2018年07月05日

#42 本田真陸さん、彦田来留未さん

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(ほんだ・まりく)
1994年生まれ。中学校1年生から不登校。東京シューレに中学校2年生から18歳まで在籍。アラスカ旅行の実行委員長として、企画、準備をした。「不登校の子どもの権利宣言」の作成に参加。現在は、アフリカのために働くことを考え、準備中。(写真左)

(ひこた・くるみ)
1989年生まれ。小学校4年生から不登校。東京シューレに小学校5年生から21歳まで在籍。「不登校の子どもの権利宣言」の作成に参加。現在は、以前から好きだったイラストに力を注ぎ、絵本をつくっている。(写真右)

インタビュー日時:2018年4月25日
聞き手:奥地圭子、木村砂織
場 所:東京シューレ葛飾中学校
写真撮影:木村砂織

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〈テキスト本文〉

奥地 今日は、忙しいなかを来ていただいて、ありがとうございます。おふたりは不登校を経験した当事者で、「不登校の子どもの権利宣言」(巻末に掲載)に関わるなど、いろんなことを考えたり、活動されてきましたね。まず、それぞれの不登校体験からお聞きしたいと思います。来留未ちゃんが不登校になったのは、何年生ごろからだったでしょう?


●転校先が学級崩壊で

彦田 私は、小学校4年生の2学期から不登校になりました。転校がきっかけです。それまで通っていた学校は、けっこう楽しい思いで通っていたんですけど、新しい学校は、勉強、勉強の雰囲気で、楽しい雰囲気がぜんぜんない。いつも先生はイライラ怒っている感じで、みんなが張りつめていて、クラスは学級崩壊のような状態でした。勉強の進みが速いのに、授業はままならない。みんなが騒いだり、いたずらしたり、いやがらせをしたりしていて、物がなくなったり、授業を受けていても、席の後ろからイヤなことをされたりしていました。

奥地 転校したときから、そういう日常だったんですか。

彦田 1日目から、ここはすごく緊張して行かなければならないところなんだな、と思いました。春に転校して、1学期は一生懸命通っていたんですけど、朝ご飯を食べられなかったり、不眠症のような状態になったりしてました。夜は宿題をやらなきゃという思いで遅くまで起きていて、それなのに、朝4時ぐらいには目が覚めてしまう。そういうことをくり返す状態でした。

奥地 もう、やっとの状態で、安らかに眠れていなかったんでしょうね。

彦田 もう体はぼろぼろで、気持ちも苦しかったですね。

奥地 宿題は多かったんですか。

彦田 多かったです。問題が解けないし、あせればあせるほど、よけいにできないという悪循環で。

奥地 誰かに相談はしていましたか。

彦田 あとから母に聞いたところでは、家でも「○○くんに、こういうことをされた」とか話していたらしいんですけど、たぶん、ぜんぶは話せていなくて、ほんとうにイヤだったことは自分のなかに溜め込むしかなかったように思います。

奥地 90年代後半ぐらいのことですよね。学校の先生はどうだったんでしょう。

彦田 私が学校に行けなくなった最初の日に、母が学校に行って、担任の先生と話したらしいんですね。だけど、担任の先生も自分のことでいっぱいいっぱいで、ただ、私が学校を休んでしまったのは、「来留未さんのせいではない」と言っていたそうです。それほど学校がめちゃくちゃで、先生も助けようにも難しい状態だったと思います。日々、電話してくれたり、手紙を届けてくれたりしてくれたんですけど、もう私はぼろぼろのような状態でした。

●生きている価値はない

奥地 親はわかってくれましたか。

彦田 母は、私が行けなくなって、布団のなかで泣いているような状態を見て、何かあったんだろうと気持ちを察してくれました。その後、学校へ行ったり行かなかったりをくり返すんですけど、私は学校へ行かなきゃならないと思っていたので、「学校に行きたい、行きたい」と毎日言ってたんです。

奥地 行かねばならないと思うところからの「行きたい」なんですね。

彦田 そうすると、母は、その応援をしなくちゃと思って、私を一生懸命守りながら、学校へ行く応援をしようとしてくれていました。父は怒っていて、「なんで行かないんだ」とは言わないんだけれども、私のほうは、父のいらだちを感じていました。

奥地 その当時は、行けない自分のことをどう感じていましたか。

彦田 自分はダメだ、こんな自分はもう生きている価値がないと思って、それを母に言っていました。「自分は大人にもなれないし、学校に行かないなんて、親にもみんなにも迷惑をかけて、ほんとうにダメな自分だ」と思っていました。そのときの気持ちは、いまでも思い出しますね。

奥地 その後、家にいた期間はどれぐらいでしたか?

彦田 休み始めてから、ちょうど1年経ったころ、東京シューレに行きました。ただ、その間には、私が「前の学校だったら通えると思う」と言って、隣の地区の学校だったので、学校や教育委員会に連絡して、前の学校にもどれるようにしてくれていたんです。でも、担任の先生の対応が、それまでよりも厳しくて、「とにかく学校にもどって」という働きかけが強かったんですね。「来留未さんのためを思っているんだよ」と、やさしいふうでありながら、いま思えば、担任の先生も、校長や教頭にいい顔したかったんだろうなと思います。あとから聞いた話では、母は校長や教頭から、すごくイヤなことをいっぱい言われていたそうです。それを私には言わずに、守っていてくれていたんですね。でも、私は、しんどい学校に行かなきゃと思いながらも、完全に行けなくなりました。

奥地 東京シューレには、どうやってつながったんですか。

彦田 母が、テレビで見た記憶があったということでした。


●肌の色のちがいで

奥地 真陸くんは、どんな不登校体験でしたか。たしか中1のときからですよね。

本田  はい、中学生のころに学校に行かなくなったんですけど、それよりずっと前、幼稚園のころから、そういう場所は、あまり好きではなかったんですね。というのも、自分がハーフで、肌の色や髪の毛がちがうという理由でからかわれることが、幼稚園や小学校のころからずっとあったんですね。ただ、幼稚園や小学校のころは、まわりの人も慣れてきて、自分はこういうヤツなんだとわかってくれて、半年もすると、だいたいクラスにもなじめるし、多少、からかわれることがあっても、自分のなかでは、まあ、それくらいならいいかなぐらいのレベルで、ガマンできたというか、わりと納得していたように思います。

奥地 どんな小学校でしたか。

本田 自分の体感では、わりとふつうの小学校でしたけど、自分が4〜5年生のとき、日本で初めて民間人が校長になった小学校でした。開かれた学校づくりというので、取材でテレビカメラが入ったりしていたことを除けば、ふつうだったと思います。転校してないので比較はできないですけど。

奥地 でも、からかわれることは続いていたんですよね。どうやってかわしていたんですか。

本田 クラス替えのたびに、からかわれてました。かわしていたというより、ガマンしていたんです。慣れていたというのが、たぶん大きくて、幼稚園のころからですので、自分はそう言われるのが当然だと。いちいち反応しても盛り上がるだけだし、もし泣きでもしたら、もう、たいへんだろうなと。

奥地 逆に、いろいろ笑われちゃうというか……。中学での不登校は、どうやって始まったんですか。

本田 公立中学校に入学して、自分の小学校時代を知らない人たちがいっぱい増えて、そこで、自分に対するからかいが始まったのと、あと、すごく運の悪いことに、小学校6年生のときに同じクラスだった子たちが誰もいなくて、同じ小学校から来た人はいるけれども、クラスがちがったから、そんなに仲良くはない状態で、ちょっとイヤだなあ、というのが最初です。
 自分はバスケットボールが好きだったので、バスケ部に入ったんです。部活には上下関係があって、それまでは、同級生からだけだったのが、今度は、あまりよく知らない2〜3年生からも、からかわれるようになったんです。それと、同じころに、英語の教科書にボブという名の黒人の少年のイラストが出てきたばっかりに、自分のあだ名がボブになってしまって、最初は同じ部活の1年生から始まって、それがクラスの人たちに広がり、さらにバスケ部の上級生に広まり、最終的には、ぜんぜん知らない2〜3年生にまで広まってしまって、廊下ですれちがうたびに言われるようになったんです。

奥地 それはイヤですねえ。

本田 もうどうにもイヤで、でも、先生には言わなかったです。先生にはちょっと距離を感じていて、ただ、親には言いました。おそらく、ほかの子だったら、わりと勇気をもって言うようなところだと思うんですけど、自分の場合は幼稚園のころからだったので、すっと、あまり気合を入れずに、学校でこんなことがあると言ったら、「中学生にもなって、そんなことを言うなんて」と、親が怒ってくれて、学校の顧問の先生に、言ってくれたんです。それで、その先生は、部活の終わりに「もう、みんなには言ったから大丈夫だから」と言ってくれたんです。そのときは「ああ、よかった」と思ったんですけど、その先生は、続けて「バスケットの選手って、黒人の人が多いよね」と言ったんです。自分は、ボブと言われることがイヤなのであって、黒人であることをどうこう言っているわけではないのにと思って、それから、その先生に不信感を持ち始めました。とはいえ、その一件から部活内でのからかいはなくなって、自然とクラスのまわりでもなくなって、まあ、みんなが飽きてきたとか、いろいろあると思うんですが、わりと楽しい気がしてきたのが、5〜6月ごろの話です。


●バスケは好きだけど部活は…

本田 でも、そのあと、その顧問の先生から、いやがらせというか、体罰が始まったんです。みんなとふざけていても、自分だけが怒られたり、そもそも練習に参加させてもらえなかったり、そういうのが始まると、今度は先生からお墨付きをもらったように、「あいつは、もうやってもいい」という空気が広がってきて、せっかくよくなりかけていた友だち関係が、そこでまた崩れてしまったんです。それで夏休みに入って、いよいよ僕は部活に行きたくないと思いました。
 部活は全員強制で、部活を変えてもいいとは言っても、途中で変えたら「あいつ逃げて来たんだ」みたいな扱いを受ける。それもまたシャクだし、そもそもバスケットボールが好きだから、やりたい。でも、夏休みの終わりごろ、朝練に行こうと思って、家を「行ってきます」と出たものの、そこらへんで時間をつぶして帰ってきちゃったことがあったんですね。親に「どうしたの?」ときかれて、自分に強くあたっていた子のせいにしてしまおうと思って、「○○くんが帰れと言ったから帰ってきた」と言ったんです。そうすれば自分は怒られないし、そいつは怒られると思って。
 無断で休んだので、先生から連絡がきて、親は私の言ったことをそのまま伝えたんです。そうしたら、運の悪いことに、その子はたまたま遅刻をしていて、ウソがばれちゃったんです。それで、「いますぐ学校に来い」となって、親に引っぱってつれていかれて、体育館で、みんなが練習している目の前で、親といっしょにすごく怒られました。
 以前から、親には「先生がイヤだ」と話していたんだけど、「どうせ、あんたが悪いことしたんでしょ」って、あんまり信じてくれなかったんです。やっぱり先生のほうが上みたいな考え方をしていて、わかってもらえてなかったんだけど、その一件があってから、「この先生は、さすがにちょっとおかしい」と思ってくれたようです。
 でも、そう思ってくれたところで、学校に行かなくていいという話にはならなくて、部活を辞めればいいじゃないという空気になって、でも、バスケットボールは好きだし、葛藤がありました。
 さらに運が悪かったのは、その部活の顧問が担任だったんです。だから、部活を辞めたところで、学校に行けば、基本的にその先生がいる。それで、夏休み明けには、そもそも学校に行くこと自体がイヤになって、行かなくなりました。

奥地 行かなくなって、親はどうだったんですか?

本田 親はピリピリしてたし、もちろん自分もピリピリしていたように思います。そのときは学校に行かないという選択を知らなかったし、親も知らなかった。

奥地 そのころ、自分のことをどう思っていましたか。

本田 学校に行かなくなってよかったという気持ちが強かったように思います。あと、自分はずっと日本にいるつもりはないと小さいころから思っていたので、「別に日本の学歴なんていらないし」と思っていて、わりと自分は気楽だったかなと思います。

奥地 学校に行かないことで助かったなという気持ちですか。

本田 そうです。ただ、勉強をしないのはどうなんだろうという気持ちは、自分のなかにありましたね。1日カゼで休んだくらいでも、ちょっと勉強がわからなくなったこともあったので……。

奥地 家で勉強したんですか。

本田 してないです(笑)。ただ、塾には行きました。塾と適応指導教室、どちらが先だったか忘れてしまいましたが、適応指導教室にも2〜3回は行きましたけど、その後は行きませんでした。

奥地 それは、どうしてですか。

本田 ふたつ理由があって、ひとつは、働いている人が「先生」というか……。

奥地 リタイヤした校長先生が、やっておられたとか。

本田 そう。おばあちゃんというか年輩の人で、私のことをすごく幼い子どものように扱うというか、やさしく、やさしくしてくるのが、ちょっとイヤでした。それと、学校へもどそうという考え方だったんです。「ここで一生懸命勉強して、学校へもどれるといいわねえ」という空気だった。直接は言わないけれど、そういう空気を自分は感じとって、それがイヤでした。あと、いっしょに通っていた女の子3人組がいて、彼女らが、すごくぐいぐい来るタイプだったんです。もともと、新しいところに行くのがそんなに好きではないタイプなところに、キャッキャしている子たちがいて、なんだか引いてしまいました。とくに先生がイヤでした。でも、そこでイヤだと言えないのがストレスになって、2〜3回で行かなくなったということでしたね。

奥地 家では、何をして過ごしていたんですか?

本田 ゲームもちょっとはしていたし、マンガを読んだり、テレビを見たりしてました。もともと、そんなに外に行くタイプではなくて、誘われれば行ってましたけど、世間の目が気になって、みんなが学校に行っているであろう時間帯は外に出なかったですね。
 中学校のマラソン大会の日と、自分が適応指導教室に行く日がぶつかって、行く途中にぞろぞろジャージを着て歩いている同級生に見つかったことがあったんですね。向こうが遠くから声をかけて来たんだけど、「あっ、やばい」と思って、シュッと引き返した。それで、もう外に出たくなくなったということもあったと思います。

奥地 なるほど。シューレに来たのは、どんなきっかけからですか。

本田 適応指導教室に行かなくなって、塾にも行けなくて、家で半年ぐらい過ごしていたんですが、家にいると、そんなにやることもないんですよね。それで、自分が学校に行かなくなってから、親が、フリースクールとか不登校の本を図書館から借りて来ていたのを思い出して、「フリースクールって何ぞや?」と思って、自分でも調べてみたんです。そうしたら、東京シューレ王子のブログに、バスケットボールをやっている写真を見つけて、「おっ、ここなら」と思ったんです。

奥地 バスケの写真があってよかったね(笑)。

本田 よかった(笑)。そうでなかったら、行かなかったと思います。


●受けいれてくれる雰囲気が

奥地 では、シューレでの話をうかがっていきたいと思いますが、来留未ちゃんが入会したのは2000年で、真陸くんは2008年ですね。来留未ちゃんからうかがいたいと思います。シューレに来て、どんな印象でしたか。

彦田 それまでにも、地域のフリースペースみたいなところには、いくつか行ったりもしていたんです。あるところは、ぜんぜん子どもがいなくて、大人しかいないみたいな感じで、それでも「自分は心の病気だから、つまらなくても、こういうところに行くしかないのかなあ。ここで勉強するしかないのかなあ」と思っていました。
 シューレに出会って、まず最初に感じたのは、みんながなんとなく自分を受けいれている雰囲気です。何人かが声をかけてくれて、自己紹介してくれて、でも、みんなが「誰か来た」みたいにならないで、ふつうに過ごしていて、私もそこに入れたんです。みんながすごく楽しそうにしている。いっぱい人が来ていて、ゲームしたり、勉強したり、ほんとうに自由に同じ建物のなかで過ごしているのを見て、「ああ、自分はここに明日から通うんだ、ここに通いたい」と思うほど、自分にとってよかったんですね。
 まず一番には、安心したんだと思います。学校に行っていない自分は、笑うことも許されないと思っていて、家でひとりでテレビを見たり、ゲームしたりしていても、すごく罪悪感があって、こんな自分ではダメだと思っていたのに、みんなが自由に好きなように時間と場所を使って過ごしているのを見て、すごく安心しました。

奥地 そのころは、家以外にどこか行くところを見つけたいと思っていたのですか。それとも、お母さんが「こんなところがあるから見に行ってみない」というので、親にくっついてきたという感じですか。

彦田 遊ぶ相手がいなくて、すごく友だちがほしい、というのが、まずありました。、近所の友だちと遊んでたとき、「もしかして来留未ちゃんって、登校拒否なんじゃない?」と言われたことがあって、登校拒否が何かわかってなかったんだけど、すごくイヤなことを言われたんだと思って、遊べなくなったんですね。それで、友だちがほしいとか、文通相手がほしいと親に言っていたら、「IDEC(*)に行かない?」って母に誘われたんです。

奥地 2000年と言えば、IDECを日本で開催した年だものね。

彦田 でも、いきなりいろんな国の人に会うなんて、いっぱい人が来る場所に行くなんて恐ろしいと思って行かなかったんです。それが夏のことで、秋に初めてシューレに行ったんです。それが自分にとってのタイミングだったのかなと思います。

奥地 お母さんは、IDECのことをどこかで見たんでしょうかね。

彦田 私が通っていた精神科のクリニックみたいなところで聞いたんです。そこでは、何か治療を受けたということではなくて、ただ遊んですごす時間をつくってくれたということだったんですが、そこの先生が教えてくました。


●勉強するところだと思ったら

奥地 真陸くんは、シューレでは、最初はどうだったんでしょう。

本田 見学に行ったとき、最初はすごく緊張してました。もともと新しいところに行くのが好きではないし、建物の外観は知ってたけど、中では机を並べて先生みたいな人がいて、ふつうに勉強しているものだと思っていたんですよね。でも、3階の扉をガチャッと開けたとき、自分と同じ齢ぐらいの子が寝そべってゲームをしていて、スタッフの女性のことを「オイ、ババア」と呼んでいて、横を見れば、ピアノのイスに超でかい男の子たちが座っていて、「とんでもないところに来てしまった」「僕はなんてところに来てしまったんだ」と思いました(笑)。

奥地 最初は、ぱっと、そう思ったんだ。

本田 ここは、やめておこうと思いましたね(笑)。

奥地 だけど、なんで入ることにしたんだろう。

本田 その後、「静寂の間」という小さな部屋で、奥地さんやスタッフとちょっと話して、5階に行ったときに、自分と同じ齢くらいの子がいて、やっぱり受けいれてくれている感というか、距離の取り方がすごく上手に感じたんですね。それが2番目の印象です。適応指導教室の女の子たちは、すごくグイグイきたけど、シューレの人たちは、自分のことを放っておくわけでもなく、べたべたもしてこない。それで、楽な気持ちになりましたね。
 あと、自分の場合、どこに行っても、最初に見た目のことを聞かれるのに、シューレではそれがなかったということが、自分のなかでは大きかったです。
 ただ、入会を決めたのは、「ここが大好き」とか、そんなにポジティブな理由ではなくて、どこか所属するところがほしかったということだったと思います。どこかに所属していなくちゃ感がすごく強くあって、家にいてテレビを見ていても、「みんなが勉強している時間に、自分ひとり、こんなことしていていいのだろうか」とか思うし、かといって、勉強も半年もしていないし、いまから学校にもどるなんてできない。そう思っているところに、自分と同じような人たちがいて、その人たちがイヤな人ではなかった。


●中学年齢は家で過ごした

奥地 シューレで、どんな過ごし方、どんな活動をしたかというあたりを教えてもらえますか。

彦田 初等部のとき、最初はシューレの活動もしつつ、勉強もしようと思っていたんだけど、ぜんぜん頭に入ってこないから、もうやめようと思って。最初は、いつかは学校に戻らないといけないんじゃないかと思って通っていたんですよね。
 いろいろタイムで、みんなで出かけるとか、何かつくるとか、毎日毎日がすごく刺激的で、いろんな年齢の人とおしゃべりしたり、ただ過ごしたり、ビデオを見るとか、楽しんでいたんだけれども、半年ぐらい通ったころに、すごく疲れてしまったんです。シューレが疲れたわけではなくて、学校で苦しんでいたものの疲れが出たんだと思います。それで、そこからホームシューレにしました。

奥地 家中心で、しばらくはやってみようかなと思ったということですね。

彦田 なので、中学年齢は、ほとんど家で過ごしてました。

奥地 家では、どういうふうに過ごしていたんですか。ホームシューレの活動も、何かやりましたか。

彦田 最初のうちは、ほんとうに疲れている状態で、学校に行っていたときと同じように、夜、突然涙が出てきたりとか、夢で学校のことを見て泣いて起きたりとか、そういうことがたびたびあって、それが癒されるまでには何年もかかりました。
 でも、その一方で、だんだん気持ちも癒えてきて、学校の勉強だけがすべてじゃないし、学校だけがすべてじゃないと、そこで気づいていったんですね。
 シューレで見たように、ほんとうに生きていく力を身につけるというか、たとえば料理をするとか、生活するうえで大事なことをしていきたいと思って、家で家事を手伝ったりとか、自然としていくなかで、いろんなことを覚えました。そのうち、だんだん自分の気持ちが落ち着いてくると、いろんなことをやりたくなってきて、絵を描いたり、物をつくったり、ギタ―を弾いてみたり、昼夜逆転しながら、次々に、たくさんのことをやっていきました。
 ホームシューレのつながりでは、『ばるーん』(会員交流誌)で知り合った友だちと文通をしたり、メールをやりとりしたり、合宿に参加したりして、それは自分にとって、けっこう大きい出来事でした。当時は、外に出るだけでおなかが痛くなるような緊張感もあって、やっと1年に1回ホームシューレの合宿に参加できるようになって、そこで友だちができて、だんだんに自信につながっていったような気がします。

奥地 それで、もう一度、シューレに通う会員に、もどるんですよね。

彦田 はい。高等部に上がってからです。

奥地 それは、どういう気持ちからですか。

彦田 15歳になるとき、高校へ行こうかとも一瞬考えたんです。資格があることによって、自分の学びたいことに、つながるんじゃないかと考えたんだけど、資格のためだけに高校卒業資格を取るのは変な気がして、それよりも自分は働くなかで学びたいと思って15歳のときに初めてアルバイトをしたのがきっかけでした。鯛焼き屋さんです。
 それから、また力がついてきて、実際に体力もついてきて、外に出るようになって、シューレにも、また通おうと思ったんです。

奥地 シューレでは、どんな活動をやりましたか。私が覚えているのは、フリースクールフェスティバルで、ろうそくで地上絵みたいにでっかい絵を描いて、並べたことがありましたよね。

彦田 はい。そういうことも、みんなで実行委員会でやっていったし、あとは、沖縄合宿を企画したりとか、個人的に友だちと映像作品をつくったりしました。

奥地 シューレのなかで、自分がどう変化したと感じましたか。

彦田 次々と実行委員会に出て、いろいろなことを実現していく、シューレの日常も、ミーティングで、みんなでつくっていく。自分自身が全力でやって、誰かと気持ちをすり合わせて、意見がかみ合わなかったりするなかでも、おたがいに伝え合っていく。そういう、それまでは心が疲れてできなかったことができて、もっとやりたいと思うようになりました。


●怖くて断れず合宿に

奥地 真陸くんは、2008年に入ってきて、どんな活動に参加しましたか。

本田 最初のうちは、活動らしい活動はしていなかったですね。シューレに10時ぐらいに行って、1時ぐらいに帰ってみたいな生活で、あまり人と話さないで、スタッフの人とぼそぼそ話したり、カプラを積み上げてみたりしてました。そんなある日、九州合宿が8月にあるので行きませんかと、スタッフの方に言われたんです。

奥地 佐賀で全国子ども交流合宿があって、そこにも参加して、九州をめぐるという合宿でしたね。

本田 はい。そこに誘われて、僕は断ることができなかったんです、スタッフが怖くて(笑)。

奥地 だけど、行くほうがずっと怖いんじゃない?

本田 目の前で「行きませんか?」と言われて、スタッフというより、大人の意見を否定するということが、ちょっとできなかった。

奥地 まだ、入ってまもなくだからということもあったのかな。

本田 合宿というのは、だいたいみんな行くものみたいに思っていましたしね。

奥地 学校文化では、そうだものね。

本田 そう、そう。断ったら、「なんで来なかったの?」と言われてしまうかなあと思ったりして。

奥地 実際、ほんとうに行きたくて行ったわけじゃなかったんだ。それで、行ってみて、実際はどうだったの? 10日間ぐらいだったですよね。

本田 楽しかった(笑)。全国から来る交流合宿はちょっとイヤだったというか、なんか不登校とか、よくわからないし、でも、こんないっぱい不登校がおるのかいって(笑)。

奥地 自分も不登校なのに。

本田 そう、そうなのね。3〜4日すると、もう会話をしないという選択肢はないというか、10人以上の人と10日もいっしょにいたら、黙っているというのは不可能な話で、それで話してみたら、いろいろ話せるし、楽しかったです。

奥地 シューレの子だけで、水俣にも行ったんですよね。

本田 そのときは、水俣のこととかには、あんまり目が向いていなかったですね。海で、溺れたりしたのは覚えてます(笑)。

奥地 ほかには、どんな日常の活動をやっていたんですか。

本田 九州合宿が終わってからは、わりと話せるようになったというか、楽しく過ごせるようになりました。実は、イベントにはそんなに参加していなくて、フリースクールフェスティバルの実行委員会とか、そういうところには、あまり参加していませんでした。イベントが巨大すぎて、自分たちでつくっていると感じなかったのかもしれない。もう少し小さいフェスティバルだったら、子どもたち自身でつくれた感を、味わえたかもしれないですね。

奥地 なるほど。

本田 大人がいろいろがんばったイベントみたいな印象を受けて、自分自身がイベントをつくる、物事をつくるみたいな感じには、そのときはなってませんでした。だけど、その一方で、来留未ちゃんの世代の人たちとか、まわりにいた人たちが、お絵描きしたり、発表したり、いろいろやっているのを見て、わりと楽しそうだなって、ぼんやりと感じていたのはたしかです。

奥地 ふだんは何をして過ごしていたのかな。

本田 お話です。


●不登校の子どもの権利宣言

奥地 「不登校の子どもの権利宣言」というのは、どうやって始まったものなんですか?

彦田 真陸くんも私も行ってないんだけど、いろいろタイムでユニセフハウスに行くという企画があって、そのとき、案内してくれたボランティアの人から「君たちは学校にも行けて幸せだ。世界には恵まれない子どもがこんなにたくさんいて」という話を聞かされて、それを持ち帰って、シューレのなかで話し合ったんですよね。

奥地 「なんか釈然としないんだよね」と言って、帰ってきてましたね。

彦田 それを聞いたとき、「じゃあ、日本の私たちの子どもの権利って、どうなんだろう」と思ったんです。守られていることなの? 学校に行くことだけが幸せなの? と、いろいろな疑問が湧いてきて、それをきっかけに、子どもの権利条約講座ができたんです。

奥地 これは自主講座で、週1回やってましたね。

彦田 スタッフの佐藤信一さんが、子どもの権利のことに関わってきた人で、佐藤さんといっしょに子どもの権利条約をひとつひとつ読みといて、ディスカッションするというのが講座のスタイルでした。

奥地 辞書を片手に、元の意味を調べたりしたそうですね。

本田 佐藤さんが原文を印刷してきてくれて、これはこういうニュアンスで使われているんじゃないだろうかとか、一生懸命いろんなことを話した記憶があります。

奥地 講座は、どれくらい続いて、何人ぐらい参加していたんでしょう。

本田 1年半です。人数は10人もいなかったですね。

彦田 7〜8人ぐらいです。

奥地 子どもの権利条約って、ちょっと固そうで、おもしろくなさそうで、1〜2回はできても続かないような気がしますけど、1年半も続いたというのは、どういう興味だったんでしょう。

本田 自分の場合、そもそも参加したのは、怖くて断れなかったからで(笑)。

奥地 それもそうなの?

本田 それも、まだ入ったばっかりのときで、「ちょうど始まったばかりだから出てみない?」と言われて、出てみたのが最初です。はじめは小難しいし、そんなに乗り気でもなかったんだど、いっしょに出ていた人たちは中等部が多くて、ふだんいっしょにいる人たちだから、まあいいかと。

奥地 仲間がいた感じなんですね。

本田 それがよかった。それで、続けているうちに、これは学校でも守られてないなあと思ってみたり、これが守られていたら、僕はこんなイヤな思いをしなかったと思ってみたり。それと、学校に関連することに加えて、自分が差別を受けないとか、そういうところも強く感じることができたから、ということもあったと思います。学校とは関係ないけど、これは守られてほしいなと。


●自分たちの言葉を出し合って

奥地 来留未ちゃんの場合は、どうだったんでしょう。

彦田 私は、実はあまり出ていなかったんです。講座が始まってから1年ぐらいして、権利宣言をつくろうとなって、その後の半年はボチボチ出てましたけど、関わるようになったのは、この権利宣言をつくろうとなってからでした。

奥地 権利条約の勉強は基本的なところで、そこから自分たちでオリジナルに不登校の子どもの権利宣言をつくることに踏み出すというのは、また一歩ちがう話ですね。当時、シューレの会員で全国子ども交流合宿の実行委員長だった子が、何か目玉になるものはないかと思っていたところ、お風呂に入っているときにパッと思いついたそうです。それで、すごく意味があるし、おもしろいじゃないかと思って、講座に参加している人たちに言ったら、みんな賛成してくれたんで、そこから始まったと聞いてます。

彦田 そのとおりです。自分たちの子どもの権利と、不登校の経験を社会に発信するものをつくりたいと言われて、それなら参加したいという人が集まってきた感じです。

奥地 実際、どうやってつくっていったのでしょう。

彦田 初めは、学校の先生や、自分の親や、身近な大人に伝えたいことを、とにかく出し合いました。こういうことはしないでほしいとか、こういうことがすごくイヤだったということを、自分たちの言葉で出し合って、書き出していきました。

奥地 書き出したものは、どれぐらいあったんですか。

彦田 書き出していく作業だけで、何日もかかりました。その間にメンバーも変わって、いっぱい出した。その後、どうやって骨組みをつくったか、ちょっと覚えてないですが、何人かが大まかな柱を出して、そこから、みんなで削ったり、付け加えたりしていったんだと思います。夏休みのあいだ、こればっかりやっていました。

奥地 私が覚えているのは、朝、子どもたちが来て、「5階でやるからカギを貸して」と言って、上に行くでしょう。それからずっと5階にいて、夕方になって降りてくるのね。それで「今日は、どのぐらい進んだの?」と聞いたら、「1条」と言うんですよ。「だって、言葉が難しいんだもの」って。だから、相当苦労したのかなと。

本田 苦労しました。

奥地 どういう点に苦労しましたか。

本田 言葉の選び方が難しかったですね。自分たちの言いたいことを出し合って、でも、最初は誰を対象にするかが、あまり定まってなかった。誰を対象にするのか。言いたいことの本質を曲げずに、あまり使わないほうがいい表現は使わず、どういう表現にするのか。そういうところが難しかったです。

彦田 そうだね。5条の「比較して優劣をつけてはならない。歩む速度や歩む道は自身で決める」という一文への思いが強くて、もともとは「私たちは競走馬ではない」とか、書いていたんです。

本田 そういう言葉の選び方が、すごくたいへんでした。言葉が相手に与える印象とか、「自分」という言葉は使わないほうがいいのではないか、とか。


●共に生きやすい社会を

彦田 結局、「自分」という言葉は、権利宣言のなかでは使わなかったですね。

奥地 まとめるまでに正味40時間ぐらいかかったと聞いてますが、できたものは、弁護士や大学の先生にも高く評価されて、広まっていきましたね。前文は、来留未ちゃんが書いたんでしょうか?

彦田 いや、これはみんなで書いたと思う。もともとの文は実行委員長が書いたのかな。自分たちの権利を誰かに押しつけるのではなくて、子どもから大人に「〜してほしい」「〜してください」と訴えているのでもなくて、「共に生きやすい社会をつくっていきませんか」と書いたんです。それは、子どもと大人でつくっていくという、シューレの基本にあるものを社会に知ってほしいという思いが入っているのかなと。

奥地 この権利宣言では、「不登校の子どもの権利宣言に込めた思い」という文章もあわせて発表されていて、そこでは、自分たちの体験や思いも書いてましたね。

彦田 思いや体験をつけたのは、「子どもに権利を与えると、わがままになる」とか、「そんなに、えらそうにするなよ。学校も行ってないのに」みたいなことを言われてしまったからなんですね。
 一番伝えたかったのは、子どもの権利を知ってほしいということと、学校以外の生き方を知ってほしいということだったのに、それが伝わらないというもどかしさがありました。結局、大人も自分に権利があると思って生きていないので、子どもに権利なんて与えられないという考え方にぶち当たってしまった。それで、この宣言の背景にある、自分たちの不登校経験や思いも出さなければ、これは伝わらないと思ったんです。

奥地 この権利宣言を採択したのは、2009年8月、東京の早稲田で全国子ども交流合宿を開催したときでしたね。何人かでこれを読み上げて、「すごく反発があるかもしれない」という不安もあったけど、実際は、ものすごい拍手だった。だから、壇上から降りてから涙が出たと言っていたね。

彦田 当時、私は19歳で、子どもの権利から外れる年齢だったので、自分たちが大人になっていくにあたって、子どもたちを守っていくものをつくらなければという責任感がワッと湧きだして、拍手で採択されたとき、なんか、とんでもないものをつくってしまったと思ったんです。
 のちに大田堯先生(本プロジェクト#05参照)と会って、「法律というのは自分たちを縛るものなんだよ」と言われたとき、そういうことだったんだよなあ、と思いました。

奥地 あはは(笑)。とんでもないものをつくったというのは、ほんとうに責任が生じちゃったという感じですか。

彦田 伝えていかねばと思いました。


●ネットワークで広めたい

奥地 その思いから、「不登校の子どもの権利宣言を広げるネットワーク」をつくったんですかね。ネットワークをつくったのは、権利宣言を採択してから、どれぐらい経ってからだったでしょう。

彦田 1年半ぐらいだったと思います。

奥地 最初は、シューレや親の会の関係の集会で話すだけでしたけど、自分たちでネットワークをつくって広めていこうというのは、これまたすごいなと思いました。自分たちで集会を開いたり、ネットを使ったりもしてましたね。

彦田 インターネットも使いましたけど、おもには、自分たちで足を運んで、いろんな会に行って話すことが多かったと思います。

奥地 おふたりとも、手ごたえはどうでしたか。

本田 手ごたえはありましたね。それまでに、こういうものはなかったでしょう。それを子どもたちでつくりあげるエネルギーは相当なものだったと思う。ただ、手ごたえはあったものの、とくに学校関係の人たちは、たんなるわがままと捉えたり、ふだん不登校と関わっていないような人たちは、好意的な感じではなかったですよね。あと、同世代に伝える難しさもありました。言葉も難しいし、おそらく同世代の子どもたちは、自分たちも権利を持っているとはあまり考えていなくて、そういう人たちに、いきなりこれをぽんと出しても、そんなにスムーズには理解されるものではなかった。

奥地 それで、工夫していたよね。

彦田 かみくだいた言葉にして、ひらがなでつくったりもしました。それを配ったとき、「友だちに学校に来てない子がいるからあげようかな」と言った子がいて、それはすごくよかったと思いました。

奥地 どれぐらいの数、話してまわりましたか。長野とか、あちこちに行っていて、何十カ所はあったと思いますが。

本田 どれぐらいだろう、わからないなあ。

彦田 私たちが直接伝えるだけではなくて、できたら、これをいろんな人に配ってくれないかなという思いもあったんですね。いろんな人がいろんな人に配ってくれたら広まると思ったんですけど、そこが難しかった。「学校に持って行くんだったら、もっとこうしてよ」とか、「権利宣言をもっとこうすればいいのに」ということは、たくさん言われました。不登校の子どもの権利宣言だけじゃなくて、何々の権利宣言もつくってほしいとか。

奥地 その人がつくればいいのにね(笑)。

彦田 そうそう。みんなどこか他人事というか、そこで現実にぶち当たる感じがありました。

奥地 このネットワークの活動は、何年ぐらい続けたのですか。シューレで始めた活動でしたけど、それぞれ専門学校や大学に進学するとか就職するとかあって、だんだん会員でなくなったりして、それでもしばらくはやってましたよね。

本田 自分が大学2年生ごろまでは、やっていたと思います。2014年ぐらいまでだと思います。

彦田 2014年に2個目の動画を発表して、2015年ごろまでは集まって協議してましたけど、その後は、みんなそれぞれという感じですね。

奥地 宣言をつくった人が広めていく活動は難しくなって、あとはこれを知った人が活用してくれればいいということで、いったん活動は終わりにしようかと。

彦田 ただ、「終わりました」という発表はしていないんですよね。いちおう報告するための文章は考えたんだけど、難しかった。


●自分たちの手を離れても

奥地 でも、この宣言は、いろいろなところで使われていますよ。たとえば、東京シューレの説明会にはかならず入れてますし、私が講演に行くときも、これを配ってます。この宣言があって、すごく助かるというか、ほんとうに煮詰められた言葉で、しかも「込めた思い」もあるので、観念的な法律の言葉だけではなくて、実際にこういうことがあって、この宣言につながっているということがよくわかる。この宣言は非常によくできていると思います。いまふり返って、この活動をどう思っていますか。

本田 つくっているときは、正直、自分が何をしているかわかってなかったです。これが一体どうなるのかもわからなかったし、言ってしまえば、最初は交流合宿で一発発表して、「よかったね」みたいに終わるだろうなと思っていたんです。ただ、発表して拍手をもらって、その後、いろんな方面から注目されて、そうなって初めて、自分がつくっていたのはこんなに大きなものだったのかと感じたんです。

本田 10年もこの宣言に関わるとは思ってなかったですね。せいぜい2〜3年ぐらいの気持ちでやってました。

奥地 自分たちの手から離れて、あちこちで、この宣言が力を持っている。

本田 流山シューレ(千葉県)で、学校との言い合いにこの宣言を持っていった人がいるそうですね。シューレに関係しているとはいえ、自分のぜんぜん知らない人が、自分たちが10年前につくったものを手にして闘っているというのは、これは胸が熱くなる。

奥地 うれしいよね。流山シューレでは、トイレに権利宣言を1条ずつ貼ってあるんです。それで宣言の文言を覚えちゃった子がいました。

本田 ただ、自分たちもシューレで失敗したのは、ミーティングで1条ずつやっていたら、ただでさえ長いミーティングを長引かせて(笑)、反発を買ってしまったこともありました。

彦田 興味を持ってもらうのが難しいよね。

木村 東京シューレ葛飾中学校では、日本語の授業で、かならず権利宣言についてやってます。

奥地 そうそう、毎年やっています。

本田 すごい。


●歴史に残ることをやった

奥地 来留未ちゃんは、ふり返ってみて、どうですか。

彦田 自画自賛するなら、歴史に残ることをやったなと思っています(笑)。

奥地 そうね。私は、これは教科書に載ったらいいと思ってます。いま、学習指導要領の総則にも、「不登校を『問題行動』と判断してはならない」とか、「不登校児童が悪いという根強い偏見を払拭し、学校・家庭・社会が不登校児童に寄り添い、共感的理解と受容の姿勢を持つことが、児童の自己肯定感を高めるためにも重要」と書かれています。学習指導要領の総則は、すべての先生になる人たちは読まなきゃいけないし、教育委員会も読まなきゃいけない。学校復帰のみじゃなくて、社会的自立に向けて支援する、しかも子どもの意志を尊重するという、私たちが言ってきたようなことが入っているんですよね。
 もちろん矛盾する点もなくはないけど、昔だったら絶対にありえなかったことが起きて、世の中が変わってきている。そこに影響を与えているのが教育機会確保法です。その法律をつくる動機のひとつに、「不登校の子どもの権利宣言」があるんですよ。教育への権利とか、学び・育ち方のあり方を選ぶとか、安心して休むとか、これがほんとうに保障されるためには、いまの学校教育法しかない制度では無理だよね、となったんです。
 ただ、実際に成立した法律は、ほんとうに選べるようにまではなっていないんだけど、でも一歩は進んだ。休養の必要性や学校外の学びの重要性が明記されて、公民連携での不登校支援を打ち出されています。適応指導教室も、私たちのような「学校だけじゃないよ」と言ってきたところと連携するようになって、私たちも東京都北区と契約して、まもなく適応指導教室を始めます。適応指導教室で、私たちが親の会をできるんです。すごいでしょう。そういう意味では、おふたりの学校時代からは、ちょっとずつ変わってきているんですよ。一石を投じた波紋は広がって、意外と大きな力になっているんです。だから、教科書に載ったらいいかなと思っているんだけどね。


●自分の心がいいと思える生き方を

奥地 最後に、いま、どうやって生きているか、何をこれからやりたいかなど、お話しいただけますでしょうか。

彦田 いまは、やっていたアルバイトを辞めて、自分の創作活動をしています。学校に行く行かないとか、就職する就職しないとか、いい悪いじゃなくて、したから幸せとか、しなかったら不幸せだとか、そういうことではないと思っています。「まあ、なんとか生きていけるさ」と、100パーセント自信をもって言えるわけじゃないけど、どうなるかわからないけれど、やっぱり、いろんな生き方があっていいんだと、不登校を通して思えたということが、自分にとっては一番大きいですね。自分のペースで、自分の心がいいと思えるものでないと、自分は選んじゃダメなんだなあと思います。学校に無理して行けなかったように、社会に出てからも、自分が気持ちいいと思えるものを選びながら生きていこうと。それでいいんだと思えたのは、権利宣言の活動をはじめ、いろいろな活動があったからかなと思っています。

奥地 ここに来留未ちゃんがつくった絵本がありますが、これはどんな思いを込めてつくったんですか。

彦田 『そこらじゅうの声』という本で、読んだ人が、自分のほんとうの思いに従って生きていてもいいんだと思ってくれたらいいなあと。たとえば休んじゃいけないとか、就職しなければいけないと思って人生を歩んでいる人が多くて、でも、そうじゃなくて、泣いたり、笑ったり、自分の感情を出して生きていっていいし、自分のしたいことをして生きていっていいんだよね、ということを伝えたくて書きました。

奥地 絵がステキですよね。絵は、子どものころから描いていたのですか。

彦田 よく、「学校で習ったんですか?」ときかれるけど、自分が好きで続けてきたことで、それこそホームエデュケーションで、毎日毎日描いていたことがつながったかなあって思います。

奥地 自学自習で絵の能力をつけちゃったんだよね、すごいねえ。誰かに教わったわけでもなく、美術の授業にせっせと出ていたわけでもなく。それって、子どもの権利宣言とつながっている感じもしますね。
 真陸くんはどうでしょう。


●アフリカへ行きたい

本田 いまはフリースクールで働きながら、日本語教員の資格を取るために、養成講座に週3日通っています。

奥地 なんで日本語教師の資格を取りたいんでしょう?

本田 本来はアフリカに行きたいから、大学院に行って、アフリカ地域に関する研究を専攻したかったんです。でも、結果が残念で、何かしら向こうで生きていくすべを身につけたいと思って、ふだん使っている日本語を教える職業はどうだろうかと思って、日本語教員の資格が取れる養成講座に通いはじめました。

奥地 アフリカに行きたいというのは、どうしてでしょう。

本田 幼稚園、小学校にさかのぼって、常に自分は自分の肌をからかわれてきたんです。でも、幼稚園のころに家族でアメリカへ旅行に行ったとき、アメリカの人は誰も自分のことをジロジロ見てこなかった。4〜5歳のときでしたけど、自分がジロジロ見られるというのは、自分に何か悪いところがあったわけではないんだと初めて感じて、それからは、僕は絶対、将来はアメリカに行くんだと思って、生きてきたんです。ところが、中学校3年生か高校1年生のときに、黒人の歴史に関心を抱くようになって、本や映画でアメリカの歴史を学んでいくと、「おや、どうやらアメリカはあんまりいい国じゃないぞ」と思ったんです。
 アメリカでは、50〜60年代にアフリカ回帰主義というムーブメントが巻き起こったんですね。実際には、ほとんどの人は、あまりお金もないし、アフリカに行くことはできなかったんだけど、そもそも自分たちはアメリカにいたのではなくて、つれて来られたのだから、アフリカに帰るべきであると主張した人たちがいて、僕はそれに感銘を受けたんです。「ああ、これが僕の進む道なんだ」と思って、そこから、将来はアフリカに行きたいと考えて生きています。

奥地 アフリカへ行って、子どものためのことを何かしたいと言ってましたね。

本田 子どものためもあるんだけど、とくに若者の世代にエネルギーを注ぎたいです。たとえばアフリカでは、まだ不登校がどうこうという状態にはない。そもそも学校がまだ足りてないから、不登校のことはさておいて。

奥地 課題がちがいますよね。

本田 できることなら、いろんなところにいる黒人をアフリカに集めたい(笑)。ニュースを見ていたら、最近でもアメリカで、スターバックスで注文しないで立ってたというだけで、黒人が逮捕されていました。「もうやめようぜ、アメリカに住むの」って。いまなら、アフリカもそれなりの発展を遂げつつあるし、50〜60年代から比べれば非常に行きやすくなっている。
 いま、アメリカから黒人が消えたら、どれほどたいへんか。アフリカ出身の若者は、ヨーロッパやアメリカにあこがれていて、知識層が流出しています。自分は、なんとかこれをくい止めたい。アフリカこそ最高の場所なんだと。「みんなでアフリカへもどろうぜ」とデカく言っていきたいし、この考えに反対する人とは、バチバチのバトルをくり広げたい。何より、関心を持つことが大事だと思うので。
 たとえばアメリカでは、50年代にマルコムXが出てきて、社会と対立した。でも対立によって、どちらかの考え方に賛同する人たちが出てくる。だから、自分のルーツに関心を抱いていない人たちも、私と誰かのバトルを見ることによって、関心を持つことが、まずは大事なのではないかなと思っているんです。なので、何かしらのビジネスをしながら、バチバチのバトルをくり広げていきたいと思っています。

奥地 ふたりとも、ありがとうございました。社会を見ながら、自分のルーツや自分の原体験を大事にしながら、自分らしく生きていこうというのは、感銘を受けます。これからも、いままでの経験を大事にしながらやっていってください。黒人の差別と不登校の差別は重なるところがあるかなと思います。かなりの時間をかけないと社会は変わらないですし、問題意識が重なると感じるところがあります。おふたりとも、これからも自分なりの生き方を貫くことで、たぶん社会が変わると思います。今日はどうもありがとうございました。

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*IDEC(International Democratic Education Conference):1992年より毎年開催されている、世界各地のオルタナティブ教育関係者が交流する場。2000年には日本で開催された。
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  不登校の子どもの権利宣言

 前文
 私たち子どもはひとりひとりが個性を持った人間です。
 しかし、不登校をしている私たちの多くが、学校に行くことが当たり前という社会の価値観の中で、私たちの悩みや思いを、十分に理解できない人たちから心無い言葉を言われ、傷つけられることを経験しています。
不登校の私たちの権利を伝えるため、すべてのおとなたちに向けて私たちは声をあげます。
おとなたち、特に保護者や教師は、子どもの声に耳を傾け、私たちの考えや個々の価値観と、子どもの最善の利益を尊重してください。そして共に生きやすい社会をつくっていきませんか。 
 多くの不登校の子どもや、苦しみながら学校に行き続けている子どもが、一人でも自身に合った生き方や学び方を選べる世の中になるように、今日この大会で次のことを宣言します。

一、教育への権利
 私たちには、教育への権利がある。学校へ行く・行かないを自身で決める権利がある。義務教育とは、国や保護者が、すべての子どもに教育を受けられるようにする義務である。子どもが学校に行くことは義務ではない。

二、学ぶ権利
 私たちには、学びたいことを自身に合った方法で学ぶ権利がある。学びとは、私たちの意思で知ることであり他者から強制されるものではない。私たちは、生きていく中で多くのことを学んでいる。

三、学び・育ちのあり方を選ぶ権利
 私たちには、学校、フリースクール、フリースペース、ホームエデュケーション(家で過ごし・学ぶ)など、どのように学び・育つかを選ぶ権利がある。おとなは、学校に行くことが当たり前だという考えを子どもに押し付けないでほしい。

四、安心して休む権利
 私たちには、安心して休む権利がある。おとなは、学校やそのほかの通うべきとされたところに、本人の気持ちに反して行かせるのではなく、家などの安心できる環境で、ゆっくり過ごすことを保障してほしい。

五、ありのままに生きる権利
 私たちは、ひとりひとり違う人間である。おとなは子どもに対して競争に追いたてたり、比較して優劣をつけてはならない。歩む速度や歩む道は自身で決める。

六、差別を受けない権利
 不登校、障がい、成績、能力、年齢、性別、性格、容姿、国籍、家庭事情などを理由とする差別をしてはならない。
 例えばおとなは、不登校の子どもと遊ぶと自分の子どもまでもが不登校になるという偏見から、子ども同士の関係に制限を付けないでほしい。

七、公的な費用による保障を受ける権利
 学校外の学び・育ちを選んだ私たちにも、学校に行っている子どもと同じように公的な費用による保障を受ける権利がある。
 例えば、フリースクール・フリースペースに所属している、小・中学生と高校生は通学定期券が保障されているが、高校に在籍していない子どもたちには保障されていない。すべての子どもが平等に公的費用を受けられる社会にしてほしい。

八、暴力から守られ安心して育つ権利
 私たちには、不登校を理由にした暴力から守られ、安心して育つ権利がある。おとなは、子どもに対し体罰、虐待、暴力的な入所・入院などのあらゆる暴力をしてはならない。

九、プライバシーの権利
 おとなは私たちのプライバシーを侵害してはならない。
 例えば、学校に行くよう説得するために、教師が家に勝手に押しかけてくることや、時間に関係なく何度も電話をかけてくること、親が教師に家での様子を話すこともプライバシーの侵害である。私たち自身に関することは、必ず意見を聞いてほしい。

十、対等な人格として認められる権利
 学校や社会、生活の中で子どもの権利が活かされるように、おとなは私たちを対等な人格として認め、いっしょに考えなければならない。子どもが自身の考えや気持ちをありのままに伝えることができる関係、環境が必要である。

十一、不登校をしている私たちの生き方の権利
 おとなは、不登校をしている私たちの生き方を認めてほしい。私たちと向き合うことから不登校を理解してほしい。それなしに、私たちの幸せはうまれない。

十二、他者の権利の尊重
 私たちは、他者の権利や自由も尊重します。

十三、子どもの権利を知る権利
 私たちには、子どもの権利を知る権利がある。国やおとなは子どもに対し、子どもの権利を知る機会を保障しなければならない。子どもの権利が守られているかどうかは、子ども自身が決める。

二〇〇九年八月二十三日  全国子ども交流合宿「ぱおぱお」参加者一同

posted by 不登校新聞社 at 06:49| Comment(0) | 当事者
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