2018年07月19日

#43 斎藤環さん

saito.jpg

(さいとう・たまき)
1961年、岩手県北上市生まれ。筑波大学医学専門学群を卒業し、1986年より筑波大学大学院で稲村博研究室に。1987年から爽風会佐々木病院勤務。同病院診療部長などを務めた。現在は、筑波大学医学医療系社会精神保健学教授。専門は思春期・青年期の精神病理学、病跡学、精神分析、精神療法。「ひきこもり」についてメディアに発信し続けているほか、近年は「オープン・ダイアローグ」の啓蒙活動に精力的に取り組んでいる。マンガ・映画などのサブカルチャー愛好家としても知られる。おもな著書に『社会的ひきこもり――終わらない思春期』(PHP新書1998)、『戦闘美少女の精神分析』(太田出版2000)『オープンダイアローグとは何か』(医学書院2015)など多数。

インタビュー日時:2018年3月20日
聞き手:山下耕平、貴戸理恵
場 所:筑波大学総合研究棟D
写真撮影:山下耕平

--------------------------------------------------------------------------------
→PDF(組版データ)をダウンロード  43futoko50saito.jpg
--------------------------------------------------------------------------------

〈テキスト本文〉

山下 まずは、ご自身の子ども時代のことからうかがいたいと思います。斎藤さんご自身は、学校との関係はどんな感じだったのでしょう。

斎藤 私は1961年に岩手県北上市和賀町で生まれたんですが、かなりの僻地で、小学校は1学年1クラス22名の小さい学校でした。家庭環境がちょっと特殊だったのは、両親がふたりとも教師で、もっと言えば、親戚中、教師だったんです。農村部ではめずらしいインテリ家庭で、私自身、勉強もできたし、特別扱いを受けていたところはありました。
 学校は楽しかったですね。少人数で友だちとの距離は近いし、みんな親しくて、とくに疎外感があるとか、いじめを受けるということもなく、過ごしていました。ですから、学校に反発するとか、不適応を感じることはなくて、むしろ学校は好きでした。

山下 親戚中が教員ということで、プレッシャーなどはなかったんでしょうか。

斎藤 むしろ、教師の裏の顔を知っているので、教師に変な幻想を持たなかったと思います。日教組の組合員で、お盆や正月に親戚が集まると教育談義に花が咲くんですが、日教組運動の裏を見ていると、ある意味ではエゴのぶつかり合いで、自分たちの生活のためにやっている部分がある。教師も人間だとわかって、それはよかったと思います。将来の仕事として教師はまったく視野に入っていませんでしたが、親から「医者になれ」というプレッシャーはありました。精神科医を選択したのは、そうしたプレッシャーへの反発があったかもしれません。たぶん、がっかりしたでしょうから(笑)。
 それと、私は哲学や思想といった人文的な関心が強くて、周囲の医学生とは距離感があったんです。当時は精神科医になる人は、人文志向が強い人が多かったので、それで精神科医しかないと。


●稲村研究室に

山下 稲村博さん(精神科医/1935―1996)に師事された経緯を教えていただけますでしょうか。

斎藤 当時、臨床系には小泉準三という教授がいて、この人はいまどき患者供覧(授業に患者を連れてきて学生に見せる)を平然とやってのけたり、「患者の言うことは偏ってるからカルテに書くな、家族から得た客観情報だけ書け」と指導するような人で、ここだけには行くまいと思っていました。ほかには、社会医学系に小田晋教授と稲村博助教授の研究室がありました。稲村さんの研究室は自分で選んだわけではなくて、実習中に強力に勧誘されたんですね。上野の名曲喫茶で。それまで、稲村さんの業績については、ぜんぜん知りませんでした。

山下 稲村研究室には学部生から入っていたんですか。

斎藤 いえ、院からです。院に入ったのは1986年で、ここは大事なところなのですが、稲村研究室は85年まで不登校の入院治療をやっていて、私は、ギリギリそれに関わらずに済んだんです。1985年に堂本暁子さんがTBSの報道特集で「格子のなかの悲鳴」という番組を流して、稲村さんの入院治療はマスコミに叩かれて、院長がくだんの「思春期病棟」を閉鎖したんです。

山下 その入院治療をしていた病院というのは、浦和神経サナトリウムですよね。

斎藤 そうです。稲村さんは、無理やり一般病棟の一部を「思春期病棟」ということにして、非常に劣悪な環境で、たくさんの不登校の子どもたちを閉鎖病棟で収容治療していました。当然ですが、子どもたちはイヤがって、「こんなところにはいたくない」と再登校を始める。それをもって「入院治療は有効だ」と言っていたわけです。非常に情けないとしか言いようのないことをやっていたわけです。
 当時、この治療に荷担させられた山登敬之さん(精神科医)は、「自分は本来、子どもの側に立つ人間なのに、何も知らない新人時代にこんな治療に関わらせられた」と、稲村さんのことをとても恨んでいて、稲村さんが亡くなるまで許していませんでしたね。病棟から逃げた子どもを迎えに行かされたり、力ずくでつれてこさせるようなことも、やらされていたそうです(*1)。

山下 児童青年精神医学会で稲村さんの治療についての調査を担当した高岡健さんは、斎藤さんも浦和神経サナトリウムでの治療に関わっていたと話されていますが(本プロジェクト#35参照)、それは事実誤認ということでしょうか。

斎藤 浦和神経サナトリウムには非常勤で半年だけいて、入院治療にも関わっていました。ただし、ほとんどは成人の統合失調症の患者で、くだんの「思春期病棟」には関わっていません。すでに存在していなかったですからね。つづきを読む
posted by 不登校新聞社 at 13:29| Comment(2) | 医療関係

2018年03月08日

#35 高岡健さん

takaoka.jpg

(たかおか・けん)
1953年、徳島県生まれ。1979年、岐阜大学医学部卒業。岐阜赤十字病院精神科部長、岐阜大学准教授を経て、2015年より岐阜県立こども医療福祉センター発達精神医学研究所所長。日本児童青年精神医学会理事。少年事件の精神鑑定も数多く手がける。雑誌『精神医療』(批評社)編集委員。著書に『人格障害論の虚像』(雲母書房2003)、『引きこもりを恐れず』(ウェイツ2003)、『不登校・ひきこもりを生きる』(青灯社2011)など多数。共著に『不登校を解く』(共著:門眞一郎、滝川一廣/ミネルヴァ書房1998)、『時代病』(共著:吉本隆明/ウェイツ2005)、『殺し殺されることの彼方』(共著:芹沢俊介/雲母書房2004)など多数。

インタビュー日時:2018年2月3日
聞き手:山下耕平、山田潤
場 所:フリースクール・フォロ
記事編集・写真撮影:山下耕平
--------------------------------------------------------------------------------
→PDF(組版データ)をダウンロード  35futoko50takaoka.jpg
--------------------------------------------------------------------------------

〈テキスト本文〉

山下 このプロジェクトでは、多くの方に、ご自身の子ども時代、とくに学校との関係からうかがっています。高岡さんは、徳島のお生まれでしたね。

高岡 1953年、徳島市生まれです。小学校4〜5年生のころ、愛媛県の新居浜市に転校したんですが、新居浜は、いわば住友の町でした。もともとは漁業を中心とした町だったんですが、それが解体されていく一方で、住友の関係の会社がどんどん進出していました。町には、たくさんの住友系の従業員が自転車で往来していて、道路を占拠するぐらいでした。
 当時は、校歌にも「工場のサイレン」というくだりが入っていて、校長がわざわざ訓示で「この工場というのは学校の前の木工製作所のことではなくて、住友の工場のサイレンのことです」と説明するぐらいでした。

山下 「住友」が輝かしかったんですね。

高岡 そういうことです。ですから、同級生のなかには、解体していく漁業(第1次産業)の家の子どもと、当時、成長産業だった住友系(第2次産業)の会社員の子どもとがいたわけです。

山下 高岡さんの家はどうだったんですか?

高岡 父親は四国電力に勤めていて転勤族だったこともあって、私はどちらと親しいということもなく、漁業の家の子とも住友系の会社員の子とも、どちらともつきあっていました。
 漁業の家の子は、ときどき学校に来ないことがあるんですね。アオサ採りと言ってましたが、海藻を集める仕事に従事していました。それはあたりまえのことになっていて、その間は学校公認で休んでいるわけですね。
 それから、私は落ち着きがなかったせいか、学年の途中でクラスを替えられたことがありました。ただ、いま考えても先生がうまかったなと思うのは、新しい担任が「高岡よ、ワシは一度おまえの担任をやってみたかったんだ。いいか?」ときいてきたんですね。私も機嫌よく「いいですよ」と言ってね。母親も単純なもので、「そりゃよかったね」と言って、途中でクラスを替わりました。

山下 いまだったらAD/HDとか言われて、特別支援学級に移されているのかもしれないですね。

高岡 おそらく、そうでしょうね(笑)。まあ、そういうことはありましたが、小学校では、放送係などをやって、好きな機械いじりをしていたり、5年生の終わりで、また徳島に転校した際には、先生たちが餞別に絵の具をくれたりして、いい思い出が残ってますね。いいことだけを覚えているのかも知れませんが。

つづきを読む
posted by 不登校新聞社 at 22:38| Comment(0) | 医療関係

2017年09月09日

#24 中沢たえ子さん

nakazawa.jpg

(なかざわ・たえこ)児童精神科医。1926年、兵庫県神戸市生まれ。旧姓・鷲見たえ子。戦争中に東京女子医学専門学校(現在の東京女子医科大学)に入学し、戦後に卒業。1950年より、名古屋大学医学部精神医学教室にて児童精神医学を専攻。最先端を知りたいと思い、アメリカ行きを決心。1955年から3年間、マサチューセッツ州ボストンにて、当時アメリカで主流だった精神分析学および幼児のplay therapyを修める。帰国後、国立精神衛生研究所(現在の国立精神・神経医療研究センター)に勤務し、1960年に論文「学校恐怖症の研究」を発表。この論文は注目を集め、今なお不登校の初期の論文として引用されることが多い。結婚後の1962年、再度渡米し、ロサンゼルスで障害児保育を学ぶ。帰国後は児童精神科のクリニックを開き、その草分けとなる。2016年まで院長を務める。著書に『子どもの心の臨床 心の問題の発生予防のために』(岩崎学術出版社1992)、『障害児の心の臨床 知的・情緒的障害児とその親の心』(岩崎学術出版社2001)など。翻訳書にアンナ・フロイト『家庭なき幼児たち : ハムステッド保育所報告 : 1939-1945 上・下』 (岩崎学術出版社1982)など多数。

インタビュー日時:2017年7月7日
聞き手:奥地圭子、朝倉景樹
場 所:中沢たえ子さんご自宅(神奈川県藤沢市)
写真撮影:朝倉景樹、奥地圭子
--------------------------------------------------------------------------------
→PDF(組版データ)をダウンロード  24futoko50nakazawa.jpg
--------------------------------------------------------------------------------

〈テキスト本文〉

●児童精神医学の研究を始めたころ

奥地 どうして児童精神医学を学ぼうと思われたのでしょうか。

中沢 精神医学を学び始めたときは、とくに子どもをとは思ってはいませんでした。ただ、従来の精神医学が人間をきちんと見ていない、そこを見なければという思いはありました。出会いとつながりのなかで、子どもを診るようになったということでしょうか。

奥地 そのなかで不登校の子どもと出会ったのでしょうか。

中沢 そのころは、まだ登校拒否なんてことは、まったく話題になっていませんでした。

奥地 そうですよね。

中沢 思い返せば、1例だけあったように思いますが、まだ、そういう相談もない時代でした。そのころのことで言うと、当時、ずっと診ていたKちゃんのことがありました。お世話になっていた村松常雄(*1)先生からレオ・カナー(精神科医/1894―1981)が自閉症について書いた論文を勧められて読んだのですが、子どもをよく見て書いてありました。その論文とKちゃんが、マッチしていたんですね。それで、村松先生が、「何でもいいから九州の学会へ出してみろよ」と言われて。私はぜんぜん自信がなかったんですけれども、「困ったら僕が何とか応援するよ」っておっしゃるので、1952年の日本精神神経学会で、自閉症の第一例を報告しました。それをきっかけに、私は、子どもにどんどんのめり込んでいったんですね。

朝倉 報告の反響はいかがでしたか。

中沢 「鷲見さん、早く結婚して、自閉症の子どもをつくれよ」って言われました。

朝倉 まあ、なんとごあいさつな。
つづきを読む
posted by 不登校新聞社 at 08:56| Comment(0) | 医療関係