2018年03月01日

#34 田中達也さん

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(たなか・たつや)
1962年、東京都江戸川区生まれ。小学校6年生のときに学校に行かなくなり、児童精神科医、渡辺位さんとの出会いなどから、中学2年生のとき、みずから希望して国立国府台病院36病棟(児童精神科病棟)に入院する。当時のことは、母親の田中英子さんが『登校拒否・学校に行かないで生きる』(渡辺位編著/太郎次郎社1983)に書いている。退院後、病院で看護助手をしながら定時制高校に通い、卒業後は鍼灸師やリハビリの仕事などに携わり、現在は社会福祉士専門職として、幅広く活動している。

インタビュー日時:2018年1月16日
聞き手:奥地圭子
場 所:東京シューレ葛飾中学校
写真撮影:木村砂織
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〈テキスト本文〉

奥地 今日は、達也さんのお母さんとのご縁でお会いできることになり、亡くなられたお母さんに、とても感謝しています。私は、自分の子の登校拒否で国府台病院の渡辺位(*1)先生と出会い、病院内の登校拒否の親の会「希望会」に参加させてもらっていました。達也さんのお母さん、田中英子さんは希望会の会長をしておられ、先輩として、とても学ばせていただいた方です。年賀状を出したところ、達也さんから「母が亡くなった」と連絡をいただき、そのご縁から、今回、急きょインタビューさせていただくことになりました。お母さんとは、いっしょに『登校拒否・学校に行かないで生きる』(渡辺位編著/太郎次郎社1983)もつくらせていただきました。この本は、希望会10周年を記念して、世の流れに抗して登校拒否の子どもを受けとめる声を発信しようと企画された本でした。このころは、会長は竹下ミドリさんに替わっておられましたが、英子さんも編集委員会に入ってくださり、寄稿もしていただきました。


●陰湿ないじめに遭って

奥地 達也さんは、ご自身の登校拒否の時期や理由は覚えていますか?

田中 千葉県市川市の冨貴島小学校に通っていたんですが、小学校5〜6年生のころ、集団のいじめみたいなものに遭いました。1970年代半ばのことで、当時は進学ブームで、親は自分たちが高等教育をあまり受けられなかった世代だったからこそ、子どもにはいい教育を受けさせて、いい学校を出させて、いい会社へというルートに乗せようとしていたんだと思います。

奥地 それが、夢になっていたんですね。

田中 戦争の影響がまだ残っている時代で、おそらく親たちも、いい学校へ入れてあげることが、自分たちの夢を子どもに託すことにもなっていたのではないかと思います。ご存知のように、当時は東京進学塾、四谷大塚など、たくさんの進学塾ができていました。クラスの半数近くの子は進学塾に通い、われ先にと受験対策をしていました。あとの半分くらいは、まだ昔ながらの子どもというか、草野球ができた時代でした。
 進学塾組とそうでない組は、やっぱりちょっと対立するところがあったんですね。進学塾に行っている子たちは、点数を上げろ、偏差値を上げろということで、土・日も塾に通って、塾が終わってからも課題があったりして、忙しくしている。1点でもいい点数を取るために、一種の洗脳教育を受けていた。
 でも、やっぱり小学生ですし、限界があるわけです。彼らからしてみると、自由気ままに遊んでいられる少年たちがうらやましい。私は、そっちの代表格みたいな感じだったんですね。

奥地 『登校拒否・学校に行かないで生きる』でも、お母さんが「達也は毎日遊びまわり、泥だらけになって、ざりがにとりをしたり、山道を発見したり、秘密基地(赤土の宅地造成の崖)に夢中になったり、活発に日暮れまで遊びました」と書いてますね。

田中 彼らにしてみると、それがうらやましかったんだと思います。いろいろ因縁をつけてきたり、小学校6年生ぐらいになると知恵がついてきますから、みんなの前では暴力をふるわないけれども、帰り道に隠れていて、いきなり6人がかりで蹴られたり、筆箱を隠されてしまったり、定規におしっこをかけられて、それを筆箱に入れられたり、いろいろ陰湿なことをされてました。

奥地 それは学校生活がたいへんでしたね。

田中 僕自身、学校は行かなきゃいけないところだと思っていましたし、当時は学校へ行かないということは大問題で、その責任を個人に求める時代でしたからね。でも、行けなくなってしまった。

奥地 当時は、本人の性格が悪いとか、親の育て方が悪いとか、そういう認識ですからね。

田中 そういう時代でしたね。ですから、最初に行った総合病院では脳波をとられました。やっぱり、この子に問題があるということだったんでしょうね。

奥地 うちの子も、脳波をとられました。達也さんも「なんで脳波をとるんだ」とおっしゃったそうですね。

田中 脳波というのは脳の機能のことですから、α波、β波、θ波なんて調べたところで、不登校についてはまったく的外れの検査だし、どう考えても、おかどちがいだと思いました。

奥地 子ども心にもおかしいと思っていたんですね。

田中 そうですね。たぶん、ほんとうに脳波に異常があったら、いろんな症状が先に出ていると思うんですけど、MRIもCTもない時代ですし、精神医学も、そういう根拠にもとづく医療については、まだ経験も浅かったのかもしれないですね。

奥地 それが小学校6年生のときで、その後、中学校はどうだったんでしょう。

田中 小学校と中学校は学区がいっしょで、ワルの連中もいっしょだったので、中学になると、今度は脅しが入ってきたりして、また学校に行けなくなっちゃったんです。頭では行かなきゃいけないと思いながらも、行けなくなってしまった。
 実際に危険がともなっていましたし、学校は自分にとって安全な環境ではなくなっていたんですね。相談所や、いろいろなところをまわったうえで、国府台病院につながりました。


●学校は行かなければならない?

奥地 国府台病院は、教育研究所からの紹介だったんですよね。

田中 そうです。教育研究所には、母といっしょに行きました。役所の一室みたいなところだった記憶があります。そこに関先生という方がいらして、「当人がくるのはめずらしいね」と言ってました。それで、中学校での話をしたら、実際に殴られたりしていて危険があるということで、国府台病院を紹介してもらいました。たぶん、関先生は児童相談所だとか、いろんなところで渡辺位先生とつながりがあったんだと思います。

奥地 お母さんは、渡辺先生に「どうして学校へやらなくてはいけないんですか?」ときかれて、「義務教育ですから」と答えたら、さらに「義務教育とはどうしても学校へ行かせなければいけない親の義務があるというのですか?」ときかれたそうですね。そこで初めて気がついたと。

田中 僕も、国府台病院で初めて渡辺先生とお会いしたとき、「そんなに学校って行かなくてはいけないの?」ときかれましたね。「えっ、行かなきゃいけないんじゃないんですか?」と逆に聞いたぐらいでした。それで、「僕は行きたいんだけど、こういう状況があって行けないんだ」ということを言ったおぼえがあります。
 国府台病院には、その後しばらくは外来で通っていて、臨床心理士の方と月1回くらい会って、箱庭をやったりしていました。臨床心理士の方は何人かいらっしゃいました。なんとなくそこに行ってお話をしたり、テニスをやったりしてました。箱庭は、いろいろなものを出されたんだけれども、なんかそこにあるパーツじゃつまらないので、外から雑草をとってきたりして、つくってました。それがどういうふうに評価されていたのかは、わかりませんけどね。そういう期間がありました。中1のころです。

奥地 そのころは、どう思っていらしたんですか?

田中 まだ、将来のことはあまり考えていなかったですけど、「学校は本来は行くべきものなんだろう」ということは認識していました。
 学校のやっている時間帯は、なかなか外に出られないということもありました。当時は、ややもすると補導されたりしかねないですし、そうでなくても、「なんでこんな時間に外にいるんだ」という目線があったので。でも家にいたら、体はなまっちゃいますしね。あと、僕は無線をちょっとやってたんです。トラックの運転手さんと話したりして、「おまえ、学校はどうしたんだ?」と聞かれたりすると、「おなかが痛くて休んだ」とか言ってました。
 母も、そういう僕を見ていて、いろいろ思うところはあったと思いますが、「もう先導型の親は辞めるよ」と言っていました。

奥地 張りきって学校へ登校していた時期もあったそうですね。

田中 中学は、最初の1〜2カ月間は行っていました。やっぱり学校は行かなきゃいけないところだと思っていたからでしょうね。でも、何のために学校に行くのか、たとえば教養を身につけるためだとか、そこまでは考えてなくて、やっぱり基本的に行かなくてはならないものだと思っていたんだと思います。学校に行けば、イヤな奴ばかりじゃなくて、友だちもいましたしね。

奥地 でも、夏休み明けに宿題をぜんぶやってないからと言って。

田中 それで行きづらくなったということはありました。

奥地 渡辺先生には「ネバナラヌ」がまだとれない、と言われてたそうですね。

田中 母にそういうことを言っていたみたいですね。学校に対しての恐怖心は、小学校と中学校ではちがったんですが、小学校のときに自分を守ってくれなかったという経験があるので、やっぱり学校という組織はちょっと怖いというか、学校という組織への違和感があったんですね。それで、中学の最初のころは、母が自転車に僕を乗せて学校に行って、母は午前中は保健室で本を読んでいたりして待っていたという時期がありました。

奥地 お母さんも、当時はそうしなければならないと思っていたけれども、あとから、それはどうだったのかと気がつかれたということでしたね。

田中 強制するような感じはなかったですけどね。小学校の5〜6年生で不登校だったりすると、学習が少し遅れていて授業についていけない部分もあって、そのころはボトムアップするような制度もないし、だんだん学校から離れていった感じでした。

奥地 一方で、病院には自転車でひとりで行っていたそうですね。中学の先生は、お母さんに「あんなに自転車でひとりで外出しているのに、なんで学校には来れないのか」と言っていたそうですね。

田中 そういうことは、あったかもしれないですね。僕も中学の仲間と外で会ったとき、「どうしたの?」ときかれて「病院へ行ってるんだよ。そういう必要があるからね」という話をしたおぼえがあります。そのころになると、母も渡辺先生とのつきあいが長くなってきていたので、母自身も、何か言われても返す力というか、説明できるようになっていたように思います。

奥地 それで、休んでもいいという気持ちになれた。

田中 はい。でも、最初は不思議でしたね。「今までは学校に行けと言っていたのに、なんで?」みたいな。


●新聞配達をしながら

奥地 学校の対応は、どういう感じだったのでしょう。

田中 小学校の対応は、最悪でした。いま考えても、ありえない対応だったと思います。Tという教員でしたが、40年経っても名前を覚えてます。その人は、早稲田や慶応に入れるような子を高く評価する人で、僕のことについては、「こんな大切な時期に、なぜこんな問題を起こすんだ。学校に来れないとか、たまったもんじゃないから、精神科へ行け」という感じでした。校長や教頭も同じでしたから、まさに排除ですよね。
 中学の担任は美術の先生で、優しい人で、つきあいは短かったですけど、こうしろ、ああしろとも言わず、自然なスタンスでかまえていてくれたので、話もできました。

奥地 中学生のころ、新聞配達もしていたそうですね。それは、ご自分から言い出したんですか?

田中 そうです。学校に行かなくなってから、無線の機械をほしかったのもありましたし、家にいても体がなまっちゃうので、新聞配達ならできると思ったんです。母は「何かあっても、あんたの代わりはできないから」と言って、まずは本職の新聞配達の後ろを1カ月ついて走るように言われて、やりました。体力的にできるかどうかということですね。半年ほどやってたんですが、バカバカしくなって、自分で新聞屋へ行きました。そうしたら、やっていいということで、夕刊の配達から始めました。月に1万5千円ぐらいになったかな。

奥地 当時の1万5千円は大きいですよ。

田中 それで、3カ月後には朝刊の配達も始めました。小学生3〜4年生のころ、団地の子ども会で牛乳配達をやったことがあったんです。そういう経験もあったので、配達には何の抵抗もなかったですね。

奥地 どのくらいの期間やっていたんですか。

田中 中1の3月ごろに始めて、中2の10月ごろ、国府台病院の36病棟(児童精神科病棟)に入る前までだったので半年ちょっとですね。母は、万一、病棟で適応できなかった場合に、もどってきても仕事があるようにと思って、新聞配達を引き継いでくれたんですね。その後、25年ぐらい、母は新聞配達をしていました。だから、80歳を超えても足腰が強くて、介護も必要としてなかったです。「できると思ってなかったけど、やってみたらけっこういい仕事だ」と言ってました。


●希望会で

奥地 その後、お母さんの呼びかけで希望会という親の会を始められましたね。希望会は病院のなかの親の会で、渡辺先生のもとにはあったんですけど、私が参加したとき、お母さんは「先生に教わるための会ではなくて、自分たちで考え合っていく会なのですよ」と、おっしゃってました。

田中 当事者会ですし、そういうことだったでしょうね。

奥地 私は、教員だったので、教員の研修会にもいろいろ参加してたんですが、そういう会とはぜんぜんちがっていたんですね。みなさん、本気でした。先輩格の人たちも、びしびし言っててね。たとえば、あるお母さんが、上から、がみがみ言ったりして、子どもとの関係が悪くなるでしょう。そして、そのことを嘆いて、泣かれたりする。
 そうすると、先輩たちが「あんた子どもになんて言ったの。そんなこと言ったら、そりゃ子どもがムッときて、関係が悪くなるの当たり前でしょう」とか、ずけずけと言うんですよ。とくに家庭内暴力なんかが出ていると、たいへんですよね。それで「私もう死にたい」と母親が言っていても、「お子さんはもっとつらいんですよ。なんで、そうやって暴れたと思いますか」と言っていたり、そういうことを、ほんとうに真剣に話し合ってました。でも、その方は1カ月後、「子どもとの関係がよくなった」と喜んでおられて、私はそれを横で聞いていて「ああ、そうか」と思った記憶があります。子どもが暴れるには、暴れさせている環境がある。だから、子どもを変えようとする前に、親が変わらないとダメなんだと学びました。
 私が入ったころは、達也さんのお母さんは先輩でしたから、お母さんには、そうとう教わりました。

田中 そうですか。でも、その前に、母も、渡辺先生にずたずたにされたと思いますよ(笑)。「死にたい」って言うのは、生活が追いつめられていることもあるんですが、よくよく聞いてみると、死にたいほどつらいってことなんですよね。

奥地 そうそう、そのつらさをわかってほしくて言っている。

田中 そこが重要なんでしょうね。


●36病棟の子どもたち

奥地 36病棟に入ったのは、どうしてだったんですか。

田中 たまに心理の先生と36病棟に行くことがあって、そこに卓球台があったんです。ちょっと卓球をやってみたら、けっこう同世代の子たちが多くて、似たような子たちがいるぞ、と。それで、寮みたいなかたちで、ちょっと行ってみようかなと思って、渡辺先生に話してみたら、先生は、病棟に入ることはあまり勧めていなかったんですね。

奥地 病気という考えではなかったですからね。

田中 そうなんですよ。だけど、僕は入りました。てんかんの子もいたし、発達障害だなという子もいたし、歩けない子もいたし、目が見えない子もいたし、いろんな子がいました。でも、病棟のなかにも、やっぱり序列があるんです。新米格から先輩格まで序列があって、僕も最初は超新米格だったんですが、中学3年のころにはリーダー格になっちゃいました。
 タバコを吸う子もいたり、ちょっとふかしたワルみたいなのもいました。僕らもワルだったんだけど、やっていいワルと、悪いワルがあるわけです。自分たちもやられてきたわけですから、弱い子たちに対してはワルはしない。でも、そうじゃない生意気なヤツはつぶしたりもしていました。それでも、ほんとうにやっちゃいけないラインというのは心得ていたと思いますね。

奥地 病棟には、何人ぐらいの子どもたちがいたんですか。

田中 トータルで40名くらいの、寮のような病棟でした。

奥地 病院に入られたのは、自分の意志だったんですね。

田中 まったく自分の意志です。

奥地 なぜ、入りたいと思ったんですか?

田中 同年代の子たちが、いっぱいいたんですね。かわいい子もいたし、いいなあと思って(笑)。その子と卓球したこともあったんですけど、すごく卓球が上手でした。あとから知ったことですが、母子家庭で、お父さんもたまに見えたりもしていましたけど、複雑な事情もあったようです。その子とは、大人になってからも何回か会いましたね。

奥地 外来の人と入院の人がいっしょにつきあっていたということですか。

田中 つきあっていたというか、いっしょに卓球をやったりするなかで、「なんか、いい子だなあ」「楽しそうだなあ」と思ったんですね。
 病院に入って、まずやったのが無線でした。渡辺先生は、いろんなことをやらせてくれたんですが、最初に無理を承知でお願いしたら、無線のアンテナを建てさせてくれました。無線機は、電源はとれなかったのでバッテリーを充電して使ってました。

奥地 アハハ。一般の病院ではなかなか無理でしょうね。

田中 絶対ありえないですよ(笑)。でも、渡辺先生は、子どもの自主性を尊重するというか、子どもがやりたいということは、できるだけやらしてくれましたね。
 当時、渡辺先生が医長だったので、ある程度の裁量があったんだと思います。それで、僕は中学を卒業したあとも1年長く入っていて、2年半病棟にいました。その最後の1年のころ、看護師の野中広志さんという方がいらっしゃったんです。当時、彼は24歳だったんですよ。その後、国際医療センターの総看護師長まで行った人ですし、著作もいろいろあるようですから、努力家ですよね。その野中さんが最初に言ったのは「一番最後に笑える奴が誰かと、俺はいつも思っている」ということでした。ほかにも、もうひとり男性看護師さんがいて、よく僕らにつきあってくれたんですね。野球をしたり、バンドのやり方を教えてくれたり、エレクトーンを教えてくれたり、勉強を教えてくれたり。それで、僕も看護師になろうと意識し始めて、中学は卒業したんだけど、もう1年間いさせてほしいとお願いしたんです。
 そのころ、国府台病院の児童精神科医師は渡辺位さんと上林靖子さん、高瀬直子さんの3人がいて、僕が高瀬先生に「看護師になりたい」という話をしていたら、高瀬先生が新聞に募集が出ているよと教えてくれたんです。それが虎の門病院だったんです。一流の病院だとは聞いていたんですが、履歴書を送りました。

奥地 看護師さんの影響が大きかったんですね。それで、それまでは長髪にしていたんだけど、髪を切って面接に行ったそうですね。

田中 母に「切ってくれる?」とお願いして、ひさしぶりにバサッと切って、中卒の履歴書を送って、面接に臨んだんです。それで、16歳から病院で働きながら定時制高校に通うようになりました。


●分校の生徒たちは

奥地 それまで、学習については何かなさってたんですか。

田中 病棟に学習室があって、病棟自体は夜9時に消灯だったんですが、9時から11時までは学習室は電気がついていて、そこで看護師さんが勉強を教えてくれていました。無理にということはなくて、子どものほうが教えてということであれば、でしたね。もっと勉強したい子は、看護師の詰め所でも教えてもらってました。夜中12時ぐらいまで勉強していた子もいます。だから、全日高校へ行った子もいました。看護師さんも23〜24歳ぐらいで、高校を出て専門学校を出ているから、中学生ぐらいの勉強はよく覚えていて、教える役割も担ってくれてました。
 それと、分校(情緒障害児学級)にも行っていました。

奥地 病棟から通っていたのですか。

田中 病棟からです。50mぐらい離れているだけでしたからね。

奥地 分校で教員をされていた横湯園子さん(本プロジェクトインタビュー#29参照)とも、そこで出会ったんですか。

田中 そうですね、横湯先生と柴田先生と小川先生という方がいらっしゃいました。来たければ来てもいいという感じで、ちょろちょろ行っていましたね。

奥地 分校には、学校みたいな時間割はあったんですか。

田中 いちおう4時間ぐらいずつありました。教科書も使っていましたね。当時の分校には、ほんとうに不登校の子が多かったんです。いまだと発達障害の子が多いのかもしれないですけどね。2棟ぐらいのプレハブで、小学校と中学校があって、ふつうに勉強もしてました。

奥地 不登校については、どういう対応だったんでしょう。

田中 看護師や医者の立ち位置と、分校の先生では立ち位置がちがったと思うんです。看護師や医者は厚生省(当時)の管轄で、分校の先生は文部省(当時)ですね。僕らは、そのあいだに挟まれるわけです。看護師や医者は無理をするな、自分のペースでいい、ということですね。でも分校の先生は、進学や将来を考えていろいろ言ってくるわけです。もちろん無理な進学ということではなかったですけどね。そのあたりは、中学生当時でも、僕らは見抜いていて、「管轄のちがう人たちから一時に言われても、受けるのはひとりだぞ」と言ってました。

奥地 なるほど。

田中 だから、分校の生徒は、何かとても複雑な位置にいたように思います。何も考えないで行っている子もいましたけど。考える子は「あれ?」と思ってしまう。渡辺先生とも心理の先生とも分校の先生とも、日ごろから、いろいろとしゃべるんですよね。そのなかで、自分の考えをまとめて、自分の置かれている立場を相手にきちんと伝えるとか、いわば理論武装というか、そういうことをしていたんだと思います。毎日のように、そういうやりとりをしていました。たとえば、渡辺先生から課題を出されるんですよ。「なんで学校へ行かなきゃならないのかな」とか。それを僕なりに考える。そういうなかで、自然と理屈っぽい子になったとは思いますよ。
 でも、横湯先生からすると手こずらせる子だったと思います。僕は渡辺先生の影響が強かったこともあって、分校の先生たちとはぶつかることもよくありました。先生たちが何か約束を求めてきても、「できないことは約束しません」と言ったりしてね。できないことを約束するなら、最初からしないほうがいいと。まあ、そういう屁理屈を言う子どもだったので、分校の先生たちからすると、やりづらい子だったんだんじゃないかと思います(笑)。それと、臨床心理の方の影響もずいぶんあって、中学生どうしで「心理学的考えというのは、どうなんだろうね」「心の闇って何だろう」「あの箱庭みたいなので何をみるんだろうね」とか話し合ってました。

奥地 自分たちなりの考え方で。

田中 大人から見ると屁理屈に聞こえたかもしれなかったですけどね。でも、自分を防衛するというか、社会に出ていったときに、自分の考えを述べたり、自分の考えに反することを言われたときに対抗する術を身につけたというか、そういうことはあったと思います。

奥地 病棟に入ったことで、ある種守られた感じもあるんですよね。当時は、ほんとうに不登校のことがわからない社会だから、まともにぶつかってしまったら、たいへんだったでしょうからね。

田中 守られた感じはあります。スティグマというか、偏見が強かったですからね。守られているなかで、社会に出て行く術みたいなものを身につけていって、自分の考えをきちんと表出することができていったんだと思います。だから、虎の門病院の面接で「どうして看護をやりたいのか」ときかれたときも、「直接、人が人を支えるような仕事で、看護助手というのはいい仕事だと思う」と言うことができました。

奥地 自分で自分を育てたとも言えますね。

田中 そうですね。人によって言うことがちがうことで、そこで考えることは、ずいぶんありました。そこで立ち止まって考える時間があったということが大事だったと思います。

奥地 家に帰りたいとは思わなかったんですか。

田中 外泊許可をとって、週に1回ぐらい、親の顔を見に帰っていたこともあります。

奥地 でも、病院での生活が楽しかった。

田中 楽しかったですね。自分で行きたくて行ったのもありますし、むしろ、病院のほうが楽しかったですね。

奥地 それが、後のいろんなことにつながっていったということですね。


●命と向き合う日々

奥地 その後、どんなお仕事をされてきたんでしょう。

田中 最初は看護助手で、内科の採血室と処置室に入りました。

奥地 資格はどうなっていたんですか。

田中 看護助手なので、無資格でした。虎の門病院は採血する人がすごく多くて、いまだったらIDをピッとやれば、名前とか情報が出てくるんですけど、当時は、ひとつひとつ手書きでラベルに書いていくのでたいへんでした。いろんな種類の試験管があって、検査項目を見て、試験管を用意するんですね。そこにラベルを書いて貼る仕事から入ったんです。いまでも、そのときのペンダコが残ってます。ものすごい数を書くので。
 しかも、検査のオーダーが何種類もあるんですね。そこに担当者の名前を書いて、その試験管を用意してナースへ渡す。採血しているスピードに合わせて用意するんですが、ひとりにつき6本ぐらい採血管を用意しなきゃいけない。

奥地 何べんも何べんも書くんですから、たいへんですよね。最初は、その仕事から始められて、その後は。

田中 婦長が替わったり異動もあって、処置室から声がかかったんです。処置室には心臓停止の人が運び込まれたりするので、そういうときには、すぐに除細動装置を持ってこなければいけないとか、そういう仕事でした。17歳ごろのことですね。

奥地 17歳で心臓停止の人を見たりしたら、ショックでしょう。

田中 いやいや。僕は看護師になるつもりだったし、婦長は「若いときの苦労は買ってでもしろ」というタイプの人だったんです。心臓停止の人が運び込まれて、家族が外で待っているでしょう。そういうとき、処置室はカーテンで閉めきって救命救急の処置をするんですね。それでダメだったときは、その人のつけていた時計をはずして、外で待っている家族に渡すように言われてました。そうすると、それでもう、わかるわけです。無理でした、と。そんな体験の機会をいただくこともありました。

奥地 たいへんなものですね……。

田中 何にも言葉が出ません。命と向き合う日々で、命のことは、ずいぶん考えました。同じ年の女の子で、再生不良性貧血の子もいましたし、いろんな人がいましたね。
 当時は、すごく忙しかったですね。そのころでも1日1000人も外来に来るんです。いまは1日2000人だそうです。それでも、診療が終わる時間帯になると暇もあるので、患者さんたちとよく話をしてました。「働きながら定時制高校に行ってるなんて、えらいね」とか言われたりして。

奥地 虎の門病院で働きながら、定時制高校はどこに行っていたんですか。

田中 都立一橋高校です。総武線の馬喰町にあって、当時の先生とは、いまでも年賀状のやりとりがあります。その後、転校しましたが。

奥地 仕事も緊張しながらがんばって、夜は定時制高校で勉強というと、たいへんですよね。

田中 ただね、病院に来ている同じ年の人には、「病気で、ずっと点滴しているのもつらい」という人もいたわけですよ。そりゃあそうだろうなって。とくに再生不良性貧血ということだと、ひどくなると顔が土気色になったりしてね。Sさんという患者さんは、週に3回ほど受診してたんですが、輸血するしか手立てがないんですね。Sさんには当時2歳ぐらいの子どもがいて、彼女は点滴を受けながら、子どものための編物をしたり本を読んだりしていました。こんな環境のなかにいながら生きているという人もいるんだなと。その隣にも同じ疾患のおじいちゃんがいたんだけど、おじいちゃんは来るたび輸血しながらガァーと寝てました(笑)。
 多くの命にかかわるような病気の方を見て、自分とはたいへんさの質がちがうとも思いました。

奥地 生きていくという感じですね。

田中 不治の病ですしね……。当時、霞が関ビルの最上階にプロムナードという喫茶店があったんですね。昼休みに、そこでお茶を飲みながら窓をのぞくと、眼下に豆粒のような人間がいっぱい見えるわけです。こんなにたくさんいて、ひとりぐらい粒がなくなったって、絶対わかんないよなあって思う。だけど、病院の救急救命の現場では、ひとりの命を、みんなが総がかりになって助けている。そういうなかで、ほんとうに人間の命ってどういうことだろうって、考えさせられました。虎の門病院には5年いました。

奥地 じゃあ、病院を変わるのと定時制高校卒業とはいっしょですか。

田中 定時制のほうが先に終わりました。その先の学校の受験に失敗して、1年浪人したので、病院からも「まだ、いなさいよ」と言われて。


●鍼灸師に

奥地 でも、1年後にはお仕事が変わったんですよね。

田中 そうです。定時制高校に非常勤で化学を担当している先生がいて、その方は東京理科大を出て教員免許も持っている一方で、鍼灸師でもあったんです。その人が、「看護師もいいけど、鍼灸師もいいよ」と。「俺は、いまは教育にたずさわっているけど、将来は郷里に帰って鍼灸院を開こうと思っている」という先生だったんです。当時はまったく知らなかったので「なんだ? 鍼灸って」と思って、「なるにはブックス」を読んで、こういうのがあるんだって。
 それと、ちょうどそのころ、オートバイに乗っていて、ちょっと事故をやったんです。その影響で腰痛や座骨神経痛がひどくて、病院の整形外科にかかったんだけれども、手術をしても治る可能性は半分だと言われてたんですね。それで、どうしようかなと思って、近くの接骨院に行ったんです。そこの先生が柔道整復師であり鍼灸師で、鍼治療をしてもらったんです。それで、これはおもしろいなあ、不思議だなあと思って。高校の先生の言っていたことと、その経験が合わさって、看護師もいいけど鍼灸師もおもしろいなと思ったんです。しかも、鍼灸師は独立開業もできる。
 そうしたら、接骨院の先生が、鍼灸学校へ行くんだったら、うちで見習いしなさいと言ってくれて、鍼灸師の学校へ1浪して入ったんです。21歳のときだったと思います。それからは、午前中から午後3時半ごろまで接骨院で見習いをやって、夜に鍼灸師の学校へ通ってました。3年間、見習いしながら学校へ行きました。マッサージ師の資格は2年でとれるんですが、開業するには柔道整復師もとっておいたほうがいいというので、さらに3年間、通いました。

奥地 パワーありますね。やっぱり働きながら、夜は勉強して。病棟時代から夜に勉強してたんですよね。そういうパターンで平気だったんですか。

田中 好きなことだからできたんだと思います。柔道整復師になったとき、当時の接骨院の院長には申し訳ないけど、いろんな世界を見たくて、江戸川病院のリハビリテーションセンターにアシスタントPT(*2)として入ったんです。そこで、リハビリのことをずいぶん勉強させてもらいました。そこに2年間いて、その流れで千葉脳神経外科病院でリハビリを手伝ってくれと声がかかったり、いくつかの病院の整形外科と関わって、ずっと医療機関系で働いてきました。最終的には千葉脳神経外科病院の鍼治療外来室長をしていました。
 その後、1993年に鍼灸整骨院を千葉県鎌ヶ谷市で開業しました。30歳ごろのことで、そのころ、渡辺先生と再会しました。親がつながっていたのか、渡辺先生の家って、実家から近かったんですね。

奥地 私も2回行ったことがあります。

田中 僕も一度、渡辺先生の家に遊びに行ったことがありました。それで、開業したてのころに、渡辺先生が来てくださったことがあったんです。いっしょに食事をして、「ここでやっていくんですか」みたいにきかれたのをおぼえてます。
 開業しても、患者さんがつくまではたいへんでした。機械もリースで1000万円近くかかって、月額十数万円の支払いがあって、それで患者さんが来ないとなると、胃が痛くなるわけです。病院のときは、室長としてやっていて、いくらでもオーダーで仕事ができた。ところが、同じことを話していても、大きい病院で白衣を着た先生が言うのと、小さな開業整骨院の先生が言うのとでは、患者の聞き方がちがうんですよ。
 だけど、たとえ腰痛であっても、まじめに治療しないと、中途半端にやっていたら、治るものも治らないわけですね。その時期は、けっこうきつかったですね。患者が定着しなくて、ヤマト運輸にバイトへ行きましたからね。数カ月間ですけど、夜の8時まで接骨院やって、夜10時から深夜2時までバイトをしてました。ただ、そういう世界に行って、いい体験したなと思うのは、若い夫婦がいて、話を聞いたら、お花屋さんを開業したところだったそうなんです。やっぱり開業したてのころは軌道に乗せるのがたいへんだから、自分の店を守るために夫婦でヤマト運輸のバイトをしていたんです。すごく根性のある人たちで、ここでも学ぶことはできると思いました。

奥地 なるほど。いまは、福祉の仕事もされておられるんですよね。


●ソーシャルワーカーとして

田中 2000年に介護保険法がスタートして、ケアマネージャーの受験資格が柔道整復師や鍼灸師にもあったんです。5年以上の経験があれば試験を受けられるというので、リハビリテーション科のことを思い出したんです。チーム医療を病院のなかじゃなくて、地域で考えるというのは、おもしろそうだし、やってみたいと思って、ケアマネージャーになりました。接骨院に併設しながら、ケアマネージャーの業務も、昼休みや往診にあてていた時を使ってやっていました。
 そこで、いろいろやっていくなかで、ソーシャルワーカーは実務経験があれば入れるということで、通信課程で2年間勉強して社会福祉士の資格をとって、ソーシャルワーカーになりました。

奥地 勉強好きですね。

田中 勉強はきらいではないので(笑)。そのあいだも、接骨院だけをやっていたわけではなくて、福祉施設の第三者評価とか介護施設や保育園の評価機構に登録して活動したり、多重債務相談を県から委託された機関に所属して、多重債務の相談を受けたりしてました。

奥地 借金の相談ですか?

田中 ソーシャルワーカーとして、いきなり多重債務の相談から入ったんですね。最初はどう対応していいかわからなかったんですが、4年間やっているうちに、だんだんと見えてきました。その後、24時間対応の無料電話相談があって、そこでも3年ぐらい働いて、いろいろな相談を受けました。

奥地 どこから、お金が出ているのですか?

田中 厚労省です。そこには、いろんな福祉職の人たちが関わっていて、そこでペアを組んだ人が、生活困窮者自立支援事業の主任をしている人で、その人に誘われて生活困窮者自立支援の仕事にもたずさわるようになりました。それと、成年後見人の仕事もしている関係で、知的障害や発達障害にも興味を持ち、土日は知的障害者施設で働いています。

奥地 現在、並行して、いくつの仕事をなさっておられるのですか。

田中 月曜が法テラス千葉で、火曜日は生活困窮自立支援、水曜日は成年後見人の仕事と、船橋保健所での難病患者訪問相談、木曜日が法テラス、金曜日が生活困窮自立支援で、土曜日が成年後見活動と夕方から知的障害者施設の夜勤で、朝7時に終わって、午前中は仮眠をとって、日曜日は夕方4時まで別の仕事をして、4時以降は知的障害者施設で夜勤。朝7時に終わって、いったん帰宅して、7時45分の電車で、また法テラス千葉に向かって、朝9時から仕事をしています。

奥地 すごいですね。どこで休んでいるんですか。

田中 基本は祭日以外に休みを取っていません。いろんなことにたずさわっていますが、成年後見というのは、24時間いつでもなので、電話が来れば対応します。ただ、水曜日だけはそのために空けてあるのは、どうしても金融機関に行かなきゃいけないとか、役所の手続きをしなければならないことがあるからです。まあ、綱渡りの日々です。

奥地 たくさんの人たちを支えているんですね。


●全体を見る人がいない

田中 一口に困窮しているといっても、ひとつのところから見ているだけでは全体が見えないんです。たとえば「サザエさん」を例にとれば、サザエさんの家庭の5年後を考えるわけです。波平さんとフネさんが介護保険が必要になって入所したとします。そうすると、支援者からサザエさんは「お子さん」「娘さん」と言われる。あるいは、マスオさんの会社が倒産しかけて債務を抱えて、生活再建支援の相談に行ったとすると、今度は「奥さん」と言われる。また、カツオが非行に走って捕まって、身元保証人として警察に呼ばれると、「お姉さん」と呼ばれる。タラちゃんが病気になって病院に行くと「お母さん」と呼ばれる。ひとりの人が、いろんなことにからむわけです。そのひとつひとつだけを見るのではなく、全体を見ないといけない。ところが、児相でも、18歳をすぎたら支援が届かないですね。介護保険も65歳以上じゃないと基本的には使えないし、障害者手帳がなければ基本的には障害者サービスは使えないし、制度の狭間の問題がある。じゃあ、サザエさんがどれだけの困難を抱えているか、誰が全体を見ているのかと言ったら、誰もいないんですよ。

奥地 なるほど。

田中 そういう視点に立つことが必要だと思うし、そのなかで一番近いのが生活困窮者自立支援法かなと思います。いろいろなことをマップにしながら、どういうエピソードがあるとか、どういう関係があるかを並べていくんです。そして優先順位をどこにつけていくか、考えながら支援を考えていく。


●価値観はひとつじゃない

奥地 いまのお仕事は、ご自分の不登校経験とつながっていると思われますか? 不登校して考えたり得たりしたことと。

田中 直接的ではないと思いますが、国府台病院で、渡辺先生、看護師、分校の先生も含めて、スタッフの方たちが自分に関わってくれたことは、いまでも覚えているんです。恩返ししようと思ってやっているわけではないんだけれども、ほんとうによく関わってくれたなと思います。

奥地 原点というか、モデルになっているのかもしれないですね。

田中 そうかもしれません。やっぱり不登校したがゆえに、社会の価値観はひとつじゃないという生き方をしてきているんだと思います。たとえば、会社で汗水たらして働いて、やっと吉野家で牛丼を食べている人もいるし、不労所得でフランス料理をパカパカ食う人もいますね。でも、別にフランス料理にあこがれなんてないし、どんなにおいしいものだって、バケツいっぱい食べられる人なんていない。寝床だって、タワーマンションで寝る人もいれば、2万円台のアパートで寝ている人もいる。でも、眠る場所って、結局は布団1枚のなかですね。だから、僕はお金があれば誰でもできちゃうことには、あまり興味がないんです。
 資格試験だとか、自分の学びたい勉強をするのにも、ある程度のお金は必要なんだけど、お金だけで試験は買えないですね。自分なりの努力がないと、資格には結びつかない。そういうことは興味があるけど、お金があれば誰にでもできることには、僕は興味がないんです。もちろん、多様な価値観があっていいと思うし、お金の価値を否定する気はないんだけど、やっぱり価値観はひとつじゃないです。それはたぶん、不登校経験の影響があるんじゃないかなと思います。
 僕らのころは、いい学校に行って、いい会社に入って、いいお給料をもらうことがモデルの時代だったけど、けっして、それだけが価値ではないということは、不登校を経験して思いました。いま、支援者側になっても、まったくそうだと思います。


●「不」のままなのか?

奥地 不登校していた人と会ったりはしますか。

田中 意外と少ないですね。なかなか連絡がとれない。やっぱり、みなさんにとって、「不」のまま、なんでしょうかね。ひとり、看護師になって、おばあちゃんになっている人もいますし、フェイスブックでつながっている人もいますけど。

奥地 私は不登校専門でやってきたので、シューレの卒業生だけでも、通いのほうとホームエデュケーションを合わせたら、1年に数百人は出会っています。

田中 すごい数ですよね。

奥地 ほかにも、親の会に来る人とか、すべて不登校が対象です。毎日毎日、不登校の子どもと出会ってきているので、私たちにとっては、不登校はごく当たり前のことです。

田中 奥地さんが東京シューレを始めたのは、いわゆるソーシャルアクションじゃないですか。あの時代にそれを始めたというのは、とんでもない反逆精神だと思います。

奥地 始めて3日目の午前中に、教育委員会の人が事前連絡もなく来たんですよね。背広姿で3人で。「ここで何をやっているんですか」ときくから、「ここは学校へ行っていない子たちが来てるんですが、何かいけませんか?」と私が言ったんですよ。子どもたちは奥のほうに隠れて、息を飲んでいる。「私たちは親の会をやってきて、子どもたちもすごせる場所がほしいと思って始めたんだけど、そのおかげで、こうやって元気になっているんだし、友だちもできているし、ひとりで家でポツンとしているよりいいんじゃないですか。いけませんか?」と言いました。そうしたら「わかりました」と言って帰っていきましたけどね。当時は、なかなかたいへんでした。子どもの在籍校の校長なんかも「東京シューレへ行けるんなら、学校に来れるはずだ。なんで学校へ寄越さん」と言ってくるしね。「いや、別に私たちが囲い込んで学校に行かないんじゃなくて、学校には行けないけど、こっちには来たいと言って来ているんですよ」って(笑)。

田中 東京シューレを始めたのは、すごいことだと思うし、居場所づくりって、いまも子ども食堂とかやっているじゃないですか。貧困問題でも居場所って大切で、東京シューレのスタートは、そういうところだったと思うんですけど、シューレの影響で変わったことって、あると思いますね。ドラマでもフリースクールが出てきたりする時代じゃないですか。僕らの時代じゃありえなかったですね。

奥地 ドラマに出てきたときは、私もびっくりしましたね(笑)。だんだん、輪が広がって、いまは全国にもいろいろできています。

田中 親の意識も、学校へ行けないからって無理に学校へもどすのはいいことではないと、最近は考え方が変わってきていますしね。

奥地 国も変わってきたんです。

田中 そうですね。

奥地 文科省は「不登校を問題行動と判断してはならない」と、全国へ通知まで出してくれています。

田中 それは地道な活動の成果だと思います。やっぱり行政主導じゃダメなんですよ。

奥地 私たちは、親が大事だと思ってます。親の意識がどう変わるか。私たちは希望会から学んで、登校拒否を考える会をつくり、そこに渡辺先生に来ていただいていました。国府台病院を定年退職されたあとは、お亡くなりになるまで、東京シューレにも来ていただいていました。


●スキルアップできない人も含めて世の中

奥地 最後に聞きたいんですが、『登校拒否・学校に行かないで生きる』で、お母さんが「子どもの行動は、そのままの状態をイエスとして受けいれる」と書いておられましたが、いま、達也さんはどう考えられますか。

田中 否定から入らないということですね。知的障害の子でもそうなんですけど、言葉でうまく表出できないことってありますね。小学生でも、言葉にはできなくても反応として出ていて、なんとなく動きが悪かったり、なんかピッチが悪かったり、波がある。だから、いまの状態を否定するところから入らないことだと思います。「なんでダラダラしているの?」じゃなくて、ダラダラしているのには、その子なりの背景があると思いますのでね。
 いま、私も孫がいますけど、子育てというのは、親も子どもをもって、初めて親になりますからね。親1年生から始まって、親も子育てしながら、1年ずつ親になるんだと思うんです。そこはとても大事なところかな。だから、子どもの誕生日は、生んだ人の記念日でもあるんですよね。

奥地 そうですね。スタートですね。お母さんも、渡辺先生との出会いもあって、子どもを受けとめられる親になられていたというのは、幸せなことだったと思います。

田中 そう、思います。最後のほうは、ちょっと認知が入ってきたりしていたんですが、病院についていったり、週2回ぐらい買い物をしたりして、最期まで、母とはとてもよく話をしました。

奥地 そうですか。すごいですねえ。

田中 僕が生活困窮に関われば、その話をしましたし、仕事の話はよくするほうでした。ひとつおぼえているのは、小泉政権のとき、スキルアップとやたら言われた時代がありましたね。僕はある面では、それに賛成なんです。やっぱり努力してやっていくのは大切だと思っている。そんな話を母としたことがあったんです。自分で努力してスキルアップしていくという姿勢も必要だよねと話したとき、母がぽつんと「でもねえ、世の中、スキルアップできる人ばかりじゃないんだよ。スキルアップできない人も含めて世の中なんだよ」と言ったんです。

奥地 それは、とくに福祉の世界では、大事な言葉でしょうね。

田中 はい。それを福祉の専門家でもない母から言われたとき、まったくその通りだと思いました。たしかに、スキルアップできる人ばかりじゃない。障害を持っている人だっていれば、努力が報われない人もいれば、努力はしているけれども給料が少ない人もいる。それもひっくるめて世の中なんだと。スキルアップすればいいという考え方は一面的な考え方だということを、だいぶ大人になってから母に言われて、それはいまでも心に残っています。福祉職として、それはいつも胸に置いておきたいことです。

奥地 今日は懐かしい話を含め、いいお話たくさん聞けました。ありがとうございました。

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*1 渡辺位(わたなべ・たかし/1925―2009):児童精神科医。国府台病院で児童精神科医長を務め、登校拒否は個人病理ではなく、学校を含めた社会への子どもの防衛反応であると、いち早く世に訴えた。

*2 PT: Physical Therapist:理学療法士
posted by 不登校新聞社 at 14:36| Comment(0) | 当事者
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