2018年01月25日

#31 内田良子さん

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(うちだ・りょうこ)
1942年、朝鮮慶尚南道生まれ。終戦で引き揚げ長野県で育つ。東京女子大学を卒業後、1973年より27年間、佼成病院小児科心理室で心理相談員を務めた。また、1973年から東京都内の複数の保健所でも心理相談員を務め、現在も続けている。1988年から2011年まで23年間、NHKラジオ「子どもと教育電話相談」「子どもの心相談」を担当した。1998年、子ども相談室「モモの部屋」を設立。著書に『カウンセラー良子さんの子育てはなぞとき』『幼い子のくらしとこころQ&A』『登園しぶり 登校しぶり』(いずれもジャパンマシニスト社)など。編著に『子どもたちが語る登校拒否』『親たちが語る登校拒否』(世織書房)。

インタビュー日時:2017 年9月13日
聞き手:山下耕平
場 所:モモの部屋(東京都杉並区)

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〈テキスト本文〉

山下 まずは、ご自身の子ども時代のことからうかがっていきたいと思います。内田さんは、戦前、植民地時代の朝鮮半島でお生まれということでしたね。

内田 現在の韓国の慶尚南道です。父が現地の日本人学校(女学校)の教員をしていたんですね。私は1942年生まれなので、2歳半で終戦を迎えて引き揚げてきました。ですから、当時のことは記憶には残ってません。引き揚げ先は、父の郷里である長野県富士見町立沢でした。八ヶ岳のふもとで、小学校4年生まで住んでいました。

山下 このプロジェクトのインタビューでも、幾人もの方から引き揚げのご苦労の話をうかがっています。ご苦労も多かったのではないでしょうか。

内田 とくに母はたいへんな思いをしたそうです。終戦時、一番上の兄が8歳で、姉が5歳、私が2歳で、おなかには弟がいたんです。しかし、父は戦争の最後の状況のなかで応召されてしまっていた。引き揚げの途中で赤ちゃんを産んでしまったらつれて帰れないだろうし、3人の子どもをつれての引き揚げは困難をきわめると思って、母は駐屯地に無断で入り込んで、父を返してくれと司令部に直訴したそうです。父は帰ることを許されて、いっしょに引き揚げることができたんです。ただ、無事に日本にたどりつくかはわからないので、私のリュックには道中の遊び道具と、途中でひとり旅立つことがあってもさびしくないようにと、おひなさまの小道具を入れてくれていたそうです。


●先生の言うことは信じちゃいけない

山下 学校との関係は、どうだったんでしょう。

内田 1948年に小学校に入学しているので、新制学校になって2年目ですね。兄は教科書に墨を塗っているんですが、私のときは新しい教科書になってました。いわば民主化した学校に入ったわけですが、小学校に入るとき、母は「学校に行っても、先生の言うことを信じちゃいけないよ。先生はまちがえることがある。私たちの時代は、学校の先生の言うことを聞いて戦争したのだから」と言いました。
 母自身、子ども時代に学校が好きじゃなかったみたいなんですね。身体が弱かったのと、医者の娘だったこともあって、家庭教師がついて家で過ごすことが多くて、学校にはあまり行ってなかったようです。家で世界文学や日本文学を読みふける、作家志望の文学少女でした。学校を通して上から教えられたのではなく、本から知識を得て教養を身につけた人でした。だから、いざというときも、自分で考えて、自分で判断して行動できたんだと思います。
 子どもたちにも、「先生の言うことは信じないで、自分で考えなさい」と言っていて、子どもながらに緊張感をもって、先生にだまされないように最初から疑ってかかってました(笑)。よく日本の親は「学校に行ったら先生の言うことをききなさい」と言いますよね。しかし、私の場合は逆だったんです。

山下 とくに当時では、そういう親御さんはめずらしかったでしょうね。内田さんご自身も、あまり学校には行ってなかったそうですね。

内田 しょっちゅう休んでました。家から学校まで、子どもの足で歩いて小1時間もかかって、遠かったということもありました。山の中で、とくに冬は雪が深く寒くてたいへんでした。それと、担任が軍隊帰りの若い先生で、何か気に入らないことがあると、すぐ革のスリッパで子ども全員の頭をたたいていた。私自身は、しょっちゅう休んでいたせいで、あまり記憶にないんですが、それもイヤだったと思うんです。頭が痛い、おなかが痛い、下痢をする、吐くということで、体調不良でしょっちゅう休んでました。のちに病院の心理室で出会った子どもたちといっしょで、私は身体で登校拒否をしていたんだと気づきました。
 それと、当時は食べるものがほんとうになくて、私はやせて食も細く、母は「この子は身体の弱い子だから、20歳まで生きられるかわからない」と思っていたそうです。農村だったので、農家は食べ物がある。だけど、私たちは給与生活者で農協に行って買わないといけない。当時、父は県立高校の教員だったんですが、その給料だけではまかなえませんでした。野菜は庭でつくってましたが、主食の米やしょうゆは買わないといけないですし、食べるに事欠いていた。
 そういう状況だったので、具合が悪いというと、すぐ休ませてくれたんです。無医村だったので、具合が悪いから医者に行くということもない。健康保険制度もまだなかったですし、家で寝て治す時代でした。
 母は弟を背負って山に植林に行ったり野良仕事で、私は日がな家にいて、ひとりでお留守番で、庭で草木や動物と遊んだりしていました。それで、そろそろ行かないとまずいなとか、退屈したなと思うと、ちょっと行ってみてはまた休む。そんな感じでした。

山下 どれくらいの割合、休んでいたんですか?

内田 3分の1から半分ぐらいは休んでいたように思います。子どもながらに、半分以上休んだら進級できないかなと思って、ときどきは行ってました。よかったのは、当時はテストがなかったんですね。印刷にお金もかかるし紙もないから、できなかったんです。ですから、どこまでわかってるかも確認されない。しばらく休んでても、その日の授業は、聞いたらわかる。ですから、自分が遅れているとは、まったく思ってなかったんですね。テストがなかったのは、すごくいい時代だったと思います。

山下 新制学校制度になって10年ほどは、学校もずいぶん牧歌的だったそうですね。

内田 体育や理科の授業でも、河原に遊びに行き砂を持ってきて校庭を整地したり、宿題がイナゴをとってくることで、それを集めて売って教材費にしていました。ほんとうに牧歌的だったと思います。それでも私は学校がきらいだったんですが、いまと比べれば、子どもの居場所たりえたんだと思います。


●ここはニワトリ小屋ですか

山下 子どものころ、言葉でも苦労されたそうですね。

内田 母は東京育ちの江戸っ子で、結婚してからは植民地で暮らしていたので、きれいな標準語でした。わが家の文化は標準語で、方言は使う必要がないというスタンスだったんです。着るものも、村の子どもたちは木綿の着物だったのに、母は、洋服をほどいて私たちの着るものをつくってました。農村文化を尊敬していましたが、わが家は都市型の文化で生活していたもので、学校では「東京っぺみたいで、おかしい」と言われて、いじめられたんですね。
 とくに兄へのいじめはひどかったようで、ランドセルに入れて引き揚げのときに持ち帰った色鉛筆やクレヨンは、ぜんぶ折られて川に流されてました。下校時にいじめで雪に埋められて置いていかれて、あやうく凍死してしまうところだったこともありました。
 母は命にかかわる危険を感じ、PTA総会で校長に抗議したんですが、校長は「ニワトリ小屋に、新しいニワトリを入れたら、つつかれていじめられる。あたりまえのことだ」と言ったそうです。母は怒って「私は子どもを小学校に入れたと思ったんだけど、ここはニワトリ小屋ですか」と抗議したそうです(笑)。当時、村で校長先生さまにたてつく人なんていなかったですから、ほかの親御さんたちも「有賀(内田さんの旧姓)のかあちゃんは、しんのぶい(芯が強い)、その子どもたちをいじめるな」となった。一歩もひかないで抗議したことで、村の空気が変わった。その後、村の選挙に出ないかという話が持ち込まれたりもしましたし、それは大きかったと思います。

山下 内田さん自身へのいじめはどうだったんでしょう?

内田 いじめられて学校はよく休みました。でも、兄が助けてくれたり、母が仁王立ちして子どもを守ってくれたり、家族が一体になって、いじめを跳ね返すという空気があったんですね。ですから、いじめはあっても家族が守ってくれるという安心感が常にあって、学校を休んでも孤立することはありませんでした。

山下 その後、4年生で引っ越されたんですか。

内田 小学校4年生のとき、同じ長野県内の岡谷市に引っ越したんです。岡谷は製糸工場の街で、工場で働く人たちが多かったですね。学校が近くなったこともあって、それからは行くようになりました。学校では、児童会活動も三権分立をお手本にするとか、リベラルな雰囲気があって、発言も自由にできました。
 先生も、代用教員だとか、いろんなタイプの先生がいましたが、小学生から高校生のとき、先生たち自身が労働者として運動していたので、ストライキで授業放棄なんてこともありました。子どもにとっても、授業がない日はすごくうれしかったですね。ちょうど勤評闘争が始まったりして、先生たちが「教え子を戦場に送るな」と言って闘う姿は力強く思いました。

山下 授業以外で学んだことも多いわけですね。

内田 そうですね。いまと比べると、すきまが多かったですね。高校も、旧制中学の流れを汲んだバンカラな校風の学校で、もともとは男子校だったので女子は学年で9人でした。いたずらがすさまじくて、毎日、お弁当を持って動物園に行くような楽しさを感じていました。コンパでは、あたりまえのように酒も飲めばタバコも吸うし、先生も「わかるようにはやるな」という感じでしたが、部室がタバコの火の不始末で燃えてしまったこともありました。大きな意味で、たいがいのことは許されて、疾風怒濤の思春期を経過して、子どもが大人になっていくという文化がありました。

山下 いまと寛容度がちがいますね。時代的に、学生運動の影響もあったんですかね。

内田 1960年に高校3年生だったんですが、高校でも安保反対闘争がありました。毎日、学校で集会を開いて、授業を放棄することもあって、クラス討論したり、全学で討論したりしていました。6月15日に樺美智子さんが国会前で機動隊の弾圧で亡くなったときには、全学集会を開いてデモをすることを決議しました。高校生でデモ行進して全国的に報道されました。教員も抑圧せず「自分たちもいっしょに行進するから、高校生らしいデモをしよう」と言って、いっしょにデモをしました。


●学生運動が問うたこと

山下 大学はどちらに行かれたんでしょう。

内田 東京女子大学で学生寮に入りました。安保闘争のあと、自治会が大学当局により閉鎖されていたので、その再建運動に加わったり、大学でも自然に学生運動に関わるようになりました。しかし60年安保の直後は潮が引いたように運動も低調になって、そのころはデモも人が集まらなかったですね。そんななか自治会を再建して、大学4年生で6000人規模のデモができたときは隔世の感がありました。

山下 大学で、心理学はどのように学ばれていたんでしょう。

内田 それが学生運動に忙しくて、ほとんど授業には出ていなかったんです。卒論は信州人気質をテーマに書いて、教員からは「これは心理学の論文というよりも、文化人類学の論文だね」と言われながらも、学生の書いたものでは一番おもしろかったという評価をもらいました(笑)。学生運動をやって授業に出てない学生は、大学でしかできない社会問題に取り組んでいると評価されていたところもありました。

山下 当時だったら、カール・ロジャーズ(*1)を勉強したとか、そういうことではなかったんですね。

内田 ぜんぜん、まじめには勉強してなかったんですね(笑)。下手に専門教育されず、学生運動で人間的な感性をみがいて相談現場に出たので、登校拒否をする子どもの声が、とてもよく理解できたんだと思います。

山下 大学を卒業されたあとは?

内田 就職氷河期で、4年制大学卒の女子はほとんど就職先がなかったんですが、同じゼミの友人が東大で教育心理学の研究アシスタントの口があると紹介してくれて、事務職の仕事に就きました。1965年から働き始めたんですが、そこで東大闘争が起きたんです。1968年がいちばん活発で、全学授業放棄になって、事務も機能しなくなって、非常に刺激的でした。69年1月18〜19日に安田講堂が落城しますね。当時、私の所属は教育学部だったんですが、本部は安田講堂だったので、職場がなくなって解雇になったんです。
 東大闘争の一部始終を構内で間近に見ていました。仕事が成り立たないですから、いろんな集会に出ては話を聞いてましたし、非常勤職員として闘争にも参加していました。最首悟さん(本プロジェクトインタビュー#03参照)も助手共闘で活動されてましたね。学生も大学院生も、教員も職員も、それぞれが、それぞれの立場で闘っていて、得がたい経験だったと思います。
 全共闘運動は、学問の権威主義を批判していました。私は夫の内田雄造(*2)と東大闘争のなかで出会ったんですが、彼は当時、建築学科の博士課程にいて、学科をあげての闘争のまとめ役もしていました。
 もともと専門家というのは権力に奉仕するものとして教育されますが、それにプロテストして闘ったんですね。学園闘争は多くの市民が支援してくれました。その縁で市民運動と裁判に関わった弁護士から、多くの課題が学生運動で活動した若者たちのもとに持ち込まれました。夫も水俣病調査、日照権運動、国立歩道橋反対運動、狭山事件の鑑定、被差別部落の住環境改善、中越地震の復興計画など、実に多くの運動に参画しました。権力側ではなく市民の側に立って取り組み、そのために専門知識を活かす。学園闘争を経た人たちの多くが、それぞれが学んだ知識や経験をどこでどう活かすか、みずからに問い直し、市民社会でその志を継続していきました。
 夫は都市計画、私は心理でしたが、夫婦でいっしょに関わることも多く、毎晩のように話し合ってました。6年前に亡くなったとき、弔辞は山本義隆さん(元・東大闘争全学共闘会議代表、予備校講師)が読んでくれました。それぞれに東大闘争のあとも、多くの住民運動や市民運動に取り組んできて、常に市民の側に立って、市民とともに闘ってきたんです。


●学校アレルギー

山下 心理相談の仕事を始められたのは、いつのことでしょう。

内田 結婚して子どもが生まれたのが1971年で、子どもが1歳半になったところで仕事の声がかかって、病院と保健所で同時に働き始めました。ですから、1973年からですね。

山下 両方とも、心理相談の仕事だったんでしょうか。

内田 そうです。大学の同期の友人が佼成病院(東京都中野区)の心理室に勤めていました。アレルギーの専門医が子どもの心理の研究をやっていて、その研究のアシストをしていたんです。ぜんそくの子どもたちが病院に来ると、医者は投薬治療をするけれど、どうも心因で発作を起こすこともあるようだということで、心理テストをし、データの収集と分析をしていました。しかし、そこで親の性格や子どもの性格を分析しても、ぜんそく発作はおさまらない。おかしいと友人は思っていて、私に声をかけてきたんです。私が学生運動をやっていたのを知っていたので、心理室を改革するパートナーとして声をかけてくれたのでしょうね。

山下 では、最初から心理テストは問題だという認識だったんですね。

内田 そうです。当時、すでに「心理テストを問う」という問題意識があり、私も自分の得た知識や経験を市民の側に立ってどう活かすかを考えてきたので、子どもの立場に立って、親とともに動いていこうということは、最初の段階からはっきりしていました。

山下 不登校の問題だけではなく、いろんな社会問題を問い返してこられたなかに、不登校のこともあったわけですね。たとえば小沢牧子さんは「心の専門家」として仕事をされていたのが、途中でこれはおかしいと気づいて、心理学を批判されていったわけですが(本プロジェクトインタビュー#04参照)、内田さんの場合は、学んだ知識そのものへの認識転換のようなことはあったんでしょうか。

内田 私はもともと、臨床心理をやりたかったんですが、当時の大学では、臨床心理は特別講座だけだったんです。ですから、とにかく現場に出てから、子どもと親御さんが必要とすることについて、まず話を聴き、泥縄式に文献を批判的に読みながら、自分に何ができるかを問う日々でした。
 心理テストは最初から批判していて、あまりやりませんでした。雇用される際には、ぜんそくの子どもと親に心理テストをしてデータにして報告するという条件だったんですが、採用されてからは、ほとんどやらなかったんです。「テストをするには子どもとの信頼関係が必要で、ラポール(*3)をつくらないといけない。それには時間がかかるので、学会に間に合うようにはデータを出せない」というスタンスでした。
 しかし、心理室の取り組みを見て、小児科医やほかの診療科から、いろんなケースがまわされてくるようになったんです。頭が痛いとか、おなかが痛い、吐き気や発熱などで、検査してもどこも悪くないというケース。あるいは、起立性調節障害、おねしょ、チック、吃音、言葉が遅い、自閉傾向など、医者の守備範囲を超えるケースですね。そこで、ゆっくり、ていねいに子どもと親の話を聴いていたら、いろんなことがわかってきたんです。
 たとえば、ぜんそくの発作も、どういうときに発作が起こるか、強くなるかをきいていくと、入院するとよくなって、退院すると悪くなっている。さらには、学校のある日は発作がひどくなる。アレルギー源にはいろいろあるけど、どうもこれは学校アレルギーじゃないかということが見えてきたんですね。学校を欠席すると調子がいい。だったら、身体に悪い強い発作止めを飲ませて学校へ行かせるより、学校を休んだほうがいいかもしれないですね、という話になる。薬が効かないのに、休むと発作が起きなくなる。この子にとって、学校はどんなところなの? と。

山下 なるほど。

内田 そうやって、心理室に紹介されてきた子どもの話を、1人1時間半以上かけて、ていねいにくわしく聴いていったんです。たとえば、おなかが痛いのはいつからかと聴くと、朝からで、病院に来て、もう学校に行く必要がないとわかったころからは痛みがおさまり大丈夫だと言う。それも毎日ではなくて、月曜日と木曜日とか、曜日が決まっている。時間割を見てみると、体育がある日だとか、症状と学校生活がきれいにリンクしていることがわかってきたんです。体育は学校でいじめの舞台になる時間割ですね。
 あるいは先生が厳しくて、宿題をやってこないと立たされるとか、ひとつ字をまちがえると宿題で原稿用紙1枚書かされるとか、自分はまじめにやっていても、ほかの子が叱られるのを見ているのが、わがことのようにつらいし怖いとか、いつ自分が叱られるかわからなくて四六時中緊張しているストレスから、頭が痛い、おなかが痛い、悪夢を見るという症状になっている。
 子どもに話を聴くときは、最初はお母さんにも同席してもらうんですが、お母さんもびっくりされて「どうして言ってくれなかったの?」と言ったりするんですね。でも、子どもは「ちゃんと言っているよ」と言うんです。お母さんのほうが、先生に怒られるのは、怒られる子に問題があると思っていて、子どもが訴えている中味をちゃんと聴いてなかったりするんです。子どもに話を聴いていくなかで、体調の悪化と教室の出来事が合わせ鏡のように一致することが、次々に実証的にわかってきたんです。

山下 まず、ぜんそくを始めとして、いろいろな症状の子どもたちとの出会いがあって、よく聴いていくと、そこに学校の問題があって、不登校のことも見えてきた、という順番なんですね。

内田 その通りです。受診してくる多くの子は、登校しているけど、登校しぶりの状態でした。長期に学校を休み始めると病院には来ない。「自分は病気じゃない。だから病院には行かない」と主張するようになる。だけど、登校しぶりで体調がつらい状態のときは、子どもも不安だから病院に来る。そこで、身体症状と学校生活との関係をたくさん聴いたんですね。


●心理室閉鎖、全員解雇の危機

山下 そうしたことが見えてきたのは、いつごろからのことだったんでしょう。

内田 73年9月から始めて、ひとたび子どもの症状と学校との関係が見えてくると、雲が晴れるように見えてきました。医者にも理解してくれる人はいたんですが、そういうことを中心にやっていたら、心理室は閉鎖して全員解雇すると言われてしまったんです。
 76年ごろのことですが、そのとき、相談室に相談に来ていた人たちが嘆願書を書いてくれたんです。心理室の相談に行って、子どもの状態が落ち着いて元気になりましたという人がかなりの人数いたので、病院長と佼成会の会長に「親たちは心理室を必要としています。ぜひ心理室を残してください」と声をあげてくれて、閉鎖はとりやめになりました。子どもの側に立って、親とともに活動してきたことが、私たちの危機に際して、助けてくれる関係になっていました。
 その後も3回、心理室のスタッフ解雇などが持ち上がりました。改築のときに心理室が設計図から消えていたり、産休で休む人を解雇しようとしたり、そのたびに交渉して、4人目の院長は「内田が心理室にいるかぎりは心理室に手を出さない」と言ったと病院関係者から聞きました。ただ、相談員はパートタイムの時給制で、待遇改善まではいかなかったです。自分たちも、いつクビになるかわからない不安定な職場で、子どもや親たちと「子どもを孤立させないように、いっしょに考えましょうね」と言って、みんな、わがこととして考え合っていたように思います。
 そうやって子どもたちの話を聴くなかで、登校拒否のことも、学校に行かせて追いつめるのではなく、家を居場所にする必要があるということがわかってきたんです。子どもが学校に行かなくなると、だいたいは教育相談室とか教育機関に行かせられるんだけど、ちっともよくならない。親の育て方が悪い、母原病だとか言われて親も責められる。それではよくならないんですね。当時は、学校に来なかったら卒業させない、進学できない、就職できないと親や子どもが責められ、おどされている時代でした。
 ところが、子どもと親の話をちゃんと聴いて、子どもの症状と学校生活との因果関係をハッキリさせていって、休むことができれば、こじれることはなかった。当事者の子どもと親に、私たちは育てられたんです。
 子どもの年齢や性別はちがっても、追いつめられる状況は共通しているということが見えてきたんですね。そこで、マンツーマンではなく、グループ相談を始めたんです。親御さん側にも、当事者の子どもにも、自分と同じような状況の子どもたちがどんな生活をしているのか、どんなことを考えているか、出会って話をしてみたいという希望がありました。
 私たちは1982年から、土曜会と水曜会という親の会を、いまは「モモの部屋(*4)」にしている、この家で始めました。毎回、20人以上の親御さんが集まって、子どもたちも10人くらい来るようになりました。当時は、中学校を卒業できずに除籍される子もいて、親の会でも、進級・卒業させないと校長から言われ、学校と交渉することがよくありました。いじめや体罰の被害に遭っている子どもが卒業できず、加害者が卒業・進学できるのはおかしいと交渉していくなかで、進級・卒業の権利を勝ちとっていったんです。


●私の師匠

山下 最初のころに出会った登校拒否をしている子どもで、とくに覚えておられる方はいますか?

内田 私の師匠になった人がいます。彼は病院の院長と親が親しい関係で、学校に行かずに家に閉じこもっていると相談があったんです。中学校を除籍されて、夜間中に籍を置いたけれども行かず、家に閉じこもってました。当時16歳ぐらいでしたが、一歩も外に出ず、食べることが好きで体格もよくなっていて、病院長は、糖尿病と精神疾患を疑っていたんです。
 彼は不承不承、相談室に来ました。最初は、心理室長だった詫摩武俊さん(心理学者)が少年に会ったんです。しかし、室長は当時の登校拒否の言説にのっとって「学校に行かないのはわがままだ」と説教したんです。それで室長とは話したくないと、私のところに来た。私が「どうして、ここに来るようになったの?」ときくと、「僕は太っていて、糖尿病が疑われていることと、学校に行ってないからだと思います。中学校は除籍になって、夜間中にも行ってない」と言ってました。「そんなに学校に行きたいの?」ときくと「行きたくない」と言う。それで「行きたくないのに、どうして行こうとするの?」と言ったら、それは目から鱗だったようで、「行かなくてもいいんだ」と驚いてました。
 その後は、内田とだったら話してもいい、家に来てほしいというので、当時は私も忙しくなかったので、彼の家を訪ねることにしたんです。部屋に通してもらうと、カーテンをぜんぶ閉めきって、何か深海にいるような感じでした。彼は無線が好きで、機動隊の無線を傍受して、それを聴かせてくれたりしました。
 彼が学校に行かなくなったのは、担任の体育教師の指導とぶつかったことがきっかけでした。その一部始終を聴かせてくれて、自分が思ってたり感じたことはまちがってなかったんだと思ったようです。それで本屋に行って、立ち読みで見つけた哲学の入門書を買ってきて読み始めた。ソクラテス、アリストテレスに始まって、ヘーゲル、サルトルと実存哲学にたどり着いて、「僕が考えていることがここに書いてある、僕はまちがえてなかった。確信を持った」と言ってました。
 彼は文学や哲学の話をみずから展開していくので、彼との話は楽しかったですね。大学闘争で学生たちが主張をしていたこととほぼ同じことを、彼は自分で獲得し、自分の言葉で話していました。
 私のほうも、まだ経験が浅く、心理室に相談がいろいろ入ってくると、子どもの気持ちがわからないことがあるので、そういうときは彼に相談していました。聡明な少年で、「理論的なことはわからないけど、僕の経験からすると、こう思います」とか「その親御さんがしていることは子どもには合わないと思いますよ」とか、アドバイスしてくれました。彼は私の師匠ですし、私の育ての親のひとりでもあります。
 その後、彼はフロイトなどを読み、大学で心理学を勉強したいと言い始めました。しかしどうやって勉強していいかわからないというので、夫が「僕のわかる範囲はみてやっていいよ」といって、勉強を始めました。いっしょに数学や物理をやっていると、夫は「彼は数学の法則から自分で考えている。力のある子だ」と舌を巻いてました。
 中学校を除籍されていたので、中学校卒業程度認定試験を受け、大検(大学入学資格検定/現在の高校卒業程度認定試験)をパスして、大学の心理科に進学しました。彼を通して、学校に行かなくても、自分の興味関心のあるものが見つかれば、人はやるものだと教えてもらったように思います。


●子どもとの対等な関係

山下 内田さんのお子さんと学校との関係は、どうだったんでしょう。

内田 長男が小学校のときは、この家を民間の学童保育のように開放していて、同学年の子たちが入れ替わり立ち替わり遊びに来て、それなりに楽しくすごしてました。ところが、中学校になって管理教育を心底疑問に思って、中学1年で退学届を出して辞めたんです。本人は、もう行かないということでした。それで、バースデイケーキと同じ大きなケーキを買って、退学祝いをし、門出を祝いました。
 さいわいだったのは、この家では子どもの会と親の会を開いてましたから、ほかの学校に行かない子ども、若者、親御さんの、いろんな話をつぶさに聴くわけです。登校拒否して、その後、どういう展開になるのか。彼も、学校に行かなくても大丈夫と感じとっていたように思います。
 学校のほうは除籍になって、その後、中学校卒業程度認定試験と大検をとりました。それも先輩がいたのがよかったですね。
 それと、私の母がよき理解者となりました。関東大震災で焼け出され、植民地から引き揚げてくる経験をし、人生で2回も無一物になりました。子どもたちに「最後まで身につくものは見たものと聞いたものと食べたものだけだよ」と言って、おいしいものを食べにつれていってくれたり、いまの生活を楽しむ知恵を教えてくれました。

山下 内田さんの家では、お子さんたちは、お父さん、お母さんとは呼んでなかったそうですね。

内田 私と夫が、おたがいに「良さん、雄さん」と呼び合っていたんです。それで、自然と子どもたちも、良さん、雄さんと呼ぶようになって、おたがいに名前で呼んでました。そうすると、親のほうも自然と「やりなさい」といった指示命令形は使わなくて、「お願いだから、これをやってくれる?」となる。基本的に対等な関係だったと思います。親という役割を背負っていると、「親の言うことをききなさい」とか「親に向かって何ですか」とかなりやすい。だけど「良さんの言うことをききなさい」「良さんに向かって何ですか」なんて言ったら、わがまま以外の何ものでもないでしょう(笑)。

山下 呼び方ひとつにも、力関係が入ってしまうわけですね。

内田 おたがいに名前を呼び合う関係は対等で、子どもは何かあれば「いやだ、それはおかしい」とハッキリ言える。こちらも、どう説明しようか真剣に考える。それは、子どもをひとりの人間として尊重することだと思います。


●権力が選んでいる

山下 内田さんは、障害児を普通学校への運動にも関わっておられましたね。

内田 病院に相談に来られていた方で、障害があるけれど地域の普通学級で教育を受け、いっしょに育ちたいと望む親御さんがけっこういらしたんですね。就学時健診を受けるか否かは大きな課題でした。私たちも意見書を出したり、いっしょに運動をしていて、渡辺淳さん(*5)たちと「がっこの会」で活動していました。

山下 1985年に渡辺淳さんが、臨床心理学会で「公教育を見限る」というシンポジウムを開いて大激論になりましたね(本プロジェクトインタビュー#14中島浩籌さん、#04小沢牧子さん参照)。不登校の運動と、障害児を普通学校へという運動は、学校から排除された問題、学校のあり方を問うという点は共通しているけれども、かみあわないところもあったように思います。このシンポジウムには内田さんも参加されて質問されてましたが、そのあたりはどうお考えでしょう。

内田 そうですね。障害がある子には学校に来るなと排除する、学校に傷つき登校を拒否している不登校の子には首に縄をつけてでもつれてこいという、同じ子どもを前にして、すごい差別を感じました。要するに権力が子どもを選んでいるわけです。権力にとって有用な子は首に縄をつけてでもつれてこいと言いながら、地域のなかで、みんなと机を並べていっしょに生活し学びたいという子には来るなという。権力が子どもを選別している。民間の地域病院にいると、両方の子どもが受診してくるので、その矛盾がイヤというほどよく見えるんです。

山下 子どもの側に主体がないという点では同じだということですね。それはわかります。シンポジウムで篠原睦治さん(社会臨床学会運営委員、和光大学名誉教授)は「子どもが共に育つ場としての学校を見限るわけにはいかない」「登校拒否している人も、ひと休みしたら、学校を関係の創造という文脈で意味づけなおして、もう1回学校に行ってほしい」と発言されてました。「公教育を見限る」と言ってしまうと、より権力にとって都合のいい場に学校がなってしまう。不都合とされる子こそがそこでふんばって、学校を生活の足場として闘っていくべきだということだったと思います。それに対して、渡辺淳さんは、学校教育そのものが子どもにとって苦しい場になっているのだから、「内なる学校を見限ろう」と話されていました。この議論は、かたちを変えて、現在にもつながっているように思います。

内田 私は、当時の学会では、登校拒否への理解が不充分で認識が甘いと思いました。どれほど登校拒否の子どもたちが、いじめなどで傷つき、追いつめられているか実態を知らない。病院に来ている子どもたちのなかには、自殺未遂している子が何人もいました。登校圧力がこれ以上加われば、もう生きられないという限界状況を生きている。そこでふんばれというのは、死ねと言うのといっしょだと私は思いました。
 そもそも、誰のためにふんばるのか。子ども自身は「学校へは行かない」とふんばって抵抗しているわけです。子どもを中心に考えれば、学校のためにふんばるべき状況ではない。私の出会った子どもたちは、存在をかけて登校を拒否し、学校をボイコットしているのに、と思いました。

山下 たとえ、それが良心的なものであっても、子ども自身の思いと、親や周囲の大人の思いはすれちがう場合も多いですね。そこで子どもの側に立てるかどうかが問われる。内田さんは、親の相談を受けながらも、子どもの側に立ってきたということですね。

内田 その通りです。たとえば、親の会でも、家庭内暴力など子どもの行動を理解できないという話が出ます。そのとき、警察を呼んだり、子どもを精神科につれていったり、薬を飲ませる前に、「ちょっと待ってほしい」と言ってきました。子どもが理由なくいきなり暴力をふるうことはないんです。かならず怒りを誘発する背景があって、言葉にできない怒りが対抗暴力として出てきている。「暴力が出る前に、どういうことがありましたか?」ときいていくと、親御さんは自覚なく、子どもの立場からすると絶対に許せんということを言ったりやったりしているんです。そこで、子どもの側に立って話を整理すると、そこに気づかれたり、その親御さん自身がすぐに気づかなくても、まわりで聴いている親御さんが気づいていく。家庭内暴力は、入院させて薬を飲ませてもおさまらない。むしろ、そこにいたるいきさつや背景に親が気づいて、気をつけることで、家庭で暴力をふるう必要がなくなっていく。モモの部屋は、前身の親と当事者の会から数えて36年になりますが、回数を重ねていくことで、子どもの立場に立った見方を共有できる、成熟した大人の会になってきました。そういう意味では、親の会の力はすごいと思います。


●親も「被告席」にいた

山下 80年代ごろは、登校圧力が厳しかった反面、問題意識もクリアだったように思います。これはおかしいと親御さんも気づいて、親の会が広がり、居場所が広がり、状況を変えていこうという運動が起きた。しかし、2000年代以降になると、問題の所在が見えにくくなってきて、発達障害など、再び専門家に判断される問題になって、問題が個人化されているようにも思います。いまの時代の苦しさは、どこにあるとお考えでしょうか。

内田 たとえば、1983年に文部省(当時)が出した手引き書「生徒の健全育成をめぐる諸問題:登校拒否問題を中心に」では、登校拒否は子どもの性格の問題や親の育て方の問題になってました。その時代は、いわば子どもも親も「被告席」にいたわけです。ですから、親は子どもの側に立って、子どもをかばいながら、真剣にみずからを問うたし、学校相手にも問うていた。真剣勝負だったんです。親は、かならず子どもの側にいたんです。
 ある母親は「そんなに親の育て方が悪いと言うなら、私のおなかの中にもどしてほしい。そうしたら育て直すから」と言って怒りましたが、それほど母親はまわりから責め立てられ、追いつめられていました。
 親も追いつめられるなかで、子どもを学校につれていこうと悪戦苦闘するわけですが、子どもは柱にしがみついたり、部屋にバリケードを築いたりして、テコでも動かない。そういう子どもの抵抗に出会って、これほどまでに抵抗するのは、子どもがワガママなのではない、親の育て方の問題でもないと、当時の親は気づいていった。そういう意味では、親は子どもの話を聴けていたんだと思います。ですから、そのころの相談では、子どもがなぜ学校に行かなくなったかについて、親が説明できたんです。
 ところが、1992年に最終報告が出された「登校拒否(不登校)問題について」(学校不適応対策調査研究協力者会議)では、「登校拒否はどの児童生徒にも起こり得る」という見解が示されましたね。それまでは、学校は高圧的に、首に縄をつけてでも子どもをつれてこさせるほかに策がなかったんです。それでも、子どもは抵抗して学校に来ない。そこに、親の会が育ってきて、問題意識を共有して、居場所の取り組みも広がってきた。しかし、92年の報告以降は、親の会のノウハウを教育行政が取り込んだんです。学校や相談機関のなかに、学校にもどす親の会をつくり、親はそちらに行くように導かれました。抵抗する子どもを学校に無理に行かせるのは問題という登校拒否を考える市民の会には行くな、という流れになった。

山下 92年の報告以降は、適応指導教室なんかもできましたね。

内田 そうです。教育行政の開いている親の会では、どうしても、いかに子どもを学校にもどすかという話になるんですね。私たち市民がつくる親の会では、子どもが学校を休むことを受けいれ、本音で語って涙を流して笑って帰る。でも、教育行政の親の会では、あれが悪い、これが悪いと指摘されて、どよーんと涙を流して暗くなって帰ってくる。さらに、学校にはスクールカウンセラーが配置されて、学校のなかに相談室がつくられて、教育行政の学校にもどす親の会が勧められる。そうやって、換骨奪胎されて、相談のルートがつくられてしまった。いわば、親の会は塗り替えられてしまったわけです。登校拒否を考える市民の親の会にも、新しい親は来るけれども、大きな流れとしては教育行政の学校にもどす親の会のほうに流されていって、その結果、学校復帰が強まったということがあるように思います。
 当時、各地の親の会では、子どもの居場所としてフリースペースをつくっていましたね。家にいることが受けいれられて家が居場所になると、子どもは落ち着いてきて、だんだん退屈して、不登校して家にいる子と出会いたい、遊びたいと言ってくる。そこで、子どもが集まって楽しくすごせる場所が必要となったわけですね。子どもは「勉強したい」なんて言ってないですから、子どもの居場所はフリースペースです。フリースクールとは言ってませんでした。子どもたちは、同じような経験をした仲間と出会って、フリースペースでひとときを過ごして、それぞれの興味関心をもったところに巣立っていった。子どもが巣立つと空の巣になって、親の会の役割が変わってきます。

山下 どこの親の会でも、世代交代が難しいということはあるようですしね。

内田 わが子たちが巣立っていって一山すぎたあと、ひきつづき会を続けていくかどうかというとき、新しい親は参加しても、学校復帰の圧力にあせっていて、「ゆっくり子どもを休ませよう」と言っても、そんなに待てないということがありますね。そこで医療機関や教育行政の親の会に流されていく。
 それから、適応指導教室などの中間教室や教育相談室ができたことで、保健室登校が変わってきましたね。保健室に長期滞在するのはダメだと言われるようになった。文部省(当時)が「登校拒否はどの子にも起こり得る」「学校に心の居場所をつくる」と言った90年代初めは、保健室は「心の居場所」で、養護教諭の先生たちは学校に行かない子や教室に入れない子を保健室で受けいれていたんです。保健室に来る子たちの担任は、得てして体罰や懲罰をふるっていたり問題のあることが多くて、保健室はいわば駆け込み寺だった。しかし、いまの若い養護教諭は「保健室で長期間受けいれてはいけない」と指導されてます。上の世代の養護教諭たちも、最近は「無理に学校に来なくてもいい、休んでもいい、無理するな」と保健室登校する子どもたちに言えなくなったと嘆いています。それで子どもが適応指導教室に行くか、教室にもどるように仕向けられるわけですね。


●専門家は権力に奉仕する

山下 90年代半ば以降からは、中学校にスクールカウンセラーも配置されてきましたね。内田さんも心理の仕事をされているわけですが、スクールカウンセラーについては、どのように捉えてますでしょう。カウンセリングへの批判的な見方として、学校状況や社会状況よりも子どもの心理の問題にしてしまうということがあるように思いますが。

内田 専門家というのは、子どもの立場に立つか学校の立場に立つか、どちらの立場に立つかが問われるわけです。もともと、専門家というのは権力に奉仕するよう教育されるものです。とくにスクールカウンセラーは、増え続ける不登校の子どもを学校に戻すために養成されてきたわけです。
 また、相談室では「プライバシーは守られます」と言っておきながら、本人の知らないところで、そこで聴いた話は担任に報告され、ケース会議に報告されるわけです。カウンセラーのモラルである守秘義務を最初から逸脱しているとも言えます。

山下 カウンセラーは、そもそも権力に奉仕するものだというのは、手厳しいですね。

内田 カウンセラーだけではなく、専門家はそういう宿命を負っていると思います。誰のために何をしているのかをみずからに問い直す緊張感を常に持っているかが問われます。

山下 それは、東大闘争で問われたところでもあったわけですね。

内田 そうです。しかし、最近はみずからを問う流れが弱まってきているので、どの分野でも専門家は体制に奉仕することがあたりまえになってしまってます。私たちは「心理テストを問う」ところからスタートしましたが、養成された臨床心理士の人たちは、疑うこともなく「発達テスト」や「知能テスト」をして、子どもという人間存在に点数をつけて分類しています。スクールソーシャルワーカーも、行政が導入するようになってから、多くの人が教育行政の側に立って活動するようになってしまったと、山下英三郎さんが指摘されてますね(本プロジェクトインタビュー#30参照)。


●休むこと、選ぶこと

山下 内田さんは、不登校で一番大事なのは休む権利が保障されることだと、ずっと言ってこられましたね。それは、その通りだと思うのですが、一方で、フリースクールやオルタナティブ教育などの活動からは、多様な学びのあり方が制度として認められて、選択肢が広がることが大事だということも言われてきました。教育機会確保法(*6)をめぐっては、そこがねじれた論議になってしまったようにも思います。あらためて、よく考えたいところだと思うのですが、そのあたりはどうお考えでしょう。

内田 不登校というのは1年間に連続または断続で30日以上学校を休むことですね。たかが30日休んで何が悪いと思います。長年、病院や保健所、全国各地の親の会で、たくさんの親や子どもの話を聴いてきてわかったのは、子どもは学校で深く傷つき、これ以上は無理だというところから休み始めているということです。つまり、休養回復が必要な状態にある。それを休ませないようにするのが不登校対策で、休めない子どもは、まるで教育奴隷の状態です。子どもに必要なのは、人間として学校を休む権利がきちんと保障されることです。子どもにとって、学校に行くことは権利であって義務ではないわけですから。

山下 休むことは、学校に行かなくなった子たちにとってだけではなくて、むしろ行っている子にこそ必要なことですよね。無理して行っている状態は苦しい。堂々と休んでもいいんだというのは、すべての子にとって必要な認識だと思います。

内田 労働者には年間20日の有給休暇制度があるし、いざとなれば辞めることもできる。そういう権利は大人にすら認められているのだから、ましてや心身ともに未成熟な成長過程にある子どもには必要です。傷つけられた子どもに休まずに学校に来いというのはクレージーです。
 教育機会確保法には「個々の不登校児童生徒の休養の必要性」という文言が入りましたが、立法チームの議論のなかでは、すべての子どもに休む権利を認めるとサボりも認めてしまうことになると言う議員もいて、条文上、休養の必要性が認められたのは不登校児童生徒のみとなりました。また、すでに休んでいる子に認められるのは、国連子どもの権利条約をひくまでもなく、人道的にも当然で、それを法律でわざわざ書く日本の子どもの無権利状態は深刻です。
 あの法律ができれば自殺する子は少なくなるという推進派の主張もありましたが、文科省の調査では、自殺した小中高生の数は2016年度は前年度から29人増えて244人にのぼります(「児童生徒の問題行動・不登校等生徒指導上の諸課題に関する調査」)。警察庁の発表では2016年で320人で、こちらのほうが実態を反映していると思います。子どもの自殺が多発する夏休み明けに、今年もフリースクール関係者からは「学校から逃げてもいい、フリースクールもあるよ」といったメッセージがマスメディアを通して発せられてました。みずから命を絶っていく子どもたちは、学校を休めていません。義務教育を「登校義務」とすり込まれ、心の手足を縛られている子どもたちに、逃走者のように「逃げてもいい」と言っても、伝わらないでしょう。マスメディアが注目して発信する機会に、「あなたたち子どもは学校を休む権利を持っている」と、なぜ真正面から正々堂々と伝えてあげないのでしょうか。
 学校を休む権利があるというのは、子どもだけではなく、親も教員も認識する必要があります。ほんとうは休むことは何の問題もないし、子どもには休む権利があるのに、実際には、出席日数が足りなくなるだの、進級・卒業・進学にかかわるだのとおどして、本来の権利を子どもに明示してないわけです。そこが一番の問題です。
 「死ぬほどつらいんだったら逃げてもいい」と言う識者もいますが、それは子どもに酷です。いま学校へ行っている子どもたちも、「死ぬほどつらくなければ、学校は逃げられないところ」と思うでしょう。一見やさしいようで、少しもやさしくない、理解がないと私は思います。

山下 しかし、フリースクールなどから主張されているのは、そこまで追いつめられる前に、もっと多様な選択肢が必要だということですね。そこまで追いつめられない制度にするには、多様な制度が必要ということだと思います。私は、それも不登校を対象としたために議論がおかしくなったのだと思っていますが、多様な教育制度の必要性と、休むことの必要性は、文脈がちがうけれども、現象としては「不登校」に重なっている。そこで議論がねじれているように思います。

内田 私も、オルタナティブ教育は選択肢のひとつとして必要だと思います。しかし、不登校の子が登校圧力から逃れるための居場所を「フリースクール」と言って学校教育法の枠組みのなかで法制化しようとするから、オルタナティブ教育の本質がゆがみ、教育再生実行会議などに政治的に利用されていくのだと思います。すべての子にとって休む権利が保障されたうえで、学びを選ぶ自由が保障されるべきだと言うならわかります。

山下 仮にフリースクールやオルタナティブ教育で学んでいたとしても、休むことは必要ですよね。あるいは、フリースクールがイヤになっちゃうことだってある。フリースクールと不登校は、重なる部分もあるけれども、重ならない部分も大きいですね。

内田 そうですね。それと、すべての子どもにとっての「学ぶ権利の保障」を考えるとき、貧困の問題がありますね。相談の現場では、すべての経済階層に不登校の子どもがいますが、一方には、貧困にならざるを得ない家庭状況を生きる子どもの現実もあります。それは子どもの責任ではないのはもちろん、親の責任だとも言えない。経済構造の問題で、社会の問題です。そういう子どもたちに、ひとしく教育を受ける機会を保障するために、公教育そのものが問われています。
 貧困家庭の子どもたちは「学校に来ている」と保健室にいる養護教員は言います。「学校には食べ物があるから」と。しかし、学校に来ていて、つらい。いじめやスクールカーストがあり、学力テストや高校受験にシフトする教室から、落ちこぼされていく。そういう子たちにこそ、人間的な安心して学べる学校が必要です。もっとも経済的に恵まれない子たちが、何も持たなくても差別されたり、いじめられることなく学校に行ける、教育を受けられる、給食を食べられる。生活の場として、学びの場として子どもと等身大の学校を再生していくことが最優先に取り組むべき課題だと思います。貧困や障害のある子にとってやさしい学校は、すべての子どもにとってやさしい学校になります。次々に不登校する子どもが生まれる疲弊した学校の現状を変えることが最優先課題で、それに先んじて不登校特例校や不登校の子のための教育施設をつくり、民間参入を認め、フリースクールに財政支援をという話ではないと思います。しかも、あの法律ではフリースクールなどへの公的支出はないですから、お金のある人が私教育を買えばいいということになっていく。くわえて、教育の民営化の問題もありますね。そちらに舵を切っていく安倍内閣の教育再生実行会議に加担している危険性もある。


●家庭の学校化

山下 ホームエデュケーションについては、どうお考えでしょう。ここも、よく考えないといけないところだと思います。直訳すれば家庭教育になるわけですね。子どもが学校に行かなくなったとき、家が居場所や逃げ場、シェルターとなってきたところに、そこが「教育」の場になってしまったら、子どもにとっては逃げ場を失う危険性もあるように思います。2005年、文科省が自宅でのITなどを活用した学習を学校での出席扱いにすることに決めた際、内田さんは本紙論説(175号/2005年8月1日)で、それは「適応指導教室の家庭上陸作戦」であり「文字通りの家庭の学校化」だと書かれていました。

内田 「学校」と聞いただけで耳をふさぐ不登校の子どもにとって、フリースクールも「スクール」で、ホームエデュケーションも「エデュケーション」です。教育の機会の確保を急ぐと、子どもの居場所である家庭という私的領域を学校化してしまうように思います。つまり、子どもの生活の文化や育ち全体を教育によってコントロールすることになる。私は、不登校で家にいる子どもをホームエデュケーションだとくくることで、不安に陥っている家庭が学校化することを危惧します。学校で傷ついて人間不信になったり、集団が怖くなった子には、学校的なものや教育的なものから離れて、何より安全な居場所で休養し回復することが必要です。そのとき、家は居場所であることが第一義で、子どもが求めているのはエデュケーションではありません。
 子どもを信頼し、尊重できれば、子どもは、いつでもどこでも何からでも学び育つ。そういう子どもたちの力を信頼することが大事です。でも、その以前に、傷ついているときにはシェルターが必要です。野生動物は、傷ついたときには回復するまで巣穴ですごして、回復すれば出ていく。そういう意味で、居場所は安心・安全を保障される場でなければいけません。そこで傷を回復しエネルギーをチャージできる場、学校に行かないことを否定されず、自分を否定されることなく、人間として生きられる場が家庭です。もちろん、不登校に対する地域や社会の誤解や偏見をなくしていく取り組みも急がれます。
 文科省の調査(小・中学校に通っていない義務教育段階の子供が通う民間の団体・施設に関する調査/2015)では、フリースクールに通っている小中学生の人数は4200人でした。しかし、同じ年の不登校児童生徒数は12万6000人ですから、不登校している子どものうち、フリースクールに通っているのは3・5%で、ごく一部です。それ以外の家にいる子をホームエデュケーションとくくるのは無理があります。また、フリースクールは都市部に偏ってますし、そういう場所がひとつもない地域のほうが多い。フリースクールへの経済的支援や教育の機会を保障するための法律は、多くの家庭にいる不登校の子どもたちの必要とはくいちがってますし、かえって追いつめてしまう危険性もある。成立した法律は、フリースクール法案から不登校対策法に変わっていて、不登校運動をともに闘ってきた長い歴史を持つ各地の親の会などからも、たくさんの反対意見があり、法案反対署名は1万1449筆も集まりました。法案をめぐる議論のなかで、全国ネットワークを離れた親の会がいくつもあります。私も、この法律にはずっと反対してきました。


●ボイコットでありプロテスト

山下 仮に多様な教育制度ができたとしても、それは親が望んでいるのか、子ども本人が望んでいるのか、周囲の大人が望んでいるのか、よく考えないといけないところですよね。現実問題として、フリースクールなどが制度として認められて幾ばくかの財政支援がついたとしても、通うにはお金がかかる。そのお金を出すのは親で、親の意向に反して子どもが選択することはできない。しかし、休むというのは、親がどう言おうと身体がノーサインを示して、親の意志に反してでも休みますね。選ぶこととはちがう問題だと思います。

内田 子どもが登校を拒否し、不登校をするのは、いじめや体罰、管理や競争に対するボイコットであり、プロテストなんです。どんなに大人が登校を働きかけても抵抗する、子どもの存在をかけた闘いです。それを受けとめることが必要なのに、最近は抵抗する子がいると、それを大人が発達障害や病気の問題にしてしまう。

山下 一方には、才能のある子どもをすくいとろうという視線がありますね。下村博文衆議院議員は、文科大臣当時、「不登校の子どものなかにはアインシュタインやエジソンのような逸材が眠っているかもしれず、そうしたダイヤモンドの原石≠磨く機会をつくり出していく」と言って、フリースクール支援を打ち出したわけです。有用な人と無用な人を分けるまなざしで、向こうが選ぼうとしている。それは楽観的に見てはいけないところだと思います。

内田 国家にとって有用な人材を発掘するという発想は、子どもをひとりの人間としてではなく、人材としてしか見ていないということです。ますます差別・選別が進んでいくわけです。ひとりひとりの子どもが望む幸せなど眼中にない利用主義的な発想で、ことを進めていったら、足下をすくわれるでしょうね。
 教育機会確保法は、国家の教育戦略の大きな枠組みのなかにある、ジグソーパズルの1ピースです。推進派はそこを見ずに、いい法律だ、不充分でも一歩前進だと言っていますが、不登校をした子どもたちや保護者、教職員など、現場の声を充分に聴くことなく、つくられた法律は、子どもの最善の利益のためではなく、フリースクールへの支援に傾斜していると思います。

山下 この法律をめぐって、いろいろ意見が対立したわけですが、私はもう一度、考え合っていく対話が必要のように思っています。そのためには対立したところをタブー視するのではなく、論点をきちんと出していく必要があるように思います。このインタビューも、そういう対話につながっていくとよいのですが……。


●子ども扱いせずに聴く

山下 内田さんは、子どもの声を聴いてこられるなかで、休むことの重要性を訴えてこられたわけですが、それは、そもそもアレルギーや身体症状から子どもの声を聴いてこられたことも大きいのかなと思います。言葉で語られることではなく、言葉以前の身体の反応に耳を傾けてこられた。あるいは、登園しぶりなど学齢期に入る前の子の声を聴いてこられた。

内田 不登校になるはるか以前に、多くの子は「学校へ行きたくない」と言っています。それが無視されると、身体の具合が悪いという訴えが出ます。いつ症状が出たのか、そのとき家や学校はどういう状況になっていたのか、具体的に聴いていくと、そこから子どもたちは言葉でもちゃんと事実を語るんですね。宿題をやっていかないと校庭を走らされるとか、夜、眠っていると先生がどなっている声が聞こえてきて心臓がバクバクして寝られないとか、何が起こっているかを語ってくれる。でも、それを自分から親や先生に言えないでいたりする。まずは、そういう事実をしっかり聴くことのできる関係を築くことですね。
 そうすると、学校で何が起こっているか、手に取るようにわかるように話してくれます。あるお母さんは、「うちの子は学校に行っているときは子どものふりをしてました。小4で行かなくなってから、立派に育った人間の姿が立ちあらわれました」と言ってました。まわりの大人に必要なのは、相手を子どもとしてではなく、ひとりの人間として尊重し、話を聴くということなんだと思います。ところが学校ではとことん子ども扱いして、子どもの言い分(主張)をとりあげません。

山下 どうせ子どもの言うことだからと思っていると、相手の言っていることを聴いているようで聴いてないことになってしまうのでしょうね。

内田 子どもだから言葉で表現できないからプレイセラピーで卓球でもしましょうなどと、カウンセラーは誤解しています。でも、ちゃんと聴けば、子どもは実にしっかり話すんです。「学校のことをちゃんと聴いてくれたのは内田さんが初めてだ」とよく言われましたが、それだけ、ちゃんと聴いてもらえる機会が少ないんだと思います。


●学校に行かなくても大丈夫とは

山下 ちゃんと聴けば、ちゃんと語ってくれて、きちんと休むことができれば、自分で立ち上がっていく力を持てる。それはその通りだと思うのですが、一方で、子ども・若者を取り巻く社会状況は厳しさを増してますね。「学校に行かなくても大丈夫」ということ自体はまちがってないとしても、いまは学校に行ってようが行ってまいが、大丈夫とは言いがたい社会状況があるようにも思います。そうしたなかで、どこに立って大丈夫と言えるのか、問い直されているように思います。

内田 何をもって大丈夫なのか、ですよね。小・中学生の子どもが連続的であれ断続的であれ年間30日欠席することの何がそんなに心配なのか? 不登校を問題化する以前の社会は、子どもたちはもっと休んでいたけれど、問題視されなかったから大丈夫だったのです。不登校は、つくられた問題です。
 登校拒否したり、ひきこもって家にいる子どもたちは、よく「親や大人は将来が心配と言うけど、将来なんか生きていないかもしれない」と言いますよね。「いま生きることがたいへんなんだ」と。だから、「いまをこれ以上、踏みつけないでほしい」と言っている。将来のことを心配するのは、いつも大人ですよね。大人が安心したい。だったら、大人は、むしろ自分たちの将来を心配したほうがいい。この不確かな時代、自分自身が安心してやっていけなかったら、子どものことも保障できないわけですからね。

山下 逆説的に言えば、いまの社会が大丈夫じゃなくなってきているからこそ、もう1回、親も子も「被告席」に立って、同じ側からいっしょに考えられるチャンスなのかもしれないですね。何ごとも、問題になっているところからこそ、見えてくるものがあったり、考えていくことができるのだとも思います。

内田 「親が死んだら子どもはどうするんだ」と言う人もいますが、私は「大丈夫です」と言ってます。何人も親と死別した当事者の人がいますが、親の心配を安心させたり期待に応える必要がなくなって、自分の「いま」を生きられるようになっています。むしろ、子どもの「いま」が否定されることのほうが心配です。心配するということは、いまのあなたではダメというメッセージを送り続けることです。そういうまなざしに取り囲まれているから子どもは身動きがとれない。そこに気づいてほしいと思います。
 子どもの「いま」を否定するのは、親自身が「いま」を生きられていないからなんでしょうね。そういう意味では、親自身の生き方も問われていると思います。


●発達障害という「色メガネ」

山下 発達障害については、どうお考えでしょうか。日本では2000年代以降、発達障害に分類される子どもが急増してきましたね。

内田 私は保健所でも乳幼児の子育て相談を45年近くやってきてますが、2004年に発達障害者支援法ができたあたりから、乳幼児健診の現場にも発達障害の情報がわっと降りてきました。幼稚園や保育園の管理職を集めて発達障害の研修を受けさせて、研修から帰ってきた先生たちは「色メガネ」をかけるようになって、あの子もこの子も発達障害だと言い出す。一方で保育経験の長いベテランの人たちは、子どもをラベリングすることに、すごく違和感をもっていたんです。しかし、その世代がリタイアしていって、一方で情報がどんどん入ってくるなかで、いまや現場は発達障害一色ですね。言葉の遅れだとか、ちょっとした成長の個人差の問題でも、発達障害にされてしまう。子どもの成長過程の一時期のエピソードが発達障害の特徴と読み替えられてしまう。そこで何が起こったかというと、親がわが子の成長を喜べなくなった、ということです。多くの親御さんが、わが子の成長を疑いの目で見るようになった。よその子と比較して、うちの子は大丈夫かしらって、すごく不安になってますよね。

山下 親も、その「色メガネ」で見るようになってしまっているわけですね。

内田 ネットの普及もあって、情報も多いですしね。たとえば、児童館でおもちゃをとった子がいれば、「あの子はADHDじゃないか」、逆に、ひとりでおもちゃで遊んでいると「あの子は自閉症じゃないか」。元気がいいとADHD、おとなしくマイペースで遊んでいると自閉症スペクトラム。どっちにしても、子どもの成長過程であたりまえに起きることを、そういう目で見てしまう。「正常」の感覚が、ものすごく狭くなったと思います。
 専門家が親に「小学校に入って集団行動がとれない、ほかの子に迷惑をかける」からと、早期に療育を勧めています。管理的小学校に適応できる子をつくれと言っているのです。

山下 不登校でも発達障害でも、早期発見・早期対応が言われてますね。いわゆる専門職の人と話をしていると、アセスメント(見立て)を重視するあまり、はなから分類しようとしているように感じることもあります。とにかく要領よく手際よく、短時間で情報収集して振り分けることが仕事のように思っている。しかし、子どもの声を聴くというのは、言葉にできない思いや身体反応なども含めて、それを受けとめるということのようにも思います。それがないままに水路づけられてしまうのは、子どもにとって苦しいように思います。

内田 それが専門家の仕事だと誤解しているんですね。専門職の存在証明みたいになっていて、3歳くらいの子どもに診断テストをして親を不安にし、数字で子どもの人生の可能性を狭めている場合があります。

山下 安易に分類することは問題だと思いますが、一方で、発達障害が脳機能障害だとされたことで、親が自分の育て方やしつけの問題から解放された、「被告席」から外れることができたという面もありますね。

内田 親だけでなく、先生も外れたんです。ひところは学級崩壊が問題になって、先生がみずからの学級運営を謙虚に問う時期があった。しかし、発達障害がクローズアップされるようになって、学校も先生も問われなくなりました。先生も親も悪くない。
 先生の指示に従わず反抗する子どもは、ADHDかもしれないと精神科医に紹介される。スクールカウンセラーやスクールソーシャルワーカーが、その役割を果たす場合が多くなってますね。担任が保護者に言うと関係がこじれるから、スクールカウンセラーが言う。専門家が言うと有無を言わせない説得力がある。そういう専門家信仰の流れがあります。そして、結局は子どもの脳の機能障害の問題ということになってしまっているわけです。

山下 そうすると、薬が入ってくることとつながってくるわけですね。

内田 薬の濫用は大きな問題ですね。ADHDではコンサータやストラテラが処方されてますが、いずれも中枢神経を刺激する薬で、いわば「覚醒剤」です。それが広汎に子どもに使われている。自閉症スペクトラムの子どもには統合失調系の薬が使われていたりもします。大人の精神科の薬を治験をしないで子どもに処方しているという問題もあります。SSRIなど抗うつ剤の濫用もありますし、そこには製薬会社の経営戦略もあると思います。薬には習慣性、依存性がありますし、医者が処方するから大丈夫と信じて疑わない親が多くいますが、飲むのは子ども、薬害を引き受けるのも子どもです。むやみに信頼していると危ないです。

山下 そういう意味では「専門家」の責任は重いですね。薬はダイレクトに心身に影響するだけに、大きな問題ですね。

内田 おそろしいほど、簡単に子どもに薬が使われています。多くの人が「医者が飲むように言ったから」と疑問を持ちません。これから子どもたちが起こす、さまざまな社会的な事件の背景に、そのあたりの問題がからんで出てくるのではないかと危惧しています。

山下 薬は、離脱症状の問題もありますから、医者の判断抜きに辞めるのは危険ですし、私たちも、おかしいなと思うことがあっても、自分たちの判断だけで安易にものを言えません。医者が医療の世界で闘わないといけないのでしょうけど、そういうお医者さんは少数派ですね……。

内田 学校信仰のあるところに専門家信仰、医療信仰がありますね。市民がその「信仰」から、どう目覚めるか。親が登校拒否をする子どもと悪戦苦闘して学校信仰から目覚め、学校と教育を疑うようになった道筋の延長線上に、多くの問題が残っています。専門的言葉、科学や医学の言葉で説明されると、疑うことなく信用し、考えることを放棄してしまう。そういう意味では、知識を暗記させ、テストで評価して考える力と時間を奪ってきた学校教育の弊害は大きいですね。

山下 内田さんのお母さんが「先生の言うことは信じちゃいけない」とおっしゃっていたように、自分の頭で考えないといけないですね。今日は長時間、ありがとうございました。

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*1 カール・ロジャーズ(1902〜1987):アメリカの臨床心理学者。来談者中心療法の創始者。

*2 内田雄造(うちだ・ゆうぞう/1942―2011):都市計画家、都市計画の教育者。東洋大学教授、国立歴史民俗博物館プロジェクト研究員、国際東アジア研究センター主任研究員などを務めた。

*3 ラポール:臨床心理学の用語で、セラピストとクライエントとあいだに、相互を信頼し合い、安心して自由に振る舞ったり感情の交流を行える関係が成立している状態を表す語。

*4 モモの部屋:東京都杉並区で1998年から内田さんが開いている子ども相談室。

*5 渡部淳(わたなべ・あつし/1935―):国立小児病院(現在の国立成育医療研究センター)に心理職として勤務。自閉症児のデイケアを行なうなかで「自閉症」というラベルを貼り、子どもを「治療」することに疑問を覚え、1971年に「がっこの会」を結成。日本での「どの子も地域の学校へ」運動の先駆者のひとり。

*6 教育機会確保法:2015年5月、超党派の議員連盟により提案され、フリースクールや夜間中学校など多様な場が教育機会として認められると期待された一方、かえって不登校の子が追いつめられると反対や慎重論の声もあり、大幅に変更された案が2016年の通常国会に上程され、2016年12月に可決・成立した。
posted by 不登校新聞社 at 16:27| Comment(0) | 心理関係
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