2018年07月05日

#42 本田真陸さん、彦田来留未さん

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(ほんだ・まりく)
1994年生まれ。中学校1年生から不登校。東京シューレに中学校2年生から18歳まで在籍。アラスカ旅行の実行委員長として、企画、準備をした。「不登校の子どもの権利宣言」の作成に参加。現在は、アフリカのために働くことを考え、準備中。(写真左)

(ひこた・くるみ)
1989年生まれ。小学校4年生から不登校。東京シューレに小学校5年生から21歳まで在籍。「不登校の子どもの権利宣言」の作成に参加。現在は、以前から好きだったイラストに力を注ぎ、絵本をつくっている。(写真右)

インタビュー日時:2018年4月25日
聞き手:奥地圭子、木村砂織
場 所:東京シューレ葛飾中学校
写真撮影:木村砂織

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〈テキスト本文〉

奥地 今日は、忙しいなかを来ていただいて、ありがとうございます。おふたりは不登校を経験した当事者で、「不登校の子どもの権利宣言」(巻末に掲載)に関わるなど、いろんなことを考えたり、活動されてきましたね。まず、それぞれの不登校体験からお聞きしたいと思います。来留未ちゃんが不登校になったのは、何年生ごろからだったでしょう?


●転校先が学級崩壊で

彦田 私は、小学校4年生の2学期から不登校になりました。転校がきっかけです。それまで通っていた学校は、けっこう楽しい思いで通っていたんですけど、新しい学校は、勉強、勉強の雰囲気で、楽しい雰囲気がぜんぜんない。いつも先生はイライラ怒っている感じで、みんなが張りつめていて、クラスは学級崩壊のような状態でした。勉強の進みが速いのに、授業はままならない。みんなが騒いだり、いたずらしたり、いやがらせをしたりしていて、物がなくなったり、授業を受けていても、席の後ろからイヤなことをされたりしていました。

奥地 転校したときから、そういう日常だったんですか。

彦田 1日目から、ここはすごく緊張して行かなければならないところなんだな、と思いました。春に転校して、1学期は一生懸命通っていたんですけど、朝ご飯を食べられなかったり、不眠症のような状態になったりしてました。夜は宿題をやらなきゃという思いで遅くまで起きていて、それなのに、朝4時ぐらいには目が覚めてしまう。そういうことをくり返す状態でした。

奥地 もう、やっとの状態で、安らかに眠れていなかったんでしょうね。

彦田 もう体はぼろぼろで、気持ちも苦しかったですね。

奥地 宿題は多かったんですか。

彦田 多かったです。問題が解けないし、あせればあせるほど、よけいにできないという悪循環で。

奥地 誰かに相談はしていましたか。

彦田 あとから母に聞いたところでは、家でも「○○くんに、こういうことをされた」とか話していたらしいんですけど、たぶん、ぜんぶは話せていなくて、ほんとうにイヤだったことは自分のなかに溜め込むしかなかったように思います。

奥地 90年代後半ぐらいのことですよね。学校の先生はどうだったんでしょう。

彦田 私が学校に行けなくなった最初の日に、母が学校に行って、担任の先生と話したらしいんですね。だけど、担任の先生も自分のことでいっぱいいっぱいで、ただ、私が学校を休んでしまったのは、「来留未さんのせいではない」と言っていたそうです。それほど学校がめちゃくちゃで、先生も助けようにも難しい状態だったと思います。日々、電話してくれたり、手紙を届けてくれたりしてくれたんですけど、もう私はぼろぼろのような状態でした。つづきを読む
posted by 不登校新聞社 at 06:49| Comment(0) | 当事者

2018年06月25日

#41 伊藤書佳さん

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(いとう・ふみか)
1969年、東京都立川市生まれ、千葉県木更津市で育つ。中学校2年生より学校に行かなくなり、『学校解放新聞』の編集に関わるようになる。中学校卒業後も、「学校に行かないで生きてみよう、実験してみよう」と思い、進学はしなかった。1993年から2008年まで、雑誌『ちいさい・おおきい・よわい・つよい』(ジャパンマシニスト社)の編集に携わっていた。『安心ひきこもりライフ』(勝山実/太田出版2011)の編集も手がけた。現在は雑誌『教育と文化』(教育文化総合研究所)の編集に携わる。「不登校・ひきこもりについて当事者と語り合ういけふくろうの会」の世話人のひとり。著書に『超ウルトラ原発子ども―ゲンパツは止められるよ』(ジャパンマシニスト社1989)。

インタビュー日時:2018年2月20日
聞き手:山下耕平、山田潤、栗田隆子
場 所:大阪ボランティア協会
写真撮影:山下耕平

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〈テキスト本文〉

山下 今日はよろしくお願いします。不登校経験についてうかがう前に、まずは生い立ちからうかがえますでしょうか。

伊藤 1969年、東京都立川市で生まれたんですが、父の仕事の都合で2歳ごろに佐賀県に、4歳ごろに東京都大田区に引っ越して、小学校2年生の夏休みに千葉県の木更津に引っ越して、その後は木更津で育ちました。

山下 お父さんのお仕事は?

伊藤 法律関係の仕事をしていました。

山下 小学校はどんな感じだったんでしょう。

伊藤 小学校に入学したのは1975年です。学校は楽しかったのですが、よくおなかが痛くなって保健室で寝ていることもあったから、そんなになじんでいたわけでもなかったのかもしれないですね。
 小学校2年生で木更津に引っ越してきて、転校生なので、後ろからランドセルをキックされたり、鉛筆を折られたり、そういうことはありました。でも、それでダメージを受けるという感じではなくて、「イヤだな」「やめてよ」って思ったり言ったりしながら、わりと楽しくやってたと思います。宵っ張りなので、よく寝坊はしてましたけど。

山下 小学校のことで、ほかに覚えてることがあれば。

伊藤 6年生になって、ものすごく体罰をふるう30代の男性教員が担任になったんです。一学期が始まってすぐのころ、その先生がロッカーからランドセルがはみ出しているのを見つけて、そのランドセルを3階の教室の窓から下に投げて、持ち主の子の胸ぐらをつかんで揺すった。生徒を殴ることもあって、しかも「殴るときはおなかを殴るんだ、跡がつかないから」と言っていたり、緊張感の高い毎日でした。
 クラスには、知的障害のあるKくんという子がいて、ふだんから先生はその子のことをからかっていていやでした。Kくんはとても細かったんですけど、あるとき理科の授業の際に、骸骨の見本の横にKくんを上半身裸にさせて並ばせて、あばら骨を見させたりしていました。そのときの授業のようすが卒業アルバムに載っているんです。

山田 ちょっと信じられないね。

山下 ご自身がやられたことはあったんですか。

伊藤 赤白帽子のゴムが伸びていて、かぶらないで首にひっかけていたら、「なんで、かぶってないんだよ」って、いきなり帽子のゴムをぐうっと引っぱられて、首が絞まって「苦しい」と泣いたことはありました。
 小食で食パンをぜんぶ食べきれずに持ち帰ったりしていたのですが、その先生のときは残しちゃいけないから無理やり食べて、それはすごくつらかったですね。食べられないものがある子は、ずっと座らされたり、無理やり顔を皿に押しつけられて「食べろ」と言われことがあるので、必死で食べていました。
 でも、そういったことを体罰と呼ぶというのも知らなかったし、ほかにも殴る先生もいるし、先生にはそういう人もいるんだと思ってました。
 あるとき、おなかを殴られた子のお母さんが抗議しに来たんです。そうしたら、そのお母さんが帰ったあと、帰りの会で「○○のお母さんは頭がおかしい」と言って、みんなの前で非難したんです。親に言っても、もっとひどいことになってしまう。親が変に言われちゃうし、ガマンするしかないのかなって。それでも、友だちといっしょに教育委員会に言いに行こうかって話したことがありました。

山下 それは、子どもたちどうしで思いついたことだったんですか。

伊藤 そう。

山下 親に言うとか、校長に言うとかではなくて、教育委員会にというのは、お父さんが法律の仕事をしていたから、そういう発想が出てきたんでしょうか。

伊藤 いや、私じゃなくて、友だちが言い出したんです。それぐらい、学校全体が先生の味方という感じがあったんです。一度、隣のクラスの先生に相談したんだけど、「そうだよね、でもしょうがないよね」みたいになぐさめられただけでした。親のなかには、「うちの子が悪かったら、先生どうぞ殴ってください」という人もいました。

山田 ある時期までは、学校の教師というのは、めちゃくちゃしてたよね。いまの学校からは信じられないくらい。

伊藤 圧倒的に力関係がハッキリしてたと思います。いまとは先生の位置づけがちがうように思います。教育委員会に言いに行こうという話が出たのも、どこに言えば、この状況から助けてもらえるのかわからなかったからで、いわば、お上に直訴する感じだったのかもしれません。結局は言いに行かなかったんですけどね。つづきを読む
posted by 不登校新聞社 at 08:29| Comment(0) | 当事者

2018年05月30日

#40 中澤淳さん

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(なかざわ・じゅん)
1974年、大阪府茨木市生まれ。小学生のとき、大阪から関東へ転校し、その後、小学校4年生より学校に行かなくなる。小学校6年生より東京シューレに通い、東京シューレ通信の編集長、海外を含めた各地への合宿企画など、さまざまな活動に関わる。18歳で東京シューレを退会後、アルバイトをしながら海外各地をまわった。フランス語の専門学校へ通い、フランスへも語学留学。そうした経験を活かし、帰国後に旅行会社に就職。現在は、ふたりの子どもの父親でもある。

インタビュー日時:2018年3月13日
聞き手:奥地圭子、木村砂織
場 所:東京シューレ葛飾中学校
写真撮影:木村砂織

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〈テキスト本文〉

奥地 今日はイランから帰国された直後とのことで、お疲れのところすみません。HISという旅行会社に勤務しておられるんですよね。いまは、どういう部署におられるんでしょう。

中澤 海外事業戦略本部です。当社の海外ビジネスの管理をおもに担当する部署です。私は、おもに中近東とアフリカ地域を担当しています。既存店舗のケアもしますし、既存店舗がないところに行って、ビジネスの種がないかも探しますし、そういう仕事ですね。

奥地 何語で仕事してるんですか?

中澤 今回は英語でした。イランの方は英語が上手なんですよ。アメリカから経済制裁されてるのに、アメリカ人みたいな英語を話すんです。

奥地 中澤さんはフランス語を勉強してきたんですよね? 英語もどこかで学ばれたんですか?

中澤 フランス語は専門学校で勉強したんですけど、フランス語の通じる国って、地球上で6分の1ぐらいしかないんですよ。英語は、シューレで勉強したぐらいです。いまでも、当時のスタッフから教えてもらった「I am here,you are there」って思い出します。なんか、棒人間みたいなイラストを描いたテキストでしたね。

奥地 オリジナルの教材を使ってたからね。それでも、政府の方に会ったり、銀行関係者に会ったりして、ちゃんと通じるわけね(笑)。

中澤 いちおう、なんとか。ただ、銀行の方が言ってることはよくわからないんですよね。自分の業界だったら、言葉だけじゃなくて文脈でわかるんですけど。だから、商社とかで海外で活躍されている方と比べたら、私の英語力なんて笑われちゃうぐらいのレベルです。まあ、要するに気合いと根性ですね(笑)。こうしたいという熱意があれば、語学力の不足はなんとかなります。なぜなら、こうしたいと思っていることがあれば、いろいろ話しているうちに「あなたは、そういうことがしたいわけね」って話になるんです。逆に言えば、いくら語学ができても、何をしたいというコンテンツのない人は、話が進まないですね。

奥地 そのあたりは、子どものころから一貫している気がしますね。

中澤 そうですかね、自分ではわからないです。自分が中・高生の年代のときにどうだったかは、もはやわからないです。

奥地 私らのほうが感じるのかもしれないね(笑)。不登校したのは小学校のときでしたね。

中澤 もはや自分がいつ不登校したかも、よく思い出せなくなってます。小学校4年生か5年生だったと思うんですけど……。

奥地 1985年、東京シューレが誕生した年に、中澤さんは小学校5年生で、お父さんといっしょに来たんですよね。そのころはどこに住んでましたか?

中澤 千葉県松戸市の六実です。つづきを読む
posted by 不登校新聞社 at 18:12| Comment(0) | 当事者