2016年10月30日

#07 佐々木賢さん

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(ささき・けん)
1933年、中国・瀋陽生まれ。1961年〜1990年まで東京都立高校の定時制の教員として勤務。退職後は、和光大学公開講座講師、東京エアトラベル・ホテル専門学校講師、神奈川県高校教育会館・教育研究所代表、日本社会臨床学会運営委員などを務める。おもな著書に『高校生の意識と生活―戦後30年の軌跡』(三一書房1979)、『学校を疑う―学校化社会と生徒たち』(三一書房1984)、『怠学の研究―新資格社会と若者たち』(三一書房1991)、『親と教師が少し楽になる本―教育依存症を超える』(北斗出版2002)、『教育と格差社会』(青土社2007)、『商品化された教育』(青土社2009)、『教育×原発』(青土社2011)など多数。

インタビュー日時:2016年9月20日
聞き手:山下耕平、山田潤
場所:セントラルホテル東京喫茶店
写真撮影・記事編集:山下耕平

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〈テキスト本文〉

山下:まずは、佐々木さんの生い立ちからうかがいたいと思います。

佐々木:私は1933年に中国東北部の瀋陽で生まれました。旧満州の奉天ですね。父親が満州鉄道の社員だったんですが、私が4歳のとき、1937年に自殺しまして、いわゆる母子家庭で終戦を迎えました。終戦後の満州は無警察状態になって、人が殺されたり、チフスの流行もあって、そこらに死体がゴロゴロしていました。
 引き揚げることができたのは終戦の1年後で、名古屋に行きました。お寺の本堂が開放されて、引き揚げ者の仮設寮になってたんですね。そこで生活を始めました。

山下:ご兄弟は?

佐々木:2つ年上の兄と3つ年上の姉がいて、母と4人家族でした。戦後、母は“担ぎ屋”をやっていました。イモや米などを買い出しに行って、それを売る仕事です。列車に乗って田舎のほうに行くんですが、人が鈴なりになっていて、窓から乗り込んだりして、ようやく買い出してきても、警察の手入れがあると没収されました。「今日は統制があって取られたから何もないよ」とか言ってね。


●少年日雇い

山下:当時、学校はどういうことになってたんですか?

佐々木:旧制中学が1947年に新制中学に変わって、旧制中等学校併設中学というのがあったんです。しかし、私はそのころは少年日雇いで働いてましたから、ほとんど学校に行った記憶はないです。あのころは少年日雇いが多くてね。職安に行くと、天井からつるされたザルが並んでいて、そこに伝票が入っていて、その日の職を探す。「鉄塊」と書いてあった仕事に行ったら、大きな鉄の塊をトラックに乗せる仕事で、私にはどうしても無理だった。そうしたら、近くにいた復員兵が「おまえはいいから、掃除をしてろ」と言ってくれて、親切にしてくれたのを覚えてます。進駐軍のPX(*1)では、広い敷地で草取りなどをしていました。そこで、初めてコカコーラを飲んだ。まあ苦くて、こんな変なものをアメリカ人は飲んでるのかと思いました(笑)。勉強はしてませんでしたが、本といえば教科書くらいしかなかったんで、日雇いから帰ってきて、街灯の下で教科書を読んだりしていました。
 私の友だちは、下関で空襲に遭って、家族も親戚もなくして、小さいころの記憶をたどって、親戚がいるはずだと名古屋まで来ていました。それで、ウロウロしているところを復員兵に拾われて、闇物資を盗む「仕事」をしていました。その後、浮浪児の寮に収容されて、寮母さんが養子にしてくれて、「勉強したいなら定時制に行け」と言ってくれて、定時制高校に来ていました。最近、そいつも死んでしまいましたが、そういう時代で、みんなが苦労していました。

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posted by 不登校新聞社 at 20:52| Comment(4) | 学校関係

2016年08月26日

#02 坂本悦雄さん

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(さかもと・えつお)
1929年、青森県生まれ。1935年、入学した村の小学校で不登校状態となり、祖母と同伴登校の日々を送る。1953年、弘前大学卒業、郷里の中学校に赴任。この当時に不登校の生徒に出会い、以来、不登校に関わっている。89年ごろからは自宅で、不登校、非行の子どもたちの居場所「心の窓」を開いてきた。学習援助も週2回ほどやってきたが、親の相談に力を入れてこられ、子どもたちが安心して家に居られるようにと「親の会」も開いている。63年より、県立八戸北高校、青森県立六ヶ所高校教頭を経て、83年より青森県教育庁に勤務。その後、八戸西高校、八戸中央高校校長を経て、89年より八戸市総合教育センター勤務(5年間)。94年より八戸大学勤務(准教授/5年間)。八戸あおば高等学院顧問。


インタビュー日時:2016年7月2日
聞き手:奥地圭子
場所:栃木県小山市
*坂本さんは青森県八戸市在住だが、インタビュー当時、休養・保養のために御夫妻で小山市の娘さん宅に滞在されていた。
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〈テキスト本文〉

奥地:まずは坂本先生の生い立ちからうかがいたいんですが、ご自身、不登校経験がおありだそうですね?

坂本:もう本当に何もない青森県の山奥で生まれました。バスも通っていなくて、食べ物が何もない。肉もない、魚もない。それで小学校に入学するんですが、私自身がひとりでは小学校に行けなかったんですよね。祖母が私のことを毎日連れて行って、それで廊下で針仕事をしてましたよ。

奥地:何年ごろのお話ですか?

坂本:昭和10年(1935年)ごろだったかな? 戦前ですね。私は4月1日の午後10時生まれなので、あと2時間遅ければ次の学年になるのにね(笑)。学校に行けないものだから、役場に下の学年じゃダメかとお願いしたんですが、ダメでした。お願いなんてしないで黙って届ければよかったんでしょうけど(笑)。みんなには「おばあちゃんと行けていいな、いいな」なんて言われましたよ。

奥地:今で言うところの同伴登校ですよね。当時、学校に対してどう思っておられましたか? こわかったんですか?

坂本:ただ、行けなかった。「学校」って言っただけでダメだったね。それでも約2年間、毎日、祖母に連れて行ってもらって、結局、尋常小学校、高等小学校(*1)とも無欠席だったけどね。そのあと、中学校に通うのがまた遠くて大変なわけね。田舎から三戸に出て八戸までだから、32q、歩くんです。汽車のキップもなかなか買えなかったですし、当時は戦時中で食料事情がたいへん悪く、下宿先にあげるお米を背負って行くものだから、次の日は肩が痛くて。1週間は痛かった。

奥地:そうやって育って、それから師範学校に行かれたわけですか?

坂本:ちょうど戦後になって、師範学校が切り替わるところで、弘前大学になりました(*2)。

奥地:それで弘前大学を出られて、地元に赴任されたわけですね。

坂本:昭和28年(1953年)からですね、学校の先生をはじめたのは。大学時代に地元の村から奨学金をもらってたんでね。村から、1年でもいいから地元の中学校に来てほしいと言われていたんです。それで、10年間務めました。

奥地:10年いたわけですか!

坂本:1年でいいってところを10年も(笑)。
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posted by 不登校新聞社 at 19:55| Comment(0) | 学校関係