2017年12月29日

#30 山下英三郎さん

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(やました・えいざぶろう)
1946年、長崎県生まれ。日本社会事業大学名誉教授。NPO法人修復的対話フォーラム理事長。早稲田大学法学部卒業後、社会人経験を経た後1983年にユタ大学ソーシャルワーク学部修士課程に入学、1985年に同課程を卒業。1986年から埼玉県所沢市において、日本で初のスクールソーシャルワーカーとして実践活動を行なう。また、1987年から2010年まで子どもの居場所「バクの会」の運営に携わる。1997年から日本社会事業大学教員。1999年、日本スクールソーシャルワーク協会を立ち上げた。著書に『いじめ・損なわれた関係を築きなおす』『エコロジカル子ども論』(ともに学苑社)など多数。

インタビュー日時:2017 年9 月18 日
聞き手:須永祐慈、増田良枝、中村国生
場 所:山下英三郎さんご自宅(長野県)
写真撮影:中村国生

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〈テキスト本文〉

須永 よろしくお願いします。山下さんは、さまざまな子どもたちと出会ってこられたと思うのですが、その話の前に、山下さんご自身の経歴からおうかがいしてよろしいでしょうか?

山下 生まれは長崎市で、1946年に生まれました。

須永 長崎市内ですか?

山下 長崎市内です。僕が生まれる7〜8カ月前に原子爆弾が落ちました。僕の母がいた場所は中心街ではなかったけれども、翌日、何もわからず知人を探しに爆心地に行ったそうです。そのとき僕はおなかにいたので、胎内で放射能を浴びた「胎内被爆児」なんです。
ただ、被爆認定は18歳になってからと遅くて、ある日突然、被爆者手帳がきた感じでした。
 なんでその話をしたかというと、その後の人生行動に大きく影響するからなんです。突然降ってわいた胎内被爆児という経験は、僕にとっては現在にいたるまで、体のことや命のことと密接に関わっています。その後、18歳で長崎を出て、東京の大学に行き、1969年に大学を卒業しました。卒業後、とくにやりたいこともなかったので、鉄鋼関係の商社に就職しました。

増田 大学の学部は?

山下 法学部なんですよ。

増田 法学部で鉄鋼ですか?

山下 そうです。

須永 おもしろいですね。

山下 法学部はいただけで、法律を勉強したわけじゃなかったんです(笑)。

須永 当時は学生運動の時代ですか?

山下 そうです、全共闘の時期です。1965年、大学に入った年に学費値上げ闘争があって、学生たちが大学を封鎖して、全学ストライキが100日間にわたって続くということがあったんです。だから、そのぶんずれ込んで、2年生になったのは8月でした。田舎からぽっと出てきて大学に入って、いきなりそういう出来事に遭遇したので、そこで少しものごとを考えるようになりました。それまでは生き方も迷ってて、あまり先のことは考えてなかった。
 大学闘争の影響はすごく大きかったんですね。当時、学生たちが言っていたことは、主張としてはまっとうだと思いました。同時期にベトナム戦争が激しくなってきたので、それも根が深い運動として、直接は関わりませんでしたが、いろいろ考えるきっかけになりました。結局、大学4年間は、ずっと大学闘争の時代だったんですよね。
 だけど、運動がどんどん過激になって、僕が卒業したころには赤軍派の活動がだんだん活発になる状況でした。大学のなかでも、運動する人どうしが争うのを見て、おおもとの言っていることは同じはずなのに、細かいところで対立して、しまいには暴力をふるうようになってしまった。一番衝撃だったのは、連合赤軍の浅間山荘事件と、その直前に起きたリンチ殺人事件です。あれにはすごく挫折感を感じた。そのとき、暴力対暴力では絶対に解決がつかないと思ったんですよね。
 同時期に、アメリカでは公民権運動が始まってました。キング牧師の非暴力主義に、僕はすごく惹かれて、キング牧師のことを研究したとまでは言わないけど、大事なのはこれじゃないかと思ったんです。とはいえ、大学時代には何も考えがまとまらず、とりあえず就職するしかないので、鉄鋼関係の商社に行ったわけです。
 学生時代、アメリカの若者たちが平和部隊の隊員としでアフリカで活動しているのを知って、自分もそういう活動に参加したいという想いがありました。ですので、英語サークルに入って英会話を学びました。鉄鋼関係の小さい商社で英語ができれば、外国に行けるのではないかと思ったのが就職の動機でした。
 だけど、実際には行くチャンスはなかったですね。入ったら、会社自体ぜんぜん合わなくて……。そのころはちょうど経済成長期で、とにかくイケイケな雰囲気で、だけど僕は、学生のときに産学協同路線にすごく違和感を覚えていたから、自分の考え方と会社の現実がちがうことにすごく苦しくなっちゃったんです。商社の仕事が苦しくて苦しくて、これはもう続けちゃいけないと思ったんです。
 しかも、やる気がないからまったく仕事をせず、出社して朝礼を終えたら、すぐ会社を出て喫茶店でお茶を飲んだり、友だちが営業に行くと、僕もいっしょについて行ったり、ときどきは映画を観に行ったり、友だちといっしょにボウリングに行ったりしてました。
 しかし、そればかりだと、ちょっとむなしいなと思ってね。いくらなんでも、会社に迷惑をかけるし、自分もつらかったので、とにかく辞めようと思ったんです。だけど、辞めたところで何をやっていいかわからない。


●カメラマンから植木屋に

 そういうとき、物を書いたりはできないんだけど、カメラだったら何かを表現できるんじゃないかと思ったんです。自分が胎内被爆児ということから、戦争問題を扱って表現したいという思いがあったんですね。戦後生まれだけど、僕のなかで戦争の影響はすごく大きかった。それを写真に撮れたらと思って、カメラマンになろうと思ったんです。
 戦争というテーマはよかったんだけど、とはいえ、どう表現すればいいかはわからない。それでも、とにかくやってみたいと思っていました。
 商社は半年で辞めて、夜は写真学校に行き、昼間は渋谷の写真スタジオで、無給にちょっと毛が生えたぐらいの仕事して、写真をやり始めたんです。
 1年半ぐらい経ったころ、自分のなかのテーマが少しおぼろげに見えてきて、サイパンに行きました。当時のサイパンは、戦争の傷跡がまだ生々しく残っていました。サイパンのすぐ横にテニアン島があるんですが、テニアン島から原爆を積んで、長崎・広島に出発したという事実もありました。ある意味、僕にとってのひとつの原点だから、そこの現場に立ちたいと思って原爆の格納庫だったところへ行きました。
 そこで、サイパンの現実と島人の暮らしを写真に撮りました。いま振り返ると、25歳ぐらいの青年にしては、よく考えてたなと思うんだけどね。その写真を銀座のニコンサロンに出展した。新人が開くには厳しい審査のあるサロンなんだけど、そこで個展ができたんです。まだ写真を始めて2〜3年ぐらいだったのに個展が開けたこともあって、少し舞い上がる気持ちで、ちょっと才能があるかと思って錯覚しちゃった(笑)。

須永 年代はいつですか。

山下  1972年でした。サイパンでは2カ月ぐらい現地の人の小屋に泊めてもらって、写真を撮ったんです。そのときに、ちょうど横井庄一さん(*1)が発見されたんですよ。隣のグアム島でね。
 その後、フリーカメラマンとして仕事を始めたんですけれども、経験もないし、雇われても人から頼まれた仕事はダメでね。自分が撮りたいものしか撮らないという不器用さがあって、結局、仕事がぜんぜん来なかった。でも、アルバイトしながら写真を撮りためていて、写真は自分でもとてもよかったと思うのね。知り合いになった写真評論家の人からも評価してもらったけれど、発表する媒体はまったくなかった。
 僕の写真は声高に訴えるものじゃなく、どちらかと言うと静かな風景のなかで訴えるものが多くて、インパクトがないというか、いい写真なんだけど陽の目を見にくい内容だったんだと思います。だから、悶々としてアルバイトして過ごしていたんですが、そんなときに、オイルショックがきちゃった。
 僕は比較的早くに結婚していたので、子どもも72年に生まれていました。写真にこだわっていても生活できないなと思うのと同時に、当時、渋谷駅の近くに住んでいたんですが、東京は公害がすごくて、子育てには向いてなかったんですね。

須永 渋谷の中心付近に住んでいたんですか?

山下 山手線の恵比寿駅と渋谷駅のあいだに住んでました。それで、写真はなかなか難しいし、都会暮らしで子育てを考えるよりも、田舎で暮らしたいなという気持ちがすごくあったんです。でも、田舎で暮らすには写真にこだわっていてもダメだから、写真をいったん捨てることにした。田舎で暮らすにはどうしたらいいかと考えたとき、自然環境の問題にもすごく興味があったので、田舎に行けば植木屋さんの仕事もあるだろうと思って、渋谷に住みつつ、まずは植木屋の仕事に入りました。

中村 どこの植木屋だったんですか?

山下 植木屋は元住吉(神奈川県川崎市)にあって、渋谷から通ってました。それは楽しかったですね。ちょうど同じぐらいの若者がいて、大学を中退したり生き方に迷ってる人がいてね。それで1年半ぐらい住むところを探してるうちに三重県の紀伊長島(現在の紀北町)に農家の廃屋を見つけて、そこに移り住んだんです。


●農村移住、病院事務と転々

須永 東京から一気に移ったんですね。

山下 公害がなくて、海も川もきれいなところでした。

増田 知り合いが誰もいなかったわけですよね。すごいですね。

山下 当時、NHKで「明るい農村」というテレビ番組をやってました。その番組で、その村に移住した人が暮らしている風景を見て、いいところだなと思って、その人に「自分も同じように移住を考えているのだけど」って手紙を書いたら、「一度見に来ませんか」ということになって、じゃあ仕事も住むところも探してあげるからという話になったんです。

増田 なんか軽いですね。

山下 軽いんですよ、ほんとうに(笑)。そうやって三重県で植木屋さんをやっているときに、妻が娘を妊娠しました。住んでたところがすごい山奥で、町の病院に産婦人科があって、そこに行って産んだんですね。
 そこの院長がなんか僕のことを気に入ってくれて、最初はその病院の植木の手入れをしてくれと言われてやってたんだけれど、仕事が終わりそうになると今度は「こっちやってくれ」となって、なかなか仕事が終わらない。それでも、いよいよ仕事が終了するというとき、「実は三重県の鈴鹿市のほうに大きい病院を建てようと思ってるんだけど、人を探してる。あんた手伝ってくれないか」って話をもらったんですよね。

増田 それで事務の仕事を?

山下 そのころの僕は、地下足袋にサングラスって格好で、ちょっと不審人物みたいな感じだったんだけど、そういう人に声をかけるってことは、新しい病院の庭とか掃除とかの仕事なのかなと思ってたんです。山の中で過ごして1年半ぐらいで、その生活を気に入ってたので、「あまりやる気はないです」と言ったら、「いやいや、そうじゃなくて、病院の運営のスタッフに入ってほしい」って言うのね。びっくりしちゃって、そのとき思ったのは、この人はよっぽどのバカか、人を見る眼があるかどっちかだろうと。僕は都合よく考えたいので、この人はもしかしたら人を見る眼があるんじゃないかと思ったんです。ちょうど30歳のときかな。人から眼をかけてもらうことなんて、それまでの人生のなかであまりなかったから、だまされてもいいかなと思ってね。でも、いろいろ考えてはいたんです。まだ30歳だし、山の中でずっと暮らすのも展望が開けないかとか、友だちも家に遊びに来ないなとか、地に足がつかなかった感じがあって、これは良くないな、もう一度町の中で、人の中で生活してみるのがいいかなと。それで、僕に仕事や住むところを紹介してくれた人にも相談したら「あなたは若いし、せっかく声をかけられたんだから、やってみたほうがいいよ」って後押ししてくれた。それで、病院の仕事に入ったんです。
 病院が建つ前から鈴鹿市に行って、建設予定の更地に先に住んで、建設のための準備をやったんです。住んでいた紀伊長島と鈴鹿市は100キロぐらい離れているんだけど、週2回ぐらい通って、事務的な勉強をしたりして、2年間過ごしました。


●ある外国人との出会い

 鈴鹿市では建売住宅を病院が借り上げたところに住んでいたんだけど、まったく知り合いがいなかった。そこに、あるときスーツを着たアメリカ人がふたり、ドアを叩いて「こんにちは。あなたは神を信じますか?」と来たんです。モルモン教徒だったんですが、「いや、僕は信じないです」と言ったら、でも、話していいかという。僕は学生時代に英語をやってたから、英語をしゃべれる機会がきたと思って、英語でしゃべったわけ。そうしたら向こうも、まわりに英語を話せる人がそんなにいなかったから、すごく喜んじゃって、しょっちゅう来るようになったの(笑)。
 でも、このまま自分の英語の練習のためだけに続けるのは悪いから、「いろいろ話してるけど、僕はモルモン教徒になるつもりはないので、もう来ないでくれ」って言ったのね。でも「モルモン教の話をしないなら来てもいい。友だちとして来るんだったらいい」って言ったら、彼らは、じゃあ休日に来ると言って、それで仲良くなっちゃったんです。
 その後、4〜5カ月ぐらいして、向こうが転勤で別の場所に移ったあとも、次の人たちが紹介されて来て、何人もアメリカ人の知り合いができたんです。
 そんななかに、一度帰国してから結婚して夫婦とも英語学校で会話を教えるという人たちがいたんだけど、しばらくしたらふたりとも肺炎になっちゃったんです。彼らはお金がないので、僕が働く病院に入院すればいいと言って紹介して、入院費もぜんぶタダにしてあげたりしました。事務長が「山下がいいんだったらいい」みたいな感じで、タダにしてくれたのね。そうしたら、それをすごく恩義に感じてくれてね。その後、もう一組、夫婦が来たんだけれど、その夫婦は子どもができちゃったのね。しかしやっぱりお金がないから、じゃあ、うちの病院で産めばいいと言って、それもタダにしてあげた。それで、ふたつの家族がすごく恩義に感じてくれて、とても仲良くなって、うちに来てご飯をいっしょに食べたり、向こうに行って食べたりしていました。
 そんなころ、80年代に入る前、ちょうど校内暴力が盛んとなり、日本では中学校がたいへんなんだよという話をしたら、「アメリカにはスクールソーシャルワーカーという人たちがいて、子どもたちの話を聴いて、いろいろ助けてくれるんだ」っていう話をしてくれたんです。友だちのひとりがハイスクール時代に両親が離婚して自分が乱れちゃったとき、スクールソーシャルワーカーの人が支えてくれて、なんとか持ち直したんだという話をしてくれた。そのとき、それっておもしろいなって思ったんです。日本にはまだスクールカウンセラーもなかったのでね。

須永 じゃあ、そのモルモン教の人たちとのつながりから、次の仕事の話につながるんですか?

山下 そうそう。だから訪問を断らなくてよかった。

須永 ですね(笑)。


●ソーシャルワークを学びにアメリカへ

山下 僕は子どものことがすごく好きで、興味があった。でも、子どもに関わるといったら、当時は「教師」の仕事しか思いつかなかった。僕は教師になりたいとは一度も思わなかったので、そういう仕事は無理だなと思ってたんだけど、向こうのスクールソーシャルワーカーの話は「それって日本にないし、誰もやってないなら、日本でまた必要になってくるような気もする。おもしろいかな」と思ったんです。そのとき、アメリカ人も軽いから「お前が気がついたんだからお前がやれ!」って言ってね。アメリカに行くなら自分たちがいろいろ手伝うと言ってくれたんです。僕は病院の仕事もやり始め、大事な仕事も任されてたんだけど、病院の仕事ってお医者さんが中心だから、一生やる仕事じゃないと思っていたところだった。とはいえ、目をかけてくれた院長に申し訳ない。でも、前向きに辞めるんだったら、院長の性格だったらきっと応援してくれると思ってね。
 それで、アメリカの大学院に行こうかと思ったんだけど、まずは英語の試験を受けなくちゃいけない。TOEFLってやつですね。それまで英語を話すことはあっても、勉強も何もしてなくて、試験の内容を見たらもう無理だと思って、参考書を買っても、捨てはしなかったけど、脇のほうに置いてたのね。一時は断念しようと思ったんだけど、いったん気持ちに火がついたものは止められなくて、TOEFLの試験を受けることにしたんです。マークシート方式だから当たり外れみたいな感じで、同じ問題を何回も何回も練習したら、わりと回答できるようになった。しかも、わからないことはアメリカ人の友だちが教えてくれて、それでTOEFLを受けたら、基準点よりちょっと低かったけど、そこそこの結果になった。そして、アメリカの大学院の入学願書も出したのね。これもアメリカ人の友だちが「書くなら控えめに書くな。成績じゃなくて自分のやる気の問題だ」と言ってくれて、それで「スクールソーシャルワークはこれから日本に必要になると思うけど、まだ日本にはないので、おたくの大学に行って勉強したい。もし私を入れてくれれば、あなたたちはとてもいいことをしたことになるから」と大胆に書いたんです。

須永 じゃあ、初めからスクールソーシャルワーカーと明快だったんですね。

山下 そうそう。ソーシャルワーカーのことはまったく知らなかったけど、スクールソーシャルワークをやりたいと思ってね。
 自分のことを振り返っても、僕は中学校時代に親と離れてひとりぼっちで、兄弟はいたけど、あまり兄弟とも話はできなくて、進路などもぜんぶ自分で考えなくちゃいけない状況だったのね。そのときに、チラッと年上の人で相談に乗ってくれる人がほしいな、みたいなことは思ってた。そういうものがどこかにあって、いろいろ迷ったりしてる子たちの支えになれば、みたいなことを思っていたんだよね。

須永 行った大学はどこですか?

山下 モルモン教徒が多いユタ州です。僕が知り合った人たちもユタ州から来てたから、「ほかのところには行くな、ユタに来い」って言ってくれて、住むところも手配してくれたんです。

須永 それはある種、布教活動でもあるのかな(笑)。

山下 (笑)。彼らは布教なんかまったくやらなかった。家族も僕がめんどうみたときにすごい恩義を感じてくれてたから、家財道具もみんなお膳立てしてくれて、それで行ったんです。1983年のことだったかな。

須永 その後、何年間行かれたのですか?

山下 修士課程の2年間、勉強しました。僕は福祉の勉強は何もしてなかったから、2年間じゃまったく足りなくて、ほんとうはもうちょっと勉強したかったんです。勉強したければ博士課程だということになり、ユタ州の隣のコロラド州の大学を受験して合格した。でも、お金がなくて、奨学金とかを探したけどダメで、結局は2年間で帰ってくることになりました。

須永 家族も全員?

山下 いっしょに。でも、帰ってきても、仕事も住むところもなかった。また軽い考えだけど、海があって山があるところがいいなと思っていたので、小田原のあたりはいいよねとなって、小田原に住み始めました。

須永 ちょっとだけ戻りますが、スクールソーシャルワークを学んだユタ州の大学では専門はどういう部類だったんですか?

山下 スクールソーシャルワークを学んだわけじゃなくて、高齢者も含めたソーシャルワーク全般のことを学んだんです。スクールソーシャルワークについては、専門のコースはミシガン大学にしかなかったんですね。子ども関係の授業を選びながらやっていた感じで、それが結果的にはよかった。
 向こうの大学院は、論文を書かなくても、研究・調査したペーパーを出せばいいんです。でも、僕はアメリカにわざわざ来たのだからと思って、修士論文を書くことにした。そうしたら、大学院に60人くらいいるなかで、論文を書くのは僕だけだったんです。それは4〜5年ぶりのことだったらしくて、先生たちがすごく喜んで応援してくれてね。僕は、えこひいきされたことってなかったんだけど、その先生たちには結果的にえこひいきされたかな(笑)。
 書きあがった論文に対しては「ディフェンス」と言って、質問を受けて答えなくちゃいけない場があるんだけれど、僕は英語がそんなに堪能じゃないから詰まったりすると、その先生たちが「彼が言いたいのはこういうことなんだ」って応援してくれた。


●スクールソーシャルワーカーに

須永 その後、小田原に移ってきたと。

山下 小田原に住みました。3カ月仕事を探したけど、もうそのときは40歳。どこにも雇ってもらえなくてどうしようかと思って、いろいろ探しているうちに、予備校の講師の口が見つかった。予備校に雇われて、その年の12月から講師というより職員として教えてたのね。それで、仕事に慣れるか慣れないうちに、次の話がやってきました。翌年1月の中旬ぐらいに、埼玉県の所沢市教育委員会から「相談員」の口があるから、あなたがアメリカでやっていたことをやってみないかって声がかかったんです。

中村 きっかけは、どういうことだったんですか?

山下 僕の勝手な思いでアメリカに行って、誰もスクールソーシャルワーカーをやれとは言ってないし、人がどう思うかわからないし、日本人がスクールソーシャルワーカーについてどう思うかを調査したかったんです。そこで、友人のひとりが教育委員会とつながりがあったのを思い起こして、彼に口をきいてもらおうと思って話しておいたんです。参考にアメリカで書いた研究論文を日本語に書き直して送っておいたんですね。そうしたら、教育委員会は当時、学校が荒れていて、どうしたらいいかわからない状態だった。そして、帰国した年末に、あの人は日本に帰ってきてるよという話になって、「口があるんだけど」って話になっていったんです。
 予備校の仕事も、すぐ辞めるとなると困っちゃったんだけど、すごいチャンスなので行くしかないかなと思ったんです。そこで意を決して「入ったばかりで、ほんとうに申し訳ないんだけど辞めさせていただけないか」と予備校の人に言ったら、「あなたが一番やりたいことだと思うから、それはぜひやったほうがいいです」と言ってくれました。そのうえ、所沢市は非常勤で12万円しか給料がないと知って「それじゃ生活できないでしょう」と言って、「非常勤は毎日じゃないだろうから、空いてる日は予備校で講師やれば補足できるよ」と言ってくれたんです。運がいいことに予備校が所沢にもあった。そこで僕は、横浜と所沢の予備校に週2日勤めて、あとはスクールソーシャルワーカーの仕事をやるかたちで、なんとかぎりぎりの生活だけど始めることにした。予備校の人たちの配慮はほんとうにありがたくて、いまでも感謝してます。そして1986年4月から、スクールソーシャルワーカーとして仕事を始めることになりました。
 最初は校内暴力に関心があって、その子どもたちの支援だと思っていたんだけど、教育委員会から不登校の子どもたちがかなりの数いるということを知らされました。しかも、不登校で家にひきこもってる子たちが、今ほどではないもののいることを知って、だったら親も学校も、子どもたち自身もどうしていいかわからないだろうと。その子たちにも支援をと思ったのね。
 とにかく、僕自身が子どもたちと直接関わりたいと思っていたんだけど、つっぱってる子や不登校の子がこちらに会いに来るわけでもないから、家庭訪問して子どもたちとコンタクトをとることを考えて、そういう方法にしたんです。だから最初の職名は「訪問教育相談員」という名前でした。

須永 訪問教育相談員。

山下 訪問教育相談員という名前は、僕としては本意じゃなかったんだけどね。スクールソーシャルワークという名前は、正式な職名としては教育委員会もOKしない。だから所沢市の職名はそれでいいとして、対外的には私はスクールソーシャルワーカーを名乗らせてもらうことにしたんです。やはり知ってもらうのが必要だったからね。教育委員会も給料がすごく安いのが後ろめたかったのか、それは大丈夫ということになって始めたんです。
 とはいえ、ほんとうに僕が大胆だったなと思うのは、それまで不登校の子とひとりも会ったことがなかったんですよ。しかも、ひきこもっている子を訪ねるわけですからね。よくやったなと思います。

須永 いままでの経歴を聞けばそうですよね(笑)。

山下 それから、つっぱってる子とも、つきあいがなかった。それなのに、いきなり最初の年から15〜16人を担当したんです。最初はつっぱってる子が多かったかな。つっぱってる子のなかでも、市内では番長クラスとか、そういう子たち……。でも、それ自体はあんまり不安じゃなかったですね。


●相手が自分を育ててくれた

須永 それでどうしたんですか? とにかく会って話を聴いたんでしょうか。

山下 最初は会ってくれないことはあったけど、僕は自分に力がなくても、親とか子どもたちが、自分をソーシャルワーカーとして扱ってくれるという思いだけはあったんですよ。それはアメリカでの実習経験が大きくて、ソーシャルワークのソ≠熬mらないでアメリカに行ったんだけど、いきなり実習をさせられたんですね。週に2〜3日、しかも日本だと指導者がそばにつきっきりだけど、向こうでは、いきなりたいへんなケースを受け持たされるんです。とくに、ある女の子はしょっちゅう家出する子で、里親先を探して、家に帰すかどうかについて、僕が関わりながら判断しなくてはいけなかったんです。その子は里親のところも飛び出してしまったので、警察に行ったり、青少年裁判所に行って捜索願いを出したりすると同時に、僕自身がソルトレイク市内を探してまわりました。その子の親戚の家に行ったりね。何も知らないで動いているんだけど、行く先々では、ちゃんとひとりのソーシャルワーカーとして扱ってくれて、そのうち自分でも、なんとなくソーシャルワーカーらしい振る舞いになっていく感じだったんです。
 だから、あらかじめ自分がこうでなくちゃいけないとか思ってたら、僕は所沢でも仕事ができなかったと思います。アメリカでいくつかのケースを担当したとき、相手が自分をソーシャルワーカーにしてくれたという体験があった。その気持ちがあれば、日本でもそんなにずれないでやっていけるんじゃないかと思ってたので、あまり不安じゃなかったんですね。
 でも、最初にその感覚と現実がずれてたら、たぶん続いてなかったと思います。あとになって、そこそこの関係ができて、保護者ともいい関係ができてきたときに、まあ自分の感覚はそんなにずれてなかったかなと、思うようになりました。

須永 そのころはスクールソーシャルワーカーみたいな存在はいなかったから、親の方からすると、むしろ相談できるって感覚があったんですかね?

山下 そうかもしれないですね。しかも、僕はいっさい親を責めるようなことはしなかったからね。

中村 専門職ながら、上から目線じゃない関わり方ですね。

山下 そうですね。

須永 最初は行政から相談員が来るとなると、かなり抵抗感があったんじゃないですか? でも、そこはちがったという……。

山下 家庭を訪問するときは、かならず家庭の了解を得ることが大事ですね。僕は、学校からの依頼だけで動いてはダメだということを前提にしたんです。それでも、何かわけのわからん人を紹介されて来られた、みたいなことはありましたけどね。服装も楽な格好で訪問してました。

須永 ああ、背広を着るとかじゃなくて。

増田 最初からアメリカに行かれて学ばれたのがよかったんですかね?

山下 かもしれませんね。

須永 アメリカの感覚は、また関係性がちょっとちがいますもんね。

山下 ちがいますね。アメリカは対等に関わるでしょう。日本では、こういうものだというかたちがあったら、それにとらわれる。専門家だから、みたいにね。


●子どもの居場所を

須永 そこから本格的に子どもに関わっていくわけですね。その後は、子どもの居場所である「バクの会」の立ち上げにも関わっていかれるわけですね。

山下 スクールソーシャルワーカーを1986年に始めて、ひきこもってる子たちと会っていくうちに、ちょっと元気になってきて、家から出てもいいみたいな感じになってくる子たちもいたんですね。そこで僕は無責任に、「別に悪いことをしてるわけじゃないんだから外に出てもいいんだよ。人から、なんで行ってないのって聞かれたら、今日は休みですって言えばいい」とか言ってたのね。だけど、実際には行くところがなかった。行くところがないのに、どこに行ってもいいよと言うのも少し無責任な話だなと思って、そういう子どもたちが行ける場所があるといいなと思って、1年後の87年にバクの会を始めたんです。
 87年の秋ごろ、地域で子どもたちの勉強会をやっているグループがあって、そこに呼ばれたんです。そこでいろいろ話して、最後に「不登校の子たちのなかに学校以外だったら行ける子たちもいる。そういう場所ができたらいいなと思ってるんですよ」と話したら、その後、バクの会の代表になった滝谷美佐保さんが「実は私たちもそういうことを思ってたんです」と言うので、いっしょに始めることになったんです。

増田 そこがひとつの出会いだったんですね。

山下 それで「いっしょにやりましょう」と言ったら、ちょうど折よく、そのとき参加していた人が「私、塾をやってるんですけど、使ってない日があるのでどうぞ使ってください」とおっしゃってくれたんです。
 何も計画がないのに場所を見に行き、新所沢駅からも近いし、ここは使えるということになって、とりあえず始めちゃおうということで、最初は週1回ぐらいからスタートしました。それが87年の12月でしたね。その後は、教育委員会の仕事とバクの仕事を並行しながらやってました。最初はかなりバクに関わってましたけど、途中からはあんまり行けなかったですね。

須永 最初から、子どもはたくさん来たんですか?

山下 最初は、僕の関わっていた2〜3人が来たぐらいで、「ほかの子たちも来るといいね」って言うくらい、むしろ大人のほうが多かったんです。そこで、あんまり人待ち顔してても楽しそうな雰囲気じゃないから、大人が楽しもうって僕が言って、大人どうしで遊ぶようになって、その雰囲気もあったのか、人が来るようになりました。それで週1日から週2日、3日、4日と、どんどん活動が増えていきました。
 7〜8年後、その場所が使えなくなって困ってたところ、先ほど話した教育委員会に口をきいてくれた友人の父親が不動産屋をやっていて相談に乗ってくれたんですね。分厚い地図を出してきて「ここと、ここと、ここが空いてるけど、どこがいい?」って言われて、それで航空公園駅の近くの40坪ぐらいの空き地を選んだんです。空き地だから自分たちで廃材を集めて建てるかなと思っていたら、「プレハブでいいんだったら建ててあげるよ」と言って、建ててくれたんです。
 その人は市長だったとき、自分が市長としてスクールソーシャルワークのことをあんまり手助けできなかったという気持ちもあったみたいで、側面から応援したい気持ちを持ってくれたようで、ずいぶん助けてもらいました。そこでは、それから3〜4年ぐらい続けました。その後、その土地も売却されてしまったので、また、その方が「じゃあ、ほかのところはどこがいい?」と持ちかけてくれて、所沢駅近くの料亭だった物件を使うようになりました。
 恵まれていたのは、場所代がまったくいらなかったことです。最初の方も、「せめて光熱費だけは受けとってください」と言っても、「絶対いりません」と断られたんですね。その後のふたつは、光熱費は自分たちで払ってたんだけど、場所代がいらなかったのがすごくよかった。スタッフも全員ボランティアで、僕らも会費を払ってたので、費用はとても低くおさえられてました。

須永 会費はいくらだったのですか?

山下 1カ月1家族2000円です。それはスタッフの人件費と場所代がいらないからできていたことですね。

須永 バクの会は、その後、いつまで続けておられたでしょうか?

山下 2010年まで23年間やりました。閉じざるを得なかった理由のひとつは、スタッフの高齢化ですね。僕が一番若いぐらいの感じだったので、みんな60歳を過ぎたころから、家族のいろんな事情が出てきたり、体力の自信がなくなってきたりしてきた。それから、場所代がずっとタダだったんだけど、協力してくださった方の経営していた不動産屋が財政的に厳しくなっちゃって、場所代を払わなくちゃいけなくなっちゃったんです。月額20万円ぐらいで、それはちょっと大変だとなって、会費の値上げも考えたけど、値上げして人が来る目算もないし、2000円でやってきた僕らの思いもあって、やり方を変えるのは本意じゃないから、いったん閉じることにしたんです。
 そのとき、僕は関わってくださった方に「ここで閉じたからといって、すべてゼロになるのではなく、自分たちがやってきたことは、別の場所にきっと引き継がれていくはずだから、終わったと思う必要はないんじゃない」と言いました。実際、バクの会を閉じたあとも、ほかの場所で居場所をやったり、関わったりしてる人たちもいるし、バクもそのなかでいろんな活動があったので、それが別なかたちで続いてたりするので、すべて終わるわけではないと、自分たちをなぐさめながら閉じた感じでしたね。

須永 発展的閉室ですね。


●子どもを傷つけない専門家を

増田 所沢市の教育委員会との関係はいつまでだったのですか。

山下 教育委員会と離れたのは、10年以上やってからでした。離れた理由はふたつあって、ひとつは僕は40歳から始めたので、教育委員会もいろいろ考えてくれて給料をけっこう上げてくれてはいたのだけど、子どもがふたりいて生活が成り立たないこともあって、せっぱつまった気持ちがあったこと。もうひとつは、相談を受けていると、「専門家」に傷つけられた人がすごく多くて、あそこでもここでも傷つけられたとか、ひどいことを言われたという話をたびたび聞いていたんです。楽になりたくて相談した先で、ひどいことを言われて落ち込んで帰ってきている。それではまずいと思ったんですね。そういうことは、人を支える活動につく専門職が一番やってはいけないことだから、そうしないためのメッセージを発していきたいという思いも、強くなってきたんです。それで、これは冗談でよく言ってたんですけど、一番近いのが社会事業大学だったから、「社事大から、そろそろ声がかからないかな」と(笑)。

須永 期待してたんですね?

山下 そうそう。物理的に近かったしね(笑)。また、厚生労働省が関係する大学だから、そこでスクールソーシャルワークをやれば、ちょっとは影響があるかなと、根拠のないことなんだけど、そう思っていて、そうしたら実際に声がかかってきた。

増田 売り込まないで?

山下 そう。でも、つながりはあったんです。スクールソーシャルワークをいっしょにやってきた仲間の友だちが社事大の先生をやっていて、その友だちに少し話をしたことがあったんです。そうしたら、ひとり教員が足りなくなったときに声がかかったんです。

須永 社会福祉学部ですね?

山下 学部ではなくて、社会福祉士を養成する社会事業学校というのがあったんです。そこの教員として社会福祉援助技術を教えることになったんです。すごいタイミングがよかった。でも、面接に行って当時の校長に「うちは給料安いですよ」って言われちゃって、「えー、生活苦しくて仕事変わるんだけど、でも、ほかの先生たちも生活してるから、そんなにひどいことないのかな」と思いつつ、その人は盛んに「うちは安いですから」って言うので、すごく不安でした。

須永 安かったですか?

山下 いや、僕にとっては高かったの。でも、4月に給料明細もらうまで怖かった(笑)。

中村 それまでわからなかったんですか?

山下 そうそう。

増田 聞かなかったんですか?

山下 聞かなかったね。

須永 大学は年俸制のところもありますよね。そういう相談がある場合もあると思いますが。

山下 それが普通だと思います。それで最初に給料の明細書をちらっと開けてみたら、僕からしたら「あれっ、いいじゃん」みたいな……(笑)。

須永 校長からすると、年収1000万円とか1200万円とか、そういうイメージと比べて言ってたんでしょうね。

増田 そのころ、私は山下さんから所沢市からこんな紙切れが来たって見せていただいたことがありました。「あなたを二度と雇いません」みたいな書類でしたけど、あれはなぜだったんでしょう。

山下 社事大に職が決まったとき、まだ中学2年生や小学校6年生の子と関わっていたんです。社事大に行っても、この子たちが卒業するまで、あと1年は関わろうという気持ちがあったんです。最初、所沢市のほうには1年間は並行してやらせてくださいと言っていて、いいという話だったんです。でもなぜか、途中からダメと言い始めて、それはおかしいじゃないかと。それまではケンカひとつしないできたのに、そのときばかりは怒って、所長に文句を言って、所長では埒があかないので教育長に直談判しました。そのときはほんとうにケンカ腰な感じで、僕の関わってきた親御さんたちもすごく怒ってました。親御さんたちが大挙して教育長のところに行って、さらには市長にまで「山下さんを辞めさせるな」と言って、そういうふうになっちゃった。だから教育長としてはトラウマというか頭にきたようです。それで、いちおう1年間はOKだけど、その後は二度と雇いませんというめずらしい辞令が来たんです。それは僕にとっては誇りで、子どもや家族の側に立ってきた証だと思って、いまも大事に取ってあります。


●周囲の評価より子どもの思いを

中村 出会ってきた子どもたちには、どんな子どもたちがいらっしゃったんでしょうか?

山下 プライバシーのことがあるから、そのへんを多少配慮して話すことにしますね。えーっと、たとえば、ある不登校の男の子を家庭訪問するようになって、すごくいろいろ話をして、コミュニケーションも関係も、ものすごくよかったんです。それで、例のごとく「元気になってきたから、表に出て散歩なんかすると気晴らしになっていいよ」みたいな話をしてたんです。それで、近所の公園によく行くようになったら、その公園はたまたまツッパリの子たちの居場所だったのね。その子たちは暴走族だったんだけど、彼らと仲良くなって、そこに入ると言い始めちゃった。それで僕も、率直に「けっこう上下関係が厳しい世界だよ。海外生活が長かった君なんかには絶対合わないと思う。辞めろとは言わないけど、よく考えたほうがいいよ」と言ったんだけど、「でも、俺はいいんだ」って言って、暴走族に入ったんです。
 それまでは家出もしなかったんだけど、家出はするし、髪も染めて派手になるし、特攻服は着るしで、外から見るとひどくなっていく。でも、そういうときも、僕とは会って話をしてるし、僕との関係はよかったと思うんだけど、傍から見ると、あれよあれよという間に変わっていっちゃった。親から見ても学校の先生から見ても、何の効果もないと思われてしまう。僕自身も、この仕事に向いてないんじゃないかと思って、辞めたほうがいいんじゃないかなとも思ったんですよ。

増田 その子は仲間ができてうれしかったんですね。

山下 そうそう。僕はソーシャルワークを始めて4年目ぐらいだったんですが、この子が卒業したら、もう辞めたほうがいいかなと思ってたんです。
 あるとき、その子の顔が腫れてて「どうしたの?」って聞いたら、「族抜けるって言ったら、リンチされちゃった」って言う。僕が「ほーら、言ったとおりじゃん」って笑ったら「山下さん、そんな笑わないでよ」みたいな感じで言われてね。その後、族を抜けて行動も少し落ち着いてきたんだけど、学校にはあまり行かない状態だった。進路もいろいろ相談してたんだけど、本人はどこも選びたくないって感じだったんですね。
 よく失敗例とか成功例を聞かれるけど、誰から見てもはこれは失敗というか、うまくいかなかった事例でしょう。自分の力量のなさだと思いました。
 この子との最後の面接の日に、いちおう中学を卒業したら会うのは終わりということで「ごめんね。おじさん、こうやって君と1年半ぐらいつきあって、いろいろ話もしたし、できたと思ってたけど、君にとって力になれなかった。それはほんとうにごめんなさい」と言って、謝ったのね。そうしたら、その子は「山下さん、そんなこと言わないで。俺は山下さんがいてくれたことで、どんだけ救われてきたかわからないんだよ」って言ってくれて、僕としては、いい意味ですごくショックを受けました。それまで、親の評価や教育委員会の評価は、あまり気にするほうじゃなかったんだけど、ときには、ちらちら頭にチラついて、世間の評価も気にしてたんだけど、その子とのことがきっかけで、とにかく子どもがいいって言えばいいんだと、思いきってやっていこうと思い直して、自分にふんぎりがつくまでは続けようという気持ちになったんです。ですから、その子との出会いはすごく力になっています。いまでも、その子のことは、ときどき思い出しますね。

須永 その子はいま、どうされてるんですか?

山下 親御さんとは年賀状のおつきあいがあるんだけど、本人とはないんですね。かなり早く結婚したみたいです。高校も結局は行かなくて、仕事は何やってるかわかんないけど、親御さんから、元気にやってますという知らせはきてます。


●子どもの声を社会に

須永 山下さんは子どもとじかに接しながら、一方で社会の見方に対してもアプローチされてきましたね。子どもの目線と社会の目線には相当なギャップを感じてこられたのではないかと思うのですが、そのあたりはどのように感じてこられたでしょうか?

山下 僕にとって大学闘争の経験は大きくて、あのころ、学生たちの主張は正しいと思ったんだけど、それが社会を大きく変えるまでにはいたらなかったんだよね。結局は学生どうしの内輪もめで空中分解した。当時の世間の見方は批判的で、若いくせに何を言ってるんだという感じだった。僕自身が大人たちから言われたのも「君は若いからだよ」とか「そのうち年をとればわかるよ」みたいなことだった。それには、すごく不全感があったのね。言ってる内容じゃなくて、年が若いからダメだという感じがあって、ちがうかたちに持っていかれることに、すごく不満があった。
 だから、ツッパリの子どもたちが話題になっていた時代、子どもたちなりに言い分があるはずだとは思ったんです。それは彼らの声を聴かないとダメだよっていう思いがすごくあった。自分が聴かれなかった思いがあるから、僕が子どもたちの話を聴きたいと思った。そして、聴いたことはきちんと大人に届けたかったんだよね。その思いは、いまだに一貫して変わりません。
 ツッパリの子たちだけではなくて不登校の子どもたちの言葉も聴きたかったから、まずは直接会いに行った。そこで子どもたちの声を聴き、そのうえでどうしたらいいかをいっしょに考えていくことが基本なんだと思います。大人のやることや大きいところがやることは、常に当事者のニーズとずれているから、そこを埋め合わせないとならないんだよね。当事者側の声や思いをきちんと聴いて汲みとらないかぎり、何をやってもぴったりくることはないと、ずっと思っています。子どもと関わる大人は、もう少し知恵や洞察を深めていかなくてはいけないと思います。でも、それは当時から現在まで、残念ながらずっと同じだよね。

須永 いま悩んでいる人たちに話を聞くと、基本的に30年前と同じような話が出てきますからね。


●親の会とのつながり

中村 登校拒否を考える全国ネットワークや東京シューレとのつながりは、もうそのころにはあったんですよね? どういうきっかけだったんでしょうか。

山下 一番最初は、僕は不登校のことを何も知らなかったんだけど、途中で東京シューレ代表の奥地圭子さんを知りました。最初は何か怖そうみたいな感じがあったんだけど(笑)、文部省(当時)で、学校不適応対策調査研究協力者会議が開かれてね。

須永 1989年ですね。

山下 その会議でヒアリングがあって、そこに奥地さんと僕が呼ばれたんです。それで奥地さんから連絡があって、「ちょっと打ち合わせしませんか?」というので会ったのが最初でした。それで、僕や奥地さんがヒアリングで話したことが、92年の最終報告「登校拒否はどの児童生徒にも起こり得る」という言葉につながるんだよね。

須永 奥地さんは、山下さんのことをあらかじめ知ってたんでしょうかね。

山下 朝日新聞の夕刊1面トップに「30代まで尾引く登校拒否症」という記事(*2)が出たじゃない。あの記事に対して、同じ朝日新聞の「論壇」に僕が反論を書いたんです(1988年10月24日)。

須永 じゃあ、すでにけっこう発信されていた時期でもあった?

山下 まだ始めたころだろうね。スクールソーシャルワーカーっていう肩書きがめずらしかったから、ちょこちょこメディアに紹介されたりなんかはしてました。

中村 僕が学生のとき、朝日新聞の記事に顔写真が載っていたのを拝見しました。

山下 当時、朝日新聞がよくとりあげてくれて、バックに誰かついてるんですかみたいに言われたこともありました。

中村 そのあたりから、親の会の全国ネットワークにつながったんですね?

山下 朝日新聞の夕刊記事に端を発した、抗議集会が開かれましたね。僕は、一番最初の集会には行ってないんですが、そのあとの会に参加するようになったんです。

須永 90年に登校拒否を考える各地の会ネットワーク(現在の登校拒否・不登校を考える全国ネットワーク)が立ち上がってますね。私は91年秋から東京シューレに通い始めたんですけど、その年の夏、宇都宮で開かれた夏合宿には参加していて、山下さんがゲストで分科会などに参加されていたのを覚えてます。

山下 シューレ関係の行事には、けっこう行ってましたね。

須永 自然に関わりが増えていったんですね。

山下 親の会の全国合宿には、毎回のように行くことになりました。でも、そのことは僕にとって助かったことでもあるんですね。スクールソーシャルワークといっても、当初はたったひとりでやってたんですね。 まわりに少数の理解者はいたけど、不登校に関してはスクールソーシャルワークというよりも、山下英三郎個人としての不登校観みたいなものがあって、親の会の人たちには、そこに共感してもらっていたように思います。その人たちが、僕にとってはとても支えになっていて、大きな力になってました。

須永 山下さんから見て、親の会については、どのように感じておられたのですか?

山下 親御さんたちの話に教えてもらうことがいろいろありました。当事者の声を聴くことが大事だということを含めてね。どちらかというと、僕がみなさんにお世話になった感じがすごくあるんだよね。だって、僕は孤独なソーシャルワーカーで、バックボーンも何もない。そこからつながれたことだから、ありがたかったですね。

増田 それは山下さんのお人柄もあった気がします。

須永 80年代以降、不登校の市民からの動きがいろいろとあったと思いますが、その先で社会が変化したところ、逆に変化していないところは、どのように見ておられますか。

山下 表面的にはずいぶん変わりましたよね。当時は、登校拒否なんて知らない人が多くて「えっ、登校拒否」と引いた感じだったけど、いまは誰に聞いても不登校を知っているし、偏見の度合いも軽くなってるとは思います。
 たとえば、僕は大学で教えていたけども、社事大でも最初のころは、言葉には出さなくとも学校に行かせなくちゃダメだと思ってる学生たちが少なからずいた。まだ根本的なところは変わってないけど、不登校という言葉は社会に広がったかな。発言する人もけっこう増えたし、僕が言っても新しいことはないと思って、この7〜8年ぐらいは、あまり不登校をテーマにした講演はしてません。だけど根本的なところは変わってないから、最近は、その根本的なところでは自分に言えることもあると思うようになって、講演の要望があるかぎりは行かせてもらおうかとも思いはじめてるところです。

増田 大事です。ぜひ。


●問題行動ではないと言うけれど

中村 いまおっしゃった「根本的なところ」とはどういうところですか?

山下 不登校に対する否定的なまなざしですよね。昨年、文科省は「不登校を問題行動と判断してはならない」という通知を出したけど(2016年9月14日「不登校児童生徒への支援の在り方について」)、そもそも、毎年、欠席日数の統計をとっていること自体、基本的には問題視していることでもあるものね。

中村 問題行動じゃないって言ったけれども、実態がまだ変化していないということですね。

山下 僕はそれが本音とはあまり思えないんですよね。本音だったら、欠席日数をカウントしなくてもいいような気もするし。ほんとうに根本的なところを変えられるのかどうか。根本の見方は、社会の影響や経済効率といっしょになったものからきてる。効率主義などから外れるのが不登校だから、そういった基本的な社会構造が変わらないと、なかなか変わらないんだろうなと思いますね。逆に言えば、不登校というのは、そういうところをはらんだ問題だから、僕はすごく大事だと思うし、言葉ではなくて、不登校という行動で違和感を示してることは、非常に意義のあることだと思います。

須永 たとえば90年代には、ある意味では不登校の社会的な認知度が上がっていき、フリースクールも少しずつ知られるようになっていたように思います。しかし2000年ごろには、いろんなところで「バックラッシュ」が言われるようになり、不登校に対しても早期発見・早期対応などの動きがありました。そのころ、山下さんも、雑誌などで対談されたり、いろいろ発信されていたと思います。そのころと現在とのちがいは、何か感じられますでしょうか。

山下 バックラッシュによって、「甘やかすのはいけない」みたいな考え方になったけど、それが効かなくなってきたのが現在じゃないかな。あのころは、学校現場でも無理してでも行かせよう、学校復帰させるための努力をしなくちゃいけないというような空気があったように思います。いまはそうは言ってもヌカにクギみたいなもので、現実がもっと先を行ってる感じはしますね。いま強硬策を出しても「それでどうなの?」みたいな感じになっちゃうんじゃないかなと思います。

須永 それは何が、誰が変わったと思われますか?

山下 やはり子どもたち自身が変えてきてるんじゃないかな。どんな対策をしても、ちゃんと毎年12万人以上が学校を休み続けてることの重さがある。しかも、その子たちはいま、確実に生きてる。ひとりひとりはいろいろ葛藤があったとしても。不登校の数は毎年積み重なってるわけだから、その数の力というのは、無言の、無形のメッセージになってるんじゃないかと思いますね。

増田 国家が考える教育は、絶対に100%の子どもが歓迎するわけはなく、一定数のNOという集団があるということですよね。

山下 そうですね。しかも、フリースクールなどができてきて、すべてが望ましいものとは言えないものの、いろんなバリエーションもできている。以前は学校復帰しかなかったのが、フリースクールに行ってもいいぐらいのところまでは変わってきてる。

増田 もっと深い意味がフリースクールにはあると思うんですけれども、何か浅い理解が進んでるっていう危惧はあるかもしれないですね。

中村 根っこが変わらないで、フリースクールは不登校の子を受けいれる受け皿という認知のみにとどまっている……。

須永 山下さんがおっしゃるように、世の中の空気が変わってきた部分はあると思うのですが、表面的だなと思うのは、とにかく自殺するなとか、ただそれだけを言うような論調もまだ強く、一方では、世の中ではまだまだ「こうすべき」という価値観も根強いですし、自殺するなというのも短絡的なメッセージにとどまっているようにも思うんです。もっと深い問題があるにもかかわらず、なかなか掘り下げられる状況になっていない感覚を覚えています。

山下 やっぱり、芹沢俊介さん(評論家)の話じゃないけど、「する」と「ある」のちがいで、何か「する」をしてないとすごく不安な人たちが多いですよね。そこに人が「ある」ことの意味や捉え方を社会的に共有することは、なかなか難しいのかな……。
 たとえば、不登校したらフリースクールに行きましょうとなるのも、ただ休んで家にいたらダメみたいなことになりかねないですね。存在そのものを肯定するための選択肢ではなく、何か「する」ことの選択肢でしかない。人間のあり方に対する捉え方が、まだ皮相的というか。人間が存在している、「ある」ことの意味まで捉えたうえでの不登校を考えられると、不登校の問題は、そんなに重大視しなくてもすむようになると思いますね。


●協会の立ち上げ

須永 さて、その後、山下さんは日本スクールソーシャルワーク協会を立ち上げられますね。その流れや動きを聞かせていただきたいのですが。

山下 日本スクールソーシャルワーク協会は1999年に設立したんですけが、その前から、勉強会を開いていました。89年か90年ごろからJOJOという名前で月1回東京で開いていたんですね。

須永 JOJOですか?

山下 はい、ローマ字でJOJOと書いて、「じょじょに広げていこう」という思いもあって。その母体は、88年から週1回、朝日カルチャーセンターで開いていたスクールソーシャルワークの講座の受講者たちでした。その方たちのなかで、講座を受けただけで終わらせず、もっと勉強したいという人たちが何人か出てきて、では勉強会を、という話になって月1回、いろんな人を招いて勉強会を始めたんですね。
 その後、まだスクールソーシャルワークは根づいてはいないけど、そろそろ組織的なかたちをつくったほうがいいのでは、という話になったんです。理由は、国際スクールソーシャルワーク会議が、初めてアメリカで開かれたことでした。そこに参加するには個人よりも団体参加がいいという話になって、団体を立ち上げる流れになったんです。そのころ、日本では、まだスクールソーシャルワークがどうなるかは、見通しがまったくつかない状況だったんですけどね。

須永 法人格は取ったんですか?

山下 4〜5年経ってからNPO法人にしましたが、最初は一般の団体でした。わりと細々とやっていたところに、2008年に文科省のスクールソーシャルワーカー活用事業が始まりました。だけど、私たちの協会と文科省の動きとは、あまり直接は関係ないかな。


●急激に動いた行政

須永 文科省はなぜスクールソーシャルワーク活用事業に動いたんですかね?

山下 文科省が率先して進めたわけじゃないんですよね。財務省の当時の担当官が(僕は直接知らないんですが)スクールソーシャルワークに興味を持っていて、これまでの文科省の対策はぜんぜんうまくいってないので、もっとちがったことをしてくれという流れがあって、スクールソーシャルワーク活用事業に、いきなり予算を15億円つけたんです。

須永 じゃあ、財務省側が一気に動いた?

山下 そう。でも、その財務省の担当官は、いろんなところを視察して勉強したみたいですね。文科省も興味がなかったわけじゃなくて、文科省のお役人が僕の研究室を訪ねてきて相談を受けたこともありました。それから、財務省の動きより少し前、2004〜2005年にかけて、文科省が学校と学校外の機関の連携について特別研究をやったんですよ。虐待問題が増え、学校は他機関と連携が非常に弱いので、その課題に対する研究でした。その委員に、僕がたまたま入ったので、スクールソーシャルワークを導入したほうがいいんじゃないかと提言したんですね。文科省の人に実際にスクールソーシャルワークを見てもらうために、いっしょにアメリカに行ったこともあります。シカゴ周辺の学校をいくつか訪ねたり、もうひとつのグループはカナダに行って視察しました。そのまとめの提言で、僕がスクールソーシャルワークの導入の必要性を謳ったんですね。
 その後、財務省の働きかけがあって、2008年に突然導入した。でも、導入するなら僕のところに一言ぐらいあってもいいじゃないかと思って(笑)、文科省に連絡をとってみたんですが、文科省も「実は私たちも予算がついちゃって、困ってるんですよ。何をしていいかわからないので助けてください」という状態でした。
 だから、最初の立ち上げのお手伝いみたいなことはしたんだけど、中心になったのは僕ではなく、スクールソーシャルワークに関係のない人で、家庭裁判所の調査官だったことがある人だったんです。文科省のスクールソーシャルワーク担当の人たちは法務省からの出向なんですよ。そういった関係で、その人が中心的な役割を担うことになったんでしょうね。

須永 もともと流れがちがうんですね。

山下 そう。だから文科省の本流ではないんですよね。最初は15億円も予算がついたから、いろんな自治体から申請を受けつけて、選ぶところで僕もちょっとお手伝いをしたんですが、それ以降はいっさい関わらなかったです。関わりたくなかった。
 その理由は、初年度の15億円で900人ほどをいきなり雇用したんですが、当時、ソーシャルワークを知ってる人はあまりいなかったわけだから、当然めちゃくちゃな雇用の仕方になった。だから心配してたんだけど、2年目にどうなるかと思ったら、今度は文科省が予算をぐっと削減しちゃったんです。最初は100%国の予算だったんだけど、2年目は3割だけで、残りは自治体負担になってしまった。

中村 たった1年間で急変ですね。

山下 そう。評価も何もできない状態で予算を削減したので、2年目は小さい自治体では予算を出せないので、数が減っちゃったんですね。僕は、そのすごくずさんな導入の仕方に腹が立って、関わらなくなった。ただ、いったん予算は減ったけれど、継続しているうちに再び予算が増えてきて、最近では、ことあるたびにスクールソーシャルワークの名前が出てくるようになってきてます。


●数だけ増えても

須永 文科省は今年も増やす前提で概算要求してますね。

山下 でも、それはちょっと困るなと僕は思ってるんです。というのは、僕が大学の教員になったのは、専門家に傷つけられる人がいるので、子どもに寄り添える専門家を育てようと思ったからだったんですが、急激に1万人も増やしたら、ほんとうにどんな人がなっていくかわからないですよね。専門家を導入することで、結局、傷つく子どもたちや親御さんたちが出てくるとしたら、スクールソーシャルワーカーなんていないほうがいいという話になってしまう。活動の質を担保できないかたちでの導入は困るなと思っているわけです。僕たちは、ソーシャルワーカーの倫理綱領(*3)を大事に考えながらやってきたので、そういうものを踏まえないでスクールソーシャルワーカーになる人が増えるのは困りますね。
 もうひとつは、数だけ増やすと有償ボランティア化してしまうおそれがあります。いまでも、退職教員だとか、子どもたちと関わってきた人たちが、こづかい程度の少ない収入で活動をしている。それでは、きちんとした位置づけにならず、むしろ形骸化していくのではないかと思いますね。
 日本にもスクールソーシャルワーカーが導入されたけれども、確立されたとはまったく思っていません。確立するというのは、ひとつの職業としてちゃんと位置づけられることです。それは、それによって生活ができることだと思うので、生活が成り立ちにくいかたちでの導入は、僕の思いとはかけ離れてるなと思っています。

須永 山下さんだけではなくて、山下さんの周辺の方たちも問題を指摘しているのですよね。

山下 スクールソーシャルワーカーには、今の流れに沿いたい人たちが多く入っていて、教育委員会の意向を受けたソーシャルワークというか、そういうことが非常に多いです。いま全国各地で、ソーシャルワーカーが子どもと直接会わないというスタイルが広がっています。なぜそういうことになっているのか、僕にはわからないんですが、ソーシャルワークの理念や方法論とはかけ離れてしまっているんですよね。そんな根本的な問題がすでに起こっています。

須永 根本的に問題がずれてますね。

山下 名古屋市でも常勤職にはしたけれど、元警察官などとチームで動かないとダメなんですね。

中村 そういう意味では、日本スクールソーシャルワーク協会の存在意義がますますあるんじゃないですか?

山下 そうですね。子どもの声を聴くことがほんとうに大事だと、ずっと言い続けながらやってきているのでね。


●子どもの最善の利益とは

須永 協会がメンバーを増やしていく時期と、行政の流れは重なってないんですか?

山下 メンバーはあまり増えてないんです。

須永 何人ぐらいですか?

山下 200人ちょっとぐらいです。増やそうとしてないこともあるんだけど、あまりかたちだけ増やそうとすると、ここに入れば仕事を紹介してもらえるんじゃないかなんて考えで参加する人もいる。そうじゃなくて理念や価値観をしっかり共有できる人たちに入ってほしいという思いもあって、いたずらに増やそうとはしてないんです。一方、初期にカルチャーセンターで講座を受けた方たちは、いまでもメンバーに残ってるんですけど、その人たちは子どもへの視点がまったくぶれないんですよね。

須永 子どもの声を聴くというところから?

山下 そうそう。だから、スクールソーシャルワークをやる人たちには、そういうふうになってほしいかな。僕は今後、研修の場をつくって、子どもに寄り添う目線や考え方を伝えたいと思ってます。人が来るかどうかはわからないんだけど……。

中村 いま、これからスクールソーシャルワーカーになりたい人は、どういうルートをたどっていくのがいいのでしょうか。いまは、従来通りの社会福祉士や精神保健福祉士になっているのかと思いますが。

山下 そうですね。それが本流になっていて、今後もそうでしょうね。

中村 そうすると、子どもの、とくに不登校のことなどをよく理解して養成されているわけではないのではないでしょうか。

山下 不登校のことは、教科書やテキストにちょこっと書いてあるぐらいですね。ただ、僕は倫理綱領や基本的な価値や理念をきちっと踏まえていれば、不登校に応用できると思っています。僕自身、当初は不登校のことをぜんぜん知らなかったけど、子どもの最善の利益を基盤にしたから、大きなズレもなくできたんですね。
 でも恥ずかしながら最初は、不登校の子に「学校に行きたいんでしょ? 行ったほうがいいよ」みたいなことを言ったことがあったんです。でも、その後、学校に戻っても、だんだんと元気がなくなって、これはちょっとちがうな、子どもの最善の利益になってないなと感じたんです。最善の利益というベースがあったから、その後は無理して学校に行くものじゃないという捉え方になったんだと思います。

須永 それは、やはりアメリカで学ばれたのですか?

山下 言葉としてきちんと位置づいたのは、アメリカでのことですね。それまではなんとなくぼんやりとして、いろんなことを考えたりしたけれども、僕がソーシャルワークを勉強してよかったのは、自分がいろいろ考えていたことが整理されたことです。

増田 でも、その前から、山下さんご自身が自分を何かの型にはめようとか、抑え込まないでご自分を大切にされてきたこともあるのでしょうね。

須永 土台がすでにあった。

山下 そうなんですよね。ソーシャルワークを勉強して初めて、自分はこれを勉強したかったんだと感じました。「ちっちゃい目だけど目がきらきらしてる」と自分で感じたりしていました。すごいそれは幸せな瞬間でしたね。

増田 出会うべくして出会ったみたいな。

中村 引き寄せたというか。

須永 出会いを引きつけるってやつですね。

山下 いつも思うんですけど、チャンスは誰にでもいっぱいあるんだけど、それをつかめるかどうかは、その人にかかってるんだと思います。僕の場合は、ソーシャルワークに出会ったのはすごく大きかった。


●不登校は文化をつくってきた

須永 最期に、山下さんから現状について、とくにおっしゃりたいことがあれば。

山下 最近、ひきこもりの活動がわりと活性化してき印象ですね。

須永 ああ、当事者たちの発信ですよね。

山下 そう。あれはいいなと思って。僕は以前からひきこもりや不登校は、ある文化をつくってきたという思いがあるので、一般社会とちがった文化をつくる方向が、ひきこもりにも具体的に見えてきたので、それはとてもいいことだなと思ってます。
 一方、不登校に対しては、変わってきた部分と変わらない部分があるんだけど、これから根本的なところを変えていけるかどうかは、予測がつかないですね。けれども、ある意味では転換点に来ているかもしれませんね。だから、不登校は減らないでほしいなとは思ってます。

須永 (笑)。子どもの数は減ってるので、不登校の数は増えなくても、その割合は増えていくかもしれませんね。

山下 そう。同じ12〜13万人と言っても、以前とは比率がちがいますよね。

須永 ほかにも、山下さんが取り組んでこられた修復的対話のことなど、まだまだたくさんお聞きしたいことがあるんですが、このあたりで終わりにしたいと思います。

須永、中村、増田 どうもありがとうございました。

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*1 横井庄一(よこい・しょういち 1915―1997):太平洋戦争終結から28年目の1972年、アメリカ領グアム島で地元の猟師に発見された残留日本兵として知られる。

*2 登校拒否は早期に治療しないと30代まで尾を引き無気力症になる、カウンセリングだけではなく複数の療法が必要という稲村博さん(精神科医/1935―1996)らの研究グループの見解が朝日新聞(1988年9月16日)夕刊1面に掲載された。

*3 国際ソーシャルワーカー連盟のソーシャルワークの定義にもとづいて、2005年に採択された倫理綱領。
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posted by 不登校新聞社 at 09:04| Comment(0) | 居場所・フリースクール関係
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