2018年06月25日

#41 伊藤書佳さん

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(いとう・ふみか)
1969年、東京都立川市生まれ、千葉県木更津市で育つ。中学校2年生より学校に行かなくなり、『学校解放新聞』の編集に関わるようになる。中学校卒業後も、「学校に行かないで生きてみよう、実験してみよう」と思い、進学はしなかった。1993年から2008年まで、雑誌『ちいさい・おおきい・よわい・つよい』(ジャパンマシニスト社)の編集に携わっていた。『安心ひきこもりライフ』(勝山実/太田出版2011)の編集も手がけた。現在は雑誌『教育と文化』(教育文化総合研究所)の編集に携わる。「不登校・ひきこもりについて当事者と語り合ういけふくろうの会」の世話人のひとり。著書に『超ウルトラ原発子ども―ゲンパツは止められるよ』(ジャパンマシニスト社1989)。

インタビュー日時:2018年2月20日
聞き手:山下耕平、山田潤、栗田隆子
場 所:大阪ボランティア協会
写真撮影:山下耕平

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〈テキスト本文〉

山下 今日はよろしくお願いします。不登校経験についてうかがう前に、まずは生い立ちからうかがえますでしょうか。

伊藤 1969年、東京都立川市で生まれたんですが、父の仕事の都合で2歳ごろに佐賀県に、4歳ごろに東京都大田区に引っ越して、小学校2年生の夏休みに千葉県の木更津に引っ越して、その後は木更津で育ちました。

山下 お父さんのお仕事は?

伊藤 法律関係の仕事をしていました。

山下 小学校はどんな感じだったんでしょう。

伊藤 小学校に入学したのは1975年です。学校は楽しかったのですが、よくおなかが痛くなって保健室で寝ていることもあったから、そんなになじんでいたわけでもなかったのかもしれないですね。
 小学校2年生で木更津に引っ越してきて、転校生なので、後ろからランドセルをキックされたり、鉛筆を折られたり、そういうことはありました。でも、それでダメージを受けるという感じではなくて、「イヤだな」「やめてよ」って思ったり言ったりしながら、わりと楽しくやってたと思います。宵っ張りなので、よく寝坊はしてましたけど。

山下 小学校のことで、ほかに覚えてることがあれば。

伊藤 6年生になって、ものすごく体罰をふるう30代の男性教員が担任になったんです。一学期が始まってすぐのころ、その先生がロッカーからランドセルがはみ出しているのを見つけて、そのランドセルを3階の教室の窓から下に投げて、持ち主の子の胸ぐらをつかんで揺すった。生徒を殴ることもあって、しかも「殴るときはおなかを殴るんだ、跡がつかないから」と言っていたり、緊張感の高い毎日でした。
 クラスには、知的障害のあるKくんという子がいて、ふだんから先生はその子のことをからかっていていやでした。Kくんはとても細かったんですけど、あるとき理科の授業の際に、骸骨の見本の横にKくんを上半身裸にさせて並ばせて、あばら骨を見させたりしていました。そのときの授業のようすが卒業アルバムに載っているんです。

山田 ちょっと信じられないね。

山下 ご自身がやられたことはあったんですか。

伊藤 赤白帽子のゴムが伸びていて、かぶらないで首にひっかけていたら、「なんで、かぶってないんだよ」って、いきなり帽子のゴムをぐうっと引っぱられて、首が絞まって「苦しい」と泣いたことはありました。
 小食で食パンをぜんぶ食べきれずに持ち帰ったりしていたのですが、その先生のときは残しちゃいけないから無理やり食べて、それはすごくつらかったですね。食べられないものがある子は、ずっと座らされたり、無理やり顔を皿に押しつけられて「食べろ」と言われことがあるので、必死で食べていました。
 でも、そういったことを体罰と呼ぶというのも知らなかったし、ほかにも殴る先生もいるし、先生にはそういう人もいるんだと思ってました。
 あるとき、おなかを殴られた子のお母さんが抗議しに来たんです。そうしたら、そのお母さんが帰ったあと、帰りの会で「○○のお母さんは頭がおかしい」と言って、みんなの前で非難したんです。親に言っても、もっとひどいことになってしまう。親が変に言われちゃうし、ガマンするしかないのかなって。それでも、友だちといっしょに教育委員会に言いに行こうかって話したことがありました。

山下 それは、子どもたちどうしで思いついたことだったんですか。

伊藤 そう。

山下 親に言うとか、校長に言うとかではなくて、教育委員会にというのは、お父さんが法律の仕事をしていたから、そういう発想が出てきたんでしょうか。

伊藤 いや、私じゃなくて、友だちが言い出したんです。それぐらい、学校全体が先生の味方という感じがあったんです。一度、隣のクラスの先生に相談したんだけど、「そうだよね、でもしょうがないよね」みたいになぐさめられただけでした。親のなかには、「うちの子が悪かったら、先生どうぞ殴ってください」という人もいました。

山田 ある時期までは、学校の教師というのは、めちゃくちゃしてたよね。いまの学校からは信じられないくらい。

伊藤 圧倒的に力関係がハッキリしてたと思います。いまとは先生の位置づけがちがうように思います。教育委員会に言いに行こうという話が出たのも、どこに言えば、この状況から助けてもらえるのかわからなかったからで、いわば、お上に直訴する感じだったのかもしれません。結局は言いに行かなかったんですけどね。

●校内暴力が起きるのは

山下 中学時代のことを聞かせてください。校内暴力が激しかった時代ですよね。

伊藤 そうです。中学校は制服もあるし、体罰も日常茶飯事だし、先輩後輩の上下関係も厳しいし、校内暴力もありました。二宮金次郎の像が3回壊されたり、廊下をポケットバイクが走ってたり、トイレを詰まらせて廊下が水浸しになっていたり……先生はそれを抑えるためにさらに殴る。そういう時代でした。でも、そういうなかでも楽しいことはあったんですよね。だから、1年生のときはけっこう楽しくやってました。

山下 校内暴力については、「あのころは、まだ元気があった」みたいに、やや美化して語る向きもあると思うんですが、その暴力の被害に遭った生徒や教師もいたわけで、私なんかは、自分の経験からしても、そういう単純な見方はイヤなところがあるんですよね。伊藤さんは、校内暴力はどう見てたんでしょう。

伊藤 暴力はほんとうにいやです。大きい声を出す人もこわいし、ケンカでワーっとなっているのもこわい、何かが壊されているのを目にするのもつらいです。けれども、学校のなかでポケバイが走ったりするのは、ちょっとおもしろかったですね。校内暴力があった時代は元気でよかった、とは思いませんが、校内暴力にはそれを起こす理由がある。校内暴力よりむしろ学校の側の暴力のほうがひどいと思ってました。
 そういうのを見ていて、どっちも変だ、この学校のあり方がおかしいんじゃないかって思ってました。どっちもつらい。

山下 校則で覚えているものはありますか?

伊藤 スカート丈が床上30センチ以上とか、セーラー服のスカーフは結び目からの長さを10センチ以上にするとか、カバンの厚さは10センチ以上とか、靴下は白でレースみたいな編み目の入っているのはダメとか、前髪はおさえて眉毛の上でないといけないとか……すごく細かかったです。

山下 当時は、スカートは長いのが流行ってたから、床上30センチ以上だったわけですね。カバンも「つぶす」とか言って、薄くしてたりしましたよね。

伊藤 そうそう。それで、体育とか音楽の時間で生徒が教室にいないときに、先生が全員のカバンを調べて、持ってきちゃいけないものがあったら没収したりするんです。そういうとき、先生が急変するんですよ。「何だ、これは!」とか言って。何が悪いのか、ほんとにわからなくて、そういう学校のいちいちについて、ずっと疑問に思ってました。

山下 でも、先ほどおっしゃっていたみたいに、おかしい状況でも、みんながあたりまえと思っているなかでは、それがおかしいという視点は持ちにくいですね。そういう視点を持つきっかけはあったんでしょうか。

伊藤 あたりまえと思っていても、殴られるのは痛いからすごくいやで、殴ることないだろと思って腹が立ちます。ほかにもそう思っている子はいたと思います。もうひとつ、小学校4年生のときに、「ごちそうを食べた上着」というお話を教科書で読んだんですね。トルコの民話で、ホジャさんというトンチのきいたおじさんのお話です。ホジャさんが、お金持ちのハリルさんの家のパーティに呼ばれて行くのですが、一日中ブドウ畑でほこりまみれになって働いてきて、急いで行かないと遅れてしまう時間になってしまったので、着替えずにそのままの格好で行ったら、誰も相手にしてくれない。話しかけても無視される。ホジャさんはおかしいなと思って、自分のまわりのお客を見るとみんな上等のよそゆきを着ている。それでホジャさんは家に帰って、お風呂に入って、一番いい服に着替えて出直す。今度はものすごく歓迎された。それは、自分が歓迎されているんじゃなくて、この服が歓迎されているんだから、服に「たくさんたべろ、上着くん」と言って、ポケットにごちそうを詰めるというお話です。そのお話がすごく好きだったんですね。ところが中学に入ったら、その服で人を判断している人たちと同じことをしているじゃないかと思って。

山下 おもしろいですね。身近で、この状況はおかしいという人はいたんですか?

伊藤 言ってる人はいなかったですね。でも、思ってる人はいました。当時の同級生にきくと、私は誰かれかまわず、学校の決まりがおかしいという話をしてたみたいです。それで、「そうだね」と言ってくれる人もいたけど、「そうは言っても卒業までだし」とか「決まりを破るのが楽しいんじゃん」とか「先生に見つかるかどうかのところで、スカート丈を長くしたりするのが楽しいんじゃん」とか言う人もいて……。


●ずっと考えていたら微熱が

伊藤 中2の夏休み前の終業式で、生活指導の先生が「服装の乱れは心の乱れだ。夏休み中も中学生にふさわしい生活、服装を心がけるように」と言っていたのを聞いたとき、これはほんとうに何かおかしいと思ったんです。夏休みのあいだ、なんか変だとずっと考えていたら、夏休みが明けてから微熱が出るようになって、カゼだなと思って学校を休み始めたんです。でも、イヤだなと思っていることと微熱が出ていることは、まだ自分のなかでつながってなかったんです。
 病院に行って検査しても、どこも悪くない。医者にも「怠け病」と言われました。「でも、実際に熱があるんだもん」ってことで、2〜3週間、休んでいたら、担任の先生がようすを見に来てくれて、「何かイヤなことでもあったのか」ときいてきたんです。それで、夏休みのあいだ中、考えてたことを話したんです。
 決まりがあるから、決まりを守らない人が「乱れた服装」となる。先生も、それを取り締まらないといけないのは、たいへんじゃないか。たとえば、日曜日には、生徒を原宿に行かせないために、木更津駅の改札に先生が交代で立っていたことがあったんですよね。いらない決まりをなくせば、みんなが楽になる。
 そうしたら、その先生は「そうかもしれないね」と言ってくれたんです。特別いい先生ということでもなかったけど、話は聞いてくれた。それで、「決まりを変えたいんだったら、学校に来てやったらいいんじゃないか」と言うので、新聞同好会をつくって、ときどき学校に行って5人くらいで新聞づくりを始めたんです。担任の先生には顧問になってもらいました。でも、新聞を印刷したら、校長先生に怒られたりして、また学校を休んだり。学校には、ほとんど行ってないんだけど、新聞をつくるときなど、たまには行ってました。

栗田 校長先生が怒ったというのは、書いた内容で?

伊藤 そうですね。「決まりをなくしたらいい」という内容が書いてあったからだと思います。私は、みんなに新聞で知らせて仲間が増えれば、学校を変えられるんじゃないかと考えてたんですけど。取るに足らないちいさいものの集まりだと思われてるかもしれないけど、一寸の虫にも五分の魂があるのだという気持ちで「群小」 って名前をつけた新聞は、3号くらいまでは出しました。

山下 たとえば、保坂展人さんは中学校で「全共闘」をつくって、新聞を発行して闘ってたわけですよね(本プロジェクト#27参照)。伊藤さんの時代だと、そういう抵抗の仕方は難しくなっていたんじゃないかとも思いますが、どうだったんでしょう。

伊藤 でも、『子どもたちが語る登校拒否』(世織書房1993)でも、書いていた人がたくさんいたじゃないですか。ミニコミをつくっているグループもあったし、何か書く人はたくさんいたんじゃないかな。高校の新聞部では学校批判をしているところもあったはずです。学校解放新聞にも高校で新聞部に入って活動している人たちが何人も来ていました。

栗田 『子どもたちが語る登校拒否』には私も書いてるんですけど、学校のなかで書いていたわけじゃないんですよね。80年代で、学校のなかで新聞を出せる雰囲気が残っていたというのは、私からすると、年代は近いはずなのに遠い感じがします。

山田 学校というのは、生徒が出す新聞は大きらいですからね。その後の、脱色された娯楽中心の新聞だったら先生も許すけど、80年代の中学校で、そういう新聞を出して、先生が顧問になってくれたというのは、へえって思います。印刷はどうしてたんですか。

伊藤 先生が事務の人に刷ってくれるように手配してくれました。でも、全面的に味方ということでもなかったです。ちょっとは味方にはなってくれる。
 新聞は出したものの学校は休んでたので、あるとき、生徒指導の先生が家庭訪問に来たんですね。白いエナメルの靴に白いスーツで、ポマードでオールバックの先生。それで、その先生は「そんなに学校に来ないんだったら、児童相談所に相談に行ってください」と母親に言っていました。


●水を飲みたくない馬に

山下 学校に行かなくなったあとは、どういうふうに過ごされていたんでしょう。

伊藤 昼まで寝ていて、「笑っていいとも」を見たり、「必殺仕事人」とか時代劇の再放送を見たり、あとレコードを聴いてましたね。松田聖子とか、友だちにおしえてもらった中島みゆきとか、井上陽水とか。

山下 親御さんは、どういう感じだったんでしょう。

伊藤 親にも「学校が変だ」ということは言っていて、母は「それはわかるけど」って、聴いてはくれたんですね。でも、「水を飲みたくない馬に、無理に飲ませようとしても飲まないように、行きたくない人を無理に行かせようとしてもね」って言うときと、「行かなくてどうするの!」ってなるときとあって、行ってほしいという気持ちと、行かなくてもいいという気持ちのあいだで、ずっと揺れている感じでした。父は、「バカか、おまえは!」みたいな感じでした。

山下 無理に学校につれていかれるようなことはなかったですか。

伊藤 それはなかったですね。ただ、父がいるときは、休んでいると怒られるから、父が仕事に行くまで、こたつのなかに隠れたり、「行ってきます」って行くふりをして、家で隠れているときもありました。父は事務所に泊まって帰ってこないことも多かったので、それで助かっていたところもありましたね。あと、近所に仲良くしているおばさんがいて、そのおばさんの家に行って女性週刊誌を読んで、父が出かけたころに家に帰ったりもしてました。

山田 私は定時制高校の教員をしていて、ヤンチャをしてきた子への親近感があったんですね。だから、不登校なんて聞いても「学校ぐらい行って暴れてやったらええやないか」って思ってました。学校に行けなくて神経症をわずらったりというのは、よくわからなかったんです。伊藤さんのお父さんにも、そういう感じがあったのかなと思いますが、どうでしょう。

伊藤 そういう気持ちはあったかもしれません。でも、「それがちがうんだよ」って思ってました(笑)。

山下 親御さんは、親の会だとか、どこか相談に行ってたりはしたんですか?

伊藤 そういうことは、いっさいなかったですね。

山下 学校の先生が無理につれていくということはなかったですか?

伊藤 無理やりではなかったですけど、車で迎えに来られて、行ったこともあります。

山下 病院につれていかれたことは?

伊藤 さっきの「児童相談所に行ってください」という話から、父も「これはおかしいんじゃないか」「児童相談所か精神科に行け」となったんですね。「なんで病院に行かないといけないの? どこも悪くないのに」と思ってたんですけど、とにかく1回でもいいから行ってほしいと言われて、「国府台病院の渡辺位先生(児童精神科医/1925―2009)のところだったら行ってもいい」と言ったんです。そこだったら、ひどいことにならないんじゃないかと思って。でも、3カ月待ちだというので、さつき台病院(千葉県袖ケ浦市)に行ったんです。そこの先生が「あなたは別におかしくない」と言ってくれて、それで済みました。

山下 渡辺位さんのことは、どこで知ったんですか?

伊藤 本屋さんで『ひと』(*1)を見つけて、奥地圭子さんや渡辺位さんの存在を知っていたんです。


●学校解放新聞に

伊藤 それと、中2の3月(83年)に『学校解放新聞』が創刊されて、それを朝日新聞の若者欄で知って、購読し始めたんです。学校解放新聞にも、校内暴力をただ子どもが荒れていると見るのはおかしいと書いてあって、同じようなことを考えている人がいるんだと思いました。

山下 学校解放新聞を創刊したメンバーは、どういう人たちだったんでしょう。

伊藤 保坂展人さん、伊藤悟さん(著述家)、斎藤次郎さん(教育評論家)をはじめ、保護者の立場の人や大学生などの若い人たちだったと記憶してます。

栗田 西原理恵子さん(マンガ家)も関わってましたよね。

伊藤 そうでしたね。創刊号にも西原理恵子さんのイラストが掲載されています。学校解放新聞を発行する学校解放新聞社があった青生舎には、いろんな人が来ていて、変な大人の人や同世代の人もいっぱいいて、おもしろい時間を過ごしました。

山下 青生舎と学校解放新聞は、どういう関係になるんでしょう。

伊藤 青生舎は、70年代の後半から保坂さんと仲間の人たちが運営していた、若者たちが集まるフリースペースです。保坂さんが10代のころに文庫本がボロボロになるまで読んでいた魯迅の「青年を殺戮するのは、やはり青年です」という言葉にヒントを得て、青年を生かす場所をつくろうと「青生舎」という名前にしたのだそうです。青生舎では、いろんなイベントやお祭りも企画されてました。原発問題にも取り組んでることがあったし、喜納昌吉さんのコンサートが準備されることもあった。
 当時、保坂さんは『月刊明星』とか『セブンティーン』に連載していて、中高生の読者から手紙がたくさん来てました。実際に保坂さんを訪ねて青生舎を訪ねてくる中高生もたくさんいました。家出してくる子もいた。保坂さんは中高生を取り巻く教育問題の、すごく真ん中にいたと思います。鹿川裕史くん(*2)も、保坂さんの本を読んでいて、亡くなるときにも持っていたのだそうです。

山田 そうですか。保坂さんの本を読んでいたりして、なぜ、そこまで追いつめられてしまったんかな……。

伊藤 尾山奈々さん(*3)も、たくさん本を読んでいたし、感度が高くていろんなことがわかってきた人が絶望してというか耐えられなくなって死んじゃうこともあるんじゃないかなと思ったりします。

山下 その絶望感は、私も他人事ではなかったような気がします。鹿川くんは同世代ですしね。学校解放新聞創刊のきっかけは、どういうことだったんでしょう。

伊藤 鹿川くんが自死する4年前、保坂さんが原告として争っていた内申書裁判が東京高裁で逆転敗訴になりました。その後に緊急に開かれた集会で、保坂さんが「学校解放センターをつくろう。裁判を機にして、より直接に学校を変えるという領域に踏み出せないなら、裁判をやめようと思っている」と支援者の人たちの前で切り出して、内申書裁判を支える会代表の昌谷忠海(さかや・ただみ)さんがまずやろうじゃないかと手を打ってうなづいて、長谷川孝さん(元毎日新聞記者)、斉藤次郎さん、会場に来ていた保護者の立場や大学生・高校生といった若い人たちからも同意してくれる人が出てきて、この「学校解放センター」をつくり出すためのきっかけとして学校解放新聞が創刊されることになったと聞いています。

山下 最初は大人がつくったんですね。

伊藤 集会には大学生、高校生も来ていて、仲間に加わっていました。編集会議には中・高生や大学生も来てましたし、私も84年から参加するようになりました。

山下 最初は保坂さんたちの問題意識があって、子どもたちもいっしょにやろうと、編集に関わってくれる人を呼びかけたということですか。

伊藤 子どもたちもいっしょにというより、同じように問題を感じている人だったら誰でもいい、ということだったと思います。子どもといっしょにという感じではなかったところが、いいところなんですよ。逆に言うと、誰もそれほどかまってくれないんだけど、それもよかった。

栗田 ケアという発想とはちがうわけですね。

伊藤 そう、仲間だから。あ、でも、子どもたちを救いたいという気持ちが大きい人もいたと思います。でも、そうでない人が多かったことに助けられていました。

山下 編集会議に参加したのはいつからだったんですか。

伊藤 創刊号が出てすぐの拡大編集会議が最初の参加です。中2の春休みでした。自分も中学校で新聞をつくっていたから、新聞に興味があったんですね。

山下 学校解放新聞はどれぐらいの頻度で出していて、部数はどれぐらいだったんですか。

伊藤 月1回発行で、創刊号は4000部が3週間ぐらいではけて、1年後には1万部まで部数を伸ばしたと聞いています。その後、だんだん部数が減っていったけど、最初の1年くらいは話題になっていました。初代編集長は森口秀志さん(ライター)、2代目は長岡義幸さん(ジャーナリスト)で、3代目は、山本洋一郎さん(マンガ家・山本夜羽音)でした。

山下 その後、いつまで発行してたんでしょう。

伊藤 うろ覚えなのですが1986年ごろに『KIDS』という冊子にかたちを変えて、1989年10月まで続いていました。『KIDS』の編集長は、平野裕二さん(子どもの権利活動家、翻訳家)でした。


●しっくりしなくなった

山下 青生舎では『ここならGOO』(ジャパンマシニスト社/1992)というビデオも制作していて、伊藤さんが、フリースクールや居場所を訪ねてレポートしてましたね。

伊藤 そうでした。あのビデオをつくっているとき、自分のやっていることと自分が思っていることとが、しっくりしなくなってきている感じがしていました。

山下 しっくりしないというのは?

伊藤 私自身は、フリースクールとかフリースペースみたいな場所に通ったことはなかったんです。自分は行こうとは思わなかったんだけど、そういう場所があるのは悪くないと思っていました。だけど、学校に行ってない子だけが集まるというのは、ちょっとイヤだったんですね。学校に行っている人も行っていない人も、共通の問題について語り合うことができると思っていたし、学校解放新聞は、そういう場だったところがよいところだったと思うんです。学校に行ってない人も行っている人も、大人も子どもも老人もいた。いろんな人がいるのがよくて、そこで語り合うのが大事なことだと、私は思っていたんです。
 たとえば、大阪でも、全逓(全逓信労働組合)の事務所を若い人に開放していて、私も行ったことがありました。そこにも、学校に行ってない人も行っている人も来ていて、組合の人といっしょにイベントをしたりしてました。横浜でも、中学校の先生だった赤田圭亮さんが、「管理教育から学校を解放する自立センター」を立ち上げたり、生協のセンターの中にたまり場をつくって、中高生から老人まで、さまざまな人がいっしょに集まっているところがあったり、先生も生徒も、学校に行っている人も行っていない人もいて、垣根がなかったんですよね。そういう感じがよかった。でも、だんだんそういう場が消えていきました。

栗田 もうちょっと後の時代になると、「当事者」という言葉も出てきますよね。ほかの運動でも、同じようなことがあると思いますが、いろんな立場の人が話を分かち合うというよりも、同じ立場の人が運動をつくりだすという流れがあるのかもしれないですね。

伊藤 そうですね。90年代に入ったころには、すでにそういう流れになってたように思います。いろんなジャンルの人がいっしょに集まることが少なくなって、原発は原発、教育は教育、先生たちは先生、不登校は不登校って分かれていってましたね。私は、そういう流れがおもしろくなかった。

山下 すごくよくわかるんですけど、あえて聞けば、それはいまの問題意識から思うことなんでしょうか、それとも当時からクリアに、そういう問題意識を持っていたんでしょうか。

伊藤 当時から、そういう意識は持ってました。だから、学校に行かない子どもが集まる居場所に通おうとは思わなかったんです。

山下 でも、『ここならGOO』をつくっていた。居場所紹介はしていても、違和感やズレは感じていたということですかね。

伊藤 自分が通わないとしても居場所を否定はしていませんでしたし、子どもが安心していられる居場所はたくさんあったほうがいいと思っていました。訪問するなかで、安心して過ごす子どもの人たちに出会って、楽しそうでいいなあと思っていました。反面、大人は、子どものためのスタッフとして存在している、そういうところに、もやもやしたものを感じました。また、親が申し込まないと入れないところも残念でした。子どもが自分でふらっと行けるといいのになと。そういう場にしていないフリースクールやフリースペースの運営を問題にしているのではなくて、子どもが自分でふらっと行ったり、駆け込める場所が成立しない社会を問題にしていかないとならないですよね。いまになって救いだったなと思うのは、当時はフリースペースの部分が大きくて、学びを強調している場所は、ほぼなかったとことです。


●学校に行かないで生きてみよう

山下 話がもどりますが、学校を卒業するとき、卒業できないという話にはならなかったですか。

伊藤 卒業はできました。高校も受験したんですけど、父親は公立の学校しか行かせないと言っていて、公立ひとつしか受けなかったんですね。担任の先生が、ここなら絶対受かると言ってくれた学校を受けたんです。テストは、自己採点でもクリアしてたはずだったんですが、落ちちゃったんです。後からわかったのは、欠席日数がネックになって、落とされたということでした。内申書を見て、こんなに欠席が多くて大丈夫なのかと問題になって。

山下 それで、何かアクションは起こされたんですか。保坂さんは、そこで裁判までやったわけじゃないですか。

伊藤 そんなことは考えもしなかったですね。あ、いまになると、やってみてもよかったかもと思うなあ。自己採点もそれほど高い点ではなかったから、受かって当然なのにと言い切れないしなあと思ったり、高校に行きたいともそんなに思ってなかったから、もういいかなって。最初、高校に行こうと思ったのは、学校に行って文句を言ったり、学校を変える活動とかをしたいと思ったからで、とにかく高校だけは行かないと、とは思ってなかったんです。

山下 進学について、葛藤はなかったんでしょうか。

伊藤 高校に行きたくないと言ったら、父親に「高校にも行かないでどうするんだ? 行かないなら働け」と言われたんです。それで、ちょうど代々木ゼミナールに大検コースができた年で、そこに通って大検(現在の高等学校卒業程度認定試験)を取って大学に行こうということにしました。それは、簡単に言うと働きたくなかったからなんですね。父以外のまわりの人からも「学校に行かないなら働け」と言われていて、なんでだろうと思いながら、働かなきゃいけないなら大学に行こうかと。でも、代々木には青生舎もあったから、結局は青生舎に入りびたって、学校解放新聞の中高生のページの編集だとか、原発問題の勉強会だとか、デモに行ったりだとかしているうちに、そっちのほうがおもしろくなっちゃったんですね(笑)。
 もうひとつ、青生舎にはいろんな人がいて、「なんで大学に行きたいの?」ってきかれたんですよね。それで、自分でも「学校に行かなくていいと思っているのに、大学に行きたいっていうのはなんでだろう? 働きたくないから大学で学ぶっていうと許されるのはなんでだろう」と考えるようになって、結局「じゃあ学校に行かないで生きてみよう。実験してみよう」と思ったんです。
 多くの人が「学校に行かないと生きていけない」「社会を変えたいんだったら、もっと体系的に勉強して、ものが言えるようにならないといけない」「そんなことをしていると人生メチャクチャになっちゃう」とか言ってきたりしたんですけど、「うるさいなあ。自分だって、どうなるかわからないくせに、おかしいだろ」とか思って、「え、なんで? なんでメチャクチャになっちゃうの?」「なんで体系的に勉強しないといけないの?」と聞き返しているうちに、実験したくなってしまったのだと思います。
 それに、予備校に行って勉強しても、何も楽しくなかったんです。ああ、私は勉強したくないし、学校に行きたくないし、大学で学びたいこともないんだなあと思った。よって行かないと。

山下 そこには決意みたいなものがありますよね。その決意は不登校とイコールではないように思います。学校がイヤだと身体で感じて行けなくなるというのと、学歴社会と向き合って、学歴社会に乗るのではない生き方をしようというのは、同じではない。

伊藤 すでに中学を卒業していて、どこの学校にも行っていないわけですから、不登校ではないですものね。どちらかというと、フーテンとかプーですよね。でも、地続きだと思います。

山下 もちろん、そうでしょうね。でも、相当に意識しないと、そうは思えないと思います。みんなが正しいと思っている生き方とちがう道を行くのには、決意がいりますよね。

伊藤 うん、でも、困ったら、生活保護があると思っていましたしね。

山下 そこで「実験しよう」と思えたのは、学校解放新聞の仲間だとか、問題意識に共感してくれる大人がいたからでしょうか。ひとりで決意するというのは、難しかったんじゃないかと思いますが。

伊藤 そうですね。たぶん、いろんな人に会ったからだと思います。

山下 そのなかに、学校に行かないで、そのまま実験的に生きている人はいたんですか?

伊藤 ほとんどいなかったけど、ほら、保坂さんは中卒(定時制高校中退)でしょう。それと、江口幹さんも学校に行ってなかった。江口さんはアナキズムの本の翻訳したりとかしていて、『自由を生きる』(筑摩書房1980)や『現代をいかに生きるか』(農文協1981)という本を書いていたんです。その本を保坂さんにおしえてもらって、青生舎に来ている人たちとまわし読みしていて、当時は本に著者の住所が書いてあったから、友人が思い切って連絡してみたんです。そうしたら「遊びにいらっしゃい」と言われて、訪ねたことがあったんです。東京郊外だったと思うのですが、公団住宅のような団地に住んでいて、自分の畑で穫れた野菜の料理と、ドイツパンのようなハード系のパンと、ワインとで、ごちそうしてくれて、すごく楽しくて、自分もそういう大人になりたいと思いました。

山下 たしかに、密なつながりのある人でなくても、ひとりでも、本のなかでも、そういう人がいることで、ちがいますよね。
 それで、結局のところ、大学は受験しなかったわけですよね。

伊藤 大検の試験も受けませんでした。それで、働きたくなかったんだけど、「とにかく働かなきゃいけない」ってみんなに言われて、その圧がすごくて……。「働きなさい」とか「もっと勉強しなさい」、「女の人も手に職を持たないといけない」とか。それもすごくイヤだったんです。「なんで働かないといけないんだ」って。

栗田 「働きたくない」は、「学校に行きたくない」よりハードル高いですよね。

伊藤 でも、私は、学校に行かないというのは、実は働くのがイヤだということじゃないかって思うんです。だって、学校って、人の働く先を振り分ける機関でしょう。誰しも、そんなに可能性が無限に広がっているわけじゃなくて、行く高校や大学によっている場所が位置づけられてしまう。中卒で働いて生きていくのって、たいていの場合、給料も低くなるし、たいへんです。
 だけど、学校に行かないのは許されても、働かないのは許されない。父も「絶対、おまえに金なんかやらないぞ」という感じだったんです。私は「せめて18歳まではブラブラさせてくれ。みんなは高校に行って、それから働いているんだから猶予をくれ」と頼み込んで、18歳になってからアルバイトを始めたりしました。

山下 アルバイトは、どんなことをされたんでしょう。

伊藤 原宿にあるかわいい子ども服ブランドのお店で働いたり、『セブンティーン』で記事を書かせてもらったりしてました。でも、ライターで食べていくほどバリバリできないし、働くのイヤだなと思ってて。でも就職するのもイヤで、24歳ぐらいまで、昔で言うところのプータローでした。


●子どもが産まれて編集者に

山下 伊藤さんは、雑誌『ちいさい・おおきい・よわい・つよい』(1993年創刊/ジャパンマシニスト社)の編集をされていましたが、ジャパンマシニスト社との出会いは、どういう経緯だったんでしょう。

伊藤 学校解放新聞の編集委員に、現在はジャパンマシニスト社長の中田毅さんがいたんです。それと、編集者の松田博美さんが校則の本をつくりたいということで、青生舎によく来られるようになったことで、知り合いになったんです。その後、子どもの人も読めるわかりやすい原発をやめるための本をつくりたいというお願いを受けいれてくれて『超ウルトラ原発子ども』という本を出してもらったり、たいへんお世話になっていたんですね。
 青生舎では、前述の『KIDS』が廃刊になったあと、「トーキング・キッズ」という活動をしていたんです。留守番電話を使って子どもの人たちからメッセージを募集して、寄せてもらった声をつないでラジオ番組のような番組をつくって発信するという活動で、93年ごろまで関わっていたんですね。私は子どもの声を大人に聴いてほしいということに、実はそれほど興味がなくて、子どもの人たちとつながりたいと思って活動していました。同じように大人の人たちともつながりたいとも思っていました。大人も子どもも同じテーブルで、社会の問題やおかしいなと思っていることについて率直に話ができる世の中がいいなと思ってたんです。でも、「トーキング・キッズ」の活動は、子どもの声が中心になりますから、自分とのあいだで齟齬が生まれてきて、活動を辞めることになったんです。辞めたらヒマになって、ほかにすることもないから、バイトでもしたいなと思うようになって。そうしたら、松田さんが『ちいさい・おおおきい・よわい・つよい』(以下、『ち・お』)を創刊するというので、アンケートの発送作業のバイトをさせてもらうことになったんです。
 そのうち「編集の仕事だったら、定収入が得られるようになるよ」と言ってもらえたんですけど、「週3日なら、朝10時くらいに来られるかもしれません」って返事をして、「仕事をなめるな」と言われたりしました……。それが、24歳のときに妊娠して、子どもを産むことにしたので、定収入が必要になって、お願いして編集者として働かせてもらうことになったんです。ありがたいことです。しかし、子どもが産まれてなかったら、私は働いてなかったですね、きっと。

山下 それが93年ごろということですね。92年に「不登校はどの子にも起こり得る」という文部省(当時)の報告が出たわけですが、そのあたりは、どう思われていたんでしょう。

伊藤 すごく違和感を持ってました。世の中の理解が進んだとか、学校に行かないことが理解されたと解釈をしている人が多かったけど、私は、「なんかこれはよくないんじゃないか」って思ったんです。文部省は、どの子にも起こり得ると態度を軟化することで、子どもの問題ではなく学校の問題だというみんなの怒りを吸収しようとしているんじゃないか。けっして、ほんとうに問題に気がついたわけではないって。理解されたなんて喜んでちゃだめだと。そう言ったら、青生舎にいる友人から「なんて、おまえはひねくれているんだ」「そうやって、何でもイヤばっかり言ってたらダメだ。ベストを目指してベターを認めないのはダメだ」って言われたんですよね。自分だけが乗れない感じがあって、すごい孤立感を味わいました。

山下 なるほど。そのあたりは、一貫していますね。自分がおかしいと思ったことは、まわりがどうであっても、それに合わせるのではなく、おかしいと思い続ける。


●「ふつうの大人」になろうと

山下 『ち・お』の編集に関わるようになって、見えてきたことはあったんでしょうか。

伊藤 予防接種のことは、勉強になりました。健康や病気の捉え方も変わりました。健康第一とか、まちがっても言わなくなりました。ちんぷんかんぷんなことが、時間が経つとわかるようになるという経験もしました。連載担当をさせてもらった母里啓子(もり・ひろこ)さん(元国立公衆衛生院疫学部感染症室長)は、ワクチンをつくる立場にいた人ですが、大規模疫学調査によってインフルエンザワクチンの集団接種に効果がないことをあきらかにして、集団予防接種を止める働きをされた方で、科学者の社会的責任とはどういうことかを学びました。しかし、その母里さんの原稿が難しくて、最初はぜんぜんわからない。読んでいるうちに寝ちゃうんです。でも、校正しないといけないから、何十回も読む。そうしたら、だんだん何が書いてあるかがわかるようになってきたんです。だから、そのときは、どんな原稿でも、100回読めばわかると思ってました。職人みたいな感じですかね。でも、その後、何十回読んでもどうしても途中で読めなくなってしまうものがあることを知り、どんなにしてもわからないものがあるということも再確認しました。まあ、そんなにまでしてわかるようになる必要があるのか、そんなにまでしないとわからないことをわかるようになってどうするのか、という話もあるし。いまだったら、なんでそんなに読まないといけないのって思うけど(笑)、とにかく働かないといけない、ほかでは働けないと思ってましたから。編集の仕事でも、たとえば子どもの支援にかかわる本をつくるとなったときに、「これはおもしろくないから、やりたくない」ってなっちゃうんです。おもしろくないとか何かちがうと思うと、身体が動かない。そんな感じで、『ち・お』だけが、なんとかできる仕事でした。だから、『ち・お』の編集の仕事をしていたときは、「ふつうの大人」というか、一般常識のある大人になろうと思って、がんばってたと思います。でも、がんばらなければよかったなって(笑)。がんばっても、ぜんぜん追いつかない。落ち着いた声で話そうと思って低い声でしゃべる練習とかしたりして、逆に電話口で小学生の男の子にまちがわれたりしてましたしね。無理しないほうがいいなって、いまは思います。
 予防接種の問題は、原発や教育の問題とも共通するものがあるし、すごく勉強になりました。そこで出会った人たちも、すてきで変な大人の人だったし、仕事も悪くないなと思ったりしましたね。

山下 「ふつうの大人」になろうと思っていたというのは、それを強いるプレッシャーがあったんでしょうか。

伊藤 あるような、ないような…… 子育てをしていたら、ふつうの親みたいにしないといけない、ふつうの生活をしないといけないと思っていたんです。

栗田 親になったときに、「ふつう」を意識した。

伊藤 気をつけなきゃと思ったんです。自分はかなり世間とズレた感覚を持っているけど、子どもは自分と同じではないから、こんなズレた感覚がスタンダードになっちゃったら、子どもが苦労するんじゃないかって。一般常識を兼ね備えた人たちの生活も知ったうえで、自分はどこが居心地がよいかと思えるほうがいいと思ったんですね。

山下 ひとりで、ちいさい子がいながら仕事もして、どうやって生活をまわしてたんですか?

伊藤 たいへんでした。最初はふたり暮らしで、朝ごはんはバナナだけとか、毎日ホワイトシチューとか、そんな感じでした。「どういう生活をしてるんだ」って言われて、編集部の人の家でごはん食べさせてもらったり、助けてもらいながらやってました。
 会社はそのころ世田谷区の烏山にあって、職住接近がいいということで、みんな烏山に住んでたんです。それで自転車で往き来していて、それはすごくよかったんです。息子が赤ちゃんのときは、保育園の延長保育ができなくて、仕事が遅くなるときは、いったん迎えに行って、別の未認可の保育園につれていって、それでも間に合わないときは会社につれていって、そのへんに転がして仕事したりしてました。

山下 実家を頼ることは?

伊藤 そのころは会社のそばに住んでいたので、頻繁には頼れなかったんですね。そのときは、そうやって働かないといけないと思っていましたけど、いま思えば、そこまでたいへんになる必要はなかったかなと思います。子どもが3歳ちょっと前になったころからは、実家の近くに戻って、実母や妹に思いっきり助けてもらって、恵まれました。


●『安心ひきこもりライフ』、いけふくろうの会

山下 伊藤さんは、勝山実さんの『安心ひきこもりライフ』(太田出版2011)を編集したり、「いけふくろうの会」を開いたりしてますが、ひきこもりに関心を持ったのは、どういうことからだったんでしょう? 

伊藤 ひきこもりに関する本は、 ずっとつくりたかったんです。私は、学校に行かなくなることと、ひきこもっていることは、同じ問題だと思ってきました。結局は、働くということの問題だったり、ひとりで稼いで自分で生きていかないといけないという社会の問題です。そういう観点からの本をつくりたいと思ってたんです。ひきこもりから脱することを目指さない本。そこに勝山さんがいた。

山下 勝山さんのことは、不登校新聞の連載(265〜277号/2009年5月1日〜11月1日)を読んで、おもしろいと思ったんでしたよね。

伊藤 そうです。『ひきこもりカレンダー』(文春ネスコ2001)のときは、キレッキレで、最後を「勝ちに行こうぜ」で結んだ勝山さんが、中年になって円熟味を帯びて、こんなおもしろい人なんだと思って衝撃を受けました。

山下 『安心ひきこもりライフ』はよかったですよね。ひきこもり関係の本の金字塔だと思います。いけふくろうの会はいつから始めたんでしょう。どういう会かも含めて、お話しいただけますか。

伊藤 2010年から始めました。不登校とかひきこもりのことについて、それを取り巻く社会状況について、ざっくばらんに話せる場がほしかったんです。月に1回くらい、池袋あたりの居酒屋で集まってます。最初から2次会というのが、コンセプトなんですね。
 2009年に登校拒否を考える夏の全国合宿のお手伝いをしたんですけど、打ち合わせのときよりも、2次会になったときが本番というか、ようやく本音で話せる感じがあったんですよね。だったら、最初から2次会でいいんじゃないかと。そのほうが楽しいなと思ったんです。それで、島根のフリーダスという居場所のOBの秋田匠さんと、ふたりで世話人をすることにして、いまも続けてます。毎回、20人くらいの人が参加されてますね。
 2008年に自分が会社を辞めたということもありました。会社にいたときは、家と会社の往復だけで、友だちと会う時間もなくて、ほとんど旅行にもデモにも行かなくて、ただ仕事をして生きていたんです。だから、ヒマになりたいと思ったんですね。ずっと雑誌や本をつくって、仕事のことしか考えてない15年間があって、疲れた。でも、会社を辞めてヒマができたので、自分の趣味を語り合う、好きなことについて語り合う会をやりたいと思ったんです。

山下 それが不登校・ひきこもりだった(笑)。

伊藤 ちょっとおかしいですかね(笑)。不登校・ひきこもりだけじゃなくて、能力主義の問題について語り合いたかったんです。働いて稼いで一人前って考え方はちがうじゃないかってことを語り合いたい。

山田 集まってくるのは、ひきこもっている人たちですか。

伊藤 ひきこもっている人と、親御さん、兄弟、支援している人とか研究してる人とか、ひきこもりや不登校とはあまり関係ない人とか、いろんな人が来てます。働いてる人も働いていない人も精神障害がある人もない人も生活保護を受給してる人もしたほうがいい人もいる。年齢層も20代から60代まで、わりとばらつきがあります。

山下 あまりかっちりした場ではなくて、雑多な人が集まるのがいいわけですね。

伊藤 カオスが好きだから。いろんな人とごちゃごちゃいるのが楽しいですね。ただ黙っている人もいて、そういう人が2〜3年してから、いっぱいしゃべってたりもします。来なくなっちゃう人もたくさんいます。語り合うと言いながら、しゃべんなきゃいけないということがない場所で、ムダがたくさんある場所です。

山下 子どもが参加することは?

伊藤 居酒屋でやってるので(笑)。だから、いま考えているのは、いけふくろうの会とは別に空き家とかを借りて、誰でも来られる場所を無料でやりたいなと思ってます。

山下 子どもも来られるようにという志向性は持っているわけですね。

伊藤 そうですね。大人でも子どもでもいっしょにいられるような場所がほしいです。


●教育機会確保法

伊藤 ところで、そろそろ教育機会確保法(*4)の話に移りませんか?

山下 そうですね。ぜひ。

伊藤 この法律で、別学体制が強化されてしまいましたね。障害のある子どもは特別支援学校、不登校の子どもは特例校や夜間中学やフリースクールなどに行けばよいと。「インターネット上のクラスを通じて、日本中の友だちと学びあい、つながる」ことで学校復帰を目指すと謳ったクラスジャパンプロジェクトのような教育機構を登場させることにもなりました。
 教育機会確保法が成立すれば、学校以外の学び場が国に認められるようになると言われてきたわけですが、私は、国に認められるのはよくないと思ってるんです。普通教育を受ける機会を学校以外で確保するということは、国家の教育が学校以外の場所へ広がることになるわけですよね。社会が国の教育に覆われてしまうことになる。せっかく学校から逃れて、学校とか国の教育の価値とはちがう場所で生きていこうとしている人たちを、国の教育が追っかけてくることになる。それはすごく問題だと思うんです。

山田 しかし、一口に「国に認めてもらう」と言っても、この法案のもっとも野心的な方向としては、学校教育法に縛られない、別系統の教育の場をつくろうという面があったわけですね。それに賛成かどうかは別問題ですが。

伊藤 学校教育法に縛られなくても、教育基本法に縛られちゃったら、野心も何もあったものじゃないのではないですか。オルタナティブとは別の意味で公教育の多様化が進んできたわけですよね。学校の外でも、階層ごとにそれなりに国の教育を身につけてもらって、それぞれが社会で自立できるようになればいいということだと思います。
 「学校に行かないでも生きていける」ということが、いつのまにか、学校に行かなくても別の場所で学ぶとか成長するということになってしまった。
 
山下 この法律は、突然あらわれたわけではなくて、そこにいたるまでの流れがありますよね。学校外の居場所が、こういふうになってきたことへの失望感は、私にもあります。それを嘆いたり、批判することも大事ですが、どこに足場をつくっていけるかが大事じゃないでしょうか。そういうものがないと、ますます問題が個人化してしまって、そうなると、医療やカウンセリングばかりが幅をきかせてしまう。いくらおかしいなと思っても、問題意識を持っても、ひとりでは無理です。そういうことを受けとめてくれる仲間や大人がいないと難しい。自分の時代には、そういう場があったからよかった、ではすまない。いまの子ども・若い人にとって、そういう足場にできるものをどこに見いだせると思いますか。

伊藤 批判することも大事だけどと言いながら、なぜ市民の側からこの法律を求める運動が始まってしまったのかということへの批判が足りていないのではないでしょうか。私は逃げることが大事だと思っていて、いままで、学校に行かない子にとって、フリースクールは少なからず逃げ場になってきていたのに、そうでなくなってしまったから、さらに逃げる場所をつくらないといけないと思ってます。
 社会臨床学会の中島浩籌さんが「ともに逃げる」と言ってましたが(本プロジェクト#14参照)。私も、ともに逃げるしかないなって思っています。大人も、「活躍」して働いて生きていかないといけない社会だと思い込まされていることから逃げる。

山田 この法律の最初の案が通ったら、家庭さえも義務教育の場になる。私は、それがいちばん危険だと思っていたんですね。ただ、いまの法律になって、いろいろ問題はあるけれども、今後、どうすべきかということについては、賛成した人も反対した人も、展望を持つのは難しいと私は思ってるんです。伊藤さんは、どう思われますか。

伊藤 まず、批判的検討を徹底して行なうことが大事だと思います。教育機会確保法に代表される公教育の多様化、これがなぜ問題なのかを一人でも多くの人といっしょに考えていくことだと思います。
 8月に刊行される『教育と文化』(91号)という雑誌に、関西学院大学の桜井智恵子さんが、公教育論の研究者で1980年代の教育の多様化に関する分析を行なった岡村達雄さんの「養護学校義務化」と「不登校政策」論をてがかりに、教育機会確保法と公教育の「多様化」について考察した論稿が掲載されます。ぜひ、みなさんといっしょに読んで議論したいと思います。
 もうひとつ、私は、学校をどの子もいられる居場所にするにはどうしたらいいかを考えることが必要だと思っています。「学校に来い」って言われても行かないけど、「来なくていい」と言われたら、「なんで来なくていいんだ」って言っていきたいと。学校は、どんな人もいられる場所になったほうがよくて、だからといって、みんなが行かなければいけないということではまったくない。いつ来てもいいし、行かなくてもいいという場所になればいいわけです。学校は、子どものいる場所のひとつになったほうがいい。そう考えることが大事だと思います。そして、いろんな人がごちゃごちゃいられる場所を、いろんな人があちこちでつくっていってくれたら、逃げ場が復活するんじゃないかと思っています。

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*1『ひと』:数学者・遠山啓(1909―1979)を編集代表に、太郎次郎社から1973年に創刊された教育誌。2000年8月まで刊行されていた。

*2 1986年2月1日、当時、東京都中野区富士見中学校2年生だった鹿川裕史くんが自殺。遺書には、「俺だってまだ死にたくない。だけどこのままじゃ「生きジゴク」になっちゃうよ」とつづられていた。

*3 1984年12月3日、当時中学校3年生だった尾山奈々さんが自殺。学校のあり方に抗議する文章が遺されており、保坂展人さんが編集して本として刊行した。『花を飾ってくださるのなら―奈々十五歳の遺書』(講談社1986)。

*4 教育機会確保法:2015年5月、超党派の議員連盟により提案され、フリースクールや夜間中学校など多様な場が教育機会として認められると期待された一方、かえって不登校の子が追いつめられると反対や慎重論の声もあり、大幅に変更された案が2016年の通常国会に上程され、2016年12月に可決・成立した。
posted by 不登校新聞社 at 08:29| Comment(0) | 当事者
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