2017年01月15日

#11 森英俊さん

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(もり・ひでとし)
1955年、鳥取県生まれ。小児科医。自身、中学3年生のとき(1969年)に不登校経験がある。高校在学時にハンセン病療養施設でのボランティア経験などから、医師を志す。1981年、杏林大学医学部卒。1993年より、鳥取タンポポの会(不登校の子と親の会)を立ち上げ、代表世話人として活動している。

インタビュー日時:2016年11月6日
場 所:とりぎん文化会館(鳥取市)
聞き手:山下耕平
写真撮影・記事編集:山下耕平
記事公開日:2017年1月15日

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〈テキスト本文〉

山下:まずは、子ども時代のことからうかがいたいのですが。

森:父親が医者で僻地勤務をしていて、島根と鳥取を往き来していたので、私は小学校を2回転校しています。私が小学校6年生のときに、父は転勤をやめて岩美郡(現在の鳥取市)で開業しました。その6年生のときの小学校で、担任の先生から「いいチャンスだから、鳥取大学教育学部の付属中学校を受けてみなさい」と言われて、あまり深く考えることもなく、言われるがままに受験したんですね。実は、今日のインタビューのこの場所(とりぎん文化会館)が、その中学校のあった場所なんです(笑)。

山下:そうだったんですか。因縁のある場所なんですね。

森:そうなんです(笑)。それで、合格して入学したんですが、入ってみて、その中学校のあまりの競争的な状況に驚きました。1学年180人ほどのうち、毎年3〜5人は東大に、10人くらいは京大、阪大に入るような学校でした。5月の連休明けに最初の中間テストがあったんですが、テストが終わった翌日に学校に行くと、成績順に廊下に名前が張り出されていました。しかも、上位から最下位まで全員です。

山下:それは酷ですね。小学校までとはまったくちがう世界だったわけですね。

森:酷ですよ。そのことに、とてもショックを受けました。自分の成績は平均以下でしたしね。「すごいことをするんだな。このなかで生きていかないといけないんだ」と思って、漠然と不安に襲われたのを覚えいます。

山下:お生まれが1955年ということは、中学校に入られたのは1967年ですか。

森:そうですね。中学2年生のころ、全国的に学生運動が広がっていったんですが、教育実習に来る学生さんたちはネクタイをしめて、教員らしい格好をして授業をしていますでしょう。子どもから見ると、大人側、体制側の人たちです。でも、その人たちが大学に戻ると、ゲバ棒を持って火炎瓶を投げていたりしていた。大人の二面性をかいま見たように思いました。鳥取大学の付属中学校だからこそ見えたことだったのかもしれませんが、それも、ある意味ではショックを受けたことでした。そういう状況が、私にはとても耐えがたかったんですね。

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posted by 不登校新聞社 at 14:20| Comment(0) | インタビュー:当事者

2017年01月14日

#10 村上幸子さん(仮名)

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(むらかみ・さちこ)
1958年、宮城県生まれ。社会福祉士、精神保健福祉士、保育士。
1964年、公立小学校入学、1970年、公立中学校入学、中学2年生のときに不登校を経験した。1973年、公立高校(全日制)入学。高校卒業後、大手企業に事務職で就職。1978年、保母(現在の保育士)資格を取得。1979年に結婚し、その後、夫の転勤で関西へ。1994年、保母として就職。2001年、宮城に戻って児童館の臨時職員になる。2009年、大学(通信制)に入学。2014年、大学卒業と同時に、社会福祉士・精神保健福祉士の国家資格を取得。社会福祉協議会に入職(臨時職員)。現在、放課後等デイサービスで働きながらスクールソーシャルワーカーとしての就職を目指している。

インタビュー日時:2016年10月17日
場 所:東京シューレ
聞き手:奥地圭子
まとめ:奥地圭子、勝野有美

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〈テキスト本文〉

奥地:お生まれはどちらですか?

村上:生まれは宮城県で、生まれた町は、企業誘致で作られた工業地区と商業地区、昔ながらの農村の色合いが濃い地域が融合している町です。


●小学校時代〜1960年代後半

奥地:小学生時代は1960年代後半ですね。学校はどんな感じでしたか?

村上:小学校3〜4年生くらいまでは、学校に行くのが楽しくて仕方がなかったです。私は、山を越えて探検するほどに活発な子どもで、学校自体も、のんびり、ほのぼのとしていました。

奥地:私が教師になったのも60年代ですが、ほのぼのとしていましたよね。人情が厚いというか、学校の先生も、おっかなく取り締まるような感じではなくて温かかったですよね。東京もそうでした。 

村上:ですが、初めて学校に対して違和感を持ったのが、小5のときです。カゼをひいたのをきっかけに、仮病を使って何週間か長く休んだことがありました。いま思えば、プレッシャーを抱えていて、「学校を休みたい」「学校に行きたくない」という気持ちが芽生え始めていたのだろうと思います。

奥地:カゼが治っても学校に行きたくなかったのは、何か学校に対して思うところがあったんですか? もし小4までのように楽しく通っていたのならば、カゼが治ったら、また学校に行きたいだろうと思うんですけれど。

村上:はっきりとした記憶はないのですが、礼儀作法の指導が厳しい担任の先生に対して思うところがあったのかもしれませんね。私自身は当時、学級委員をやっていたし、学校の成績はよくて、1番か2番でした。みんなのお手本にならないといけないというプレッシャーがありました。

奥地:なるほど。それはわかります。本音を言うと、しんどかったかもしれないですね。ときにはがんばって得意な気分だけど、ときにはしんどい気持ちになっちゃう。カゼを含めて、どれくらいの期間、学校を休んだか覚えていますか?

村上:あいまいですが、半月ほど続けて学校を休んだと思います。そのころ、教師から「長いね。こんなに長引くなんて、万病の元だからしっかり治しなさい」と言われたことを記憶しています。

奥地:親御さんは、長く学校を休んでいることについて何か言っていましたか? よろしければ、ご家庭の職業を教えてください。

村上:何も言われませんでした。父親は農協職員、母親は専業主婦で、家で内職をしていました。よく言えば放任主義で、子どものことにはほとんど干渉せず、一度も「勉強しろ」とは言われませんでした。

奥地:たしかに、そのころは東京の下町でも、ほとんど、勉強しろとかこうしろとか言う親は少なかったですね。だから楽しかったのかもしれませんね。学校ものんびり、家庭ものんびりだった気がします。
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posted by 不登校新聞社 at 10:21| Comment(0) | インタビュー:当事者

2016年09月14日

#03 最首悟さん

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(さいしゅさとる)
1936年福島県生まれ。シューレ大学アドバイザー。元和光大学教授。東京大学大学院で生物学を学び、長年同大学の助手を務めた。安保闘争などの学生運動に携わり、水俣病などの公害問題に関わるなど、思想家としても有名である。また、ダウン症であり、重複障害を抱える娘の星子さんとのかかわりから、「障害児を普通学校へ全国連絡会」の運営委員(世話人)を務め、ケアをテーマとした数々のエッセイでも有名である。おもな著作に『星子が居る――言葉なく語りかける重複障害を抱える娘との二十年』(世織書房)、『生あるものは皆この海に染まり』(新曜社)、など多数。

インタビュー日時:2016年5月17日
場所:最首悟氏自宅
聞き手・文責:加藤敦也、編集:須永祐慈

*インタビューには丹波博紀氏(最首塾世話人)も同席されていた。
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〈テキスト本文〉

* 最首悟氏は昭和18年(1943年)に、ぜんそくで転地先の千葉県の小湊国民学校 に入学し、昭和20年3月、疎開した家族と合流、福島県の喜多方町国民学校に転校、太平洋戦争終戦を経て、千葉県の房総地方にある学校に転校している。昭和22年に国民学校令が解かれ、名称が小学校に戻るが、昭和23年に病気を理由とした長期欠席を3年間経験している。以下の語りは、当時の国民学校のようすに関するものである。

●国民学校の思い出

最首:僕は昭和18年に国民学校(*1)1年生になるんだけど、僕の記憶では、そのころは教育勅語を直立不動で聞かなきゃいけない時期だった。転校した喜多方小学校(福島県)では、室内の授業がほとんどなかったですね。4月から7月までの1学期、フキを採ってた記憶しかないからね。兵隊さんのためのフキで、佃煮にする。喜多方は醤油と味噌の工場があったので、だから佃煮づくりが盛んだったのね。

加藤:教育が軍事体制で大変だったんですね。

最首:軍事体制で、子どもは少国民だから、勉強なんかしてる場合じゃないんだよな。教育勅語(*2)については、ほんとうに緊迫していた。校長や教頭、教員の緊張具合はすさまじいものがあって、それが子どもごころに伝わってきた。というのは、先生が朝の朝礼か何かで教育勅語を読みちがえたら、かならずクビが飛ぶという噂があったのね。その緊張感が伝わり、教育勅語を読みあげる場面になると、ぶっ倒れちゃう子がいたんだよね 。ぼくもぶっ倒れたことがあって、女の先生におぶわれて帰ったり、うんこもらしちゃった日もあったね(笑)。で、へらへらしちゃう子もいてさ、それがまたけしからん、ということになるんだけどね。 ろくな記憶もないけど。
 喜多方小学校のことを表しているなという思い出に「石走る垂水の上のさわらびの萌え出づる春になりにけるかも」という志貴皇子の歌がある。あとから思ったことですが、この歌は僕が通っていた喜多方小学校時代の情景そのものなんですね。森の中に入ると、小岩っぽい小さい滝があって、さわらび(芽を出したばかりのわらび)を採って、毎日の授業が終わる。「いわばしるたるみのうえのさわらびのもえいずるはるになりにける」喜多方、5月になっても雪があってね。

加藤:そもそも教授っていうか、普通に教育が成立してなかったのですね。
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posted by 不登校新聞社 at 11:24| Comment(0) | インタビュー:当事者