2018年08月28日

#45 西村秀明さん

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(にしむら・ひであき)
1949年、山口県生まれ。1972年、日本大学文理学部心理学科卒業、山口県中央児童相談所、宇部保健所(現宇部健康福祉センター)、山口県精神保健福祉センターを経て、2003年より宇部フロンティア大学教授。臨床心理士。精神保健福祉士。著書に『子どもの心理 親の心理―子育てはこころ育て』、『ひきこもり その心理と援助』、久保武さんとの共著に『不登校の再検討―子どもたちへの理解と対応 思春期精神保健活動からの報告』(いずれも教育史料出版会刊)。

インタビュー日時:2018年6月30日
聞き手:奥地圭子
場 所:東京シューレ大田
写真撮影:木村砂織

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〈テキスト本文〉

奥地 今日はよろしくお願いします。

西村 今日はこの冊子(『不登校への理解―その実践からの報告―』)を持ってきました。

奥地 ずいぶん前の資料ですね。東京シューレで山口にうかがった際、シンポジウムをしたときの記録ですね。日付は1990年7月29日、場所は山口県視聴覚センターとなってますね。西村さんとの出会いが相当古いことがわかります。

西村 もっと前からで、たしか86〜87年のことです。

奥地 85年に東京シューレができているので、その次の年あたりですね。

西村 すぐに知りました、東京に変な人がいると(笑)。

奥地 当時の状況では、そうだと思いますよ(笑)。

西村 このプロジェクトのインタビューに、中澤淳さんも登場していますね(#40)。それで思い出して探してみたら、この冊子が出てきたんです。けっこうおもしろいことを言っていたなあと思って。

奥地 では、そのあたりの話から、お聞きします。そもそも、どうやってシューレのことを知っていただいたんですか。

西村 たまたまです。当時、精神衛生センター(現在は精神保健福祉センター)に不登校の相談が来ていたんですが、相談件数は増えているものの、当時はこちらもよくわからなくて、文献に頼るしかなかったんです。そうすると、たいていは本人の性格だとか、家族の問題だとか書いてあるわけです。でも、「何か変だ、そうなのかな?」と感じて悩んでいたところに、新聞で知ったんだったと思います。
 まあ、東京に変な人がいる、これは何かヒントをいただけるのではないかと思ったんです。それで、精神衛生センターの中国四国ブロックで協議会を開くところだったので、そこにお呼びしようじゃないかと。ちょうど山口が企画担当だったんです。それが奥地さんとの最初の出会いでした。

奥地 湯田温泉で行なわれた大会でしたね。それは覚えています。西村さんが、不登校と出会われたのは、いつごろですか。

西村 最初は、児童相談所にいたころです。


●人生はなりゆき

奥地 児童相談所に勤められるまでの経緯も含めて、西村さんの個人史を簡単にうかがっておければと思います。お生まれも山口ですか。

西村 そうです。大学は県外に出て卒業して、ほんとうになりゆきで児童相談所に勤めることになりました。大学もなりゆきで行ったんですが、そこで精神障害者の方々のことに関心を持って、ほんとうは精神病院に行きたかったんです。しかし、すべて断られてしまって、行くところがなくなって……。
 一方で、公務員試験は受けていたんです。親が地元の山口県でも何かひとつ試験を受けておけというので、仕方なく受けていたんです。それで、1次は合格したんですが、2次で採用がなければ、教員といっしょで、不合格と同じなんです。なかなか通知が来なかったんですが、ようやく2月下旬か3月上旬ごろに児童相談所への勤務を命ずるという通知が来て、要するに、ほかに行くところがなかったので児童相談所に勤めたんです。トルストイが「人生はなりゆきだ」と言っているんですが、それが僕にぴったりで、しっかり僕の根幹にありましてね。いまでも人生なんてなりゆきだと思っています。就職したのは1972年のことでした。

奥地 大学のときには何か資格は取られたんですか?

西村 いいえ、ぜんぜん。当時は、何も資格なんてありませんでした。

奥地 1972年というと、国府台病院のなかに希望会ができたのが1973年ですから、同じころですね。うちの子は78年に不登校して、80年に渡辺位先生(1925―2009/児童精神科医)に会っているんです。そのころだと、不登校している子の親たちは児童相談所に行ってますよね。

西村 そうですね。ただ、当時の児童相談所に来ていた学校に行かない子というのは、神経症的な状態に追いやられている人は少なくて、要養護、つまり親がめんどうをみないので生活ができないという子どもたちが多かったように思います。

奥地 なるほど。戦後しばらくは長欠児の数はすごく多くて、それは、親がいなくて親戚の家にあずけられているとか、貧しくてどうやって暮らせるかわからないというなかで長期欠席している子が多かったんですよね。それが、だんだん減ってはくるけれども、70年代になっても、まだ山口のほうにはいらして、それが児童相談所に持ち込まれたということですか。

西村 まだまだ、全国的にもそういう傾向はあったように思います。だから、たいていは保護されて、児童養護施設へ措置されていました。学校へ行かないということ自体が問題になるということではなかったですね。それと、1972年から情緒障害児短期治療施設(*1)が全国に設置され始めるんです。それによって長欠児は、児童相談所から情短施設に流れていくシステムができあがってしまった観がありました。児童相談所は、施設入所も含めて、子どもたちの処遇を考えないといけないわけですが、長欠時については、あれこれ考えず情短施設へという流れになっていて、形式的に児童相談所に来ていたという印象でした。

奥地 児童相談所には何年ぐらいおられたんですか?

西村 イヤでしょうがなくて、すぐに出たかったんですけど、結局は4年間いました。その後、国の施策で精神障害者社会復帰促進事業を保健所で始めることになったと聞いて、こっそり保健所の方に自己PRして、入れてほしいと懇願しに行ったんです。それで、宇部市の保健所へ転勤することができました。
 社会復帰促進事業は、精神障害者の方に社会とつながっていっていただくという取り組みで、いろいろたいへんな思いはしましたけど、自分がそこで仕事をしているという実感はありました。児童相談所では、ある意味、事務的な流れに沿ってやっていたわけです。ところが、社会復帰促進事業は、骨組みはあるけれども、その骨組みのなかであれば何をやってもよかったんです。


●学生時代の出会いから

奥地 学生時代から精神障害に関心があったということでしたが、それはどういう経緯だったんですか?

西村 話すと長くなるので簡単に言いますと、僕はいわゆるモラトリアム状態に陥っていて、兄が「大学へ行って遊んでこい」と進言してくれたんです。それで、たまたま目に入ったのが、当時は人気のなかった心理学でした。ここだったら入れるだろうということで受験したら、うまく入れたんです。しかし、大学に入って真っ先に出会ったのは、学生運動だったんです。
 大学の入口がロックアウトされて、大学には入れない。それで少し時間をもてあまして、精神病院でバイトを始めたんです。そこで、いろんなことをやらせていただいたのが最初でした。それをきっかけに、国立精神衛生研究所(現・国立精神・神経医療研究センター)で山本和夫先生や越智浩二郎先生の研究室に毎週1回勉強に行かせてもらうようになって、そこで、だんだん精神科医療や心理学的な問題に関心が深まっていったんですね。

奥地 目が、開かれたんですね。

西村 はい。もともと細い目ですけど(笑)。それと、ちょうどそのころ、大学で先輩が「ルピナス」というサークルをつくっていたんです。自閉症の子どものめんどうをみるサークルでした。自閉症のお子さんがいると、お母さんは毎日世話をしなければいけない。そこで、丸1日、朝から晩まで私たちがめんどうをみるから、そのあいだ、お母さんは好きなことしてきてくださいという活動でした。これは、ずいぶん喜ばれました。

奥地 そうでしょうね。お母さんは、行きたいところにも行けずでしょうからね。

西村 そうですね。その活動を週1回、精神衛生研究所にも週1回、そしてバイトで精神科に行くということで、ほとんど大学には行かないままで……。

奥地 大学よりもむしろ、生の勉強ができたという感じでしょうね。


●ボランティアで活動の場を

奥地 話がもどりますが、児童相談所に4年間いて、宇部市の保健所に移られたということでしたね。保健所では、どういう仕事をされていたんでしょう。

西村 保健所で、まず始めたのがデイケアでした。週1回開催していたんですが、当時、精神障害者の人たちは地域に出る場がなかったんです。それで、週1回でも保健所に来てもらおうということでした。しかし、参加者は10人前後で、大多数の方は援助を受けていないわけです。それを何とかしたいと思って、ほとんどボランティアでいろんなことをやりました。行政の枠組みでは自由にはできなかったですからね。
 まず、「日曜日をエンジョイする会」を同僚たちとつくりました。たまの日曜日、市民と精神障害者といっしょに遊ぼうじゃないかという会です。差別や偏見が強かったですから、実際に出会う場をつくろうと思ったんです。ずいぶん、長いあいだやって、いまはなくなっていますが、毎回50人ぐらい来ていました。
 それから、共同作業をつくりました。デイケアに週1回来ても残る6日は家にいる状況を何とかしようと思って、家族会の方々といっしょに、毎日出てこられる場をつくろうと考えたんです。そのころ、東京に「あさやけ作業所」ができたんです。共同作業所の第1号じゃないかと思います。しかし、保健所では作業所はできないということで、家族会の方と話し合って、家族会の方が当番で世話をするというかたちでつくったんです。そうすると、今度は就職する人たちも出てくるんですが、就職すると、また支援の枠組みから遠ざかってしまうので、月1回、希望者で飲む会をつくろうじゃないかということになりまして、夜の飲み会もやってました(笑)。
 そういう活動を5年間、保健所でやっていたんですが、これを県内に広げていきたいと考えたんです。しかし、宇部の保健所にいてもできないわけです。じゃあ、どこだったらできるかというと、精神衛生センターだったんです。

奥地 県のセンターだからということですか。

西村 そうです。センターは全県を対象にしていますので、各地域の保健所に働きかけて、宇部でやっていたようなことを各地域に拡げていきたいと考えたんです。ただ、児童相談所での経験から、きっと保健所のなかで転勤希望を言っていても変えてもらえないだろうと思ったんですね。それで、こっそり精神衛生センターの方に売り込みに行きまして、自分はこういうことをやりたいから入れてくれと言ったんです。保健所時代から精神衛生センターとは懇意につきあっていましたので、無事、転勤させていただくことができました。


●「教科書」を捨てろ

奥地 そこで、不登校の子と出会うことになったわけですか。

西村 そうです。精神障害者の作業所だとか、アルコール依存症の方の断酒会の活動もやっていましたが、センターは診療や相談機関でもあるので、それにも従事していたんです。そういうなかで、ぼちぼちと学校へ行かないという子どもたちに出会うようになりました。

奥地 それは80年代の初めごろですかね。最初のころの不登校との出会いで、何か覚えておられることはありますか。

西村 小学校の高学年ぐらいの子が親につれられてやってきたんです。いまも昔も変わりませんが、「どうしたら学校に行くようになるのか」という相談ですね。当時、僕は「教科書」しか知りませんでしたので、「きっとこの子には、どこか性格的な問題があるんじゃないか」とか、「親子関係はどうなんだろうか」とか、そういう目でその子のことを見てしまっていたんです。そういう目で見ていると、彼はおとなしいし、ものを言わないし、何かにつけて消極的に見えてくるんです。また、親御さんの話を聞くと、けっこう仲が悪い。そうすると、どうしても、そういう印象と学校に行かないという現象を結びつけて考えてしまったんです。

奥地 文部省(当時)の最初の手引書通りですね(「生徒の健全育成をめぐる諸問題:登校拒否問題を中心に」1983)。当時だと、どうしてもそういう印象でしょうね。

西村 そうなってしまうんですね。それで、「ああ、これが原因だ」と理解したものです。いま考えれば、申し訳ないことをしてしまったという後悔ばかりです。ほんとうに申し訳ない。それから、奥地さんとの出会いがあったんですよ。あのときは、山口のセンターだけではなくて、中国四国地方ブロックの各センターの所長なんかも、「目からうろこだった」とおっしゃっていました。これまでにない、まったく新しい見識だと。みんな模索していましたからね。

奥地 所長の久保武さんも、ちょっと変わったお医者さんだったかなと思いましたけれども(笑)。

西村 あのとき、奥地さんの話を聞いたあと、「子どもたちのグループをつくって、やってごらんなさい」と言われたんです。それで、グループを始めることにし、子どもふたりから始まりました。始める前には、奥地さんにノウハウをいろいろ聞かせていただきましたね。自主グループにすることが大事で、こちらは指導するのではなくて、子どもについていくことだと。こちらの位置がどうあるべきか、しっかり教えていただいて、とにかく始めた。これまでの教科書とはまるきりちがうわけで、いろいろ議論はあったんですが、そのときも、久保先生は「教科書を捨てろ」と宣言しましてね。教科書を捨てて、目の前の子どもたちから学ぶ、これをポリシーとしてやろうと。

奥地 それはやっぱり、すごい先生ですね。


●信用されていなかった

西村 そうして、子どもたちを主体にしたグループを始めたんです。それで、4年ぐらい経ったとき、先ほどの相談にきていた小学校高学年の子なんですが、彼がグループでワイワイやっているときの声を聞いたら、面接室で話しているときの声とは、ぜんぜんちがうことに気がついたんです。

奥地 なるほど。

西村 グループでいるときのほうが、ぜんぜんイキイキしているわけです。それに対して、以前、僕と面接室で話していたときは、おとなしくて、何か性格に問題があるのではないかと思わせるような感じだった。グループを通して、その子のほんとうの声が聞こえたと言いますか、「この子の声って、こんな声だったのか」と体験させられて、では、僕が面接室で聞いていた彼の声はいったい何だったのかと。
 それで、グループをやっていくうちに、僕のほうにも変化が起こってきて、どうも我々がまちがっていたんじゃないかと思うようになったんですね。教科書や文部省が言っていることもおかしいのではないか。
 子どもたちは、いまを元気でいることが大事で、そうすれば将来なんて、それこそなりゆきで、おのずと開けてくるんじゃないか。いや、彼らは自分で何とかすると思えるようになったんです。僕自身が心からほんとうにそう思えるようになったとき、彼が「僕はいじめに遭っていた」と告白してくれたんです。それは、それまで相談室ではひと言も口にしていなかったことで、思いもよらぬことでした。
 つまり、それまでの僕は信用されてなかったんですね。信用できない大人には話さないということです。それは、いま思えばわかることですが……。

奥地 そうですね。子どもって、大人が変わってきたのを感じるんですよね。そうすると、態度、表情、話が変わってくるというか。

西村 いっしょに遊んでいるうちにね。

奥地 それをさせていたのは、こっち側だったという経験は、私にもいろいろあります。私も、渡辺位先生との出会いから、親の会を始めて、東京シューレを始めて、そこから学んでいったことが、たくさんありました。そこから学んだこととして、学校にとらわれなくなると子どもたちが元気になりますというような話をしたと思うので、それを受けとめていただいたのが、よかったのでしょうね。

西村 センターのスタッフがほぼ同じ年代の仲間だったのと、久保先生という変わり者がいたという――いい意味で言ってますから(笑)。それは、大きな変化でした。

奥地 講演にうかがった際、久保先生が「日本の精神障害者の歴史は悲劇の歴史で、座敷牢まであったんです」と言われて、はっと思い出したことがあったんです。祖母の田舎の町の医院に、座敷牢があったんですよ。子どものころ、お医者さんに行ったとき、おばあちゃんを待っているあいだに弟といっしょに医院の中庭で遊んでいると、奥のほうに座敷牢があったんです。岩屋みたいなところなんですけど、格子があって、その奥にお姉さんみたいな人がいた。それで、「おばあちゃん、あれ、なあに? 変な人がいるよ」ときくと、「行っちゃ、ダメ」と怒られたんです。
 久保先生は、「いまはどんどん変えているんだよ」とおっしゃっていました。


●星のうさぎ

奥地 センターの話にもどりますと、職員の方々も、目の前の子どものところからやっていこうという雰囲気になっていったということですかね。

西村 そうです。スタッフも、みんな若かったし、そういう話に乗りやすくて、子どもとの遊びもけっこう本気になって遊ぶことができた感じはありましたね。

奥地 その子どもグループの名前が「星のうさぎ」ですよね。これは、どういう命名だったんですか?

西村 「かめの会」という親の会も開いていたんですが、そこに来られていた方の娘さんが「うさぎを飼いたい」と言ったそうなんです。それで、お母さんが主治医に相談したところ、その主治医は「そんなものを飼ったら、ますます学校に行かなくなるじゃないですか」と言ったそうなんですね。それで、お母さんのほうも「そう言われれば、そうだ」と思って、飼わないことに決めたら、その娘さんが、ものすごくさびしい表情をしたらしいんです。それで、お母さんも気持ちをあらためて、「飼おう!」と決めたんだそうです。

奥地 そのお母さんも、たいしたものですね。

西村 当時とすれば、すごい決断ですよ。主治医に逆らって、うさぎを飼ったんですから。でも、そうしたら元気になったんです。彼女も私たちのグループに来てくれるようになって、うさぎもつれてきたんだったと思います。それで、グループの名前をどうしようかという話になったとき、「うさぎにしよう。でも、うさぎだけじゃつまらないから、月のうさぎ……う〜ん、でも月にうさぎじゃ月並みだし……」と、そんな感じで、結局は「星のうさぎ」になったということでした。

奥地 それで、「星のうさぎ」の人たちとシューレの子たちが出会うようになるんですよね。シューレの子たちが貧乏旅行をしたいというので、うかがったのでした。たしか2回交流しましたよね。

西村 そうですね。2回目は川上村の廃校を借りて、2週間くらい合宿をしたように思います。

奥地 川上村の五右衛門風呂には驚きました。廃校が宿泊施設になっていたんですよね。周辺に点々と小さな家があって、そこに五右衛門風呂があって、東京の子たちは五右衛門風呂なんて入ったことがないから興味しんしんで、「熱い、熱い」って言いながら入ってました(笑)。
 その後、風の子学園事件(*2)をきっかけに全国子ども交流合宿を開くようになったんですが、そこにも「星のうさぎ」の方が来られてましたね。

西村 ええ、けっこう行っていると思います。シノブちゃん、マツオくん、ユウタくんとか。

奥地 うめざわしのぶさんには、このプロジェクトにも登場していただいています(#21)。私もひさしぶりに会いましたが、着物姿のすてきな女性になっておられましたね。


●こちらが学ばせてもらった

奥地 「星のうさぎ」の子どもたちとの出会いで、何か印象深かったことはありますか。

西村 先ほどお話したように、「この子たちは自分で何とかするだろう」と、こちらが考え方を変えると(変えるという言い方はおかしいですね、そう思えるようになったというのが正しいです)、けっこう人数も増えていきまして、にぎやかになりましたね。グループをつくって、こちらが学ばせてもらった。いろんなことを彼らが教えてくれました。

奥地 部屋があって、そこへ自由にやってきていいという感じなのでしょうか。

西村 そうです。自由に使っていました。センターは病院と同じ敷地内にあったので、体育館もあれば、運動場もあって、それは便利でしたね。

奥地 施設的には恵まれてますよね。そういうところに行っているということは、当時、学校からはどういうふうに見られていたんですか。

西村 グループを始めた当初は、やはりめずらしかったですからね。しかし、子どもたちがしっかりしてくるものだから、いろんな協議会で話したりだとか、こちらから県内の各地域をまわって、子どもたちによるシンポジウムを開いたりもしました。そういうことを通して、学校の先生方にも、少しずつグループのことが知れわたっていったように思います。

奥地 みんな、びっくりしたでしょう。不登校の子たちが自分の意見を持って、堂々としゃべっちゃうものだから(笑)。

西村 びっくりするなんてもんじゃなくて、批判されることが多かったですね。「シンポジウムに出るような子は特別な子で、多くの学校に来ない子はそういう子どもじゃない」とか。
 また、見学に来られることもあったんですね。そうすると、まあ、子どもたちは遊んでばかりでしょう(笑)。こっちで集まって遊んでるかと思えば、あっちではひとりポツンとマンガ読んでいる子がいて、でも、何かしようとなったら、声をかけて集まって始めたり、そういう感じじゃないですか。そういうようすを見て、帰り際にはたいていの方が「こうやって甘やかすから、学校に行かないで、ここ(センター)に来てるんだ」って、捨てゼリフを吐いて帰っておられました。

奥地 あはは(笑)。非常に苦しかった子が、なぜ、こういうふうに元気になるのかということが、わからないんですよね。それで表面だけを見ると、そういう言葉になる。

西村 甘やかしているからここに来て、学校には行かない。そういう理屈ですよね。おかどちがいですが。

奥地 まあ、東京でも、そういう批判はありました。ただ、親の方はわかるようになるんですよね。学校へ行かそうとしているうちは、子どもは苦しいし、親子関係がうまくいかない。イライラして家庭内暴力を起こすこともある。ところが居場所があると、そういうものがおさまっていって、落ち着いて元気になって、ニコニコしてくれるから、親はもうこれがいいんだって思うわけです。しかし部外者の方々はね、やっぱり甘やかしているという見方をするんですよね。80年代のころは、学校の校長から「東京シューレに行けるのなら学校にも来れるはずだ。なんでつれてこないんだ!」と、電話で怒鳴られたこともありました。


●センターには相談に行くな

奥地 ところで、精神保健福祉センターでは、親の方との面談もなさるでしょう。90年代ごろだと、どんな感じでしたか。

西村 最初は「かめの会」を始めて、その後、親の会を各地域につくっていって、県内6カ所につくりました。

奥地 では、かなりな方々とつながれたでしょうね。県のセンターということもあって、親の方も学校も、そういう意味では受けいれやすかったんじゃないでしょうか。

西村 ただ、学校は批判的でした。直接聞いたわけではないのですが、「子どもが学校へ行かないことになっても、精神保健福祉センターにだけは相談に行くな」という指令が出ていたという話を、ある親御さんから聞きました。

奥地 ほんとうですか(笑)。そういう時代と言うか。

西村 時代ですかねえ……。

奥地 精神保健福祉センターには、何年ぐらいお勤めなさったんですか。

西村 22年いました。

奥地 そうですか。話が脱線しますが、私も学校の教員を22年やって、シューレを始めたんです。22年には意味があるかもしれない(笑)。

西村 奇遇ですね。公務員はだいたい2〜3年から、長くても4〜5年で替わるんですが、22年いたというのは、僕しかいないんじゃないかな。全員調べたわけじゃないから知りませんが、まずいないと思います。久保先生と仲よくさせてもらっていて、転勤希望はない旨でずっとお願いしていて、そのための理由づけで、いろんな事業に取り組みました。精神障害者の方々の地域援助活動はもちろん、次々と事業を展開させて、認知症の心理リハビリなども実践しました。

奥地 不登校の本も出されてましたよね。

西村 はい。きっかけは、1992年の「登校拒否はどの児童生徒にも起こりうるもの」という学校不適応対策調査研究協力者会議の答申です。その部分だけが全国に知れわたりましたが、あの答申書自体はひどいものです。統一性もなく、いったい何が言いたいのかわからない。それで、その批判点をまとめたんです。
 その後、登校拒否を考える夏の全国合宿で、それを「かめの会」に発表してもらったんです。それを朝日新聞社の記者が聞きつけまして(実はふだんから懇意にさせてもらっていた記者の方だったのですが)、記事として扱ってくれたんです。その記事が掲載された翌日、地方公務員が国家公務員(文部省)を批判したということで、県が大騒ぎになりましてね。どかどかと県庁のおえらさま方がセンターにやってきて、「なんてことをしてくれたんだ」と、大問題になりました。「こんなことで、なぜ問題になるのか」とびっくりしたんですが、公務員だから問題になったんだそうです。しかし、そこでも久保先生が立ちはだかりまして、「いくら公務員だと言っても、精神保健福祉センターというのは研究機関である。相手がどこであろうと、問題と思ったことに対して是正提言することを妨げようというならば、研究に対する妨害である」と。それと、「文部省を批判したのではなく、答申を批判したものである」とも。わかったような、わからないような(笑)。

奥地 それを行政が干渉するのは、おかしいと。

西村 そういうことです。それで、ことは収まったんですが、それを聞きつけたのが、教育史料出版会の橋田常俊さんです。そこから『不登校の再検討』(教育史料出版会1993)という本ができたんです。

奥地 県の反応は、ひとつの反応でしょうけど、この本に対して、どんな反響があったのでしょう。

西村 反応はほとんどなかったですね……。少なくとも僕はそう思っているのですが、全国の親の会の方々からは、いい評価をいただきましたし、某○△研究所が来られたり、本を読んで不登校の相談に来られるということもありましたので、少しはアクセスがありました。

奥地 そうですか。センターでは、県外の人にも対応するんですか。

西村 来られれば、もちろん対応します。

奥地 それは、いまでもそうですか。なんとなく、県内の人だけかと思っていましたが。

西村 そういうわけではないのです。来られれば、それはどこのセンターでも拒まないと思います。


●センターを辞めて大学に

奥地 そして、その後、大学に移られたんでしたね。

西村 そうです。精神保健福祉センターは、業務の柱にこういう事業をやりなさいということはあるんですが、そのほか、自分たちの裁量でいろんなこともできたんです。「星のうさぎ」もそうだし、精神障害者の地域援助、アルコール依存・酒害対策、認知症対策、幼児自閉症への取り組みなどですね。幼児からお年寄りまで、さまざまな心の健康に関わる支援の研究を、毎日の相談診療業務も含め、しっかりやってきたつもりだったんです。そういうかたちを続けられるのであれば、僕はまだまだセンターにいたかったんですが、法律が変わったんですね。
 精神科医療では、たとえば不当入院だと訴える患者さんがいると、医療審査会で調査し、それが妥当かどうか判断する。あるいは、いま入院している人たちについて、病状報告書が病院から保健所経由で来るんです。これは、本庁の部署で対応していたんです。ところが、法律が変わって、精神保健福祉センターでやりなさいとなったんです。それは、ものすごい事務処理数になるんです。それでは、これまでやってきたような取り組みはできなくなってしまうんですね。そうすると、おもしろくない。だから、辞めようと。久保先生も辞めると言いだして、いっしょに辞めたんです。

奥地 そうだったんですか。なんで、同時に辞めちゃったんだろうと思っていたんです。

西村 ふたりとも、「こういう仕事をするためにセンターに来たんじゃない」という思いがあって、もちろん、とても重要な業務ではありますが、個人的には性に合わなくて……。
 それで、久保先生は開業する方向を選ばれたんですね。僕はどうするかと思っていたところ、渡りに船で、地元の宇部短期大学が4年制の大学を設置して、そこで精神保健福祉士を養成するコースをつくるので来てもらえないかという話があったんです。ある意味、これもなりゆきで、「ああ、行きます」と、ふたつ返事で引き受けました。

奥地 若い人を育てたいという思いがあって。

西村 ぜんぜん、そんな気はなかったです(笑)。あっ、いや、いまはちがいますよ。いまはその気持ち満々ですが、そのときは生活のためにということですね。だって、職を失うことになるわけですから。でも、おもしろくないことはやりたくないということは、子どもたちから教わったし、人生なりゆきで、何とかなるよと。

奥地 辞められたとき、センターが関わっていた親の会や「星のうさぎ」は、どういう状況だったんですか。

西村 申し訳ないことに、まだ続いていたんですが、できなくなってしまったんです。いろいろあって、結局、子どものグループは大学のほうに持っていくことにしたんですけれども、地域にある親の会やそのネットワークは、もう援助できないということになって、下関の「虹の会」、山口の「かめの会」、防府の「かたつむりの会」は、代表の方はじめメンバーの方々の尽力で存続していきましたが、岩国、萩、周南の会はなくなってしまいました。

奥地 でも、子どもの居場所は、大学でも可能だと考えられたということですか。

西村 そうですね。実は、そのころ大学で臨床心理士養成のために大学院をつくることになったんですね。臨床心理士を養成する大学院の認可を受けるには、1年前から臨床心理相談センターなるものを設置して、それを機能させなければならないという決まりがあるんです。だったら僕がやりますということで、同僚とふたりで相談対応に従事することになったんです。そこで、あらためて不登校のグループを始めたんです。これも最初は2〜3人からの出発だったんですが、その後、「星のうさぎ」と合流して、いまのグループに落ち着いたということです。


●チームで医療を

奥地 その後、クリニックも始められましたよね。

西村 いまから5年前、臨床心理相談センターの運営をやっていて、そこでも学校へ行かないという相談が多かったんですね。しかし、不登校の相談というのは40〜50年前からあるにもかかわらず、最初の相談って、たいてい同じですよね。「学校へ行きたがらないんですが、どうしたらいいですか」と。いまも昔も何も変わらない。
 それと、精神神経科領域の方々も来られるわけです。統合失調症の方も来られますし、もちろん医療が必要な場合は医療にまわしますが、強迫性障害、パニック障害、摂食障害、不安障害など、だんだん相談が増えていったんです。最近では、発達障害が多いですね。『猫も杓子も発達障害』という本を書こうかなと思うぐらいの状況です(苦笑)。○△障害と言われると、親御さんは医療に走るんですね。ひと昔前は、不登校でさえ医療機関へ「治療」を求めて群がった時代がありましたが……。

奥地 そうですね。

西村 ところが、すべてとは言いませんが、医療機関はちゃんと診ないじゃないですか。であれば、ちゃんと診ようと。心理職やケースワーカーが、うちにはいますから、協働するチームを組んで、ちゃんとした医療をやりたいと思いはじめたんです。それを大学を運営する法人に持ちかけたら、やろうじゃないかという話になって、クリニックを開設したということです。

奥地 学校法人がクリニックをつくったということですよね。その話を聞いて、びっくりしたんですよね。もしかしたら、東京シューレでも、がんばればできるかもしれない話だと思いましたが、大事なのは、お医者さんですよね。いまは、大学のなかに相談機能と医療機能を持っているということですよね。

西村 そうです。臨床心理相談センターとクリニックが同じ建物の中にあります。実際、診療に来られて、面接を受けたい、カウンセリングを受けたいという方は多いです。そういう場合には、協働して、どういうアプローチが最善かを考えて対応していく。逆に、臨床心理相談センターに相談に来られて、たとえば「眠れなくて困っている」と訴えられる方がいて、睡眠薬が必要という話になれば、クリニックで診てもらって処方してもらうとか、すぐ対応できます。
 僕の知るかぎり、来院される方は喜んでおられるようです。診療にも時間をかけますしね。悩みごとにも、心理士やケースワーカーがしっかり対応しますし。


●儲からないけど、いい医療を

奥地 東京では、過剰投与と言ってもいいくらいの投薬治療があったり、子どもは入院したくないと言っていても、入院させられていることもあります。夜昼逆転やゲーム漬けになっているからと病院が入院を提案して、親のほうも「入院させないと治らないですよね」と言ったりして……。いいお医者さんもいらっしゃると思いますけど、疑問に思うこともあります。そういう傾向については、どう感じておられますか。

西村 いま言われたようなことは、まだまだ根強く、広く、ありますね。それは、やはりまずいと思います。うちでは、そういう医療対応はしません。薬についても必要最低限にしています。ご本人に「この薬、まだいる?」とたずねたり……。飲むのは本人ですから。薬には主作用と副作用があるわけで、それを説明したうえで「飲んでみる?」と確認して、飲むという場合は、「飲んでみてどうだったかを聞かせてください」と言って処方します。それで「あんまり変わらないような……」と言うようだったら、じゃあ飲む必要ないかとなったり、場合によっては、「この薬はもう少し飲んだほうがいいと思います」と、医療判断で服用を勧めるということもあります。
 このクリニックの院長は、秋元隆志先生という精神科医ですが、臨床心理士でもあるんです。だから、よく患者の話を聞きますし、そのうえで、いま言ったような処方の話になります。
 しかし、他院から転院されてこられる方のなかには、大量に薬をもらっている人が来られることもあります。ただ、大量に薬を投与されてきた人は、いきなり薬を抜くとまずいんですよね。ですから、期間をかけて、いろいろ状況を確認しながら、減薬していくようにされています。

奥地 大学周辺だけではなく、広い範囲から来られるんですかね。

西村 けっこう、あちこちから来られますね。ただ、申し訳ないんですが、受診可能なのは1日30名ぐらいまでで、それ以上は予約を入れられないんです。30人を超えると、十分話ができなくなるので。

奥地 3分診療みたいになっちゃいますものね。

西村 そうなんです。そうすれば、うんと儲かるでしょうね。聞いた話では、東京では、めちゃめちゃ儲けているクリニックもあるそうです。うちでも、うまく心理職やケースワーカーと連携して、もう少し外来数を増やそうと考えてはいるんですが、なかなか儲けにはつながらないというのが実情で……。でも、いい医療をやりたいというのが基礎ですからね。

奥地 儲けるために始めたわけではないでしょうからね。

西村 そうです。もうひとつには、指導教員をつけて、本学学生の実務実習のクリニックとしても機能させているんです。学生にとって、いい実践学習になっていると、僕は思っています。我々の考えている医療・心理・福祉のチームとしての考え方を教えているんですね。

奥地 学生さんにとっては、何よりの学びになるでしょうね。大学に行かれてから、何年になりますか。

西村 16年目ですね。

奥地 もう、そんなになりますか。


●夏の全国合宿

奥地 2015年には、夏の全国合宿の開催を引き受けていただきましたね。これを引き受けてもよいと思ったのは、どうしてでしょう。もちろん、頼まれたからかもしれませんが……。

西村 いや、そういうわけでもなくて、チャンスだと思ったんです。教育や福祉の関係者はもちろん、一般の人たちにも広くPRすれば、日本の最前線の知識が得られると思って、しかも分科会もあって、グループに分かれて話もできるわけじゃないですか。ですから、広く呼びかけて、正確な現状を知ってほしいという思いがありました。

奥地 学生さんにもすごくよくやっていただきましたね。参加者の人たちからは、学生さんがお茶を立ててくれたとか、案内してくれたとか、評判でした。学生さんからの反応は、どういう感じだったでしょうか。

西村 みんな、とても勉強になったと言っていました。おもしろかったですよね。いろんなコーナーを設置して、プロが無料で施術してくれるエステコーナーには行列ができてましたね。子どもたち向けのプログラムだったんだけど、断然お母さん方のほうが多かったような(笑)。待合室もつくって、そこでコーヒーをふるまってましたが、コーヒーを担当した学生は1日中立ちっぱなしで、終わったときにはぐったりしてました。しかし、やっぱり勉強になったという声が、一番多かったなあ。

奥地 山口の実行委員会が、女優の樹木希林さんの話を聞きたいとおっしゃって、大丈夫かなあと思いながら頼んだら、引き受けてくださったんですよね。手紙を書いたら、夜中の11時ごろに、ご本人から「行くわよ」と電話がかかってきて。11時ごろの電話ってドキッとするじゃないですか。何か親族に何かあったのかなとか。そうしたら「樹木ですけど」って、もうびっくりしちゃって。あの講演もおもしろかったですよね。

西村 樹木希林さんのお話、すごくよかったですよね。おかげで、一般の方も、大会のプログラムにもぜんぶ参加したという方が多かったようです。おおぜいの人に来ていただけましたし、学校の先生方もけっこう来られていました。その後、あの大会にぜんぶ参加したという学校の先生と出会って、その先生は「とても勉強になってよかったです」とおっしゃいました。学校の先生からそんな話が聞けて、うれしかったですね。

奥地 そうでしたか。大会を開いていただいて、地域にも何か影響がありましたか。親の会の方々もけっこう来て、実行委員会にもずいぶん入っていただいていましたけど。


●一般的な関心は低いまま

西村 親の会の方々には結束して運営を支えていただきました。しかし、長年やっていて感じるのは、自分の身内あるいは親戚に、不登校やひきこもりの子がいらっしゃると、関心を持ってやって来られるんですけど、そういう経験をお持ちでない人は、ほとんど関心を持っておられないということがありますね。

奥地 そうですね。たしかに、一般的にはそうだと思います。

西村 先ほども申し上げたように、いまも昔も親御さんの相談って、最初は「学校へ行かないんですが、どうしたらいいでしょう」ということですね。もちろん、親御さんにとっては初めての経験で不安だとは思います。でも、失礼ですけど、こちらからすると、うんざりというか(笑)。こちらは、先輩の子どもたちから、どのようにして自分の人生をつくってきたか、教えられてますからね。6・3・3・4制というシステムにこだわらない別の生き方があっていいわけで、その組み立てを構築する支援をすればいいというのが、頭にあるわけです。それで、よくきくんですね、「ところで、東京シューレって知っていますか?」と。

奥地 山口でですか。

西村 はい。でも、知らないんです。そこから始まるんです。「東京シューレというのはですね……」と(笑)。もちろん、知っておられる方もいらっしゃいますが、多くの方は知らないんです。

奥地 しかし、山口と東京では、あまりにも遠い話ではないですか。

西村 近いものですよ。飛行機だったら1時間半です。僕の家から萩市へ行くより近いんですから(笑)。これまで、こういう実践があり、我々もこういう実践をやってきて、いろんな先輩がいる。そういうエピソードがたくさんあるわけですよね。
 学校を通るのとは、ちがった生き方、もうひとつの生き方、新しい生き方、いろんな言い方はありますが、学校が人生のすべてじゃなく、つまりは多様な生き方があるんだと。そういう実態のことを先に提示するんです。そして、「そういう考え方で対応しますが、相談を続けられますか?」と確認します。「そういう話ならけっこうですということであれば、ほかの機関を紹介します」と。しかし、そこで「ほかの機関を紹介してください」と申し出られた方はありません。むしろ、「あっ、そういう生き方もあるのか」って思われるみたいです。
 それと、子どもさんがいっしょに来られると、子ども自身は、半信半疑ながら少し安心されるようです。親御さんが「う〜ん」とか言っていても、子どものほうは目が輝いてきたりする……。

奥地 そうやって生きていけるんだとさえ、わかればね。だけど、情報が届いていないんですよね。ほとんどの親御さんは、子どもが学校に行っているあいだは関心がないから、行かなくなって切実な問題になって初めて、「ああ、学校以外もありだったのか」と知るというところがありますね。
 山口の大会では、「星のうさぎ」の卒業生たちでシンポジウムも開いて、学校へ行かせようとして布団叩きで叩かれた話とか、昔のたいへんだった話もいろいろ出ましたね。西村さんも、ひさしぶりに会われたんではないですか?

西村 いや、毎年、同窓会をやっているんです。今年の正月は、どういうわけかなかったですが、わかっている範囲では、都合のつく人はだいたい集まってきます。

奥地 子どもどうしも、つきあいが長いですね。シューレでも、初期の子たちは、もう40代ですけど、ときどき会って、飲んだりしているみたいです。

西村 そうですね。同窓会だけではなくて、日ごろから誘い合って遊びにいったり、飲みに行ったりしているようですね。


●ひきこもりと被害者学

奥地 西村さんは、ひきこもりについても、よくお話しされてますね。いま、不登校については見方が変わってきたところもありますが、ひきこもるのは心配という声はありますよね。そのあたりでは、どうお考えでしょう。

西村 不登校・ひきこもりというのは、表面上はつながって見える場合もありますが、基本的な構造はちがうと思っているんですね。
 精神保健福祉センターにいたころ、県警からの要請で「被害者支援センター」なるものをつくったんです。犯罪や災害で被害に遭われた方の支援をするという組織なんですが、この活動を通して被害者学に出会いました。被害者学の考え方というのは、とてもすっきりしていて、支援の方向が明確なんです。この考え方をひきこもりにあてはめて理解すると、とてもわかりやすくなるんです。
 彼らは、やっぱり傷つけられているわけです。被害者といっしょです。被害に遭っているわけです。そうすると、感情のコントロールがうまくできなくなるし、日常生活においても、これまでできていたことができなくなったり、また状態像としてはうつうつとした気分に支配されてしまう。そういうふうに、さまざまな変化を起こすようになります。極端に思われるかもしれませんが、たとえば地下鉄サリン事件の被害でも、震災被害でも、被害の経験のあとは、さまざまな急性ストレス反応が起こります。それが慢性化して、PTSDのような状態になっている方もいらっしゃいます。いずれにしても、その原点には、自分では対処できない衝撃的な事件、あるいは事故があるんです。
 これに対して、まわりがどう対応しているかというと、ある意味、不登校といっしょなんです。本人は、衝撃的な出来事に遭遇して疲弊してしまっているにもかかわらず、「いつまでもボヤボヤしてないで、根性を持ってやらないとダメじゃないか」などと言うんですね。深く傷つけられて心身が疲弊しているということに目を向けない。これを被害者学では、二次被害あるいは二次受傷と言います。
 たとえばマラソンランナーが骨折したとしますね、そこで「骨折したくらいで休まず、根性で走れ」とは言いませんよね。骨折が治ってから走ればいいと思いますよね。心の傷も同じで、癒すことを大切にしなきゃいけない。ひきこもりについても、僕はそう考えるようになったんです。そういう関わりというのは、たしかに時間はかかるんだけれども、心の平穏を取りもどしてから、そこから初めて着実にこれからの自分を描き始められる。これまでの関わりから、そのことに気がついたので、やっぱり癒すことが先なんだと確信を持ちました。


●そっとしておいてくれてありがとう

奥地 そこに気づかれた、具体的な出会いについて教えていただけますか。

西村 よく、ひきこもっていると何も考えてなくて、ただ、ひたすらじっと無為に過ごしているように思う人がいますけれど、とんでもない話で、ものすごくいろんなことを吟味している。そういう経過のなかで、ある日から、何かを志向し始める。彼らの言葉で言うと、「タイミングがある」と言うんです。
 ある方の例をかいつまんで話しますと、ひきこもっていたところ、病気になって入院したんですが、そこで恋をするんですね。それで結婚を夢見るようになるのですが、結婚するには経済力が必要だというので、就職活動を始め、ようやく就職にこぎ着けて、そこでプロポーズした。そうしたら、彼女はそれを受けてくれて、結婚にいたった。その結婚式での話なんですが、一通り式典が終わったところで、突然、彼が「両親にひとこと言いたい」と言ったんだそうです。そして、マイクを持って両親に向かって「ひきこもっているあいだ、そっとしておいてくれて、ありがとう」と言ったんだそうです。

奥地 ほう。

西村 結婚式のみんなの前で、ですよ。どうしても、感謝の意を伝えたかったんでしょうね。すごいエピソードだと思いました。

奥地 そうですね。そのご両親は、そういう考え方や対応の仕方を、どこから学んだんでしょうね。ご自分で考えられたんでしょうか。

西村 僕のところにずっと来ておられたんですが、「ひきこもって、どうすることもできない状態なんですが、いったいどうしたらいいんでしょう」と相談されるわけです。しかし、僕は、正直に「わかりません」と答えるしかありませんでした。だって、わかりませんから。それだけです。だから、自分で考えられたんだと思います。

奥地 まあ、よけいなおせっかいをしなかったということですよね。

西村 そうですね。僕も「そうっとしておきましょう」ぐらいのことしか言えなかったように思います。ですから、「頼りにならない」「あなた、専門家でしょっ!」って、よく叱られたものです。いまは、そのお母さんと仲がいいですけどね。
 その結婚式のあと、そのお母さんと会ったとき、「そっとしておいたことが、ほんとうによかったんですねえ。そっとしておくといっても、放っておいたわけではないんですよね」ときいたら、「当たり前じゃないですか」って、また怒られてしまったんですが(笑)、お母さんは「親としてできることはないか」と、一生懸命、考えたそうです。まったく両親をシャットアウトしていましたからね。食事も部屋の前に置いて、彼はそれを食べて食器を出しておくといった生活で、3年間、一言も会話してなかったんです。でも、母親がつくる食事だけは食べてくれていたわけですよね。それで、「どういう食事をつくったら、おいしいと食べてくれるだろうか」「明日どういう献立にしたら喜んでくれるだろうか」と、そればっかりを考えた3年間だったとおっしゃってました。

奥地 それは、すごいですね。それは、本人にすごく通じていたと思いますね。

西村 通じたんだと思います。僕も、これこそが癒しなんだと思ったんですね。癒すことが大切というのは、そういうことなんだろうと僕は思っています。しかし、こういう話をしても、大方の場合は「じゃあ、明日から食事をつくればいいんですね」みたいな話になりましてね。いやいや、そういう話じゃないんですけどって思うんですが……。


●自分の価値観ができた

西村 別の方では、ある日、突然「精神病院に入院させられる」と言って、精神保健福祉センターに飛び込んできた人がいましてね。この青年は、ひきこもっていたところ、親御さんが心配して病院に相談に行くんです。そうしたら、病院が強制的に入院させるんですよ。病院側は「君、合宿しよう!」とか言って、数人で彼を押さえ込み、注射を打って眠らせて病院につれていったそうです。
 しかし、とくに精神的な症状があるわけでもないし、1〜2カ月で退院になるんですね。しかし、主治医から「この1カ月のあいだに就職するかバイトするか、何か社会活動ができなかったら再入院すること」と言いわたされ、そういう条件での退院だったんです。彼は、入院はしたくないということで、一生懸命バイトをするんだけれども、精神的に疲弊していると、なかなかうまくいきませんからね。結局、バイトも続かないままに日が過ぎていって、受診の日を迎えた。それで、「入院はもうしたくない。何とかならないか」と訴えて、精神保健福祉センターに駆け込んできたというわけです。

奥地 なるほど。

西村 彼はね、「1年半ひきこもっていたけれども、もう半年ひきこもっていたら、何か見いだせていたように思う」と言うんです。やっぱり、そこで一生懸命、何かに向きあって考えていたと思うんですね。

奥地 それが途中で断ち切られた感じになったのね。

西村 そうなんです。それで、僕は「いま一番したいことは何ですか」と尋ねたんです。そうしたら、彼は「ひきこもりたい」と即座に応えました。そこで、僕も「じゃあ、帰って、ひきこもればいい」と応対したものです。しかし、「ひきこもったら、また入院させられる」と不安を訴えるので、「そのときは、すぐに連絡してくれればいい。精神保健福祉センターで何とかする」と約束を交わして、彼は帰路につきました。
 その後、連絡がなくなって、どうなったのかもわからなかったんですが、5年過ぎたころに、彼がやってきたんです。「その節はお世話になりました」と、礼を言いに来てくれた。それで、その後の事情をきいてみると、さすがに入院はしなくてすんで、1年半くらいひきこもっていたそうです。その後のことは、くわしく言うのは恥ずかしいということでしたが、ある業務を自分の仕事として生きようと、そういう気持ちが固まったんだそうです。それで東京に出て、ある業界のアシスタントをやっていると教えてくれました(たぶん、話しぶりから放送業界じゃないかなと思うんですけどね)。それで、帰省した折に、ちょっとお礼を言いに来てくれたということでした。うれしかったですね。そのとき、「ひきこもってよかったこと、あるいは悪かったことは何かありますか」ときいてみたんです。そうしたら、「ひきこもって、まずかったと思えることは、友人がいなくなったこと」と言いました。ただ、「友人というのは、一生かけてまたできていくものだ」とも言いましたけどね。それから、よかったことは何かというと「いまの社会の価値観にまどわされない、自分としての価値観ができました」と言ったのです。これには、また教えられましたね。

奥地 それこそ、本質ですよね。

西村 彼のこの言葉で、僕は、ひきこもることには大切な意味があると思うようになったんです。ほんとうに教えてもらったと思います。

奥地 そうやって、ほんとうに生きた事例から学んで、こちら側も気がつくとか、考えを深めることができることって、ありますね。

西村 だから、ひきこもっていることを意味あるものにしないといけないわけです。それをまわりが否定的につついているわけで、それは由々しき事態だと、僕は思います。

奥地 そうですね。邪魔したり、断ち切ったりね。


●安心すると先を考えられる

西村 いま、ひきこもりの親御さんのグループもやっているんです。ひきこもりのご家族の方は、そうは言っても、やっぱり心配な気持ちでおられるじゃないですか。それで、この会には、以前ひきこもっていたという青年たちも数名参加してくれているんです。彼らが、親御さんのわが子についての不安を、自分のひきこもった経験を通して、代弁、説明してくれるんですね。

奥地 当事者の言葉が、一番、親に届きますよ。

西村 たとえば、親御さんがひきこもるわが子に辛辣なことを言ってしまったとするじゃないですか。それで「子どものほうはどう受けとめているんだろう」と話されたりすると、彼らが、その青年の気持ちになって翻訳してくれるんです。そういう場ができていて、実に勉強になります。大学の僕の部屋でやっているので14〜15人が限界なんですが、いっぱいになることもありましてね。でも、広いところよりも狭いところのほうが、話が凝縮しますね。そこでの僕の立場は、たんなる黒子で、黙々とコーヒーをふるまったりしてます。もちろん、質問があれば、僕のわかる範囲でお応えすることはありますけど、基本は耳を傾けるだけです。そして、ここでも経験するのですが、親御さんが安定してくると、ひきこもっている青年も安定してきますね。

奥地 それは、不登校といっしょですよね。周囲の理解がとても大事で、安心できなければ、人生を自分ながらに歩くのは難しくなるので、安心してひきこもれることは大事だと思います。

西村 そうですね。安心すると、本人たちの動きが少し変わってくるんですよ。先だって、なぜか船舶の1級免許を取ったという青年がいました。1級免許って難しいですよ。それまでひきこもっていたんですが、親御さんの話では「漁師になるんだ」と言っていたそうで、まだ、なってはいませんが、穏やかになってくると、そういう模索というのか、先の自分がイメージできるようになるのかなと思いますね。

奥地 しっかり充電できると、また何かのきっかけで、ちょっと予想していないような動きがどんどん出てくるというのは、よくありますね。

西村 あるお母さんは、例会に来てくれているひきこもり経験者の青年たちと出会って、それだけで安心したと言っておられました。子どもを見る目が変わってきたとおっしゃるんです。

奥地 ひきこもりも、当事者が発信するようになっているじゃないですか。それが大きな意味を持っていると思いますね。私たちはそれを紹介しているようなものです。当事者の話が、何よりわかりやすいし、理解がちょっと広がることにもなる。それは、不登校もひきこもりも共通してますよね。

西村 そうですね。


●社会が変化するには

奥地 不登校の話にもどりますが、以前は問題行動とされてきたのが、いまは文科省が「不登校は問題行動ではない」と通知したり、学習指導要領の総則にも載ったりするようになりました。その変化のベースには、教育機会確保法があると思いますが、そのあたりは、どう見ておられますか。

西村 僕は、あの法律はとても大切だと思っています。もちろん賛否ありますし、細かく言えば、僕にも言いたいことはありますよ。でも、基本的には賛成なんです。ベースになる法律がなければ、社会は変化しないですからね。
 それは、精神障害者のことに長く関わってきた経験からもそう思います。精神障害者のデイケアも、1975年の厚生省(当時)の通知から始まったんです。それと前後して、東京では「あさやけ作業所」ができて、僕らも共同作業所をつくったという話をしましたね。しかし、当時は法的な枠組みはなかったので、当然、補助金も出なかった。そこで、厚生省の社会復帰促進事業の通知を頼りに、その延長線上で取り組んでいる作業所の実状を説明し、「いまは家族がお金を出しあって運営しているけれども、そういうかたちでいいのか」と、運営資金の必要性を訴えたんですね。それで、山口県が単県で補助金を出すことが決まったんです。東京も単独で助成金を出していました。松浦幸子さんがやっておられるクッキングハウスも、そういう活動をされたものだと思います(本プロジェクト#26参照)。
 当時、全国精神障害者家族会連合会(*3)があって、全国に共同作業所をつくっていこうという運動を始めたんです。こういう言い方がよいかわかりませんが、やっぱり政治がらみだとうまく進むんですね。政治を巻き込まないと変化が起こらない、それをどう捉えるかは、いろいろ意見はあると思いますが、その結果、国レベルで制度ができて、全国でやっている作業所に助成金がまわるシステムができあがりました。
 ところが、小泉内閣のとき、突然、デイケアや共同作業所の助成金をすべて打ち切るということになったんです。これには仰天しました。そして、2005年に障害者自立支援法が成立します(施行は2006年)。あのとき、精神障害者の支援に関わっていた者は、このままでは地域の精神障害者の支援活動がつぶれていくと、いっせいに批判の声を上げました。
 しかし、法律というのは使いようで、また、法律そのものも活動によって変えていくこともできます。紆余曲折はありましたが、結果、自立支援法をベースにして、従来の共同作業所の主宰者はがんばって、どこも法人格をもつようになって、大きくなっていくんです。支援事業の規模によってちがいはありますが、人件費も取れるようになり、拡張できるような仕組みになったんです。だから、当初は僕もボロクソ批判しましたけれども、結果、法律も実情に合わせて変化していくものだし、うまく使えば展開させていけるものだと思うようになりました。
 障害者自立支援法も、成立時から順次、実情に合わせて変貌してきたんです。当初の法律では対応できなかった発達障害者の方も支援の対象に含まれるように改正されましたし、難病患者の方々についても支援の対象者として新たに加わることができるようになりました。また、理念としても「自立」を核として謳うことはノーマライゼーション、つまり「共生」理念に反するという理由から、「自立」を削って、「基本的人権を享有する個人としての尊厳」と明記して視点を変換し、いまの障害者総合支援法へと展開・変容してきたんですね。こういうかたちで推移していくなかで、全国的に、支援施設や諸事業が拡がっています。法人格をとる必要はありますが、就労継続支援A型事業所、B型事業所、就労移行支援事業、地域生活支援事業など、いろいろな事業が、この法律でできるような仕組みになったというわけです。

奥地 根拠になる法律がいるということですよね。今までは、不登校支援の法律はいっさいなく、不登校はあってはならないもので、学校へもどしましょうということだけだった。だけど、実際には不登校の子はいるわけだし、憲法上も、その人たちの学ぶ権利を保障する必要がある。30〜40年かかって、やっと支援する必要があるということを国が認めてきた。もちろん充分なものではないけれども、根拠法ができたので、そこから少しずつ変えていくことで、拡げていきたいと思っています。


●本来あるべき法律に

西村 僕の理解では、義務教育だから、国や自治体がめんどうをみるのが当たり前で、その基本を残さないと体裁が保てないということはあるんだと思います。だけど、それだけでは全体を網羅できないはずなんです。それで、文科省もフリースクールの調査をやっているんじゃないですか。

奥地 フリースクール調査は2015年に行なわれました。これは、国も実態を把握しないと、どう支援していいかわからないということから行なわれたんです。こちらも支援を引き出したいですから、協力しました。国は、学校だけを見ていたわけで、学校の外の情報はわからない。それで、ネット情報とか、ガイドブックとかで情報を集めて、私たちも提供しました。

西村 それがフリースクール支援のベースになると僕は理解しているし、そういうふうにしないといけないとも考えているんです。これからの、本来あるべき確保法をにらんでの活動なり運動が必要じゃないかなと思っています。

奥地 教育機会確保法は2016年12月に成立して、3年で見直しとなっているんですね。それで、先日もフリースクール等議員連盟の幹事長のところへも行きました。とにかく、もうちょっと進めたいと思っています。


●教育委員会は柔軟に

西村 各学校の対応はまだまだですが、教育委員会のほうは、けっこう変わってきましたよ。

奥地 やっぱり変わってきましたか。それは非常によかったなと思います。どういう感じですか。

西村 以前より協議会は開かれていたんですが、悪く言うと、協議会のための協議会という感じだったんです。それが、ちょっと本腰を入れてきまして、ある教育委員会では、従来からある適応指導教室のようなものではなくて、各地域をまわる「巡回フリースペース」を試行していました。開催頻度は少ないんですが、その理念は我々と共通してまして、遊ぶ、ゆっくり休む、楽しく過ごしてもらえる場の提供というものです。家にじっとしているのだったら、たまには何かおもしろいことをしてみようじゃないかと。ゲーム大会でもいいし、とか。最初は、書道やろうかとか、山登りをしようかとかいう意見でしたが。

奥地 書道では、子どもは寄りつかないですよね(笑)。

西村 そうですね。でも、教育委員会も四角四面じゃなく、ずいぶん柔軟な思考になってきたなと感じます。

奥地 公民連携は、全国的にいろんな動きが起きていて、東京シューレでも適応指導教室と契約することになりました。北区から、「適応指導教室には子どもたちが来てくれないし、空気が固くて困っている。シューレさんに入ってもらって、民間のノウハウや知恵を活かして、そういう状況を変えてもらいたい」という話があったんです。いま、親の会を始めたり、それまで来ていない子どもたちに居場所を提供し始めて、先日、ひとり来ました。たぶん、だんだん増えると思います。
 それから、世田谷区では、適応指導教室の新しい建物を立てています。その運営を民間にまかせると言っています。北区は一部の委託なんですが、世田谷区は1カ所全体をまかせるという話です。ただし、面接で最初に子どもに会うのは、世田谷区の職員がやるんですが、来たい子はぜんぶ自由に受けいれて、内容は民間にまかせて、委託金を出すと言っています。
 あるいは、横浜市でも公民の連絡協議会があったんですが、そこには目的があって、これまでは「学校復帰」と「社会的自立の応援」というふたつが入っていたのが、先日、「学校復帰」の文言は削除されることになりました。
 それと、学校の先生方の養成研修で、多様な学びについて話してほしいという依頼もあります。あるいは、先日は、私たちの集会に文科省の課長に来てしゃべってもらいました。「どう変わる不登校施策」というタイトルで、これまでの不登校施策がどう変わってきたかを話していただいて、教育機会確保法のことも話してもらいました。警戒心を持って聞いている人たちもいましたが、話を聞いたら、「ほんとうに変わってきたんですね」と言う方もおられました。実際に話を聞くと、非常にいい方向に来ていて安心したと。

西村 長いスパンで見ると、変わっていますよ。

奥地 そう、変わっているんです。問題行動だと言っていたのが、問題行動じゃないというわけだから、180度の転換ですよね。そういう時代になって、不登校を受けとめていく考え方も、だんだん広まってきています。
 そういう意味では、山口県の精神保健福祉センターは進んでいたと思います。西村さんたちの活動が、だんだん寛容な雰囲気をつくってきて、ようやく、仕組みになろうとしている。

西村 仕組みは、やはり大切にしたほうがいいと思います。


●時間はかかるけれども

奥地 でも、時間かかりますね。精神障害者のことについても、ずいぶん時間をかけて変わってきたわけですものね。

西村 もちろんそうですよ。1975年の通知から、2005年の自立支援法成立まで何年かかったことか。不登校も同じような歴史じゃないですかね。

奥地 最近、優生保護法のことがニュースになっていますね。長年、強制的な不妊治療がなされてきて、裁判になっている。そこまで、50年ぐらいかかっているんですね。その治療に携わっていた医師がテレビに出ていて、「恥ずかしながら、僕はその手術をやっていた。当時は、自分の生活さえうまくできない人が子どもを産んでどうするんだと思って、これは福祉なんだ、いいことをやっているんだと思ってやっていた。しかし、いま考えたら、恥ずかしい」というような話をしていました。50年前の社会の認識で当たり前だと思われていたことが、いまは変わってきている。それはひどいと思えるようになっているんですよね。社会の感覚が変わった。
 それを考えても、社会の観念や価値観が変わるには、すごい時間がかかるんだなあと思います。不登校でも、戸塚ヨットスクールへ行って当たり前、病院へ入れられて当たり前という時代があって、だんだん、そんなのおかしいという考えに変わってきている。まあ、まだまだなんですけどね。

西村 精神障害では、ロボトミー手術というのがあって、前頭葉白質を切除するということが、当時は当たり前のように行なわれていました。考案したポルトガルの医師モニスはノーベル賞をとってますからね。時代って、怖いですよね。

奥地 そうですね。人の考え方というか、社会の多数の人がどう考えているかというのは、ものすごく大きな問題なんですよね。不登校も、早く「不」とか言われないようになってほしいなと思っています。

西村 そうなるでしょう。教育機会確保法ができて、今後は、かなり早く、いろんな施策が出てくるんじゃないでしょうか。

奥地 学校以外の教育を法律で認めたのは75年ぶりのことで(*4)、やっとです。でも、まだ二重籍は解消していません。東京シューレに来ている子は、東京シューレと学校と二重に籍を持って、親はそういうかたちで就学義務をはたさなきゃいけない。そこを選べるようになって、義務教育が多様な制度になれば、ほんとうに選んでいることになると思います。いまは、まだ学校へ行けない子たちが選ぶという流れですね。

西村 おっしゃる通りです。そこが変わると、ぜんぜん、おもしろくなると思います。

奥地 そこまで持っていけるかどうか、まだ難しいですけど、いずれは動かしていきたいと思います。今日は長時間、ありがとうございました。

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*1 情緒障害児短期治療施設:1961年の児童福祉法改正で定められた施設(開設は1962年から)。当初は学校恐怖症(不登校)や年少非行児童のメンタルケアなどを目的とし、12歳未満を対象としていた。しかし、近年は児童虐待への対応が求められるようになり、現在は在籍児童の7割以上を被虐待児が占める。また、約3割が広汎性発達障害の児童となっている。2016年の児童福祉法改正で、児童心理治療施設と名称変更された。2018年現在、全国に50施設できている。

*2 風の子学園は、広島県三原市の小佐木島にあった、非行や登校拒否などの「問題行動」の更生を目的とした民間施設。1991年、入所していた当時14歳の男性と16歳の女性が、手錠につながれた状態でコンテナに監禁され、死亡した。坂井幸夫学園長(当時67歳)は監禁致死罪で起訴され、1997年、一審(広島地裁)で懲役5年の有罪判決、控訴および上告されるも実刑が確定した。

*3 全国精神障害者家族会連合会:1965年に結成され、活動してきたが、2002年に補助金の目的外使用が発覚し、返還命令を受け、2007年に破産・解散した。

*4 明治12年(1879年)の教育令第17条は「学校ニハイラスト雖モ別ニ普通教育ヲ受クルノ途アルモノハ就学ト做スヘシ」となっている。また、明治33年(1900年)の小学校令第36条は「学齢児童保護者ハ就学セシムヘキ児童ヲ市町村立尋常小学校又ハ之ニ代用スル私立小学校ニ入学セシムヘシ但シ市町村長ノ認可ヲ受ケ家庭又ハ其ノ他ニ於テ尋常小学校ノ教科ヲ修メシムルコトヲ得」となっている。1941年の国民学校令の施行までは、学校外の教育が法的に認められていたと言える(本プロジェクト#25永井順國さん参照)。
posted by 不登校新聞社 at 15:02| Comment(0) | 心理関係
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