように思いました。

松浦 そうですね。人は誰しも、つらいとき、苦しいときは、トンネル現象になっている。真っ暗で、どうしていいかわからない。その出口のところに安心感をプレゼントしてくれる人がいさえすれば、大丈夫なのよね。そこから成長していける。そこに不安を与える人が立っていたら、病気の症状のようになって出てくる。とにかく安心感のプレゼント。私がやっていることは、それだけです。

山下 SST(*3)もやっているということですが、自覚的にSSTと言い出したのはいつごろでしょう。

松浦 87年にクッキングハウスを始めたころから、いいところをちょとでも見つけて伝えると、すごく喜んで、前向きになって元気になっていくことを実感していました。茶碗ひとつ洗ってくれても「ありがとう助かったわ」、あいさつしてくれても「声をかけてくれてありがとう」、そうやって、誰かが自分のことを認めてくれているとわかると元気になる。それは実践でわかっていたんだけど、もっと体系的、理論的でないと、人に伝えられないと思って、探していたんです。そうしたら88年に、東大の精神科のデイホスピタルでSSTの紹介が始まったんです。そこには毎週、通いました。どんな小さなことでもいいところを見つけて伝えると、薬よりも大きな力がある。いまは、メンバーたちのSST、家族のSST、一般市民も参加できる誰でもSSTと、いろいろなSSTをやってます。人間関係をよくするためのコミュニケーションの練習は、誰にとっても役に立ちますからね。病気の人にかぎらないわけです。そういうSSTは、日本では、うちが元祖です。病院はクローズドだから、一般の人は入れないでしょう。医者が指示した人だけが参加する。クッキングハウスは、地域のなかで、どなたもどうぞとやっていますが、そういう場は、ほかになかったんです。

山下 べてるの家でもSSTをしてますが、ある時期から当事者研究がクローズアップされて、いまや大流行ですね。クッキングハウスでも、当事者研究はされているんでしょうか?

松浦 プログラムのなかに入ってます。あれは自分なりのやり方でいいわけですからね。自分のことを話して、シェアしてもらうだけでも当事者研究ですが、べてるの家の発想にはユニークさがありますよね。当事者研究で、ずいぶん日本の精神科医療は、明るくなったと思います。

山下 病気を問題として見るのでも、医者の枠組みで見るのでもなく、当事者の語りが発信されてきたことには、大きな意味がありますよね。

松浦 スタッフも含めて、みんなが自己病名をつけて説明して、すごくおもしろいですね。何が解決したわけではないけど、笑ってね、なんだか楽になる。

山下 松浦さんは、実際に生活をともにされながら、後から理論を血肉化されていますよね。クッキングハウスも、枠組みで言えば、地域精神保健医療ということになるのかもしれませんが、イタリアのトリエステの例(*4)が頭にあって、始めたわけではないですよね。

松浦 そうですね。実践してわかったことに、後から理論的に裏づけていることが多いです。そういう意味では、うわついてないと思います。

山下 一方で、福祉関係の人は、まず分類したがるところがありますよね。アセスメントは大事かもしれませんが、福祉関係の人と話をしていると、その人を素直に受けとめるのではなくて、はじめから分類しようとかまえているように感じることがあります。

松浦 福祉に関わる人たちに、発想の豊かさがないんだと思います。多くの場合は、作業所で作業をして、少しでも賃金にして分配することがいいことになってますよね。黙々とシーツを縫ったり、内職仕事をしていても、そこには文化がない。それでは、社会参加していくことにはならない。もっと、町の人が喜んでくれるようなことをすればいいのにと思います。
 クッキングハウスのご飯は、みんなが喜んでくれます。座敷コーナーには、赤ちゃん連れも多いですし、ご飯と味噌汁はおかわりできるから、しっかり食べて、たくさんしゃべって帰っていく。ほんとうに楽しそうですよ。たいがいのお店では、赤ちゃん連れはきらわれることも多いですしね。


●地域の反対は?

山下 開設当初、地域からの反対や偏見はなかったんでしょうか?

松浦 それが何もなかったんです。調布でも、別の精神障害者の共同作業所ができたとき、「精神障害者は出て行け」という反対運動が起きたことがありました。立て看板もあちこちに立ってね。私も、その作業所を見学に行きましたが、みんながジャージを着て黙々と作業をしていて、誰もあいさつしないし、雰囲気が暗いのね。それで、ある日、その反対運動の代表の方がクッキングハウスにご飯を食べに来たことがあったんです。その方は1万円渡されて、「おつりはいりません。自分たちも、こういう文化をつくってくれる場所なら賛成なんです」と言ってました。
 私はありがたいことに、1回も反対されたことはなくて、それどころか、町を歩いていると、「松浦さんたちのやっていることに励まされているわ」と声をかけてもらえます。また、全国から物資や物産を届けてもらっていて、賛助会員は1000名を超えます。当事者の家族だけではなくて一般市民がクッキングハウスを希望にしてくれている。それは幸せなことだと思います。

山下 最初から、クローズドではなくオープンな場であることが大きかったんでしょうね。そうでないと、特殊な人たちの場となってしまう。そのために偏見が変わらない。

松浦 こういう場所は地域の大事な社会資源で、だからオープンにすべきだと思って、開設当初からやってきました。ですから、相談室以外は常にオープンにしています。誰にでも活動が見えるようにしています。また、伝えたいことは、メンタルヘルス市民講座にして、メンバーもそこで語ってくれています。でも、地方に行くと、そういう場は、ほんとうにないですね。ものすごく閉鎖的な場所が多いです。
 地方では、大きな精神病院が1つ2つあって、行くところは決まってますしね。東京では約800カ所くらいクリニックがあって、自分で選んで行ける。そういうちがいもありますね。
 また、精神病院も、いまは改装して、きれいになっているところが多いですが、かつてはおぞましいほど不衛生で、鉄格子があったりしたのもよくなかった。精神障害者が関わるところというと、世間に、そういう印象を与えてしまったところはあると思います。


●薬の問題は

山下 大づかみな質問になりますが、一昔前までは、おおかたの人は自分は健康だと思っていて、ごく一部の人が精神疾患になるという認識だったと思います。そして、そういう人は、自分たちの生活世界から見えないところに排除されていた。ところが、いまは、みんながしんどくなって、そうであるがゆえに、昔ほど精神科医療への敷居は高くないですね。その一方で、薬を飲む人が増えた。このしんどさは、個人が医療にかかって、薬で解決すべきことになっているとも言えます。居場所で、ともに支え合っていくということは、とても少ない。そのあたりの人びとの意識の変化をどう感じておられますでしょうか。

松浦 精神医学の分野では、心理社会的な研究と、脳科学の研究と、両方がバランスよく研究されていくこと大事だと言われています。しかし、いまは脳科学のほうに傾きすぎていますね。そうすると、それは薬につながっている。その行きすぎは感じます。たしかに、脳の問題なんだから薬を出せばいいという医者も多いです。だけど、それでは治らない。最前線の脳科学を求めて、医者めぐりをする人もいますけどね。
 ただ、一方では、脳科学の研究でも、言葉の力がすごく大きいことがわかってきたんです。前向きないい言葉を語りかけると、脳のポジティブな部分が活性化する。不安なことやイヤなことを言われていると、ネガティブな部分が活性化する。そういう研究は大事だと思いますが、薬一辺倒はまちがってます。私が実践のなかで感じてきたのは、心理社会的なものが一番大事だということで、ちゃんと安心感をプレゼントして、その人のありのままを出せる場が大事だということです。

山下 それはよくわかります。しかし、たとえば不登校が最初に精神医療で問題化されたときは、学校恐怖症と言われて、母子分離不安が原因だとされました。力動精神医学の見方で母子関係が問題視されたわけですね。心理といっても、家族関係に問題を求めると、結果、親が責められることになってきたということはあるのではないでしょうか。発達障害も、いまは脳機能障害ということになって、親の育て方の問題ではないという見方が確立して、そのことで親が解放された面はあるんだと思います。しかし一方で、脳の問題だからと、薬一辺倒になって、関係のなかで受けとめることは痩せてきているように思います。

松浦 時代によって、流行の考え方がありますよね。一昔前には母原病説もありましたし、いまは発達障害ですね。自分で考えずに時代に流されてしまうところはあると思います。
 それと、たしかに家族関係を分析するような旧式のカウンセリングをする人も、いまだに多いみたいですね。初対面で「母乳を飲ませましたか?」とか「小さいときはどう育てましたか?」とか聞かれて、「その人の前でいきなり裸にされたみたいで、すごく気持ち悪くて寝込んだ」という人もいます。私は、家族に相談を受けても、今までどう育ててきたかなんて、いっさい聞きません。いつも、いまからどうしましょうかということから始めています。

山下 そのあたりのことで言うと、一時期はアダルトチルドレンが大流行でしたね。クッキングハウスに来られる方でも、自分をアダルトチルドレンだという方はおられるのでは?

松浦 いますね。とにかく親が悪くて、自分は機能不全の家庭で育ったという方はいます。私はそれを否定はしませんけど、それを言っているかぎりは、自分の責任で自分を生きていくことにならないと思うのね。ですから、「いま、あなたが熱中できること、やりたいことは何?」ということから聴いてます。「あなたは、どうなりたいの」って。なるべく、アダルトチルドレンの言葉には乗らないようにしてますけど、そういう人はわかってほしいから、熱心に本を読んでいて、本を持ってきて読んでほしいとか言いますね。

山下 むしろ、松浦さんの場合は、親子関係は距離を離したほうがうまくいくと思われているということでしょうか。

松浦 私は、家族と離れて住むことを応援しています。障害年金や生活保護なども、いっしょに申請に行きます。憲法25条で保障されているんだから、堂々と取りに行こうと言ってね。実際には、そのほうがずっと回復しています。だから、ここはやることがいっぱいあるんです。経済的なことから、家族のことから、個別の相談も、SSTもある。


●暴力沙汰は起きたことがない

山下 松浦さんは、とにかく暴力がいやだったということですが、クッキングハウスで暴力沙汰が起きてしまったことはないんでしょうか?

松浦 それが、まったくないんです。

山下 それはすごいですね。場の持っている力なんでしょうね。

松浦 よく施設の職員が暴力をふるう事件が起きますけど、あれは何なんでしょうね。逆のこともあるようですけど、きっと、生きていることをおたがいに楽しめてなかったんだと思います。ここでは、ご飯を食べて、語り合って、歌ったり踊ったり、いつも、そんなことをしてます。安心をプレゼントされていれば、暴力なんて起きないと思います。
 クッキングハウスを開いたときは、保健所の職員に「精神障害者に包丁を持たせて大丈夫か」って聞かれました。そういう偏見はありますが、包丁を持っているからといって、一度も何か起きたことはないです。みなさん、心の病気にはなったかもしれないけど、不器用で、一生懸命生きている人たちなんです。そのいのちが輝くようにしなければならないというのが、私の使命だと思ってます。

山下 シンプルに、食べることを大事にされていることが、いのちを育むことになっているわけですね。今日はありがとうございました。

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*1 べてるの家:1984年に設立された北海道浦河町にある精神障害等をかかえた当事者の地域活動拠点。

*2 オープンダイアローグ:フィンランド西ラップランド地方の病院で始まった、統合失調症に対する治療的取り組み。患者と主治医だけでなく、家族や友人、看護師らを交えて「開かれた対話」をする精神療法。

*3 SST(Social Skills Training):心理社会的療法のひとつ。困難を抱える状況をコミュニケーション技術の側面からとらえ、その技術を向上させることによって困難さを解決しようとする技法。1994年には入院生活技能訓練療法として診療報酬に組み込まれた。

*4 イタリアのトリエステの例:1978年、イタリアの精神保健法で、精神科病院の新設、すでにある精神科病院への新規入院、1980年末以降の再入院を禁止し、予防・医療・福祉は原則として地域精神保健サービス機関で行なうこととなった。トリエステ県立病院の院長だったフランコ・バザーリアが改革を進めたことから、同法はバザリア法とも呼ばれる。

posted by 不登校新聞社 at 17:58| Comment(4) | 居場所・フリースクール関係
この記事へのコメント
とても、すごいお話だと、感じました。
フリースクールで、助けられた、次男がいます。
うちは、DVで、離婚しましたが
昔は、暴力は当たり前だったのですね
どんなに、お辛かったと、感じます。

貴重なお話、ありがとうございました
Posted by 丸子七重 at 2017年10月21日 13:18
コメント、ありがとうございます。暴力がなく安心していられること、ご飯がおいしく食べられることが、どの人にとっても大事なのだと、松浦さんのお話をうかがいながら、あらためて思いました。居場所というのも、そのあたりが大事なのだと思います。
Posted by 山下耕平 at 2017年10月21日 14:02
原因を追求するより、いかに安心させてあげられるか。これからどうしたいか本人が主体的に考えられるようにする。その始まりが安心できる場所なんですね。不登校の娘がいますが、どうしたら学校に戻れるかばかり考えてしまっていました。解決するには、原因を探ってその元を正す事ばかり考えていました。こだわりが強いから発達障害なのかとおもってみたりして。レッテルを貼って終わってしまう所でした。たしかにレッテルが貼られるとこうしたら、治るはずだとか対処療法が見つかるかもしれないですけど、日本社会はレッテルを貼って終わりというところが多いようにも思えます。それよりも大切な事を教えてもらいました。ありがとうございます。
Posted by 安宅奈津子 at 2017年10月29日 00:36
コメント、ありがとうございます。不登校についても、発達障害についても、理解の枠組みとして必要な知識はあるように思いますが、本人にとっては、知識で頭で理解されるよりも、自分の存在が受けとめられるということが何より大事なのでしょうね。そういう懐が社会でも狭くなってきてしまっていることが、生きづらさということになっているのかもしれないと思います……。
Posted by 山下耕平 at 2017年10月29日 09:49
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