2018年02月06日

#32 山口由美子さん

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(やまぐち・ゆみこ)
1949 年佐賀県生まれ。3 人の子どもの母親。2000 年5 月、西鉄バスジャック事件に遭遇し、全身10 ヵ所以上も斬りつけられ、重傷を負わされた。事件で亡くなられた塚本達子さんとは、塚本さんの主宰していた幼児室を通しての知り合いであり、事件当日は、塚本さんといっしょにコンサートに行く途中だった。山口さんは、事件後、佐賀市内で親の会「ほっとケーキ」や子どもの居場所「ハッピービバーク」の活動を始め、現在も続けている。2015 年3 月、九州大学大学院統合新領域学府ユーザー感性学修士課程修了。

インタビュー日時:2016 年10月29日
聞き手:奥地圭子、山口幸子、木村砂織
場 所:飲食店(福岡市)
写真撮影:木村砂織
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〈テキスト本文〉

●いじめからの不登校

奥地 今日はよろしくお願いします。山口さんのお子さんの不登校はいつからですか?

山口 最初は1995年で、娘が小学校5年生のときに行きしぶり、6年生のときに1カ月だけ行けなくなったことがありました。中学校はほとんど行きませんでした。でも、小学校のときは先生と話し合いをして、クラスの雰囲気が変わったこともあり、学校にもどれたんですね。

奥地 小学校5年生までは何ごともなく通えていたのか、それとも何か悩みながら通っていたのか、そのあたりはどうだったんでしょう。

山口 それまで、とくに変わったことはなかったです。5年生のときに担任の先生が産休に入って、臨時採用の先生になったんですが、その先生に娘は気に入られたようで、そのためにクラス全員から、いやな感じに思われていたようです。本人も非常に困っていました。よく放課後に「お手伝いしてくれ」と頼まれて、私には「早く帰りたいのに」と言っていました。先生とクラスの子の関係が悪くて、そのクラスは学級崩壊状態でした。

奥地 それがもとで?

山口 そう、子どもたちの先生に対する抗議ですかね。その臨時採用の先生は12月までだったので、その後2カ月間はベテランの先生をつけてくださったんです。そうしたらクラスのようすが変わって、落ち着いてきました。

奥地 やり方が上手だったってこと?

山口 そうそう。その後、3月に産休をとっていた担任の先生がもどってこられたんですね。その先生は子どもが大好きな先生で、子どもたちがイキイキと変わっていったんです。6年生も持ち上がる予定だったので「よかったね」と話していたら、始業式の日、娘が「先生の替わったとんさった」と言って、しょんぼりして帰ってきました。私が、あわててて先生に電話したら、「実はまた妊娠したので、6年生の担任は降ろされてしまいました」と返事がありました。そこで「おめでとうございます」って言うしかなくて……。それで、新しい担任を迎えたんですが、またクラスが荒れ出したんです。5年生で不登校になりそうになったとき、クラスの役員の方に相談していたこともあり、6年生は私がPTAの役員をしますと言って、引き受けていたんです。

奥地 何とかしようと思って?

山口 そうですね。保護者会を開いたら、親たちも子どもから「授業がいっちょんおもしろなか(いっこうにおもしろくない)」と聞いていて、クラスが荒れていることは知っていました。そうこうしているうちに、娘が「行きたくない」って言うので、「もう行かんでいいよ」と言いました。私は、ほかの親たちとも先生ともつながっていたので、安心して休ませることができました。
 休み始めてからは、昼夜逆転あり何でもありで、行きたいところには、私の時間の許すかぎり自由に連れて行ってました。担任の先生もときどき来てくださったんですが、娘に「先生が来られたけど、どうする?」と聞いて、「今日は会いたくない」と言うときは、お断りするようにしていました。そのうち、「会ってもいいよ」と本人が言ってからは、先生と会うようになって、その際に「そろそろ学校に来てみたら?」と言われて学校に行き始めました。そのとき、「私は、いじめられてて、心が針みたいに細くなっていた。でも、もう太ったから大丈夫」と言って登校し、「学校って、楽しいところだったんだね」とも言っていました。以前とちがって、学校やクラスの雰囲気が変わっていたんですね。

奥地 それは何月ぐらいのことですか?

山口 2学期の9月ごろだったと思います。

奥地 なるほど。中学校は、そこの小学校の子が行くところだったんですか?

山口 そうです。ふたつの小学校の生徒が混ざるところです。中学校は最初から、「行きたくないな〜」って言ってました。「制服いやだな〜。校則もいっぱいあるみたいだな〜」って言いながら学校に行って、学級委員になって帰ってきたんです。入学式の日に委員を決めるんですが、生徒がみんな下を向いて黙っているので、娘は「早く帰りたいから、もう決めてきたよ」って言っていました。

奥地 ある種、合理的ですね(笑)。

山口 でも、ほかに、やりたい子がいたようなんですね。それでまた、そんな子からいじめが始まって、そのようすを見て不登校になった男の子がふたりいたようです。それぐらい、たいへんだったというのは、あとで知ったんですが。


●小学校のときは「いいよ」と言えても

奥地 いじめられている期間、お子さんは登校していたのですね。

山口 娘は、学校に行きながら「行きたくない」と言っていました。私は、小学校のときは「いいよ」って言えたんですが、中学校ではそう言えませんでした。高校受験もあるし、中学になってまで甘えなくても、みたいな親としての気持ちがあって、受けいれられなかったんですね。

奥地 学級委員の子が不登校っていうのは、やっぱりちょっと平気じゃないよね。

山口 行かないのをそのまんまにはしていたんですが、心の中では「いつになったら、ちゃんと行くの」っていう気持ちでいましたから、中学のときは、家庭が居場所になっていなかったと思います。

奥地 先生はどうされたんですか?

山口 若い先生で、「お母さんの育て方がまちがっていたんじゃないんですか」と言われたりして、自分でも責めているのに、さらに追い打ちをかけられてつらかったですね。

奥地 1994年11月に愛知県西尾市で、大河内清輝くんがいじめを苦に自殺する事件が起きて、大きく報道されてましたね。その際、大河内くんのお母さんが「こんなことになるなら、登校拒否しなさいって言えばよかった」と記者会見で話されていたのですが、そういう話は覚えてますか?

山口 よくおぼえていませんね。私自身、テレビも見られない状況でしたし、見ていても頭に入ってなかったのかもしれません。自分の目の前のことで、いっぱいいっぱいでした。

奥地 1992年に文部省(当時)が「登校拒否はどの児童生徒にも起こりうる」という通知を出して、しばらく経っているわけですが、先生はぜんぜんわかっていなかったのですね。

山口 そういう話は、先生たちには入ってなかったでしょうね。

奥地 上がいいことを決めても、現場にはなかなか届かないということがありますね。親にも、ほんとうには学校へ行ってほしいって気持ちがあったとすると、お子さんは相当つらかったでしょうね。お子さんはどうやって過ごしていたんですか?

山口 ほとんどゲームです。あとは、自分の部屋にこもって絵を描いたり、何かやってたと思いますが。そのころ、学校から相談に来ませんかという案内が届き、知り合いのカウンセラーだったので、相談に出かけました。その先生は「山口さん、学校ってここだけじゃないよね」と言ってくださったんです。そこで小学校のときに取り寄せていた、自由の森学園の資料を見て、ここに見学に行こうってことになりました。

奥地 お子さんもそういう気持ちはあったの?

山口 おそらく、そうだったと思います。学校に行ってないと、いつでも旅行に行けるねと言いつつ、楽しそうに計画していたので、下の小学生の息子もいっしょに行きたいと言ったので、学校を休ませてつれていきました。それで、自由の森学園の副校長先生のお話を聞いて、「私たちの生きてきた時代と、ちがう時代を子どもたちは生きていくんだ」と言われて、非常に心に残りました。帰り際に子どもに「どう思った?」って聞いたら、「あの学校はおもしろそうだったけど、私はまだ家族といっしょに暮らしたい」と。しっかりしているんですよ、うちの子(笑)。

奥地 どういういじめだったか話してくれましたか?

山口 教室を歩いていたら、机のあいだから足を出してひっかけられたりとか、消しゴムが飛んできたりとか、ほかにもいろいろあったんだと思います。

奥地 毎日毎日、それだと気が休まらないですよね。

山口 そうだったと思います。私自身も子どもがつらい思いをしているのを見るのがつらいんですよね。そんなとき、スクールカウンセラーの先生が、「適応指導教室がありますよ、行ってみませんか」と言われるので、行ってみたところ、そこがとてもよかったんです。子どもが来ることを、すごく喜んでくださる先生がいらっしゃって、娘も喜んで通いました。ちょっと遠い山のほうだったので、最初は車で送り迎えしていたんですが、しばらくすると、ひとりでバスで行ったり、自転車で行ったりしていました。友だちも何人かそこでできました。ただ、やはり適応指導教室なので、「学校にも行こうね」っていうところはありましたね。

奥地 そのためにつくられているからね。やっぱり、そういう声がかかったんですか?

山口 そうですね。それで娘は学校へも行ってました。そうしたら、ほかの子たちが、教室にたまに来る娘のようす子を見に来たりして、「おまえ、何しに来た」とか「おまえなんか帰れ」とかいう子どもたちも何人かいたようです。学校に来づらい生徒のための教室も用意されていましたが、その窓をどんどんと叩いて、いやがらせをされたこともあったようです。担任の先生も、ときどき来てくださったようですけど、うちの娘は来てほしくなくて逃げまわっていたようです。

奥地 どのあたりで気持ちが変わってきたのでしょうか?

山口 どうだったんでしょうね……。西鉄バスジャック事件に遭って、精神科のお医者さんから、「あの子にも居場所があればよかったね」という言葉を聞いたとき、ああ、娘には居場所があったんだ。だからなんとか、折り合いつけながら生きてこれたんだ。あの少年は居場所がなかったから、生きづらかったんだってことに初めて気づいたんです。

奥地 中学卒業のとき、進路はどうされたんですか?

山口 中学のとき、「私は勉強は大きらい、学校もきらいだから就職する」と言っていました。ただ親としては、せめて高校は出てほしいという思いがまだ捨てきれなくて、夫が娘といっしょに、いろんな高校を見てまわってくれました。そうしたら、福岡に定時制と通信制をひとまとめにした公立の高校があったんです。そこを見に行ったら、茶髪の子はいるし、制服はないし、図書館は充実しているというので、「ここだったら行けるかもしれない」と言って、そこからやっと受験勉強を始めました。
 塾にもちょこっと行きましたけど、みんなと合わせるのはイヤだったようで、塾はやめて、自分で過去問をやったり、英語だけ家庭教師の先生に家に来てもらって、遊ぶ感じで勉強してましたね。

奥地 その高校は合格したんですか?

山口 いや、自己推薦と普通試験の両方あって、どっちも落ちたんです。

奥地 そのころは、不登校だと、かなり不利だったからですかね。

山口 それもあると思いますけど、福岡県立の高校だったのに、佐賀県から受けていたからダメだったんでしょうね。娘は「佐賀の定時制でもいいから受ける」と言ってましたが、佐賀市内の高校には行きたくなかったんですね。いじめられてた、みじめな自分の姿を見てきた子たちとはいたくないと言ってました。それで、鳥栖市の高校を受けようとしたんですが、県立高校の1次試験を受けてない子は、2次試験を受けられなかったんです。県の教育委員会まで行って、事情を説明したんですが、やっぱりダメでした(でも、次の年からはOKになりましたので、行った意味はあったなと思います)。
 それでもう1回、福岡に住所を移して、福岡の別の定時制高校を受験したんです。夫が福岡で働いていたので、夫のもとにいっしょに住むことにして。そうしたら、なんとか合格できたんです。

奥地 1年遅れで入ったということですか?

山口 いや、遅れずにギリギリで合格できたんです。そのときの娘の喜びようと言ったらなかったですね。ただ、私たちには、ほんとうに失礼なことなんですが、差別意識というか、「定時制ねえ」っていう気持ちがありました。いとこが定時制高校へ行って、県の上級職まで上がっていて、「すごいな」とか思ってはいたんです。でも、自分の子どものこととなると、ちがっていて……。人間って怖いですね。でも、娘がそうやって喜んでくれて、学ぶ気持ちと学ぶ場さえあればいいんだって、思いをあらためることができました。娘の不登校から、こちらが学ぶことが、ほんとうにたくさんあったんですよね。

奥地 そのころの山口さんのお仕事は?

山口 ずっと、洋裁を教えたり、仕立てたりしていました。

奥地 そうですか。そうすると、家で仕事しながらお子さんを送り出していたんですね。西鉄バスジャック事件が起きたのは2000年でしたよね。ちょうど、娘さんが高校生になられたころだったわけですか。

山口 高校2年生のときですね。



●塚本達子さんとの出会い

奥地 いっしょにバスに同乗していて、事件で亡くなられた塚本達子先生との出会いは、どういういきさつだったんでしょう。

山口 長男が4歳、娘が2歳のときで、その下に産まれたばかりの子もいて、私も3人の子どもを抱えてたいへんだったんですね。それで、自分の両親と同居したんです。でも、うちの母はとても頑固でわがままな母親なもので、親との関係もたいへんで……。

奥地 親との同居があり、3人のちっちゃい子がいて、仕事もあって、てんやわんやですね。

山口 そのときは、そういうもんだと思って暮らしていたんですけどね。4歳の子がそろそろ幼稚園だなと思って見ていたら、ぐずぐずして、ちっともはっきりしないので、「この子は幼稚園に入れて大丈夫かな」って不安になってきました。そこで以前に読んだ、塚本達子さんの新聞記事を頼りに、会いに行ったんです。
 塚本さんは、28年間、小学校の先生をされてたんですが、『ひと』(*1)という雑誌の購読者で、「いまの学校教育はまちがっている。子どもの個性をまったく無視しているし、学校をやめるしかない。そして子どもが学校に入る前の親と向き合わないと、親も学校の成績しか見えてない」と思って、北九州にあるモンテッソーリの教員養成所に、毎朝4時ごろ起きて佐賀から通われたそうです。その後、佐賀で幼児教室を主宰していらっしゃいました。

奥地 佐賀で開かれたってこと?

山口 はい。その記事を読んで、おもしろい人がいると思って切り抜いてたんです。私は子どもをちゃんと育てなければいけないと思ってがんばっていて、そういう期待から塚本先生に会いに行ったんですが、塚本先生からは「子どもは自分で育つ力を持って生まれてくるんだから、大人、親は援助するだけでいいんですよ」って言われたんです。私は最初、それがわからなくて、不消化で、「何これ?」と思いながら通っていました。

奥地 でも、その後もずっとおつきあいがあったんですよね。バスジャックの事件の日は、なぜ、いっしょにおられたんですか。

山口 幼児教室ですから、ふつうは子どもが小学校に入る時点で行かなくなるんですが、私が塚本さんのお話を聞きたくて、ときどき「先生、空いてる?」って声をかけて、会いに行ってたんです。もうお友だちのようになっていて、その日は、塚本さんから「大阪フィルのコンサートがあるから行かない?」と誘われて、初めていっしょに出かけたんです。塚本さんはリウマチで手足が少し不自由だったんですね。当初はJRで行こうとおっしゃっていたんですけど、ある日、「バスにしよう」って塚本さんから言われて、バスに変更したんです。しかも、約束の日、5月3日の夜は博多どんたくの初日なので、道路が混んで遅れるとイヤだから予定よりひとつ前のバスにしようと連絡がありました。偶然なんですが、念入りに決められてたみたいにも思えますよね。先生は、常々、いまの学校や子どもたちの状況はひどくなるばかりで、こんな片田舎にいて何をどうしたらいいんだろうって、嘆いていらしたんですよ。だから、あの事件で、子どもたちの状況を知らしめたいっていう思いがあったのかなって……。


●西鉄バスジャック事件

奥地 事件から時間が経ち、あまり事件のことを知らない人もいるかもしれませんので、バスジャック事件について、あらためてお話しいただけますでしょうか。

山口 2000年5月3日11時59分発、佐賀駅バスセンターを出て福岡天神まで行くバスが、17歳の少年によって乗っ取られて、4人が重軽傷を負って、ひとりが死亡した事件です。

奥地 どうして乗客が死傷するにいたったのか、その経緯をお願いします。

山口 まず、バスの中の状況を話しますと、五月晴れのいい天気で、塚本さんとバスに乗り込んで、高速道路に入ったところで、一番前に座ってた少年が突然立ち上がって、大きい包丁を振りかざして「このバスを乗っ取った。荷物を置いて後ろに行け」と言ったんです。でも、最初は私は本気にしなかったんです。ぜんぜん、すごみがなかったものですから。なんでだろうと思いながら、みなさん後ろに下がられたので、私も塚本さんといっしょに後ろに下がりました。私たちの前に、ひとり旅の少女が乗ってたんですね。お父さんが佐賀駅バスセンターで、「天神についたら、おばあちゃんが待ってるからね」って言ってらっしゃったから、ああ、ひとり旅なんだなとわかってたので、後ろに下がるとき、その子に「後ろにいっしょに行こう」って声をかけたんですけど、少年が「この子は前においておけ」って言ったので、しかたなく、その子だけ置いて、私たちは後ろに下がりました。通路側が危ないと思って、塚本さんを窓側にして、私が通路側に座ったんです。リウマチだったので、前のほうに座ってたんです。ですから、後ろに下がっても前のほうでした。
 だけど、ひとりだけ居眠りをして、少年の言葉に気づかず、後ろに下がってない乗客がいたんです。それに気づいたとき、少年が「お前は俺の言うことを聞いてない」と言って逆上したんです。そのとき、いつも彼は、こうやって言うことを聞かされてきたんだろうなと思いました。それで、その方が後ろに下がられたとたん、少年がその方の首を刺したんです。
 そこで、本気だったんだって初めて気づきましたが、「本気で人を殺したいと思って生きている子はいない」という確信が自分のなかにあったので、「いま、少年は自分の本来の心ではなくて、追いつめられた状況なんだな」って感じたんです。それで、「気」の勉強をしてたので、少年に気を送りました。少年に「本来の心に戻ってほしい」という気持ちを込めて。少年がこっちを向いたらシートの陰に隠れたりしながら、どこか冷静だったんです。
 しばらくして、運転手さんが「トイレ休憩も必要じゃないか」って声をかけてくださり、少年も「うん、そうだな。駐車場でない道路の路肩に止めろ」と言って、バスが停まったんです。運転手さんは緊急電話のところに停めてくださったようです。カーテンが閉められたので、そのときはわからなかったんですけど。
 それで、ひとりの方が降りられて、緊急電話をかけたようです。そのようすを見ておかしいと思ったのか、高速道路を走ってる車がバスの前に何台か停まり始めました。少年はそれを見てあわてて、持っていた包丁を運転手さんに向けて「あいつは裏切った。バスを早く出せ」とくり返し、バスが出発するのを確認すると、私のところに来て、「あいつは裏切った。連帯責任です」と言って、私が斬られました。

奥地 連帯責任で教育された経験があるのかもしれないですね。

山口 おそらくそうだと思います。私も、この連帯責任って言葉が大きらいなんですけど、中学の先生ってよく使いますよね。少年も、それで傷ついてきたことがあるんだと思います。それで、私が斬られて……。


●殺人者にするわけにはいかないと思って

奥地 斬られたときは、気を失ったんですか?

山口 いや、気は失ってませんでした。顔を斬られたんで、あわてて顔を両手でおおったら、両手も斬られて、後頭部も斬られました。そのまま通路に転がり落ちて通路に座り込み、まわりは自分の流した血でいっぱいになったんですけど、倒れちゃいけないって無意識に思ったんですね。だから傷の浅かった右手で体を支えて、左手は無意識にひじ掛けの上に置いて、手と頭を心臓より高い位置に支えながら、ずっと座り続けていたんです。あのとき、倒れていたら死んでいたと思います。塚本さんは倒れてて失血死だったんです。私は、「彼を殺人者にするわけにいかない」って、なぜかそんな思いが湧いてきて、逆にそれが自分の命を守っていたんだと思います。でも、ふうっと意識がなくなって、よく臨死体験の人たちが気持ちよく光のほうに吸い寄せられていくと言いますが、まさしくそんな感じで、「ああ、このまま死んでしまうんだなあ」と、意外と軽く、そう思ってもいました。死ぬ瞬間って、ほんとうに気持ちよくなるんですね。すうっと眠りに入っていくような感じでした。

奥地 痛みは感じなかったんですか?

山口 真新しい包丁だったせいか、痛くなかったんです。むしろ、いまのほうが痛いです。傷は、ずっと痛みます。何時間も放置されてから縫い合わされたからでしょうかね。でもね、歳をとったら、いろいろあるからいいかな、と。思いを変えないと、そればっかり思っててもしょうがないですからね。

奥地 塚本先生は、どういうことだったんでしょう。

山口 私が斬られたあとに、窓からふたり、乗客が逃げられたんですよ。それをきっかけに、2回刺されたようでした。

奥地 2回ですか……。

山口 そのときは、私はすでに意識が遠のいていたので知らなかったんですが……。塚本先生がイスに倒れているのにふっと気づいて「起きてほしい」と思ったんですが、自分の体も動かなかったですしね。
 その後、私が通路に座り込んでいるのがジャマだったのか、少年から「ジャマだからどけ」と言われ、私はほかの乗客に足下まで引き入れてもらいました。そのときはホッとしました。目の前にいたら、いつまた刺されるかわからなかったですからね。そのまま、意識がなくなったり、ちょっと戻ったりしていました。

奥地 何時間くらい経って救出されたんでしょう?

山口 私がいつごろ斬られたのかは定かでないですが、斬られてから4〜5時間は経っていたと思います。
 それで、少年は、私を引き入れてくれた方に、「次、誰かが逃げたらおまえを刺す」と言いました。そうしたら、その方といっしょにいた女性の方が、友だちが刺されたらいやだと思って「見張りに立たせてください」と言って、立ってくれました。見張りがいてくれて、彼も楽になったんでしょうね。少年は、その女性に「何かほしいものがあるか」と聞いたそうです。それで、飲み物や食べ物、毛布や簡易トイレがほしいと言ったら、少年は警察に電話して、入れてもらったそうなんですね。それは最近、その女性と会うチャンスがあって知りました。「そんなことがあったのね。でも、なんであなたは見張りに立てたの?」ってきいたら、事件ものの本が好きで、いろいろ読んでたんだそうです。だから、彼に寄り添えたということだったようです。
 その後、ようやく広島でバスが停められて、「ケガ人だけでも出してくれ」という警察の要望に対して、少年は「ピストルに弾を1発いれて持ってこい」と要求したそうです。警察はピストルは渡せないということをていねいに説明されたみたいで、それはあきらめて、要求を防弾チョッキに変えたんですね。それで防弾チョッキが渡されたんですが、「これは偽物だから本物を持ってこい」と言って、警察が本部まで取りに行かれ、かなりの時間待たされたので、少年もイライラしていたんだと思うんです。見張りに立ってくれていた女性が「ケガ人のおるけん、はよう防弾チョッキ持ってきて!」って叫んでくれたんですね。そのとき少年は「おい、あんたんごという人好いと(僕はあなたのように言う人が好きです)」と言っていたそうです。
 そういう会話もあって、やっと防弾チョッキが手渡されて、これで助け出されると思ったんですが、最後に少年が「こいつしぶといな、殺してやろうか」って私に言ったんですね。そのときも、見張りに立ってくれた女性が「もうよかやんね」って言ってくれたので、少年は気持ちをおさめてくれました。それで、少年の指示で窓から、ほかの乗客に抱えてもらいながら出してもらいました。

奥地 それで救急車で運ばれたんですか。

山口 そうです。刺された私たち3人はね。ほかの乗客は、次のインターで、SATという警察の特殊部隊が入って救出されました。

奥地 その後は入院しているわけですよね。なんで少年は、そんなことをするんだろうって思われてきたのではないですか。

山口 入院したころは、ただ自分の体がたいへんだっただけで、少年のこととかは、ぜんぜん考えてなかったですね。

奥地 どのぐらいで退院されたんですか?

山口 1カ月、広島で入院していました。病院の先生も看護師さんもすごくよい方で、患者のための病院みたいな感じでした。リハビリも、よかったらここでしてくれないかって言われたんですけど、佐賀に帰りたいと思って、1カ月で佐賀に帰ってきました。

奥地 でも、ほんとうに命が助かってよかったですね。

山口 自分のためはどうでもいいんですけど、家族のため、子どもたちのためにはね。次男は高校に入学したばかりだったんですよね。「お母さんがあのとき刺されて死んどったら、俺があいつを刺しに行った」って言ってました。だから、被害者遺族の人が加害者の人を殺したいという気持ちも、わかるんですけどね。


●少年の背景は

奥地 少年について私たちが知っているのは、報道を通してのことなんですが、ざっと整理すると、あの少年は不登校の時期があっていじめられていた。そして高校に入って、またいじめられるんだけれども、不安から何か武器になるものを集めていたということでした。それがお母さんは不安で、いろいろ動いておられたようなんだけれども、最後には、東京で当時、名の通った精神科医だった町沢静夫さんに電話したということでしたね。

山口 町沢さんは、事件後も、唐津に来て講演してるんです。そして少年の名前を言ってるんですよ。ひどいと思いません? びっくりしました。少年は、中学時代にひどくいじめられてたみたいで、踊り場から無理やり飛ばされてケガもしてるんです。腰の圧迫骨折で、けっこうたいへんだったみたいです。いじめられて、心も体も傷ついていた。そういうこともあってか、高校には1週間ぐらいしか通ってないんですよ。 

奥地 いじめられていても、親は子どもが学校に行けない気持ちはあまりわからず、学校に行かせようとしていたと報道されています。それで本人は家の中でも暴れたということのようですね。お母さんとしては、すごく悩んで、どうしていいかわからず、町沢さんに電話した。そうしたら、町沢さんは本人に会いもしていないのに、「病院入れろ」とアドバイスして、少年は国立肥前療養所に医療保護入院(*2)させられたそうですね。

山口 町沢さんは、警察も動かして、病院も動かしているんです。「何かあったらどうしますか」って脅して……。病院側としても、入院にはものすごく抵抗があったようなんですけどね。

奥地 病院側にも抵抗感があったんですね。私もそのやり方はおかしいなと思いました。報道によれば、入院させられるときに、少年が「おぼえていろよ、ただじゃすまねえからな」とお母さんに言ったということでしたね。それで、早く退院するために入院中は「いい子ちゃん」をして、外泊許可が出た。

山口 それは病院側の落ち度だと思います。少年は、早く退院したいという要望を県に出してたんですね。でも、彼は両親が来るたびに暴れてたんです。それで、お医者さんはその気持ちをわかっていて、「いつまでも暴れてたら退院できないぞ」と指導していたみたいなんです。それで、彼もいい子の仮面をかぶったようで、そのようすを見て外泊許可が出たようです。

奥地 脅すというか、ちょっと押さえつけるような言い方をしていたのかもしれませんね。それで、外泊許可が出た日に、事件を起こしたわけですよね。「ただじゃすまねえからな」と言っていた通り、復讐したように報道されていましたが、実際のところは山口さんのほうがご存じかと思います。


●被害者意識はない

奥地 塚本さんや山口さんや被害者の方は、いわば犠牲になったということでもあるかと思いますが、でも、そこから、山口さんは親の会や居場所の活動を始めてこられた。そこがすごいなと思うんですが、そのあたりの気持ちをうかがえますでしょうか。

山口 事件後、精神科医にもお世話になったんですが、その先生は、娘が不登校のときに適応指導教室の親の会で、相談役みたいな感じで入ってくれていた方だったんです。その先生が、事件後、私のカウンセリングに来てくださり、おたがいに見知ってるから、気心が知れて、「あの子にも居場所があればよかったね」と本音を語ってくださいました。

奥地 あの少年には居場所がなかったのかなと思われたってことですね。でも、自分がやられてる相手の子だからね……。

山口 私は、彼に対しては被害者意識がないんです。私たち大人が悪いんだって。そういうふうに追い込んだ私たちの社会が一因じゃないですか。やったことは悪いけど、彼だけが悪いわけじゃ絶対にない。そういう思いのほうが強い。だから、あの事件に対して、何かグチを言うとしたら、親や学校や病院は何してたんだろうねっていうことぐらいです。

奥地 事件後は、少年の親御さんはどういう動きをされたんでしょうか。そこは、ほとんど報道されてないですね。もちろん、親も自分の子どもがそういうことを起こしちゃったら、ものすごくつらい立場ではあると思いますが、無理やり入院させてしまって、子どもの気持ちが受けとめられなかったことについて、事件を通して気がつかれたのかどうか……。

山口 事件後4年ぐらいしてから、医療少年院に行って、彼と会ったんです。そういうことは通常はあり得ないんですが、医療少年院の院長先生が何度か私の講演を聞かれて、私と会わせることは彼の更生に役立つと判断され、自分の首をかけて彼と引き合わせてくださいました。そのとき、医療少年院の先生方には「親と話してください。親に変わってもらってください。彼がもどっていくのは親なんだから」って、お願いしました。

奥地 子どもは親を求めてるんですよね。あの事件は、それがあらわれた事件のひとつだと言ってもいいくらいだと思います。親を求めていて、親にわかってほしかったし、僕はつらかったんだって、わかってほしかった。それなのに、強制的に入院させるような処遇をされたところで、事件を起こしている。少年は、すごく親に言いたかったんじゃないのかと思いますね。もちろん、いじめた子たちも許せなかったとは思いますけど……。

山口 ただ、いじめた子たちも苦しんでるんですよね。自分たちのいじめた子が、殺人を犯しているわけです。知人のつながりの高校の先生に「先生、僕、実はあのとき、あの子をいじめました」って言った子がいたそうです。でも、そういうことを言える先生がいて、口に出せてよかったねって思いました。

奥地 苦しんでるよね、きっとね。

山口 それと、被害者でもいろんな人がいるから、こんなこと言っていいのかしらって思った時期もありました。私は彼を擁護してるようにも見えるじゃないですか。

奥地 遺族やケガされた方は、つらい気持ちがありますからね。

山口 塚本さんの家には、ずっとおまいりに行ってるんですけど、一時期は、ものすごくつらくて、行きたくなかったときもありました。

奥地 自分は助かっちゃった立場ですものね……。医療少年院で、少年とはお話しできたんですか?

山口 ええ。最初は、教官がたくさんいらっしゃるなかで会ったので私も緊張してましたが、「つらかったね」と言いながら彼の背中をさすっていたら、私自身、涙があふれてきました。でも、2回目のときは少しの時間ですが、ふたりっきりになれたので、彼は本音を話してくれました。本音だから、ここでは言えないんですけど、彼は私を信じてくれたなと感じました。本音は、相手を信じないと言えないですからね。だから、非常にうれしかったです。

奥地 そこがすばらしいですね。自分のことをわかって、受けとめてくれていると感じたんでしょうね。それで、山口さんとしては居場所をつくることにつながっていったんですね。

山口 そうです。事件がなかったら、私はずっと洋裁をしてたと思います(笑)。


●親の会、居場所の活動

奥地 居場所は、どうやって始められたんですか?

山口 先ほどの精神科医の先生から「居場所があれば」と聞いてから、居場所をやりたいなと思ってたんです。一番上の子が家を出て自宅の部屋が空いていて、精神科医の先生も「ここいいかもね」って言ってくださって、「じゃぁ家でしようかな」と思いました。それで、佐賀市の親の会、みちくさの会に行ってる子がいたので、「うちに来ない?」って言ったら、「誰か仲間いる?」って聞くので、「いやあ、あなたに初めて声をかけて、ほかは誰もいない」って言ったら、「じゃあ、行く意味ない」って。そりゃそうですよね。その子は、家庭がちゃんと居場所になってるから、わざわざうちまで来る必要もない。「あら、そうね」って言ったりしたこともあって。そうこうしているうちに、娘の幼稚園時代の仲間から電話がかかってきて、「実はうちの子も不登校気味でね」という相談があったんです。何度かやりとりしているうちに、私以外にも悩んでいる人がいるから集まって話そうということになって、その人に引き出してもらった感じで、親の会が始まったんです。だから、ぜんぜん何の努力もしてなくて、こうしよう、ああしようとかいうことは、何もなかったんです。

奥地 最初に親の会をやったんですか?

山口 そうですね。やっぱり親の会がベースですよね。居場所は二の次で、家庭がとりあえず居場所になれば、子どもは元気になりますからね。

奥地 東京シューレもその発想で、親の会を始めて1年半ぐらいしてから、やっぱり学校に行かない子どもの居場所がほしいねというので、やりだしたんです。なので、ずうっと親の会をやっていて、それがベースになってるんです。フリースクールに来る子の親だけでなく、親が集まっては経験を話したり、グチを言ったり、そういうのが大事で、それがベースになっているから、フリースクールもまた続くというか。

山口 私も、まずは家庭、親だと思いますね。親の会をやっていて、お年寄りのいる家庭で、居場所がない子がいたんです。親は不登校のことをわかっても、おばあちゃんがやっぱり学校に行かせようとする。それで「じゃあ居場所がいるね」となって、親の会を始めて1年後くらいに居場所を始めました。ただ、いまは、それが少し崩れてきてるんですよ。

奥地 崩れてる? どっちが崩れてるんです?


●貧困問題と不登校

山口 親の会です。うちの居場所のスタッフに、スクールソーシャルワーカーがいるんですね。そのスタッフが貧困の家庭の子を連れてきたいって言うから、いいよと言ったんですけど、その子たちの親は来ないんですね。だから、何かズレてきたなと感じてます。基本、私は親の会が大事で、それをずっと譲らないできたんですけど、この期におよんで、それ言えないなあって思います。ほんとうに貧困の家庭だと、親が鬱だったり、ご飯も食べれなかったりとかしているんですね。

奥地 そうですね。親自身が、まったく、いっぱいいっぱいで、エネルギーもないし、気持ちに余裕もないみたいな人が多くなったと思います。
 文科省も、2015年度から、貧困家庭でフリースクールに通う場合に、その活動費を援助する(会費は除く)という事業を打ち出して、予算がついたんです(フリースクール等で学ぶ不登校児童生徒への支援モデル事業)。でも、それを実施するには、自治体に手を挙げてもらう必要があるんですね。でも、実際は、なかなか難しいですね。
 それから、子ども食堂にも行ったことがあって、子どもたちといっしょにご飯もいただいたんだけど、貧困家庭でも、不登校の子は行きにくいなって思ったんです。シューレに来ている貧困家庭の子で、子ども食堂に行っていた子がいるんですが、いまはまったく行ってなくて「行きたくない」って言うんです。夜、親がいなくて、ひとりで夕食を食べるのに、なぜかなと思って、私たちも行ってみたんですね。行ってみてわかったんだけど、子ども食堂には、学校に行っている子がわんさか来るでしょう。そうすると、部活のことだとか先生のことだとか、授業の話だとか塾の話だとかをしていて、不登校の子が入る余地がないんです。それで、あの子は行かなくなったんだなって、わかったんです。子ども食堂は、学校へ行ってる子の場になっていて、不登校の子はいられないと思いますね。
 親も、たぶん親の会の情報も知らないし、声をかけられたとしても、「もう、ほっといてください」っていうか、あんまり、そういう気にはなれない方もいる。東京シューレでも、東京シューレ葛飾中学校でも、減額措置をしている子たちはけっこういるんです。だから、貧困家庭ともつながってはいるんだけど、情報もつかむこともできていない家庭とは、まだつながっていないですね。

山口 うちは、週2回しかやってないんですけど、その2回のあいだだけでも、いろいろおしゃべりしたり、ゲームしたりできたらいいかなって思うしかないですね。

奥地 子どもがつながっているのはいいと思うんだけど、親の会はやっぱり土台ですね。

山口 親の会は、ほんとうに大事ですね。ひきこもりの子は一度も来てないんですが、11年ひきこもってて出てきましたって人もいました。出てくるのがいいわけじゃなくて、ひきこもり続けるのもいいけど、でも、親も子もおたがいにしあわせを感じながら暮らせてたらね。

奥地 楽になってなかったのが、楽になってくるってことがありますよね。そこが大事です。いまのあり方をありのままを受けとめる。それでいいんだけど、本人にも、やっぱり充実したり、楽しく自分を活かしたり、いろいろやってみたいなって気持ちもありますよね。でも、ありのままの自分が理解されると、すごくちがってくるっていうのはありますよね。
 いまは親の会は、月2回、昼と夜なさってるんですね。何年続けているんでしょう。

山口 親の会は16年目に入りました。

奥地 そうですか。お子さんの不登校、バスジャック事件の少年も不登校だったわけですが、そういうことに出会われてきて、いま、ふり返って、不登校について、どうお考えですか?


●苦しいけど、自分の足場を

山口 不登校していても、学校に行っていても、どちらも同じだと思います。同じじゃないけど、まあ、学校に行けている子は行けばいいし、行けない子は行けないなりの自分なりの生き方を探るひとつのツールになっていると思いますね。学校では、学ぶべきことをずっと提示されるじゃないですか。でも、不登校の子はみずから設定できるんですよね。ただ、そのために、苦しいんですけどね。自分で足場をきちんと固めていくっていう、そこが非常にたいへんだけど、だからこそ、人としてちゃんと立てるような気がするんですけどね。

奥地 自分のお子さんの経験も含めて、以前の不登校と現在とでは、変わってきていると思いますか?

山口 世の中はちっとも変ってないような気がしますね。「不登校でもいいよ」って口では言ってるけど、ぜんぜん「いいよ」じゃない。学校の反省もない。だって、子どもが行かないっていうのは、学校がイヤだからですよね。子どもたちは、楽しかったら行くんですから。これだけ不登校の子どもがいて、数も増えているのに、学校のありようが変わってないのは不思議ですね。親も同じですね。

奥地 文科省は、2016年9月14日に「不登校を問題行動と判断してはならない」という通知を出してるんです。その通知では「不登校児童生徒が悪いという根強い偏見を払拭」すること必要とも書いているんです。通知の宛先は、各都道府県の教育長、知事、附属学校を置く国立大学法人の学長などで、つまりは全国のすべての学校を対象に通知を出してるんです。私は、これはすごく大きなことだと思っていて、「共感的理解と受容の姿勢を持つこと」が重要とか「周囲の大人との信頼関係を構築していく過程が社会性や人間性の伸長につながる」などとも書いてるんです。だけど、これがほんとうの意味で、全国に届くのは、なかなかでしょうね。それでも以前よりは変わると思います。山口さんはある意味、不登校においても象徴的と言える事件に遭われ、たいへんだったと思いますが、すばらしい生き方をされてきていると思います。今日のお話にも、とても感銘を受けました。ありがとうございました。

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*1 『ひと』:1973年に創刊された教育雑誌(太郎次郎社)。編集代表は数学者の遠山啓さん(1909―1979)。奥地圭子もよく書いていた。

*2 医療保護入院:精神障害の人を対象とした入院の形態のひとつ。本人の同意を得て行なう任意入院に対し、本人の同意がなくても家族などの同意で行なう。ほかに、自傷他害のおそれがある場合は、行政の命令で強制的に入院させる措置入院がある。
posted by 不登校新聞社 at 17:43| Comment(1) | 親/親の会
この記事へのコメント
お久しぶりです。親の会、久しく行っていないので、2月か3月、久しぶりに顔を出してみようかな、と思います。事件の事も、山口さんの娘さんの不登校の事も、詳しくは聞いた事が無かったので、今、詳細を知り、とてもとても壮絶な経験を通して、今の繊細で、でもはっきりもしていて、受容を大事にされている山口さんになられたんだな、と感じました。私が壮絶な20代を過ごした北九州、私が卒業した高校、私が一番長く勤めた学校、と何だか不思議な縁を勝手ながら感じました。うちは、今は、哩久はフリースクールを利用しながら、私は少し働きながら、主人も皆んなを支えてくれて、と、それなりに家族みんなが幸せに暮らせていると思います。学校に行って欲しい、という気持ちはサラサラなく、それは私のイジメの経験だったり、働いてみての感想だったりから、本当にサラサラ無いのですが、そういうママ友さんには会えなくて、何だかやっぱり少し浮いています(^^)自分なりの育ちが出来るチャンスを息子も私も神様に頂いたと思って、不自由に感じる社会と自分なりの距離を保って、今は斜め向きくらいで、生きてみたいと思います(^^)では、時間がある時は、遊びに行きますね!まだまだ寒い日が続きますが、ご自愛下さい。
Posted by 奥村美麻 at 2018年02月07日 18:01
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