2017年11月29日

#29 横湯園子さん

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(よこゆ・そのこ)
1939年、静岡県生まれ。心理臨床家。日本社会事業大学社会福祉学部卒業。1970年〜1985年まで国立国府台病院児童精神科病棟の院内学級で教員を務める。その後、千葉県市川市教育センター指導主事、女子美術大学助教授、北海道大学教授、中央大学教授などを歴任。定年退職後はフリーの心理臨床家として子ども・青年に関わる。著書に『登校拒否 専門機関での援助と指導の記録』(あゆみ出版1981)、『登校拒否――新たなる旅立ち』(新日本出版社 1985)、『アーベル指輪のおまじない』(岩波書店1992)、『魂への旅路 戦災から震災へ』(岩波書店2014)など多数。

インタビュー日時:2017 年10 月8 日
聞き手:山下耕平
場 所:飲食店(東京都)
写真撮影・記事編集:山下耕平
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〈テキスト本文〉

山下 まずは子ども時代のことからうかがいたいと思います。お生まれは、どちらでしたでしょう。

横湯 1939年、静岡県三島市に生まれました。5歳のときに沼津大空襲を経験して、沼津は98%以上が焼失し、私たちの住んでいた家も焼かれてしまいました。その後、母の故郷に移って、そこで高校生が終わるまで過ごしました。それと、父は私が1歳1カ月のときに亡くなりましたので、母子家庭で育ったんです。

山下 お父さんが亡くなられた経緯をうかがってもよいでしょうか。

横湯 父は治安維持法で逮捕されたようなんですね。「9・18事件(*1)」と聞いてますが、それがどういう事件だったのかは調べたことがなくて、わかりません。2年半の実刑に処せられて、獄中で満身結核になったそうです。獄中で亡くなると抗議運動が起きるということで仮釈放になって、釈放後に亡くなったようです。それまでにも何回も逮捕されていたようですが。

山下 何か活動されていたんでしょうか。

横湯 文学青年であった父は、文学サークルを通して社会主義に近づき、労農運動に身を投じていました。沼津空襲のとき、母が父の原稿用紙とノートと写真を持って逃げて、それが唯一、父の遺したもので、それ以上のことはわからないんです。

山下 お母さんも苦労されたことでしょうね。

横湯 母は父の身元引受人になるために、新聞紙上で「獄中結婚宣言」をして、一族から勘当された女性だったそうです。父が亡くなったあとは、父の実家からも追い出されて、子どもを抱えて苦労したようです。母の記録では、父が亡くなったあと思想犯の未亡人として辛酸をなめ、戦争が終わるまでの4年間で、30回以上、住所を変えてるんです。
 母はあまり語らなかった人ですが、活動家ではなかった母自身も2回逮捕されているそうです。恋人だった父をさがしてアジトを訪ねたところを、張り込んでいた警察官たちによって逮捕されています。東京の親族が動いて、すぐに釈放はされたものの、その際にむごい拷問も受けていたんです。いっしょに逮捕された人から少し聞いたところでは、畳針で手足の爪のあいだや腿を刺されたと言ってました。実際にはそれ以上のことがあったそうです。私もまだ中高生のころだったので、「ひどすぎるので、園子ちゃんには教えられない」と言ってました。
 母は84歳で亡くなったんですが、入院中に看護婦さんが点滴を失敗したとき、大暴れしたんです。肌をぶすぶすやられる感覚から、拷問のときのフラッシュバックが起きたんだと思います。処置室に入って、身を寄せている私に気づくと、母は「結核菌を飲まされるかもしれないから、断固闘ったんだよ」と言ったんです。私は母に身をよせて手を握って、点滴は成功しましたが、残っていた体力を使いはたしたのでしょうか。母は、その2日後に亡くなりました。拷問というのは、こんなに時間が経っても、人の人生に影響するのだと、あらためて思いました。

山下 ほんとうに苛酷な状況を生きてこられて、お母さんも、さぞかしご苦労されたことと思いますが、子どもの苦労も相当だったのではないでしょうか。

横湯 たいへんでしたけど、母の苦労と比べれば、たいしたことはなかったと思います。戦後も、一族とは連絡をとらず、食べ物もないなかで、間借りしての貧しい母子生活でした。


●文学少女だった

山下 横湯さんは、学校では、どういうふうに過ごされてたんでしょう。

横湯 去年、めずらしく中学校の同級会に出たんです。これまで、故郷に帰るのは好きではなく疎遠になっていて、同級会にもめったに出てなかったんですが、みんな亡くなっていくと思って、みなさんと会いました。そこで男子の同級生の何人かが「僕らは、親がアカだと言って園子ちゃんをいじめていた」と言うんですが、私のほうは、ぜんぜん記憶にない。いわゆる「無視」程度のいじめだったのでしょう。私は文学少女で、休み時間は本ばかり読んでいたので気がつかなかったんでしょうね。
 母は、貧しい生活のなかでも、お誕生日にはかならず本をくれる人だったんです。中学生のころには、トルストイやドストエフスキーなどのロシア文学や、フランス文学を夢中になって読んでました。ドイツのショル兄妹の『白バラは散らず』も忘れられません。ただ、『基地の女』(中本たか子)を読んだときは、嘔吐して体調を崩してしまって、「しばらく本を読むのは禁止」と先生に言われたほどです。おませですよね。

山下 貧しくても文化はあったのですね。先生との関係はどうだったんでしょう

横湯 先生たちは、やさしかったですね。たとえば、小学校1年生のとき、弟を連れて学校に行くと、授業のときは廊下に弟を置いて、先生は弟が見えるように扉を開けておいてくれました。休み時間になると、弟を教室に入れてくれる。その先生のことはよく覚えてます。特別いい先生というわけではなかったですが、子どもたちを河原に連れていっては、ご自身の好きな小説『宮本武蔵』(吉川英治)を読み聞かせてくれる先生もいました。
 敗戦直後からしばらくは、先生たちも自由で、子どもたちにやさしかったように思います。

山下 中学校はどうだったんでしょう。

横湯 とくに覚えているのは国語の先生で、綴方(*2)をやっておられて、授業とは別に、原稿用紙をくれて、「あなたの思っていること、感じていることを書いてごらん」と言ってくれたんです。それが書くことに対する関心になっていきました。
 橋本登先生といって、戦後、社会運動をされていたようです。私も、亡くなられてから本を読んで知ったのですが。

山下 一方で、コンプレックスもあったと書かれてますね。

横湯 この年になると、ぜんぶ消えたみたいですけど、算数や理科はきらいでしたね。私は直観像素質者傾向の人間のようで、パッと見たものを覚えてしまうんですね。ですから、テストで点数はとれたんですが、理論や理屈はわかってなかったんです。
 小学校4年生のとき、音楽会での合唱で、私が音程をはずしていたのでしょう。先生に「あなたは声を出さずに口だけ動かしなさい」と言われたことがあったんですね。それはすごくショックで、以後、この年になるまで、人前でうたったことがないんです。子守歌もうたったことがない。4年生と言えば思春期に入るころです。自意識過剰だったのでしょうか。音楽を聴くのは好きですのに、歌をうたえない人間になってしまいました。

山下 子どもにとって、大人からの言葉の影響力は大きいですよね。多かれ少なかれ、誰しも、そういった経験はあるように思いますが、一方で、そういう自分のなかの未解決のコンプレックスを自覚していることが、ご自身のお仕事には役に立ったとおっしゃってますね。

横湯 そうですね。私は、ほかの人のいる前で子どもの欠点をあげつらったり、何かできないことに対して責めるようなことを言ったことはないと思います。指摘するときは一対一のとき。でも指摘というより話し合い的。貧しかった経験や、劣等感を抱えていたことが、人に対して厳しく言わないことにつながっているように思います。意識してというより、自然とそうなっているんですね。

山下 子どもの側もそれを察知するんでしょうね。


●国府台病院の分校で

山下 横湯さんは国立国府台病院の院内学級に勤めておられましたね。最初に行かれたのは、何年のことだったのでしょう?

横湯 見学に行ったのは、1969年の秋でした。千葉県市川市で養護学校の教員をしていたんですが、「病気でも怠けでもなく学校に行けない子の学校ができた」と聞いて、どんな学校だろうと思って見学に行ったんですね。
 病院は広くて、秋雨が降っているなか、草がぼうぼうに生えたグラウンドで、ひとりの少女がコスモスを摘んでいたんです。私がその少女に「病気でも怠けでもなくて学校に行けない生徒の学校はどこ?」とたずねたら、彼女は黙って、コスモスを握った手で指さしたんです。それが、院内学級の木造校舎だったんです。
 それで、職員室で話を聞いていたら、その彼女が入ってきて、先生に黙ってコスモスの花を渡したんです。それを先生も黙って受けとる。そのとたん、彼女の体の線がやわらかく変わったのがわかったんです。花を渡すと少女は教室を出ていって、それを見送る女性の先生の目もやさしくて、ここの教員になりたいと思ったんです。転勤をしたくて教育委員会まで行ってお願いをして、翌1970年に転勤しました。

山下 どういう学級だったんでしょう。

横湯 治療的教育の場としての学級だったんですね。通称は「分校」でしたが、正式には「情緒障害児学級」。日本で初めての試みでした。
 教員は3名いたんですが、主任が転勤して、私は71年から主任になって、85年まで勤めました。学級は、小学校と中学校の両方あって、私は中学校の担当で、最初に受け持った子どもは12名でした。当時は中学校でも留年があったのでしょうか。過年児もいました。

山下 この学級は、情緒障害児短期治療施設(*3)とは別ですよね。情短施設では、教科をせず、体験学習が多かったと聞きましたが?

横湯 それについては、私は断固闘ったんです。国府台病院の情緒障害児学級は、日本で初めての登校拒否児を対象とした院内学級として1965年に開設、1968年から3年間、文部省の研究委託を受けて、「情緒障害児の教育内容・方法の実験研究」をしていたんです。私はその3年目に入って、ちょうど研究結果を出す年でした。私たちが教育実践の報告をして、それをもとに精神科医や小児科医、教育委員会、校長会の方も入って議論して、結論として答申を出すのですが、その内容に、若かった私はナマイキにも異を唱えたんですね。
 「この子たちは病気ではなく、症状がとれれば、ふつうの子である」とあったのはよかったんです。しかし、「情緒の障害だから、教育は音楽・図工・技術・体育だけでいい」とされていることに対しては、私はひとりで猛反対しました。ふつうの生徒たちであれば、その後、自己実現に必要な科目が保証されるべきである、道を狭めてしまってはいけない、と。会議終了後、校長室に呼ばれて「えらい精神科医や大学の先生たちを前に、なんてこと言うんだ」と校長に叱られ、「次の会議であやまりなさい」と言われました。その場では「わかりました」と言って引き下がったんですが、次の会議では、また言い張ったんです(笑)。そうしたら、平井信義先生(小児科医・児童心理学者/1919―2006)が「それはそうだ」とおっしゃってくださって、すべての科目を保証すべきだという結論になったんです。校長はにらんでましたけど、それ以上はおとがめなしですみました(笑)。


●教育って難しい

山下 横湯さんは何を教えておられたんですか?

横湯 私は社会科だったんですが、英語の教員がいなかったので、英語も担当してました。全科目が保証されるようになったのはよかったんですが、長期欠席による学力の遅れもあったので、英語と数学はグループをつくっていました。個人の希望を重視し、そのふたつの科目は同時限・全教室展開となり、3グループに対して教師が複数つくことにしていました。しかし、かけ算九九や分数がわからないとか、ABCもあやふやな生徒は別教室で個別指導をしてグループに入れるように配慮もしていました。
 体育と音楽は、先生がいなかったので、体育はふつうに遊べばいいことにして、音楽の授業はなかったです。教員の私たちが忙しいと、まれにですが医者が数学を教えにきてくれたり、看護婦(現在の看護師)が個別に勉強をみてくれたりしてました。一対一だと、プライドの高い生徒でも、抵抗なく基礎から学べたりしましたし、どの先生もやさしく、ていねいに教えられていたと思います。
 フリータイムという時間を設けていて、農作業だとか、遠足やバーベキュー、パーティーや劇だとか、いろんな活動をやってました。そういう意味では、かなり自由に、ゆるやかにやっていたと思います。

山下 分校に来ていたのは、入院している子たちだったんですよね。

横湯 原則としては入院している子たちだったんですが、だんだん不登校の子たちが増えて、ベッドが足りなくなったんですね。ベッドは54床ありましたけど、緊急のために少しは空けておかないといけないですし、自宅から通学して来る生徒もいました。

山下 そうすると、最初は12名だったのが増えたということですか。

横湯 そうなんです。途中からは50名を越してました。定数オーバーで無理してやってました。ただ、教育委員会のほうも、教員の数を5〜6人ぐらいまでは増やしてくれたんです。毎年、4月時点では人数が少ないんですが、年度内に増えることを見越して、教育委員会が柔軟に対応してくれてました。
 それと、私がいた最後のころは、元将校病棟の木造校舎ではなくプレハブ校舎でやってたんです。小学校のほうで、お金を盗んだ子がいて、それに対して「絶対に許してはいけない」と厳しく指導されて、隠し場所までわかったんですが、その次の日に深刻な仕返しをされてしまったんです。
 厳しく隠し場所も言わせた先生は、満蒙開拓団に積極的に生徒を送った反省から、戦後は「教え子を再び戦場に送るな」と、真っ先に日教組に入って運動した先生でした。それなのに、自分がまた子どもを追いつめてしまったと心を痛められて、その事件をきっかけに結核を再発して、まもなくして亡くなってしまったんです。その先生のことは忘れられません。ものすごく自分に対して厳しい方でした。そういう方でも、子どもの問題行動に対して、どこまで指導していいのか悪いのか、迷われる。教育って難しいなと思いました。こちらがいいと思っていても、やりすぎてしまうことがある。


●給料袋まで盗まれても

山下 横湯さんがおられた中学校のほうでも、たいへんな子はおられたんですよね。

横湯 いろんな子どもがいました。たとえば、盗みのひどい生徒がいて(そのことは本人の了解を得て、耕助という仮名にして『登校拒否――新たなる旅立ち』(新日本出版社1985)にも書いてますが)、たいへんでした。私も、給料袋を持っていかれてしまったり、遠足のバス代を盗まれてしまって、私が補填したり、ありとあらゆることをやられました。でも、私は叱ったことはなかったんですね。だから、教員や医者や看護婦さんには、横湯先生はやさしすぎる、甘すぎると言われてました。
 しかし、あるとき、彼がプロパンガスの栓を開けて、ちょっとでも火の気が起きたら、児童精神科病棟が吹っ飛ぶところだったという事態があったんです。予感というのでしょうか、看護婦が何か怖い感じがすると言って、窓を開けて発見して、事なきを得ましたが。
 彼は強制退院させられたんです。退院させられても、お父さんは亡くなっているし、お母さんは経済的にも精神的にも厳しい状態にあって、結局、強制退院にはするけれど、外来の治療は続けるということで、分校への通学は継続になりました。
 ただ、泣かれたりすると、弱かったですね。亡くなったお父さんのことや、兄たちのこと、母親のこと、苦しい状況を吐露して泣くんですね。そうると、私もつらくなって叱るなんてしない。
 でも、ガマンの限度を越すことが一度あり、私も警察に届けようとしたことがあったんです。それを若い男性の先生に「僕らにまわしてください」と言われた。教員たちも、おたがいにぶつかりながら彼と向き合ってました。いろんなことがありましたけれど、医者も看護婦も分校の教員も、彼を見捨てなかったことが大事だったと思います。そういうなかで、彼は人間に対する基本的な信頼感を取り戻していったように思います。
 いま、彼は看護師として働いていて、彼の働いている病院の用務員さんに聞いたところでは、あんなやさしい看護師に出会ったことがないということでした。それを聞いたときは、うれしかったですね。

山下 自分が受けとめられた経験が大きかったのでしょうね。

横湯 そうですね。彼の主治医は上林靖子先生で、心が広くてやさしくて、彼をかばうことも多かったです。耐えがたいことがいくつもあって、かばった人が批判にさらされることもありましたが、大人の集団の許容量はすばらしかったです。でも、彼にかぎらず、窮地に立たされて追い込まれている人を、まわりがなんとかしたいと思う気持ちというのは、理屈ではなく、愛とでも言うのでしょうか、そんな気がします。

山下 冷静さも必要でしょうけど、たしかに、振りまわされたり、巻き込まれたりするほかないことって、ありますよね。耕助さんと関わっておられたのは、いつごろのことだったんでしょう。

横湯 80年代初めごろのことです。


●医者とのケンカ

山下 国府台病院のなかで、お医者さんと分校の教員との関わりは、どんな感じだったんでしょう?

横湯 始終、いい意味でケンカしてました(笑)。医療と教育の両面から子どもに関わるわけですが、3段階あって、第1段階では医療が主導、第2段階では医療と教育が協働しつつも医療が主導、第3段階では教育が主導して、医療がそれをカバーするとでも言いますか。そこで教員と医者とは、やりあうことも多々ありました。お医者さんは診断・治療方針を出す立場にあり、教員も看護婦も心理職もそれに従って関わるわけですが、常時関わる職種でもあるわけで、関わり方がちがうわけです。医療と教育は組織が別ですから、「医者の下にはつきません」というようなことを言って、よく対立してました。

山下 たとえば、どんなことで?

横湯 耕助のことで言うと、盗みをして、医者たちが、「強制退院だ」となった。でも私が「彼には帰る場所もないのに、どうしてそんな無責任なことが言えるのか」とやり合う。あるいは、盗みがひどいので、カンファレンスで合同で話すことになったとき、ある医者が「盗み飽きるまで盗ませたらいい」と言うわけです。私は「だったら、先生があちこちにお金を置いて、先生が盗まれてください」って怒ってしまったり。こちらは給料まで盗まれてますからね(笑)。そういうやりあいは、始終でした。

山下 その「盗み飽きるまで盗ませたらいい」と言ったお医者さんというのは?

横湯 渡辺位さん(*4)です(笑)。渡辺先生は、いつもそういう感じだったんですけど、さすがの渡辺先生も、音をあげていたことがありました。耕助が問題を起こしていたころ、別の外来の子で、なぜだかわかりませんが渡辺先生に腹を立てて、おそばやおすしを30人ぶんくらい、渡辺先生の名前で注文したり、ありとあらゆるかたちで、渡辺先生を苦しめていたことがあったんです。それには、さすがの渡辺先生も音をあげていて、私は思わず「やりたいだけ注文させたらどうですか」と言ったりしてね(笑)。でも、さすがにそういうわけにはいかないですから、本気で怒って、親御さんを呼んで話されたりしていました。現場の現実って、そのようなことはよくあるんです。渡辺先生のよさであったと、後になってからわかったように思います。
 齊藤万比古先生(児童精神科医)とも、やりあうことがありました。子どもたちも、そのようすはよく見ていて、遠足のとき、病棟の子は医者の側につき、外来の子は私の側について、別々に行動したこともありました。でも、お昼はいっしょに食べようということで、齊藤先生のほうから「この地点で、昼下がりの決闘ではなく、昼下がりの食事にしましょうか」と言ってきたりね(笑)。齊藤先生も楽しい方でした。
 ですから、意見のちがいでやりあっていましたけど、信頼し合っていました。

山下 心理職との関わりはどうだったんでしょう?

横湯 心理の先生たちは、入院した最初のところでていねいに関わって、その後は必要に応じて、ということでした。ですから、重い子どもの場合やミーティングやカンファレンスの場でのつきあいが多くて、分校に来ている生徒のことでは、あまり関わってなかったです。教員の私たちが日常的に関わるのは、むしろ看護の人たちとの付き合いが多かったです。

山下 お医者さんは基本的に診察の局面だけで、教員や看護の人たちは子どもたちと日常をともにしている、というちがいはあるのでしょうね。

横湯 教員よりも看護の人のほうがたいへんですね。朝から晩までですから。基本的にはあたたかくて、やさしかったんですが、当然、厳しい要求を出してくることもあって、看護の人たちと対立することもありました。


●戦争神経症と登校拒否

山下 国府台病院は元陸軍病院で、戦争神経症の方も入院されていたそうですね。横湯さんは、成人病棟のお医者さんとの出会いで、登校拒否は戦争神経症と同じく、その人の置かれた状況を見ないといけないと教えられたと書いておられましたが、その医師というのは、どなただったんでしょう?

横湯 それが申し訳ないことに覚えてなくて、精神科の成人男性病棟の医者だったことしか覚えてないんです。児童精神科の医長は渡辺位先生だったんですが、当時はまだお若かったですし、私も分校の教員になったばかりのころでもあって、相談に乗ってくれそうな精神科医をさがしていました。精神科エリアで白衣を着ている人は精神科医ですから、「この先生なら」と、男子成人病棟までついていったんです。「ふつうの子どもなんだというけれども、いろいろ問題行動もあって、どう扱っていいかわからないです」と相談したとき、その先生が「一人ひとりの子どもとつきあう前に、もっと大事なことがあります」と言われて、戦争神経症の話をされたんですね。「戦争がなかったら、戦争神経症はありません。いま学校恐怖症とか登校拒否と言われている子どもたちも、社会や学校状況が悪くなかったら学校を拒否しなかっただろうし、神経症にもならなかったでしょう。そういう意味で、あなたは、まずは社会現象を見る目を自分のなかに育てないといけないですよ」と言われたんです。そして、「神経症と結核、トラコーマが急増したときが、戦争前夜の徴候と言えます。あなたはしっかりとその徴候を見る目を育てなさい。そのうえで、目の前の子どもと関わりなさい」とおっしゃったんですね。その言葉、視点が、いまでも私の原点です。
 でも、「目の前の子どもとどう関わっていいかわかりません」と食い下がったら、「あなたはまだ若いし情熱もいっぱいあるのだから、子どもとぶつかりなさい」とおっしゃいました。「でも、目いっぱいやったら、やり過ぎてしまうかもしれません」と言ったら、「そのときは私たちが手伝いますよ」と言ってくれたんですね。それで、すごく安心したんです。でも、その先生の名前を確認さえしなかった。若かったですね。あとから思うと、あの先生は元軍医だったんだろうなと思います。
 私が教員になったころは、婦長も、元従軍看護婦の軍曹だったんです。怖い方で、医長の渡辺先生でさえ坊や扱いされてました(笑)。分校の校舎も、元将校病棟でした。

山下 私は、戦争神経症の話は渡辺位さんからうかがっていたのですが、国府台病院は陸軍病院だったゆえに、精神科のなかでは、そういう見方が共有されていたのかもしれないですね。

横湯 そうだと思います。私も若いころ、「戦争神経症のカルテを見せてください」と総婦長にお願いしたことがあったんですが、「あなたに見せるわけにはいきません」と断られました。最近、あきらかになったことなのですが、戦争神経症のカルテは、すでに国府台病院から別の場所に移されてたんですね。戦争が終わったとき、軍部からカルテを焼却するように命令があったそうです。しかし、浅井利勇先生と諏訪敬三郎先生が、ドラム缶に詰めて地面に埋めて隠していたそうです。それを1951年に掘り起こして、下総精神医療センターに移して保管した。8000人分ということですから、膨大量です。その事実を最近、東京新聞が報じたのですが(2017年2月19日)、保管場所が明らかになったら、いまの安倍政権は、その資料を焼却しかねないですね。そういう意味では、時代の急激な変化は怖いです。

山下 戦争神経症の資料というのは、重要でしょうね。消してはいけない過去だと思います。


●おたがいに悪さを許容

山下 国府台病院での話にもどりますが、横湯さんは、ときには子どもといっしょに悪さするのも必要だとおっしゃってますね。

横湯 そうですね。悪さといっても、ちょっぴりですけど、よく、いっしょに騒いだり、いたずらしたりもしました。子どもたちから「おまえ、それでも教師か」「なんちゅうセン公だ!」ってあきれられたりね。
 いたずらではないですが、毎年、秋になると、病院の敷地内の銀杏を拾って売るんですね。若い男の先生たちも飲み屋で売ってましたし、子どもたちは外来の待合室でたたき売りしたりして、それが始まると秋が来たなという風物詩みたいになってました。乾かしている最中に、盗んで売ったことがあると、おとなしい女子グループの卒業生に告白されたこともありました。「私たちも悪いことができたとうれしかった」と打ち明けてくれました。

山下 子どもにとって、大人は正しい存在と思われがちですが、悪さをいっしょにしたりすることも、子どもと響き合うのに大事かもしれないですね。

横湯 それはあります。教師の役割からはみ出す部分ですね。私はおしゃれが好きなので、リボンだとかイヤリングをつけたりしてたんですけど、「教師がそんなことでいいのか」と、看護婦にも言われたりしてました。
 それと、ある年のキャンプで、私が参加しなかったことがあったんです。齊藤万比古先生が下見調査に行ったんですが、そのときに蛇が出たという話をミーティングでされたんです。私は蛇が大きらいなので、「私は行かない」と言いはって、とうとう、その年のキャンプは行かなかったんです。主任で、分校の責任者だったのに。
 別の年に、八ヶ岳でキャンプしたときは、渡辺位先生と私で、「もう疲れたからサボろうよ」と言って、みんなが作業しているとき、木に登って、隠れてサボったこともありました(笑)。でも、子どもたちにもバレてて、夜になってから、みんなの前でバラされたりとかね。子どもも教員も医者も、おたがいに悪さをして、許容の範囲は許し合っていた感じでした。

山下 大人がワガママを言えているというのは、子どもにとって楽かもしれないですね。そういう土壌があるから、ちょっと極端に振れている子がいても、受けとめられる土壌があったのでしょうね。

横湯 そうだと思います。でも、蛇がきらいでキャンプに行かないというのは、ワガママですよね(笑)。主任が来ないというのですから。まあ、そういうワガママだとか、悪さみたいなことも、どこまでを許して、どこからがダメなのか、おたがいに幅を持っているというのは、大事なことだと思います。

山下 完全に排除してしまうと、もっと大きくなってしまいますしね。しかし、当時は医者もキャンプに参加してたんですね。そういうことは、いまのお医者さんでは、なかなかなさそうですね。

横湯 そうだと思います。齊藤先生も渡辺先生も上林先生も、ほんとうに、よく子どもたちとつきあっていたと思います。私たちは対立やケンカもしましたけど、よく飲みにも行きましたしね。領域のちがいからの対立ですから、たがいに引けないところはありましたけど、ちゃんと線引きした境界域での対立で、どこかで許し合っていました。そういうケンカは、いまは医者も教員も、なかなかできないように思います。私たちも、そこで成長し、幅も培えたと思います。

山下 子どもも含めて、揉めごとを通して、おたがいが変わっていくということがあったわけですね。渡辺位さんが国府台病院で開かれていた親の会、希望会とのつながりはあったんでしょうか?

横湯 ときどき、のぞくことはありましたけど、その程度でした。

山下 分校に来ていた人の親御さんは参加されてたんでしょうか?

横湯 参加している親の方もいましたが、外来の人のほうが多かったと思います。
 渡辺先生とのことで言いますと、退院して高校を卒業後に結婚した女子生徒で、自分が不登校していたことを結婚相手に言えなくて、自分が罪人のように感じて、結局、離婚してしまったという例がありました。それで、渡辺先生が私のところに来られて、「退院したあとも不登校を悪いことのように感じてしまっていて、苦しい思いをしている人がいる。不登校はプラスのことなんだと知らせていったほうがいいね」と、不登校のイメージを大きく変えていこうという話をしたんです。ちょうど希望会が始まったあとぐらい、70年代半ば過ぎだったと思います。そのころから、不登校は悪いことではない、悪いのは学校であり社会であり、子どもたちをとりまく環境なんだと、強調して言うようになりました。それまでも、不登校をダメなこととは思ってなかったんですが、前面に出してはいなかったんですね。

山下 直接のきっかけとして、そういうことがあったのですね。


●規則ありきではなく子どもの側から

山下 少し話は変わりますが、教員のあり方についてうかがいたいと思います。横湯さんは、教員というのは、なかなか子どもに「ごめん」の一言が言えないのが問題だということをおっしゃってますね。

横湯 教員の多くは、子どもありきではなくて規則ありきで、規則に子どもをあてはめてしまってますでしょう。「こうでなければならない」というのが前面に出ていて、それに合うか合わないかで子どもを見ている。だから、問題が起きたとき、それがどういう背景から起きているかを見ないで、行動だけを見て、悪いと判断してしまう。それでは子どもの側から考えることはできません。

山下 一度、問題行動として見てしまうと、その後もずっと、そのフィルターで見てしまうということはありますよね。

横湯 そうですね。それではちがうんだということを教えてくれたのは、不登校の子どもたちでした。いろんな子どもがいて、変化球は出しますし、次から次へと問題を起こして、自殺の危険性のある子たちもいましたし、たいへんでしたけど、そこで学んだんですね。子どもの側に立って、子どもが何を求めているのか、何に苦しんでいるのかを考える。それがわからないかぎり、子どもの行動を判断してはいけないと思います。とくに私は、3人に自殺されてますので……。

山下 教え子を亡くされたことは、自分の人格が崩れるような経験だったと書かれてらっしゃいますね。

横湯 どう受けとめていいかわからなかったですね。ひとり目の生徒のことは、『登校拒否――新たなる旅立ち』に、佳奈という仮名で書きました。彼女は、毎日のように死にたいと言ってました。私たちも、ほんとうに根気よくつきあっていたのに、死なれてしまった。どうしたらよかったのかわからない。彼女の死は私にとって、ものすごく大きな転換点でした。上原専禄の『死者・生者』(未來社1974)を読み続け、悩み続けて、ある夜、父の気配を感じたとき、佳奈と共に生きていこう、死者と共生・共存していこうと思えたのです。そこにいたるまで、1年くらいはかかりました。

山下 いろいろあっても受けとめることができた場合は、その後につながっていきますけれども、亡くなられてしまうと、とりかえしがつかないですから、整理をするのは難しいですよね……。

横湯 難しいですね。もうひとりは通院していた男の子でした。「ヘルプミー」と大学ノートにびっしり書いていました。男性の先生がカウンセリングしていたんですが、ある日、約束の時間に来ないので、遅刻しない彼が来ないのはおかしいと思って、すぐ自宅に電話したんです。おばあさんが出て、「いま2階で休んでます」と言う。「とにかく、ようすを見にいってください」と頼んだんですが、「寝てますから」と言って応じてもらえなかった。しかし、そのときに部屋を閉めきってガス管をくわえて自殺されていたんです。ご家族は、すごくご自身を責めておられて、それを見ているこちらもつらかったです。
 もうひとりの女子生徒は、自我が壊れていくような感じがあって、主治医からも「いじらないほうがいい。深入りしてはいけない」と言われてました。彼女との関わりは、すごくバランスが難しかったです。彼女の大好きだった元主治医が病院を退職してしまっていたんですが、その先生がひさしぶりに訪ねてくるときに、自我が壊れていくような自分の姿を見せたくなかったのか、自殺してしまったんです。
 どうすればよかったのか、一人ひとり背景もちがいますし、一概には言えないです。
 そういう経験があるからでしょうか、夜中に、「あの子が危ない」と感じることがあって、駆けつけて間に合ったこともあります。自殺に対しては、ものすごく敏感になりました。重い課題ですけど、死なせてはいけないという思いは強いです。

山下 亡くなった3人の方は、国府台病院にいたときの方ですか。

横湯 そうです。渡辺先生も、担当の子どもに自殺されてしまったことがあって、ご自身が入院されてました。どんなにトレーニングされた医者であっても、防げないことはある。患者に死なれるというのはショック以上のショックです……。

山下 どういう対応だったら防げたかというのも、わからないことでしょうね……。一方で、問題と思われることを起こしてしまう子に対して、あまりサーチライトで照らすように把握しすぎてしまうのも、よくないことだとおっしゃってますね。

横湯 もちろん、サーチライトをあてることで見えることもありますが、始終、光をあててたらよくないです。問題行動ばかり取りだして、そこばかり見ていては子どもを追いつめてしまう。その元になっていることをわかりたい。学校でのいじめや暴力があるかもしれない、虐待があるかもしれない、何に追いつめられているかをわかりたい。でも、それは時間をかけてわかることだと思います。

山下 信頼関係がないと言えないこともありますから、子どものほうから言ってくれるのを待たないといけないこともありますよね。それには、直してやろうという人よりも、力の抜けている人のほうがいいこともあるように思います。そういう意味で言うと、いまは、なんでも早期発見・早期対応が求められてますね。不登校でも、休み始めたらすぐにシートを作成して対応するとか、発達障害でも、早期に発見して特別支援学級へという流れがあります。そのあたりについては、どうお考えでしょう?

横湯 そうですね。早期発見と言っても、表面に出た行動は見えても、その行動の背景に何があるかは、すぐにはわからないですよね。相手が話せる時機を待つ必要もあると思います。それまでは、おつきあいしていくしかない。子どものほうからSOSを出してくれる、出してもらえるつきあいですよね。それと、対応と言うなら、押しつけがましいものではなくて、「どうしたらよい? 教えて」といった、子どもが安心できるような対応ですよね。


●スクールカウンセラーの役割は

山下 1995年からスクールカウンセラーが配置されるようになりましたが、その役割はどのようにお考えでしょう。

横湯 役割の前に、条件を考えたいと思います。スクールカウンセラーは、週に2回、4時間ずつの勤務ということになっていますが、実際には、週に1回8時間になってますね。しかし、いま学校では、不登校だけではなくて、いろんな問題が起きているのに、週1回だけの勤務で何ができるのでしょう。相談室に座っているだけでは仕事になりませんね。
 子どもたちの抱えている困難に対応しようとするのであれば、スクールカウンセラーは、常勤か非常勤かはともかくとして、毎日1〜2名は常駐する必要があると思います。アメリカに視察に行った際、スクールカウンセラーは相談だけではなくて、小集団カウンセリングで、子どもたちが自分たちの問題を自分たちで解決するプログラムを持って、コンサルテーション、コーディネーションの役割を果たしていました。子どもたち自身が、ピアヘルプ活動、コンフリクトマネジメントなどをやっていました。日本でも、そういうプログラムを持てたらいいと思っています。
 それと、スクールカウンセラーだけではなく、スクールソーシャルワーカーも必要です。生活困難層も増えていますし、虐待の問題も増えていますし、アメリカでは、スクールソーシャルワーカーは、ハローワークの役割も果たしていました。つまり、親が生活できるように、仕事の確保も支援する。生活面を支えることが、心を支えることにもつながる。カウンセラーとソーシャルワーカーが協働していました。日本でも、そのようになれば、教員もずいぶん楽だろうなと思います。
 先生は忙しすぎます。何か問題や事故があるたびに、膨大量の報告業務が求められる。そのために生徒とつきあう時間が減ってしまっている。せめて報告業務をなくすだけでも、先生たちの疲労や多忙感を減らすことができる。

山下 教員の置かれている状況を変えないと、意識の問題ではすまないわけですね。

横湯 そう思います。私は、2013年に東京都足立区のいじめに関する調査委員会の委員長をしていたんですが、自殺した生徒の友だちにヒアリングしたとき、彼らは先生たちの問題点をいっぱいあげたあとで、「でも、僕らは先生たちといっしょに過ごしたいです。先生は、僕らのところに降りてきてほしい」と言ってました。また、教員たちのアンケートでも、「私たちは生徒とともに過ごしたい」という回答が多かったんです。つまり、子どもの思いと教員の思いはいっしょなんです。調査委員のひとりが、文科省の係長をしていた人だったんです。彼が、報告業務をやめたら、半分は楽になると言うので、提言に盛り込んだんですが、それを聞いた先生たちは手を叩いて喜んでました。
 それで、国連子どもの権利条約市民・NGO報告書をつくる会の提言のなかでも、報告業務の多さを指摘しました。
 現在も、東京都葛飾区で、自殺に関する調査委員会の委員をやってます。自殺しないで、せめて登校拒否してほしいです。

山下 むしろ、学校に行っている人のほうが心配ですよね。

横湯 もちろん、学校に行かないことは苦しいですけど、生きていれば、いつか何とかなりますから、不登校になったからといって、自分を過剰に責めないでほしいです。


●用務員や事務員が大事

山下 学校に他領域の専門職が入ってくることで、教員も楽になって、子どもと関わる余裕を持てるようになるというのはわかります。しかし、一方で専門家依存になって、丸投げになってしまう問題もあるように思いますが、いかがでしょう。横湯さんも、心理で子どもを見立てていくより、子どもとぶつかりながら、つきあってこられたわけですよね。

横湯 そうですね。具体的なことで言いますと、私もスクールカウンセラーとして中学校に入ったことがあるんです。東京都内の学校のことを知りたくて、1999年に中央大学に赴任したときから3年間、週1で中学校に行きました。ほんとうに勉強になりました。相談室に座っているだけでは、来る生徒は少ないんです。とくに、いじめられている生徒は、加害者の監視の目が入っているから来ない。教員からは授業を見にきてくれと言われたんですが、授業を見てしまうと、どの生徒が勉強ができて、できないかわかってしまって、劣等感のある生徒は来なくなってしまいますから、それも断わりました。その代わり、休み時間とお昼休みに、校内をぶらついたんです。
 それで、遊んでいるように見えても、いじめだなと思う生徒たちに近づいたりしますでしょう。すると、ひとりがグループから離れる。いじめられている生徒が、「カウンセラーが来たから行け」と言われるのでしょう、いなくなります。さらに近づくと、セカンドくらいの生徒が声をかけてくるんです。その生徒とボスらしき生徒の顔だけ覚えて、あとで生徒台帳を見て確認するんです。でも、その時点で教員に言ってしまうと、すぐ動かれてしまうので黙っておいて、事務室に行って聞くんですね。事務の方たちは、家庭状況から何からよく知っている。次に、用務員室に行って、現場をおさえてくれと頼むんです。いじめ集団の子たちというのは、用務員を自分たちより下に見ていて、警戒してないんです。現場をおさえてもらって、そこで初めて、教員に言うんです。
 用務員の方は、ほんとうによく動いてくれて、翌週に行くと、何かが動いて、何かが解決していました。ですから、私は用務員のおじさんたちとは親しくしていて、よくおみやげを持っていってました(笑)。
 それと、ツッパリの子と仲良しになったんですね。彼らは、意外といじめの加害者にはなってないことが多かったです。「俺らは許さない」と言って、情報をくれたりね。
 ただ、生徒指導の先生には私の評判は悪かったです。「相談室にいないで、ぶらついて遊んでばかりいる」とか言われて。

山下 心理の枠組みで子どもを見ることや、その専門性の良し悪しについては、いかがでしょう。

横湯 いじめの構造やプロセスについては話し合いました。個人的に相談に来られた先生とは、いっしょに分析し手立てを相談したりもしました。でも、専門性と関係ないことで言えば、疲れた顔をした先生が相談に来られると、「どうぞ眠ってください」と申し上げて、そのまま寝入ってしまわれることも、よくありましたね。
 専門性ということで言うなら、むしろ養護教諭のほうが重要だと思います。私は週1回だけでしたから、養護教諭からよく話を聞いてましたし、お願いもしました。養護教諭は、虐待をよく見つけられるんですね。いじめも、ほかの教員よりも、よく気づいてました。ですから、私は、事務員、用務員、養護教諭の方たちと仲良くしてました。スクールカウンセラーと養護教諭とは親戚関係だと思います。ほんとうに勉強になりました。

山下 いわば周辺の人たちで、それが重要なわけですね。虐待や貧困の問題は、以前からずっとあった問題だと思いますし、いわゆる不登校ではなく、虐待や貧困で長期欠席していることもありますね。そのあたりについては、どのような関わりが必要だと思われますか。

横湯 虐待の場合も、貧困の場合も、やはり養護教諭の先生が重要だと思います。貧困の場合でも、ネグレクトの場合でも、子どもは、あまり食べてないときは、ふらふらっと養護教諭のところに行ったりしています。養護教諭の方たちは、ほんとうに子どもたちの生活をよく知っています。どの子が食べてないだとか、あの子はどうも性虐待を受けているようだとか。

山下 家庭が厳しい状況のとき、親以外の大人の存在が重要だということはありますよね。

横湯 他領域のスクールカウンセラーやスクールソーシャルワーカーが入れば、本来、力強いはずなんです。教員と連携すれば、いい仕事ができる。これだけ貧困が広がって、家庭の困難が蔓延しているなかで、スクールカウンセラーだけでは何もできません。

山下 心理職だからというよりも、教員が、教員以外とネットワークを組むことが必要ということですね。

横湯 そうです。心理職なんて、私を含めて、たかが知れてます。


●受苦の共同化

山下 横湯さんは、「受苦の共同化」ということも言われてますね。すぐに専門家に解決してもらおうというのではなく、苦しみこそ共同化していく必要がある、ということでしょうか。

横湯 子どもや大人が抱えている困難の多くは、すぐ解決できることではないですね。政治や国のあり方にも関わりますし、おたがいが苦しみを共有しあうことが第一だと思います。どういう工夫で、それを超えられるか。同じ思いを共有しながら、ときに分析しながら、ときにアイディアを出し合いながら、子どもと大人、生徒とカウンセラー、教員どうし、共に考え合っていくほかない。
 そこで問題になるのは、やはり、教員が多忙すぎて、聞こえているはずの声が、聞こえなくなってしまっていることでしょうね。多くの先生は子どもが好きで、子どもといっしょに生きていきたいと思って教員になったはずでしょうしね。教員が子どもといっしょにいられるようにするには、事務職を増やすことも必要だろうと思います。
 敗戦直後の教員は、自分の好きな『宮本武蔵』を読み聞かせたりしてたわけです(笑)。その先生が持っている長所とか特技が、自然に出て、それが共有されてたんだと思います。そういうことが、いまの教員には、もっと必要でしょうね。

山下 学校が具体的に変わっていく必要がある一方で、フリースクールなどについては、どうお考えですか?

横湯 それは大事ですよね。不登校になった子にとっては、自分のいまを支えてくれる場所がないですからね。居場所は、もっといろんなかたちの場があっていいと思ってます。

山下 フリースクールなども、子どもが親以外の大人と出会える場ですしね。

横湯 そうですね。子どもと関わるのは心理職だけではダメで、さまざまな人が必要だと思います。たとえば、何か特技のある兄ちゃんとか、おじさん、おばさん、おじいさん、おばあさんとかね。専門職だけでなく、そういう人が大事かな。昔は、祖父母世代がその役割を果たしてましたでしょう。

山下 一見、役に立たない大人のほうが、かえっていいということもありますしね。子どもの言うことをキャッチできる余白のある大人が必要ですね。

横湯 そうですね。そうしたら、ヒマを持てあましてテレビだけ見ている年寄りたちが社会参加できるということにもなりますし、居場所への老人の参加は大事かもしれません。


●ひきこもりについて

山下 かつては不登校として現象化していたことが、その後は学齢期を越えて、ひきこもりとして現象化して、いまや世代を越えて大きな問題になってますね。そのあたりは、どうお考えでしょう。

横湯 難しいですね。不登校だった子どもの一部はひきこもりになっていき、40〜50代になっている人も多くなっています。
 不登校のきっかけが、いじめや暴力だった場合、深く心の傷を負って、その後も、ずっとひきこもっています。その心の傷、心的外傷後遺症と、どうつきあっていくのか。心的外傷を想起し、服喪し、追悼して、終わりにして、再び出発するのにつきあう。信頼され、安心だと感じてくれたら、共同作業ができます。
 心的外傷で苦しんでいる方たちは、直接は会えないので、その家族とつきあうことになります。ひきこもりは悪いことではなくて、元をただせば背景があるんだということを家族に理解してもらって、家族がひきこもりにつきあっていくこと。それを私たちがどう支えられるかが課題です。追いつめられると、自殺の危険性もありますから。実際、いまも、自殺の緊急相談がよくあります。

山下 自立にはしっかりとした依存が必要だと言えるでしょうけれども、それを支えるのは家族だけでは無理で、家族だけで抱え持っていると危ないということはあるでしょうね。

横湯 ですから、家族を問題視するのではなくて、支えることで安心・安全を感じてもらう。医療・保健・教育・福祉・心理などが重なり合うことが大事になります。支え合いのあり方は、その本人、家族のようすで決まっていくのではないでしょうか。そういう理解が必要だと思います。

山下 教員にしても、家族にしても、余裕のなさを指弾するのではなく、外の風も入れながら、支え合っていくことが必要だということでしょうね。今日は長時間、ありがとうございました。

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*1 9・18事件:1933年9月18日、神奈川県や静岡県で共産党員が一斉検挙された事件。横湯さんの父、芹澤総一郎さんは、印刷工をしながら労農運動に関わっていた。

*2 生活綴方運動は、1910年ごろに始まった教育運動。子どもたちが自分の生活を自分の言葉でつづり、それを推敲する過程や、文集を出しておたがいに討議することなどを通じて学ぶことが目指された。そのひとつ、『山びこ学校』については、本プロジェクト#12無着成恭さん参照。

*3 情緒障害児短期治療施設:1961年の児童福祉法改正で定められた施設。当初は学校恐怖症(不登校)や年少非行児童のメンタルケアなどを目的とし、12歳未満を対象としていた。しかし、近年は児童虐待への対応が求められるようになり、現在は在籍児童の7割以上を被虐待児が占める。2016年4月より児童心理治療施設と名称変更された。

*4 渡辺位(わたなべ・たかし/1925―2009):児童精神科医。国府台病院で児童精神科医長を務め、登校拒否は個人病理ではなく、学校を含めた社会への子どもの防衛反応であると、いち早く世に訴えた。
posted by 不登校新聞社 at 19:49| Comment(4) | 心理関係
この記事へのコメント
懐かしく切なく読ませていただきました。1980年代、渡辺先生の患者で院内学級から中学は卒業させてもらいました。現在51歳の女性です。
中学卒業後はアルバイトで働くことを覚え、大検を取って短大(夜間)に進学し卒業することができました。
現在は皆さまの努力のおかげで不登校の子の居場所も増えましたね。
当時の登校拒否の私たちが学校とは。教育とは。問題提起をしたことが活かされる社会を望みましたが年々増える不登校の数。イジメ。自殺。ニュースを聞くたびに悲しく思うこともあります。問題は沢山あるでしょう。皆さまの努力が1つでも多く報われることを願います。

今は暗く深い穴の中にいても頑張ったねと言ってくれる人がいれば光ある場所へ行けるから。
Posted by 美帆 at 2017年12月20日 22:36
美帆さま

国府台におられたのですね。いろいろ、ご苦労もあったことと思います。長年の問題提起(言葉にならないものも含めて)にもかかわらず、学校はますますキツくなっているようにも思いますが、不登校から問われていることは、大きく言えば、いまの社会のあり方を深く問い直しているところがあるように思います。

コメントをいただいて、励みになりました。ありがとうございました。
Posted by 山下耕平 at 2017年12月21日 07:23
私も渡辺位先生、横湯園子先生にお世話になりました。多分美帆さんも知っています。卒業後夜学生活を10年続け鍼灸師・柔道整復師になり開業を20年あまりしてきました。現在はケアマネの延長から社会福祉士・精神保健福祉士となり、生活困窮者自立支援、専門職後見人として活動しています・・家庭問題に介入するとき、当時のスタッフの皆様のお顔を思います・・年齢も55歳となり孫もいるオジサンになっています・・SSWrの方達とも連携しています・・
Posted by 達也 at 2017年12月29日 11:57
達也さま

ありがとうございます。いまは援助職をされておられるのですね。先日、私も生活保護のワーカーさんの学習会に呼んでいただいて、お話させていただいたのですが、不登校から見えてきたことは、福祉分野や援助職の方たちとも共有していければよいなと思っています。いただいたコメント、横湯先生のほうにもお伝えしたいと思います(美帆さんのコメントとともに)。
Posted by 山下耕平 at 2017年12月29日 12:56
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