2018年03月22日

#36 常野雄次郎さん

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(つねの・ゆうじろう)
1977年、兵庫県赤穂市生まれ。小学校3年生の終わりに千葉県市川市に転校。その後、小学校4年生から登校拒否。1年ほど家にひきこもり、11歳から東京シューレに通う。13歳のとき、『学校に行かない僕から学校に行かない君へ』(東京シューレの子どもたち編/教育史料出版会1991)に、著者のひとりとして書いている。アメリカ、イギリスに留学し、イギリスのランカスター大学を卒業。2005年、貴戸理恵さんとの共著で『不登校、選んだわけじゃないんだぜ!』を出し、明るい登校拒否や学校を選択するという考え方を批判した。

インタビュー日時:2017 年8 月3 日
聞き手:貴戸理恵、山下耕平、山田潤
場 所:関西学院大学大阪梅田キャンパス
記事編集・写真撮影:山下耕平
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〈テキスト本文〉

貴戸 まずは、ご自身の不登校の経験から教えていただければと思います。

常野 私は不登校児だったことはなくて、登校拒否児だったんですね。なので、不登校ではなく登校拒否経験ということになります。本来、不登校でも登校拒否でも、どちらでもいいんですが、私の時代は登校拒否と呼ばれていて、そこにあった侮蔑的な意味合いを避けるために、何か腫れ物にさわるのを避けるように、不登校という言葉に代わってきたように感じているので、少なくとも自分のことを言うときには登校拒否と言っています。
 まず、登校拒否になる前のことを話をしますと、私は1977年生まれで、小学校に入ったのは1984年です。すごく学校に適応する子どもで、先生という権力者にも好かれてましたし、授業も楽しくて友だちも多かったんです。当時は兵庫県赤穂市の小学校に通ってました。学校では、運動会や行事の練習という名目で、毎日のように軍隊行進をさせられてました。だけど、私はそれに合わせるのが上手で、あまりにも私の行進に合わせるリズム感がいいので、教師が「みなさん、常野くんのリズムに合わせましょう」と言うぐらいでした。よく登校拒否の体験談で、学校に行けなくなるきっかけとして、学校に適応できなかったことが語られますが、私の場合は、むしろ適応しすぎていたんです。


●もう人生おしまいだ

貴戸 行けなくなった直接のきっかけはあったんですか。

常野 小学校2年生の終わりごろ、なんとなく行けなくなったことがあったんですが、学年が変わってからは、また何の問題もなく通っていました。その後、小学校3年生の終わりに千葉県の市川市に転校したんです。千葉県は管理教育で有名ですが、体罰がイヤだったとか、陰湿ないじめがあったということはなくて、なんとなく行けなくなってしまったんですね。
 私は「学校信仰のジレンマ」と名づけているんですが、学校なんて行かなくてもいいじゃないかという考えがあったら、1〜2日休んでも、また行けばいいと思える。しかし学校は絶対に行かねばならないと強く信仰していると、ちょっとの休みで「いけないことをしてしまった。もう顔見せできない」と思って、1週間、2週間と休むようになって、それが1カ月、2カ月となって、どんどん行けなくなってしまう。私の場合は、そんな感じで学校に行けなくなって、「もう人生おしまいだ」と思ってました。

山下 行かなくなり始めたのはいつごろですか?

常野 小学校4年生の10月ごろです。1987年のことですね。

貴戸 学校に行かない子はダメな子だというのは、誰かから言われていたのか、それとも自分で感じていたのでしょうか。

常野 誰かから明示的に言われたというよりも、当時の社会規範を内面化していたということだったと思います。

貴戸 五月雨登校のようなことはなかったんですか?

常野 学校信仰が強いがゆえに、そういうことはなかったですね。

山田 転居・転校がなかったら、登校拒否もしてなかったと思いますか?

常野 どうでしょうね。

山田 私たちは「学校に行かない子と親の会(大阪)」を1991年に始めたんですが、そのころでも、関東から転居してきた子たちが、言葉でいじめられて学校に行けなくなるという話を多く聞きました。言葉というのは、かっこうのいじめの対象になりますね。常野さんの場合は、どうだったんでしょう。

常野 そういうことはなかったですね。言葉でトラブルになることはなかったです。

貴戸 学校に行けなくなるのって、スモールステップの積み重ねのように思うんです。私の場合だったら、朝起きられないとか、朝ご飯が食べられないとか、ランドセルを背負うけど、おなかが痛くなってしまうとか、そういうことがありました。常野さんの場合は、どういう感じだったんでしょう。

常野 そんなにドラマチックなエピソードはなくて、なんとなく行けなくなったという感じだったんです。行けなくなるまでは、そんなにイヤなことはなかったんです。しかし、行けなくなったことで、どんどん落ち込んでいったんですね。自分は学校にも行けない悪い子だ、将来どうなるんだろうと。

●親や教師の対応は

貴戸 親御さんや先生の反応はどうだったんでしょう。

常野 ふたつ年上の兄が先に登校拒否になっていて、兄に対しては、親は無理やり学校につれていったりしていました。医者めぐりもしていましたが、それではうまくいかない、無理やり行かせても仕方ないということがわかってきていたので、私に対しては「行きたくないなら行かなくていいよ」という感じでした。

山下 親御さんは、親の会などに行ったりはしてたんでしょうか。

常野 親の会はわかりませんが、赤穂にいたときから、講演会に行ったり、医者めぐりをしたり、本を読んだりしてたと思います。市川に引っ越してからは、国府台病院に行ってました。渡辺位さんは予約がいっぱいだということで、齋藤万比古さんにかかっていました。私は一度も診察は受けてないんですが、親が行ってました。

貴戸 そこから東京シューレにつながるまでは、どういう経緯だったんですか。

常野 親から東京シューレのことを聞いて、行きたいとは思ってたんですが、当時は予約待ちだったんですね。ひきこもっていて苦しい、どん底の状態のなかで数カ月待って、11歳のとき、小学校5年生の秋ごろから通い始めました。

山下 それまでの1年間ほどは、どう過ごしていたんでしょう。

常野 毎日、自分は学校に行けない悪い子だと親に訴えて泣いたり、物にあたったり、とにかく苦しかったですね。
 日常的な過ごし方としては、朝10時ごろに起きて、テレビで「100万円クイズハンター」を見て、時代劇の再放送を見て、昼寝して、13時ぐらいから、また「遠山の金さん」とか時代劇の再放送を見て、夕方から水戸黄門の再放送を見て、という感じでした(笑)。いま思えば、赤穂へのノスタルジーがあって、歴史ものに興味を持ったのかもしれないですね。

貴戸 赤穂と市川では、町の風景や空気感はかなりちがったんじゃないでしょうか。

常野 ぜんぜん、ちがいましたね。市川というよりも、最初に新幹線で東京に来たとき、ビル群を見て衝撃を受けたのはよく覚えてます。


●胸にぽっかり空いた穴

山下 いわゆる「2次症状」というか、強迫神経症だとか身体症状として出ているようなことはあったんでしょうか。

常野 身体症状はなかったですね。ただ、胸にぽっかり穴が空いたような感じはしていました。

貴戸 常野さんは13歳のときに『学校に行かない僕から学校に行かない君へ』(東京シューレの子どもたち編/教育史料出版会1991)に経験談を書かれていますが、そのときは「学校に行かないでまともな職に就けるのだろうか」と不安に思っていたけれども、それは「馬鹿な心配」だったと書かれていましたね。

常野 学校に行かないと、まともな職業に就くことはできない、自分は「こじき」になるんじゃないかと心配していました。私は、いまでこそ野宿者とつきあいがあったりするんですが、当時は「こじき」という言葉を使って、非常に強い差別意識を持っていましたね。

貴戸 それは誰かに言われてたんでしょうか。

常野 それも、社会の価値観を内面化していたということだと思います。

山下 学校からの働きかけはどうだったんですか?

常野 そんなに働きかけてくることはなかったですね。

山下 当時としては、めずらしいですよね。そうすると、親からも学校からも圧力が強かったわけではなかったんですね。貴戸さんも、似たようなことをおっしゃってますね。

常野 むしろ、自分で自分を責めていたんです。

貴戸 私はすごくまじめな子どもだったんですよね。親や大人からの要求には、明示される前に従わないといけないと感じていた記憶があります。そういう意味では、たしかに似ているかもしれないですね。
 学校に行かなくなって、友だちや勉強については、どうなったんですか。家で勉強していたんですか。

常野 まったく途切れて、いっさい勉強してなかったですね。シューレに行ったときは11歳でしたけど、算数の九九を完全に忘れてました。

山下 休み始めてしばらくしてからは、薬を飲んでたそうですね。

常野 正確には覚えてないんですが、親が代理受診して国府台病院から薬をもらってきていました。どんな性質の薬かはわかりませんが、粉薬で、もしかすると偽薬だったのかもしれません。とにかく苦い薬だったのは覚えてます。

山下 シューレに行くまでの1年のあいだの話ですよね。

常野 そうですね。効能としては不安を解消する薬だと言われていたんですが、飲んでも何の効果もなかったですし、とくに副作用もなかったです。いつ飲み始めたかは覚えてないですが、やめたのは、シューレに行って1週間ぐらいしてからでした。


●どん底から一転して

貴戸 常野さんが最初にシューレに行ったときは、どんな感じだったんでしょう。

常野 私が行っていたころは、北区東十条のアパートでやっていたんです。狭くて汚いところで、そこに子どもたちがたくさんいて、ボードゲームをしている子もいれば、トランプしている子もいました。当然ですが、シューレもパラダイスみたいなところではなくて、そこに適応していく子もいれば、合わなくて来なくなる子もいました。私の場合は、最初の1週間くらいは緊張して誰とも話せなかったんですが、声をかけてくれる人もいて、だんだん友だちができてきて、それからは、ものすごく楽しくなって、それまでのどん底から打って変わって、超ハイテンションになっていました。

貴戸 シューレでの最初の出会いの場面は覚えてますか。

常野 最初に、代表者の奥地圭子さんと母と私の3人で話して、奥地さんから「学校に行かないのは悪いことでもないし、法律違反でもないんだよ」と言われたのは覚えてます。その瞬間にどう思ったかは覚えてないんだけど、同じように学校に行かない子どもたちが楽しそうに遊んでいる場で、そういうことを言われたことには、かなりの説得力がありました。

山下 言葉だけではなくて、その場が持っている説得力があったわけですね。

常野 自分と兄だけではなくて、ほかにも学校に行かない子どもたちがたくさんいて、しかも、みんな楽しそうにしているということは、ひとつの衝撃というか、それによって、それまでの学校信仰を捨て去ることができたところはあります。

貴戸 親が認めてくれているだけでは、不安は解消しなかったということでしょうか。

常野 シューレに行く前、家にひきこもっている時期、親は学校に行かないことについて受容的だったけど、あいかわらず自分は苦しくて不安でした。それがシューレに出会うことによって楽になったのは、たしかです。


●登校拒否という名前の効用

貴戸 ひきこもっていた期間に、人とつながりたいという欲求はあったんでしょうか。

常野 とにかく、いまの状態ではどうしようもないという気持ちが強かったかな。

貴戸 学校信仰を捨て去ることができたのは、何が大きな要因だったんでしょう。

常野 山下さんは、共著で『名前のない生きづらさ』(野田彩花、山下耕平/子どもの風出版会2017)という本を書かれてますが、私の場合は、名前がひとつのカギになっていたんです。学校に行かなくなって、登校拒否というレッテルを貼られたわけだけれども、シューレと出会うことによって、登校拒否というレッテルを貼られた者たちがほかにもいるんだ、そこでつながれるんだと知ることができた。名前には、そういう効用がありますね。たとえば、クィア(*1)などもそうだと思ます。もともとは差別的なレッテルなんですが、その名前は抵抗のためのツールにもなる。私の場合は、それがシューレとの出会いによって起きたんです。ただ、それは明るい登校拒否ストーリーの問題ともつながるのですが……。

山下 シューレにいたのは、11歳からどれぐらいの期間だったんでしょう。

常野 フルタイムで行っていたのは2年半くらいかな。その後、1年ぐらいブランクがあって、もう1年くらいは週1で通ってました。そのころは同じ北区の王子に移転してました。私が14〜15歳ごろのことですね。

山下 フルタイムで行ってたころは、どんな感じで過ごしてたんでしょう。

常野 毎日、友だちと遊びほうけてました。授業らしきものもあって、出るも出ないも自由だったんですが、私は出ていました。ただ、長時間ではなかったので、それ以外の時間はずっと遊んでましたね。

山下 どういうことが楽しかったですか。

常野 やっぱり友だちと話したり、議論したりしたことですね。

貴戸 登校拒否について議論したこともあったんですか?

常野 あったと思います。具体的には覚えてないけれども、たとえば、「学校に行かないほうがえらい派」対「別にどっちでもいいじゃん派」みたいな。あるいは、もし自分に子どもができたら学校に行かせるかどうかとか。私は、シューレに行き始めた当初はハイテンションだったので、逆転現象のように、むしろ学校に行かないほうがえらいと思ってました。ただ、数カ月して落ち着いてきたころには、行っても行かなくてもいい、それは選択できるようになるべきだという考えに落ち着いてました。

山下 フリースクールに来る人でも、みんながそういう議論をしたいわけじゃないですよね。単純に遊べたり、ほかの子と過ごすことが楽しかったりする。でも、常野さんの場合は、ほかの人と議論や話ができたことの意味が大きかったんでしょうか。

常野 そうですね。登校拒否のほかにも、政治、原発、環境問題などの議論もしてました。

貴戸 おたがいの登校拒否経験を話すことはありましたか?

常野 どうだったかな。シューレでは「シリーズ人間」という授業があって、弁護士さんとか、障害児教育をやっている人とか、いろんな仕事や活動をしている人が来てたんですね。そのなかで子どもたちが話すこともあって、そこで自分の経験を話したことがありました。学校に行けなくなった経緯を話して、苦しかったけど、いまは幸せですみたいな話をした覚えはあります。

山下 ほかの子どもたちの話を聞いて、刺激を受けるようなことはあったんですか。

常野 そうですね。シューレに入って数カ月後ぐらいから、シンポジウムに出たりもしてました。でも、ほかの人の話はあんまり聞いてなかったかもしれないですね。当時は独善性が高かったので、聞いてはいても、ちゃんとは聞いてなかったんだと思います。
 あとは、月1回、東京シューレ通信を出していたので、そこに書くことはありました。ふだんの活動の予定とか感想とか、そういうものもありましたし、戸塚ヨットスクール事件の判決が出た際だとか風の子学園事件(*2)のときには特集を組んだりして、そういう発信もしてました。『学校に行かない僕から学校に行かない君へ』出版も、その一環だったと思います。


●社会の側がまちがっている

貴戸 学校に行かないことについて、シューレのなかでは受容されても、シューレを取り巻く社会がありますね。そのあたりへの意識は、どうだったんでしょう。

常野 社会の側がまちがっている、この社会を変えていかねばならないという気持ちになってましたね。

貴戸 「いまはシューレにいるけど、いつかは社会に出ていかなければ」と思うのではなくて、「この社会を変えていく必要がある」と、当時から思っていたんですか。

常野 そうです。

山下 ほかの人はどうだったんでしょう。

常野 基本的に、みんな似たようなことを話してましたね。いじめ、体罰、制服など学校の具体的な批判をする人もいれば、学校に行くことを強制する社会への批判もありました。シューレ内優等生というか、そういう人が話しているので、似たような話になっている傾向はあったと思います。

山下 しかし、先ほどの話だと、先行して誰かが語っているのを聞いて、それを追っかけるように自分が語っていたということではないわけですね。

常野 影響はあったと思いますが、誰かをコピペするような語りではなかったと思います。

山下 だとすると、似たような語りになっていたというのは、なぜだと思いますか。

常野 学校に行かないことをポジティブに捉えていたり、シューレをいいところだと思っていたり、奥地さんとも仲が良かったりする子が登壇するので、結果的に似ていったんだと思います。もちろん、台本を書いたとか、自分にウソをついたことはないです。

山下 私も東京シューレでスタッフをしていた経験がありますが、不登校のことを考えたり、学校のことを捉え直すようなことは、実際の活動のなかでは、ごく一部だったと思います。そういうことと関係なく、いっしょに遊んだり、ご飯をつくって食べたりという日常がある。あるいは、不登校のことだけではなく、否定的な気持ちでいる子の話を聴くことも多い。当然のことですが、外に向かって語られていることは、ごく一部だったと思います。でも、外からは、本やシンポジウムなどでの語りが大きく見えてしまう。そのあたりについては、どうでしょう。

常野 そうですね。基本的には遊んでましたけど、当時は、日常の活動も外に向かって語ることも矛盾しているとは思ってなかったですし、一致していると感じてましたね。

貴戸 シューレに行き始めてから、家族との関係は変わりましたか?

常野 元気になったので、親は安心してたと思います。


●フリースクールではなかった

常野 これは大事なところだと思うんですが、当時、シューレは「フリースクール」じゃなかったんです。私の記憶では「フリースクール」とは言ってなかったですし、あらゆる点で、学校ではないということを強調していました。たとえば、校則がないということも強調していました。ただし原則はあって、ミーティングには出る、掃除はするということになってたので、「じゃあウソじゃん」と思ったりもしましたけど、学校は管理主義であるのに対して、シューレは自由で子どもの自治でやっているということでした。それと、シューレという名前も、奥地さんはギリシャ語で「精神を自由に使う場」だと言ってました。シューレはドイツ語で学校を意味しますし、それも同じ語源から来ているんですが、当時はそれぐらい、学校ではないということを強調してました。

山下 そうすると、子どもたちのあいだでも、フリースクールに来ているという認識はなかったわけですか。

常野 そうです。あえて言えば居場所、学校に行かない子どものための居場所でした。

山下 子どもたちのあいだから、シューレがフリースクールを名乗り始めたことに対する反発があったりはしたんでしょうか。

常野 そのあたりでシューレとは縁が切れているので、なんらかの議論があったのか、さりげなく変わったのか、わかりません。

山田 シューレの話ではありませんが、関西でもフリースクール研究会が開かれていて、そこでは、フリースクールは不登校の子の受け皿ではない、おかしいという議論がずっとありましたね。

山下 フリースクールやオルタナティブスクールと学校外の居場所というのは、文脈が異なるけれども、重なってきたところがありますね。どのように重なってきて、重ならないところがあったのか、よく考えたいところのひとつです。
 常野さんの個人史にもどりますが、2年半くらいシューレに通って、いったん距離を置いたということでしたが、それはどういう経緯だったんでしょう。

常野 ちょっと飽きたかなという感じですかね。それからは家にひきこもっていたんですが、以前とちがって自己肯定感は持っていたので、そんなに苦しいとか不安ということはなかったですね。

山下 とくに、辞めるきっかけがあったわけではないんですね。

常野 とくにないですね。強いて言えば、移転の話が持ち上がったとき、いったんは、すごく遠くに移転するという話があって、それでは通えないと思ったことはありました。でも、結局は隣駅の王子になって、王子に移転すると同時に辞めてるんですが、移転が理由ということではなかったです。


●学歴社会に屈服したくない

山下 中学校卒業後はどうされたんでしょう。

常野 新宿山吹高校(*3)という、高校中退や登校拒否の受け皿としてつくられた単位制高校ができてまもないころで、そこに入学しました。だけど、最初から卒業するつもりはなくて、勉強だけしたいと思っていたんです。入学したときに書いた作文でも「卒業するつもりはありません」と書いてました。

山下 それは批判意識からでしょうか。

常野 そうですね。学歴社会はおかしいと思っていたので、卒業資格を得ることは、その学歴社会に屈服することだと思っていたんです。

山下 シューレは学校とはちがう学びの場として、学びを広く捉えるということも言っていましたが、そういう学びでは不安があったということはありますか。

常野 いや、そういうことはなかったですね。ただ、学んでいるという意識はなくて、遊んでいるという意識でしたね。

貴戸 たとえば、英語とか数学とかの教科は、ぜんぜんやってなかったんですか。

常野 いちおう授業はあって、それには出てました。

山田 私も定時制高校の教員をしてきたので、山吹高校ができたころ、新しいタイプの高校に関心があって見学に行ったことあります。私がいちばん感激したのは、授乳室があったことです。というのは、定時制高校にも乳母車で赤ちゃんを乗せてくる女性がいて、教員のあいだで、そういうことをどう考えるかという議論になると、具合が悪いという人もいたんです。あるいは、飲み屋で働いている女性が化粧したまま来るのをどう思うかとか。僕はええやないかと思っていたんですが、山吹高校で授乳室を見て、ここまで来ているのかと感激したんです。
 常野さんは、山吹高校では、勉強したいという思いに対する手応えはあったのですか。

常野 いや、ちょっと期待外れでしたね。ほとんどの子は、勉強に興味を持ってなくて、授業も高度な内容にはいっさい触れなくて、いま思えば、山吹高校に通うぐらいだったら、自習していたほうが効率がよかったと思います。
 山吹高校には2年間通って、籍だけは3年間置いてました。単位制なので学費は安く済んで、学割を使えたら、そのほうがよかったので(笑)。
 勉強しているうちに、どうしても大学に行きたくなって、その後、数カ月間は受験勉強を長時間やりました。おもに自習で、たまに予備校の単科講座をとったりしてました。

貴戸 大検(現在の高等学校卒業程度認定試験)をとって受験したということですよね。苦労はなかったですか?

常野 大検は山吹の2年目ですべての科目をとってました。あまり苦労はなかったですね。学校の授業は同じことをくりかえす面があるので、途中が抜けていても、最後の部分をやればいいんですね。私は学校の勉強に向いていたんだと思います。

貴戸 私も小学校には行ってなかったんですが、いま、小学生の親をやっていてしみじみ思うのは、そのときに学力が抜けなかったというのは特権的なことだということです。常野さんの場合も、そういう部分があるんじゃないでしょうか。

常野 親が中産階級で高学歴だったので、文化資本的には高かったと思います。むしろ、多くの学校に行っている子よりもポテンシャルとしては高かったかもしれません。

山田 学校の勉強という点では、基礎はできていたんでしょうね。僕が定時制高校の教員になってショックだったのは、そういう環境のまったくない子がいることでした。それまで、そういうことに気づかなかった。いまは、それがもっとひどくなってますよね。


●進学は裏切り?

山下 大学に行こうと思ったきっかけは?

常野 何か学問をやりたかったんですね。当時の関心は、考古学や歴史学でした。受験勉強は、数カ月ぐらいやったら目処がついて、どこかに受かるだろうと思えたんですね。そこで立ち止まって、「あれ、自分は高校も卒業しないと言っていたのに、この学歴社会にこのまま入ってしまっていいんだろうか」と悩んで、ノートに「大学に行きたい。でも、大学に行くことは自分の出身コミュニティへの裏切り行為だし、学歴社会で特権層にまわることだからまずいのではないか」といったことを、いろいろ書いてました。結局、1カ月ぐらい悩んで、10月ぐらいに受験を辞めることにしたんです。

山下 出身コミュニティへの裏切りとおっしゃいましたが、シューレの出身者で進学している人も多かったですよね。

常野 そうですね。ただ、進学した人でも、葛藤のあった人は多かったと思います。私以外にも、シューレ通信に高校には行かないと書いていた人もいましたし、一方で、実際には受験に落ちて進学しなかったけど、「それでも僕は学校に行きたい」というタイトルの文章をシューレ通信に載せた人もいました。当時は、進学した人でも、のほほんと進学した人は少数ではないかなと思います。

貴戸 たとえば、進学した人に対して「あいつは裏切った」というような声が実際にあったんですか。

常野 そういうことはなかったです。自分自身のなかで葛藤があったということですね。

貴戸 学校といっても、義務教育と高等教育とでは、かなりちがいますよね。高等教育は批判的な思考を学ぶ場ですから、義務教育がイヤという気持ちと、大学に行きたいという気持ちは両立すると思うんですが、常野さんにとって学校というのは、小・中・高・大をすべて含めて「学校」と捉えていたということですか。

常野 そうですね。

貴戸 そうすると、学問をやりたいという気持ちは、その後はどうされたんですか。

常野 引っ越しの手伝いとか、お歳暮の仕分けとかのバイトをしながら、自分で本を買って読んだり、都立大(当時)で教育学者の小沢有作さん(教育学者/1932―2001)が「パウロ・フレイレを読む」というゼミを持っていて、そこにもぐらせてもらったりしてました。最初は科目等履修生で入ったんですが、ほかにももぐっている人がいたので、お金を払うのがもったいないので、もぐらせてもらってたんです。

貴戸 そのゼミは、知的欲求を満たすものだったんでしょうか。

常野 そうですね。ただ、実質、私とほかの学生との議論というかケンカになっていました。パウロ・フレイレ(*4)の『被抑圧者の教育学』は教育そのものに批判的な思想なんですが、教育学部のゼミだったので、教育が好きな人が多かったんですね。もちろん、いまの教育には批判的なんだけど、学校をなくすとか、教育そのものを疑うというようなことになると、全員と意見が合わない。常にその議論になってました。


●東京シューレと脱学校論

山下 常野さんのなかで、学校や社会を批判的に見る足場として、まずはシューレがあったわけですね。思想的には、フレイレのほかに、たとえばイヴァン・イリイチ(*5)の脱学校論などに影響されたとか、ほかに思想的な影響はあったんでしょうか。

常野 イリイチも読みましたし、当時、おそらく一番、影響を受けた人をひとりあげるとすれば、佐々木賢さん(本プロジェクトインタビュー#07参照)です。17〜18歳のころ、佐々木さんの『学校を疑う』(三一書房1984)とか『教育という謎』(北斗出版1992)という本をくりかえし読んでました。『怠学の研究』(三一書房1991)という本は、シューレの読書会で読んだ記憶があります。

山下 シューレの論調と脱学校論は同じではありませんよね。シューレでは、学校制度そのものを否定するようなことは言われてなかったように思います。

常野 そうですね。ただ私のなかでは、シューレで身につけた価値観が基盤にあったからこそ、佐々木賢さんやイヴァン・イリイチに共感できたところがあると思います。
 シューレの思想というのは、いわばリベラリズムです。個性に合わせて、学校に行きたい子は行けばいいし、行きたくない子は行かなくてもいい、その子が選択すればいい、そういう世の中にしていくべきだということですよね。しかし、当時は強烈な学校社会だったので、その文脈のなかでは、シューレのリベラルさはラディカルさを持っていたんだと思います。
 たとえばフランス革命だって、ブルジョワ革命にすぎないとも言えますが、それまでの中世の貴族王族の支配する社会においては、そのブルジョワ革命がラディカルだったわけです。同じように、シューレのリベラルさは、いまの私からすると生ぬるいと思うのですが、当時においては、社会とガチでぶつかるものだったと思います。ところが、社会のネオリベラル化が進んで、「選択」とか「個性」という言葉が社会の支配的な価値観に変容してきたなかで、シューレのリベラルさはラディカルなものではなくなったわけですね。そういうなかで、シューレは社会の支配的価値観の側になっていったんだと思います。私としては、当時のシューレの思想を引き継ぎつつ発展させたのが自分だと考えています。


●アメリカからイギリスへ

山下 一方で旧態依然たる価値観も根強いので難しいところだと思いますが、そのあたりは、またうかがっていくとして、常野さんの個人史をもう少しうかがいたいと思います。大学はどこに行かれたんでしょう?

常野 最初は、19歳のときにアメリカに語学留学したんです。アーカンソー州立大学ジョーンズボロ校という学校で、大学付属の語学学校だったので、大学図書館も利用できて、そこでランドル・コリンズ(*6)の『資格社会』という本を読んだりしていました(ランドル・コリンズも、佐々木賢さん経由で知りました)。そうしているうちに、大学図書館はゴージャスだし、なんか大学に行ってもいいんじゃないのと思って、軽く転向してしまったんです。

貴戸 語学留学をしようと思ったのは、どういうことだったんですか。

常野 社会学に興味を持っていて、それを大学に進学しないかたちでやろうと思っていたんだけど、当時の私は社会学の本場はアメリカだと誤解していて、英語が読めれば、直接アクセスできると思ったんです。いま思えば、すでに英語力はついていたので、語学留学は必要なかったかもしれないです。ただ、語学留学がなければ大学に進学する気にもなってなかったと思いますが。

山下 大学進学への抵抗感や葛藤は、「出身コミュニティへの裏切り」という思いと、脱学校論の影響など、両方あったということですかね。

常野 そうですね。でも、軽く転向してしまった。大学は、リバーサイドコミュニティカレッジというカリフォルニアの大学に行きました。そこからイギリスのランカスター大学に編入したんです。1学年、アメリカにいて、イギリスの大学に2年次編入したかたちですね。

貴戸 留学費用はどうされたんですか。

常野 最初のうちは親のサポートを受けていて、イギリスのランカスター大学の2年次が終わってから帰国して、日本で2年間、英語の講師をして働いて、残り期間は、そのお金でまかないました。

貴戸 なんでアメリカからイギリスに行ったんですか?

常野 イマニュエル・ウォーラーステイン(アメリカの社会学者)の書いたものがおもしろかったので、彼のいるニューヨークの大学にも応募して受かっていたんです。ただ、インターネットが普及してきたので、いろいろリサーチしていたら、イギリスの大学の学習のあり方が、学部段階から日本の大学院のようなイメージだったんですね。授業数が少なくて、図書館にひきこもって学習する。そのシステムのほうを選んだ感じでした。

貴戸 修士課程は?

常野 日本にもどってから大学院に行きましたが、途中で辞めました。30歳ごろです。震災の年でしたので2011年です。


●学校をなくすとは

山下 社会学を学んだことによって、シューレの言説を問い直したようなことはあったんでしょうか。

常野 そうですね。社会学のなかにカルチュラル・スタディーズ(*7)がありますが、カルチュラル・スタディーズというと日本ではおしゃれな感じがするけど、イギリスでは極左の学問なんです。そこで物事を関係で捉えるという視点を得て、フェミニズムの家父長制という言葉やイリイチの考えなどを組み合わせて考えるようになりました。つまり、個々の学校が問題というよりも、この社会全体を学校というものが、あるいは教育が覆っている。しかも、そこには支配関係、抑圧と被抑圧の関係がある。それを変えるには、被抑圧者が抑圧者を打倒しないといけないと考えるようになりました。
 私は学校を廃止すべきだと思っていますが、「学校をなくす」というと、よく「給食でしかご飯を食べられない子はどうするんだ」「文字の読めない子はどうするんだ」と反論されます。しかし、学校をなくすというのは、いまの社会をそのままに、そこから学校だけを引き算するということではなくて、社会全体のあり方、社会の仕組みを変えることです。つまりは、ひとつの革命です。そう考えるようになりました。

山下 なるほど。シューレの考え方が「生ぬるい」と感じるようになったのは、そのあたりからなんでしょうか。

常野 そうですね。シューレが言ってきたのは、学校に行く人もいれば、行かない人もいていいということですね。しかし、私は学校に行かない人の人権が十全に保障されるためには、学校をなくさないといけないと思ってるんです。あなたは学校に行ってください、私は行きません、私は私でしあわせです、というわけにはいかない。なぜなら、図書館だろうが、公園だろうが、映画館だろうが、どこにいようと、すべての社会領域を学校が埋め尽くしているからです。そこに外部はない。そう考えたわけです。

貴戸 わかるんですけど、たとえばフェミニズムのなかでも、田中美津さん(*8)は「とり乱しウーマン・リブ論」なんて言ってましたね。社会をラディカルに問い直しながらも、男の前では女らしくしてしまう私がいる、という。とり乱しつつ、あいまいな部分も含めて、私は私でいいと考えていく。同じように、ラディカルに学校や社会のあり方を根本的に変革しようとしながらも、具体的な日常のなかで学歴が不必要かといえばそうではなくて、大学に行くということもある。そういうあたりについては、どう思いますか。

常野 それは、ずるいんじゃないかなと思いますね(笑)。私は、どちらかをとるしかないと思います。
 革命って、いきなり3カ月後に起こしましょうといって起きるものではないですね。それまで学校社会のなかで生き残っていく必要はある。私は「とり乱し」という言葉には違和感がありますけど、そういう意味では、学校と関わりを持たざるを得ないというのはわかります。先ほども言ったように、いまの社会から学校を引き算することが学校廃止論ではないわけです。個別の学校を攻撃すればいいという話ではない。
 たとえば、夜間中学校や定時制高校がいまの社会で果たしている役割というのもありますね。あるいは、最近、朝鮮学校の高校無償化が問題になってますが、就学支援金から朝鮮学校が排除されている。それを朝鮮学校も学校なんだから否定していいという話ではない。日本の植民地支配の結果として在日朝鮮人がいる以上、民族教育を保障する義務が日本国家にはある。だから、無償化からの排除には断固反対していかなければならない。支離滅裂に見えるかもしれないけど、私はそう思います。
 たとえば、原発を廃絶するためには、原発が老朽化してセキュリティが弱くなって、放射能漏れ事故が起きるようになればいいということではないですね。学校を廃止するには、この社会全体を変えることが必要なんです。それは日本の植民地主義を精算することであり、健常者中心主義や家父長制を変えていくことであり、資本主義を変革することでもある。そして、それらは同時に行なわれなければならない。ただ学校をなくすだけでは問題は解決しないし、ほんとうの意味で学校はなくならない。そうでなければ、学校よりもおそろしい、いやな教育ができあがってしまうと思います。

山下 先ほど「学校の外部はない」と言っておられましたが、シューレにいた当時は、シューレは学校の外だと思えていたんでしょうか。

常野 そうですね。それをシューレにいたころは強調していましたね。シューレが中学校を持つなんて、当時は想像できなかったことです。しかし結局は、シューレも「学校」なわけですよね。


●明るい登校拒否をめぐって

山下 東京シューレにかぎらず、不登校を肯定する論調のなかで、学校に行かなくても社会ではやっていけるという語りは多くあったように思います。『不登校、選んだわけじゃないんだぜ!』を貴戸さんと共著で出されたとき、常野さんがそこに異を唱え、「明るい登校拒否」を厳しく批判されたのは、よくわかります。
 しかし、常野さん自身の経験と、書かれていることにはギャップも感じるんですね。たとえば、常野さん自身、学歴について葛藤があったわけですね。常野さんは、高学歴者の特権は低学歴の人への差別によって支えられているのであって、「登校拒否児に必要なのは、学校エリートに「理解」してもらうことではない。彼らを打倒することだ(って言ってる僕も「大卒」の側なんですが……)」と書かれていますが、不登校と低学歴はイコールではないですね。常野さん自身がそうであるように、高学歴の不登校経験者はたくさんいます。常野さんの「明るい登校拒否」批判は、ご自身の経験として、「明るい登校拒否」と自分がズレたというところからの問題意識なのか、それとも学問的に批判的に捉えたのか、そのあたりはどうなんでしょう。

常野 どうでしょうね。『不登校、選んだわけじゃないんだぜ!』を書いたとき、すでに自分自身、精神病を抱えていたり、行きづまり感があったので、そのあたりの心情も混ざってます。しかし、その因果関係までは自己分析ができてないです。

山下 不登校経験者で低学歴の人もいますし、働くうえで苦労している人もたくさんいます。しかし、常野さんも貴戸さんも、外形的に言えば、たいへんな「エリート」ですね。でも、苦しさがある。常野さんの行きづまり感というのは、不登校ゆえの苦しさなんでしょうか。高学歴であっても苦しいということと、低学歴ゆえの苦労は、通底するものはあっても同じではないですね。

常野 順序関係が混乱してくるけれども、いまの私は無職で、今後、バイトぐらいはするかもしれないですが、精神障害で障害年金をもらえるくらいの重症なんですね。それは、あきらかにシューレなどで語られていた「明るい登校拒否児」のモデルとはちがいます。不登校でも仕事をしているとか、結婚したとか、有名大学を出たとか、人生充実しているというケースではない。もちろん、私が有名大学を出たということは否定できませんが、自分の苦しみを語ろうとする際、シューレの語りの枠組みではフィットしなかったんです。その言葉では、自分の苦しみを表現しようとしてもできない。本を書いた時点でも生きづらさを語っていますが、いまから思うと、あのころはまだマシで、いまの状態のほうがずっと悪いです。

山下 それはよくわかりますが、その苦しさと登校拒否経験は、ダイレクトにつながっているのですか。

常野 う〜ん……そのへんも難しいところですね。

山下 たとえば不登校経験がまったくなくても、同じような苦しさを抱えている人もいるように思います。ひきこもりも、10代からよりも20代以降に経験している人のほうが多いですね。ひきこもりのなかの不登校経験者は3割くらいです(内閣府「若者の生活に関する調査報告書」2016)。7割は不登校経験者ではない。でも、この社会のなかの苦しさという点では通底している。とすると、その苦しさというのは、不登校だけの話ではないのではないでしょうか。明るい登校拒否ストーリーへの違和感はわかるんですが、登校拒否をネガティブなものとして肯定するという論旨には、どこか無理があるように私は感じました。それが自身の経験からの問いなのか、社会学を学ばれたなかからの問いなのかが、腑に落ちなかったんですね。

常野 いまの私の精神病と登校拒否体験が、どう重なるのか重ならないのかはわかりません。でも、私は登校拒否という体験が自分の原点だと思っていて、なんでも登校拒否とつなげて考えようとするところがあります。大学ではフェミニズムやカルチュラルスタディーズを勉強しましたが、常に登校拒否体験を参照しながら、そういう理論を学んでいました。

山下 精神疾患は、いつ発症されたんでしょう。

常野 2003年ぐらいが初診で、うつ病という診断でした。何年も治らなくて、いまは単純型統合失調症という診断です。単純型統合失調症というのは、陽性症状(妄想、幻聴、躁状態など)がない、陰性症状しかないタイプの統合失調症のことです。うつ病と明確に区別できるわけではないと医者からは言われてます。ですから、病名が変わったということに、あまり大きな意味はないと思いますが。
 イギリスの大学から戻ってきて、同じ予備校講師の仕事に復帰して、さらにかけもちで河合塾などで予備校講師をするようになって、過労状態になっていたということもあります。いま考えると、労災認定してもらえたんじゃないかと思うぐらい働いてました。26歳ごろのことです。


●不登校新聞の連載から始まった

山下 『不登校、選んだわけじゃないんだぜ!』の文章は、不登校新聞の連載「社会の中の登校拒否」(『不登校新聞』21号〜31号/1999年3月1日〜8月1日)がベースになってますね。

常野 そうですね。

山下 『不登校、選んだわけじゃないんだぜ!』は、おもには貴戸さんが書いているものですが、貴戸さんから常野さんに声をかけたんですか?

貴戸 そうです。この本は「よりみちパン!セ」というシリーズのひとつですが、その編集者から声をかけてもらったとき、私も不登校新聞の「社会の中の登校拒否」を読んでいて、この人の文章を本にして残したいという思いがあって、声をかけたんです。

山下 そうすると、不登校新聞がきっかけだったんですね。それは知らなかったです。それまでに面識はあったんですか?

貴戸 2002〜2003年にかけて、修士論文の調査のときにインタビューさせていただいたのが最初です。

山下 そのインタビューのきっかけも、「社会の中の登校拒否」を読んでのことだったんですか。

貴戸 そうだったと思います。

山下 『不登校、選んだわけじゃないんだぜ!』の反響はどうだったんでしょう。

常野 あの本は、非常に不幸な本だと思っています。「明るい登校拒否」という言説を批判しているんだけれども、結果的には、「だから子どもは学校に行かせなければいけない」と思う人たちの材料にされてしまったところもあるように思います。しかし、言いたかったことは、そういうことじゃないわけです。私が言いたかったのは、「明るい登校拒否」という幻想をつぶして、登校拒否の実態を暴露することによって、学校をなくしていこうよ、ということだったんです。そのためには、低学歴者が高学歴者を打倒することが必要だということを書いた。

山田 僕がこれまでに不登校について影響を受けた本をあげると、最初は佐々木賢さんの『学校を疑う』(三一書房1984)で、次が奥地圭子さんの『登校拒否は病気じゃない』(教育史料出版会1989)、その次が滝川一廣さんの『家庭のなかの子ども 学校のなかの子ども』(岩波書店1994)、その次が『不登校、選んだわけじゃないんだぜ!』でしたね。出版後、すぐに大阪の会の通信でとりあげさせてもらいました。私には「だから子どもは学校に行かせなければならない」という読まれ方をしたようには思えないんですが、そういう読まれ方もしたんですか?

常野 インターネットのレビューなどを読むと、そうでした。

山田 僕はこの本から、人間というのは、そんなに簡単に選択肢を選べるものではないという指摘を読みとって、それは非常に大事なものだと思いました。もうひとつは、先ほどから言われているように、学校に行かなくても市民社会ではなんとでもやっていけるという論調への異議ですね。学校に行かなくても市民社会でやっていけるとしたら、そのために人がどうあらねばならないか。そこで常野さんの言われていることは、非常によくわかると思いました。そういう意味では、社会学者の内藤朝雄さんも、同じような論調ですね。

山下 内藤さんが言っているのは、学校はノリが支配する群生秩序の社会になっていて、そこでいじめが生じているのだから、市民社会の論理を学校に持ち込むべきだということですよね。

山田 そうです。僕も、学校に市民社会の風をと書いていた時期があったんです。いじめや体罰は、市民社会では許されないことが学校ではまかり通ってしまっているという問題です。しかし、市民社会自体が、とんでもないことになっているという問題があるわけですね。そこを問わないといけないというのが、常野さんのおっしゃっていることだと思いました。


●議論の行方は

山下 不登校新聞の論説委員でもある小沢牧子さんは、常野さんの意見を拾って『「心の専門家」はいらない』(洋泉社新書2002)にも書かれてました。また、このプロジェクトのインタビュー(#04参照)でも、常野さんの批判が「不登校問題の議論の真ん中に来ることはなかった」「可能性はあそこだけだった」と語ってました。不登校新聞の連載時は、周囲の反応はどうだったんでしょう。

常野 小沢さんとは社会臨床学会でお会いしたことがあって、私の書いたものをほめてくださって、和光大学の授業で学生たちに読ませたと言って、その感想文を送ってくれたことがありました。当時、不登校新聞の編集担当から聞いていた話では、読者からのリアクションとしては、かなり批判的な意見が多かったということでした。ネガティブなリアクションが多かったから、10回で打ち切られたのかなと思うんですが……。

山下 打ち切ったという記憶はないですが、たしかに読者からの反応は批判的なものも多かったような記憶はあります。

貴戸 編集部のなかで、これを載せるのは冒険みたいな意識はあったんですか?

山下 それはないですね。こういう問題意識があると知っていて、連載を頼んだわけでもなかったと思います。いろいろ頼んでいるなかのひとり、という感じだったのではないかと思います。
 不登校新聞のことで言うと、『不登校、選んだわけじゃないんだぜ!』を出されたとき、常野さんが不登校新聞のメーリングリストで議論に応答してくれという投げかけをしてくれたんですよね。しかし、私自身、それに応えられなかったという思いがあって、その後、自著(『迷子の時代を生き抜くために』北大路書房2009)で、そのあたりについて書いたことがあります。同時期に出版された貴戸さんの『不登校は終わらない』(新曜社2004)も含めて、あそこで出された問題提起は炎上のようなかたちになってしまって、問いかけた問題の本丸の部分での議論はなくて、不毛な議論に終始してしまっていたように思います。そのあたりはどうでしょう。

常野 もちろん共感してくれた人もいたんだけど、そういう人は、「私も前からそう思っていた」というような人でした。たとえば、不登校新聞の編集部にもいた福村幸子さんなどですね。たしかに、議論ができたという実感はないですね。

貴戸 不登校の文脈のなかの人には通じなかったけど、別の運動で似たような立場にいる人には伝わった感じがあると、当時、話していた記憶があります。

常野 たとえば、反婚主義の人たちが反応してくれましたね(私も反婚主義なんですが)。「婚姻制度を知ってますか」というパンフの一節で、「私は結婚します。非婚は認めるので、おたがいに認めましょう」という意見に対する反論として、『選んだわけじゃないんだぜ!』を引用してくれていました。

貴戸 いま考えると、『不登校は終わらない』も『不登校、選んだわけじゃないんだぜ!』も、すごく限定された足場から語っていますよね。80年代に「不登校は病気ではない」とした不登校運動の言説に近いところで経験した不登校を、日本的な学校から仕事への移行システムが揺らいだ2000年代半ばぐらいの文脈で語っている。もちろん、限定された立場から書かざるを得ないのですが、当時は、そういう自分の立場に無自覚だったと思います。
 『不登校、選んだわけじゃないんだぜ!』の私が書いた部分は、人に見せるためというよりも、ぶわっとほとばしるように書いていたものでした。80年代に、あの言説空間のなかで不登校して、2000年代以降、若者の雇用が劣化して、貧困や格差が厳しくなる社会の現実に出て行くリアリティのなかで、「いままで信じていたものが、ちがうじゃん!」みたいなところがあったんだと思います。

山下 常野さんの文章の宛先はどこだったんでしょう。シューレに通っていて、そこで救われた思いを持ちつつも、その言説を問い直したいという思いがあって、世間一般にというよりも、シューレや奥地圭子さんに向けて書かれていたところがあったのでしょうか。

常野 そういう面はあったと思います。でも、それだけではなかったです。

山下 もちろん、そうだと思います。そこから普遍化している問いになっていると思いますが、第一の宛先ということで言えば。

常野 そうですね。でも、それが届いた感じはなかったですね。せめて反論はしてほしいという気持ちは、いまでも持ってます。

山下 常野さんのつながりのあるシューレ出身者のあいだでの反響は、どうだったんでしょう。

常野 明るい登校拒否イメージはウソだよねということは、私の関わっている人のなかでは共通認識でした。ただ、いきなり40代までひきこもっている人もいますよという話をしてしまうと、ただでさえ登校拒否はネガティブに見られているのだから、戦略的にウソをついてもいいじゃないか、というような認識でしたね。


●醜さの側の反乱

山下 『不登校、選んだわけじゃないんだぜ!』で、常野さんは最後に、このように書かれてます。
「リアリティーのないハッピーエンドはもうたくさんだ。逆に僕は、こう言いたい。登校拒否は病気だ、登校拒否は暴力を生む。登校拒否はひきこもりにつながる。登校拒否は不自由だ。登校拒否は暗く、汚く、臭い。そして、そのようなものとしての登校拒否を肯定するのだ/肯定できるだろうか、と。」
 リアリティーのないハッピーエンドがたくさんだ、というのはわかります。けれども、登校拒否をネガティブなものとして肯定するというのは、問いが届かなかったところがあるように思います。自戒を込めつつ言えば、なぜネガティブなのかまで踏み込んだ議論にはならなかった。いま、ここを語るとしたら、どうですか。

常野 とくに訂正するところはないですね。その部分を説明するために、3本の映画の話をしたいと思います。ひとつ目は『ロード・オブ・ザ・リング』です。この映画には、いろんな種族が出てくるんだけど、ある種族だけは、徹底的に悪でしかないモンスターなんです。そいつらは殺してもいいし、死んでも悲しくない。モンスターに関しては救いがないわけです。ふたつ目は『美女と野獣』(ディズニー版)で、この映画では、野獣が実は美しい王子さまという設定になってます。一方、『シュレック』では、フィオナ姫が呪いをかけられてモンスターになっていて、真の愛を抱いてキスをすれば美しい姿になるという設定になっています。それで、シュレックという別のモンスターと愛し合うようになって、最後、結婚式でキスをして、美しいお姫さまになってハッピーエンドなのかと思ったら、モンスターの姿のままなんです。呪いが解けたはずなのにおかしいと思ってたら、シュレックが「いや、これが美しい姿なんだ」という。くわえて、この映画は絵本が原作なんですが、絵本では、シュレックはすごく醜くて、通りがかっただけで花も倒れてしまうぐらいなんですね。それで、最終的に結ばれるときに、おたがいに「ああ、あなたはなんて醜いんでしょう」と言い合いながら、「醜くて醜くて、いとおしくてたまらない」と言って物語が終わります。
 何が言いたいかというと、醜さ、モンスター性みたいなものを、いかにして美の支配から救い出すかというときに、「ほんとうは美しいんだよ。視点を変えてみれば、呪いが解ければ」ということではなくて、醜さの側が反乱を起こすんだということですね。それと、私が書いた一節をつなげて考えられないかなと思うんです。

貴戸 ゴフマン(アメリカの社会学者/1922―1982)の『スティグマの社会学』(せりか書房1980)という本があります。ゴフマンはそこで、社会からスティグマ(烙印)を与えられた者が、どんなふうに戦略的にアイデンティティを操作・管理しているかを類型化しています。上野千鶴子さんの整理(『脱アイデンティティ』勁草書房2005)によれば、まず「印象操作」があり、これにはたとえば「パッシング(なりすまし)」が含まれます。実際は不登校なんだけど、親戚の前では学校に行っているフリをする、などですね。それから「補償努力」。ひとつのマイナスを別の部分のプラスで補うよう努力するもので、「不登校だったけど高学歴を得る」というのも、そういうことでしょう。いわば、イチヌケですね。あるいは、さらに弱い者を叩いて自尊心を満足させる「価値剥奪」という戦略もあります。そのなかで、「開き直り」という戦略があります。たとえば黒人こそ美しい、醜さこそ価値があるというのは、それにあたりますね。でも、それぞれの戦略には陥穽もある。開き直りについて言えば、人種や美醜というカテゴリーを固定化させてしまうという問題もあるわけですね。


●登校拒否児が解放されるには

常野 たとえば人種というのも、自然なものではなくて社会的文化的に構築されたものですが、いきなり人種のない社会にすることはできない。まずは劣位に置かれている側、被抑圧に置かれている側(たとえば黒人やラティーナ)の人種を肯定することを通してしか、人種のない社会にはいけないはずですね。
 それが象徴的に現れているのは、アメリカで白人の警官が黒人を殺すという事件です。最近は、誰もがスマホで撮影できるようになったことで、誰の目にも見えるかたちで報道されるようになりました。それに対する抵抗運動として、black lives matter(黒人の命は重要だ、意義はある)というものがあります。しかし、トランプ支持者の集会でそれを言うと、かならずかえってくる反応は、all lives matter(すべての命は重要だ、意義はある)というものです。それ自体は正しくても、その言葉は、黒人の命を奪っても平然としている社会に対する抵抗を無効化してしまう、反動的な言葉なんです。理想的には、差異のない社会を到達点とするとしても、いま現に抑圧されている登校拒否児、元登校拒否児が解放されるためには、登校拒否の価値を肯定することを通してしか、そこまで到達できない。いきなり、何もこだわりのない状態を求めると、それはトランプ支持者のall lives matterみたいなことになってしまいます。

山下 先ほど福村幸子さんの名前が出ましたが、福村さんは昨年(2016年)、学校に行かない子と親の会(大阪)の25周年集会でお話しされていて、私もひさしぶりに会いました。そのとき、福村さんは「リバティおおさか」という人権博物館に不登校コーナーがあることにふれて、次のように語っていました。
「しみじみ見ていると、ほかのマイノリティがものすごくうらやましくなりました。なんでかといったら、不登校ってある一定の時期になる状態だけど、ほかの人たちにとってはそのアイデンティティはずっと続くわけですよね。だけど、不登校に関しては、人の人生のなかのごく一時期を指す状態のことで、アイデンティティになりえないところがある。」(パネルディスカッション:わたしにとっての「不登校」/『「学校に行かない子と親の会(大阪)」の25年』田中佑弥編/武庫川女子大学教育研究所2017)
 ほかのマイノリティ問題は、なかなかイチヌケができないですね。生得的なスティグマからは逃れにくい。そのきつさと同時に、アイデンティティにもなっているところがある。ところが不登校はイチヌケができてしまう面がありますね。常野さん自身、問題意識を持ちながら、高学歴者であったりもする。そういう意味では流動的で、ほかのマイノリティとちがう面がある。でも、私はそこが大事なのではないかと思うんですね。もやもやとしているからこそ、大事なのではないか。それを生ぬるいと感じて、もやもやを無理に解消しようとすると、変な方向に行ってしまうこともあると思うんです。常野さんが登校拒否をネガティブなものとして位置づけようとしていることにも、そういう意味では、やや無理を感じたんです。常野さんが自身の経験として、そうとしか語れないというよりも、そう語らねばならないというような意志を感じるんですね。それが、問いとして届かなかった要因のひとつになっているのではないかという気もするのですが……。

常野 たしかに、ネガティブな側面を強調しているんだけれども、それは、あくまで明るい登校拒否の物語というフィクションを批判する文脈で言っているわけです。もちろん、登校拒否経験者には明るい人も美しい人もいるわけです。でも、醜くて何が悪いのか、暗くて何が悪いのかと言いたい。美しいから肯定する、元気だから肯定するという言説に対抗するために、じゃあ醜かったら悪いことになるのか、醜くかったら何が問題なのか、その醜さを認めないことこそが差別なんじゃないのかということを言いたかったんです。

山下 おっしゃることは、よくわかります。ただ、この本を書かれた当時はまだしも、いまの時代に、明るい登校拒否のストーリーが、いま学校に行っていない子にリアリティを持っているかといえば、私は持ってないようにも感じます。学校信仰が揺らぐとともに、対抗言説だった明るい登校拒否ストーリーも求心力はなくしているんじゃないでしょうか。一方で、不登校は、かつてほどはネガティブにまなざされていない。それは運動の成果というよりも、常野さんがおっしゃったように、社会状況の変化のなかで生じているものでしょう。
 多文化主義も、マイノリティの問題が多様性のひとつになって、格差や差別がうやむやにされてしまうという問題がありますね。同じように、学校に行かないことも個性のひとつという受けいれになってきて、うやむやになっている面がある。そういう力学のなかで明るい登校拒否ストーリーも力を失っている。そうしたなかで、登校拒否をネガティブなほうに引っぱっていっても、それが、いまの子どもに響くのかと言えば疑問です。


●it could get worse

常野 明るい登校拒否の物語そのものが、もともとリアリティがなかったわけです。戦略的についたウソという人もいるという話をしましたけど、それに私が反論しているのは、そんなの信じられないでしょう、というところなんです。それで、実際に学校に行かない子が元気になるの、と。
 また、たとえ話で恐縮ですが、アメリカではやったyoutube動画に、「it get's better」または「it will get better」というシリーズがあります。アメリカで、セクシュアルマイノリティもしくはジェンダーマイノリティの子どもたちが、いじめられて自殺する事件が頻発したんですね。そこで、大人になったセクシュアルマイノリティもしくはジェンダーマイノリティの人たちが、youtubeでメッセージを発したんです。「あなたは、いま死のうとしているかもしれない。私もあなたたちの年齢のころはそうだった。だけど、it will get better(いまよりよくなる)」と。社会に出たら学校よりマシな環境だとか、そういうことを言うわけです。それが大流行した。しかし、それに対する批判もあった。というのは、「そんなの信じられない。実際、大人になっても、今日も死にたいと思っている」というセクシュアルマイノリティもしくはジェンダーマイノリティの人たちもいるわけです。あるいは、いま死にたいと思っている人には、「そのうちよくなる」というメッセージは説得力を持たないわけです。私の友人はit could get worse(悪くなるかもしれない)というバッチをつけてました。私は、いま困難を抱える子どもや青年たちに対して、直接、語りかけることをしたくはないですが、そういうメッセージのほうが大事だと思っています。

山下 ご自身のなかで、何がそんなにworseなのですか。

常野 精神の病が問題ですかね。あと、バイトは再開するかもしれませんが、現時点で無職で、障害年金はもらっていますが、将来の経済的な心配があります。

山下 くどいようですが、それは登校拒否経験とダイレクトにつながっているんでしょうか。

常野 先ほども言いましたが、私の人生の原点は登校拒否なので、すべてのことは登校拒否とつながっているんです。そこを参照項としながらでないと、何ごとも考えられません。

山田 英語でbullying(いじめ)とharassment(悩ませること)という言葉を比較すると、harassmentは法的にハッキリ犯罪なんです。ところが、日本の不登校、いじめなどには、それが見当たらないことも多いですね。誰でも不登校になるし、いじめも誰でも加害者にも被害者になりうる。そのあたりが関係しているのではないですか。
 学校なんか行かないでも市民社会のなかではやっていけるという明るい登校拒否の語りに対して、強い反発があるのはわかります。シューレや奥地さんに対して、一度は「リアリティーのないハッピーエンドはたくさんだ」と言う必要があった。それは、反発というだけではなくて、人間がこの社会で生きることのしんどさそのものをちゃんと見つめないといけないということでもあるんだと思います。人間が生きるというのは、そんなに明るいものではないですね。頼りなさ、苦しさ、暗さ、しんどさがある。明るい登校拒否の語りには、そこが決定的に欠けていて、浄化されてしまっている。これは世の中全般がそうなっているところがあって、そのなかで子どもが生きていることの頼りなさ、とりとめのなさがある。大人は必死に隠しているけど、子どもたちはそこに気づいていると思いますね。

山下 常野さんが一貫しているのは、社会の矛盾を問わないといけないということですね。そのためには、ごまかすのではなくて、そこと対峙していく言葉が必要だということだと思います。そこには共感します。しかし、やっぱり無理を感じる部分もあるというのが正直な私の感想です。だから、よくないというのではなくて、ひもといていくべき問いが、そこにあるのではないかと思うんです。
 私はいまも、子どもや若者と関わりがあって、いろいろ悩む部分があります。学校に行かないことを否定しないのはもちろんですが、変な肯定の仕方はしたくない。しかし、ネガティブなものとして受けとめろと上から言うことはできません。いまの小・中学生で、変わらず苦しんでいる面もあります。その子のいまの現実のなかで、どういう言葉が必要なのか。たとえば、常野さんがいま考えていることを、学校に行かなくなった当初の常野さんが聞いたとしたら、どう思うでしょう。

常野 タイムマシーンがないのでわかりませんが、う〜ん、そうですね……わからないな。先ほどの部分で言いたいのは、相手を楽にさせるメッセージを送りたいわけではなくて、この社会はおかしい、劣位にあるものが優位にあるものを打倒して、社会を変えていこうと呼びかけたいんですね。労働運動でも、労働組合を結成することが大切です。しかし労組なんかつくったら、雇い主のほうはつぶしにかかって、下手をしたら自分がクビを切られて、別の労働者が雇われてしまったりするリスクがある。それでも、労働者の権利という大義をかけてやるべきだと呼びかけないと状況は変わっていかないですね。それと同じように、救いの言葉や癒やしの言葉を与えたいわけではなくて、この社会は矛盾に満ちている、だから、それを転覆するために闘わないとならないということを示したいというのが私の目的です。

山下 かといって、個々人が、この社会で生きていくなかで、工夫したり折り合いをつけていることを否定しているわけではないわけですよね。ラディカルさは、一歩まちがえると、革命のためにはもっと世の中が悪くならないといけないというような、無理な道理になってしまうと思います。

常野 もちろん、日々の実践のなかではいろんなことが起きます。改良にも、いろいろあります。それが矛盾を隠蔽する方向での改良なのか、あるいは革命へのステップとしての改良なのか、ということでしょう。


●不可能に見えることこそ

貴戸 最後に何かあれば。

常野 健常者中心主義、家父長制、資本主義をつぶす、あるいは学校をなくす。それを革命と言いましたが、そういうことを言うと、多くの人は、それは無理だと思うじゃないですか。不可能だと思える。だから、ごかましの改良でガマンするとなる。しかし歴史をふりかえれば、社会は不可能を可能とするようなかたちで変わってきたわけです。
 具体例をひとつあげると、ローザ・パークス(1913―2005)が白人と黒人が分離されたバスで白人席から移動しろと言われたとき、頑迷に座り続けて、逮捕されて、それからバスボイコット運動が始まって、ついに分離政策を変える成果を勝ちとったんです。でも、ローザ・パークスが白人席に座った瞬間に、その可能性が見えていたかというと、そんなことはないと思います。なぜなら、ローザ・パークス以前にも、同じようなことをしていた人はいるわけです。ボコボコにされて逮捕されて、歴史に名を残してない人が無数にいる。革命というのは、可能そうだからやるのではなくて、不可能にしか思えないことを可能にするための条件をつくりだすために闘っていくということです。それは5000億年後かもしれないけど、学校のない社会を目指す。社会そのもののあり方を根本的に変えていくことを目指す。私は、そう主張したいです。

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*1 クィア:「風変わりな」「奇妙な」などを表す言葉で、セクシュアル・マイノリティに対する蔑称、差別用語として用いられてきたが、1990年代以降、それを逆手にとって、異性愛を規範とする社会に違和感を覚えるセクシュアリティを持つ人たちの自称として、自己肯定的に使用されるようになった。

*2 戸塚ヨットスクールでは、79〜82年にかけて、職員らの暴力などによって5人が死亡し、戸塚宏校長らは、2人に対する傷害致死、2人に対する監禁致死、その他20人に対する暴行、傷害、監禁などで起訴された。97年、名古屋高裁は戸塚校長に懲役6年の実刑判決を言い渡した。風の子学園は、広島県三原市の小佐木島にあった「情緒障害児更生施設」。1991年、14歳の男性と16歳の女性が、喫煙などを理由にコンテナ内に手錠をかけられて監禁され、熱中症により死亡した事件。学園長の男性には懲役5年の実刑判決がくだされた。

*3 東京都立新宿山吹高校:1991年、無学年制の定時制、単位制高校として設立された。

*4 パウロ・フレイレ(1921―1997):ブラジルの教育者。貧しい農村の非識字の農夫たちに、自分たちの境遇を考え、自分たちの生活を変えていくために識字教育を行なった。

*5 イヴァン・イリイチ(1926〜2002):オーストリア生まれの哲学者、社会評論家、文明批評家。著書に『脱学校の社会』(東京創元社1977)など。

*6 ランドル・コリンズ(1941〜):アメリカの社会学者、小説家。著書に『資格社会―教育と階層の歴史社会学』(有信堂高文社1984)などがある。

*7 カルチュラル・スタディーズ:20世紀後半にイギリスで始まった学問の潮流。性・民族・階層による集団間の差異や力関係などを、音楽・文学・映画を含む幅広い対象から分析する。

*8 田中美津:1970年代、日本のウーマンリブ運動を主導した。鍼灸師。


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『不登校、選んだわけじゃないんだぜ!』は、「よりみちパン!セ」シリーズのひとつとして、貴戸理恵さんと常野雄次郎さんの共著で2005年に理論社から出版された。1980年代に不登校を経験したふたりが、不登校を病理とみて否定する見方と、それに対抗する不登校は選択肢であるとする見方の、両方に違和感を感じ、そこから問いを投げかけている。その後、理論社は倒産したが、2012年にイーストプレスから増補版が復刊されている。
posted by 不登校新聞社 at 09:43| Comment(0) | 当事者
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