2018年05月30日

#40 中澤淳さん

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(なかざわ・じゅん)
1974年、大阪府茨木市生まれ。小学生のとき、大阪から関東へ転校し、その後、小学校4年生より学校に行かなくなる。小学校6年生より東京シューレに通い、東京シューレ通信の編集長、海外を含めた各地への合宿企画など、さまざまな活動に関わる。18歳で東京シューレを退会後、アルバイトをしながら海外各地をまわった。フランス語の専門学校へ通い、フランスへも語学留学。そうした経験を活かし、帰国後に旅行会社に就職。現在は、ふたりの子どもの父親でもある。

インタビュー日時:2018年3月13日
聞き手:奥地圭子、木村砂織
場 所:東京シューレ葛飾中学校
写真撮影:木村砂織

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〈テキスト本文〉

奥地 今日はイランから帰国された直後とのことで、お疲れのところすみません。HISという旅行会社に勤務しておられるんですよね。いまは、どういう部署におられるんでしょう。

中澤 海外事業戦略本部です。当社の海外ビジネスの管理をおもに担当する部署です。私は、おもに中近東とアフリカ地域を担当しています。既存店舗のケアもしますし、既存店舗がないところに行って、ビジネスの種がないかも探しますし、そういう仕事ですね。

奥地 何語で仕事してるんですか?

中澤 今回は英語でした。イランの方は英語が上手なんですよ。アメリカから経済制裁されてるのに、アメリカ人みたいな英語を話すんです。

奥地 中澤さんはフランス語を勉強してきたんですよね? 英語もどこかで学ばれたんですか?

中澤 フランス語は専門学校で勉強したんですけど、フランス語の通じる国って、地球上で6分の1ぐらいしかないんですよ。英語は、シューレで勉強したぐらいです。いまでも、当時のスタッフから教えてもらった「I am here,you are there」って思い出します。なんか、棒人間みたいなイラストを描いたテキストでしたね。

奥地 オリジナルの教材を使ってたからね。それでも、政府の方に会ったり、銀行関係者に会ったりして、ちゃんと通じるわけね(笑)。

中澤 いちおう、なんとか。ただ、銀行の方が言ってることはよくわからないんですよね。自分の業界だったら、言葉だけじゃなくて文脈でわかるんですけど。だから、商社とかで海外で活躍されている方と比べたら、私の英語力なんて笑われちゃうぐらいのレベルです。まあ、要するに気合いと根性ですね(笑)。こうしたいという熱意があれば、語学力の不足はなんとかなります。なぜなら、こうしたいと思っていることがあれば、いろいろ話しているうちに「あなたは、そういうことがしたいわけね」って話になるんです。逆に言えば、いくら語学ができても、何をしたいというコンテンツのない人は、話が進まないですね。

奥地 そのあたりは、子どものころから一貫している気がしますね。

中澤 そうですかね、自分ではわからないです。自分が中・高生の年代のときにどうだったかは、もはやわからないです。

奥地 私らのほうが感じるのかもしれないね(笑)。不登校したのは小学校のときでしたね。

中澤 もはや自分がいつ不登校したかも、よく思い出せなくなってます。小学校4年生か5年生だったと思うんですけど……。

奥地 1985年、東京シューレが誕生した年に、中澤さんは小学校5年生で、お父さんといっしょに来たんですよね。そのころはどこに住んでましたか?

中澤 千葉県松戸市の六実です。

●子どもが自分と同じ学校に

奥地 手元に『東京シューレOB・OG100人インタビュー』(編集・発行:東京シューレ/2015)があるので、そこに書いてくれた文章を読むと、「僕の登校拒否は大阪から関東へ親の仕事の関係で転居し、転校して始まります。授業、掃除、給食、きっちりやらせる。授業中や給食、掃除のときのおしゃべりには何百回書かせる。1日に2000字書かされた覚えもあります。僕は順応しようと一生懸命でしたが、ぎりぎりになり、コップの水があふれた感じで、小4の5月より行かなくなりました」とありますね。そのあたりは覚えてますか?

中澤 はい。

奥地 それは、学校のそういうやり方が自分には合わなかったという感じですかね?

中澤 いま思うと、なんでそんなに窮屈な思いをしていたのかなと思うところもあります。いま、自分の子どもたちが、まさに僕が通った小学校に通っているんですね。上の子も下の子も。うちの子たちは転校で3年前にいまの小学校に来たのですが、転校したてのころ、最初にその小学校の敷居をまたいだときは、ちょっと重たい気分にもなりましたね。「また、ここに来たな」って。でも、授業参観などで何度も行くと慣れてきて、だんだん都合のよい記憶だけが残って、苦しかったことは忘れちゃうもんなんですね。そのうち「親子で同じ学校もいいもんだな」なんて。

奥地 その学校に行ったのは何年ぶりでしたか?

中澤 30年ぶりぐらいじゃないですか。

奥地 お子さんは、いま何歳ですか?

中澤 上の子が2005年生まれで、下の子が2009年生まれです。

奥地 そうすると、上の子が小学校に入学したのは2011年かしらね。あら、震災の年に入学したの?

中澤 ただ、そのときは船橋に住んでいて、いまの松戸の小学校に来たのは、長男が小学校4年生のときなんですね。転校生としてあの小学校に入ったというのも、僕自身と長男は同じ境遇です。だから、長男はよく3年間、がんばって学校へ行ったなと思います。
 長男は、ずっと学校がイヤだと言っていて、イヤだなと思うツボも僕とよく似ていて、具体的には何も思いだせないんですけど、長男を鏡にして、自分もきっとこうだったんだろうなって、逆に教えられたんです。長男のクラスには、僕の当時のクラスメイトのお子さんが何人かいたりしますけど、親子ともども友だちの好き嫌いのタイプはいっしょなんですよ。びっくりしません?

奥地 びっくりするね(笑)。やっぱり感じる力が似てるのかな。

中澤 これはもう理屈ではなくて、ほんとうに子どもは鏡に見えます。長男からは学校でのイヤな出来事のエピソードをあれこれ聞きますけど、いちいち気持ちがよくわかる。

奥地 先生方はガラッと代わっていると思いますけど、雰囲気なんかはどうなんでしょう? 建物の雰囲気はいっしょかもしれないけど。

中澤 昔の管理教育は、もうできなくなってるんでしょうね。いまは、先生もずいぶん生徒にフレンドリーだなって思います。子どもの人数もすごく減って、学校の半分ぐらいは使ってないんですよ。僕のころは1学年3組で、いまは1組しかないんです。そういう意味では、ぜんぜんちがいますけど、でも、やっぱりわかる。子どもを通じて感じるものがあるんです。「おまえ、よくその環境でがんばってるな」って。
 上の子は、この3月(2018年)で卒業なんです。僕は卒業式までは行かなかったから、「あんた、よう卒業式まで行ったわ」と思って。

奥地 子どもに感心してるんだ(笑)。

中澤 感心します。

奥地 子どもはほとんど休まなかったの?

中澤 もちろん皆勤なんかではないですけど、それなりにちゃんと行ってました。

奥地 下のお子さんも?

中澤 上の子は僕にそっくりだと思うけど、下の子はまたちがう個性を持っていて、あんまり、そういうことが気にならないのかな。何でも大丈夫って感じです。

奥地 じゃあ、ふたりとも不登校と関係なく、学校とつきあってるのね。

中澤 不登校の可能性は充分ありましたけど、そうはならなかったですね。不登校になったら、ここ(東京シューレ葛飾中学校)に入れようかと思ってました。


●おばあちゃんたちも駆けつけて

奥地 自分が学校に行かなくなったころの、親の対応は覚えてますか?

中澤 もちろん、父親も母親も最初はびっくり仰天して、大阪からおばあちゃんが来たり、四国からもおばあちゃんが来たり、たいへんな騒ぎになりました。

奥地 覚えてます(笑)。四国のおばあちゃんが、初期のシューレの、東十条のアパートのらせん階段を一歩一歩のぼって見に来たんですよね。
 それで、私にていねいに「ほんとうに手のかかる、めんどうな子をみていただいて、ありがとうございます」って、深々と頭を下げられたんです。おばあちゃんからしたら、びっくり仰天だよね。学校に行かないって、よくわからない。

中澤 でも、2〜3カ月したら、みんないなくなって、そのころには父親も母親も腹をくくったのか、もう何も言わなくなりました。でも、半年ぐらいは、けっこうしんどかったですね。

奥地 お母さんは、「この子は雷がすごいきらいで、ちょっとでも鳴ると布団をかぶって出てこなくなる。いつも不安そうなんです」って言ってました。

中澤 時期が夏でしたからね。あのころ、よく雷が鳴ってたような気がします。大風が吹いて、空が真っ暗になるぐらいなことがよくあって、たまにバチンと停電しちゃったり。

奥地 そういうことを聞いていたから、そうとう不安そうにしている子がやってくるのかなと思ったんだけど、実際は、そうでもなかったんだよね(笑)。シューレのことは、どうやって知ったんでしょうか。

中澤 母親が、朝日新聞に載っていたのを読んだらしいですよ。

奥地 当時、ある女の子が中学生のころ、新聞に「私たちはこんなところに行っている」と、投書したんですよね。人がもっと増えたらいいよねって話していたころだったので、少しでも多くの人に知ってほしかったからだと思います。そうしたら、ほんとうに新聞記者から取材があって、記事になったんですよ。ひとつ記事になったら、めずらしがられて、ほかの新聞にも出るようになって、それでお母さんが読んでくれたんだと思います。シューレに来るまで、家で何をしてたかは覚えてますか?

中澤 家で電車の路線図を書いたり、電車に乗って新聞を買いに行ってましたね。

奥地 電車に乗って新聞を買いに行くというのは?

中澤 千葉には千葉日報、茨城には常陽新聞、福島には福島民友と福島民報の2紙があって、ほかにも、神奈川新聞、埼玉新聞とか、それぞれの県に新聞があるんです。それぞれの県の駅のキヨスクに行くと、そこの地方紙が買えるわけです。地方紙が読みたくて、そのためにわざわざ買いに行ってました。一番遠かったのは、常磐線の勿来駅か湯本駅で、福島県に入ったところですね。そこまで行って、ただ新聞を買って帰ったりしてました。

奥地 そういう小学生って、めずらしいと思うんだけど、どういう興味からだったんですか?

中澤 わかんないですね(笑)。何がおもしろかったんだろう。でも、そうしたくなる気持ちはわからなくはなくて、その土地独特のものを見たいって気持ちだったと思います。それは、いまの自分の仕事にも影響が残っているというか、共通するものがあります。言ってみれば、中央集権的なものへのアンチですね。それぞれの地方紙を読まないとわからないことがあるし、そこで何が起きてるかは、現地に行かないとわからないことがある。インターネットで調べて、ぜんぶわかったつもりになるな、ということですね。

奥地 中澤くんが旅行好きなのは、そこが原点になってるのかもしれないですね。

中澤 そういう気がしますね。

奥地 学校に行かないことで友だちからいじめられるとか、そういうことはなかったですか?

中澤 学校に行っていたときに仲がよかった友だちとは、小学校6年生まではずっと遊んでました。ただ、中学校になって、僕はシューレに毎日行くようになったので、近所の友だちとは自然と縁が薄れました。


●初期のシューレで

奥地 初期のシューレは、日本のフリースクールの初期でもあるわけですが、どんな印象だったんでしょう。最初は、親から聞いて来てみたんですよね。私の記憶では、お父さんが東工大の教授でいらして、シューレで科学の講座を月1回やってくれていたんですね。その講座がすごくおもしろかった。私が感心したのは、小3から18歳ぐらいまでの子がいて、それをいっしょにやるわけです。それなのに、どの子も興味を持って、すごい楽しそうに聞いたりしていて、学ぶっていうのはすごいなと思ったんです。

中澤 当時の父親と自分が近い齢になってきてますけど、自分にそういうことできるのかなって思いますね。

奥地 たとえば、地球儀の大陸の形をダンボールか何かでつくってきて、その大陸を動かすと、大陸と大陸の形が合わさっていく。元は、こういう大きい大陸だったのが、だんだん動いていって、いまのように離れていったんだとかね。みんな「へえー」って聞いてました。
 それから、学校に行ってない子たちだから、電気のこととか配線図を書くというのもわかってなかったのに、小学校3年からその講座を受けていて、最後にはラジオをつくっちゃう子がいたりね。ほんとうに驚きでした。そういう講座をやってもらっていたときに、中澤くんも、ついてきていた。

中澤 小学校6年生のときはそうでしたね。中学になってからは、親と関係なく来るようになりました。小6のときは、齢の近い人があまりいなかったんですよね。シューレは中学生が主体だったから、ちょっと気おくれしていた部分があったんだと思うんですけど、自分が中学年齢になって、ある程度入っていきやすくなったんだと思います。毎日、行くのを楽しみにしてましたよ。

奥地 その当時はシューレでは何をやってましたか?

中澤 ゲームですね。

奥地 いまのゲームとは、ちがうもんね。

中澤 「X1ターボ」ってやつです。調子悪かったら、バットで叩いて直すような(笑)。

奥地 ゲームのところにノートが置いてあって、誰が何分から何分までやるんだとか書いてましたね(笑)。

中澤 よく1台のパソコンで、あの人数がゲームしてましたよね。いまじゃありえないですよ。

奥地 それをまた、しょっちゅうミーティングでやり方を話し合ったり、変えたりね。

中澤 ゲームを誰かがやってるあいだに、しょうがないからトランプをして、そうすると今度はトランプのほうに熱が入って、結局はトランプしていた時間のほうが長いかもしれません。まるでトランプ部でした。

奥地 いまでも、シューレでは「いろいろタイム」をやってますが、あのころの原型を受け継いでいますね。子どもたちで、どこに行ってみたいとか出し合って、東京近辺の、たとえば大使館に行ったり。

中澤 いまでも、「なんか、ここはシューレで来たな」ってことがあります。トルコ大使館に行ったときも、そう思ったんですよ。いまは移転して、変わってしまいましたけど。
 自分たちでこれをやりたいって言わないかぎりは、ほんとうに何事も起きないわけですからね。

奥地 ガード下でスポーツにも行ってましたね。

中澤 バスケやってましたね。新幹線の高架下で。


●学校にもどるなんてブレブレ

奥地 あと、自分たちで、いろいろ旅行に出かけてましたね。

中澤 シューレの行事でも行きましたし、行事と関係なく勝手に行ったりもしてましたね。友だちと、東北のほうに行ったり、九州に行ったり。旅行のことはすごくよく覚えてますけど、ほんとうはそうでない日常が、もっとたくさんあったはずなんですけどね。

奥地 そういう日々の暮らしってどうなんですかね。世間では「不登校」と見ていて、そこで育ってる子どもとしては、どんな感じだったんですかね? ぜんぜん気にならなかったんでしょうか。

中澤 そのときは、その人生に必死というか一生懸命だったし、まわりが見えてたかどうかと言えば、見えてなかったですよ。自分が楽しんだり、成長することに精いっぱいだから、まわりがどう見ているかまでは、あまり考えてなかったし、「そんなこと知るか」って感じだったんですよね。目の前に夢中なことがたくさんあるから、そんなことにかまっているヒマもないというか。唯一、ふと意識したのは、中3になって、まわりの人たちが高校に行くとか、中検(*)でしたっけ? それを受けるとかいう話になったときでしたね。

奥地 当時は、中検を受けた子も何人かいましたね。

中澤 そのときに「あっ、自分どうしようかな」とか思ったんですけど、「せっかくここまできたのに、ここで学校にもどったら、もうブレブレじゃないか」と思って、「そんな生きざまはありえない」って思ったんですよね。いま思えば、どういう考え方なのか、よくわかんないところはありますけどね(笑)。

奥地 当時とぜんぜんちがうのは、いまの不登校の子は高校に行きたい子が多いですね。だけど、そのころはせっかく不登校したんだから、どこまで学校に行かないでやれるかって議論してましたよ(笑)。

中澤 「学校にもどるなんて反動であり、修正主義であって、断じて受けいれられない」みたいな感じでしたよね。いまから思えば、そんな意固地にならなくてもいいのにって思うんだけど、当時は意固地だったんですよ。

奥地 筋を通したい、というような感じでね。

中澤 誰に筋を通してるんだって、そんなこと誰にも約束してないのに(笑)。

奥地 進学への不安はなかったですか?

中澤 なかったですね。びっくりしますよね。

奥地 中学は、まったく行かないできたわけでしょう。それで、そのまま学校に行かないままやっていこうと思っていたってこと?

中澤 そうですね。そうなったら未来がどうなるのかとか、心配しそうなものなんですけど、心配しなかったんですよね。いま思えば、ほんとうに無計画で、よくやったもんだなと思います。

奥地 やりたいこと優先みたいな感じだったのかな?

中澤 やりたいことを持ってれば、何か世の中のほうから都合よく歩み寄ってくれるぐらいに思ってたんですよね。

奥地 自信もあったのか(笑)。

中澤 ほんとうに根拠のない絶対的自信があったんですよね。


●鉄道会社でバイトしたものの

奥地 中学校を卒業してからはバイトにも行ってましたよね?

中澤 東武野田線の駅で、通勤のお客さんを押し込む仕事をやってましたね。

奥地 それは、どうして始めたんですか?

中澤 鉄道会社がどういう仕組みで動いてるのかを知りたくて、3年間バイトして、鉄道会社では働かないほうがいいなって思ったんです。どんなに鉄道が好きでも、鉄道会社で働くのはやめたほうがいいって。

奥地 それはどうして?

中澤 その駅の先輩というか社員の人に、「ほんとうに電車が好きだったら働かないほうがいい。一番大好きなことを仕事にしたら不幸になる。二番目に好きなことを仕事にしなさい」と言われたんです。馬込沢駅の駅員さんで、この人も鉄道が大好きだったんですけど「自分は就職して後悔してる」って。

奥地 それはどうしてなんですか?

中澤 とくに高卒入社の社員は、歯車のひとつにならないといけない。歯車に徹することがその人の仕事だから、ずっと電車が走ってるところを見られるわけじゃない。駅員室とか改札口で切符を切ったりする仕事は、その人がやりたかった仕事とはちがったんですよね。その言葉はすごく骨身に染みたんですよ。

木村 中澤くんは、鉄道会社をつくるって言ってましたよね。

中澤 鉄道会社の社員になるんじゃなくて、俺が鉄道会社になるんだって思ってました。

奥地 中学校の卒業式はどうしたんですか?

中澤 中学校の卒業式も、小学校の卒業式も行ってないんです。中学校は、卒業式のあとに一度だけ「出してくれてありがとうございます」って、ごあいさつに行った覚えはありますけどね。たしか屋久島に行く前日でしたよ。

奥地 ご両親が学校との関係をうまくやって、しっかりガードしてたんでしょうね。あんまり学校とのことで悩んだふうはなかったよね。

中澤 先生は「来い」とは言っていて、友だちを寄越したりはしてましたね。でも、そんな激しく迫られることはなかった気がします。親がうまく話してくれてたんでしょうね。でも、中学校とどういうやりとりがあったかなんて、いっさい聞かされたこともないし、こっちから聞いたこともなかったですね。だから、そのへんの事情はまったく知らないんです。

奥地 当時は、すごくたいへんな時代で、「シューレに行けるなら、学校に行けるだろう」って校長から電話で怒鳴られたり、子どもが外を歩いていたら、おまわりさんから補導されることもよくありましたからね。登校拒否を治そうとして病院に入れられることもありましたし、戸塚ヨットスクールもありましたしね。


●人とちがうことができちゃう

奥地 シューレ時代に自分が培った力は何だったと思いますか? そんなに学校の勉強をしっかりやってた記憶はないので(笑)。

中澤 たしかに、学校の勉強はしっかりやってないですね(笑)。何でしょうね、自分が社会で何か仕事をしていても、人とちがうことができちゃうというか、何かをやると人とちがうことになっちゃうんですよ。そのちがいが、学校で学んだ人と、シューレで学んだ人の差なのかなって。シューレを出た人も、ひとくくりにはできないですけど。

奥地 個性的な人が多い感じですよね。

中澤 昨日、会社で研修をやったんです。これから海外赴任する人に向けての研修で、いろんな人が入れ代わり立ち代わり話すんですけど、別におもしろい話をしようと思ってるわけじゃないんですけど、僕が話すと、みんなドカンと笑うんです。

奥地 わかる(笑)。

中澤 そういうつもりで話してるわけじゃないんですけど、なんか言ってることがおかしいみたいです。一生懸命メモしてる人もいるんですけど、こんな話メモしてもしょうがないよ、みたいな。
 それはシューレで培ったものかもわからないし、もしかしたら、父親から受け継いでるものもあるかもしれない。
 でも、やってることすべての考え方だったり、直観というのは、シューレにいたときに養われてるベースがあって、それが発展していったものですね。自分が子どもから大人になるときにいた6年間ですから、大人になってでき上がってる血肉のかなりの部分は、シューレが育てたものだと思います。しかし、それが何だと言われても、難しいですね。

奥地 難しいよね。よくシューレでは実行委員会をつくって、何かやるときには、それをやりたい子たちが集まって実行委員会を開くんですよ。中澤くんは、そういう企画を出す人だったんですよね。企画力とか、企画にもとづいて何かを実現しちゃう力がかなりあった。そういう力は、たぶん学校にいたら出なかったよね。そういう力はそうとう伸びたかなって思います。

中澤 「何か意見はありますか?」って聞かれて、意見がない状態は耐えられないんです。意見しないのは、ほぼ敗北みたいな感じですね。だから、たいがいの場合は、無理なく意見を言えてるんですけど、何も意見が出ないときは、ほんとうにがんばって意見するんです。何か言わなきゃって。でも、それはむしろ大人になってからかもしれないですね。子どものころは思いつくままボンボン言ってましたね。「意見どうぞ」って場を与えられてるのに、「いや、とくにございません」で終わりにすることは理解できない。

奥地 次々、湧いてくるみたいな感じなんだよね。さっき屋久島の話がちらっと出ましたけど、あれはどういうきっかけで行ったんでしょう?

中澤 なんで屋久島に行ったんでしょうね。なんか行きたいなと思って、青春18きっぷで鹿児島まで行って、そこから船で行きましたね。6〜7人で行きました。

奥地 シューレはそういうのが伝統になっていて、去年の8月は、ある男の子が企画して八丈島に行って、ところが台風が直撃して、台風に会いに行ったようなものだったんだけどね(笑)。いまでも、いろいろやってます。


●子どもたちだけで行動してた

中澤 しかし、いま思えば、子どもたちだけで勝手に合宿に行ったり、よくできたもんですよね。いまの時代にあんなことをしたら、責任問題になりますよ。

奥地 北海道合宿のときも、スタッフがつかないで、自分たちだけで朱鞠内湖に行ってたよね。

木村 そもそも、実際現地集合みたいな感じでしたよね。本体組は船で、ほかに飛行機組と鉄道組とがいて。

中澤 僕は鉄道隊を引率しましたけど、当時13歳ですよ。みんな「次どうやって行くの?」って、聞いてくる。年齢で言えば、いわゆる上級生がですよ。でも、そんなことも思わなかったですね。

奥地 自分たちだけで行って、満足感はあったんでしょう? 「神秘の湖」って言ってたから。

中澤 そりゃそうですよね。時刻表でしか見たことがない、朱鞠内に来たと。

奥地 そういう新しい未知のところを自分たちで探究しちゃうような精神があって、こちらも「じゃあ、やるならやってみな」って、「まかせておいていい」と思えるみたいな。

中澤 「やるならやってみな」っていうのは、いまでも、すごく大事だと思いますね。

奥地 そういう生活をしながら、中学卒業後は、どう考えたんでしょう? 何をやっていこうって考えたんですか?

中澤 俺はあんなヤツとか、こんなヤツとちがって、筋もブレずに高校に行かなかったぞって、鼻高々でしたね(笑)。

奥地 あのころは、高校に行った子は、ほんとうに少なかったですね。たとえば、ある男の子が「僕は学芸員になりたいから、資格を取るために高校に行かなきゃ」って言ってたんです。不登校だと、高校に合格しにくい時代だったんだけど、電話で合格の知らせが来たんですよ。「合格したの?」って言ったら、そのへんにいるみんなが「ばんざい」って、電話のまわりで言ったの。めずらしかったから。そんな感じでしたね。


●次々と海外へ

奥地 それで、中澤くんは、中卒後は、何をやったの?

中澤 ひきつづき、シューレにいながら、バイトしてましたね。それで、だんだん旅行に行く距離が遠くなってきましたよね。シューレでも山口に行ったり、高山に行ったりしましたけど、たぶん初めて海外に行ったのは17歳ぐらいのときで、友だちと韓国に行ったんですよね。船で行こうとしたら、船が台風で欠航になって、あわてて飛行機で行ったりとか、まあまあ、たいへんな旅行でしたけど。
 その後も、半年後ぐらいにシンガポールへ行ったり、マレーシアへ行ったり、だんだん海外に行くようになりましたね。あと、ウクライナに行ったんだ。チェルノブイリの事故があって、その関係で。2カ国目の海外はウクライナでした。ロシアとウクライナ。

奥地 原発の事故があって、国際交流で薬品を届ける活動があったんだよね。私は行けなかったんだけど、都内で脱原発の市民団体と交流していた関係で、「薬品を届けに行くから、ウクライナの子たちと交流しない?」って誘われて、シューレでも6〜7人が「行こう」ってなってたね。

中澤 「誰か行きますか?」ってチラシを見せてもらって、でも、シューレから行ったのは僕ひとりだった気がします。全体の人数は多かったですけど。

奥地 そうだったんだ。じゃあシューレからは2回行ってるのかな? ほかの子たちも行ってたと思うから。

中澤 そうかもしれないですね。定期的に行かないといけない活動だったから。

奥地 じゃあ、知らない人といっしょに行ったんだね。向こうでは何語でしゃべったの?

中澤 ホームステイしたんですけど、覚えたての英語と、同行した通訳さんに即席でロシア語を教えてもらって、そのとき教えられた言葉は、いまでも忘れないですよ。「ひとりになって道で迷ったときは、こういうふうに言ってください。そうしたらここに帰ってこれますから」って言われて(笑)。
 そのあたりから、いろんな海外に行くようになりましたね。羽田空港でバイトもしました。空港の裏側がどうなってるのか見たくて。コンテナに郵袋という袋を積み込む仕事をやってました。力仕事だったから、たいへんでしたけど。

奥地 多少、お金は貯まったんですか?

中澤 稼いでも、すぐに旅行に行っちゃうから、貯まりはしませんでしたけどね。

奥地 たしかマダガスカルにも行ってたよね。

中澤 マダガスカルに行ったのは、たぶん18〜19歳ごろのときで、それはもうシューレを出たあとですね。シューレを出るときにシアトルに1カ月ぐらい行ったじゃないですか。あれが僕の卒業旅行ですよ。

奥地 シューレの入っているビル(東京都北区王子)を貸してくれた社長が、シアトルにいっぱい物件を持っていて、「タダで貸すから、海外体験したい人はどうぞ!」って言ってくれたのね。「じゃあ、行こう!」ってなったのが92年ぐらいでしたね。

中澤 大きなアパートに1カ月くらいいましたね。そのシアトルの旅行も、ウクライナも、シューレが提供してくれた機会じゃないですか。そのふたつの旅行って、けっこう大事だったんですよね。ソ連が崩壊したばかりのころのロシアに行ったことのある経験ってすごい。それを知ってる人なんて、ほとんどいないですもん。アメリカも、早い時期にアメリカに行ったことがあったから、社会人になって旅行会社の仕事をするときも、シアトルとか西のほうにしか行ったことなかったのに、さもぜんぶ行ったことがあるみたいに話せたんです。知ってることの応用で、経験値を倍ぐらいふくらませられるんですよ。だから、あれは大きかったですね。

奥地 サハラ砂漠にも行ってましたね。

中澤 シアトルに行ったあとにサハラに行きました。シベリア鉄道を横断して、サハラまで行ったんですよね。そのあとがマダガスカルで、中国にも行きました。あのころの中国も、まだぐちゃぐちゃでしたから、すごくたいへんでしたけど。

奥地 その後、シューレでも大陸横断旅行をして、私もシベリア横断鉄道に乗りました。マダガスカルでは、すごく貧しい子たちに会ったって言ってましたね。

中澤 靴を履いてると金持ちで、履いてない人は貧乏人という区分けでした。おいしくないというか、すごくまずい食べ物を食べていて、「いくらなんでも、これは食えないな」ってものを残して、食堂の席を立ったら、陰に潜んでいた子どもが4〜5人ぐらい出てきて、その食事を取り合ってるんです。これがほんとうの貧しさなんだなと思って、身につまされたというか、ああいう経験は人生観が変わりますよね。


●マラリアにも懲りずに

奥地 たしか病気にかからなかったっけ?

中澤 マラリアにかかりましたね。

奥地 死線をさまよったの?

中澤 そこまでではなかったですけど、車も走ってないような町で、病院に行くと言ったら、人力車が迎えに来たんですよ。行った先も病院じゃなくて、机とベットがあるだけのクリニックみたいなところで、すごい注射をおしりに刺されて、「もう、これでおまえは治ったぞ。ハッハッハッ」みたいな(笑)。

奥地 それで、ほんとうに治ったの?

中澤 いやいや、すぐには治らないですよ(笑)。4日ぐらいは高熱で動けなかったです。2週間の旅行で、4日間は寝込んでました。

奥地 それは不安だったでしょう? これで終わりかなって。

中澤 誰も知り合いもいないし、自分がそこにいるってことさえ、誰もわからないですからね。あのころは国際電話もできるような村じゃなかったし、そんなところ誰も助けに来られない。いまだったら、よその星に行くみたいなもんですね。まったく連絡がつかないわけですから。

奥地 それで無事に帰ってこられて、ふつうは懲りるじゃないですか。そんなところに行くのは危ないなとか。

中澤 自分のお金を15万円も20万円もはたいて、なんでこんな修行みたいなことしなきゃいけないんだろうって思いましたけどね(笑)。もっと楽しい思いもできるはずなのにって。

奥地 そもそも、どうしてマダガスカルに行ってみようと思ったの?

中澤 昔、大阪にいたときに、日曜日のお昼に「世界一周双六ゲーム」ってテレビ番組を朝日放送でやってたんですよ。それで、ゴールの少し手前に、アンタナナリボというマダガスカルの首都があって、そこに止まると、バーンってなって、スタートにもどるんです。幼稚園のころ、テレビで見て、アンタナナリボってえらいところだなと思って、いつかはあそこに行ってみたいなって思ってたんです。

奥地 それを10代の終わりごろに実現して、そういう目に遭って、でも懲りずに旅行は続けて。

中澤 そのときは懲りましたけど、しばらくするとすぐ忘れちゃうんですよね。

奥地 サハラ砂漠はどんなだった?

中澤 サハラ砂漠は、砂漠自体はすごくきれいなんですけど、そこに行くまでがたいへんですよね。

奥地 どうやって行くんですか? 鉄道もないし、車もないわけでしょう?

中澤 宿の悪いおじさんにだまされたりとかしましたよ。

奥地 だけど行ってみたい。

中澤 そう。あとロシアを横断するのがたいへんでした。2回目のロシアで、最初に行ってから2〜3年後でしたけど、まだ国のなかがぐちゃぐちゃで、あらゆる人がワイロというか、お金をせびってくるんですよ。どこに行っても、ワイロを渡さないと物事が進まない。

奥地 でも、そういう世界を見て鍛えられたね。

中澤 大人になって、いまだったら、たとえばモロッコで役人にちょっとチップを渡したら、急に物事が進むようになったりするのも、僕は平気ですけど、日本人でまじめな人だったら、ああいうのも耐えられないでしょうね。
 現地社員に「○○さん、ここで50ディルハム(モロッコの通貨)渡してください。そうしたら、ぜんぶが進みますから」って言うと、「あっ、そうなの?」って。あのときシベリア鉄道の車掌に渡した30ドルと比べたら、50ディルハムのほうがよっぽど安いやと思って(笑)。


●フランスに留学

奥地 フランスに留学されたのは何歳のときでしたか? どうしてフランスに行こうと思ったんでしょう。

中澤 96〜97年だったので、21〜22歳ぐらいですね。その前の年にシベリア鉄道でチェニジアに行く途中、フランスに立ち寄ったんですよ。当時、「アテネ・フランセ」というフランス語学校に通ってたんですけど、そこの友だちが、グルノーブルという街に留学していて、そこに立寄ったんですね。そうしたら、楽しそうにやってるんで、「これはいいな。いっちょ、やるか」と。

奥地 まずは、日本でフランス語を勉強してたんですね。どれぐらいやってたんでしょう?

中澤 シューレを出たあと、アテネ・フランセに2年ぐらい、週3回通ってたんですよね。

奥地 それは、いずれフランスに行こうかなと思って?

中澤 ちがうんですよ。シューレの友人がアテネ・フランセで英語を勉強していて、「うちの学校にフランス語コースがあるから、フランス語やりなよ」って言われて、「いいかもな」と思ったんです。当時、みんな英語をやっていて、同じものをやってもおもしろくないから、それでフランス語にしたんです。

奥地 それで多少はできるようになって、フランスに行ったんだ。フランスへは語学留学だったんですか?

中澤 フランシュコンテ大学付属の語学学校に1年半いました。語学学校なんで、フランス語だけを勉強してました。

奥地 どんな生活だったんですか?

中澤 寮にいたんですけど、寮に台所がなくて、コンロや鍋を買って持ち込んで、自分で料理してました。冷蔵庫もないから、魚屋で氷をもらってきてクーラーボックスで冷やしたりとか、いま思えば、涙ぐましいことしてましたね(笑)。

奥地 学習には困らなかったですか?

中澤 毎日、学校に行って授業を受けるのって、小学校3年生以来じゃないですか。勉強するという習慣をつけるのが、まずたいへんでした。「ああ、勉強するってこういうことなんだな」と思って、それはそれできつかったですね。毎日、毎日、朝から晩まで勉強するっていうのは。

奥地 毎日、何時間ぐらいなの?

中澤 朝から、日本の学校でいう6時間目ぐらいまであって、プラス宿題も出て、かつご飯をつくったり、買い物に行ったりもしないといけない。けっこう1日ぎゅうぎゅうでしたけど、やればできるもんですね。


●偽中卒です

奥地 そこで、のちに結婚することになる奥さんと出会うんですよね?

中澤 彼女は、その語学学校にニューヨークの大学から交換留学で来てたんです。その語学学校で1年やると、2年分か3年分の単位になるみたいな設定だったんですよね。それで、いっしょのクラスにいたんです。

奥地 なんか、すごい青春ストーリーみたいね(笑)。

中澤 そうでしょう(笑)。彼女は大学4年間の単位を3年でぜんぶ終わらせちゃって、1年間やることないからフランス語を取ったような感じだったんです。だから、彼女のほうがフランス語力は低かったというか、僕はずっとフランス語を勉強してたから、当然僕のほうができたんです。でも、僕がクラス分けのテストのときに、何かの勘ちがいではなはだしく悪い点数を取って、彼女はすごくがんばって勉強して、同じクラスになったんです。

奥地 奥さんはニューヨークの大学を出たわけだから高学歴なんだね。

中澤 すごい高学歴です。

奥地 中澤くんは学歴なんか取るもんかって思っていて、中卒ですよね?

中澤 偽中卒です。行ってもいない中卒ですよ。

奥地 中卒で、いっしょにフランス語を勉強することになったと。それで、いっしょにもどってきたわけじゃなかったよね?

中澤 彼女のほうが先に帰国して、私は後から帰りました。彼女は半年だけいて、いったんニューヨークに帰ったあと日本に帰ったんですけど、私のほうは、入学とか卒業とか決められた期間はなくて、自分で期間を決めて、自分が納得するまでやればよかったんですね。それで、私はそれからもう1年いました。

奥地 それはもうちょっと、自分で力をつけたかったということ?

中澤 まだ、ぜんぜんできるようになってなかったので、ほんとうは、もっとやればよかったんですけど、22歳になって、ほかの人が大学卒業のときだし、あんまり関係ないんですけど、これがひとつの区切りなのかなと。モラトリアムは終わりにして、実社会に飛び込むときなんじゃないかなと思ったんでしょうね。

奥地 彼女が先にもどってるから、自分ももどりたいとは思わなかったの?

中澤 もちろん、それもありましたけど、どっちかというと、そういう区切りのほうが大きかったですかね。


●就職活動は4日間

奥地 働くつもりで帰国したってことよね。それで、最初に勤めたのが?

中澤 旅行会社のHISのフランチャイズ店でした。でも、最初はアルバイトのつもりだったんです。フランチャイズ店で会社名もちがってたので、最初はHISだとも知らなかったんです。行ってみて、「ここHISかよ」と思ったぐらいでした。

奥地 ほんとうは、採用試験は大卒か高卒以上ということだったんですよね。

中澤 専門大卒以上って書いてありましたね。でも、完全に無視しました(笑)。

奥地 そのへんがユニークなんだけど、どう考えたんですか? どうせダメだって一般人は思うんですよ。

中澤 「行ったことのある国のリストをつけて、いっしょに送ってください」って書いてあったから、これはいけるぞと。そのときで21カ国行ってたんですよ。これは採らないほうが損するぞと思って、送ったんです。

奥地 大卒以上じゃなくても、もしかしたら大丈夫かもしれないと思った。

中澤 そうですね。それに、そこに落ちたからって、別にどうってことなかったですからね。バイトぐらいの気持ちだから、ダメならダメでいいやと思って。

奥地 そのときの面接のことは覚えてますか?

中澤 そのときは支店長さんと、社長さんとふたりでした。支店長さんは、終始いぶかしげな感じだったんですよ。

奥地 学歴が中卒だもんね(笑)。

中澤 だけど、社長さんは「君の夢はなんだ?」ってきいてきたんですね。それで、「僕は鉄道会社をつくりたいんです」と。「どこに鉄道ひきたいんだ?」「西アフリカのあたりにひきたいと思ってるんです」「それはいくらかかるんだ?」「まあ、数千億かかると思います」って話をして、そうしたら「そうか、わかった。じゃあ君、明日から来なさい」って言われたんです。
 郵便で履歴書を送った次の日に電話がかかってきて、明日面接に来てくださいと言われて行って、明日から会社に来いと。4日間ですよ、会社に入るまでに。

奥地 それはすごいね。超スピードじゃん。

中澤 だから、私の就職活動は以上で終わりです。

奥地 いま、就活で100件まわっても断られたという話もありますよね。

中澤 まして、私の時代は就職氷河期だったらしいじゃないですか。

奥地 それはすごい買われたんだね。

中澤 その社長も高校中退だったらしいんですよ。自分で苦労して会社を興した人だったんですよね。それは、あとから聞いたことですけど、それで、すごく思い入れがあったんだと思います。

奥地 高校中退ということは、中卒ということですよね。だから、共感してくれたのかな。

中澤 社長は、高校を中退したあとタクシーの運転手をしていて、流しでどこを走ったら稼げるかを自分で研究をして、トップドライバーにまでなったそうです。その後、旅行業界に転職して、だんだんえらくなっていって独立したんですね。そのころ、HISがまだ小さい会社で困っていて、うちの社長が創業者の澤田秀雄さんをいろいろ手助けしてあげたそうです。それを澤田さんが恩義に感じて、「あなたにHISの看板を貸してあげますから、どうぞ営業してください」ということになったんですね。

奥地 じゃあ、採用試験を受けたときは、そういう小さな会社だったってことなんですね。

中澤 1店舗しかない小さい会社でした。HISと取引をさせてもらえて、看板もつけさせてもらえる会社だったんですけど、HISではなかったんですね。


●経験が活きた

奥地 最初の仕事はどんな感じだったんですか?

中澤 最初は、わけがわからなかったです。3時間ぐらいトレーニングを受けただけで、でも、そんなんじゃ、わからないじゃないですか。しかも、「明日から来なさい」って言われたお店は、その日がオープンの日だったんですよね。それでも、店舗がオープンして一番最初に入ってきたお客さんに僕が出ていって対応して、忘れもしませんが、JALのフランクフルト行きの航空券を予約してもらったんです。「おまえ、もう予約とったのか?」って言われて、「いや、予約したいって言うから予約をとりました」って。

奥地 そういう予約は慣れているだろうからね。

中澤 でも、やっぱりちがうんですよ。あのころは、紙にいろいろ書いてたんですけど、ほんとうにびっくりするぐらい、たくさんのミスをしました。なにせ、わかってないんで。
 ただ、地理とか地名とか、あと、どういうルートで行ったらいいかは、最初から先輩よりも知っていたから、そういう意味でお客さんはついたんです。ただ、管理がぐずぐずだったから、発券し忘れて、当日あわてて空港に航空券を持って行ったりとか、そういうことがいっぱいあって……。

奥地 お客さんをハラハラさせて(笑)。

中澤 お客さんは、怒りを通り越して、あきれて待ってるんですよ。「なんなの?」みたいな。3〜4回、そういうことがありました。

奥地 それでも、支店長になってましたね。

中澤 5年かけて支店長になったんです。でも、まだ27歳ですよ。2001年にニューヨークのテロがあったとき、ちょうど私が支店長だったんですけど、あのテロで旅行業界はいっせいにガタってなったんですね。社長もお店を手放して、HIS本体に吸収されて、私は知らないあいだにHISの一員になったんです。そのとき袂を分かった人もいるんですけど、その先輩には「おまえはわらしべ長者みたいなヤツだな」って言われました。あのときはHISも、そこそこ大きな会社になっていたので。

奥地 成績もトップだったって。

中澤 成績は、支店長時代も含めて、ずっとトップでしたね。ふつう、支店長は自分で予約をとったりしないんですけど、1カ月目から最後まで、ずっとトップでした。一度も2番になったことがない。

奥地 それは何が効いたんでしょう。 やっぱり過去の旅行経験ですか?

中澤 旅行経験があって、お客さんに気の利いたアドバイスができたんですよ。HISはパンフレットで「こんな商品あります」って言ってるけど、「ここはこういう良いところと悪いところがあって、あなたには向いてないからやめたほうがいいですよ。こっちに行ったほうがいいです」とか、私はハッキリ言うんです。そうすると、「じゃあ、あなたにまかせるわ」となって、旅行の組み立てから何から、ぜんぶ自分で組み立てて、「これで行ってください」って感じなんです。

奥地 それで行ってみたら、ほんとうにそのほうがよかったって思えるわけね。そうやって信用を得てきた。

中澤 おみやげを買って持って来てくれたりね。だから、後半は何もしなくても、電話を取らなくても自分からカウンターに行かなくても、お得意さんだけでまわしていけちゃうぐらいでした。

奥地 それでトップになった。学校というものに行かないで、好きな旅行をどんどんやって、それがその仕事につながっている。やっぱり学校に行ってたら、そんなにたくさん旅行に行けないですからね。そこが、なかなかおもしろいなと思います。それで、いまは本部にいるんですかね。


●転職も考えたけど……

中澤 そこまではよかったんですよ。28歳までは。もう天狗ですよね。ミスしたときは怒られましたけど、後半3年間は誰も自分を叱る人もいなかったですしね。ところが、いまの前の社長さんが、まだそんなにえらくなかったときに僕に目をつけて、「君は本部に来なさい」と言ってきて、仕入れの部署に配属になったんです。

奥地 それは昇進したということですよね。

中澤 ふつうに考えたらそうなんですけど、これがたいへんで、それまでと180度ちがうというか、転職したみたいなもんだったんです。お店でお客さんと話をするのと、本部で航空会社の人と値段交渉するのでは、ぜんぜん異質の世界なんですね。もう、わけがわからなくて、毎日毎日怒鳴りつけられて……。理由もわからないんですよ。何に怒られてるのかもわからない。まったく理解ができない世界で、半年か1年がんばればわかるようになるのかなと思ったんですが、いつまで経ってもわからないし、上手にならないんです。しかも、そんなに怒るならお店に戻してくれればいいのにって思うんですけど、そうはならないんですよね。

奥地 やっぱり期待はあったんだ?

中澤 期待されてるふうにはまったく感じなくて、でも、結果的には、ずっとそこにいることになったんですね。ずっと、この職業は合わないなと思っていたんですけど、7年目ぐらいに、やっと自分にもできるようになったと思いました。向いてないと思う仕事でも、やり続けていたら、いつか人はできるようになるんですよね。

奥地 部署を変えてほしいとは思わなかったんですか?

中澤 何度も転職しようとしたんですけど、面接を受けても、そのたびに、ありえないような風向きで落ちたりしたんですよ。感覚的に「これは受かったな」と思っても、「俺もいいと思ったんだけど、社長にダメって言われてさ」みたいなことが何回も続いたので、「俺、この会社辞められないんだ」って思って……。

奥地 覚悟したって感じ?

中澤 途中で観念して、そのうち、まわりの環境も変わって、ガミガミ怒ってた人も異動になって、自分だけが残って、気がついたら自分が一番先輩みたいになってたんですよ。そうなると、まわりの人も僕にまかせるしかないじゃないですか。だから、時間かかっても、あきらめなかったら、かならず成しとげられるんだ、簡単にあきらめちゃいけないなって思いました。

奥地 そういう教訓を得たんだ(笑)。毎日、仕事で怒られて、そのころは何が支えだったんでしょう?

中澤 家族がいるってことですね。


●仕事はめぐり合わせ

奥地 それで、その後、モロッコに行ったんですね。

中澤 結局、その部署には10年いて、2014年にモロッコに行きました。あんなガミガミ怒られる、つらい年数に比べれば、どんなところに行っても怖くないと思いました。モロッコなんて平気だって。

奥地 モロッコでは、まず自分が住むところを見つけるところから始めて、店を構えるところも見つけて、全国調査して何が売りになるかを見つけてとか、ぜんぶやったと言ってましたね。

中澤 しかも、銀行の口座が開設できなかったんですよ。銀行で口座をつくろうとしたら「勤務先がない人は口座をつくれません」と言われて、だけど、会社をつくるには銀行口座がないといけないんですね。それで、役所に行っても、「資本金を送る口座がなかったら会社は認められません」と言われて、どっちに行っても、ダメだと言われてしまう。これには困りましたね。

奥地 結局、モロッコにお店は出せたんですか?

中澤 ええ。おかげさまで商売繁盛で、アフリカ大陸では、とても儲かってるんですよね。

奥地 モロッコに行ったことの意味が出たんだ。

中澤 もちろん、後任の人が適切に運営しているおかげですけど、軌道のレールを敷くのは大事ですからね。そのレールの方向がまちがっていたら、永遠にまちがった方向に行っちゃいますから、最初の仕掛けが正しかったんだなとは思います。

奥地 あとは、どういうところに行きましたか?

中澤 海外赴任したのはモロッコだけです。あとは出張ベースで、イラン、南アフリカ、サウジアラビア、アゼルバイジャンなんかに行きましたね。

奥地 中東担当だから、中東が多いんですかね。

中澤 中東・アフリカばっかりですね。もう数えきれないですが、50カ国以上は行ったことがあります。会社に入ったときの21か国の倍以上になりました。

奥地 会社に入ってから何年になりますでしょうか?

中澤 もう20年経ったんですよ。今年21年目です。

奥地 いまは管理職ですか?

中澤 管理職ですけど、けっして、えらくはないですね。むしろ出世は遅いほうだと思います。いまの私の上司は自分より後輩ですし、私はヒラに毛が生えたようなもんです。仕事はめぐり合わせですから、いいときもあれば悪いときもありますし。

奥地 いまの仕事は好きですか?

中澤 向いてるというか、いいめぐり合わせで、こういう仕事をさせてもらってるなと思います。たいへんなときもありましたけど、そういうときは、ジタバタあわてないことですよね。


●ただ行かなかっただけじゃない

奥地 そう言えば、さっき聞き忘れてましたけど、フランスから帰ってきて、結婚したんですよね?

中澤 就職して丸2年経ったころに結婚しました。24歳のときでした。

奥地 もともと、そういう話があったの? それとも日本に帰ってきてから?

中澤 これはパッと思いつきで。思いつきと言ったら失礼かもしれないけど、これはもう直感ですよね。

奥地 彼女と結婚したいと。

中澤 ここで結婚しないでどこか行かれちゃったら、二度とこんな人には会えないなと思って。

奥地 やっぱりフランスでの生活が非常に印象に残ってたんだ。

中澤 彼女も学歴は非常に高いけど、日本の学校がイヤでアメリカに飛び出していったような人だったから、本質的には考え方は近いものがあったのかなって。そのときに彼女は学校に行かないという選択肢はまったく思いつかなくて、そこから逃げ出すためというか、飛び越えるために外国に行ったというタイプだったんですね。

奥地 彼女は、あなたが不登校して、ほとんど学校に行ってなかったことを知ったときに、どういう反応だった?

中澤 知らないものを目にするのが大好きな人だったんですよね。だから、めずらしいものを見つけたなって感じでしたよ。「ほんとうに私、あなたみたいな人に出会ったことない」って、何回言われたかわかんないです。いろんな場面で、「こんなこと言う人、こんなことやる人、ほんとうに初めて見た」って、いまでも言われます(笑)。

奥地 彼女の価値観では、学校に行っている・行っていないは、あんまり関係なかったのね。よく日本では、進学や結婚で不登校は不利だったりするけど……。

中澤 それに代わるだけの実力があると認めてもらえたんですよね。だから、ただ行かなかったからいいっていうよりも、その行ってないあいだに、ふつうの人が経験できないことをいろいろ経験して、見識を溜めたことに価値があると。ただ、行かなかっただけじゃないですからね。

奥地 結婚式のとき、「超学歴が高い人と、超学歴が低い人が結婚しました」って言ってましたね(笑)。

中澤 そうでしたね。


●これが受験ってものなんだ

奥地 なんか人生って、わかんないよね。学歴が高くないと幸せになれないと思って、そういうことを追いかけている人もいるけど、そういうわけでもないっていうかね。いまは、ふたりのお子さんがいて、中澤くんが通っていた学校に行ってるということでしたね。

中澤 そして、私立中学に合格しまして、4月からはそこに通うんです。

奥地 受験生の親だったんだ?

中澤 僕は社会ぐらいしか教えてあげられなかったんですけど、受験勉強して合格するんですよ、すごいです。しかも、受かったのが一番下の学校とかじゃないですからね。はじめから、ここに行きたいって言ってた志望校にちゃんと行けたんですね。下の子も、その付属の小学校の試験に合格して転入して、いまはふたりとも私立です。

奥地 お金はかかるね。

中澤 お金もかかります。うちの子どもからしてみたら、地元の小学校でさえイヤだったのに、その地元の小学校が集まって、エッセンスのギュッと詰まった中学校なんて絶対に行けない、絶対無理だって言ってました。「あの学校に行くぐらいだったら、僕は死にもの狂いで勉強するから」って。

奥地 子どもがイヤだって言ったのね。受験生の親ってどうでしたか? 自分も受験生は経験してないわけでしょう。

中澤 ですから、終始、奥さんのほうが主導権を握ってました。ペース配分から何から。僕は言われた通りにサポートするだけでしたけど、「これが受験ってものなんだ」って、ひとつ世界が広がりましたね。

奥地 子どものころ経験しなかったことを親になってから経験したわけですね。

中澤 進学塾とかも初めて行ったんですけど、塾の先生も、まさかお父さんがそんな人だとは思ってもいなくて。

奥地 奥さんは受験を経験してるのかな?

中澤 本格的な日本の受験勉強はしたことないんですよ。推薦とかで通っちゃったような人だったし、アメリカの大学の試験って、また別じゃないですか。ただ、猛烈に勉強する人ではありましたけどね。アメリカで勉強についていくのって、英語の勉強と科目の勉強だから、たいへんみたいですね。だから、奥さんのほうも、日本の受験というのは初めてでしたね。
 でも、勉強の仕方を教えることについてはプロですから、どのように勉強するかは、いっさいをまかせてました。途中までは、絶対に受からないと思ってたんです。ほんとうに勉強が遅れてたというか、4年生のときに3年生の勉強をしてたぐらいだったので。

奥地 親として、「勉強しろ」って、言ってたわけじゃなかったんだ。

中澤 言ってなかったんですよね。そうしたら、どんどん遅くなっちゃって。でも、最後はちゃんと、しかもわりと余裕を持って合格してました。


●念じれば、いい方向に

奥地 昔のシューレ仲間が、中澤くんの息子が受験勉強をして私立に入ったって聞いたら、「えーっ」って大笑いするんじゃない?

中澤 それが人生ってもんですよ。だから人生はおもしろいんですよね。

奥地 ぜんぜん計算通りにならないもんね。

中澤 でも、念じればきっと、ぜんぶいい方向に行くんですよ。

奥地 やっぱり楽天的なところもあるの?

中澤 誠実に熱意を持ってやってれば、程度の差はあれ願った通りになるような気がするんですね。

奥地 最初のイランの話でも、相手に伝わるのは、どれだけの熱意があるかで語学力だけじゃないと言ってたけど、念じれば、やっぱり人生はいい方向にいくと。

中澤 そういう気がしますね。でも、すぐにはならないかもしれないですよ。ときに悪い時期もあるんだけど。

奥地 7年の苦しみもあるわけだしね。

中澤 家庭だって、ごたごたするときもあるけど、でも、まじめにやっていれば報われることのほうが多いような気がしますけどね。

奥地 そういう言葉で、いま、ちょっとつらい状況にある人が、それを信じてやってくれるといいけど。いま、ふり返って、自分が不登校したことはどう捉えてますか?

中澤 まぐれみたいなもんです、まぐれです(笑)。もう1回、同じ人生やれって言われても、もうこんなにうまくはできないです。

奥地 なるほど、そうかもしれない(笑)。

中澤 ふりだしにもどるとなったら、もう辞めます(笑)。


●そのときは僕の出番

奥地 辞めるって言っても、なっちゃったら、どうしようもないよね。たとえば、自分のお子さんが私立中に入っても、不登校になったとしたら、どうする?

中澤 そのときは、たぶん僕の出番ですよね。

奥地 今度はお母さんじゃなくて、お父さんの出番(笑)。

中澤 いまは奥さん主導で子どものマネージメントしていて、そのマネージメントはすごかったと思うんですよ。ふたりとも合格させたわけですから。でも、もし仮に不登校になったら、今度は僕がマネージメントするようになるでしょうね。

奥地 まかしとけ、みたいな?

中澤 そのときはね。やっぱり役割がありますから。あえて言うなら、強烈に勧めるような話ではないですよ。わざわざ行ってる人に「行くな」というような話ではないし、行ってるものは、そっとしておけばいいんだろうと思いますけど、いざ行かなくなったときには、いろんな選択肢や方法がある。でも、それも一概に言えないですけどね。
 ひょっとしたら、ちょっと休んで、またもどりたいってほうが心地いい人もいるだろうし、1回行かなくなったからにはそうするんだって、そういうわけのわからない人もいるだろうし。

奥地 その人その人の進み方が選べるといいですね。

中澤 そういう意味では、そこで学んだことは、柔軟さというか、これはこういうものだという固定概念は持たないということですね。

奥地 そういうふうに、自分のいまを受けとめて考えられれば一番いいですね。中澤くんは「僕の話を聞くとみんな笑うんだよね」って言ってましたけど、なぜか昔からそうなんだよね。今日もすごくおもしろかったです。笑ってばっかりいましたね。ありがとうございました。

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* 中学校卒業程度認定試験。保護者が義務教育諸学校に就学させる義務を猶予又は免除された者に対して、中学校を卒業した者と同等以上の学力があるかどうかを認定するために国が行なう試験。
posted by 不登校新聞社 at 18:12| Comment(0) | 当事者
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