2017年05月10日

#17 若林実さん

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(わかばやし・みのる)
1937年、神奈川県横浜市生まれ。1944年より3年間、佐渡島に疎開。田園生活を味わう。1968年、横浜市立大学大学院(小児科専攻)修了。医学博士。同年社会福祉法人国際親善病院小児科医長として赴任、私立の児童福祉施設横浜家庭学園嘱託医兼任、いわゆる非行少女たちと出会う機会をもつ。著書に『エジソンも不登校児だった』『アインシュタインも学校嫌いだった』(いずれも筑摩書房)など。(元)小児心身医学会評議員。

インタビュー日時:2016年11月17日
聞き手:奥地圭子、関川ゆう子、石林正男
場 所:横浜家庭学園
写真撮影:石林正男
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〈テキスト本文〉

奥地 今日は、横浜家庭学園にてインタビューさせていただくことになりました。いまは、ここにお勤めなんでしょうか。

若林 週に1回、医務室に来ています。学校で言えば保健室の養護の先生みたいなものですね。カゼ薬や胃薬を出したり、場合によっては病院を紹介したりしています。毎回、かならず2〜3人は来ます。もう30年ぐらいの関わりになります。国際親善病院に勤めていたときも、夜に来ていました。横浜家庭学園創始者の有馬四郎助氏(1864―1934)のお孫さんにあたる、亡き有馬嗣郎氏に依頼されて来るようになったのですが、有馬さんは「何もしなくてもいい、お説教したりしなくてもいい。話し相手になってくれればいい」と言っていました。


●横浜家庭学園は

奥地 横浜家庭学園について、教えてください。

若林 横浜家庭学園は、学校教育から外れた、いわば非行の少女たちをあずかっています。制度上は、現在は児童自立支援施設になっています。
 この学園は、有馬四郎助が1906年に幼年保護会を設立したところから始まっています。それまでは、少年でも大人と同じ監獄に入れられていたそうです。有馬四郎助は、クリスチャンで刑務官をしていた人で、かつては教科書にも載っていました。関東大震災のとき、有馬が所長をしていた監獄が全壊したそうです。でも、有馬に恩義を感じていた受刑者は、自分たちで自警団をつくって、ひとりの逃走者も出さなかったそうです。
 もうひとり、留岡幸助(1864―1934)が1899年に東京家庭学校を設立していますが、留岡が「男は俺があずかる」と言って、1914年に北海道に分校をつくったのが、北海道家庭学校の始まりです。北海道家庭学校では、札付きの子どもたちばかりで農作業をやって、鎌とか短刀も持たせるのに、それを使った刃傷沙汰は、これまで一つもないそうです。心が穏やかになるのでしょう。
 横浜家庭学園に見学に来る方も、「とても非行をしたとは思えない」と言って、びっくりすることが多いですね。

奥地 フリースクールでも、見学に来る人から「この子たち、ごくふつうの子ですよね。不登校したとは思えない」と言われてきました。横浜家庭学園は、何人くらいの子どもがいらっしゃるんですか。

若林 平均して20人ぐらいですが、今後は、もう少し大きくなる予定です。人里離れた場所がいいというので、丘の上に建てられたのですが、子どもたちは「こんなところはイヤだ」と言って、ときどき脱走することもありました。いまは脱走する子はいないですが、脱走するということは、教育のほうが悪いんです。つづきを読む
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2017年04月29日

#16 清水將之さん

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(しみず・まさゆき)
1934年、兵庫県芦屋市生まれ。1960年、大阪大学医学部卒業、1965年、同大学院修了。医学博士。大阪府立中宮病院、大阪大学医学部精神医学教室、名古屋市立大学医学部精神科助教授を経て、三重県立こども心療センターあすなろ学園園長(現在は三重県特別顧問)、日本子どもの未来研究所所長、関西国際大学名誉教授、神戸レインボーハウス顧問。著書に『青い鳥症候群』(弘文堂1983)、『思春期のこころ』(NHKブックス1996)、『新訂 子ども臨床』(日本評論社2009)、『養護教諭の精神保健術―子どものこころと育ちを支える技』(北大路書房2013)など多数。

インタビュー日時:2017年1月30日
聞き手:山下耕平、田中佑弥
場 所:ご自宅マンションの談話室(神戸市)
記事編集・写真撮影:山下耕平
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〈テキスト本文〉

山下 今日は、長期的な視野から、不登校についてお話しいただけるということですが。

清水 学校がない時代には不登校はあり得なかったですね。まずは、そこから考えてみたいと思います。
 近代に入るまでの時代は、ほとんどの民衆は農漁民で、子どもは農作業や浜仕事のできる年齢になれば、親と作業をともにしながら、大人になっていったわけです。
 701年に大宝律令が施行され、都に大学が、地方主要都市に国学が設置されました。大学は貴族のため、国学は郡司の子息のための学校です。いわば支配層の子弟のための、公務員養成所のようなもので、おもに儒教を教えていました。
 平安時代に入って、821年、京都に勧学院ができます。藤原冬嗣が建てたもので、これは一般貴族にも開かれた寄宿舎制の学校だったと言えます。
 さらに829年になると、空海が綜藝種智院を開きます。これは身分貧富にかかわりなく、勉強したい人は誰でも来ていいという学校だったんです。学費は無料で、教員にも生徒にも給食まで供されていたそうです。空海は教育論も書いていて、その写本が残っています。儒教だけではなく、仏教、道教など、あらゆる思想・学芸を総合的に学ぶことのできる場だったようです。しかし、綜藝種智院は空海が他界して4年後に閉鎖されてしまいます。もちろん、史料もほとんど残ってないから、実態はわかりません。
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posted by 不登校新聞社 at 11:50| Comment(0) | 医療関係

2016年12月08日

#09 石川憲彦さん

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(いしかわ・のりひこ)
1946年、神戸市生まれ。精神科医。東京大学医学部卒。1987年まで東大病院を中心とした小児科臨床、とりわけ障害児医療に携わり、共生・共学の運動に関与。患者の子どもたちが成人に達したことなどから、東大病院精神神経科に移る。1994年、マルタ大学で社会医学的調査を開始し、1996年から静岡大学保健管理センターで大学生の精神保健を担当。同所長を経て、現在は林試の森クリニック院長。著書に『治療という幻想―障害の医療からみえること』(現代書館1988)、『こども、こころ学―寄添う人になれるはず』(ジャパンマシニスト社 2005)、『みまもることば: 思春期・反抗期になってもいつまでもいつまでも』(ジャパンマシニスト社 2013)など多数。また、雑誌『ちいさい・おおきい・よわい・つよい』編集協力人で、毎号、同誌に記事を載せている。

インタビュー日時:2016年9月21日
場 所:林試の森クリニック
聞き手:山下耕平、栗田隆子、山田潤
記事編集・写真撮影:山下耕平

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〈テキスト本文〉

山下:まずは、ご自身の子ども時代、学校経験からうかがいたいと思います。

石川:私は戦争直後(1946年)の生まれ。ある意味では、日本社会がどん底の時代に生まれたわけです。しかし、それは当時の世界のほとんどの人と同じ地平にいたということです。食うや食わずやで生きていながら、どん底で不安も大きかったけれども、そこから何かが開けるという開放感があった。そういう時代の空気のなかで育ってきました。
 学校はというと、まず幼稚園や保育園には行けませんでした。家の経済事情もあって、日曜日だけ隣の人に教会学校に連れていってもらいました。近所では、4〜5歳から中学1〜2年までの子が混ざって遊んでました。戦後すぐの神戸は焼け野原で、廃屋だとか、あやしげなものもたくさん残っていましたね。いまの神戸市の岡本のあたりですが、まだ田んぼも多かった。でも、4人兄弟の一番下だったこともあって、みんなが学校に行ってしまうと、ぽつんと家に残されてしまう。みんなが学校から帰ってくると、ようやく遊べる。学校って、どんないいところなんだろうと思ってました。だから、学校に行けたときは誇らしくてね。ようやく認められた、みたいな思いがありました。
 それと、戦後の学校は牧歌的な、開放された感じもあって、あまり、いやな記憶は残ってません。もちろん怖い先生がいたり、子どもどうしでケンカしたり、いろいろあったけど、私は病弱だったんで、イヤなときは都合よく体調が悪くなって、小学校の前半は、3分の1くらいは休んでいたと思います。学校を休んだとき、すごく楽しみだったのは、給食のコッペパンをザラバン紙にくるんで届けてくれたことです。けっしてうまくはないけど、友だちが届けてくれるのはうれしかった。そういう郷愁というか、楽しかった思いがあります。

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posted by 不登校新聞社 at 13:10| Comment(0) | 医療関係