2018年09月04日

#46 山田潤さん

yamada.jpg

(やまだ・じゅん)
1948年、岡山県新見市生まれ。京都大学文学部を卒業後、松原専修職業訓練校で板金工作を学び、72年から77年まで吉田板金工作所に勤める。77年、今宮工業高校の定時制課程の英語科教員に。91年、「学校に行かない子と親の会(大阪)」を立ち上げ、世話人代表を務める。98年の不登校新聞創刊時から2002年まで、全国不登校新聞社の理事を務めた。98年から2014年まで関西大学非常勤講師。訳書に『ハマータウンの野郎ども』(ポール・ウィリス/熊沢誠、山田潤訳/筑摩書房1985)、『大英帝国の子どもたち 聞き取りによる非行と抵抗の社会史』(スティーヴン・ハンフリーズ /柘植書房新社)。

インタビュー日時:2018年7月27日
聞き手:山下耕平、貴戸理恵、栗田隆子、田中佑弥
場 所:ココナッツハウス(大阪市)
写真撮影:山下耕平
--------------------------------------------------------------------------------
→PDF(組版データ)をダウンロード  46futoko50yamada.jpg
--------------------------------------------------------------------------------

〈テキスト本文〉

山下 2年半にわたった、このプロジェクトを終えるにあたり、関東チームでは奥地圭子さんに、関西チームでは山田潤さんにインタビューすることになりました。よろしくお願いします。まずは、山田さんの子ども時代のことからうかがいたいと思います。

山田 私は、1948年、岡山県新見市唐松で生まれました。父方の祖父が唐松小学校の校長だったのをはじめ、一族みな教員で、父も小学校の教員でした。父は敗戦時に台湾から命からがら復員して、戦後は農地解放運動や新見市政の民主化運動などにも取り組んでいたのですが、レッドパージで唐松に住めなくなって、1951年、私が3歳のときに、夜逃げ同然で大阪府寝屋川市に出てきたんです。母親が私と産まれたばかりの弟をつれて、ほんとうに無一物で出てきた。持っていたのは、毛布と鍋ぐらいです。住んだのは、四畳半ほどの農家の納屋のようなところで、台所も便所も押し入れもなくて、たったひとつの家具は、割れた丸いテーブルをつなぎ合わせたちゃぶ台でした。
 レッドパージのなか、どうやってもぐりこんだのかわかりませんが、父は寝屋川でも小学校の教員に職を得ました。しかし、かなり貧しい暮らしで、当時、母親がどうやって炊事していたのか、ようわからんのです。たぶん庭に七輪を出して、そこで煮炊きしていたんだと思います。ただ、当時は、ほかにも似たような貧しい環境で暮らしている子はいっぱいいましたから、私や弟には、貧乏に苦しめられたという記憶はないんですね。

山下 お父さんが、家に貧しい家の子をつれてきていたとおっしゃってましたね。

山田 修学旅行の前には、かならずと言っていいほど、クラスの子どもをひとりつれてきて、風呂に行かせて、古着を買ってきて、身づくろいをさせてから修学旅行につれていっていました。

山下 山田さんの小学校時代は、1950年代ということになりますかね。

山田 小学校入学が1954年です。小・中学生のあいだに、寝屋川市内で4回引っ越しをして、そのたびに少しずつ暮らしぶりはよくなっていきました。3回目の家は左官屋さんの離れで、弟とふたりで便所の汲み取りをしていたのを覚えてます。バキュームカーが来る前のことで、母親に50円やるよと言われて、汲み取りをして近所の野壺に入れてました。それを農家の人が肥料にするわけですね。
 それと、子どものころはぜんぜん勉強をしたという記憶がないんです。とにかく遊びまわっていました。当時は、家の近くには信号がひとつもなかったんです。中学生のとき、全校生徒が集められて、「交通信号がつきます。これはどういうものかというと……」と、寝屋川署のおまわりさんが来て説明していたのを覚えてます。そういう状況だったので、あちこちに子どもの遊ぶ基地があって、とにかく遊ぶことがいっぱいあった。親にも、勉強しろと言われた覚えはなかったですね。
 学校も、農繁期にはたくさんの子どもが休んでました。まだ、多くの家では、生活と仕事が結びついていたんですね。

栗田 山田さん自身が休むことは?

山田 僕はずっと皆勤で、小・中・高と、生徒会長をやったり、送辞も答辞も読むような生徒でした(笑)。

山下 当時は、学校が文化に接する唯一の場だったとおっしゃってましたね。

山田 ほんとうにそうでした。最初に映画を観たのも学校だったし、レコードを聴いたのも、テープレコーダーに自分の声を入れて聴いたのも学校でのことで、文明の利器はすべて学校にあった。図書館には本がたくさんあるし、狭い家にいるより学校にいるほうが確実に落ち着いた。そういう子は、私だけではなくて、たくさんいたと思います。
 ただ、当時の教師はぜんぜんダメだったと思います(笑)。受け持ってもらった先生のなかに、あれは立派な先生だったというような人は、ひとりもいなかったですね。それでも、子どものほうから学校の「聖性」のようなものは感じていて、秩序としては成り立っていたんだと思います。

●そんなもの知るか

山下 北村小夜さんは、学校は1958年にガラッと変わったとおっしゃっていました(本プロジェクト#22参照)。この年に、教員への勤務評定が始まり、学習指導要領が試案から基準になり、就学時健診が始まった。山田さんの実感としては、どうでしたか?

山田 あまり、変わったという実感はなかったですね。日本の文教政策の節目が重要な意味を持つことはあると思いますが、当時は、いまほど中央の意向が各地に届くことはなくて、「そんなもの知るか」とかなり自由にやっていたと思います。ですから、一方には封建的で戦前の雰囲気を引きずっていた学校があり、一方には、組合の教員が好き勝手にやっている学校があった。
 私が1977年に定時制高校の教員になったときでも、大阪のかなりの高校は組合管理だったんです。教員は自由出退勤だし、組合の中央委員会なんかも授業時間に堂々と開かれて、その案内を校内放送で流すんです。組合活動で授業を抜ける先生には補講の段取りがついていた。いまはありえないですね……。

山下 山田さんの中学校時代は、どうでしたか?

山田 中学校からは、だんだん高校入試を意識する感じはありました。当時は偏差値なんてものはなかったんですが、1年生の2学期に業者の模擬テストを学校が校内で実施して、私は学年で1番だったんです。クラスのなかでも「山田が1番らしいぞ」と、ざわついた感じがあって、そのとき初めて、席次というものを意識しました。ただ、それは喜ぶというよりも、ものすごく複雑な感じだったんです。ところが、家に帰ったら、親父がものすごく喜んでね。僕のほうは、「そんなガリ勉になったのか」と叱られるんじゃないかと思っていたので、逆にびっくりしました。いまから思えば、彼なりに苦労してやってきて、自分が果たせなかったものを、こいつが果たしてくれるんじゃないかという思いもあったんだと思います。

貴戸 小・中学校時代の勉強は、山田さんにとって知的好奇心を満たすものだったんでしょうか?

山田 小学校のときは、とにかく遊んでいましたね。ただ、親父が組合の活動家で共産党員でもあったので、非常に貧乏な家にもかかわらず、家にはレーニン全集がそろっていたりしました(笑)。親父は労働組合の活動家として、一生懸命「学習」していたんでしょうね。

貴戸 それを読んでいたんですか?

山田 まじめに読んだのは、大学に入ってからです。ただ、小学生のころから新聞はよく読んでいました。百科事典もあったので、教科書でわからないことがあると、引いて調べていたりしていましたね。

山下 いわゆる文化資本はあったわけですね。

山田 そうですね。ですから、定時制高校の教員になって家庭訪問に行って、本らしい本が1冊もない家があるのはショックでした。

栗田 中学校の同級生で、中卒で仕事に就く子もいたんですよね。

山田 1クラスに60人近くいるなかで、20人は中卒で就職していました。

山下 就職する子たちの家庭状況は、どんな感じだったんでしょう。

山田 農家だけではやっていけなくて、兼業で日銭を稼ぐような感じでしたね。農地解放があったとはいえ、零細な農家が多かったと思います。

山下 貧しくても、ほかも貧しかったから苦しかった覚えがないとおっしゃっていましたが、そのあたりで階層差を感じることはあったんでしょうか。

山田 あまりなかったですね。うちもたいがい貧乏で、小学4年のとき、初めて家に便所ができて、寝起きしているところから便所に直接行ける、自分たちの家族だけで便所が使えることが、とてもうれしかった覚えがあります。
 それと、当時は高校のランクなんて意識はなくて、トップの成績をとっていた子たちも、地元の寝屋川高校に進学していたんですね。

山下 しかし、山田さん自身は、地元の寝屋川高校ではなくて、四條畷高校に進学されたんですよね。それはどうしてだったんでしょう。

山田 それは大学進学に有利だからとかではなくて、ひとりになりたかったんです。誰も自分のことを知らないところに行って、新しい山田くんを始めたいと思ったんです(笑)。

貴戸 当時、学校恐怖症だとか、不登校の子がいるということはあったんでしょうか。

山田 あったかもしれないけれども、直接は知りませんでしたね。ほとんど、そういう意識はなかったと思います。「いじめ」なんて言葉も使わなかった。「いじめる」という動詞は使いましたが、名詞形の「いじめ」はなかったと思います。ですから、80年代に入って「いじめ」という名詞を聞いたときは、非常に奇異な感じを覚えました。
 ただ、高校のときに、担任の先生から相談を受けたことはありました。農家の子で、勉強に自信がないと言い出して、精神的にピンチになっていたんですね。そういう子は、いつの時代にもいたんじゃないですかね。その子が「俺はネズミを獲るネコほどの価値もない」と言ってたのは覚えてます。

山下 高校時代は60年代半ばですね。時代状況の影響もあったのではないでしょうか。

山田 ベトナム戦争がありましたからね。それと、文部省(当時)から「期待される人間像」が発表されたのが、ちょうど高校生のときでした。それには教職員組合も反発していたし、生徒のあいだでも、「勝手に期待される人間像をつくるな」と、10校前後の高校の生徒会役員が交流集会に集まったりしていました。しかし当時は、文化系クラブの生徒が3校以上で集まってはいけないという不文律があったんです。「3校禁」と呼ばれていて、体育系は集まってもよいが、文化系はダメだった。これは大阪だけではなくて、他府県でもあったようです。ですから、よく言われるように、敗戦直後期の学校は民主的だったのに、その後、だんだん反動化して管理教育色を強めたというのも、ちょっとちがうと思いますね。僕らの時代のほうが制帽制服に関する規制も厳しかったし、「3校禁」もあったし、そういう意味では、いまのほうがマシだと思います。


●全共闘運動のなかで

山下 大学時代の話をうかがいたいと思いますが、山田さんの大学時代は、全共闘運動まっさかりのころですよね。

山田 京都大学に入学したのが1966年で、1〜2年生のころは、わりとふつうの学生生活を送っていたんです。ところが、67年10月に第1次羽田事件があって、京大生の山崎博昭くんが亡くなって、これはショックでした。そのときに自分は何をしていたかと。その後、3回生のころからは、「京大フロント」というセクトに属して、バリケード闘争なんかをしていました。
 69年冬の安田講堂攻防戦のときには、陥落前日に講堂の地下に泊まっていたんです。しかし、東京の連中とこれ以上つきあうのはイヤやと思った。だって、彼らは鉄パイプの先をとがらして、突撃の練習をしたりしてるんです。「こいつら本気か?」と思ってね。民青(日本民主青年同盟/共産党系の学生組織)も武装していて、学生どうしで衝突していた。それで、「ようつきあわんわ」と思って、帰ったんです。そうしたら、翌日に機動隊が突入して、安田講堂は陥落した。
 家に帰ったら、親父が「どこに行ってたんや。おまえは、わしの仲間を叩くために東京に行ってたんか。そんなヤツといっしょに暮らせないから出て行け」と言われてね。息子への期待があっただけにショックだったんだと思います。それで、家を出たんですが、たまに用事があって実家に帰ると、親父がいっぺんに年をとった感じで、親不孝をしたなと思いました。

山下 京大では、68〜69年ごろの状況はどんな感じだったんでしょう。

山田 安田講堂のあと、民青(と大学当局)が先にロックアウトをしかけて京大を封鎖したんです。冬の寒いときで、僕らが隊列を組んで正門に向かうと、放水ポンプで水をかけてくる。しかし、結局は彼らを追い払って、逆に、僕らが全学バリケードで大学を封鎖して、それが半年ほど続きました。『パルチザン前史』というドキュメンタリー映画があるんですが、そこには、デモ指揮をする私の姿も出てきます。

山下 高岡健さんのインタビューのとき、内ゲバの話が少し出ましたが(本プロジェクト#35参照)、山田さん自身は、そういう暴力に直面したことはあったんでしょうか。

山田 僕は文学部新館の防衛に当たっていて、バリケード封鎖中、守りのために屋上に石を集めたりしていました。ただ、それは万一のときの威嚇に使うつもりで、僕としては本気ではなかったんです。だから、切迫した必要もないのに石を投げようとするヤツがいると止めてました。民青と何回かゲバ棒(角材)でやりあったときも、途中で制止しようとして、味方にどやされたこともありました。しかし、民青がロックアウトしたのを追っ払うときは、すさまじかったですね。ゲバ棒で窓をたたき割って、なかには女性もいて、悲鳴が聞こえてきて……。
 闘争で失明したり、その後、精神的に失調をきたした人もいます。最後のころは、全国各地で毎日のように、誰かが殴られて、場合によっては殺されるようなことが起こってましたからね……。

山下 山田さんには、理念ありきの語り口に対する反発があるように思いますが、それは全共闘運動が理念先行になって、暴力にいたってしまったことへの反省があるんでしょうか。

山田 東京ほどは先鋭化してなかったですけどね。僕らは、半分遊びで悪ノリしていたところがあったんです。でも、なかには本気のヤツもおったんやね……。

田中 当時、エリートになる自分を否定するという意味合いで「自己否定」という言葉が使われていたと思いますが、山田さんはどう受けとめていましたか。

山田 僕は、プチブル(小市民)の自己否定みたいな議論には、まったく共感しませんでした。自分をプチブルだとは思ってなかったですしね。

田中 大学に見切りをつけた、ということでもなかったんですか。

山田 いやいや、とにかく卒業だけはしようと思って、卒論を書き始めて、大学院への願書も出していたんです。しかし、自分の書いているものに何の手応えもなかったですし、一方では、封鎖解除されたあとの荒れ果てたキャンパスを見て、何のためにこんなことをしたのかという思いもありました。みんな疲れていたと思いますね。それで、これはいっぺん大学を出ないといけないと思ったんです。


●職業訓練校へ

山田 下宿は「哲学の道」のすぐ脇だったんですが、卒論を書いているとき、家の前で電柱の建て替え工事をしていたんです。作業員が倒した電柱に腰をかけて、工具ベルトを腰につるして、ものすごく楽しそうに仕事をしている。それで、電気工事もおもしろいのではないかと思って、卒論を書き終えてから、枚方市の職業安定所に行ったんです。そこで職業訓練校の募集案内を見つけて、応募したんです。電気工事科もあったんですが、板金工科のほうがおもしろそうと思って、結局、行ったのは板金工科でした。
 大阪の職業訓練校は、もともとは北九州の炭鉱離職者の再就職のための施設でしたが、そのころは、中学校を卒業して、高校進学には不向きとされていた子が、1年間、職業訓練を受けるために来ていました。僕が入った板金工科も、20名のうち15名はその春に中学校を卒業した人たちでした。
 生活費も必要なので、職業訓練校に通いながら、住み込みで新聞配達の仕事を始めました。仕事は配達だけではなくて、折り込み広告の手配とか、受け持ち地区の集金もあって、学生気分を抜くにはよかったですね。それまで、新聞がどうやって届けられるかなんてことも、まったく知らなかったですからね。

栗田 理念的に、工場労働をしようと思ったわけではなかったんですか。たとえばシモーヌ・ヴェイユ(1909―1943/フランスの哲学者)のように。

山田 私が職業訓練校に行ったのは71年で、シモーヌ・ヴェイユの『工場日記』の訳書が出版されたのが72年です。それよりも、中岡哲郎さん(技術史学者)の『人間と労働の未来』が70年に出て、翌71年に『工場の哲学』が出されているんです。私も、人間にとって労働とは何かとか、労働を自己疎外の問題として考えることに関心はあったけれども、やっぱり、それは観念的なものでしたね。
 板金工科でいろんな工具を渡されて、実際に機械を動かしてみるまで、鉄板というものがどのように固くて、どのようにやわらかくて、それを加工するとはどういうことか、まったく知らなかったわけです。実際、鉄を曲げたり、伸ばしたり、それから、しぼったりするんです。それは、めちゃくちゃおもしろかったです。
 いっぺん板金の仕事を自分で始めてみると、町の中で見かける工業製品が、誰のどんな労働によってつくられたものか、気になるし、気づく。とくに電車なんて、ぜんぜん見方が変わりました。それまではのっぺりしたものとしてしか見ていなかったけど、よく見たら、いろんな仕事の跡があるんです。


●板金工作所へ

山下 職業訓練所のあと、板金工になられたんですよね。

山田 72年から吉田板金工作所で働き始めて、77年までいました。僕の吉田板金での最後の仕事は自動車のバンパーです。ダイハツのシャレードという小型四輪の前後のバンパーの試作品の手直しで、試作用の安価な金型でプレスするから、亀裂が入ったり、ひんまがったりするんです。バンパーは直線部分がなくて、ぜんぶ球面にすることで強度を保っているんですが、その型をつくるのは難しいんですよ。その試作品の不具合を修正する仕事でした。
 しかし、いまの車体は一体成形のモノコックになっていて、バンパーがついている車はないんですね。いまから思えば、僕らは手づくりを経験できる最後の世代だったと思います。『粋な旋盤工』(風媒社1975)を書いた小関智弘さんは、旋盤工の世界でNC化(Numerical Control/数値制御)が進み、それまでの手作業の旋盤から、コンピュータのプログラムによって制御される旋盤に変わっていくようすを描いていました。
 しかし当時は、こんなに急速に労働現場が変わっていくとは思ってませんでした。板金工作なんてものが数値制御ができるとは思ってなかった。数値制御が、いろんな分野で威力を発揮し始めたのは80年代に入ってからです。
ymdj.jpg
吉田板金工作所時代の山田潤さん。資格認定の実技試験に備えて、工場で練習しているところ(バケツの底面部を打ち広げている)。


山下 その町工場には、ほかに大卒の人はいなかったんですよね。そのあたりで周囲とのギャップなどはあったんじゃないでしょうか。あるいは、自分のなかに負い目のようなものはなかったですか?

山田 みんな腕利きの技能工で、試作の板金は知的な作業でもありましたら、みんなに追いつくのに精一杯でした。後に、「大卒のおまえが職業訓練校に入学することで、定員から落ちる中卒の子もいたんやで」と言われて、返す言葉がなかったことはあります。

山下 逆に、知識面でのギャップなどを感じることはなかったですか。

山田 本を読む力というのはつくづく大きいと思います。職業訓練校では、最初の2カ月は、午前中は座学で、午後から実習だったんです。教科書で勉強する。しかし、みんな読めないんやな。読めないのは、彼らが読む訓練を積んでないということだけではなくて、教科書の文章も悪い。ただ、それにしても、言葉を自由にあやつって好きなことを言える人と、それができない人との格差は、つくづく感じましたね。活字を読んで、状況を思い浮かべたりポイントをつかんだりする。それは学歴とは関係なく必要なことで、ほんとうは、みんなにそういう力が分け与えられたらいいと思います。しかし、多くの教師の読み書き能力も低いですよ。教師でも少しまとまった文章をまともに書ける人は少ないと思います。
 その一方では、訓練校でも定時制高校でも話の上手な子はいました。いたずらだとか武勇伝みたいな話を、おもしろおかしく語る子がいて、それは聞いていてほんまにおもしろかったです。

山下 山田さんは、定時制高校の教員になられていますね。そのまま板金工を続けようとは思わなかったんでしょうか?

山田 ずっと勤めることはなかったと思います。ずっとこの仕事をしていたら、世の中から取り残されるのではないかと思う部分もありました。そこに、京大時代の友人から声がかかったんです。その人は定時制高校に勤めていて、「おまえは絶対に定時制高校に来るべきや。板金工もいいかもしらんけど、自分のやってきたことを活かそうと思ったら定時制高校に来いよ」と言うてくれたんですね。
 もともと、中卒で働いている子だとか、ヤンチャしている子への親しみはあったので、定時制高校なら教員になるのもいいと思ったんです。しかし、教員免許がなかったので、大阪市立大学の夜間部に学士入学して、吉田板金で働きながら3年間通いました。そういう経験もあったので、働きながら定時制高校に来る子が「先生、みんなが残業でがんばってるときに、勉強ですねん言うて、チンタラ学校なんか来られへんで」と言うのを聞いたりすると、その気持ちがよくわかりました。


●定時制高校の教員に

山下 定時制高校の教員になられたのは何年でしたか?

山田 1977年、29歳のときに今宮工業高校の英語科教員になったんですが、定時制高校に行きたいと思っていても、望んで就けるものではないんですね。けれども、定時制高校を勧めてくれた友人が、組合の定時制通信制部会の執行委員をしていて、「教員免許をとったら、絶対、俺が定時制高校に入れてやる」と言ってたんです。実際は、ちょっとゴタゴタすることもあったんですが、いろいろ働きかけてくれて、うまいこと行きたかった工業高校の定時制課程に入れました。そんなふうにして、定時制高校の現場に立てたということは幸福なことだったと思います。

山下 教員になって最初のころは、どんな感じだったんでしょう?

山田 最初のころは、ほんとうにヤンチャな子ばかりで、教室に入れるだけでたいへんでした。いつも校門のあたりに集まって、わっさわっさやっているわけや(笑)。それでも、ものすごいエネルギーはあったと思いますね。
 最初に担任したクラスでは、関西本線沿線から来ている子と南海本線沿線から来ている子とのあいだで、グループ間の対立抗争が起こったんです。それで、夏休みが明けたら、関西本線側の子がひとりも来ない。その親分格に会って聞いたら、「これは先生の手に負えるような話やない。どっちかが手を引かんとどうしようもない。だから俺らが手を引くことにしたんや。先生はこれ以上、何もせんでくれ」と言うんです。それで、僕も、彼らが決めたことを尊重するほうがいいと思ったことがあります。しかし、その種の自律的なエネルギーはだんだんなくなっていって、教師に対して依存を深めていくような感じになっていきましたね。
 定時制高校に来る子どものなかには、「9年も勉強につきおうてきたけど、もうええわ」という感じの子がけっこういた。学校から離れたいと思っても、親も教師も「せめて高校は」と言うから仕方なく来たという子がいた。僕は、そういう子の意志をなぜみんな尊重しないのか、と思っていました。生徒であるあいだは、どうしたって半人前扱いなんですね。中学校を出て働くということを積極的な選択肢として認めないといけないと思っていました。けれども、それは、先生が教育熱心であるほど通じませんでしたね。
 やっぱり学校の先生は「学校にいるあいだに勉強しておかんと」という考えが抜けないんです。低学力のしんどい子、という見方をしている。そこに同情して、なんとか力になろうとはするけれども、かわいそうな子、しんどい子、底辺の子と見てしまう。
 70年代末のころだと、中卒で働きに出る子は、ひとつの中学校で1〜2人でした。中学校の先生たちのなかにも、「せめて高校は」という意識が強くて、中学校を卒業して働くということを肯定的に見るまなざしがぜんぜんない。これはあかんと思いました。


●なぜ、こんなに痛めつけるのか

山下 佐々木賢さんは、定時制高校は75年に劇的に変わったとおっしゃってましたね(本プロジェクト#07参照)。山田さんが教員になられたのは77年ですが、そのあたりの実感はどうでしょう。

山田 労働現場と同じで、ギリギリ、変わる前後の学校を経験できたのでしょうね。定時制高校に入ってつくづく思ったのは、なんで義務教育の9年間もかけて、この子らをこんなにも痛めつけるのかということです。自分はできないということを徹底的にたたき込まれて、自信も、他人への信頼感も大きく損なわれている子がたくさんいる。僕自身は学校教育の恩恵を受けてきたわけだけれども、一面で学校教育はこんなひどいことをしているということは、定時制高校の教員になって感じたことでした。

山下 実際、そういう子たちに、どういうふうに教えていたんでしょう。

山田 数学科なんかは、基礎学力保障ということで、ほんとうにていねいに、ひとりひとりに合ったプリントをつくってやっていました。ただ、すでに15〜16歳になっている生徒に、小学4年の問題をやらせることに問題はないのかという気持ちが、僕のなかにはありました。この子らにいま必要なのはそういうことかと。自分の抱えている問題が何かを知るためにも、基礎的な素養を自分のものとして獲得することは必要だとも思うけれども、僕の担当の英語なんて、とくに愛想をつかされてましたからね。実際、そんなにうまくいかないんです。
 それと、教師たちのわかり方に生徒を近づけるのがいいことなのかどうか、ということがありますね。自分たち自身で納得するようにわかることが大事で、今宮工業高校の定時制では、ずっと、そういうことを議論していたように思います。

栗田 生徒とですか。

山田 教師どうしで、ですね。なかなか生徒とは難しかったです。できないということをたたき込まれたものを元に戻すというのは、そうかんたんにはできないもんです。

山下 定時制高校に来る子どもたちからエネルギーがなくなっていったことや、教師に依存的な子どもが増えたとおっしゃっていたことと、手仕事で働ける職場がなくなったり、中卒で働ける場がなくなったことは、同時代に並行して起きていたことで、つながっていることですよね。

山田 その通りです。製造業がだめなら第3次産業でというふうに、全員がうまく適応していけるとは、僕は思ってないんです。それは無理だ。

栗田 いまだと、中学卒業後に工場で技術を身につけて働くことは難しく、いわゆる「低学歴」とされる人は、ケアワーカーなどサービス業に就く人が増えてますよね。そうすると、言葉をあやつれることの大事さという話が、逆に、不気味に響いてきてしまうんです。サービス業などの仕事では、それこそ言葉をあやつることがものすごく求められてますからね。

山田 そうですね。

貴戸 言葉だけではなく、感情や関係も含めてですね。それと関連するかと思いますが、山田さん自身も、板金工から定時制高校の教員になって、仕事が物相手から人相手に変わったわけですよね。そこで働き方のちがいを感じたことはあったんでしょうか。

山田 ときどき町工場がなつかしくなりましたね。僕は、思い通りにならない工作対象を持つということがものすごい大事なことだと思っているんです。たとえば、鉄板をこう加工したら、その次の加工がやりにくいけれども、先にそれをやらないと寸法がとれないとか、そういうなかで仕事の工夫をする。それは、精神衛生にものすごくいい。うまくできても、できなくても、自分のやった跡はきちっと残って、うまくできたこともわかるし、失敗して、二度とこんなことをしてはいけないということもわかる。そういう具体的な労働の対象を持つことで、ものすごく救われたという思いが強いんですね。

山下 しかし、高校は町工場とは別の世界ですね。

山田 そうですね。だから、学校でも、英語を教えているよりも、生徒をつれて、いろんな職場を見てまわっているほうが、よっぽど楽しくて、そんなことばかりしていたように思います。今宮工業高校では、ほんとうに自由にやらせてもらえたんです。2カ月近く、イギリスにも行きましたしね。


●イギリスの労働組合運動

山下 イギリスへは何をしに行ったんですか?

山田 79年に、熊沢誠さん(経済学者/労使関係論)がイギリスに半年間留学していた際、私に「夏休みをめいっぱい使って、聞き取り調査の手伝いに来い」と言ってきたんですね。同時期に、中岡哲郎さんも、ケンブリッジ大学のニーダム研究所に留学していました。それで、ほぼ2カ月近く、学校の仕事をやりくりして飛んでいったんです。当時の職場は、文字通り教員が自主管理していて、校長も「何かあったら私が責任をとるから、あなたがいいと思うことをやってくれたらよろしい」という感じでした。
 熊沢さんは、イギリスで自分で労働組合にツテをつけて、労働組合を通じて、いろいろな職場を見てまわっていました。日本では、会社の職制(管理職)を通さないといけなくて、経営側の案内がついて、見学通路をまわるしかなかったんです。ところがイギリスの工場では、どこに行っても、経営側にあいさつなしに、地域の労組を通じて見学できました。日本の労働組合は企業別ですが、イギリスでは職業別ですからね。私たちはAUEWという機械工組合を通して、各工場をまわりました。工場に行くと、ショップスチュワード(職場委員)が出て来て、経営側とまったく関係なしに案内してくれる。それには感動しました。
 フォードの工場に行ったとき、新鋭の機械にビニールシートがかけてあって、使われないまま置かれていたんです。工作機械はAUEWの管轄なんですが、もうひとつ、TASSという技術職の組合があって、「この機械は工作機械だけれどもコンピュータープログラムで制御されているのだから、機械工組合の管轄ではなく技術職組合の管轄だ」と言っていたんです。そういうのを管轄権紛争と言うんですが、ひとつの企業のなかに、電気工組合、機械工組合、板金工組合と職域ごとに組合があって、経営側は、それぞれの職域の労組と調整しないといけない。異なる職種の組合間で調整がつかないと機械ひとつとっても会社側の思うとおりには動かせないようになっていたんです。
 そういうイギリスの状況を打開するために、サッチャーが出てきたと言えます。僕らがイギリスに行った79年は、ちょうどサッチャー首相が誕生した年でした。サッチャーは「組合があるかぎり、イギリスは生産性競争に負けてしまう」と言って、本気で組合つぶしにかかったんです。僕らが行ったときには、それでも、まだまだ現場の組合の威力は健在でしたが……。

栗田 労働者も企業に隷従しているのではなく、企業と拮抗していたわけですね。しかし、イギリスの状況も変わってきているわけですよね。

山田 変わりました。当時あった主要な職種別・産業別労組の名前はいまでもすべて憶えていますが、かつての名称のまま活動している労組は、いまではほとんどありません。
 しかし、当時のイギリスの労働運動に学ぶことは多かったです。日本は大勢が企業別の労働組合ですから、労働者も会社の採算や利潤のことを考える。会社あっての自分たちの職場ですから。ところが、イギリスの労働者にとっては、企業の壁を越えて存在する同一の職種・職域こそが自分たちの職場なんです。だから、ひとつの会社が利益を上げるかどうかという原理では動いていない。機械ひとつ、会社の思うようには使えないのもそのせいです。もっといえば、イギリスの会社は、日本のように、全従業員に支払う賃金の総額を自由にコントロールすることができないのです。職種ごとの交渉で決まる賃率を積み上げる形で会社の労働コストが決まるのです
 ただ、いまにして思うのは、そういう労働組合の交渉力がどこからきていたのか、そこが問題です。サッチャー政権が本気でつぶしはじめたら、しばらくは抵抗が続いても、結局はつぶされてしまった。そのもろさは何だったのか。日本でも、かつての国労(国鉄労働組合)とか動労(国鉄動力車労働組合)はめちゃくちゃ強かったし、教職員組合もけっこう強い時期がありました。けれども、どこかに傲慢さもあったんだと思います。末端の管理職を小バカにしていたところがある。教職員組合でも、結局、学校としての責任は校長や教頭が担っていて、それに対して「それがおまえらの仕事やろ」とうそぶいていたところがある。しかし、そういう関係は、いっぺん相手側が開き直ると、もろいですね。かなり急速につぶれてしまった。

栗田 労働組合に関してですと、組合からはじかれた女性ばかりに私は出会ってきたんですよね。そして、私もずっと労働運動に関わってますが、同じ仕事という言葉を使っていても、山田さんが経験した仕事に対するメンタリティや価値観と、いまのそれとでは大きくちがうように感じます。

山田 70年代にはさかんに「労働」という言葉が使われていましたが、それはマルクスの労働価値説や労働過程論をひきずっていました。そうした左翼的な言論の退潮とともに、「仕事」という言葉で語られるようになったのでしょうね。
 私が翻訳に関わった『ハマータウンの野郎ども』(*1)も、原題はLearning to Labourで、直訳すれば「労働への学び」という意味です。そこには逆説があるんですね。学校では、よい成績を修めた者から順番にいい仕事に就くことになっている。しかしlabourはしんどい下積み仕事のことですから、「下積みの仕事への学び」というのは逆説でしかない。ところが、それこそが野郎どもの主体的な選択だというのが、著者のポール・ウィルスの主張だったわけです。勉強して、それに見合ういい仕事に就くというようなやり方は、常に目標を先に置いた考え方で、そういう考えでは、一生涯、先送りの人生になってしまう。むしろ、いまの充実、いまの楽しみこそが優先されなければいけないと考える野郎どもは、「俺らは頭脳労働なんてせえへんで。下積みの労働でええねん、放っておいてくれ」と言って、学校から自分たちの独立性を保とうとするけれども、その結果、下積み仕事に定着してしまうという逆説ですね。


●「ノンエリート」をめぐって

山下 熊沢誠さんとの出会いは、どういう経緯だったんでしょう。

山田 72年に「労働分析研究会」に参加したのが最初です。中岡哲郎さんのことは学生時代から知っていたんですが、中岡さんと熊沢さんが1970年に研究会を始められたんです。社会主義革命に向けての労働組合の役割という旧来の図式ではなくて、現に起きている労働のあり方の変化を働いている人はどう受けとめているのか、労働の現時点でのありようを具体的に聴き取っていこうというプロジェクトです。労働のなかでの人間の復権をテーマにしていました。
 実際、石油精製のコンビナートだとか、いろんな現場に行って話をききました。しかし、左翼的な活動家ほど「そんなこと聞いて何になる」という言い方をして、仕事内容について具体的に語るのは下手でしたね。そこを執拗に細かく、具体的に聴いていったんです。
 全共闘運動のとき、左翼学生が注目していた国は、フランス、ドイツ、イタリアだったんです。イギリスの労働組合運動なんて、誰も見向きもしていませんでした。そうしたなか、熊沢さんはイギリスの労働組合の運動を非常にていねいに追っていました。労働者の暮らしの基盤である職場で、労働者がどのように自己形成し、どれだけ自分たちで職場をコントロールしているのか。労働者が日々働いている現実から離れたところで、社会主義革命だとか言っても話にならないというのが、熊沢さんが言っていたことでした。

山下 熊沢さんがおっしゃっているのは、能力主義社会に駆り立てられるのではなく、ノンエリートとして生きていくすべを具体的に考えようということでもありますよね。

山田 僕は熊沢さんとは、そのへんでは少し意見がちがうんです。熊沢さんには『ノンエリートの自立』(有斐閣1981)という著書もありますが、ノンエリートというのは誰のことを指して言っているのか。熊沢さんが語りかけたいと思っているかんじんの人たちに、このタイトルで届くのかと思ったんですね。僕はノンエリートという言葉は使いません。
 たしかに、学校とか企業でエリート扱いされる人はいる。しかし、自分のことをノンエリートと言う人がいますか。そして、熊沢さんは、ノンエリートにとってこそ職業教育が必要だと言っています。本田由紀さん(教育社会学者)はそれを批判して、職業教育はすべての人に必要だと言っていて、僕も、どちらかと言えばそう考えます。
 しかし、職業教育というのは各論がないと意味がないんですね。さまざまな職業の輪郭を具体的に描き分けるような各論がないと意味がない。総論だけでは勤労教育で終わる。しかし、いまは誰にも的確な各論を書くことはできないですね。本田さんには『教育の職業的意義』(ちくま新書2009)という好著がありますが、具体的な各論は書けていません。
 いまはさまざまな職業の輪郭がぼやけて流動的になっていて、あるひとつの職域に定着するということが難しくなってきてますね。短期の非正規雇用の増加ということもあって、関連した職種を通じて持続的に技能形成する道筋が見えなくなってきています。年功序列・終身雇用・企業別労働組合を特徴とする日本型雇用の時代は終わったなどと言われていますが、それに代わる展望がはっきりしない。
 私自身について言えば、一度大学を離れて、職業訓練校や町工場を体験することができたのは、たいへん仕合わせなことだったと思います。で、夜間の大学に入り直して、工業高校の教員にもなれた。もっといろんな職業を経験できればなおよかったのに、と思うことさえあります。
 ヨーロッパ諸国では、青年がひとつの職業に定着するまで、かなり長い年月をかけています。大学も出たり入ったりしている。そういう意味では、18歳で高校を卒業して、あるいは22歳で大学を卒業してそのまま終身雇用で定年を迎えるなんて、こんな淋しい人生はないと思いませんか。そういう枠組みをそのままにして、職業教育なんてあり得ません。
 この社会を成り立たせるために、どんな仕事があって、それをどんな人が担っているか、そこにある待遇の格差も含めて、いまの日本の現状をちゃんと知ることが大事です。ノンエリートだけではなく、すべての人に必要なのは、いま言った意味での職業教育です。それは、学校教育の内部だけでは完結しないと思います。学校にいるあいだに自分が将来携わる職業を決めさせるための職業教育ではだめなんです。
 そもそも、多くの人が、自分で自分に合った職業を選択するという方向に考えすぎです。内田樹さん(思想家)は「キャリアのドアのこちら側にはドアノブがついていない」、言い替えると「キャリアのドアは自分で開けるものではなくて向こうから開くのを待つもの」と言っていますが、そう考えるほうが楽だと思います。ドアの向こうから「ちょっと手伝って」と声がかかって扉が開くのです。あらかじめ、自分の適性だとか能力を見きわめておいて、それにふさわしいキャリアを選んでいくなんて、そんなことが実際にありえますか。声をかけられてやってみたら、こんなおもしろい仕事があったんだ。「適職」というのは多くはそういう出会いなんで、仕事というのは、実際にやってみないとわからないものです。


●不登校新聞の論説をめぐって

山下 熊沢誠さんには、山田さんから声をかけていただいて、不登校新聞創刊当初に編集顧問になっていただきましたね。不登校新聞15号(98年12月1日)に「地味な仕事で生きていくすべを」というタイトルで論説を書いていただきました。この論説には、不登校新聞の内部からも、読者からも、たいへんな反発があって、しかし、ちゃんとした議論にすることができませんでした。それは、山田さんが不登校新聞の理事を辞めることにもつながったと思いますし、あらためて問い直しておきたいと思います。

山田 熊沢さんは、反発する読者がいるのは当然だけれども、理事の奥地さんが「かがり火」欄で反論を書いたり、編集部の人が読書欄で批判を載せたことに対して、編集当事者が批判するのはフェアではないと言っていました。

山下 それは、当時、編集長だった私の力量と見識の不足でもあったと思いますし、編集部の人間が読書欄で反論したというのはフェアではなかったと思います。ただ、その問題にとどめず、熊沢さんの言わんとしていたことについて、もう少しふり返っておきたいと思います。熊沢さんは、一部の才能のある子が専門職に就くことは別として、多くの子どもたちは地味な仕事で生きていくのだと指摘されていました。そして、その地味な仕事に屈することなく生きていくうえで、言語能力や社交性や文化などを学校で獲得する機会は重要で、不登校に問題があるとすれば、その機会が奪われていることだ、というのが熊沢さんの主張でした。この意見が反発を招いたのは、ある種、必然だっただろうと思います。しかし、下村博文文科大臣(2014年当時)の「不登校のなかには未来のエジソンやアインシュタインがいる」という発言などに象徴されるように、不登校を肯定する論調のなかにも、能力主義のあやうさがありますね。

山田 そうですね。それと、仕事というのはその中味も大事ですが、一定期間働いて、その対価として賃金を得るということ自体が重要なんですね。定時制高校の1年生が4月に仕事を始めて、月末に最初の給料袋をもらってくるときの顔つきというのは、ほんとうにいいんです。ある生徒は「先生、これで妹に靴を買ってやるねん」と誇らしげに言ってました。それまで親のすねをかじっていたのが、自分で働いて給料をもらって、教室で給与明細のスリップを見せ合う。それを見て、ほかの生徒も「先生、俺も働けるかな」と言ってきたりする。もちろん、労働疎外とか、搾取とか、そういう問題もあるわけですが、自分で働いて一定の給料を得るというのは、親に依存せざるを得ない子どもが自分の足で立ち始める、大事なステップですよね。

山下 ただ、その疎外の問題は、いまは深刻ですよね。労働の現場は相当に劣化していて、基幹労働を非正規雇用の人でまわしている。そこでやっていけなくなった人が、職場がおかしいと思うのではなくて、自分がおかしいと思って、メンタルを失調したりしているわけです。

貴戸 熊沢さんは「可視的な仲間」という言葉を使っておられますが、それは仕事という毎日行く場所で、ともに仕事をする仲間との連帯が大事だということですね。しかし、いまはひとつの職場でも、アルバイト、派遣、正社員と分断されていて、入れ替わりも多い。そういう職場のなかで、どうやって可視的な仲間をつくることができるのか。大学でも、労働組合は職員と教員で分断されていますし、しかも正規職員しか学内組合には入れません。人びとが仲間と思える基盤を持ち得ない状況があります。それはとても胸の痛む状況ですね……。

山田 たしかに、その通りですね。非正規雇用も問題ですが、正規雇用であっても、一連の大企業の不祥事だとか過労死の問題にあらわれているように、名の知れた大企業に正社員で入れば大丈夫なんてことはまったくないですよね。にもかかわらず、少しでも偏差値の高い大学に入って、少しでも名の知れた企業に入ろうとしている。そういうものとはちがう基準で、自分の将来の職業を考えていくことが必要です。学校教育にも責任がありますが、生徒や学生の側でも、そこに気づかないと、結局は自分を追いつめることになりますね。


●評価することへの慎みがない

田中 話が少し変わりますが、現在、セーフティーネットとしての学校の役割が重視されるようになってきていますが、学校のあり方については、どのようにお考えですか。

山田 教育の場としてではなくて、地域の子どもが学齢に達したら、誰でもそこに行ける場として学校というものがあるということは、たいへん大事なことだと思っています。学校というものから、「教育」をどれだけ脱色できるかと考えてみることが必要です。
 もちろん、学ぶことの楽しさも大事で、いままでわからんかったことがわかるようになるとか、子どもはそういうことを通じて成長していくわけですから、一定の教育課程があることは学校の一面として必要でしょう。しかし、子どもたちを教育評価の対象とするというところは、できるかぎり弱めないといけない。
 そういう意味では、私は絶対評価というのはたいへん危険な考えだと思っているんです。一定の職務について、それに適した人は誰かという相対評価はありえます。本来、すべての評価というのは相対評価なんです。しかし、その相対評価を全教科に及ばせて、それだけではなく、学校行事への参加だとか、日ごろの行動はどうだとか、そういうところまでひっくるめて人をまるごと評価対象にするというのはよくないですね。
 いま、学校では絶対評価への移行で、ムチャクチャになってますね。いっぱいデータを集めて、何のために何を評価しようとしているのか。そこには、人が人を評価することに対する慎みがない。しかし、若い先生たちは、絶対評価をいかに精緻にするかということで、一生懸命、勉強したり訓練を受けたりしていますね。

山下 先生自身も評価されているわけですしね。


●学校に行かない子と親の会

山下 親の会を始められた経緯のあたりも、お話しいただけますか。

山田 先ほど話したように、中学校を出て働きに出るのはかわいそうという見方はおかしいという意識がずっとあったんです。そう思っていたところに、新聞を読んでいて「学校に行かない子と親の会」という文字が、すっと目に入ってきたんです。「学校に行かない子」というのはどういうことだろう? と思って、すぐに京都でその世話人をされていた恩田良昭さんに電話をかけたんです。それまで、僕は高校に行かないことは選択肢としてあると思っていたんですが、恩田さんは「義務教育だって、行かないという選択肢はあっていい」とおっしゃった。恩田さんのお子さんも、ふたりとも学校に行ってなかったんですね。それで、「例会に参加していいですか」ときいたら、受けいれてくださったんです。
 当時、京都の会には、近畿一円から参加者があって、大阪からもたくさん来ていました。それで、恩田さんに勧められて、1年後には大阪でも会を立ち上げようということになって、「学校に行かない子と親の会(大阪)」を立ち上げたということです。1991年のことです。

田中 山田さんは「学校に行かない」という言い方は中立的だとおっしゃっていますが、京都の会では、子どもが行かないことを選ぶというニュアンスがあったんでしょうか。

山田 恩田さんは、わりと学校否定に近かったと思います。しかし、その話しぶりがきっぱりしていて、「大丈夫、どないでもなりますよ」と言われることで、毎月、集まってくる人を支え続けてこられた。それはそれで大事なことだったと思います。
 僕が京都の会にめぐりあって、一番、衝撃を受けたのは母親たちのエネルギーなんです。90年代に不登校の親の会に集まった母親たちというのは、主婦として育児を任せられているにもかかわらず、最愛のわが子が学校に行かなくなったということで、ものすごい苦境に陥っていたんですね。不登校になると、子どももしんどかったと思うけれども、母親も相当しんどかったと思います。「おまえの子育てはどないなってたのや」と夫から責められ、あるいは自分で自分を責める。
 子どもが学校に行かなくなることで、子どもだけではなく母親も孤立していました。一歩、外に出たら「お子さんどうしているんですか?」ときかれるから、母親もとじこもりがちになるわけです。そこから、奥地圭子さんたちをはじめとして、全国で親の会が立ち上がって、学校に行かないのには、それなりの理由があるし、無理にでも行かせることがほんとうによいのかと、異議申し立てが起きてきたわけですよね。
 京都の会に参加していても、大阪で会を始めてからも、母親たちが集まって話し始めると、ものすごい熱量で話し合って「今日はひさしぶりに笑った」というお母さんも、よくおられました。それまで、顔の筋肉がこわばっていてニコリともしなかったのが、たくさん話して、笑って、家に帰ったら「お母さん、今日何かいいことあったの?」と、子どもからきかれたという話もよく聞きました。
 あるいは、熱心にいろんな本を読んだり、講演を聴きに行ったりして、いったい自分たちは何を考えて子育てをしてきたのかと問い直しながら、どんどん元気になっていく。親の会というのは、そういうことの積み重ねでやってきたんですね。それは、どこかに向けた運動というより、自分たちが元気になるための運動だったんだと思います。

栗田 山田さんは、不登校の子どもに直接関わろうとは思わなかったんですか?

山田 子どもと向き合うと教師をしてしまう、という自戒があったんです。子どもとは学校で教師としてつきあっているわけだから、ちがう場を持って、むしろ親の会を通じて学校で自分がしていることを問い直すほうがいいと思ってました。

栗田 親の会に関わって、ご自身が家族のなかで変わっていくという経験はあったんでしょうか?

山田 娘は中学生のころから、私の親の会での活動を見聞きしていて、学校は行ったり行かなかったり好きにしてもいいところだと思ったみたいです。それで、「先生、今日から1週間休むからね」と言って、学校を休んだりしてました。ヤンチャする子で、親からすると心配なところはありましたけどね(笑)。

貴戸 親の会の事務所は「ココナッツハウス」で、通信も「ココナッツ通信」ですけど、「ココナッツ」の由来は何なんでしょう?

山田 最初にかまえた事務所の番地が、5572番地だったんです。それで、会報にマンガを描いてくれていた女の子が「ココナッツハウス」という名前をつけてくれたんです。その子の父親も「学校なんか行かんでいい」というスタンスの人で、その子は学校には行かずに、星空見学会だとか、山歩きの会に父親といっしょに参加してました。大阪の会でも月に1回、山歩きをしていたんですが、この子といっしょに歩いてたら、ほんまに、植物やら鳥や虫のことをよく知っていて、おもしろかったですね。

山下 親の会も、ある時代状況のなかで、たとえば専業主婦層がいて、時間的にも経済的にもある程度の余裕があるから成り立ってきたという面がありますね。そのあたりは、いま厳しくなっていると思いますが。

山田 そうですね。不登校の子どもの数は、ぜんぜん減ってないけれども、親の会に集まる人はかつてほど多くありません。親が生活に追われていて、子どもが放置されている。大阪でも、たとえば門真市とか守口市では、中学生の5%くらいが長期欠席です。しかし、それをなんとかしたいと親たちが集まるということはまずない。孤立したまま生活に追われていて、つながりようがなくなっている。それで、自分の子どもの状況もわからなくなっているんですね。

栗田 山田さんが、最近、そういう子どもたちと接することはあるんですか。

山田 とくに定時制高校を退職してからは、そういうつながりがなくなってしまって、わからなくなってしまっています。ほんとうに、どないしているんやろうと思いますね……。


●くやしいじゃありませんか

山下 山田さんは、自分の子が不登校だったというわけでもなくて、どちらかというと、問題意識から関わってこられたわけですよね。そこに、ある種の座りの悪さを抱えつつ、そのことも明らかにしつつ、関わってこられたように思います。そのあたりで運営の難しさだとか、親の方からの反発などはなかったでしょうか。

山田 会の仲間からの一番の反発は、98年に不登校新聞の理事になったことでした。これは、ほんとうに痛かったです。それまで、会の世話人としてやってこられた何人かから、「ええかげんにせえよ。あんた、理事になることを私たちに相談したか。理事になって何をしようというのか」と言われて、「あんたが辞めるか、私らが辞めるかどちらかだ」となって、離れていかれた方もおられました。
 なんというか、親の会というのは基本は運動体ではないんですね。それが、なんらかの方向性をもつ運動に呑みこまれることへの反発のようなものがあったんだと思います。

山下 不登校新聞のなかでも、いろんな意見はありましたし、いまもあるわけですが、山田さんは、不登校新聞の理事になったころから現在にいたるまで、奥地圭子さんや東京シューレの主張については、どのように感じてこられたんでしょうか。

山田 僕自身、学校教育というもののおそろしさを感じていて、他律的な学びに9年間も縛られて人物評価されることへの怒りは、ずっとあるんです。そういう意味では、学校教育に対する批判の手をゆるめるつもりはありません。けれども、一方では、子どもが自分の判断だけで自分の居場所を選ぶことはできないとも思っているんです。フリースクールがあったとしても、それを子どもは自由に選べないですね。ですから、学校というものをどうしていくのがよいのか、理想的な解決はないけれども、子どもが少しでもいやすい場所として学校があるための条件は何か、そういうことをずっと考えてきました。
 親の会に来られる方のなかには、自分の子が学校に行けないことについて、「自分たちの税金でできている公立の学校に、なぜ自分たちの子が安心して行けないのか。くやしいじゃありませんか。ですから、私は行かなくてもいいとは言えません。私の子がちゃんと行けるように学校が変わるのがあたりまえではないですか」とおっしゃる方もいました。私は、それは一理ある、大事な視点だと思っています。

山下 その話を聞かれたのは何年ごろですか。

山田 90年代半ばだったと思います。ひとりやふたりではありません。大阪で登校拒否を考える夏の全国合宿を開いたのが95年でしたかね。あのころは、大阪の会にも、ものすごいエネルギーがあって、そういうエネルギーのなかには、不登校を子どもの選択とみるのではなくて、いまの学校のあり方がおかしい、それを何とかするべきと考えている人たちのエネルギーもふくまれていたんです。

貴戸 そう言えば、うちの父も、そういうことを言っていました。

栗田 しかし、そういう主張は、不登校運動のなかではメインストリームにはならなかったわけですね。


●苦しみに沈む時期も必要

山下 親の会の世話人をされていて、「自分の子が不登校でもないあなたに、この苦しみがわかるのか」というような反発はなかったですか。

山田 ありましたね。そこは「僕は親ではないからわかりません」と言うほかありません。いまでも、ほんとうにわかっているかと問われれば、わかりません。

貴戸 私は、母親が親の会に行ったことで、自分の不登校が家庭のなかで受容されたという経験があります。親もしんどかったと思いますけど、子どもからすると、自分のせいで母親が不幸になっている姿を見ることは苦しいですよね。それで自分を責めたり、自分の不登校を責めたりしてしまう。私の母は、そうならないために親の会に行っていたんだなと、最近になって気づきました。おかげで私の場合は、自分のせいで親が悲しんでいるとはまったく思わず、むしろ「私の不登校のおかげで、いろいろ考えることができてよかったね」と、母に話したことがあるぐらいです。
 ただ、こういう言い方をするのは適切かわからないですが、親が不登校について主張していくときに、親の範囲だけで話すのではなくて、子どもの不登校経験を代理表象してしまう側面もあったように思います。それは、母親にしてみれば、ほんのちょっと、半歩の行きすぎだったかもしれないけれども、私は、ずっとそこが気になり続けてきたんですね。

山田 親のなかには、明るい不登校だとか、むしろ不登校の子のほうが正常だと主張される方もいましたが、実際に、その子どもからしたらどうだったんだろうということはありますよね。子どもは子どもで、いろんなことを考えていますからね。
 それと、苦しむことは悪いことばかりではないと捉えるのも、大事なことだと思います。苦しみは苦しみとして引き受けるというか、苦しみに沈む時期は必要だとも思います。

山下 しかし、恩田さんのようなキッパリとした意見、あるいは奥地圭子さんの『登校拒否は病気じゃない』であるとか、そういう語りがあったからこそ、山田さんも、学校のことを外から見ることができたという面もあったのではないでしょうか。

山田 それは、その通りです。

山下 とはいえ、不登校を選んだというような語りが力を持ってしまうと、そうではない語りが抑圧されてしまってきた面もあったわけですよね。それと、貴戸さんがおっしゃったように、親が子どものことを代弁してしまうという問題もあった。このプロジェクトでも、「選択」をめぐる問題は、くり返しテーマにしてきました。そのあたりは、山田さんはどのように考えておられますでしょう。


●教育への権利は2段構え

山田 世界人権宣言では、教育への権利は2段構えになってますね。第26条1項は「すべて人は、教育を受ける権利を有する。教育は、少なくとも初等の、及び基礎的の段階においては、無償でなければならない。初等教育は、義務的でなければならない」とある(以下、Aとする)。そして、3項で「親は、子に与える教育の種類を選択する優先的権利を有する」となっているわけです(以下、Bとする)。国家に義務を課すAと、親の選択権を認めるBはセットになっているんですね。
 子どもの権利条約においても、第28条1項に「初等教育を義務的なものとし、すべての者に対して無償のものとする」とある一方で(A)、第29条2項に「この条または前条のいかなる規定も、個人及び団体が教育機関を設置し及び管理する自由を妨げるものと解してはならない」となっています(B)。
 義務的というのは、英語でcompulsoryで、国家がもれなく教育を保障する義務を負うということですね。たとえば、デンマークの教育省のホームページには、compulsoryなのは教育であって、学校に通うことではないと明記されています。最初にこれを読んだとき、これはすごいなと思いました。もうひとつ驚いたのは、7年生までは教育評価をしないと書いてあることです。評価に対する慎みがある。
 ただ、いまの私は、compulsoryなのは教育であるというのは危険だと思っています。学校以外でも、その子にふさわしいカリキュラムや教育内容が示され、それが達成されるのであれば学ぶ場は学校でなくてもいい、家でもいいというのは、むしろ怖いのではないかとさえ思います。学校に通うほうが、むしろ来るだけは来て、あとは寝ているということもありうる。ところが、通学ではなく教育それ自体がcompulsoryになったら、おちおち寝ていることでもできない。
 そして、デンマークでは、10年制のフォルケスコーレ(国民学校)という公立校に多くの国民が信頼を寄せているということも事実ですね。日本国憲法では、「教育を受ける権利」という1段目だけがあって、2段目がない。この点で日本の法制はあらためなければならないと思っています。わが子にふさわしい教育を親が選ぶ権利は、きっちり保障されていなければならない。ただし、AとBがセットになることが大事で、Bだけを言うのは危険だと思います。
 Aがよりよく実現する方向を重んじるのか、それよりもBの親の選択の自由を選ぶのか、そこは、宗教事情などそれぞれの国の状況によって、そんなに簡単には決められないことだと思います。かなりあやふやなまま試行錯誤があって、いろんな事態を経験しながら、しだいに落ち着いていくのだろうと思います。
 しかし、当初の教育機会確保法案(*2)には、Bを安易に拡大する傾向があり、国にとって安上がりな教育の方向に進む恐れがあったと思っています。

山下 たしかに、AとBのどちらに重心を置くかで、意見が変わってきますね。私は、何より議論が足りていないと思っています。「多様」という名のもとに何でもありになってしまうと、教育評価の視線が学校の外に広がるばかりで、子どもからすると逃げ場をなくしてしまうことを懸念してきました。自由化するほうが教育化が強まってしまうという逆説がありますね。


●学籍選択の自由?

山田 具体的には、学籍の問題がありますね。奥地さんたちは、90年代半ばごろにも学籍を離脱する自由について署名運動をしようとしたことがありましたね。

山下 学校の在籍について「選択の権利を拡大する委員会」をつくって、署名運動をしようとしたことがあったんですが、内部からもいろんな意見が出て、結局は立ち消えになったことがありました。

山田 教育機会確保法の最初の案は、子どもの学籍についての具体的な言及がないまま、あいまいに学籍選択の自由があると読めなくもない案になっていました。私は、これは危険だと思いました。AとBはセットでないといけない。Aの国の責務を外して、Bの親の選択権だけを言うのはまずいです。それでは、選択肢ができても親は判断にとまどうでしょうし、その責任は親が自分で背負わないといけなくなる。それに、子ども自身が単独で選ぶことなんてできないですね。こんなにしんどいことはないと思います。
 親が最初からわが子の学籍を辞退するなんて、かんたんにできるはずがないと私は思うんです。とりあえずは地域の学校に行ってみるというのが、一番自然で穏当ではないかと思いますね。もちろん、いまだって私立の学校を選ぶということもあるわけですが。
 地域の学校に、できるだけすべての子が無理せず行けるようにするとはどういうことかを考え合って、そこで教育課程の縛りをどこまでゆるめるのか、地域の実状に合わせて、話し合って決めていくほかないと思います。

田中 AとBがセットであることが理想ということと、地域の学校に行くことがもっとも自然であるということは、矛盾していないのでしょうか。

山田 矛盾はしていないと思います。「うちの子は行きません」という親がいて、その選択に対して国家が介入することはできないということです。その親の判断に対して、法令違反として国が圧力をかけることは断じてあってはならないと思います

田中 AとBが両立している状況で、選択する親子がいたら、それはその人の自由だということですか?

山田 その子にとって理想の教育を国家が実現できているとはかぎらないですからね。しかし、それはいつまでも建設途上のもので、これで確定ということはないと思います。

田中 フリースクール等の立場から教育機会確保法を推進してきた人たちも、AとBの両立という理想は同じなのではないかと思います。山田さんにとって、推進している人たちの理想像が問題なのでしょうか。あるいはBだけに偏重していると思われるから問題なのでしょうか。

山田 Aを軽視しているとしたら、僕はいっしょにやれないですし、これまでの経過を見ていて、その傾向はあったと思います。

田中 学籍が学校にあることで、フリースクールに行っている子が、本来は学校に行かなければならないという心理的な負担を感じることがあると思います。新しい法律づくりには、そういうデメリットを解消するという目的もあったのではないでしょうか。

山田 そのデメリットというのは、学籍があるということで生じるものですか? 日本の義務教育は履修主義ではなくて在籍主義ですね。それも一長一短ですが、僕は在籍主義でいいと思っているんです。学籍は子どもを縛るものとしてあるのではなくて、国がそれに見合ったものを保障するためにあるものでしょう。

山下 学籍を自由化してしまうと、在籍主義から履修主義になりますよね。すべての子どもが試験で修了を証明するというのであれば、それはひとつの考え方だと思いますが、教育機会確保法は、あくまで不登校の場合にかぎった話で、そういうものでもありませんでした。そして、結局は学籍の話は法律の成立過程で立ち消えたわけですが、よく考えないといけないところですね。
 それと、教育機会確保法を望んだのは、フリースクール関係者だけではなくて、クラスジャパンプロジェクト(*3)のように、教育産業が自由化を求めたという面もあるのだと思います。そこは軽視してはいけないと思っています。そこにあるのは、Aを軽視して自由化・民営化を推進しようという新自由主義的な意図ですね。それを見ないで、フリースクールの主張が認められたと思うのは楽観的にすぎると思います。


●ホームエデュケーションへの疑問

山下 親の選択権について、もう少しうかがいたいと思います。ホームエデュケーションについては、山田さんは以前から疑問を呈されてきましたね。

山田 僕は最初から、ホームエデュケーションにはぜんぜん賛同できないんです。ホームエデュケーションをしている人たちのあいだで、なんらかの連携が恒常的にとれていれば問題は少ないかもしれませんが、僕は親が教育を担うということには反対なんです。親の考えを相対化できる場は、子どもの成育にとって絶対に必要だと考えています。

山下 高岡健さんも、親の影響力が強いことはまずいことだとおっしゃってましたね(本プロジェクト#35参照)。

貴戸 私は2014年からオーストラリアに2年間留学していたんですけど、ホームエデュケーションというのは、こういうところで立ち上がってくるものなんだと腑に落ちたんですね。国土が広くて、文化的多様性があって、一族で移民してきていたりして、家族のなかにも多様性がある。そういう人たちのなかで、近所に行きたい学校もないし、いろんな大人がいるから、家でやるのがよいということがある。おそらくはアメリカ、カナダなどにも、似たような文脈があるんだと思います。
 山下さんともいっしょに、南オーストラリア州の教育省に行って話を聞いたんですが、南オーストラリア州では、ホームエデュケーションは制度的に認められているけれども、学籍は公立学校にあると言っていました。

山田 学校に行っている、行っていないにかかわらず、学籍は大事だと思います。そのことによって、国家がすべての子どもに対して責務を負うわけです。
 ホームエデュケーションということで想い起こすのは、ロール・ダールというイギリスの作家の『ダニーは世界のチャンピオン』という小説です。父子家庭の話で、お父さんはガソリンスタンドを経営しながら自動車修理もしていて、9歳までは子どもを学校にやらないと言うんです。なぜかというと、自分のそばに置いて、自動車修理の仕事を自然に覚えさせて、エンジンをバラして元に組み立てて動くようにできたら、学校にやってもいいというんです。そういう自分のベースになる経験があって、それから学校でいろんなことを学んだほうがいいと。このお父さんは、子どもに土台になる経験がぜんぜんないままに、脈絡もなく国語・算数・理科・社会を勉強させられて、テストで評価されることをおそれたわけです。
 子どもが、自分なりの世界観、物事の考え方の基本を持つときに、外に働きかける具体的な対象を持つことは、それを将来、仕事にするかどうかは別として、ものすごく大事なことだと思います。
 これは僕の偏見かもしれないけれども、対人サービス的な仕事を通じて、自分なりの世界観や物事の考え方の土台をうまくつくることのできる子は少ないのではないかと思います。グローバル化だとかITだとか言うけれども、プログラム上の記号操作では頼りない感じがする。
 社会情勢としては、自営業者はどんどん減っていって、街の中心部の商店街はシャッター通りになり、そういう暮らしの場は減っているわけですが、そのこと自体がおかしい。ショッピングモールなんて表面はキラキラしているけれども、ほんとうに安普請で、いつでもスクラップできるようにつくられてます。そんなもののなかに生活の安定があるわけがない。
 実際は、私たちの日々の具体的な暮らしのなかには、いろんな仕事があるはずなんです。なかには、自分たちで自給自足の農業を始めている人なんかもいますね。

山下 そういう何らかの生活の足場を持たないことには、ほんとうの意味で学校を相対化することは難しいのかもしれませんね。しかし、具体的にどうやって、いまの子どもたちとそういう足場をつくっていけるのか。それこそ総論ではなく各論が必要なところだと思います。逆に言えば、具体的な足場があれば、学校は相対化されて、上手に利用する程度のものになるのかもしれないとも思います。

山田 学校を利用するという言い方にも、どこか個人主義的なニュアンスがありますね。僕が言いたいのは、そういうことではないのですよ。地域の人とともにいることは、それ自体が目的なんです。それは、選べないものでもある。多くの人が、あたかも何でも選べるように思っているけれども、誰しも自分の両親だって、選んだわけじゃないですね。与えられた条件のなかで、自分がやっていける道を右往左往しながら見つけていくほかない。選べないなかでも、そばにいる人と折り合ってやっていく。そのほうがよっぽど楽でおもしろいと思いますね。


●「昔はよかった」ではなく

栗田 選べないということで言えば、時代状況も選べないですね。山田さんのように物の生産を通じて精神の安定を得ることは、いまの時代では相当難しくなっていると思います。いま、あるいはこれから学校に行かない人に向かって語るとき、手づくりがなくなり、組合も衰退した、いまの時代状況で何ができるかを示せないと、自分たちには何もないということにしかならない。もし、山田さんが、いまの時代の子どもたちへのメッセージを言うとしたら、どうでしょう。難しいことをきいているのだと思いますが……。

山田 その時代状況の認識についてですが、AIが発達したら、これだけの仕事がなくなるとか、ほんとうかなと思っているんです。それは、いまと同じような資源の供給があり、地域間の格差が続き、グローバル経済が続くという前提に立っているわけですね。そもそも、そういう見方自体に疑問がある。
 僕は、仕事の機会をみんなでつくり合うという発想を失ってはいけないと思っています。いままでだって、テクノロジーの技術的必然だけで、仕事のありようが決まってきたわけではない。新しいテクノロジーを労働の現場にどう持ち込むかは、さまざまな選択のなかで決まってくることです。もうちょっとゆっくりしましょうとか、この方面に使うのはやめましょうとか、そういう人間の知恵とのかねあいで決まってくるものです。そう考えないと、必然的にこうなると将来予測を立てて、それに備えてという考え方は本末転倒だと思います。

山下 山田さんの思想には、デューイ(*4)の影響がありますよね。デューイを含め、プラグマティズムの思想は、抽象的な観念論ではなく、現場から具体的、現実的、実践的に考えて、そこから普遍的な問いを立てていくわけですね。私の問題意識として常にあるのは、いまの子どもたちが学校を相対化できる具体的な足場を、実際にどうつくることができるか、です。理念や言葉だけでは、昔話を聞かされているということになってしまって、その言葉は子どもや若者に響かないように思います。

山田 手仕事を重視した教育思想家としてもデューイは重要です。
 で、いま指摘されたように、高校生や若い人に向けて話をするとき、うっかりすると「昔はよかった」ということになってしまいますね。それではいけないと思っています。いつだか、若い人たちと話していて、「社会がどうのと言うけれども、その社会というのはあなたのことではないですか」と話したことがあります。私たちひとりひとりがこの社会をつくっている。もちろん思うがままにはならなくて、社会的制約は受けるけれども、あきらめてしまえば社会の惰性を強めてしまうわけです。あなた自身が、そういう社会を生きながらえさせることになる。僕は、いまの社会はもうちょっと変わりうると思いますし、そう思いたいですね。

貴戸 山田さんがおっしゃるような思い通りにならない対象を、いまの私たちが具体的にどう持てるかと考えると、さしあたっては人間関係しかないんじゃないかと思います。人間だって、思い通りにはならないわけで、同じことを言っていても、受けとめてくれる人もいれば、受けとめてくれない人もいる。同じことを同じ人に言っても、別の日に別のシチュエーションだとうまくいくこともある。そういうなかで、見えてくるものもあったりしますよね。そこにある共同性を考えたいです。
 教育を選ぶというとき、コンテンツが確定していて見通しのある、パッケージ化された教育みたいなものは選ぶことはできるかもしれない。だけど、共同性とか「場」って、行ってみないと誰がいるかわからないし、出会った人と、そこでいっしょにつくっていくものですよね。そういうなかで格闘するしかない。そして、そこで格闘すれば、思い通りにはならないけれども、真摯に関われば、何か見えてくるのではないかと思っています。そういう意味では、ケア労働であるとか、人の身体性、生き死にを扱う領域のなかに共同性を見いだしていくこともできる。私は、そういうことを考えています。

山田 以前から、ずっと言っていることですが、僕はメンテナンス(修復・保全)が大事だと思っているんです。いままでの物づくりは大量生産できたけれども、一度つくったものをどう上手に活かしていくかは、地域ごとに、そこに住んでいる人が、現にあるものをうまく再利用していくことが絶対に必要です。私たちの生活は、電気、水道、ガス、鉄道、道路、橋、トンネルなど、いろんなインフラに支えられて成り立っているわけですが、それらのインフラが耐久年数ギリギリのところにきています。それは、そこに住んでいる人が協働でメンテナンスしていくほかない。特定の職業ではなく、住民がそこで生じる必要を協働で満たしていくほかない。僕は、そこに可能性をみています。

--------------------------------------------------------------------------------



*1 『ハマータウンの野郎ども』: ポール・ウィリス/熊沢誠、山田潤訳。原著は1977年刊、訳書は1985年、筑摩書房から刊行された。現在は、ちくま学芸文庫になっている。

*2 教育機会確保法:2015年5月、超党派の議員連盟により提案され、フリースクールや夜間中学校など多様な場が教育機会として認められると期待された一方、かえって不登校の子が追いつめられると反対や慎重論の声もあり、大幅に変更された案が2016年の通常国会に上程され、2016年12月に可決・成立した。

*3 クラスジャパンプロジェクト:「学校・企業・地域が一丸となって不登校の小中学生の学校復帰を支援する」と謳って、角川ドワンゴ学園の役員などが中心となって立ち上げたプロジェクト。批判を受けて「学校復帰」の文言は消えた。会長は原田隆史さん(元中学校教員)で、ネットクラスを通じて「原田メソッド」にもとづいて「自立教育」を体得させるとしている。

*4 ジョン・デューイ(John Dewey/1859―1952):アメリカの哲学者。『学校と社会』などの著書がある。
posted by 不登校新聞社 at 12:59| Comment(2) | 親/親の会
この記事へのコメント
小学校三年の初孫が「発達障害」で不登校気味です。父親がいないのでわたしも一生懸命子育てしました。どうしようもなく心を痛めて見ています。社会に対して全身で根源的な問いを問いかけているようにも見えます。
 「不登校問題」に先駆的に取り組まれる新見市出身の山田先生のことが地元でも紹介されるよう期待します。わたしのBLOGでこの記事を紹介したいのですが、ちょっと問題があるでしょうか。とにかく何かのルートで新見市でも取り上げていただきたいものです。
Posted by ちゅうたしげる at 2018年09月08日 15:51
ちゅうたしげるさま

ありがとうございます。ブログでのご紹介、どうぞ、ご自由に書いていただければと思います。よろしくお願いします。

山下耕平
Posted by 山下耕平 at 2018年09月08日 22:44
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: