2017年06月23日

#20 吾郷一二実さん、木村悦子さん

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(あごう・ひふみ)1951年、島根県生まれ。1989年より、3人のお子さんが、それぞれ不登校に。1991年、木村悦子さんたちとともに親の会「カタクリの会」を立ち上げ、1997年から世話人を務める。子どもの居場所「フリーダス」にも、立ち上げ当初から現在まで関わっている。(写真左)

(きむら・えつこ)1948年、岡山市生まれ。1990年より、3人のお子さんのうち2人が不登校に。1991年、吾郷一二実さんたちとともに親の会「カタクリの会」を立ち上げ1997年まで代表世話人を務めた。1991年より子どもの居場所を始め、1992年より「フリーダス」としてスタート。1997年までスタッフ代表を務める。2004年よりNPO法人YCスタジオを立ち上げ、理事長を務めている。(写真右)

インタビュー日時:2017年2月6日
聞き手:山下耕平
場 所:かたくりのはな(島根県松江市)
写真撮影:山下耕平
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〈テキスト本文〉

山下 まずは、それぞれ、お子さんの不登校経験からうかがいたいと思います。


●転校をきっかけに

木村 子どもは3人いるんですが、一番上の長女は不登校経験はなくて、2人目の長男と3人目の次男が学校に行きませんでした。長男が小学校6年生の夏休みに、神奈川から松江(島根県)に転校してきたんですね。そして2学期始業式の日、帰ってくると泣いていたんです。神奈川の学校では、先生が机の上に立ってギターを弾いて歌っていたり、木をくり抜いてつくったボートをプールに浮かべて遊んだり、遊びほうけていて、楽しい学校だったんですね。松江では、自然もいっぱいあって、もっとのんびりできるかと思っていたんですが、実際は、まったく逆でした。小学校なのに制服はあるし、道徳教育研究校で、校則や管理も厳しくて、班競争なんかもあって、すごくカチカチしていた。あとからわかったところでは、体罰もひどくてね。担任はヒステリックな女の先生で、算数なんかでも、決まった解き方をしないといけないし、どうでもいいことが厳しかった。いじめらしきものもあったようです。言葉がわからなかったこともあったでしょうね。「ほるもん持ってこい」と言われて、スーパーで肉のホルモンを買って持っていったら、「ほるもん」というのは彫刻刀のことだったり。
 それでも、かなり無理をしてがんばってたんだと思います。3カ月くらいは、行ったり行かなかったりしていて、まったく行かなくなったのは、12月ごろでした。
 その後、小学校は行かないまま卒業になって、中学校の入学式は、ちがう学校に行くから、すごく楽しみにしていて、飛び跳ねるようにして行ったんです。私たちも後ろからついていったんですが、クラスに入ったとたん、ダーッと飛び出てきて……。きっと、いじめっ子がいたんでしょうね。雨のなか傘をさして、校庭から恨めしそうに校舎を見てました。
 中学校には自学室というのがあって、しばらくは、そこに行ってたんです。でも、そこにいるのがわかると、ほかの子たちが外から石を投げてきたりするので、隠れて入ってました。窓に半紙を貼って見えないようにしてね。そのうち、その自学室に行くのもつらくなって、「もう自分は絶対に学校に行かない。もう学校やめた」と言って、中学校も行かなくなりました。
 「なんで行かないの?」と聴いたら、彼は「学校では、先生の体罰もあるし、陰湿ないじめもある。でも、それだけだったら耐えられた。僕は、なんとも言えない画一的な雰囲気がイヤなんだ」と言ったんです。それからは、頑として行きませんでした。

山下 行けなくなった当初は、どう受けとめておられたんでしょう?

木村 よく言われるように、まさに「青天の霹靂」ですよね。夢であってほしいと思ってました。「首に縄をつけてでも」ではありませんが、背負ってでも行かせようとしていたと思います。でも、いざ学校に行こうとすると、靴ひもがなかなか結べなかったり、「お母さん、学校はイヤだ」と言ってしがみついてくる。それでテコでも動かない。

山下 年代はいつごろになりますでしょうか。

木村 最初、長男が小学校に行かなくなったのは1990年のことでした。そのとき次男は小学校3年生で、やんちゃな子だったから、転校後も、いっしょにいたずらする友だちもいて、この子は大丈夫と思ってたんですが、長男と同じぐらいの時期に、だんだん行かなくなりました。次男のほうも、石を投げられり、物をなくされたり、教科書やノートが墨汁で真っ黒になってたり、「宇宙人みたい」と言われたり、いろいろやられてたみたいです。でも、学校の配慮もまったくなくてね。

山下 次男さんのほうは、どんなようすだったんですか?

木村 まず、制服に手が通せないんです。コタツのなかで軟体動物みたいになっていて、8時半ごろになると、おなかが痛くなってトイレから出てこない。それで9時ごろになると、ニッコリして出てくるの(笑)。
 学校のほうは、先生が迎えに来たり、クラスの子にお花とケーキとか持ってこさせたりしてね。「みんな、いい子ばっかりです」とか言うんだけど、子どもからしたら残酷ですよ。その子たちが帰ったあと、泣いちゃって大変でね。家を飛び出して、宍道湖がすぐ裏にあるので、飛び込まないかと心配で追っかけていったり、夜も泣くので抱いて寝てました。
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posted by 不登校新聞社 at 20:17| Comment(0) | 親/親の会

2017年04月25日

#15 山田廣子さん

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(やまだ・ひろこ)
1943年、山口県下関生まれ。1962年に大洋漁業へ入社し、1968年に退社、その翌年に結婚して1971年に長男が、1974年に長女が生まれる。1986年、長男が高校1年のときに登校拒否し、1989年に高校を退学。1990年に親の会「下関虹の会」を発足。1991年、長男は東京へ。同年、「下関虹の会」の代表になり、現在にいたる。

インタビュー日時:2016年10月29日
場 所:ご自宅(山口県下関市)
聞き手:奥地圭子、木村砂織、山口幸子
写真撮影:木村砂織
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〈テキスト本文〉

奥地 親の会を立ち上げられたのは何年ですか?

山田 1990年1月です。

奥地 ちょうど登校拒否を考える全国ネットワーク(現在はNPO法人登校拒否・不登校を考える全国ネットワーク)を立ち上げた年といっしょですね。全国ネットのことは、すでにご存知でしたか?

山田 知っていました。主人といっしょに東京で開かれた合宿に行って、主人が「父親が語る不登校」というシンポジウムに出させていただきました。内容はとても深刻な話なのに、みなさんそれを笑いに変えていて、とても盛り上がりましたね。その主人も2009年に亡くなりましたけれども。


●高校で不登校に

奥地 そうでしたね。お子さんは、何年ごろから学校に行かなくなったのでしょう。

山田 1986年で、高校1年生のときでした。ただ、その以前にも、小学校5年生の3学期に、1カ月ほど行かれなくなったことがありました。そのときの担任は50代の女の先生だったんですけど、すごい厳しい先生でね。息子は学級委員をしていたんですが、先生にとってよくないことがあるたび、クラスで何かあるたびに、息子に「あなたのせいだ」と言って、すべて息子が悪いように言われていたんです。それで、理科室には鍵がかかるんですが、先生がそこに入って泣くと言うんです。そこに息子が行って謝るわけですね。「悪かったです、悪かったです」って。そうこうしているうちに、息子のほうが学校に行けなくなってしまいました。息子は「僕が悪いせいで先生がいつも泣いてしまう」と言っていました。
 休んでいるあいだは、同じ団地に住んでいた同級生の男の子が、パンとか宿題を持ってきてくれていました。それで、その持ってきてくれる荷物のなかに、3学期の終わりごろ、「何でもいいから先生のことについて書いてきなさい」という用紙があったんです。全員に配られたものなのか、息子だけに渡されたものなのかはわかりませんし、私は、たぶん書かないだろうと思っていたんですが、息子は「書く」と言って、自分がしてほしくないことを箇条書きにしたんです。「理科室に入ってすぐ泣くようなことはしないでほしい」とか「授業中に机のイスを外に出して、教室で床に座らせたりしないでほしい」とか10項目ぐらい書いて、それを学校に持って行ったんです。
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posted by 不登校新聞社 at 17:30| Comment(0) | 親/親の会