2018年08月07日

#44 兼子和美さん

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(かねこ・かずみ)
静岡市在住。現在24 歳の娘さんが小学校2 年生で不登校(2001年)、8 歳から18 歳まで11 年間、ホームエデュケーションで育った。15 歳のとき、学校にも行ってみたくなり、県立単位制高校に進学、ホームエデュケーションと半々の4 年間を過ごし、その後、公立大学国際関係学部に入学。13 歳のときに「植物を育てながら庭をつくる」仕事をしたいと思い立ったことから、現在、娘さんはイギリスの大学でガーデニング&ガーデンデザインを勉強している。

インタビュー日時:2018年5月24日
聞き手:奥地圭子
場 所:東京シューレ王子
写真撮影:本間周子

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〈テキスト本文〉

奥地 このプロジェクトでは、これまで、不登校に関わってきたさまざまの立場の方、当事者、親の方などに話をうかがってきました。ただ、ホームエデュケーションでお子さんの成長を考えてきたという方には、まだ登場していただいていないので、今日はホームエデュケーションについて、いろいろお話をうかがいたいと思っています。
 ホームエデュケーションでやっている方には、最初からわが家では学校に行かせないでホームエデュケーションでやるんだという方と、不登校をきっかけにホームエデュケーションを始めましたという方がおられますが、兼子さんの場合はどちらでしょうか?

兼子 不登校になってから、ホームエデュケーションをスタートしたというかたちになります。

奥地 日本ではそういう方が多いですよね。では、まずはお子さんの不登校経験をお話しください。

兼子 娘はいま24歳ですが、小学校2年生の3学期1月に、お腹が痛くて「学校に行くのが心配」ということから始まって、「学校に行きたくない」となって、不登校が始まりました。


●心に穴が空いて

奥地 親から見て、何か原因とかきっかけはあったんでしょうか。

兼子 それまでは、娘は「学校に行きたくない」と言ったことはなくて、ほぼ皆出席で学校に通ってたんです。1年生のときは「楽しい」って言ってたんですけど、2年生のあたりから少し顔の表情が曇ってきて、夏休みに「心に穴が空いて何をしても埋まらない」と言ったんです。

奥地 すごい言葉ですね。

兼子 そうですね。7歳の子が言うようなセリフではないなあと思って、そのときから、「もしかしてこの子は、この先不登校になるんじゃないかな」という予感がありました。

奥地 「心に穴が空いて……」と、学校に行きながら感じていたというのは、どういう学校の状況が関係していると思われましたか?

兼子 夏休み以降も、娘は「行きたくない」と言うことはいっさいなく、表面的には変わりがなかったので、何かはあるんだろうと思っていましたけど、いじめのような具体的な出来事ではない気がしていました。その後、学校に行けなくなった理由について、娘は「このまま学校に行き続けたら、先生の言うことを聞くだけのロボットにされてしまう」と言っていました。「真っ黒な怪物がやってきて、その怪物に心を占領されたら、もう元にはもどれなくなってしまう」みたいな表現もしていました。ですから、具体的な何かというよりも、全体的な感じだったと思います。
 また、大人になってからの表現ですが、「先生は教室の、学級という王国の王様で、その先生に逆らうことはできなかった」「学校全体の圧迫感みたいなものがイヤだったんだと思う」と言っていました。

奥地 やっぱり、学校に気持ちよく、楽しく通っていたわけじゃないという印象ですね。

兼子 そうですね。「学校に行くのが心配」と言ってから2週間後ぐらいに、娘が「学校に行きたくない」と言ったので、私のほうも、学校に行かせなくなりました。つづきを読む
posted by 不登校新聞社 at 16:44| Comment(0) | 親/親の会

2018年02月06日

#32 山口由美子さん

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(やまぐち・ゆみこ)
1949 年佐賀県生まれ。3 人の子どもの母親。2000 年5 月、西鉄バスジャック事件に遭遇し、全身10 ヵ所以上も斬りつけられ、重傷を負わされた。事件で亡くなられた塚本達子さんとは、塚本さんの主宰していた幼児室を通しての知り合いであり、事件当日は、塚本さんといっしょにコンサートに行く途中だった。山口さんは、事件後、佐賀市内で親の会「ほっとケーキ」や子どもの居場所「ハッピービバーク」の活動を始め、現在も続けている。2015 年3 月、九州大学大学院統合新領域学府ユーザー感性学修士課程修了。

インタビュー日時:2016 年10月29日
聞き手:奥地圭子、山口幸子、木村砂織
場 所:飲食店(福岡市)
写真撮影:木村砂織
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〈テキスト本文〉

●いじめからの不登校

奥地 今日はよろしくお願いします。山口さんのお子さんの不登校はいつからですか?

山口 最初は1995年で、娘が小学校5年生のときに行きしぶり、6年生のときに1カ月だけ行けなくなったことがありました。中学校はほとんど行きませんでした。でも、小学校のときは先生と話し合いをして、クラスの雰囲気が変わったこともあり、学校にもどれたんですね。

奥地 小学校5年生までは何ごともなく通えていたのか、それとも何か悩みながら通っていたのか、そのあたりはどうだったんでしょう。

山口 それまで、とくに変わったことはなかったです。5年生のときに担任の先生が産休に入って、臨時採用の先生になったんですが、その先生に娘は気に入られたようで、そのためにクラス全員から、いやな感じに思われていたようです。本人も非常に困っていました。よく放課後に「お手伝いしてくれ」と頼まれて、私には「早く帰りたいのに」と言っていました。先生とクラスの子の関係が悪くて、そのクラスは学級崩壊状態でした。

奥地 それがもとで?

山口 そう、子どもたちの先生に対する抗議ですかね。その臨時採用の先生は12月までだったので、その後2カ月間はベテランの先生をつけてくださったんです。そうしたらクラスのようすが変わって、落ち着いてきました。

奥地 やり方が上手だったってこと?

山口 そうそう。その後、3月に産休をとっていた担任の先生がもどってこられたんですね。その先生は子どもが大好きな先生で、子どもたちがイキイキと変わっていったんです。6年生も持ち上がる予定だったので「よかったね」と話していたら、始業式の日、娘が「先生の替わったとんさった」と言って、しょんぼりして帰ってきました。私が、あわててて先生に電話したら、「実はまた妊娠したので、6年生の担任は降ろされてしまいました」と返事がありました。そこで「おめでとうございます」って言うしかなくて……。それで、新しい担任を迎えたんですが、またクラスが荒れ出したんです。5年生で不登校になりそうになったとき、クラスの役員の方に相談していたこともあり、6年生は私がPTAの役員をしますと言って、引き受けていたんです。

奥地 何とかしようと思って?

山口 そうですね。保護者会を開いたら、親たちも子どもから「授業がいっちょんおもしろなか(いっこうにおもしろくない)」と聞いていて、クラスが荒れていることは知っていました。そうこうしているうちに、娘が「行きたくない」って言うので、「もう行かんでいいよ」と言いました。私は、ほかの親たちとも先生ともつながっていたので、安心して休ませることができました。
 休み始めてからは、昼夜逆転あり何でもありで、行きたいところには、私の時間の許すかぎり自由に連れて行ってました。担任の先生もときどき来てくださったんですが、娘に「先生が来られたけど、どうする?」と聞いて、「今日は会いたくない」と言うときは、お断りするようにしていました。そのうち、「会ってもいいよ」と本人が言ってからは、先生と会うようになって、その際に「そろそろ学校に来てみたら?」と言われて学校に行き始めました。そのとき、「私は、いじめられてて、心が針みたいに細くなっていた。でも、もう太ったから大丈夫」と言って登校し、「学校って、楽しいところだったんだね」とも言っていました。以前とちがって、学校やクラスの雰囲気が変わっていたんですね。

奥地 それは何月ぐらいのことですか?

山口 2学期の9月ごろだったと思います。

奥地 なるほど。中学校は、そこの小学校の子が行くところだったんですか?

山口 そうです。ふたつの小学校の生徒が混ざるところです。中学校は最初から、「行きたくないな〜」って言ってました。「制服いやだな〜。校則もいっぱいあるみたいだな〜」って言いながら学校に行って、学級委員になって帰ってきたんです。入学式の日に委員を決めるんですが、生徒がみんな下を向いて黙っているので、娘は「早く帰りたいから、もう決めてきたよ」って言っていました。

奥地 ある種、合理的ですね(笑)。

山口 でも、ほかに、やりたい子がいたようなんですね。それでまた、そんな子からいじめが始まって、そのようすを見て不登校になった男の子がふたりいたようです。それぐらい、たいへんだったというのは、あとで知ったんですが。
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posted by 不登校新聞社 at 17:43| Comment(1) | 親/親の会

2017年06月23日

#20 吾郷一二実さん、木村悦子さん

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(あごう・ひふみ)1951年、島根県生まれ。1989年より、3人のお子さんが、それぞれ不登校に。1991年、木村悦子さんたちとともに親の会「カタクリの会」を立ち上げ、1997年から世話人を務める。子どもの居場所「フリーダス」にも、立ち上げ当初から現在まで関わっている。(写真左)

(きむら・えつこ)1948年、岡山市生まれ。1990年より、3人のお子さんのうち2人が不登校に。1991年、吾郷一二実さんたちとともに親の会「カタクリの会」を立ち上げ1997年まで代表世話人を務めた。1991年より子どもの居場所を始め、1992年より「フリーダス」としてスタート。1997年までスタッフ代表を務める。2004年よりNPO法人YCスタジオを立ち上げ、理事長を務めている。(写真右)

インタビュー日時:2017年2月6日
聞き手:山下耕平
場 所:かたくりのはな(島根県松江市)
写真撮影:山下耕平
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〈テキスト本文〉

山下 まずは、それぞれ、お子さんの不登校経験からうかがいたいと思います。


●転校をきっかけに

木村 子どもは3人いるんですが、一番上の長女は不登校経験はなくて、2人目の長男と3人目の次男が学校に行きませんでした。長男が小学校6年生の夏休みに、神奈川から松江(島根県)に転校してきたんですね。そして2学期始業式の日、帰ってくると泣いていたんです。神奈川の学校では、先生が机の上に立ってギターを弾いて歌っていたり、木をくり抜いてつくったボートをプールに浮かべて遊んだり、遊びほうけていて、楽しい学校だったんですね。松江では、自然もいっぱいあって、もっとのんびりできるかと思っていたんですが、実際は、まったく逆でした。小学校なのに制服はあるし、道徳教育研究校で、校則や管理も厳しくて、班競争なんかもあって、すごくカチカチしていた。あとからわかったところでは、体罰もひどくてね。担任はヒステリックな女の先生で、算数なんかでも、決まった解き方をしないといけないし、どうでもいいことが厳しかった。いじめらしきものもあったようです。言葉がわからなかったこともあったでしょうね。「ほるもん持ってこい」と言われて、スーパーで肉のホルモンを買って持っていったら、「ほるもん」というのは彫刻刀のことだったり。
 それでも、かなり無理をしてがんばってたんだと思います。3カ月くらいは、行ったり行かなかったりしていて、まったく行かなくなったのは、12月ごろでした。
 その後、小学校は行かないまま卒業になって、中学校の入学式は、ちがう学校に行くから、すごく楽しみにしていて、飛び跳ねるようにして行ったんです。私たちも後ろからついていったんですが、クラスに入ったとたん、ダーッと飛び出てきて……。きっと、いじめっ子がいたんでしょうね。雨のなか傘をさして、校庭から恨めしそうに校舎を見てました。
 中学校には自学室というのがあって、しばらくは、そこに行ってたんです。でも、そこにいるのがわかると、ほかの子たちが外から石を投げてきたりするので、隠れて入ってました。窓に半紙を貼って見えないようにしてね。そのうち、その自学室に行くのもつらくなって、「もう自分は絶対に学校に行かない。もう学校やめた」と言って、中学校も行かなくなりました。
 「なんで行かないの?」と聴いたら、彼は「学校では、先生の体罰もあるし、陰湿ないじめもある。でも、それだけだったら耐えられた。僕は、なんとも言えない画一的な雰囲気がイヤなんだ」と言ったんです。それからは、頑として行きませんでした。

山下 行けなくなった当初は、どう受けとめておられたんでしょう?

木村 よく言われるように、まさに「青天の霹靂」ですよね。夢であってほしいと思ってました。「首に縄をつけてでも」ではありませんが、背負ってでも行かせようとしていたと思います。でも、いざ学校に行こうとすると、靴ひもがなかなか結べなかったり、「お母さん、学校はイヤだ」と言ってしがみついてくる。それでテコでも動かない。

山下 年代はいつごろになりますでしょうか。

木村 最初、長男が小学校に行かなくなったのは1990年のことでした。そのとき次男は小学校3年生で、やんちゃな子だったから、転校後も、いっしょにいたずらする友だちもいて、この子は大丈夫と思ってたんですが、長男と同じぐらいの時期に、だんだん行かなくなりました。次男のほうも、石を投げられり、物をなくされたり、教科書やノートが墨汁で真っ黒になってたり、「宇宙人みたい」と言われたり、いろいろやられてたみたいです。でも、学校の配慮もまったくなくてね。

山下 次男さんのほうは、どんなようすだったんですか?

木村 まず、制服に手が通せないんです。コタツのなかで軟体動物みたいになっていて、8時半ごろになると、おなかが痛くなってトイレから出てこない。それで9時ごろになると、ニッコリして出てくるの(笑)。
 学校のほうは、先生が迎えに来たり、クラスの子にお花とケーキとか持ってこさせたりしてね。「みんな、いい子ばっかりです」とか言うんだけど、子どもからしたら残酷ですよ。その子たちが帰ったあと、泣いちゃって大変でね。家を飛び出して、宍道湖がすぐ裏にあるので、飛び込まないかと心配で追っかけていったり、夜も泣くので抱いて寝てました。
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posted by 不登校新聞社 at 20:17| Comment(2) | 親/親の会