2017年07月07日

#22 北村小夜さん

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(きたむら・さよ)
1925年、福岡県久留米市生まれ。1950年〜1986年まで都内の小・中学校で教員(そのうち1965年から86年の退職まで中学校で特殊学級担任)。子どもたちとのつき合いのなかから、子どもを分けてはならないことに気づき、共に学ぶ地域の学校づくりを目指して、障害児を普通学校へ・全国連絡会世話人などで活動してきた。1990年〜1991年、中国の長春師範学院で日本語を教える。著書に『一緒がいいならなぜ分けた』(現代書館1987)、『再び住んでみた中国』(現代書館1992)、『能力主義と教育基本法「改正」』 (現代書館2004)、『戦争は教室から始まる』(現代書館2008)など。

インタビュー日時:2017年6月5日
聞き手:山下耕平
場 所:北村小夜さんご自宅(東京都大田区)
写真撮影:山下耕平

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〈テキスト本文〉

山下 北村さんは、お生まれは何年になりますでしょうか。

北村 私は1925年、福岡県久留米市に生まれました。92歳なので、明日には死んでるかもしれません(笑)。私が生まれた年に治安維持法が公布されて、その後、どんどん戦争に向かっていって、20歳のときに敗戦になりましたが、戦後の混乱期は相当なものでした。食べ物はないし、多くの人が死んでいるか生きているかわからなくて、人さがしをしていて、進駐軍の検閲も厳しくて……。
 来年が明治維新から150年ということですが、大ざっぱに言えば、明治維新から敗戦までが70年ちょっと、敗戦後から現在までが70年ちょっとですね。いまは、私が子どものころ、戦争前の状況とよく似ています。ちょうど少し前に震災もあって、偶然かもしれないけど、いろんなことが重なる。戦後、こんなに物騒な時代はなかったと思います。

山下 なるほど、たしかに符合することが多いように思いますね。まずは、ご自身の子ども時代の、学校との関係からうかがいたいのですが、小学校に入学されたのは何年になりますでしょうか?つづきを読む
posted by 不登校新聞社 at 13:40| Comment(0) | 学校関係

2017年02月23日

#12 無着成恭さん

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(むちゃく・せいきょう)1927年、山形県沢泉寺の長男として生まれ、跡継ぎとして育てられる。山形師範学校に進み、1948年、21歳で同県山元村中学校に赴任。戦後の民主主義教育の実践として展開した「生活綴方」は、後に『山びこ学校』として出版され(現在は岩波文庫所収)、大きな反響を呼んだ。1952年、沢泉寺住職に。1954年に上京し駒澤大学仏教学部に学び卒業。私立明星学園教諭を経て、千葉県香取郡の福泉寺、大分県国東市の泉福寺住職を歴任。1964年からはTBSラジオ「全国こども電話相談室」の名物回答者として33年間出演した。

インタビュー日時:2016年10月30日
場 所:無着さんご自宅マンションの共同図書室(大分県別府市)
聞き手:奥地圭子
写真撮影:木村砂織

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〈テキスト本文〉

奥地 こんにちは、おひさしぶりです。

無着 奥地さんは、私と出会ったころと比べて、ずいぶん貫禄がつきましたね、顔に。

奥地 そりゃあ、そうですよ。だって40年以上経っていますよ(笑)。


●子ども電話相談室で

無着 その本(『TBSラジオ全国こども電話相談室』)、読んでくれた?

奥地 読みました。おもしろかったです。私が知っている無着さんと変わらないなあと思って。

無着 その昔、奥地さんにも出演してもらいましたね。子ども電話相談室に現場の教師を入れたいので紹介してくれと言われて、30人ぐらい紹介したんだけどさ、みんなマイクの前に立って、質問になったら、ふるえあがってしゃべれないのよ。堂々としゃべったのは、奥地さんだけでね。この人なかなかやるなあと思いましたよ。

奥地 おもしろかったですね。「馬の顔は、なんで長いんですか」とか、珍問の連続で。無着さんは33年間、回答者を務められたんですよね。

無着 番組開始から33年間やりました。1987年にお寺の住職になってからは、お葬式やなんかあったら、行けなくなってね。1997年に放送が日曜日になったので辞めたんですが、俺が受けた最後の質問は、「仏様と神様では、どちらがえらいんですか?」という質問でした。

奥地 それで「神様にはお経がなくて、仏様にはお経があるから仏様のほうがえらいのです」と(笑)。

無着 そうそう。それから、「私のおちんちんは、小さいんだけど、こんな小さいおちんちんでも子どもをつくることはできるでしょうか」とかね。それで、「いざとなったら、大丈夫だから」とか(笑)。
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posted by 不登校新聞社 at 10:29| Comment(0) | 学校関係

2016年10月30日

#07 佐々木賢さん

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(ささき・けん)
1933年、中国・瀋陽生まれ。1961年〜1990年まで東京都立高校の定時制の教員として勤務。退職後は、和光大学公開講座講師、東京エアトラベル・ホテル専門学校講師、神奈川県高校教育会館・教育研究所代表、日本社会臨床学会運営委員などを務める。おもな著書に『高校生の意識と生活―戦後30年の軌跡』(三一書房1979)、『学校を疑う―学校化社会と生徒たち』(三一書房1984)、『怠学の研究―新資格社会と若者たち』(三一書房1991)、『親と教師が少し楽になる本―教育依存症を超える』(北斗出版2002)、『教育と格差社会』(青土社2007)、『商品化された教育』(青土社2009)、『教育×原発』(青土社2011)など多数。

インタビュー日時:2016年9月20日
聞き手:山下耕平、山田潤
場所:セントラルホテル東京喫茶店
写真撮影・記事編集:山下耕平

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〈テキスト本文〉

山下:まずは、佐々木さんの生い立ちからうかがいたいと思います。

佐々木:私は1933年に中国東北部の瀋陽で生まれました。旧満州の奉天ですね。父親が満州鉄道の社員だったんですが、私が4歳のとき、1937年に自殺しまして、いわゆる母子家庭で終戦を迎えました。終戦後の満州は無警察状態になって、人が殺されたり、チフスの流行もあって、そこらに死体がゴロゴロしていました。
 引き揚げることができたのは終戦の1年後で、名古屋に行きました。お寺の本堂が開放されて、引き揚げ者の仮設寮になってたんですね。そこで生活を始めました。

山下:ご兄弟は?

佐々木:2つ年上の兄と3つ年上の姉がいて、母と4人家族でした。戦後、母は“担ぎ屋”をやっていました。イモや米などを買い出しに行って、それを売る仕事です。列車に乗って田舎のほうに行くんですが、人が鈴なりになっていて、窓から乗り込んだりして、ようやく買い出してきても、警察の手入れがあると没収されました。「今日は統制があって取られたから何もないよ」とか言ってね。


●少年日雇い

山下:当時、学校はどういうことになってたんですか?

佐々木:旧制中学が1947年に新制中学に変わって、旧制中等学校併設中学というのがあったんです。しかし、私はそのころは少年日雇いで働いてましたから、ほとんど学校に行った記憶はないです。あのころは少年日雇いが多くてね。職安に行くと、天井からつるされたザルが並んでいて、そこに伝票が入っていて、その日の職を探す。「鉄塊」と書いてあった仕事に行ったら、大きな鉄の塊をトラックに乗せる仕事で、私にはどうしても無理だった。そうしたら、近くにいた復員兵が「おまえはいいから、掃除をしてろ」と言ってくれて、親切にしてくれたのを覚えてます。進駐軍のPX(*1)では、広い敷地で草取りなどをしていました。そこで、初めてコカコーラを飲んだ。まあ苦くて、こんな変なものをアメリカ人は飲んでるのかと思いました(笑)。勉強はしてませんでしたが、本といえば教科書くらいしかなかったんで、日雇いから帰ってきて、街灯の下で教科書を読んだりしていました。
 私の友だちは、下関で空襲に遭って、家族も親戚もなくして、小さいころの記憶をたどって、親戚がいるはずだと名古屋まで来ていました。それで、ウロウロしているところを復員兵に拾われて、闇物資を盗む「仕事」をしていました。その後、浮浪児の寮に収容されて、寮母さんが養子にしてくれて、「勉強したいなら定時制に行け」と言ってくれて、定時制高校に来ていました。最近、そいつも死んでしまいましたが、そういう時代で、みんなが苦労していました。

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posted by 不登校新聞社 at 20:52| Comment(2) | 学校関係