2017年10月27日

#27 保坂展人さん

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(ほさか・のぶと)
1955年宮城県仙台市生まれ。高校進学時の内申書をめぐり、16年間の内申書裁判をたたかう。新宿高校定時制中退後、数十種類の仕事を経てジャーナリストになる。1996年から3期11年衆議院議員を務め、「国会の質問王」と呼ばれる。2011年4月、世田谷区長に当選、現在2期目。著書に『いじめの光景』(集英社文庫1994)、『88万人のコミュニティデザイン』(ほんの木2014)、『脱原発区長はなぜ得票率67%で再選されたのか?』(ロッキングオン2016)ほか多数。

インタビュー日時:2017年8月22日
聞き手:奥地圭子、木村砂織
場 所:世田谷区役所(東京都)
写真撮影:木村砂織
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〈テキスト本文〉

奥地 保坂さんには、以前、親の会や子どもたちの集まりでお話しいただいて、こういう生き方もあるんだということに力づけられました。本紙でも2005年に連載していただきましたが、その記事は、現在もホームページで見ることができるようになっています。
 まず、どんな子ども時代だったかということから、うかがいたいと思います。

保坂 生まれたのは仙台市で、幼稚園の途中までは、仙台にいました。そのころは、活発というよりは、どちらかと言えば内気なほうでしたね。

奥地 ちょっと、いまからは想像できないですね(笑)。

保坂 たとえば、昼どきに母に「パンを買ってきて」と言われても、店先に群がるお母さん方に押されて、ついに注文することができない。みんながいなくなってから店の人が気づいて、「僕なんなの?」と言われて、ようやくコッペパンを指さしたという記憶があります。

奥地 かわいい話ですね。

保坂 その後、地元の幼稚園から、くじ引きで当たって東北大学付属の幼稚園に移って、さらに父親が東京に転勤することになって、幼稚園年長の5歳ごろに、東京都世田谷区の幼稚園に移りました。東京に出てきて、母が幼稚園で仲よくなったお母さんから、東大を目指すには日比谷高校があり、日比谷高校に行く学校として麹町中学校があり、麹町中学に入りやすい小学校として3つの小学校があるという情報を仕入れてきて、小学校は越境通学することになったんです。当時、住んでいたのは世田谷区の桜上水だったのですが、そこから都心の麹町小学校まで、小学校1年生からひとりで電車に乗って通うことになったんです。鍵をぶら下げて、「鍵っ子」って言われますけど、そういう状態でした。そのころも、そんなに活発というよりは、ふつうの子でした。
 それが大きく変わるのは、小学校4年生から5年生にかけてでした。父が病気になって、仕事を休んで入院するということがあって、そのときに、なんか心配だけど、半分うれしいみたいな気持ちになったんです。

奥地 お父さんとのふれあいが増えたということですか?

保坂 いいえ、そういうことじゃないです。それまでは父がぜんぶ稼いできて一家の大黒柱だったのが、その父が病気になってしまったことで、なんか自分もしっかりしなければいけない、みたいな意識が生まれたんです。もしかすると越境通学もやめて地元の学校に戻らなければいけないかもしれないし、経済的なことも気になるようになった。この先どうしようとなって、母親の相談相手にもなったことで、すごく読書量も増えましたし、活発になったんです。小学校6年のときの作文には、「内閣総理大臣になって政治の姿を正したい」と書いているんです。小さな大人になったという感じがありました。

奥地 そうですか。なかなか意識が早いですね。

保坂 そうですね。そこで自分が大きく変わりました。通っていた麹町小学校は、わりとゆるやかな感じで、のびのびとすごしていたんです。しかし、麹町中学校に入ると、受験に特化した成績至上主義の学校で、ぎすぎすした感じがありました。たとえば、最初のテストから番付が公表されるんです。「100番以内の子は、いまから名前を呼ぶ」と言ってね。

●受験戦争のなかで

奥地 中学に入られたのは、何年ごろですか。

保坂 1968年(昭和43年)です。大学闘争がだんだん激しさを増していたころでもあり、まさに受験戦争と言われていたころです。「いいか、ふつうじゃ勝てないぞ。朝早くやるか夜に深夜までやるか、人間にはふたつのタイプがあるから選べ」みたいなことを教師が言って、生徒にハッパをかけるんです。自分は朝型だという診断が出て、朝4時から勉強するんですが、睡眠不足で集中力が落ちて、結局は成績が落ちたんです。学年で500人いるうち、46〜47番で、それが非常に屈辱的でした。しかし、そうすると「おまえ、こんな成績で平気でいられるのか」「お前の上に45人いるぞ」と、先生に叱咤激励される。

奥地 じゃあ、ほめられる人はほとんどいないんですね。

保坂 せめて20番以内に入れないと志望校には行けない。でも、1学年で500人いますし、結局、一番成績がよいときでも、20番以内には入れなかったですね。

奥地 その当時、そのような仕組みとか、やり方に批判的な意識は持っていたんですか。

保坂 いや、順応しないといけないと思っていました。学校は徹底していて、まず教科書を使わないんですよ、ぜんぶ手製のプリントでした。中学1年生の最初に元素の周期律表を覚えるところから、理科の授業が始まるんです。「授業を聞かないヤツは、どんどん後ろへ行ってくれ」とはっきり言われて、やる気のあるヤツだけがついていく。その雰囲気にすっかり飲み込まれて、かぶりつきみたいなところで勉強していました。だから、わからない子は、4月の段階で授業がわからなくなる。いま考えてみれば、すごいですよね。

奥地 そうですね。振り落としながらですものね。

保坂 最初に、振り落とすことを宣言して、気持ちの余裕を失わせる。私は振り落とされなかったけれど、トップクラスには行けず、鬱屈していたところに、自宅が神奈川県の相模大野に引っ越して、さらに家が遠くなって、ラッシュアワーで学校まで1時間かかるようになったんです。その行き帰りに本を読むようになって、それが唯一の息抜きでした。図書館で本を借りてきたり、父親がNHKに勤めていて文学青年でもあったので、家にも本がたくさんありました。それで、羽仁五郎の『都市の論理』(勁草書房1968)がベストセラーになっていたので読んでみたり、岩波書店の旧仮名づかいの本は、ぜんぶ読んでいました。

奥地 そうですか。「てふてふ」なんて書いてあったりしましたよね。

保坂 そういったかたちで本に救いを求めていたんですが、その後2年生になって担任が温厚な先生に代わって、学校のなかで漫画雑誌を紹介してみたり、少し楽しくやりだしたんです。ただやっぱり、その先生も「もうそろそろ受験という2文字に青春をかけてみませんか」みたいな、そういう言い方をするわけです。「何も考えずに受験の2文字だけを考えればいいんですよ、みなさん」みたいに言うので、それには相当反発しました。

奥地 部活などはされてたんですか。

保坂 柔道をやっていました。おかげで、のちに交通事故で車にはねられたときは、とっさに受け身ができました。
 それと、2年生の文化祭では、クラスで社会問題の研究をやったりしました。

奥地 文化祭では、どんなものを出されたんですか。

保坂 ジョークだったんですけどね。当時、全共闘の学生や、労働組合に飽き足らない若者たちが「反戦青年委員会」というのをつくっていたんです。それで、模造紙に、まず「反戦」と大きく書いて、戦争はいけない、平和主義、平和が大事だということを書いたんです。その次に「青年」と書いて、五木寛之の『青年は荒野をめざす』というベストセラーからの引用を入れた。そして一番右に「委員会」と書いて、学校の委員会活動を活発にするにはどうしたらいいかということを書いたんです。パッと見ると「反戦」「青年」「委員会」と並んだ見出しが見えるけど、中身をよく読むと、それぞれちがうことが書いてあるという、一種のおふざけでした。しかし、自民党の区議会議員がその見出しに目を止めて、校長室に駆け込んだんです。それで「これは、ついに中学で紛争が起きた」という話になって、校長は青くなった。それで撤去しろとなってしまったんです。ジョークが通じなかった。

奥地 中学生らしい校内活動だったんですね。

保坂 ややシニカルなね。ほかにも、「砦の囚人」というアイロニーのこもったタイトルのミニコミ誌を出していました。『砦の上にわれらの世界を』(東大全共闘編/亜紀書房1969)に影響を受けて、「砦」という言葉を使って、「囚人」というのは、自分たちは何もできない檻の中にいる囚人だという意味ですね。そもそも学校から外れる予定はなかったので、自分たちを囚人と位置づけていたんです。


●学校から拒否された

 そうしたなか、中学2年生のあるときに、べ平連(*1)の集会が清水谷公園であったんです。その公園は麹町中学校から歩いて7〜8分のところにあって、通学路ではないんですが、「仲のよかった友人と人生を語りながら散歩していたら、たまたま集会があった」というストーリーを組んで、わざわざ制服・制帽で集会に行ってみたんです。
 ただ、「人生を語る散歩の途中」ですから、3〜4分ぐらいだけいて、「もうそろそろ出よう」と会場の外に出ました。しかし、その集会には中学生も「中学生べ平連」みたいなかたちで参加していて、中学校の校長会から監視要請みたいなのが出ていたんですね。それで、制服・制帽で目立っていた僕たちは「おまえら中学生じゃないか」「どこの学校だ」という話になって、通報されてしまったんです。僕たちからすれば、制服・制帽を着て、集会に参加していないということを表しながら行ったわけです。にもかかわらず、翌日、学校の生活指導の先生は「ついに一線を越えたな」と言われて、「大胆不敵にも、制服・制帽で反戦集会に参加した」ということになってしまった。でも、たった3〜4分なんですけれどもね(笑)。

奥地 大人側の過剰反応なんですね。

保坂 それで、生徒指導の先生には「これで地元の学校に戻ってもらうところだけれども、今回は最後通告とする。今後いっさい、こういうことをしなければ、いまの学力なら充分いい高校に入ることができるじゃないか」と言われました。
 僕も、いったんはそれを受けいれたんですが、受けいれたとたん、10日ぐらい脱力してしまったんです。実際には集会に参加したわけじゃない。偶然、通りかかって3〜4分いただけなのに「一線を越えた」ことになってしまった。それで、家にこもって、まったくふとんから起き上がる気も湧かず、何をする気もなくなってしまいました。
 そして、10日ぐらい経って、なんか憑き物が落ちたようにガラッと変わっちゃったんです。中学3年になってからは、「砦の囚人」の「囚人」をとって、「砦」という新聞をつくり始めました。
 しかし、学校としては、一線を越えたところで、さらに越えてきたということで、ほとんど授業には出してもらえなくなりました。

奥地 授業に出してもらえないというのは変な話ですね。

保坂 ですから、僕の場合は、登校拒否とはちがうんですね。むしろ学校から拒否されたのかもしれない。学校には行っているんだけど、教師からは「問題児の考え方を直す」というアプローチを受け続けました。麹町中学校は全校生徒1500人のマンモス校で、教師も80人くらい、生活指導部の教師も何人もいて、そのトップの先生が1週間かけて僕を説得してみたけどダメだった。その後、入れ代わり立ち代わり教師に説得されて、果てしなき議論を経験したんですが、これはのちに国会議員になってから、とても役に立ちました(笑)。僕のほうは、論理的にいろんな話をするんだけど、結局は「俺の立場を考えてくれ」という話になっちゃうんですね。

奥地 先生が生徒に?

保坂 最後は、泣き落としです。最初は損得論ですね。「中学でこんな問題を起こすようなことをやっていると、もう高校へは行けない。行けないとどうなるかわかるだろう? もう、地獄に落ちるんだ。学歴が中卒じゃ一生浮かばれない。だから、そんな変なことしないで、高校に行ってから、おおいに政治活動をすればいい」と。そこは無責任ですよね。

奥地 それは、不登校の子たちが言われたことと重なりますね。

保坂 似ています。「高校へ行ってからやれ」あるいは「大学を出てから、ジャーナリストでも何でもなりなさい。世の中に言いたいことを言うには、ちゃんと階段を踏んでいかないと相手にされないから」と言われた。しかし、そこは古今東西の文学作品を読んでいた影響なのか、中学生がいささか早く目覚めたかもしれませんが、いったん、そこで自分をごまかしてしまうクセを覚えると、のちの人生も最後に悔いることになってしまうのではないかと思って、「先生どうですか」と、そういう話をずっとしていたんです。

奥地 仲間というか、友人たちは、どんな感じだったんですか

保坂  友人たちはね、僕が暴力をふるっていたわけでもなく、ただミニコミをつくって配っていただけなのを知っていたので、協力的だった子が多かったですね。「難しいことを言ってるのでよくわからないけど、言いたいことがあるんだ」みたいな反応で、排除する感じではなかったです。


●全校生徒の前で引きずられ

 問題児とされたのは、もうひとりいましたけど、その子は、あまり学校に来なくなった。それで、対立状態が続いていたさなかに、教頭が出てくるんです。教頭は「言いたいことがあるのはわかった。だったら、なんで生徒会でやらないんだ」と言ってきたんです。僕が「生徒会でやろうとしても、ぜんぶ遮断されましたよ」と言うと、「いや、そんなことはない。私が君の発言を保証する。だから、もう、自分でガリ版のチラシをつくったりするのは、いっさいやめなさい。その代わり、生徒会をつかって言いたいことがあればやったらいい」と提案してきたんです。なおも僕が「いや、そんなこと言ったって無理でしょう。これまでだって、そういうことは認めてくれなかったですよ」と言ったら、かっと目を開けて「男と男の約束だ」と言って、手を出して握手してきたんです。

奥地 お芝居みたいですね。

保坂 教頭が、生徒会での発言を保証すると言うので、僕は約束を守ってチラシを配布することをやめました。そして、生徒会総会が11月にありました。提案したい生徒が、箱の中に議題を入れるんですね。結局、議題を提案したのは、僕が入れた1件しかなかったんです。だからどうしても、僕が全校生徒1500人の前で議題の趣旨説明をすることになった。どんなことを話そうかと考えていたところ、教師に呼び出されて、「君が明日登壇することになってしまっているようだが、職員会議が開かれて、これは認めないということで決定した」と言われました。「それはおかしい。男と男の約束をしたんですよ」と言ったら、「それは教頭先生個人のお考えで、学校の総意では認めない。生徒会はままごとじゃないんだ」みたいなことを言ってきたんですね。
 そこで翌日、生徒総会になるんです。1500人がひしめいて立っているところで、「意見はありませんか?」と、司会の生徒が言ったとき、「あります」と言って、僕は演台に駆け上がったんです。それで、「みなさん、こういうことがありました」と言おうと思った瞬間、マイクのスイッチが切られたんです。そして、生活指導の教師が「発言させるから、手続きを踏め」と下から大声で言ってきました。「君は指名を受けていなんだ」と。まあ、それは形式論ですが、「1回降りて、議長の指名を受けろ」という言葉を半分信じて、いったん下に降りたところ、はがい締めにされて、全校生徒の前で引きずられていったんですね。教師は「いまのはなかったことにして進めろ!」と大声を張り上げていました。

奥地 それは屈辱ですよね。

保坂 全校生徒が見ている前での出来事で、強烈な思い出としてだけではなく、それ以来、生徒間の雰囲気は、学校のほうがおかしいんじゃないかというふうに一変しました。だって、手続きにのっとって発言予告してやったことが、そういうふうになったわけですからね。


●内申書裁判に

奥地 それが内申書裁判につながっていくわけですね。

保坂 そうです。内申書作成のときに、担任の先生が「君の思想は難しすぎるので、単純な俺には理解できない。この学校にはたくさんの先生がいて、俺より優秀な先生がいるから、内申書を書いてもらう先生を探しに行け」と言ったんですよ。

奥地 えっ、変な話ですね。

保坂 その理由は、後でわかるんです。結局、文面を示されていたんですね。内申書の文面を書くのに彼の裁量の余地はなかったんです。この生徒はこんなにいろいろ学校の言うことをきかないで、政治がどうしたという趣旨の文面が示されていて、担任はそれを書き移すしかなかったのだけど、それは書きたくなかったんですね。それまで担任は「内申書に書くようなことは絶対しない」と言っていたので、それを裏切るようなことは言えなくて、「誰かに書いてもらえ」と乱暴な話になっていたわけです。
 内申書は、生徒全員に出席番号順に渡すんですが、僕の番になったとき、名前をわざわざ呼んで、「君は、なし。直接、君には渡さない。そういう特別な扱いだから」と言われました。僕の内申書は、教師が志望校に直接持っていって、和光高校の面接では、内申書を広げられて「君はここまで学校に反発したんだよね。じゃあ高校に何しに来るの?」とか、「君は沖縄問題に対してはどういう見解だね」とか「いじめについてはどう思うかね」とか、思想犯の取り調べのような面接でした。その後、そのことは、いまの和光学園理事長の古関彰一先生にもお話しましたけどね。
 あとでわかったんですが、成績は上位で十分入れたのに、面接態度がDということで最低評価でした。Cから下は入れないんです。まあ、思想上の差別ですね。それで、学校を訴えるという議論が起きたんです。そういう内申書が作成されたということと、卒業式では大勢の先生に引きずられて組み伏せられたまま卒業式を迎えたことがあったので、それをもって学校を訴えるべきだと。

奥地 それは、すごいですよね。まだ中学を卒業したぐらいの年齢の子たちだと、理不尽なことがあっても、裁判まではなかなか考えないと思うんですけど、どういう経緯だったんでしょう。

保坂 僕自身は、さめた少年だったので、「裁判なんかやってもどうせ負けるに決まっている、時間のムダだ」と思っていて、「どうしてもやりたいという大人たちがいるんであれば協力してやってもいい」という感じでした。

奥地 そういう心境だったんですか。

保坂 ええ、かわいげもなく生意気でしたね。麹町中学校は進学校だったので、内申書で高校をぜんぶ落ちたということや、卒業式もそういうかたちで終えたということで、「なんとかわいそうな」というような記事も出たんです。「15の青春を返せ」「麹町中学の悲劇の少年」みたいなね。


●自分自身はサバサバしていた

 ただ、僕自身としては、定時制高校に入って、かえってサバサバした部分がありました。というのは、受験、受験という中学1年から始まった痛烈な受験競争のベルトコンベアーから、ようやく降りることができた。いろいろなことがあった中学3年のあいだも塾に通っていて、学力で追いつこうとかしてましたからね。ですから、降りたことで、かえってえらく充実感を覚えてたりしていたんです。そこへ「かわいそうだ」という大人たちがいっぱい出てきて裁判をするというので、僕の実感とは、ちょっとズレていたんです。

奥地 なんか、自分らしく生きている感じがしたということですかね。

保坂 15〜17歳というのは、自分が大きく変わる時期ですよね。その時期に、14〜15歳のときの話を人前で延々としなければいけなくなるというのは、苦痛でした。だって、中学生のときの話は、一過性でしかないでしょう。いま、めずらしく5年ぶりくらいで当時の話してますけど、15〜17歳のときに、くり返して話すのは、かなり苦痛だったんです。10代後半になると、中学時代のことはものすごく遠い過去のことに思えて。でも、それはしょうがないということで、結論から言うと、学校を相手に裁判を起こしました。それで、年に何回かの弁護団会議が開かれて、そこで法律論だとか、憲法論だとか、そういうことを耳学問で学びました。

奥地 でも、その後の人生には、それがぜんぶ役に立っているんですね。

保坂 そうですね。それとやっぱり、たくさん本も読みましたね。

奥地 その後、定時制高校も中退されるんですよね。

保坂 そうですね。東大全共闘は、エリートですよね。高校でも、日比谷高校とか、青山高校とか、進学校で紛争が多かった。当時の僕にもエリート意識はありました。中学生のときは、中学生ですら運動を始めたということで、メジャーな歴史に残る役割ができるんじゃないかみたいな、少年特有のヒロイズムみたいなものが、あったわけですね。
 ところが70年代に入って、連合赤軍事件や学生どうしの内ゲバ事件が起きてきて、何か対立すると、おたがいに殺しあうみたいなことが現実に起きてしまったとき、ショックを受けたんです。このときの失望感で、学生運動やその延長では世の中は絶対に変わらないと思って、学生運動みたいなものに対しての熱も幻想もさめたところがありました。それで、「高校に入り直して、留学でもしたらどうか」とか、いろいろ誘いもあったんですが、「せっかくベルトコンベアーから降りたんだし、この国やこの社会がどうなっているのか、旅をしながら見てやろう」と思ったんですね。残念ながら学生運動では世の中変わらないけど、自分が気づいた素朴な原点、世の中おかしいと思ったのはまちがいではないだろう、と。でも、何がどうおかしいのか、どういうメカニズムでこの国が動いているかを、自分で働きながら見てやろうという気持ちでした。

奥地 家を出て、ひとり暮らしを始められたんですよね。

保坂 そうですね。19歳ぐらいから、いろんなところに行って働いたり、働いたお金で本を読んでいたりとかしていました。

奥地 そのころも充実感みたいなものはありましたか。

保坂 いや、そのころは、正直に言って、充実感どころか挫折感です。高校、大学と行く将来を、意地を張って捨てたわけじゃないですか。そこで思い返してもどろうと思えば、もどれたかもしれない。でも、どこか意地っ張りなところがあるので、絶対もどらないと決めてました。ただ、日々アルバイトをしても満足できないので、ほんとうに短い1週間のアルバイトをしていました。

奥地 中卒で仕事を探していたわけですよね。

保坂 ええ。いろんなことをやりました。たとえば、こんなこともありました。定時制高校中退と書いて履歴書を出したら、面接した人が「おもしろい」と言ってね。僕も「なんだってできます」と言ったら、「編集の仕事どうだ」と言われた。300人ぐらいの会社で基本は大卒採用だったんですが、面接にあたった専務だかの決済で、「おもしろいから採る」となって、正社員になったことがあるんです。
 社内報では、なぜか定時制高校卒業ということになってましたが、そのままいれば、けっこう高いボーナスも出してくれると言うし、サラリーマンにもなることもできたんです。定時制高校中退で正規雇用で会社に入るなんて絶対にできないと言われていたなかで、じゃあ、ほんとうに入れないかどうか1回やってみようと、試したよう感じでした。
 でも、3カ月ぐらいやって、安定した仕事と給料をもらってサラリーマンをやっているんだったら、これまで、ぜんぶを捨てる必要もなかったなと思って、辞めてしまったんですね。19歳のころの話です。
 その後、一番こだわってきたのは、言葉です。

奥地 言葉というと。


●自分自身の言葉を

保坂 大学ノートに、いま自分がこだわっているものは何なのかを3行ぐらいずつ書いていくんです。3行ぐらい書いてみると、誰かが言っていそうな、どこかの本に書いてある影響を発見することができる。これは、自分の言葉ではないと気づくわけです。昔、学生運動の影響を受けてチラシやミニコミをつくっていたころは、文章を書くのは速くて無尽蔵に書けたんだけど、それは結局、仮のもので、自分自身の内側から発してくる言葉じゃなかった。そのときに出会ったのが魯迅の「青年を殺戮するのはやはり青年である」という短い言葉でした。これは、中国の辛亥革命のときに書かれたもので、魯迅は進化論者で、当時の若者が、やがて頭の固い年寄り世代と代わっていけば、世の中がよくなると信じていたんですね。しかし、青年のなかの進歩派と保守派が激突して殺しあうことがあって、それを嘆いて「青年を殺戮するのはやはり青年である」と言ったわけです。非常に含蓄の深い言葉ですよね。あるいは「急場の失言」というのも、「急場の失言の根拠とは考える時間がないことではなく、考える時間があるときに考えないことにあるのだ」と言う。魯迅は非常に緊迫した状況のなかで、ペンネームをいくつも変えながら、そういうエッセイを書いていました。そのエッセイは心の内側に入ってきて、その1行をずっと眺めながら、自分も、こういうふうに書いてみたいと思って、2時間ぐらい毎日喫茶店に入っては、うんうん言いながら書いていました。

奥地 そこで自分と向き合ったということですね。

保坂 誰にも頼まれてないですけれども、それを1年半ぐらい続けたんです。その結果、自分なりの考え方みたいなものができた気がします。考え方ができてくると、文体も生まれてくる、だから、僕の文章の特徴は、引用がぜんぜんないということです。

奥地 それが、自己確立の土台みたいなことだったんですね。

保坂 驚いたのは、その後、21歳で最初にもらった執筆の仕事は、月刊『宝島』という雑誌の100ページにわたる特集で、ぜんぶ任されたんです。
 当時、ミュージシャンの喜納昌吉さんと出会って、2カ月ぐらいかけて行動をともにしたんですね。そのときに起きたことを記録して、章立てして「喜納昌吉の世界」という特集を書き下ろしで書いたんです。100ページを1週間で書きました。そのときは、流れるようにというか、自動筆記のようにペンが動いて、するすると書けました。そのために訓練していたわけではないんですけどね。
 結局、その後も言葉の仕事をずっとやっていくことになり、中高生向けの『学校解放新聞』をつくったりしました。


●反抗には理由がある

奥地 『学校解放新聞』のきっかけは、何だったんですか。

保坂 子ども向けの雑誌、『セブンティーン』や『明星』で仕事をしていて、学校現場に行くことが多かったんですね。子どもが読者ですから、その代理人として、学校事件が起きると現場に行っていたんです。ほかに取材に来るのは、教師や親向けに情報を発信する既存のマスメディアばかりですからね。そこで出会ったツッパリ連中の、とんがり頭に長ランみたいなヤツと一晩中、話をしたりしていると、実はすごい体罰があって、「それに反発して俺たちはやってるんだ」みたいな話とか、マスメディアがつかんでいない話をどんどん聞けたんです。それを雑誌に書くと、すごく反響があった。当時、校内暴力は「理由なき反抗」と言われていて、「食品添加物のせいで暴れる子が多くなった」とか言われたりしてたんだけど、やっぱり理由はあって、そういう暴力が起こることに気づきました。
 一方では戸塚ヨットスクールの問題なども出てきて、当時、僕の周囲にいた若者に呼びかけて記者になってもらって、ミニコミで、月刊で新聞を出してみようとなったんです。それが『学校解放新聞』で、一時は5000部ぐらいまで伸びました。

奥地 そのころ、『ここならGOO!!』(ジャパンマシニスト社/1992)というビデオをつくられてましたよね。『学校解放新聞』編集部の伊藤書佳さんが私たちのところにも訪ねてこられて、いろいろな居場所を映像で紹介されていました。80年の終わりぐらいだったと思いますが、おかげで居場所のつながりの活動が深まりました。

保坂 それは、90年代初めごろですね。話をもどすと、雑誌で学校現場の取材を始めるまでは、僕自身の意識では、やっぱり自分だけがつらいと思ってたんですよね。言葉と格闘していたときも、18〜20歳ぐらいまでは、子どもたちが学校で何をしているかということに興味がなかったんです。
 ところが校内暴力が起きてきて、取材に行ってみると、当時の暴走族文化に影響を受けた子たちが、精いっぱい粋がって、強がっている。でも、その彼らが、卒業式では生活指導の先生と抱き合って泣いたりしているんです。マスメディアは殴るシーンを中継したくて待っているから、抱き合って泣かれちゃったら困るわけです。なぜ彼らは泣いたのか。彼らは学校が好きだったんですね。それで、僕が『セブンティーン』に書いた「ツッパリたちがオイオイ泣いた」という記事は、すごく反響を呼びました。
 ツッパリだからということで学校から排除された彼らと、学校から叩かれ、つまみ出された僕の経験は、理由はぜんぜんちがいますけど、よく似ていますよね。彼らの話を抵抗なく聞けたのも、そういうところがあったんだと思います。心がつながるものがあった。僕がくぐった中学での体験というのは、痛みや傷でもあって絶望感があったわけで、あまり多くの人にしてほしくない体験ですが、それが、彼らと会話が可能な要素としてあったんですね。

奥地 そうでしょうね。「わかるなあ」という感じでしょうね。

保坂 なんとなく、においでわかってくれたんでしょうね。そこで子どもたちが支持してくれた。


●国会議員に

奥地 そうでしょうね。大人たちは指導しようとするけど、そうじゃなくて、共感というかいっしょに考えて、話もできる立場だったんですね。その後、1996年に国会議員になられたわけですけど、どうして議員になろうと思われたんですか。

保坂 それまでの仕事は、子どもたちの不幸な事件で忙しくなる仕事だったとも言えるんですね。鹿川裕史くんや大河内清輝くんのいじめ自殺事件(*2)が起きたり、石田僚子さんの神戸高塚高校の校門圧死事件(*3)とかありましたね。そのたびに事件現場に飛んで行って取材して、レポートを書き、ときにはテレビで語り、それが本になったりということを、くり返していたわけです。30代になって、教育委員会から「こういうケースはどう考えるか」と相談を受けたりするようにもなって、いじめが起きてしまう学校の日常があるなかで、いざ命の危機があったとき、救命されるセーフティティネットのいじめ110番というか、いじめ119番のようなものがあればいい、と考えていたんです。
 そのころ、イギリスにいじめ問題を視察に行っていた牟田悌三さん(*4)が世田谷区教育委員会にいらして、牟田さんを代表にして、なんとかいじめを暴走させないネットワークをつくろうと、「いじめよ、とまれ!」というシンポジウムを96年にやったんです。そのときは、子どもがいよいよピンチになったときに、地域のネットワークでどう支えられるかという話で、たいぶ盛り上がったんです。シンポジウムの会場の中学校には、世田谷区内だけで500人も集まったりしていました。それはジャーナリストとしてよりも、社会活動家として子どもを守る仕組みをどう構築するかという関心だったわけです。折しも子どもの権利条約が批准されたころでしたしね。一方で、子どもについての活動とは別に、議員会館の土井たか子さんの部屋に足しげく通ったりもしていました。
 あるとき、イギリスで、子どもが子どものいじめの相談にのるという活動をしていることを知って、その活動をしているロンドン郊外のグランド・バーリーという学校の子どもをつれて来て、世田谷区の松沢中学校で交流したことがあったんです。その子どもたちが全員帰ったあとのことでした。電話がかかってきて、「衆議院が解散して、たいへんなことになっている。立ち会ってくれ」と言われて、1週間ぐらい立ち会って、社民党の党首を決める立会人として村山富市さんから土井たか子さんへの交代の道をつくったんです。そこで「ここまで付き合ったんだから、立候補してくれ」と土井さんに言われたんですね。その話があったのが9月30日、選挙があったのが10月20日。だから、そのときのポスターが、「子ども大好き、だから守りたい」で、子どものことしか言っていない。当選すると思わなかったでしょう(笑)。

奥地 まず、思わなかったです。学歴が中卒で生きていて、国会議員にまでなるんだというのが、わりと衝撃なんですね。親の会やシューレ関係でお呼びしたのを覚えていますか。何回か来てもらいましたが、子どもたちもね、なんかすごい励まされました。学校を順番にあがっていかないとダメみたいに思われているなかで、保坂さんは自分らしいあゆみ方をしてて、こうやってやっていけるんだみたいに思って、それには非常に支えられたんですよね。

保坂 そうですか。僕の場合は、いろいろ運がいい部分もあったんです。その当時、中学生で運動に参加して社会へ出た人は何人かいますが、全員が楽しくやっているかといったら、そうではなくて、つらい時期を長く過ごした人もいます。でも、僕の場合、裁判をやる大人たちに対して生意気な態度をとってはいたけれども、定期的にしゃべる場があったことで、自分の位置を確認できたのがよかったと思います。それから、メディアのなかに全共闘世代の編集者がいたことですね。よく僕を使ってくれたと思います。それと、ちょうど教育問題が活発に論じられた時期でもあった。そういうことも要素としては、プラスだったかなと思います。

奥地 国会では、質問王ということで有名でしたね。国会議員としては、こんなことができるんじゃないかと思っていたことはありましたか。

保坂 もう少し大きな政党の議員になっていれば、もっといろいろできたかもしれないですけれども、社民党にいて、当時、議員が15人しかいなかったんです。しかも、その15人のなかに前議長、前総理がいたりして、僕が国会のあらゆる委員会で質問しなければいけないというスパーリングレッスンみたいな状態だったんですね。そういったなかで、文教委員会(現在の文部科学委員会)でチャイルドラインの話をしたら、小杉隆文部大臣(当時)が興味をもって、いっしょに視察に行こうという話になったり、議員連盟をつくったりしました。それと、子どもの虐待をテーマに児童虐待防止法に関わったりしたことが、議員としての最初の段階での仕事ですね。

奥地 とにかく、小さい党にいながら、やれるだけのことは、いろいろやっていただいたのかなと思います。とくに、子どもの側に目を向けろというところは、インパクトがあったと思います。

保坂 僕が議員になったころ、東京シューレの子どもたちが児童福祉法改正問題でやってきましたね。

奥地 そうですね。あと、通学定期の問題がありました。なんでフリースクールに通うのに通学定期が使えないんだというので運動したのですが、子どもたちも会いに行ってお願いしたり、やっていただきましたよね。その後、区長になられて、いまがあるんですけれども、区長になられようとした経緯は、どういうことだったのでしょう。


●世田谷区長として

保坂 区長になるつもりはなかったんです。これもまた、なんか転がる石みたいなもので、その前までは、政治と言ったら永田町で、国会以外はリアルに考えたことはなかったんです。ただ、2009年の政権交代選挙に敗れて浪人だったときに、区長になってくださいという話があって、最初は丁重にお断りして「ほかの人を探してください」と言っていたんです。
 その後、東日本大震災と原発事故が起きて、杉並区長の田中良さんと話して、あの修羅場のなかで、物資を用意して南相馬へ行こうとなったのです。というのは、最後は選挙区を杉並に移していたんですね。杉並区役所の前に僕の事務所があったんです。それで、杉並区の区長室で、作戦会議みたいなのをやりました。あれだけの大震災なのに、国会の議員会館に行っても、みんなインターネットとテレビしか見ていなかったんですよ。それ以外の情報は何もなくて、結局、官邸にかぎられた情報が集まっていた。官邸にアクセスするのはすごく大変だったんですが、僕がアクセスできて、福山哲郎官房副長官(当時)などにパイプをつないで、杉並区が支援物資を載せたトラックを何台か南相馬市に向かわせたんです。しかし、南相馬市まで20キロの地点で、すべて通行止めにしていたんです。だから、物資が何も入らなくなっていたんです。「それはおかしい、市内救援用なので、物資を入れるように」と言って、話がついて搬入できたんですが、そういう役割をやっていたんです。
 その後、南相馬市長の桜井勝延さんと会ったんですが、国からも県からも東京電力からも、何の指示もないなかで、「全責任は自分にある」と言って、奮闘されていました。そこから帰ってきた翌日に、世田谷区長選挙に出てくださいと唐突に言われたんです。選挙は4月24日と目前に迫っていて、4月6日、とりあえずの立候補会見をして、19日間の選挙戦をしながら、政策を練って、チラシをつくりました。

奥地 すごいですね。

保坂 僕が世田谷区長選に出るとは誰も予想していなかったんです。僕自身、知らなかったんだから(笑)。

奥地 いやあ、びっくりしましたね。それで見事、当選されて、区民の立場に立った区政を目指されてきましたね。私たちは教育の多様性を大事だと思っていて、それと重なるのですけど、世田谷区では、性の多様性についていち早く取り組んでこられましたよね。

保坂 はい。


●教育の多様性は

奥地 行政も法律も変わらなくても、取り組むというところに、みなさんすごく励まされたと思います。それと同じように、教育の多様性も、もっと認められていいんじゃないかと思います。学校教育1本になっていて、不登校になったら学校へ戻れというのは、一人ひとりの子どもの学ぶ権利を考えたら、おかしいんじゃないかと思うんですね。それは保坂さんの長年の活動と重なるんじゃないかと思うのですが、そのあたりはいかがでしょう。

保坂 ようやく時代が追いついてきてくれたという気がしますね。学ぶとは何かというのは、別に記憶することではなくて、問いを立てて、その構築した論理が現実に通用するかどうかやってみて、そういう反復のなかでやっていく力が学びだと思います。それは、むしろ遊びのなか、趣味のなかにもあることだと思ってきたんです。
 最近、AIショックと言われていますが、記憶するとか、インターネットで検索するという段階を超えて、いろんなことは機械が知っているという世界になってきたときに、記憶型の競争というのは、どうも歩が悪くなってきたわけですね。
 じゃあ、それ以外の、決定的な回答がない難題に対して、比較的それでも近い回答を準備する力ということで、アクティブラーニングとか言いだしてきてますね。それは、フリースクールも含めて、学びとは何かを問いかけて来た人たちの、ある種の共通言語みたいなものと、わりと近くなってきているという印象があります。最近も文科省の幹部と話す機会がありましたし、たとえば馳浩元文部科学大臣も、世田谷区の夜間中学に何回も来ています。夜間中は少人数で、外国人が多いんです。

奥地 教育機会確保法には、夜間中学のことも入っていますね。

保坂 僕も、これほどちゃんとやっているんだと、自分の区でありながら驚きました。ほかにも、文科省とシンポジウムなどでいっしょになる機会がありますが、いま考えているのは、スタンダードな公立学校をガラッと変えていくのは、なかなかいろいろ難しい点があるけれども、たとえば90万都市に、いくつか特徴ある学校ができてもいいんじゃないかと思っています。たとえば、北欧にあるような寄宿制の学校ってありますよね。

奥地 フォルケホイスコーレ(*5)とかですね。

保坂 2年間、合宿しながらの学校だとか、そういったことを多様に考えていこうと。それから、やっぱりできすぎる子もはみ出しちゃいますよね。最近も学校へ行って、そういう教室で孤立している子と話したりしてみました。いろいろやってみる、またゆっくりと休むことも含めて、子どもには可能性があると思っています。
 いまひとつの鍵は、放課後の居場所ですね。これは、遊びも含めて、もっと使えるんじゃないかなと思ってます。世田谷区では「そとあそびプロジェクト」という名前で、冒険遊び場をもっと増やしていこう、外で遊ぼうというプロジェクトを、区をあげてやっています。それから発達障害の子たちの支援ですね。放課後の居場所には、個別学習の最適な部分もあるので、分断するのではなくて、その子にとってフィットする学習支援もやれる。しかし、それには、やっぱり予算も人手も必要ですよね。それもやっていきたいと思っています。

奥地 フリースクールの支援って、なかなか難しくて、教育機会確保法も、経済的支援が検討事項にまでは入ったんですが、具体的には決まらなかったので、次を目指しています。世田谷区内での応援などは、いかがでしょう。

保坂 世田谷区でも2カ所、公立のほっとスクール(適応指導教室)があります。せっかく学校に行かないで統一したカリキュラムから離れているのだから、自由なだけではなく、もう少しおもしろいプログラムをやってみたらと思っています。やりたくないのに強要しなくていいわけですが。

奥地 そう思いますね。

保坂 ほっとスクールは、今度、3カ所目をつくるんです。そこは、もうひとつ特徴のあるものをつくりたいと思っています。

奥地 そうなんですか。時代の動きもありますね。お時間がなくなりました。今日はどうもありがとうございました。
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*1 ベトナムに平和を!市民連合。1965年、哲学者の鶴見俊輔や作家の小田実らが呼びかけて始まった、無党派の反戦運動。

*2 1986年、東京中野区富士見中学2年の鹿川裕史くん(当時13歳)がいじめを苦に自殺。遺書には「俺だってまだ死にたくない。だけどこのままじゃ『生きジゴク』になっちゃうよ。ただ俺が死んだからって他のヤツが犠牲になったんじゃ、いみないじゃないか。だから、もう君達もバカな事をするのはやめてくれ、最後のお願いだ」と書かれていた。1994年、愛知県西尾市立東部中学校2年の大河内清輝くん(当時13歳)が、いじめを苦に自殺。多額の現金をとられる、暴行がくり返されるなどのいじめがあった。遺書には、いじめの実態や家族への気持ちが書かれていたほか、「借用書 平成6年8月 114万200円 働いて必ず返します」などと書かれていた。

*3 1990年、兵庫県立神戸高塚高等学校で、同校の教諭が遅刻を取り締まることを目的として登校門限時刻に校門を閉鎖しようとしたところ、門限間際に校門をくぐろうとした女子生徒(当時15歳)が校門にはさまれ、死亡した事件。

*4 (むた・ていぞう 1928―2009):俳優で、数多くの映画・ドラマに出演する一方、市民活動にも多く関わった。

*5 デンマークで創始された学校。国家や外部に支配されない独立した教育内容を旨として、テストがないなど、自由な雰囲気のなかで学ぶ全寮制の学校。
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posted by 不登校新聞社 at 12:42| Comment(2) | ジャーナリスト・評論家
この記事へのコメント
こんにちは

次男が、イジメで、フリースクールに、いきました。
今、もう、20才になりますが
いまだに、フリースクールの、先生を、信頼してます。
お話、お聞かせ、頂いて
スゴい行動力だと、感心いたしました。


転がる石

自身も止まる事なく
子供の生活を守る為、行動して
きました。
こんなに頑張っていられる
方いらして
励みになりました。
ご経験話、ありがとうございました。
Posted by 丸子七重 at 2017年10月27日 13:57
早速コメントを下さり、ありがとうございます。
保坂さんのインタビューに同行しました木村と申します。本当に多忙な中、時間をやりくりしてインタビューをお引き受けくださいました。特にご自身の中学校での体験をお話された時は、大変強い意志を感じました。その時のことを今もずっと思い続けて、現在のお仕事に取り組んでおられるのだとあらためて思いました。
Posted by 木村砂織 at 2017年10月27日 18:02
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