2017年11月15日

#28 松崎運之助さん

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(まつざき・みちのすけ)
1945年、中国東北部(旧満州)生まれ。 中学卒業後、三菱長崎造船技術学校、長崎市立高校(定時制)を経て、明治大学第二文学部卒業。 江戸川区立小松川第二中学校夜間部に14年間勤務ののち、足立区立第九中学校を経て、足立区立第四中学校夜間部勤務。2006年定年をもって退職。 著書に『夜間中学―その歴史と現在』(白石書店1979)、『学校』(晩聲社1981)、『青春』(教育史料出版会1985)、『母からの贈りもの』(教育史料出版会1999)、『ハッピーアワー』(ひとなる書房2007)、『路地のあかり ちいさな幸せ はぐくむ絆』(東京シューレ出版2014)など多数。

インタビュー日時:2017年8月22日
聞き手:佐藤信一、野村芳美
場 所:東京シューレ王子
写真撮影:佐藤信一
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→PDF(組版データ)をダウンロード  28futoko50matsuzaki.jpg
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〈テキスト本文〉

佐藤 今日はよろしくお願いします。最初に松崎さんご自身について、お話しいただきたいと思います。

松崎 僕は1945年に満州で生まれました。上に兄貴がいたのだけど、日本に向かって逃避行を続けるさなかに亡くなってしまった。親がついていながら、わが子をそういうふうにさせたということで、おふくろは自分も(お腹の中にいる)この子といっしょに死ぬんだと言って騒いでいたそうですが、まわりの人たちに「亡くなった子のぶんも思いを託してその子を産むんだ、みんなの希望になると思うよ」と説得されて、それで僕を生んでくれた。
 おふくろは誕生日が来るたびに、「おまえは(戦後の混乱や貧困のなか)無念の思いで死んでいった子どもたちのお余りをもらって命をつないできたんだ。だから、おまえの命の後ろには、無念の思いで死んでいった、たくさんの子どもたち、大人たちの思いがつながっているんだ。みんなに生かされてきたんだ。みんなに支えてもらったんだ」ということをまっすぐに話す人だったんです。


●おふくろとの幸せな瞬間

 長崎に戻ってきたあと、おふくろは3人の子どもを食べさせるために、男の人に混じって力仕事をして、日銭を稼いでいました。帰ってくるのが遅いので晩ごはんを買ってくるんですが、疲れているから、すぐ横になって寝ちゃうんですよね。おふくろに寝られると、子どもである僕らは寂しくてしかたがない。朝早く出かけて行って、夜遅く帰ってきて、やっと帰ってきたと思ったら、寝てしまうでしょう。子どもなりに話したいことが山ほど溜まってるわけ。それで考えたんです。早めにおふくろを迎えに行こうと。向こうの橋が見える、あの橋の街灯の下でおふくろを迎えれば、帰る道々、話すことができると思ったんですね。
 当時、僕は小学校3年生で、2歳と3歳の妹・弟の保育園の迎えも僕が行ってましたので、妹と弟を連れて橋の街灯の下に出かけて行って、子ども3人で影踏み遊びなんかやりながら、おふくろの帰りをひたすら待ってました。やがて角を曲がっておふくろの小さな姿が見えると、 もう3人が歓声をあげて「母ちゃんおかえりなさい」って、大騒ぎ。押したり、引っぱったり、抱きついたり、それで3人が同時に話し始めて、もう1日で一番幸せな瞬間なんです。

野村 なんか、すごくぜいたくな感じがしますね。

松崎 そうそう。そのおふくろとの青空みたいな、そよ風みたいなものが、以後の3人の生活を支えてくれたんですよ。


●学校でのいじめ経験

 僕は学校に行くといじめられていたわけ。まず汚い、臭いと言われる。それから毎朝、衛生検査みたいなのがあって、先生から「ハンカチ出しなさい、ちり紙出しなさい、爪を切ってるかどうか手を広げなさい」って言われて、どれも僕はぜんぜんだめでしたから、毎朝、僕だけが物差しで引っ叩かれるんです。だけど、毎朝、同じことを同じように言われるわけですから、もう慣れっこになって、朝、教室に行って座って、先生の足音が聞こえてきたら、手をひろげて、叩かれるのを待ってました。だって、どうしたって叩かれるわけだしね。慣れてしまえばどうってことはなくて、悲惨でもなんでもないことでした。
 それよりも、その先生の言ってることで引っかかることが、ふたつあったんです。ひとつは、「あんたは忘れ物が多い子ね」って、いつも言われること。でも、忘れてるんじゃなくて、持ってないんですよ。そして、いっぱいいっぱいで生活してるおふくろに、「ハンカチ買って」とか「ちり紙買って」なんて言えない。そういう実態を、先生たちはまったく知らないんですね。
 もうひとつは、「あんたみたいにだらしがない子には、お嫁さんなんて絶対こないからね」って、毎日、最後に吐き捨てるように言われていたことです。さらに「あんたの母ちゃん何考えてるのさ!」って言うわけ。でも母ちゃん、一生懸命働いてるんですよね。なんで、こんな人に吐き捨てるように、つめたく言われなきゃいけないんだって思ってました。あんなひややかな学校の先生なんかより、うちの隣で飲んだくれてるテキ屋のおっちゃんのほうが、温かさが伝わってくる。おっちゃんは言葉は乱暴で、言ってることがしっちゃかめっちゃかになるんだけど、心根のいい人だからね。僕はそういうところで、いわば人間としての英才教育を受けたなっていう感じがするんですよ。人間として学んできたなって。


●保母さんの温かいまなざしに

 つめたい世間のなかでも、僕を励ましてくださる方がいたんです。保育園の保母さんで、小学校3年生の僕が保育園に妹・弟を迎えに行くと、ひとりの保母さんがいつも笑顔で「あー、待ってたよー、おいでおいで、今日も元気ね」とか言ってくれて、いつも笑顔なの。そばまで行くと、その保母さんは、薄汚れてて、汚いとか臭いとか言われていた僕を、毎日、抱きしめるんですよ。そして近くの桜の樹の影まで急いで僕を連れていって、エプロンの大きなポケットから、おやつの残りをちり紙に包んで人に気づかれないように急いで渡してくれる。「早くしまいなさい。家に帰って食べなさいね。兄弟仲よく喧嘩しないで食べるのよ」って、そのあと必ず「あんたは良い子。あんたはえらい子よ。がんばりなさいね」って、毎日言ってくれるわけ。これで、どれだけ救われたかわからないですね。子どもだって、つらいときはつらい。人間としては大人と同じですから。そういう励ましを保母さんにもらい、しかも「あんたのこと見てるよ、あんたのこと応援してるよ」というまなざしでしょう。僕は大きくなったら、あんな保母さんみたいな大人になりたいなって、淡い目標を持つことができました。
 だから、そのころから思いますと、どんなに崩壊している家庭であっても、どんなに問題を抱えてる家であっても、どんなに心に病を持ってても、とにかく誰かひとり「あんたのこと見てるよ、あんたのこと応援してるよ」って、まなざしをくれる人がいれば、それだけでどれだけ救われることかと思います。そのまなざしや励ましに、そのときにお返しはできないけれども、かならず、この歩いて行く人生の道筋で、それは力になる、かならず光になる。これはまちがいなく、そう思うんです。
 援助者というか、伴走者にとって、すぐに成果が出ないと「私はダメなんだ」「この人は心を開いてくれない」って思いがちになるけど、当事者からしてみると、そんなに上手に表現できないんですよ。むしろ、裏返しの表現をすることが多いです。うれしいから逆に暴れてしまうことがあったり、楽しいから何か知らないけど泣きたくなったり。人っていうのは、それぐらい複雑で、宇宙の果てしない広い世界を抱え込んでいるから、相手のことはわからないという謙虚なところからスタートすることが、自分の小さな世界を開け放つことにもつながるんじゃないかと思います。


●さまざまな人々が集うなかで

 中学を卒業してすぐ、自分の希望で長崎の造船所に就職しました。そして18歳で定時制高校に1年生から入って、4年間、働きながら通いました。
 年齢もちがえば仕事もちがう、家庭環境もちがう、そういう人たちが昼間へとへとになるまで仕事をして、夜、明かりの下に集まってくるわけです。寄り添うように支え合うような感じで勉強を続けながらも、逃げ出したい気持ちとか弱い気持ちとかはやっぱりあって、そういうときは、みんなが「いっしょに卒業しようよ、がんばろうよ」と一生懸命、支えてくれました。
 定時制高校を卒業したあとは、東京に出てきて町工場で働きながら、夜間の大学に通ったんです。夜間中学と出会ったのは、そのときで、教員免許を取りたいと思ったんです。といっても、教師になりたいという動機があったわけではなく、その後の進路をつくっていくために、教員免許があってもいいかな、という程度でした。僕は学校の先生になりたいとは、まったく思わなかったんですよ。ただ、「夜間の大学に行っても、何の役にも立たない」って、みんなからよく言われてたんです。昼間部は通用するけど、夜間部の大学を出ましたと言ったところで、どこの企業だって相手にしないし、就職も初期の段階ではねられてしまうってね。そのときに思ったの、せっかく大学に行ったんだから、その証拠を社会に示すには、教員免許を取ってればいいかなと。


●夜間中学との出会い

 だけど、教育実習は昼間の時間帯ですよね。3週間も仕事を休んで教育実習に行ったら、長崎の家族が干上がってしまうし、僕自身も生活費をまかなえない。それで大学に相談に行ったら、東京には公立の夜間中学校が8校あって、そこなら夜に実習することができると言われたんです。
 それで、僕は町工場で働きながら、夜間中学で教育実習を始めたんです。その初日のことです。年配の80歳近くのご婦人が「先生、来て」って呼ぶんです。そこに行ったら、目をきらきら輝かして、「先生、このひらがなのの≠ヘね、おたまじゃくしの宙返りなんですよ。おたまじゃくしがポンって飛び上がって、くるんって返ってるでしょう。かわいいわよね、すてきよね」とか、おっしゃるわけ。僕はもう、あぜんとしてね。だって字が動くなんて思ったこともなかったし、そういうふうに字が見えたこともなかった。字は活字で無表情なものと思ってた。
 よく考えてみたら、この人は学校に行ってないんだよね。行ってないから、ここへ来てひらがなからやってるんですよ。一方で僕は大学を卒業しようとしてるわけで、いっぱい学んできてるはずなんです。だけど、そういう感性がない。そこで、「えっ、僕の学びって、いったい何だったんだろう」って思いましたね。
 学問というのは何で「問」という字が入っているのか。「問」は教科書や先生が問いを出します、というものではない。そんなちゃちなものではなくて、「問」は自分のなかにあるものです。だから、楽しい学びになっていく。そういうことを夜間中学で感じとりました。
 もともと、夜間中学というのは緊急避難の学校なんです。救急学校とも言えます。戦後の混乱で学校に行けなかったとか、家庭が貧しくって行けなかったとか、重度障害のために就学を猶予や免除されたような人たちがやってくる。あるいは在日朝鮮人で民族差別を受けた人たち、心に病を持ってる人たち、外国からの難民、引き揚げ者、その家族。日本の教育制度のなかで、どこにも受けいれられなかった人たちが学ぶことができ、憩える場所をつくろうと、善意の教師たちの発想でスタートした学校が、夜間中学なんです。緊急避難の学校ですから、入学条件なんてものは、あるわけがない。入学するのも、何歳からでもいいんです。


●不登校の子どもたちと

 そういう学校に不登校の子たちも来るようになったわけですが、不登校の子たちも、多様な人たちのひとりだという認識があるから、不登校ということ自体は、僕らにとって特別意味をなさなかったんです。
 最初、面談に来たときは、みんなうなだれてたり、能面みたいな顔をして表情がなかったり、なかには外にほとんど出ないので、男の子なのに髪の毛が長くて、女の子が来たのかと思ったら、男の子だったこともあります。
 子どもは無表情で、僕らの問いに反応するのは、たいてい付き添ってきた母親なんだよね。「先生、うちの子はですね、学校がですね……」って、もうしゃべらせると恨みつらみを、きゃんきゃん言われるわけ。一方で、子どもたちはなんか遠くを見てるような感じで、だけど、僕たちが一番大事にしているのは、本人が来たいかどうかだけなんです。
 親が行かせたいとか、先生が行かせたいとかいうのは、ダメなんです。本人の問題ですから。だから、親の方には「いろいろ言われてますけど、ちょっと待ってください。来るのはあなたじゃなくて、この人でしょう」と伝えて、本人に向かって「大事なことだから、ちゃんと答えてほしいんだけど、あなた自身がほんとうに来たいと思ったの?」と聞くわけです。それでも、親の方が「いや、うちの子はですね、あんまり表現が上手じゃないから……」と言ってくるので、お願いだから黙ってと(笑)。それで、「どう? こっちの目を見て、いまだけでいいから、一瞬でいいから見て答えてくれない?」って聞く。そうしたら「……はい」と。「よし! 決まり。入学! いっしょにやろう。がんばろう」と。あとは何もいらない。
 もうお母さんは、学校のことは何も聞かなくていいし、何も心配しなくていい。今までさんざん「母乳で育てなかったでしょう」とか、「共稼ぎだったでしょう」とか、「スキンシップが足りなかったでしょう」と追いつめられて、つらい思いをいっぱいしてきたと思う。でも、今回は本人が行きたいと言ってる。だから、僕らにまかせてくださいと言ってね。「お母さんは、これまでくやしかったぶん、失われた時間のぶん、自分を生きてください。学校のことは子どもが話したくなったら話すでしょうから、それを聞いてくれればいいです。聞き出そうなんてしなくてかまわないです」ということを伝えてました。
 一時期、不登校の原因は母原病だと言われてましたね。母親がすべての元凶で、親が変わらなければ子は変わらないと言われていました。


●本人が動きたいと思ったときに

 夜間中学はいつでも入れる学校ですから、たとえば4月に4〜5人、不登校の子たちが入ってきたとして、5月ごろにも、6月ごろにも、また入ってきます。僕らがずっと若い先生たちに言い伝えてきたことは、本人が動きたいと思ったときが一番いいときだから、本人の意志で入学相談に来たのであれば、真冬であろうと真夏であろうと、即入学だよということです。公立の学校で「いつでも入れますよ、どうぞ」っていうのは、夜間中学だけです。ほかのところでは、ありえないですね。
 だいたい、初めのうちはみんな固まってますね。ようすを見ている。なかには真夏なのにフードをかぶって、ずーっと柱のところで突っ立っていることもある。みんな、それを異様に思うけど、慣れると、もうひとつの風景みたいになっちゃうんですね。あれはほんとうに不思議。でも、人間っていうのはおかしなもので、あるとき、彼がフードを取ったら、みんなが逆に不安になっちゃって、「先生たいへんだ、取っちゃったよ」って言うから(笑)、「だって本人が取りたいと思ったんだから」って返したりね。
 不登校とか登校拒否というのは、児童精神科の問題になってきましたね。長期欠席の調査項目には「病気」や「学校嫌い」(*98年以降は「不登校」になっている)があったんですが、「学校嫌い」に入れちゃうと、ちゃんと学校が運営されてないんだと下に見られてしまうから、学校は極力、入れなかったんです。そこで、児童精神科にかからせれば、「病気」にできるわけです。みんなが通える学校に来られないというのは、不適応症状で、これは放っておくとたいへんなことになりますよと言って、児童精神科に行かせて、そうすると、薬をもらってくることになる。


●比較は意味をなさない 

 夜間中学には、不登校の子たちも通ってきてました。当時、どこにも受け皿がなかったですからね。まだ、東京シューレもできてなかったですしね。
 なぜ、学校には行かなくても、夜間中学には通えるのかと言えば、年配の人から、外国の人から、障害を持った人から、いろんな人がいっしょにいて、居心地がいいんですね。
 すごいなと思ったのは、ある女の子がしゃべれるようになって、「計算してみたら、7年間も学校に行ってなかったんだ」って言ったら、そこにいた人たちがみんな笑って、「かわいいなあ、7年か。俺は行ってないのは56年だ」とか「60年だ」とか言ったりしてさ(笑)。「俺たち、ひょっとしたら登校拒否の大先輩だよな」とか「いや、もう神様の世界だよ」とかなんとか言ったりしてるのよ。そういう場所だから、同年齢で比較するようなことがないのね。みんなが行ってるときに行ってなかったとか、そのブランクが何年あるといっても、夜間中学では、そんなことは自慢にもならない。それより、みんなでどう楽しく過ごすかということが大事になってくるわけです。
 ところが80年代に入ると、不登校の子たちが急激に増えて、もう、すごい状況でした。都内の夜間中学全体で100人は超えて、僕の学校でも常に10〜20人はいました。どんどん卒業して行きますけど、どんどん入ってきますからね。
 それで、あるとき、給食をいっしょに食べて、テレビをつけていたときのことです。たまたま、困難を抱える不登校児家庭だとかいうコーナーをやっていたんです。レポーターが「学校に行けないことで、たいへんなご苦労をされて、孤立している家庭におじゃましました」とか言ってインタビューをしていたんですが、音声を変えていたり、親がすりガラスの向こうで話すようすが映されていたんですね。そうしたら、うちの不登校の子たちが「何これ? 暗黒? バカじゃないの? なんで音声変えなきゃいけないの? 何ですりガラスの向こうなの? なんか、そういうふうにすると不登校が悪いみたいでさあ。これ、許せないよね、先生」とか言ってきたんです。
 その子たちは夜間中学で楽しく生徒会やったり、文化祭で実行委員会をつくって、バンドやったり、大きな絵を描いたり、自分たちのアニメを飾ったり、ほんとうに好き勝手に、伸び伸びとやってましたからね。でも、彼らにとっては信じられない世界かもしれないけど、実は夜間中学のほうが少数派で、大多数はテレビの向こう側なんだよって話をしました。


●社会に発信を

 これらの話は、東京シューレができる前のことです。そのころ、「不登校の子は、夜間中学ではみんな自信を持ってるから、社会にもっと訴えたほうがいい」と、僕らは言ってました。「自分たちだけが夜間中学に来てよかった、ということで終わりにするんじゃなくて、それを社会に発信しないと、食い逃げみたいになるんじゃないか。自分さえよければ、あとは知らないというような学びは、夜間中学ではやってないはずだからね」とか言ってね。
 それで、登校拒否を考える連続講座をやり始めたんです。不登校の子たちと夜間中学の子たちといっしょにね。だけど、自分たちだけで開いても、自分たちの集まりにしかすぎないでしょう。それで、奥地圭子さんに声をかけたんです。奥地さんは、希望会という国府台病院の児童精神科の親の会につながりがありましたので、第1回目の講師は奥地さんにお願いしました。一般社会が不登校に対して、どういうまなざしなのかを話してもらおうと思ったんです。1回目は1984年8月にスタートして、合計7回、翌年2月に最終回だったんですが、新聞に大きく予告が出たので、全国から参加があって、最後は400人ぐらいの参加がありました。
 たくさんの人が集まって、すごく明るい元気のいい会でね。不登校だった夜間中学の子たちは、自分たちは悪いことしてないから、はつらつと何だってやるわけです。そうしたら場内が明るいトーンになっちゃうわけです。それで、交流会を連続講座のあとにやっていました。夜間中学の連続講座としては、その7回で終わりだったんですが、その後、東京シューレが誕生していくんですよね。

野村 このころ、すでに東京シューレの母体となった「登校拒否を考える会」はあったんですね。

松崎 登校拒否を考える会は、連続講座の交流会のときに、奥地さんとどうしようかって話したんだよね。そしてスタートする。スタートのときは、僕が事務局長をやりました。

野村 そうそう、奥地さんが「松崎さんには、考える会の最初のときに、とてもお世話になったんだよ」と話していました。

松崎 当時は、不登校の子も夜間中学の子も、いっしょにまじり合いながら、遊んだり、バンド演奏したりしてました。

野村 当時、奥地さんとは教員どうしの知り合いだったんですか?

松崎 教員どうしのつながりではないですね。当時、進学塾ではなく、補習塾がありました。それを支えようと、塾のおっちゃん、おばちゃんたちが、不登校とか、あるいは授業から脱落しがちな子を支えていたんです。
 このころは夜間中学が登校拒否の受け皿だったけど、もう一方で、全国的に、この補習をメインとする私塾の会が受けいれていたんです。その人たちも不登校の子たちの相談相手になって気持ち的にも支えてくれてたり、学力面で不安なところを支えてくれたりしてました。その運動のなかで、奥地さんとの出会いがあったんだと思います。彼女は小学校の先生で、実践家だった。授業を組み立てるのに非常に有能な人で、いろんなことをやってました。だけど、自分の子どもが登校拒否になったことをきっかけに、教員をやめて、東京シューレにつながっていきましたね。


●ほとんどが学齢満期除籍

野村 このころ、夜間中学に来ていたのは、中学校を卒業してない人たちですよね。不登校で地元の中学を除籍なのか退学なのかわかりませんが、そういった子たちが夜間中学に入ってきていたということでしょうか?

松崎 そうです。学齢満期除籍とか言って、卒業証書をやらない。どうしてもほしければ、校長室に最低20日間以上は来なきゃいけないとか、それもダメな場合は校門に30回タッチしなきゃいけないとか、何か見せしめを課せられていたころです。

野村 『東京都夜間中学校研究会50周年記念誌』(2011)によると、1986年度の東京の夜間中学生468人のうち、159人が引き揚げ者で日本語学級、309人が普通学級で、うち121人が不登校の子どもとなっていますね。

佐藤 普通学級の約3分の1が不登校ということですよね。

野村 それだけ、当時の不登校の子たちは、学校を追い出されていたということでしょうか。

松崎 学校に残していると恥になる、ということだったのでしょうね。中学3年までは、授業をいっさい受けていなくても進級はしてしまう。しかし、中学3年になったとき、ぜんぜん学校に来ていなかったら留年(原級留置)という方法があった。でも、留年というのは、本人も嫌がるし、家族も嫌がる。ひとりだけ下の学年に落ちて、ただでさえ学校に行きたくないのに、そんなことになったら、よけい行かなくなるだろうというので、あんまり留年という手は使われなかった。だけど学校としては、いてもらっても困るし、早く出したい。一方で、まったく、あるいはほとんど通学していない子どもに卒業証書を出すのは学校としても示しがつかない。そこで、苦役のような課題をクリアしないと、卒業証書は出せないということになっていたわけです。でも、学校に行かない子たちって、そんな課題を出されても、ほとんど行かないんですよ。そうしたら、義務教育年齢は終わったからということで、除籍にする。それを学齢満期除籍と言うのですが、当時は、ほとんどが学齢満期除籍になって、夜間中学に来てましたね。いまは反対で、1日も行かなくても卒業証書を出すわ出すわ(笑)。それも、もう早く出て行ってくれってことでしょうね。


●夜間中学とフリースクールに共通する「学び」

佐藤 いま、子どもたちに「学校」ってどういうイメージかを聞くと、「行かなきゃいけないところ」という答えが一番多いのではないかと思います。映画『学校』(山田洋次監督1993)のなかでは、夜間中学の教師が「学校っていうのは、学びたい子どもが来て、それに対してじゃあ教えようって教師が来て、その相互のつくり合い、分かち合いのなかに学校っていうのはあるんだ。それが学校じゃないか。だから僕が来なさいって言うんじゃないんだ。君がどうしたいかなんだよ」というセリフがありますね。あたりまえなんですけど、まさにそうだよなって思いました。それはフリースクールとも共通するところで、いま、残念ながら多くの学校は、ほんとうはそういうすばらしい意味を持つ場所でありながらも、ぜんぜん、それとはまた逆の世界があり続けてしまっている。そのこと自体を変えていかなきゃいけない、「学校」の意味を取り戻していくっていうか、変えていかなきゃいけないと、あの映画を見て、あらためて思ったんですよね。

松崎 ほんとうに、そうですよね。夜間中学の生徒さんたちも、来たいと思うから来るわけで、来なきゃいけないという学校じゃないから、教員も楽なんですよ。
 そして、解体業やってるとか、元暴走族の頭やってたとか、いろんな人たちが来るんですよね。作業着を着たままで、ねじり鉢巻きして、えらそうにして「おらよ、入れてくれんのかよ! 俺みたいなのはどうせダメだって言うんだろ。どうなんだよ! おめえ」とか言ってきたりするわけ。でも、こっちは、そういうのには慣れてるからね(笑)。そういうふうに本人が言いに来てくれてるのだから、こんなに楽なことはない。来たいと思う根拠が、その本人にはあるわけ。人それぞれちがうけどね。
 だから、学校というシステムを不登校の子が嫌っていても、学びを嫌ってるわけではないわけで、ただ出会えてないだけだからね。そのあたりをちょっとわかってあげないと、また学校と同じようなものを、どこか通いやすい場所にもう一個つくって、多様性だなんだって窓口いっぱいつくっても、そういうこととはちがうんだよなって思いますね。
 夜間中学の場合は、個別指導が原則だから、人とはまず比べないし、通知表なんて、あるわけないしね。年配の人と15歳を比べたってどうしようもないし、ひらがな読み書きのできない人と、ドイツ語を独学でやってる若い子といっしょに比べたって何の意味もない。それと、校則もないでしょう。服装とか決める必要がないしね。だから作業服で来てもいいし、革ジャン着て来てもいいし、考えてみればフリースクールと同じだよね。

野村 ほんとう、いま、お話をうかがっていて、そういう感じがします。

佐藤 ほんとうに、そうですね。

松崎 夜間中学は、できてから70年近く、いまでもあるわけだからね。そういう財産にもっと学んだほうがいいと思うけどね。どっかの外国だとか、それはそれでいいけど、それはその土地でいいわけで、そこの生活風土のなかにあるもので、日本は日本で、日本なりの歴史的な経過を得て、やっとつくり出した。そういうのがあるんだからね。

野村 ほんとうに、そう思います。目の前にいる子どもたちと何かいっしょにやっていくっていう。

松崎 だから学びっていうのは、空気みたいにどこにでもあって、別にそんなに構えてどうこうじゃなく、見ようと思えば見えてくるものなんだよね。ただ、見ようと思う前にいろいろやることがあって、みんな疲れ果てていて、そこにたどり着かない。

野村 ほんとうに、そう思います。そういうほんとうの学びは、たぶん、みんな持ってるっていうか、そういう感性をみんな持ってるんだけど、なんだか、いろんなものにジャマされていて、何かそこに行きつかない。それって変ですけど、そこが見えなくなってしまうという現実があるような気がします。今日は、ほんとうの学びとは何かって、あらためて考えました。

佐藤 ほんとうに今日はお話しいただいて、ありがとうございました。

野村 非常に感動しまくりでした。

松崎 そう言われるお二人は、そういう感性をお持ちなの。だから、こんなまとまりのない雑駁な話を聞いても、あなたたちはそうやって深く豊かに捉えてくれる。それはすばらしいですよ。自分を褒めたらいいと思います(笑)。
posted by 不登校新聞社 at 15:26| Comment(0) | 学校関係
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