2018年10月08日

#47 奥地圭子さん

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(おくち・けいこ) 
1941年生まれ。4歳のときに東京大空襲に遭い、父の郷里広島で育つ。1963年、横浜国立大学学芸学部卒。その後22年間、公立小学校教員。1984年「登校拒否を考える会」設立。1985年に東京シューレを開設。1990年、登校拒否を考える各地の会ネットワーク設立(現在はNPO法人登校拒否不登校を考える全国ネットワーク)。1998年、NPO法人全国不登校新聞社設立。2001年、NPO法人フリースクール全国ネットワーク設立。2006年学校法人東京シューレ学園設立。いずれも代表理事、理事長を務めている。2007年東京シューレ葛飾中学校開校、2018年3月まで校長。2012年「多様な学び保障法を実現する会」設立、現在まで共同代表。2015年文科省「フリースクール等検討委員会」委員就任。

インタビュー日時:2018年9月6日
聞き手:朝倉景樹
場 所:東京シューレ王子
写真撮影:今井睦子

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〈テキスト本文〉

朝倉 このプロジェクトの最終回に、奥地さんに話していただくことになったわけですが、奥地さんの不登校との関わりは、質も幅も、非常に深く広いものがあるかと思います。まずは、不登校との関わりの概略をお話しいただけますでしょうか。

奥地 文部省(当時)が、1966年に「学校嫌い」の統計を開始して、ちょうど50年にあたる2016年に、このプロジェクトを開始したわけですが、50年と言うと半世紀ですから、さすがに長い時間ですね。
 私が不登校に関わるようになったのは、自分の子どもの不登校からで、1978年のことだったので、ちょうど40年前のことです。ですから、約50年のうち40年は関わってきたことになります。70年代半ばというのは、ちょうど不登校が増え始めるころで、まだ私のまわりでも見かけることがなかったんですが、本屋さんには、すでに登校拒否を治すような本が置かれるようになって、戸塚ヨットスクールがマスコミに出始めたりしていました。この40年間、不登校から学ぶことは、ほんとうに多くありました。
 私も当初は、親として「どうやったら学校へ元気に行けるようになるんだろう」と思っていたんですが、そういうことじゃないんだと、自分の子どもの不登校から学んで、1984年に親の会「登校拒否を考える会」を始め、それから1年半経って、学校以外の居場所、学び場、子どもたちの活動の場があったらいいじゃないかとなって、85年に東京シューレを始めました。そういう活動がもとになって、1990年に「登校拒否を考える各地の会ネットワーク」という親の会のネットワークをつくって(現在の名称は「不登校・登校拒否を考える全国ネットワーク」)、2001年にはフリースクール全国ネットワークをつくりました。
 そういうなかで、だんだん輪が広がってきたと思うんですね。以前から、当事者の発信は大事だと思っていたんですが、学校に行って当たり前という社会通念があるなかでは、「私は不登校してました」とか、「うちの子は登校拒否だったんです」とは、なかなか言えなかった。しかし、いまはだんだん当事者発信の時代になってきたと思います。私たちは、1998年に不登校新聞を創刊しましたが、そこでも不登校経験を持つ人たちが編集部で大活躍することで、世の中の不登校への寛容度がだんだんに上がってきたのかなと思います。
 うちの子が不登校だったころは、「首に縄をつけてでも学校へ行かせないと、ズルズル社会に出られなくなる」だとか、非常にひどい言葉ですけど「廃人になる」と言われることまでありました。そういうところから、いまは受けとめ方もやっと変わってきて、「学校復帰が前提ではない」とか、「不登校を問題行動と判断してはならない」と、文部科学省が通知を出したり、学習指導要領の総則に書く時代になった。それは、すごく大きな変化です。でも、それはやっと、この3年ほどのことですね。
 不登校に長く関わってきて、学校復帰が前提というのは、なかなか変えられない難しいことだったんですが、それがやっと変わってきた。それは一番うれしい、いろいろやってきてよかったなと思うところですね。


●わが子の不登校

朝倉 そうしましたら、まずは親として不登校を体験された78年ごろの話からうかがえますでしょうか。

奥地 当時、私は教員をやっていて、ちょうど中堅どころになっていたころでした。自分の子どもが学校に行かなくなるなんて夢にも思ってませんでしたが、家を転居して転校したことがあって、また、ちょうどいじめが広がってきたころでもあったんですよね。転校生は、ほかの人と少しちがう雰囲気を持ち込むので、からかいやいじめの対象になって、とても学校に行きづらくなっていたんです。長男は、前の学校と比べて「学校の雰囲気がちがう。息苦しい学校だ」と言ってました。私の言葉で言うと、管理的な学校だったんです。班競争があったり、休み時間まで何をするか決まっていたり、お手洗いに行くのも背の順に並ばないといけなかったり、非常におかしなやり方をしていた。
 それから、いじめに対する先生への不信感がありました。たとえば、授業中に後ろから鉛筆で頭を突かれて「やめろよ」って、最初は小さい声で言うんですけど、「やってねえだろ、因縁つけんなよ」「やっただろ」って揉めるわけです。先生はそれに対して「授業中にケンカはいけません。ふたりとも前へ出てらっしゃい」と言って、仲直りの握手をさせようとしたんです。でも、長男は納得してないですから、手を後ろへ引っ込めた。そうしたら先生は「強情な子ね」と言って、手を引っぱりだして、自分の手とふたりの手を合わせて「はい、ごめんなさい。これから授業中にケンカはしません」と先生が言って、「はい、お帰りなさい」と。しかも、子どもたちは「強情な子ね」と先生が言ったときにワっと笑ったそうです。長男は、「なんで先生は何があったのか一言も聞かないんだ。なんでやられたほうが謝らなきゃいけないんだ」って、まったく納得のいかないようすでした。
 そういうことがあって、朝になると、熱が出るとか、おなかが痛いとか、頭が痛いとか、身体症状が出るようになって、そういうときにはやむを得ないから学校を休ませるわけです。でも、ちょっとすると、また元気になる。元気になると、当時の私は「来週は学校行けるよね」と言ってました。子どもも「うん」と言ってたんですけど、それは本音ではなくて、学校は行かなきゃいけないと思って言っていたんですよね。それはあとから気がついたことですが、自分でもちゃんとしないといけないと思っているから、体調が悪くても必死で学校に行って、運動会の練習なんかもする。そうすると、へとへとになって帰ってきて、「お風呂入ったら」「ご飯食べたら」と言っても、まずは寝てからじゃないとできないぐらいでした。
 そこで、親としては「運動会の練習のときは見学させてください」とか、「疲れていたら早く帰してください」とか書いて先生に渡すんだけど、やっぱり先生の立場としては「みんな同じように疲れている。がんばっているのはおまえだけじゃない」とか言って、認められないんですよね。それで、必死にがんばって運動会は無事に終わったんですけど、運動会から帰ってきて、玄関で靴を脱ぐために座ったら、それきり立てなくなっちゃったんです。トイレも這っていくような状態になってしまいました。
 もっと困ったのは、食べ物を受けつけなくなったんですね。運動会では「うちに帰ったら、すぐにジュースが飲みたい」って言ってたんですけど、ジュースをつくってやっても吐くし、味噌汁やプリンもダメで、透明な水だけは吐かないんですね。消化の必要なものはすべてダメで、どんどん痩せていって……。
 私も混乱して、ほんとうに何が起きたのか、よくわからない。教師をやっていたので、教師がまともに自分の子どもを育てられないのは非常に情けない気がして、教師を続けていていいんだろうかとも悩みました。
 PTAの仲間からも「奥地さんが甘やかしたんじゃないの」とか、「もっとこういうふうに押せば大丈夫よ」とか、言われるんですよね。あとから考えると、学校に行かない子の親の気持ちは、行っている子の親には、なかなかわからないんだと思いますけど、当時は仲間からも気持ちをわかってもらえないと思ってね。近所の人の目もなんだか怖い気がして、ヒソヒソやっていると、何となく自分のことを言われているような気がして、買い物に行くのも、わざわざ遠くのスーパーに行ったりしてました。近所の奥さんには会いたくないんですね、同じ学校ですから。

朝倉 そういう状況は、どのくらい続いたんでしょう。

奥地 登校拒否そのものは、グズグズし始めてから2年ぐらいで、拒食症は3〜4カ月でしたかね。


●70年代の状況は

朝倉 当時、世間の登校拒否に対する見方は、どのようなものだったんでしょうか。

奥地 統計上、登校拒否の数が増え始めるのは75年からで、78年というと、まだ3年ぐらいしか経っていないころですからね。私も教師をやっていましたけど、不登校の子に出会ったのは、自分の子が最初でした。
 当時だと、やっぱり理解不能なことだったんじゃないですかね。何か学校でつらいことがあっても、「みんな学校へ行って、そうやって大人になるもんだ」と思っている。学歴社会になって、塾なんかも盛んで、点数競争もきつくなっているころでしたしね。
 ですから、子どもが学校に行かなくなったら、「どうやったら学校に行けるんだろう」と思って、たいがいの場合は医者に行ったり、相談所に行ったりしていたと思います。私の場合は、幸いにというか、行ったお医者さんに、なかなかいい医者がいなかったんですね。子どもが元気にならないんです。でも、どうしていいかわからなくて、いろんな病院をまわっていて、局面が変わったのは、国立国府台病院の児童精神科医長だった渡辺位さんに会ったことでした。
 国府台病院には、「希望会」という親の会があって、そこに不登校のお子さんがいる親の方がいっぱい来ていて知り合いました。みなさん、子どもが、なかなかたいへんな状態に追いつめられて、やってこられていました。

朝倉 お子さんの在籍した学校からの対応は、どうだったんでしょう。

奥地 先生がやって来て、やっぱり親の育て方の問題だって言うわけですよね。学校に行く行かないについては、夫婦の意見が分かれるんですよね。そうすると、「夫婦仲が悪いから不登校になるんだ」って言われたりもする。
 それから、子どもが「友だちと会えないのがつまんない」と私に言ったので、それを先生に伝えたんです。そうしたら、毎日6人ずつ、機械的にやってくるんです。どうしてそうなるのかなと思ったら、「月曜日は1班が行きましょう」とか決めていたんですね、子どもたちは自分の気持ちで来てるんじゃないから、いじめていた子も来る。そういうやり方はおかしいと思いましたけど、でも、最初のころは、友だちが来てくれるのはいいことじゃないかと、私も思ってました。
 ところが、子どものほうは、渡辺先生に「友だちが来てくれるのもいいか悪いかわからないよ。帰るときは、かならず学校に来るようにって言うし、それが約束通りにならないと、待っていたのに来なかったじゃないかってなるし、それは縄がよじれるように苦しかった」と話していたんですよね。
 それを横で聞いて初めて、私が先生に頼みに行ったのも先回りをしていたんだなと気づきました。子どもは友だちと遊べなくてつまんないって気持ちを親に訴えたかったのに、私はすぐに解決を求めていて、それが子どもの気持ちをより苦しめる結果になっていた。子どもの側に立つというのは、なかなか難しいですね。私は渡辺先生に会って、それから希望会に出会って、初めて気がつきました。
 教師をやっていたころも、子どもが原点だと思っていたわけです。だけど、自分の子が不登校になって、ほんとうには子どもの側に立てていなかったなと気がついたんです。どうしても、「こうあるべき」「みんなはできている」「ふつうは」というところから、子どもに何かをやらせようとしてしまっていた。
 わが家の場合にかぎらず、当時の不登校の人たちは非常にきつかったと思います。いまでこそ登校圧力は弱まりましたが、当時は、学校へ来られないなんておかしい、怠けだと思われて、戸塚ヨットスクールみたいなところに入れられることもありましたからね。あと、当時は山村留学も流行ってました。山村留学というのは、親のもとにいると甘えるから親から離して、他人の飯を食わせて、その村の学校に行かせるというようなことですね。子どもは希望していないんだけど行くしかない。


●渡辺位さんとの出会い

朝倉 渡辺先生とは、どういう経緯でつながったんでしょうか。

奥地 自分の教師としての実践記録を、『ひと』(*1)という雑誌の編集部に持って行ってたんです。そうしたら、編集部の人が登校拒否について話していて、「いろんな先生がいろんなことを言っているけど、やっぱり渡辺位先生が一番子どものところから考えている先生だよね」みたいな話をしていたんですね。
 こちらは、子どもが拒食症の真っ最中で、藁にでもすがりたい気持ちだったので、すっ飛んで、国府台病院に予約を取りに行ったんです。しかし、翌週にでも診てもらえるのかと思ったら、3カ月待ちだったんですね。その間、どうやったら食べてくれるのかと思って、ほんとうにあらゆる工夫をしました。田舎から好きなものを送ってもらったり、子どもがおいしいと言っていたレストランに行ってみたり、好きだった食べ物を買ってきたり、さまざまな料理をつくってみたりしたんだけど、ほんとうにちょっと箸をつけるとか、見ただけで「いらない」と言ったりで……。
 それで3カ月待って、やっと受診日が来るわけです。ところが、子どもは「行かない」と言うんです。それまでも、東大病院とか墨東病院とか、かかりつけの病院をまわっていたので、「いろんな病院に行っても、なんともなんないじゃないか。そういうのとはちがうよ」と言ったんです。ほんとうは、その通りなんでしょうけど、拒食症の状態ですし、私は医者じゃないと治せないと思っていたんですね。ですから、必死に説得したんです。「1日でいいから行かない? 先生にも会わなきゃわかんないじゃん」って。すると、私に付き合うつもりだったんでしょうけど、「1日ならいいよ」と言って、行ってくれたんです。
 それで渡辺先生のところに行って、私が「この子は1日しか来ないって言ってるんですけど」と言ったら、渡辺先生はあっさりと「今日1日だけ来たかったのね、わかりました。じゃあそうしましょう」と言われて、たぶん子どもはそれで安心したのかなと思います。「お母さんは、あちらのソファで座って聞いていてください」というところから始まって2時間ですね。初診者は10時から12時の2時間と決まってたんです。そのあいだ、子どもは話しまくってました。
 その話のなかには、さっき話した友だちが家に来たこともあって、それは私の先走りだと。それで、なんで学校に行けないかというと、「学校に行くと自分が自分でない気がする」と言うんですね。班競争の話とか、自分の納得のいかなかった話をたくさんしていました。私も、学校の管理教育はおかしいと思っていた部分はあったんですけど、自分がよかれと思ってやっていたことで子どもを追いつめていたんだと、子どもが渡辺先生に話すのを聞いていて、初めてわかったように思います。
 その2時間が終わったら、子どもがうーんと背伸びをして、「お母さん、羽が生えたようにいい気分になったよ。こんないい気分、何年ぶりだろう」と言って、「おにぎり食いてえ」って、自分から言ったんですよね。
 それまでの3〜4カ月、自分から食べたいなんて、もちろん言わないし、食べてくれなかったわけでしょう。それが自分から食べるって言ったので、すっ飛んで帰って、ご飯が電気釜にあったのでおにぎりをつくって、ぜんぶにぎったら、2皿できちゃったんですよね。拒食症の後だから、ほんとうは2〜3個でよかったと思うんですけど、子どもは、その2皿を「おいしい、おいしい」って、ぜんぶ、たいらげちゃったんです。もう、びっくりして。それがお昼ご飯だったので、夕飯はどうかなと思ったら、夕飯もふつうに食べられたんです。それはほんとうに、目の鱗をとられるような体験でした。


●僕は僕でよかったんだね

奥地 子どもはそのとき、「お母さん、僕は僕でよかったんだね。渡辺先生に会ったら、そう思ったよ」と言っていました。それでハッとしたんです。それまで、親は2年間ぐらい悩んでいたわけです。3年生から登校拒否が始まって、そのときで5年生。親も一生懸命やっているんだけど、子どもからすると、「こんな僕じゃダメだ、早く元気になって、早くみんなと同じように学校に行けるようにならなきゃ。でもできない」と思っていた。それが、渡辺先生に会って「僕は僕でよかった」って思えたというのが、ちょっとショックだったんです。いくら専門家といっても、たった1日、2時間話しただけで子どもがそう思えた。親のほうは、何としてでも元気になってもらいたいと思ってやってきたのに、逆に「こんな自分ではダメだ」と思わせてしまっていた。それは何だろうと、自分の考え方や子どもへの関わり方をふり返らざるをえなかった。
 そこで発見したのが、「わが内なる学校信仰」です。それまでは、どうしても学校を中心に考えていて、みんなと同じようにできてあたりまえ、いじめがあったり管理的だったり問題のある学校でも、みんな行ってるんだからって考えていたんです。それで、やっぱり親の育て方が何か悪かったのかと思っていたんです。
 だけど、渡辺先生は、みんなが学校に行っているとか、ふつうはこうしているというのは関係ないんですね。渡辺先生は、子どもが学校と距離をとるのは、学校から身を護るための生き物としての防衛反応で、まったく正常なことだというわけです。腐ったものを食べて下痢をしなかったらおかしいように、一見、正常じゃないように見えるかもしれないけど、その子にとってはそれは必要なことなんだと。そういう考えについては、後から知っていくわけですが、出会った日も、子どもの動きや言葉に対して、拠って立つ位置がちがっていたんでしょうね。
 そこでふと、自分が教師として学校のあり方について悩んでいたことと、子どもが学校に感じたことはいっしょじゃないかと思ったんですね。私も、さんざん学校を変えようとして、「子どもたちの気持ちに立ったらこうでしょ」とか言って、校長とケンカしたり、いろいろやってきて、でも、なかなか学校は変わらない。そういう学校の体質や物の考え方に対して、子どもがこういう反応を示すのも当然じゃないかって。それで、学校は子どもにとってのものなんだから、ほかの人が「あの学校はいいよ」と言っても、うちの子にとってよくなかったら、よくないんだと。そもそもは子どもの学ぶ権利のために学校はあるのに、さも行くのが子どもの義務みたいになっているのはちがうんじゃないかと。そのことに気がつかないで、とても子どもにとって、つらい対応をしてしまっていた。子どもからしたら、学校もたいへんなのに、家族の対応もたいへんだったんじゃないかって、すうっとつながったんですね。
 よく「奥地さんはブレないね」って言われますが、そのときの経験があって、そこからは、私はブレていないと思います。


●希望会で学んだこと

朝倉 お子さんが渡辺先生と会ったのは、その一度きりですか? お子さん自身にとって、とてもよかったのであれば、「続けて行かない?」ってことになりそうに思いますが。

奥地 でも、必要がなくなっちゃったんですよ、元気になっちゃったから。ご飯もふつうに食べるようになって、拒食症は治っちゃったし。
 「僕は僕でよかったんだ」と思えたのと、家のなかの考え方が変わったこともあって、子どもはどんどん外へ出るようになったんです。それまでは、車に乗せても頭を下げて乗っていたんです。人から見られたくないんでしょうね。こっちはそれが歯がゆくて「学校を休んでるからって、堂々と乗っていればいいのよ」って言うんだけど、「うん」って言いつつも、頭は下がってるんですよね。だけど、渡辺先生と会ったのを境に、昼間でも自転車で出かけるようになって、おもちゃ屋さんだとか図書館だとか、学校のある時間でも堂々と行くようになりました。もちろん車にもふつうに乗るようになって、すごく変わったんですね。
 そのときに、私自身も変わってるんです。それまでは、私自身もどこか引け目を感じていて、うちの子が不登校だなんて人に言えないし、なんとなく子育てにも自信をなくして、「教師をやっていてもいいのかな」という気持ちでいたんです。でも、その日を境に、これは自分の育て方の問題じゃなくて、みんなで考える問題じゃないかって思えたんです。
 それからは、教育研究集会だとか、PTAの集まりだとかで、子どもにとって学校はどうなっているのか、親がどういう考え方をしているのか、教育そのものをどう考えたらいいのか、「うちの子が登校拒否して、私はこういうことに気がつきました」って、ドンドン発言していったんですね。それは、ぜんぜん恥ずかしい問題じゃなくて、子どもがよくそういうことを感じたなと思って、学校が変わらないとダメですよねって、あちこちで言うようになったんです。
 そのころ、何かの集会の帰りに渡辺先生といっしょになったんですね、電車のなかで、「子どもが車にも隠れて乗るような感じだったのが、最近は堂々と出歩くんです。私自身もウジウジした気持ちがなくなって、親が引け目を持たなくなったことと、子どもの状態は関係ありますか」ってきいたら、「おおいに関係あるんじゃないですか。そういう親子はよく見ますよ」って、おっしゃったのね。私の経験からも、親が自分自身のことをどう考えているかは、子どもの状態にも相当関係あるかなと思います。
 息子は、1回しか渡辺先生に会ってないんですが、私のほうは、国府台病院で開いていた希望会という親の会に参加するようになりました。そのころは月に2回やっていたんですが、教師の仕事を持っていたので、午後に休暇をとって参加していました。
 希望会には、たまに渡辺先生が来られるんですが、10分ほど話をされたら、帰られるんです。渡辺先生は、お昼ご飯もとらないで、ずっと面談なさっておられたんですね。希望会では、親どうしで生の話を出し合って、みんな真剣で、ほんとうに勉強になりました。
 たとえば、「先週から子どもが口をきかなくなって、親がつくった食べ物を投げつけてくるんです」と、あるお母さんが言うでしょう。そうすると先輩格のお母さんが、「あなた、その前に子どもに何か言ったんじゃないの? 言った言葉を思い出してみなさいよ」と言う。それで、思い出して話していくうちに、「それよ」って、みんなが言って、「子どもの気持ちからしたら、そうしたくなるでしょう。しばらくご飯食べないと思うよ」なんて話になるわけです。ほかの参加者も、そこから学ぶんですね。私自身、だんだん、いろんな謎が解けてきました。
 そのころから、たくさんの相談が私のところにも来るようになって、朝5時ぐらいから電話が鳴るんですよ。夜中の2時ごろにかかってきたこともありました。「何ごとだろう、家族に何かあったか?」と思って飛び起きると、相談の電話だったりね(笑)。


●悩みの深さに

朝倉 相談の電話を受けるようになったのは、なぜでしょう。

奥地 みなさん困っておられたので、うちの電話番号を教えてたんですよ。いまのように個人情報なんて考えてる時代じゃなかったですし、何か役に立ちたいと思って。学校に電話されても困るから、家の電話番号を教えてたんです。携帯電話なんてない時代ですしね。朝5時ぐらいに電話があって「ごめんなさい、起こしちゃいましたか。子どもが寝なくて、朝方やっと寝てくれて、犬の散歩に行くからって外に出て、公衆電話からかけてるんです」とかね。あるいは、夕食の用意しているときにかかってきて「ちょっと後で」とか言うんだけど、すぐ別の電話がかかってきて、なかなか夕食ができない。それで子どもが手伝ってくれたりね。電話だけじゃなくて、職場を出ると門のところで待っておられたり、駅のそばで会ってくださいとか、どうやって見つけたか家に突然来られたこともありました。
 しかし、そのころの相談の悩みの深さは、相当なものでした。一家心中寸前だとか、3年ぐらい家を子どもが占領して、親は近くに小さいアパートを借りて住んでいて、ご飯だけを届けているとか、子どもを矯正施設に入れちゃったもののどうしたらいいか、とかね。あと、病気と診断されて病院に入れられて、薬漬けになって、男の子なんだけど乳房ができちゃって、ますます外を歩けなくなって、晴れていても、いつでも傘をさして、ぎゅって傘を下に向けて歩くしかないんですとかね。
 これは、希望会のお母さんの話ですけど、ある日、クラスの子が全員で迎えに来たんですね。そのお母さんも、希望会に関わる前のことで、「学校に行けなくなると人生がダメになる」と思って、その子たちを受けいれたんです。それで、クラスの子たちは、その子を担いで商店街のなかを通って、つれて行っちゃったんです。当然、「降ろせ。なんで、そんなことするんだ」って叫んだり暴れたりしますよね。みんながそれを見ている。それで、学校に着いて降ろされたところで、その子はターッと走って理科室に入って、ガラス物をバンバン投げるんです。その後、屋上に駆け上がって、先生とクラスの子が追っかけてくるんですが、「来るな、飛び降りるぞ」って。それで、先生が子どもたちを教室へ帰したところで、その子は一目散に家に帰って、その後3年間、ひきこもっちゃったんです。そりゃそうよね。その子からしたら、ひきこもらざるを得ない。そういうようなことが、たくさんありました。
 そのころの登校拒否への対応は、学校へもどすか、施設や病院に入れるかだったんですよ。それで、ほんとうにきつい状態になったお子さんが、希望会に出会って、すごく元気になって、働いたり進学したりしていたんです。家族のなかも、ごたごただったのが穏やかに暮らすようになったりね。その希望会が10年経って、通信も10年分あったので、ここまでのことを本にしましょうという話になったんです。それが『登校拒否・学校に行かないで生きる』(太郎次郎社1983)という本です。
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●反響の大きさから

奥地 その編集会議は、希望会に来ていたお母さんの住んでいた都営アパートの部屋で開いてました。その方の娘さんは、飛び降り自殺で亡くなられたんですね。そのころは制服や頭髪の規則がものすごく厳しくて、「校則だからしょうがない」と思って、散髪して登校してもダメと言われて、何べんもやり直しになって、そのことがきっかけで不登校になって、結局は追いつめられて、亡くなられてしまったんです。
 母子家庭で、お母さんにとってはたったひとりの家族で、「もし初めから自分が受けとめていたら、こんなことにはならなかったのに」って、すごく嘆かれていて、「娘の供養になるから、うちに来てやってくれ」と言われたんです。
 それで、しょっちゅう集まって、企画会議や編集会議をさせてもらいました。原稿の手記は20〜30通は集まったんですけど、その後、やっぱりやめますということが続いたんです。書いたお母さん自身は、ほかの人たちが同じような苦しみに遭ったり、子どもを追い詰めることがないようにと思って、反省しながら書かれているんです。だけど、家族から「そんなのみっともないから、よせ」とか「そんなことをやっているから、子どもがまともじゃないんだ」とか言われて、どんどん減ってしまって……それでも、何名もの方が、あの本に書いてくださった。

朝倉 この本には子どもの座談会も載っていましたね。

奥地 あれは日本で初めての、不登校の当事者どうしの座談会じゃないかと思います。うちの子も出ているんですけど、出てくれる子をそろえるのがたいへんでしたね。やっぱり、いったん引き受けても、当時は世の中の状況が厳しかったですからね。それでも、無事に座談できて、みんな自分の側からの意見をしっかり言ってくれました。私は、あの本は、不登校の流れを変えた最初の本だと思っています。反響は、ものすごくありましたね。
 お手紙をくださった方のなかには、母子家庭で、小2ぐらいの子が登校拒否して、村八分状態に遭って、お母さんは「この先も苦しい目にばかり遭わせるんじゃないか。もう自分も生きる元気ない」と思って、日光の華厳の滝まで行ったという方がいました。滝に飛び降りるつもりでね。そうしたら、子どもが「お母さん、滝の水きれいだね〜」って言ったんだそうです。たしかに、しぶきがキラキラして虹みたいになっていて、そこで、お母さんはハッと我に返って「私は何をやろうとしていたんだ」と思ったそうです。そのお母さんが「こんな本があるんなんて、生きていてよかった。仲間に入れてください」と手紙をくださったんです。ほかにも、親の会に参加したいという手紙がいっぱい来ました。

朝倉 希望会に入りたいと。

奥地 そうです。それで、渡辺先生が病院にきいてくださったんだけど、病院長がダメだというんです。要するに、病院の患者でない人は受けいれられないと。病院としては、集団治療と捉えていたんでしょうね。それで、私と竹下ミドリさん(当時の希望会の会長)で、病院の外に親の会をつくろうと話し合ったんです。こんなにたくさんの人が悩んでいて、私たちは経験をいっぱい持っていて、いっしょに考えていけば、もっと子どもを受けとめる人が増える。子ども自身は力を持っているんだから、それで育っていく人も増える。だから、希望会は希望会として病院のなかでやっていくとして、病院の外にも会をつくろうと。それが、いまも続いている親の会の始まりです。


●そもそもをどう考えるか

朝倉 そのときに、会の名前が「登校拒否を考える会」になりますよね。「登校拒否親の会」とか、ほかの名前もあり得たと思いますが、この名前にされたのは、どういう経緯なんでしょう?

奥地 会の方向性としては、登校拒否をどう考えるかが大事だということで、「登校拒否を考える会」という名前にしたんです。対応をどうするかは、その考えについて来ることで、そもそもをどう考えるかが大事。それは、みんなで考えないとダメなんじゃないかと。
 私は、当時から、親がどう対応するかという個人的なことだけじゃなく、社会が変わらないとダメだと思っていました。学歴社会がいっぺんに変わるわけはないし、受験競争ばかりに関心のある社会が、学校に行かないことを受けいれるなんて、そう簡単にはあり得ないですね。でも、子どもからすれば、まずは親にわかってほしいという気持ちがある。だから、まずは親が考えることが大事で、親の会を始めたんです。

朝倉 ひとりひとりが、そもそもを考えていく。

奥地 そう、そこが大事ですね。渡辺先生は、のちに『不登校は文化の森の入口』(東京シューレ出版2006)という本を出されますが、そういう考え方ですね。不登校・登校拒否って、いろんなことを深く見ていく切口になるんですよね。いまの学校のあり方、教育のあり方、社会のあり方、親のあり方、勉強とは何ぞやとか、自分の考えとか、すべてに関わっていく。

朝倉 なるほど。登校拒否を考える会は、希望会から、誰もが参加できるかたちにされたということでしたね。

奥地 希望会から登校拒否を考える会になったということではなかったんですね。希望会のなかでは反対した人たちもいました。「自分たちは希望会で、病院のなかでずっとやるのでいい。奥地さんや竹下さんがやりたいんだったらどうぞ」みたいな感じで。でも、私たちは、自分たちだけではなく、誰もが参加できたほうがいいと思ったんです。それと、社会が変わらないと、次々に出てきますから、社会にもっと広く問題を訴えたいと考えたんです。本を出したのも、そのひとつなんだけど、考える会をつくることによって、親がつながって、発信したり考えを広げたりしていこうと。
 それで、ふれこみををつくるときに、会の規則が必要だと言われてつくったんですが、その項目のひとつには「日本社会を変えたい」と書いてあるんです。よく「親が悩んで集まって、傷の舐め合いをしてるんでしょう」みたいな悪口を言う人たちもいましたけど、発足した当初から、そういう意識は持っていたんです。

奥地 考える会の初期には、夜間中学の松崎運之助さん(本プロジェクト#28参照)とか、「わかる子をふやす会」の八杉晴実さんとか、「数学塾むれ」の池見恒則さんとか、不登校の親じゃない人たちも協力してくれました。ただ、ほとんどは親でやっていたんです。


●塾でイキイキと学ぶ子たち

朝倉 その方たちとは『ひと』で知り合ったんですか?

奥地 いや、そうではなかったですね。当時、「新幹線授業」だとか「落ちこぼれ」という言葉が出てくるなかで、受験塾ではない、補習塾も広がっていたんです。それで「子ども支援塾ネット」という良心的に塾をやっている人たちのつながりを、八杉さんたちがつくっていたんです。そこに内田良子さん(本プロジェクト#31参照)や児玉勇二さん(弁護士)、西野博之さん(NPO法人フリースペースたまりば理事長)なんかも来られていました。
 私も、教員のころ、まだそういう塾があると知らないころは、子どもたちに「学校と塾とどっちが大事?」と言ってたんです。塾へ行く子が増えてきて、子どもたちが放課後活動で、新聞活動とかドッジボール大会をしようとか言っても、塾でポロポロ抜ける子がいて、残っている子たちから文句が出たりして、悩んでたんですよね。
 でも、その塾の人たちに出会って、その実践発表を聞いて、ほんとうに真剣に子どもたちが学ぶとはどういうことか、どういう考え方でやる必要があるかを知るんです。学校では「落ちこぼれ」と言われて、怒られてばかりで冴えない顔をして元気がなくなっている子が、それらの塾では、すごくイキイキと学んでいました。塾では、環境や教え方、その子を見る目がちがうんですよね。子どもを肯定的に見ている。そうすると、子どものほうもすごい力を発揮する。それで、自分が「塾と学校とどっちが大事?」と言っていたのはちがっていたなと思ったんです。そんなの、子どもにとってはどっちでもいいんです。
 フリースクールにつながる話で言うと、不登校の子がいっぱい出てきて、そこで何ができるのかと考えたときに、そういう塾に出会っていたから、学校以外の学びでもいいと考えたかもしれません。それと、親の会をやっていて、楽になった子たちが来るようになると、いっしょに遊んだりして非常に表情がいいんですよね。でも、月1回しかない。それで、あるとき「僕たち、どこ行けばいいの? 明日から行くとこないよ。もう家は飽き飽きしたよ」って言われて、「あ、学校以外の場があればいいんだな」と思ったんです。そういう流れがあったのと、そこで学校以外の場にあまり抵抗がなかったのは、たぶん支援塾ネットの人たちを知っていて、学校以外の学びが子どもに歓迎されていることを知っていたからじゃないかと思います。


●東京シューレの始まり

朝倉 奥地さんが東京シューレを始めるとき、親だけじゃなくて、親・市民と言われていたのは、そのようなつながりがあったからでしょうか。

奥地 まあ、親の会をやっていたわけだから、親が中心なんですけどね。シューレを始めるときは、考える会の人たちに協力してもらったけど、考える会のなかには、夜間中学や塾の人もちょっといたわけです。初期のシューレは、お金の面でやっていけないから、2年間は、夜に塾もやっていたんです。夜の塾では、学ぶことは楽しいよって体感してもらいたいという思いもあって、講座もいろいろ楽しいものを用意して、数学は八杉晴実さん、国語は松崎運之助さん、英語は藤田悟さんにやってもらっていました。藤田さんは、『子どもとゆく』という雑誌を発行していた大学の先生ですね。

朝倉 すごい豪華ですね。

奥地 そうやってやっているうちに、子どもが増えてきて、ひとりぶんの給料は払えるようになって、2年目には西野博之さんにスタッフになってもらいました。1年目は私ひとりで、ほかは、みんなボランティアで、月曜日の午前中はこの人、午後はこの人みたいにやっていたんですが、それでまずいのは、昨日あったことを今日の人が知らないからトンチンカンになったりして、子どもにとってよくないんですね。それで、誰か通しでいてくれる人がほしいと思って、保護者会で相談して、支援塾で知り合っていた西野さんに来てもらうことになったんです。西野さんは2年間、スタッフをしてくれました。そのころ、木村砂織さん(現在は東京シューレ葛飾中学校校長)も来ているんですよね。まだ20歳ぐらいだったと思います。木村さんは「夜にバイトをするので給料はいらないから手伝わせてくれ」って、おっしゃったんですよね。そうやって、ちょっとずつ大きくなった感じです。
 始める前は、ほんとうに成り立つんだろうかと思いましたよ。塾でもないですからね。塾は学校が終わってから行くところでしょう。それが子どもが朝から来て、学校と並行して開いて、それでやっていけるのかって。それは経営のことじゃなくて、はたしてこういう場が、ほんとうに社会的に必要とされるんだろうかと思ったり、うまく行くんだろうかと思ったりしていたんです。
 だけど、始めてみたら、学校に行かなくて、すごく自分をダメだと思ったり、落ち込んだり、イラついたりしていた子たちが、居場所に来るようになって、数カ月でとても明るい表情になったり、元気になったりしたんですね。帽子を目が隠れるまでかぶっていた子が、自然に帽子を脱ぐとか、横向きで、ずーっとみんなと顔を合わせないように入ってきた子が、何カ月かで、「おはよー!」って言って入って来るようになったり。そういう変化がすごくあって、「ああ、やっぱりこういうところがいるんだな」って、やり始めてから自信を持ったというか、そういう感じでしたね。


●フリースクールという名前は

朝倉 東京シューレは85年に開設されて、「日本のフリースクールの草分け」と言われていますけれども、当時は「フリースクール」という名前で始めたわけではないですよね。

奥地 フリースクールと言い出したのは、もうちょっと後ですね。種類としてはフリースクールになるのかなとは考えていたんですが、最初は「学校外の学びと交流の場」と言っていました。フリースクールは教育のひとつのかたちだと思いますが、そのころは、まだ不登校への対応が基本的に重要だったというか、そこにかなりのエネルギーがかかっていたと思います。

朝倉 そうすると、世間に対してシューレのことを説明するのは……。

奥地 それが難しかったですよね。初期のころ、ある新聞が記事にしてくれたんですが、それを読んだ北区の教育委員会が突如、何のアポイントもなくやってきたんです。背広姿の人が3人で来て、突然ドアを開けて、「ここは何しているんですか?」って。当時は、アパートの一室で、細長い、うなぎの寝床みたいなところだったので、ドアを開けるとぜんぶ見えるんですよ。そう言われて、子どもたちが怯えたんですよね。それで私はカーテンを閉めて、子どもたちには「奥にいて」と言って、その人たちに入ってもらって対応したんです。「あの、どなたですか?」「教育委員会だ」に始まって、「ここはどういうところですか?」ときくので、説明しました。「ここに来ているのは学校に行ってない子たちで、みんなそれぞれ家にいて、退屈したり、友だちをつくりたいとか、スポーツもやりたいと言うので、こういう場所があったら楽しくできるかなと思ってやっています。いけないんでしょうか?」って私が言ったら、「いけないというわけじゃありません」というお答えでした。それで、そのときは「わかりました」ということで帰ったんですよね。子どもたちにも「大丈夫だったよ。もし、こんなところはけしからんという話だったら、そう言うから、何も言わなかったから大丈夫だよ」と言いました。
 当時は、学校外の居場所というのは、とてもじゃないけど理解しにくかったと思います。そのころは、子どもがおまわりさんに補導されることも多くて、八重洲警察だとか池袋東署だとか、いろんなところに子どもを引き取りに行ってました。子どもが学校ではないところへ行く、しかも自由に来ていいわけだから、学校が始まるより来る時間が遅いですよね。10時とか11時とか、お昼過ぎに子どもが外を歩いていると、非常に怪訝に思われるわけです。それで「何してんの?」ってきかれると、子どものほうも、うまく説明できないから、背負っているナップザックを投げ出して逃げちゃったりね。そうすると、よけいにあやしまれて、追っかけられて、警察につれていかれたり。しかも、守るつもりだったと思うんですが、シューレの名前を言わなかったりするんですよね。でも、それだと帰してもらえないので、とうとう言って、それで私たちが引き取りに行って、「何も悪いことしていないでしょう」と言って、つれて帰ったり。そういうことがよくありました。


●クロンララとの交流から

朝倉 いまでこそフリースクールという言葉は市民権を得てきて、フリースクールと言えば、「そうですか」となることも増えていると思いますが、当時はフリースクールという言葉も市民権がないわけですよね。

奥地 当時は、この場がフリースクールにあたるのかわからなかったのと、フリースクールという言葉もあまり知られていなかったわけで、それを使っていいかわからなかったんですね。私自身は、すでにフリースクールについて知っていて、シューレをつくる前に、クロンララスクール校長のパット・モンゴメリさんにも会っているんです。ニールやサマーヒルスクールのことも知っていましたし、フリースクール研究会にも何度か出入りしていました。フリースクール研究会は、実際は教員の発表が多かったですけど、先述の藤田悟さんたちが開いていたんですね。だけど、日本では使われていない言葉で、社会的にどう受けとめられるかわからなかったので、最初のころのパンフレットには「フリースクール」とは書いてません。
 たぶん、はっきり使うようになったのは、クロンララとの交流からだと思います。シューレで借りているビルの大家さんがシアトルにアパート群を持っていて、無料で貸すよと言ってくださったので、高等部の子たちで行ったんですよね。そのとき、そこにクロンララのナットさんというスタッフが訪ねて来られて、初めて子どもたちと交流したんです。
 シアトルから帰ってきた子どもたちが、何かシューレとフリースクールはすごく似ていて、成り立ちはちがうのに、いっしょのようだと言うんです。子どもたちで決めて、自分たちのやりたいことを自分たちでやっていくとか、学校の教科書にとらわれないでやるとか、ルールも自分たちで決めてやっていくとか。だから、シューレもフリースクールなんだね、みたいなことを言っていたんです。それで、その後、日米フリースクール交流をしようとなって、子どもどうしの交流にも発展していくんです。
 私も、子どもたちもそう思うんだったらいいかなという感じがして、90年代ぐらいからはフリースクールと言うようになったと思います。80年代は、あまり使っていないような気がしますが、『登校拒否は病気じゃない』(教育史料出版会1989)では、すでにフリースクールと言っているようですね。まあ、そのあたりは、厳密にどこかで決めたわけではないんですよね。


●子どもたちも闘っていた

奥地 80年代の子どもたちは、世間の不登校への偏見や誤解を解くのに闘っていたと思います。それは意識して闘おうと思ったわけじゃなくて、自然にそうなっていたんですけどね。私は、それは評価できることだと思います。何せ文部省の調査で、登校拒否の原因の第1位は、毎年「怠け」だったんです。この調査は学校の先生方が回答しているんですけどね。
 88年のある日、子どもたちが会議用のテーブルに新聞を広げて、「このなかには俺も入ってるんだな」とか、「怠けだって言われているけど、こんなに苦しいのに怠けなのか?」とか言い出したんです。それで、「大人がやるとこうだから、登校拒否している子どもで調査したら、ちがうんじゃないの?」みたいなことを誰かが言って、「それやってみようか」となったんです。88年というと、学校外の居場所がポチポチでき始めて、親の会で知り合っている人もけっこういた。それで、「そういうところを通してアンケートを頼めば、子どもの回答が集まるんじゃない」と言って、子どもたちがアンケートに取り組み始めたんです。アンケートを作成して、発送して、返ってきた回答を集計する。すごくたいへんでしたけど、それが世情に影響を与えたんですよね。アンケート結果は、89年に毎日新聞が記事にしてくれて、その翌年ごろから、文部省の調査でも、不登校の理由が「怠け」から「中学生は学校が原因、小学校は家庭が原因」みたいに変わったんです。それには、びっくりしましたね。それと、東京都のアンケート項目もちょっと変わったりしました。

朝倉 当時は、登校拒否に対する偏見を変えて行く活動を、親の会と不登校の子たちが担っていたということですかね。

奥地 そうですね。親の会は各地にできて、つながり始めていました。子どものほうは、やっぱりフリースクールに来ていた子ですね。アンケートの前に、最初に子どもたちが声をあげたのは、中野富士見中のいじめ自殺(*2)の後です。この件について、弁護士さんたちが自分たちの研究会でとりあげたんですね。そのとき、「シューレの子たちも研究会に来ませんか?」って誘われて、何人か行ったんです。そのなかで、「子どもたちの人間宣言」が出るんです。 学校に行っている子と学校に行っていないシューレの子とでつくったもので、その発表も兼ねて弁護士さんたちが集会を開いて、400人ぐらいの参加者があった(88年5月8日)。そのシンポジウムにはシューレの子たちも入りました。それが、そういう活動の最初ですね。
 その集会のとき、非常におもしろかったのは、集会の参加者で、ある教育大学の4年生が、「君たちは学校に行かないことを認めろって言うけど、義務教育なんだからおかしいじゃないか」と発言をされたんですね。それに対して、シューレの子が「それは義務教育の捉え方をまちがえていると思います」と発言したんです。そうしたら、弁護士さんが「子どもの言った通りです」と補強してくれたんです。その学生さんが、帰りにアンケートを出してくれて、「今日は、僕は恥ずかしかった。僕のほうが不勉強でしたね。これから、もっとしっかり勉強します」と書いてあった。それを読んで、「いやあ、やったかいあったね」って。


●登校拒否は病気じゃない

奥地 一方で、88年には稲村博さん(精神科医/1935―1996)の「30代まで尾を引く登校拒否症/早期完治しないと無気力症に」という見解が朝日新聞の1面トップに出ましたね。それに対して、私たちは抗議集会を開いたんですが、そこでも子どもたちが大勢発言してくれました。
 集会は教育会館で開いたんですが、ものすごい人が来て、会場からあふれるほどでした。当時は、まだ登校拒否を病気と見る向きが強かったですからね。学校に行けなくなる子というのは、やっぱり精神的におかしいんじゃないか、みたいな。実際、病院に入れられていた子たちが逃げ出すことがあったり、「病院から出してほしい」という子も、けっこういました。親も「何で入れちゃったんだろう?」と思ったり。
 ほんとうに入院が必要だったら別ですが、ごく一般的な、どこもおかしくもない、でも学校に行ってないだけの子が、病院に入れられていたんです。しかし、出たいと言ってもなかなか出してくれない。それで、私たちが行って、何度も交渉して病院から出した例もありました。
 そういう病気扱いに対して反論したかったとき、たまたま登校拒否について本を出すことになって、『登校拒否は病気じゃない』というタイトルにしたんです。それに対して、「病者を差別している」とか「病気だっていいじゃない」という反論も、けっこうありました。でも、それは差別じゃなくて、学校に従っている子たちを正常として、学校から距離をとっている子を異常として、それを病んでいると捉えることこそが誤解であり差別であって、そういう偏見にさらされていることはおかしいということを言ったわけです。それを変えようということであって、病気になっちゃいけないとか病気の人はダメだと言っているんじゃない。そういうことも、ずいぶん言わなきゃいけなかったですね。
 それまでは、戸塚ヨットスクールを始め、怠けで軟弱な精神を直すといった施設に入れられることも多かったんですが、戸塚さんが裁判で有罪判決を受けたりして、その後もぽつぽつとはありますけど、このあたりから、そういう施設を利用する人はだんだん減っていくことになったんです。


●冤罪事件

奥地 もうひとつ、冤罪事件もありました。89年に東京都足立区の綾瀬で母子殺し事件が起きたとき、警察が不登校の子を疑って、不登校している子どものリストを学校に出させたんですよね。学校や教育委員会も唯々諾々と出しちゃって、3人の不登校の子が捕まったんです。弁護士さんたちが冤罪を晴らしてくれたんだけど、世間の目は冷たくて、結局、住んでいたところにいられなくなって、3人はバラバラになって、そのうちのひとりが東京シューレに来ていたんです。しばらくは通っていたんですが、やっぱり元の家にいられなくなって引っ越して、シューレに来られなくなってしまったんですけどね……。日本社会は、そういうところがおかしいですね。まったく罪じゃないとわかっても、世間の目が冷たいというのは何なんだって思います。
 ふり返ると、80年代に世間の誤解や偏見とフリースクールの子が闘っていた問題というのは、少なくとも、いま述べた4つがあります。もちろん、それ以外でも、子どもも親も、個々人で学校や教育委員会と闘ってました。周囲には、偏見の目で見る、いろんな人がいるわけですからね。
 あと、80年代では、宗教がらみになることもありました。お祓いだとか言って、高い壺を買わされるとか、毎朝お経をあげないといけないとか。
 日本社会では、大多数が学校へ行ってあたりまえと思われているなかで、不登校というのは何だかわからないことで、非常に問題扱いされてきたんですね。そういうなかで、当事者はとっても苦しんだんです。しかし、80年代、不登校の子どもたちが集ったところでは、子どもたちが自分らしさを取りもどしていった。そして、こんなのおかしいという動きをしていったわけです。それが、日本社会を反転させるきっかけも生んでいると思うんですね。もちろん、渡辺位先生みたいな専門家で、そういうことをわかる人たちも少しずつ増えたとは思いますけどね。スクールソーシャルワーカーの山下英三郎さん(本プロジェクト#30参照)とかね。日本児童青年精神医学会でも、人権の立場に立って、医療のあり方を見直そうという動きもありました。

朝倉 そうでしたね。

奥地 80年代末ごろになると、登校拒否をしている子を学校へもどそうというのはおかしいと考える、良心的な教師やカウンセラーとか、そういう人も増えてきつつはあったけど、総体としては、まだまだ理解しがたいという人が多くて、治さないと社会でやっていけないという、根拠のない観念に子どもたちが縛られていた。80年代までは、そういう時代だったと思います。


●文部省の認識転換は

朝倉 そうやって80年代に闘ってきて、90年代に入ると、文部省の学校不適応対策調査研究協力者会議の報告で「登校拒否はどの児童生徒にも起こりうるもの」という見解が示されて、「居場所」という言葉を文部省も使い始めます。「心の居場所づくり」というように。それは、親の会や子どもたちの発言など、いろいろな運動があって、文部省もそういう言葉を使わざるを得ないことにもなったのだと思いますが、このあたりで認識転換がありますよね。

奥地 その認識転換があったのは、私たちがやってきた市民活動が意味を持ったからなんですね。それは、後から知ったことですけどね。協力者会議の委員のなかには、永井順國さん(本プロジェクト#25参照)のように、不登校の捉え方を考え直す必要があるという委員も入っていたわけです。それで、山下英三郎さんと私が、会議のヒアリングに呼ばれたんです。それもあって説得力を持ったとおっしゃっていました。
 それまでは、文部省の「生徒の健全育成をめぐる諸問題:登校拒否問題を中心に」という手引き書が幅を利かせていて、そこには、子どもの性格が悪い、親の育て方が悪いと、ばっちり書いてあったんです。

朝倉 あれは、稲村博さんの理論がベースにあるんですかね。

奥地 そうですね。それが、92年の報告書では、そこから脱却とまでは言わないまでも、一歩出た。あの報告書とあわせて、民間施設のガイドラインが出て、フリースクールなどへの出席を学校の出席扱いにするとか、フリースクールに通うのに通学定期が使えることにつながるんです。ただ、相変わらず学校復帰が前提ではあったんですよね。だから、学校以外の居場所を認めると言っても、学校へもどるために役に立つんじゃないかというような考え方が残っていたんですね。
 出席扱いや通学定期については、それを認めるかどうかは校長裁量になっていて、シューレの関係では、あっさりと認める学校も多かったですけど。地域によっては、なかなか認めないところも多かったですね。国がそう言ってくれているのに、同じ国なのにおかしいという状態が、ずっと続いてました。


●通学定期運動

朝倉 通学定期が使えるようになったのは93年からでしたが、これも運動があったからですよね。けっして棚ぼたで実現したわけではなく、奥地さんたちが相当尽力されたからだと思いますが。

奥地 そうですね。民間施設のガイドラインが出て、フリースクールへの出席が学校の出席扱いになるなら、通学定期が使えて当然だろうと。実はその前から、文部省や鉄道機関に働きかけてはいたんですよね。だけど、けんもほろろで、「勝手に学校に行かないでいて、通学定期を使わせろとは何ごとだ」という反応でした。
 それで、92年に報告書やガイドラインが出て、「誰にでも起こりうる」とか出席扱いにすると言うのであれば、教育の応援として通学定期を認めてくれと運動したんです。子どもたちも自分たちが「通学定期だったら○○円で通えるのに、通勤定期しか使えないから、○○円払っています」ということをデータにして、議員に持って行ったんですよね。署名運動もして、全国の人が協力してくれて、3万筆以上の署名が集まりました。

朝倉 3万6000筆ぐらいでしたかね。

奥地 堂本暁子議員(本プロジェクト#19参照)が窓口になってくれて、署名は2回集めて、子どもといっしょに持っていきました。3回目の署名運動にとりかかろうとしたところで、決まったんです。私、覚えてるんですけど、1993年3月19日、文部省から電話がかかってきて、「この4月1日から、通学定期を適応します」と言うので、「え、あと10日ちょっとで、日本全国で使えるようになるんですか?」ってきいたら、「混乱は起きるかもしれないけど、その場合は文部省に問い合わせてくれ」ということでした。それを聞いて、文部省は本気なんだって思いましたね。これも、子どもの学ぶ権利を保障しようという動きが一歩進んだことにはなったと思います。ただ、このとき通学定期が認められたのは、小中学生だけだったんですが。

朝倉 それは、権利の伸張として大きな一歩だったと思います。ただ、フリースクールに通うことが認められることによって、一方では、あまり気持ちが進まない子どもに対しても、ともかくフリースクールにでも行ってくれということで、親御さんがシューレにつれてこられるということもありましたね。それをきっかけに、ホームエデュケーションの運動・活動を始めることにもつながったと思いますが、そのあたりもお話しいただけますか。


●ホームエデュケーションを

奥地 そうでしたね。出席扱いにするというのは、いいように見えて、そういう面も生みましたね。出席稼ぎをしないと、やっぱり高校受験が心配、その後の大学受験が心配という親御さんが多くて、そのためにシューレに行きなさいみたいなことが、出席扱いになったとたんに増えたんですよね。
 実際、子どもに会っても、いやいや来ているなという感じがありました。東京シューレの唯一の入会条件は、子どもが希望したらどんな子も入れる、希望しなかったら入れないということです。本人が希望しないのにやってくるのは苦しそうで、「シューレに入らないといけない。入れない自分はダメだ」とか思っているのを、なんとかしたいなと。
 そこで、だいぶ考えて思いついたのが、ホームエデュケーションでした。アメリカやイギリスでは、ホームエデュケーションという道があるのに、日本では、どうして家で育つのがダメなんだろうって。家にいると育たないように、みんな思い込んでいるから、そこを変えたいよね、と。
 それで、家で育つやり方を肯定していく、応援していくような活動をやろう、具体的にどういう活動だったらいいだろうと話し合ったんですよね。シューレのスタッフと保護者で関心を持つ人で合宿に行って、夜を徹して、どういうかたちがいいか、どういうことができるか話し合った。それで、つながりあうための雑誌を出そうとなって、雑誌の名前は何がいいか考えて、最初は「いるか」という案だったのね。「どうしているか」とか「元気でいるか」の「いるか」。でも、何の雑誌だって思われちゃうかもしれないから、結局は「ばる〜ん」という名前になりましたね。
 いまでも、「ばる〜ん」は月刊で発行されていて、この10月でちょうど300号になります。そうやってホームシューレをスタートしたんですよね。そのときに、諸外国の例をもっと日本に知ってもらったらいいんじゃないかということで、朝倉さんが連絡をとってくれて、イギリスやアメリカに調査に行きましたね。

朝倉 オランダにも行きましたね。あのとき、旅行代理店の人が驚いていたのは、「地球1周という航空券の組み方があるんだけど、私は初めて組みました」と。最初は太平洋を越えてアメリカに行って、アメリカから大西洋を越えてヨーロッパに行って、オランダ、イギリスに行って、そこから日本に帰ってきた。

奥地 そうでしたね。イギリスでは、ホームデュケーションの子どもがほんとうに堂々と育っていました。私たちもホームステイさせてもらったんですが、学校に行っている子と学校に行ってない子とで、ぜんぜん隔てなく付き合って、楽しくやってました。日本の子は、どうして家にいると、暗くなったり、自信をなくなしたりするんだろうと思っていたので、ほんとうによいモデルが海外にはあるなと思いましたね。アメリカでも、ホームエデュケーションで育っている人が、あのころで何千人と言ってました?

朝倉 8000人ですね。

奥地 日本でも、あるグループがクロンララとつながっていましたね。

朝倉 300人くらい、いましたね。

奥地 ホームエデュケーションというのは、ひとつの教育のあり方で、普遍性がある、むしろ日本が特殊なんだと。日本では、学校中心でやってきたのに対して、もっと教育を家庭を中心に考えてみようと。家庭をベースにして、いろんな社会資源を使っていく。
 日本では、ひきこもりのイメージが相当強くて、「家でいいなんて言ったら、ひきこもっちゃうんじゃないの?」「社会に出られないよ」みたいなイメージが強かったんです。でも、だんだんに家で育つのがいいという人たちが出てきて、火付け役になるかなと思って、94年に有楽町マリオンで集会を開いたんですよね。アメリカとイギリスから来ていただいて、日本側からも、羽仁未央さん(*3)に出ていただいたりした。

朝倉 堂本暁子さん、山下英三郎さんにも登場していただきました。

奥地 そう、それでシンポジウムを開いた。690人定員のところに900人くらい来てね。階段に人がダーッと並んで、「今日は新しい映画の封切ですか」って、通りがかりの人にきかれたんだけど(笑)、それくらい注目を集めたんですよね。
 そうやって出発したんですけど、やっぱり日本社会では、どんどん発展するということにはならなかったですね。でも、ホームシューレを始めて25年、4半世紀経って、ホームエデュケーションで育った人が、いまは社会で働いていたり、家庭を持ったり、大学生になったりしています。だから、海外で言っている通り、ホームエデュケーションはあり得る話で、そういう道もちょっと開けてきた。ほかのフリースクールでは、おもに通いでやっていると思いますけど、シューレでは、通いもあるし、家でやっていくのもあるしと、両面でやってきました。


●子どもの権利として

朝倉 奥地さんは、その後、法律をつくることにも相当尽力されてきましたね。その際、もともとはホームエデュケーションを基盤に法律を起草するという話だったと思います。そういう話が現実性を持ったというのは、やはりこの時期にホームエデュケーションのネットワークを始めて、日本にもホームエデュケーションの活動があるということが認識されてきたことが大きかったように思いますが。

奥地 そうですね。子どもの権利条約が1989年に国連総会で採択されて、子どもに関わることを権利として捉えていくようになりましたね。学校は、そもそも子どもの学ぶ権利を保障するためにつくられたものです。でも、その学校が、自分からすれば合わないとか、そこで傷つくとか、個性が尊重されないということがあった場合、自分に合ったかたちで育つということが、子どもの権利のひとつとしてあるだろうと。ですから、子どもの権利条約も心強かったですね。それで、子どもの権利条約について不登校の分野からも考えてみようと、登校拒否を考える全国ネットワークの人たちで集まって、合宿をしましたよね。
 
朝倉 96年の箱根大会でしたね。

奥地 まずは大田シューレで合宿をして、それを箱根の全国合宿に持ち込んだんです。それから、同時期に、子どもの権利条約は根拠になるということで、NGOから国連に報告するレポートづくりにも参加して、国連でも報告してもらいましたよね。海外で、実際にホームエデュケーションは機能している、そうやって育っている人たちがいるということは追い風になったと思います。
 もうひとつ、2007年から、東京シューレ葛飾中学校を始めて、これは不登校の子どもたちを支援する学校なんだけど、ホームシューレの実践を土台にして、「自分に合っているのは家なんですよ」ということで、ホームエデュケーションを取り込みながらやったんです。それが非常によかったんですね。
 そういうことを土台にして、法律的にもちゃんと保障されるようにもっていきたいというところへつながっていくんですね。


●90年代に花開いた活動

朝倉 90年代半ばからは、シューレの子どもたちが、かなりスケールの大きいことをやっていましたね。

奥地 すごく、おもしろかったですよね。シューレは「子どもたちでつくる」「子どものやりたいことを応援する」「みんなで決めていく」というやり方なんですが、そこから次々と、夢みたいなことが実現していくんですよね。気球をつくったのが、1993年でしたね。全国子ども交流合宿をシューレで実行委員会をつくってやることになって、そのとき、自分たちで気球をつくって空にあげたんです。だけど、この全国子ども交流合宿というのは、風の子学園事件をきっかけに始まったんですよね。
 
朝倉 91年に広島であった事件ですね。

奥地 子どもたちがふたり、瀬戸内海の島にある風の子学園という矯正施設で、炎天下のコンテナに手錠をかけられた状態で閉じ込められて殺されてしまうという事件でした。その追悼として、「こういうことが二度と起きてはいけないので、全国の不登校の子はつながろう」と言って、広島の子たちが中心になって始めたんですね。東京からもいっぱい参加して、第1回の全国子ども交流合宿をその島でやったんです。その2回目を東京シューレの子たちがやろうとなって、そこで気球をあげようという話が出た。王子シューレの4階にミシンを4台置いて、どこに人がいるかわからないくらい、天井まで布だらけみたいな状態で縫ってました(笑)。
 そのころ、たまたま長男が東工大の気球部にいて、気球づくりに協力してくれたんです。バーナーも借りてきてくれて、空気をあたためて気球がふくらんで、空にあがったときは、なんとも感激しましたね。あるお母さんは、いくらフリースクールに行っても、学校に行かないのはダメなんじゃないかと思っていたんだけど、気球があがるのを見て、涙をポロポロを流して「いやあ、うちの子すごい! こういうことをやれるんですね。もう学校に行く行かないじゃないわ」と言って、学校へのこだわりが消えたんですよね。制作途中では、布をなくしちゃったり、いろんな苦労もありましたけどね(笑)。
 それと、先ほど話した日米フリースクール交流もありましたね。太平洋をまたいで、1カ月ほど旅をしました。また、ある子が「ログハウスを建ててみたい」と言い出して、最初は茶飲み話だったのが、どうやったら建てられるんだろう、建てた人のところに見学に行こうとか、模型をつくってみようとか言っているうちに、実行委員会ができて、場所探しをして、160通くらい、あちこちの村に手紙を出して、長野県麻績村に建てられることになって、実際に建てちゃったんですよね。完成までは4年半くらいかかって、たいへんだったんだけど、すごくがんばってました。私が行ったとき、女の子が高い足場の上で、梁に向かってトントンやっているのには度肝を抜かれました(笑)。
 それから、鉄道好きの子たちが、実際に機関車をつくったこともありました。秩父の工場に見学に行ったり、自動車関係にお勤めのお父さんたちが手伝ってくれたりして、でも、基本の設計図は自分たちで書いて、数学をやってなかった子が、必要だからサインコサインとか電気系統の勉強をして、溶接から何から、ぜんぶ取り組みながら学んでいってました。それで完成したときには、すごい自信になってました。その機関車は、いまも大田区の公園に保管されていて、お祭りのときには出して、小さい子たちを乗せてくれているそうです。
 そういうでっかい夢を実現するなかで、いろいろ成長したり学んだりすることがあって、それはフリースクール的な学びだからできたことですね。これが学習指導要領に沿った時間割があったら、どうしてもコマ切れになってできない。いろんな学び方があると思いますが、フリースクールみたいに自分のやりたいことを通して自分が学んでいくのもいいかなと思いますね。


●世界大会を東京で

朝倉 海外のことでは、大陸横断旅行やIDEC(*4)の日本開催なんかもありましたね。

奥地 そうですね。海外の活動は、朝倉さんがすごく尽力されましたが、第1回目のIDECに行かれたのは何年でしたか?

朝倉 97年ですね。ウクライナで大会が開かれたときで、子ども3人と私で参加してきました。

奥地 それで、もどってきて、すごくよかったと。「自由とはなんぞや」とか、とても考えさせられて、「日本ではフリースクールと言っても肩身が狭いけど、世界的にはひとつのあり方で、当然のことなんだよ」みたいなことを言ってました。それで、みんなで行きたいけど、お金のかかることだから、「日本で世界大会をやろう」と言いだしたんですよね。
 それで、99年にイギリスのサマーヒルスクールで開かれた大会に何人かで行って、そこで翌年の開催地に立候補したんですよね。そうしたら、「日本の子どもたちがすごいやる気だから、日本でやりましょう」となって、2000年に日本大会を開くことになったんです。
 ユーラシア大陸の横断旅行も、ある子が「大陸横断をしてみたい」と言いだして、いろいろ調べたり企画したりして、シベリア横断鉄道に乗って、日本海から北海まで行っちゃったんですよね。それも、子どもたちにとって、ものすごい勉強になったと思いますね。
 ポーランドでは、独立学校の子どもたち5人が、子どもたちだけでやってきて、日本人をバスに乗せてくれて、ワルシャワとクラコフに泊まって案内をしてくれて、最後にアウシュビッツにつれていってくれました。学校の先生たちは、最後にちょろっとあいさつしたくらいで、何から何まで、ぜんぶ子どもたちがやってくれて、その主体性にびっくりしたのを覚えてます。


●不登校への圧力が減っていった

朝倉 その時期、おもに90年代に、子どもたちのスケールの大きい活動が、たくさん花開いたのは、どうしてだと思われますか?

奥地 ひとつには、国がソフト化したことがあると思います。まだまだ学校復帰前提ではあったけれども、以前に比べたら、かなり対応が柔らかくなった。出席扱いや通学定期も、そのひとつですね。
 世界的に見れば、日本のように国が決めた学習指導要領のなかだけでやっているのが狭いのであって、グローバル化が進むなかで、それではやっていけない。学校以外のあり方もありだなとなって、勢いが出たということもあると思います。追い風が吹いていると感じました。90年代は、不登校への圧力が減っていった時期じゃないかと思います。
 もうひとつには、経済的に、学校・大学を出たからといって、いいところに就職できるとかぎらないということが見えてきましたよね。バブルが崩壊して、不況の深刻さが押し寄せてくるなかで、学歴の持つ意味が若い人に感じられなくなったということもあると思います。その結果、学校のレールに乗らなくても、そんなに引け目を強くもたなくてもよくなって、「なんだ、フリースクールでやれるわ」という感じが出てきた。子どもたちも、「自分たちでいいじゃん」という感じになって、親のほうも、学校にとらわれなくてもいいかなという感じになってきましたね。


●フリースクールのネットワーク

朝倉 先ほどIDECの話もありましたが、その翌年2001年にフリースクール全国ネットワークが始まって、親の会のネットワークに加えて、フリースクールのネットワークができましたね。

奥地 親の会で話されるのは、基本的に不登校にどう対応するか、なんですね。でも、子どもがほんとうに自分を発揮するためには、学校以外の場を求める子たちもいるわけです。そういう子どもたちとつくっていくフリースクールというのは、学校教育にはない新しい要素を持っていると思います。そこが役に立つんじゃないかと思ったんですね。
 日本は学習指導要領1本ですから、学習上の工夫をどんなに一生懸命やっても、その枠の範囲でしかできない。子どもの個性や可能性は、もっといろいろあるのに、学習指導要領に縛られてしまっている。私も22年間、教員として学校のなかで学校を変えようと思って、相当いろんなことをやったんです。でも、やっぱり限界があって、学校以外が必要で、それを選べることが大事じゃないかと思ったんですね。
 しかし、フリースクールの何が難しいって、公的なお金が出ないので、どんなによい活動をしていても、なかなか継続していくのがたいへんなんですね。そういう状況を変えていかないといけない。フリースクールどうしがつながって、国に対しても、地域社会に対しても、フリースクールの存在を認めさせて、活動しやすいようにしたい。それは、子どもたちの学ぶ権利がそこで保障されるということです。少なくとも学校と対等に保障されるようにしたい。
 フリースクールにかぎらず、いろんなオルタナティブな教育のあり方が多様にあって、そこで育っていくということが、非常に大事だと考えています。いろんな育ち方ができて、しかもそれが不利益にならないようにしていく必要がある。
 フリースクール全国ネットワークをつくるきっかけは、2000年のIDEC東京大会でした。この大会には、世界中の人たちが集まってくれて、日本のフリースクール関係者や、教育について考えている人もたくさん集まった。そこで、つながって何かやりたいという機運があったので、シューレでIDECの実行委員をしていたある青年に、「ネットワークをやる気ない?」って声をかけたんです。「それはおもしろいですね。僕は時間があるからやりましょう」と言って、走りまわってくれて、フリースクール全国ネットワークができたんです。そのネットワークが、新しい法律をつくる素地になったんですよね。だから、ずっと活動はつながっているんです。子どもたちが世界大会を開こうなんて言わなかったら、もうちょっと遅れていたと思います。


●不登校新聞創刊

朝倉 IDEC東京大会では、不登校新聞でも毎日、号外を出して、情報発信ということでも尽力されてましたね。

奥地 不登校新聞は98年に創刊したんですが、そのきっかけになったのは、97年9月の自殺問題なんですね。毎年、夏休み明けは気がかりだったんですが、その年の9月、静岡で鉄道自殺をした子がいて、淡路ではガソリンをかぶって焼身自殺した子がいたんです。筑波では中学校の体育館が燃えて、火をつけた子たちは「学校が燃えたら学校に行かなくてすむと思った」ということでした。そういう報道に接して、これはもう動かないといけないと思ったんです。その時点で、85年のシューレ開設から12年は経っていたわけですよね。12年間やってきて、フリースクールも増えてきて、実際には学校以外の育ちもできるのに、学校が始まる夏休み明けに、苦しくて自殺してしまう子たちがいる。もっと、「学校は休むことができるよ、学校以外もあるんだよ」って知らせなきゃと思ったんです。
 私たちはマスメディアには感謝しているんです。金もないなかで、マスメディアのおかげで情報発信できてきたわけですから。だけど、やっぱりマスメディアは自分たちの観点とはちがうんですよね。学校中心で見ているし、こちらの一番言いたいところを報道してくれるわけじゃない。ちょっとちがうように書かれることも多くて、それだったら協力しなきゃよかったということも、よくありました。そこで、自分たちのメディアを持って、もっと自分たちで発信したいと思ったんです。
 それで、すでに親の会の全国ネットワークができていたので、その協力を得て、不登校新聞はできたんですね。それがなかったら、創刊できていなかったと思います。まずは、東京、大阪、名古屋に局を置けたらいいと思って、名古屋の多田元さん(弁護士)と、大阪の山田潤さん(本プロジェクト#46参照)に会って、理事になってもらいました。ほかの全国ネットワークの世話人の方たちには、通信局になってもらったり、広報していただいたり、ボランティアで担っていただきました。みなさん不登校の状況をよくしたいという思いで、協力してくださったんですね。そうやって、新聞ができた。その後、子ども若者編集部にいた石井志昂くんが、2000年ごろ、韓国に行ったときに、飛行機の機内で声をかけてきて、「僕、新聞やりたいです」と言ってね。編集スタッフになってもらって、いまは編集長です。

朝倉 当時は、まだ10代でしたよね。新宿シューレの会員で。

奥地 最初は子ども若者編集部で活動していて、自分が当事者だということも大きかったんだと思います。そういう立場から、いろんな人にインタビューに行ったり、取材に行ったりしていました。不登校新聞も当事者の書き手が育ってきて、以前よりもずっと、当事者からの見方で発信できているかなと思います。


●法律づくりへ

朝倉 メディアを使って発信することで社会に影響を与えることはできると思いますが、、それだけでは社会は変わらないですね。具体的に法律や制度に市民として働きかけて、不登校、フリースクール、ホームエデュケーションの子どもや家族が生きていきやすいような社会をつくっていくことも、ずいぶん長くされてきていますね。

奥地 法律づくりを始めたのは、2009年の日本フリースクール大会で、「フリースクールの政策提言」を出したのがきっかけです。その時点でも、不登校をめぐる悩みや苦しみは変わらないところがあって、それは個人的な問題じゃなくて、この社会の構造、とくに教育制度の問題です。諸外国のように、もっと多様に選べるようになれば、不登校や登校拒否ではなくて、自分はそういう道でやっているということになる。そこに踏み出さないかぎり、子どもの苦しさや親のたいへんさは変わらない。
 それから、とてもいい仕事をしている学校以外の学び場の人たちも、正式ではないという意味では日陰の身で、そこに通う親たちも税金を払っているのに、公的なお金が学校外の場には出ないので、自分たちで費用を払って支えている。それもおかしいし、解決しないといけないことです。また、フリースクールに通っていても、いまの制度では二重籍になっていて、在籍校の卒業証書をもらうかたちでないといけない。そうすると、何となく釈然としないものが残ってしまう。
 そういうことから、新しい法律をつくろうと踏み出したんです。それまで、私たちがフリースクールを公的に応援してくれと働きかけても、いつも「根拠がない」と言われてきたんです。だから、その根拠をつくるためには、法律をつくる必要がある。
 そこで、私たちが考えたのは、学校教育法のほかに「多様な学び保障法」をつくって、学校以外も選べるようにするということです。学校以外を選んでも社会的にも応援され、不利益がないようにする。もちろん、最初から私たちが目指したような法律になるとは思ってませんでした。ただ、少しでも岩盤に穴を開けかった。日本社会がどれほど学校にこだわってるか、この30年間で山ほど経験してきたので、そう簡単じゃないのはわかっていました。よく「奥地さんたちが目指した法律ではないのに、それに賛成するのか」と言われるけど、何もなかったのが、一歩進んだんです。2016年に成立した教育機会確保法には、休養の必要性とか、学校以外の場の重要性とか、子どもの意思を十分に尊重するとか、子どもや親に必要な情報を提供するということが、ぜんぶ入ったんです。以前よりはずっと前進しています。ですから、これからは、この法律をもっと目指すべきものに変えていくようにしたいですね。


●変化した部分、変化しない部分

朝倉 奥地さんが40年、不登校に関わってこられて、不登校への見方の変化をどのように見ていらっしゃいますか。

奥地 変化した部分と、変化しない部分があると思います。変化しない部分はどうしても残っちゃうと思いますが、70〜80年代と比べたら、「不登校はあり得るよね」ぐらいには変化してると思います。かつては、それこそ「人間のクズ」だとか「病気」だとか「怠け」のように言われていて、「叩きなおさないとダメ」だとか、「首に縄をつけてでも学校に行かさないとダメ」みたいな考え方が一般的だったんですよね。いまは、「そういう子どももいるよね」「無理に行かせるのはどうか」ぐらいの受けとめ方にはなって、幅は出てきたと思います。
 ただ、学校中心社会で、多くの人は学校を通って社会に出ているわけだから、ほんとうに学校に行かない、行けない子の気持ちがわかるかというと、難しいでしょうね。でも、子どもの気持ちを尊重したいというところには、なってきてますね。
 そうは言っても、学校に行かないことへの不安から、「やっぱり自分はダメなんじゃないか」となってしまうところは、なかなか拭えないですが、それは、学校以外の学び育ちがほんとうに選べるようにならないと、変わらないと思います。

朝倉 不登校運動と言いますか、親の会の運動やフリースクール運動が、日本の教育や日本の社会を変えたところは、どういうものだと思われますか?

奥地 日本では、教育はお上がやるものだという感覚がすごく強かったと思うんです。戦後、憲法が変わっても、そうだったと思うんですね。だけど、フリースクールは、子どもの教育を、学校とはちがうかたちで、親や市民たちがつくりだしてきたわけです。そういうなかで、教育はお上だけがやるものじゃないという感覚が、少しは広がってきたかなと思います。
 もうひとつ、私が一番大きい変化だと思うのは、不登校に対して、ずっと学校復帰が前提だったのが、学校復帰のみを求めないと変わったことですね。「不登校を問題行動と判断してはならない」「不登校児童生徒が悪いという根強い偏見を払拭する」ということが、文科省から全国に通知されていて、学習指導要領の総則にも書かれました。これは、ものすごく大きな変化です。私たちが親の会やフリースクールをやってなかったら、こういう変化は起きてなかったでしょうね。
 やっぱり内から動いてこそ、変えられることがある。文科省のなかにも、政府のなかにも、私たちと共感し合えるような人たちもいらっしゃるわけです。その人たちを動きやすくした面もあるのかなと思います。
 そうやって、長いあいだずっと活動してきたことが、社会を変える元になっているんですね。線香花火のように、パッと散るようでは社会を変えられない。それは、ほかの社会問題でもそうですね。たとえば、性の多様性は当然ですし、障害者の強制不妊手術なんておかしい。だけど、日本社会の多数の人が「そうだよね」となるには、時間がかかる。いま、やっと不登校についても、一般の人の意識が少しずつ変わってきた。まだ変わってない部分も多いですが、だからこそ、これから先も継続していくことが大事だと思います。

朝倉 ありがとうございました。最後に、この不登校50年証言プロジェクトは、このインタビューをもって終了だそうですが、これに取り組まれていかがでしたか。

奥地 2年余りにわたって、47本の記事を公開し、52人に登場いただき、くわしい話を聴かせていただきました。これは「日本の不登校史」に関わった人たちの生の証言です。これが残せたということは貴重で、私たちにたくさんの考える手がかりを残してくださいました。それぞれに考え方や現実のとらえ方のちがいはありますが、読者の方には、それも含めて、今後、考えを深めていったり、検討していく材料にしていただければと思います。エネルギーはかかりましたが、有意義な活動ができたと思います。このプロジェクトは、多くのみなさんのご寄付により実現可能となったものです。最後になりましたが、厚く御礼申し上げます。

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*1 『ひと』:数学者・遠山啓(1909―1979)を編集代表に、太郎次郎社から1973年に創刊された教育誌。2000年8月まで刊行されていた。

*2 1986年2月1日、当時、東京都中野区富士見中学校2年生だった鹿川裕史くんが自殺。遺書には、「俺だってまだ死にたくない。だけどこのままじゃ「生きジゴク」になっちゃうよ」とつづられていた。

*3 羽仁未央(はに・みお:1964―2014):映画監督の羽仁進と女優の左幸子を両親に持ち、祖父は歴史学者の羽仁五郎、祖母は婦人運動家の羽仁説子。小学校4年生のときに学校に行かなくなり、以後、学校には通わなかった。映画監督、メディアプロデューサーとして活動し、シューレ大学のアドバイザーも勤めていた。

*4 International Democratic Education Conference:1992年より毎年開催されている、世界各地のオルタナティブ教育関係者が交流する場。2000年には日本で開催された。
posted by 不登校新聞社 at 12:00| Comment(1) | 居場所・フリースクール関係
この記事へのコメント
不登校50年プロジェクト。無料でこんな記事を読む事ができて幸せでした。娘が学校へ行かないと泣き叫んだ時から色々悩みましたが、心が決まりました。実は私の兄が若くしてなくなっています。その頃から学校、そこから外れると精神科という図式を肌で感じていて何がそうさせてしまうのか、娘を同じ道に行かせまいともがきましたが、スッキリ腑に落ちる考えがなく結果、病気と考えた方が楽になる気さえしていました。しかし、兄は薬で良くなるどころか悪くなる一方でした。(今の精神科の薬がそうと言っているのではありません。)その為私は心理学科で勉強もしました。薬と良い付き合いをして改善される方も沢山います。しかし学校へ行けない=病気はおかしい!!その疑問をぬぐってくれたのがこちらの皆さんの記事でした。私は何をしようと今明確に答えはでていませんが、とにもかくにも娘の笑顔を大切に、社会の波にのまれないようにこの先生きていこうと思っています。
Posted by 安宅奈津子 at 2018年10月09日 19:02
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