2016年10月16日

#06 滝川一廣さん

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(たきかわ・かずひろ)
1947年名古屋市生まれ。1975年、名古屋市立大学医学部卒業。児童精神科医・臨床心理学者。名古屋市立大学医学部精神科助手、名古屋市立児童福祉センターくすのき学園園長、青木病院医師などを経て、現在、学習院大学文学部心理学科教授。著書に『家庭のなかの子ども 学校のなかの子ども』(岩波書店1994)、『「こころ」の本質とは何か』(ちくま新書2004)、『学校へ行く意味・休む意味』(日本図書センター2012)など多数。

インタビュー日時:2016年8月19日
聞き手:山下耕平、山田潤、貴戸理恵
場所:神戸市勤労会館会議室
写真撮影・記事編集:山下耕平

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〈テキスト本文〉  ※2万6000字と長いので、PDF(組版データ)で読まれることを推奨します。

山下:まずは、ご自身の学校経験からうかがいたいと思います。子どもにとって学校というのは「おそれ」のある場だったと言っておられますが、ご自身の経験としては、どうだったのでしょう。

滝川:私は1947年生まれの団塊世代なので、子どもがめちゃくちゃ多い時代でした。地域(名古屋市)の公立小学校に入りましたが、教室は運動場の隅に急造した平屋の木造校舎でした。1年生のときはワケもわからず過ぎてしまった感じでした。児童数も1クラス50人以上はいましたからね。その後、本来の校舎に移って、子どもにとっては向こうが見えないほどの長い廊下だとか、階段の下なんかが、ちょっと怖い、不思議、という感じがありましたね。

山田:私も同年代ですが、1クラスに55〜56人はいましたね。

滝川:クラスも10クラス以上ありましたしね。てんやわんやで過ごした気がします。あのころの子どもたちは、いまと比べるとかなり乱暴で、クラスは騒然としてましたね。しかし、私は運動が苦手で身体が弱かったので、その乱暴な雰囲気には入れなくて、どちらかというと観察していた気がします。
 先生は、怖いという感じはまったくなかったですが、授業中に友だちとふざけていて立たされたりしたのは、なつかしく覚えてます。あのころは、それが当たり前のことでしたね。

山下:ご自身が、学校へのすくみなどを感じることは?

滝川:そういうことはなかったと思います。ただ、ぜんそく持ちで、4年生ごろまではよく学校を休んでましたし、まごまごすることは多かったですね。成績はいいほうだったんですが、あまりそれは意識していなくて、むしろ、みんなが当たり前にできることが自分にはできないことを強く意識していました。運動会ではビリだし、歌は下手だし、字も下手くそだとか。

山下:遊び場はどんな感じだったんでしょう?

滝川:学校の東側が急斜面になっていて、その斜面で遊んでいました。いろんな雑木が植わっていて、その下には汚い池があって、あのころの学校は手入れが行き届いていないですから、隅っこのほうは雑草で、どこまでが運動場でどこまでが野原かわからない。その斜面や池が、子どもたちにとっていちばん楽しい遊び場所でした。すべり台でも遊びましたが、それよりも赤土の斜面をすべり降りるのが楽しかったですね。それから、池がひょうたん型だったので、どこまで跳び越えられるのか、度胸試しでやっていて、跳び損ねるとお尻からどぶ池に落ちて、泥まみれになったり。そうすると、先生も「家にもどって着替えてらっしゃい」と言うので、家に戻る。学校のある昼間の時間に家に帰るのは、子どもにとっては知らない時間で、この時間は街はこんなふうなんだと思ったり、それは何か特別な時間でしたね。そして、母親にお小言のひとつももらって、学校に戻る。

山下:子どもが学校のやっている時間に外にいても、周囲も目くじらは立てなかったわけですね。

滝川:そうですね。

山田:そういうとき、僕なんかは、いてはいけないところにいるという気持ちで、学校に飛んで帰ったような記憶がありますけどね。

滝川:たしかに、学校を休むことはとんでもないという意識はありましたね。ですから、病気になるとうれしいわけです。公然と休めますからね。

山下:学校の存在は大きくても、当時は、大人の目の届かない領域が豊富にあったんですね。
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posted by 不登校新聞社 at 20:55| Comment(0) | 医療関係