2018年08月28日

#45 西村秀明さん

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(にしむら・ひであき)
1949年、山口県生まれ。1972年、日本大学文理学部心理学科卒業、山口県中央児童相談所、宇部保健所(現宇部健康福祉センター)、山口県精神保健福祉センターを経て、2003年より宇部フロンティア大学教授。臨床心理士。精神保健福祉士。著書に『子どもの心理 親の心理―子育てはこころ育て』、『ひきこもり その心理と援助』、久保武さんとの共著に『不登校の再検討―子どもたちへの理解と対応 思春期精神保健活動からの報告』(いずれも教育史料出版会刊)。

インタビュー日時:2018年6月30日
聞き手:奥地圭子
場 所:東京シューレ大田
写真撮影:木村砂織

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〈テキスト本文〉

奥地 今日はよろしくお願いします。

西村 今日はこの冊子(『不登校への理解―その実践からの報告―』)を持ってきました。

奥地 ずいぶん前の資料ですね。東京シューレで山口にうかがった際、シンポジウムをしたときの記録ですね。日付は1990年7月29日、場所は山口県視聴覚センターとなってますね。西村さんとの出会いが相当古いことがわかります。

西村 もっと前からで、たしか86〜87年のことです。

奥地 85年に東京シューレができているので、その次の年あたりですね。

西村 すぐに知りました、東京に変な人がいると(笑)。

奥地 当時の状況では、そうだと思いますよ(笑)。

西村 このプロジェクトのインタビューに、中澤淳さんも登場していますね(#40)。それで思い出して探してみたら、この冊子が出てきたんです。けっこうおもしろいことを言っていたなあと思って。

奥地 では、そのあたりの話から、お聞きします。そもそも、どうやってシューレのことを知っていただいたんですか。

西村 たまたまです。当時、精神衛生センター(現在は精神保健福祉センター)に不登校の相談が来ていたんですが、相談件数は増えているものの、当時はこちらもよくわからなくて、文献に頼るしかなかったんです。そうすると、たいていは本人の性格だとか、家族の問題だとか書いてあるわけです。でも、「何か変だ、そうなのかな?」と感じて悩んでいたところに、新聞で知ったんだったと思います。
 まあ、東京に変な人がいる、これは何かヒントをいただけるのではないかと思ったんです。それで、精神衛生センターの中国四国ブロックで協議会を開くところだったので、そこにお呼びしようじゃないかと。ちょうど山口が企画担当だったんです。それが奥地さんとの最初の出会いでした。

奥地 湯田温泉で行なわれた大会でしたね。それは覚えています。西村さんが、不登校と出会われたのは、いつごろですか。

西村 最初は、児童相談所にいたころです。
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posted by 不登校新聞社 at 15:02| Comment(0) | 心理関係

2018年01月25日

#31 内田良子さん

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(うちだ・りょうこ)
1942年、朝鮮慶尚南道生まれ。終戦で引き揚げ長野県で育つ。東京女子大学を卒業後、1973年より27年間、佼成病院小児科心理室で心理相談員を務めた。また、1973年から東京都内の複数の保健所でも心理相談員を務め、現在も続けている。1988年から2011年まで23年間、NHKラジオ「子どもと教育電話相談」「子どもの心相談」を担当した。1998年、子ども相談室「モモの部屋」を設立。著書に『カウンセラー良子さんの子育てはなぞとき』『幼い子のくらしとこころQ&A』『登園しぶり 登校しぶり』(いずれもジャパンマシニスト社)など。編著に『子どもたちが語る登校拒否』『親たちが語る登校拒否』(世織書房)。

インタビュー日時:2017 年9月13日
聞き手:山下耕平
場 所:モモの部屋(東京都杉並区)

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〈テキスト本文〉

山下 まずは、ご自身の子ども時代のことからうかがっていきたいと思います。内田さんは、戦前、植民地時代の朝鮮半島でお生まれということでしたね。

内田 現在の韓国の慶尚南道です。父が現地の日本人学校(女学校)の教員をしていたんですね。私は1942年生まれなので、2歳半で終戦を迎えて引き揚げてきました。ですから、当時のことは記憶には残ってません。引き揚げ先は、父の郷里である長野県富士見町立沢でした。八ヶ岳のふもとで、小学校4年生まで住んでいました。

山下 このプロジェクトのインタビューでも、幾人もの方から引き揚げのご苦労の話をうかがっています。ご苦労も多かったのではないでしょうか。

内田 とくに母はたいへんな思いをしたそうです。終戦時、一番上の兄が8歳で、姉が5歳、私が2歳で、おなかには弟がいたんです。しかし、父は戦争の最後の状況のなかで応召されてしまっていた。引き揚げの途中で赤ちゃんを産んでしまったらつれて帰れないだろうし、3人の子どもをつれての引き揚げは困難をきわめると思って、母は駐屯地に無断で入り込んで、父を返してくれと司令部に直訴したそうです。父は帰ることを許されて、いっしょに引き揚げることができたんです。ただ、無事に日本にたどりつくかはわからないので、私のリュックには道中の遊び道具と、途中でひとり旅立つことがあってもさびしくないようにと、おひなさまの小道具を入れてくれていたそうです。


●先生の言うことは信じちゃいけない

山下 学校との関係は、どうだったんでしょう。

内田 1948年に小学校に入学しているので、新制学校になって2年目ですね。兄は教科書に墨を塗っているんですが、私のときは新しい教科書になってました。いわば民主化した学校に入ったわけですが、小学校に入るとき、母は「学校に行っても、先生の言うことを信じちゃいけないよ。先生はまちがえることがある。私たちの時代は、学校の先生の言うことを聞いて戦争したのだから」と言いました。
 母自身、子ども時代に学校が好きじゃなかったみたいなんですね。身体が弱かったのと、医者の娘だったこともあって、家庭教師がついて家で過ごすことが多くて、学校にはあまり行ってなかったようです。家で世界文学や日本文学を読みふける、作家志望の文学少女でした。学校を通して上から教えられたのではなく、本から知識を得て教養を身につけた人でした。だから、いざというときも、自分で考えて、自分で判断して行動できたんだと思います。
 子どもたちにも、「先生の言うことは信じないで、自分で考えなさい」と言っていて、子どもながらに緊張感をもって、先生にだまされないように最初から疑ってかかってました(笑)。よく日本の親は「学校に行ったら先生の言うことをききなさい」と言いますよね。しかし、私の場合は逆だったんです。

山下 とくに当時では、そういう親御さんはめずらしかったでしょうね。内田さんご自身も、あまり学校には行ってなかったそうですね。

内田 しょっちゅう休んでました。家から学校まで、子どもの足で歩いて小1時間もかかって、遠かったということもありました。山の中で、とくに冬は雪が深く寒くてたいへんでした。それと、担任が軍隊帰りの若い先生で、何か気に入らないことがあると、すぐ革のスリッパで子ども全員の頭をたたいていた。私自身は、しょっちゅう休んでいたせいで、あまり記憶にないんですが、それもイヤだったと思うんです。頭が痛い、おなかが痛い、下痢をする、吐くということで、体調不良でしょっちゅう休んでました。のちに病院の心理室で出会った子どもたちといっしょで、私は身体で登校拒否をしていたんだと気づきました。
 それと、当時は食べるものがほんとうになくて、私はやせて食も細く、母は「この子は身体の弱い子だから、20歳まで生きられるかわからない」と思っていたそうです。農村だったので、農家は食べ物がある。だけど、私たちは給与生活者で農協に行って買わないといけない。当時、父は県立高校の教員だったんですが、その給料だけではまかなえませんでした。野菜は庭でつくってましたが、主食の米やしょうゆは買わないといけないですし、食べるに事欠いていた。
 そういう状況だったので、具合が悪いというと、すぐ休ませてくれたんです。無医村だったので、具合が悪いから医者に行くということもない。健康保険制度もまだなかったですし、家で寝て治す時代でした。
 母は弟を背負って山に植林に行ったり野良仕事で、私は日がな家にいて、ひとりでお留守番で、庭で草木や動物と遊んだりしていました。それで、そろそろ行かないとまずいなとか、退屈したなと思うと、ちょっと行ってみてはまた休む。そんな感じでした。

山下 どれくらいの割合、休んでいたんですか?

内田 3分の1から半分ぐらいは休んでいたように思います。子どもながらに、半分以上休んだら進級できないかなと思って、ときどきは行ってました。よかったのは、当時はテストがなかったんですね。印刷にお金もかかるし紙もないから、できなかったんです。ですから、どこまでわかってるかも確認されない。しばらく休んでても、その日の授業は、聞いたらわかる。ですから、自分が遅れているとは、まったく思ってなかったんですね。テストがなかったのは、すごくいい時代だったと思います。

山下 新制学校制度になって10年ほどは、学校もずいぶん牧歌的だったそうですね。

内田 体育や理科の授業でも、河原に遊びに行き砂を持ってきて校庭を整地したり、宿題がイナゴをとってくることで、それを集めて売って教材費にしていました。ほんとうに牧歌的だったと思います。それでも私は学校がきらいだったんですが、いまと比べれば、子どもの居場所たりえたんだと思います。
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posted by 不登校新聞社 at 16:27| Comment(0) | 心理関係

2017年11月29日

#29 横湯園子さん

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(よこゆ・そのこ)
1939年、静岡県生まれ。心理臨床家。日本社会事業大学社会福祉学部卒業。1970年〜1985年まで国立国府台病院児童精神科病棟の院内学級で教員を務める。その後、千葉県市川市教育センター指導主事、女子美術大学助教授、北海道大学教授、中央大学教授などを歴任。定年退職後はフリーの心理臨床家として子ども・青年に関わる。著書に『登校拒否 専門機関での援助と指導の記録』(あゆみ出版1981)、『登校拒否――新たなる旅立ち』(新日本出版社 1985)、『アーベル指輪のおまじない』(岩波書店1992)、『魂への旅路 戦災から震災へ』(岩波書店2014)など多数。

インタビュー日時:2017 年10 月8 日
聞き手:山下耕平
場 所:飲食店(東京都)
写真撮影・記事編集:山下耕平
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〈テキスト本文〉

山下 まずは子ども時代のことからうかがいたいと思います。お生まれは、どちらでしたでしょう。

横湯 1939年、静岡県三島市に生まれました。5歳のときに沼津大空襲を経験して、沼津は98%以上が焼失し、私たちの住んでいた家も焼かれてしまいました。その後、母の故郷に移って、そこで高校生が終わるまで過ごしました。それと、父は私が1歳1カ月のときに亡くなりましたので、母子家庭で育ったんです。

山下 お父さんが亡くなられた経緯をうかがってもよいでしょうか。

横湯 父は治安維持法で逮捕されたようなんですね。「9・18事件(*1)」と聞いてますが、それがどういう事件だったのかは調べたことがなくて、わかりません。2年半の実刑に処せられて、獄中で満身結核になったそうです。獄中で亡くなると抗議運動が起きるということで仮釈放になって、釈放後に亡くなったようです。それまでにも何回も逮捕されていたようですが。

山下 何か活動されていたんでしょうか。

横湯 文学青年であった父は、文学サークルを通して社会主義に近づき、労農運動に身を投じていました。沼津空襲のとき、母が父の原稿用紙とノートと写真を持って逃げて、それが唯一、父の遺したもので、それ以上のことはわからないんです。

山下 お母さんも苦労されたことでしょうね。

横湯 母は父の身元引受人になるために、新聞紙上で「獄中結婚宣言」をして、一族から勘当された女性だったそうです。父が亡くなったあとは、父の実家からも追い出されて、子どもを抱えて苦労したようです。母の記録では、父が亡くなったあと思想犯の未亡人として辛酸をなめ、戦争が終わるまでの4年間で、30回以上、住所を変えてるんです。
 母はあまり語らなかった人ですが、活動家ではなかった母自身も2回逮捕されているそうです。恋人だった父をさがしてアジトを訪ねたところを、張り込んでいた警察官たちによって逮捕されています。東京の親族が動いて、すぐに釈放はされたものの、その際にむごい拷問も受けていたんです。いっしょに逮捕された人から少し聞いたところでは、畳針で手足の爪のあいだや腿を刺されたと言ってました。実際にはそれ以上のことがあったそうです。私もまだ中高生のころだったので、「ひどすぎるので、園子ちゃんには教えられない」と言ってました。
 母は84歳で亡くなったんですが、入院中に看護婦さんが点滴を失敗したとき、大暴れしたんです。肌をぶすぶすやられる感覚から、拷問のときのフラッシュバックが起きたんだと思います。処置室に入って、身を寄せている私に気づくと、母は「結核菌を飲まされるかもしれないから、断固闘ったんだよ」と言ったんです。私は母に身をよせて手を握って、点滴は成功しましたが、残っていた体力を使いはたしたのでしょうか。母は、その2日後に亡くなりました。拷問というのは、こんなに時間が経っても、人の人生に影響するのだと、あらためて思いました。

山下 ほんとうに苛酷な状況を生きてこられて、お母さんも、さぞかしご苦労されたことと思いますが、子どもの苦労も相当だったのではないでしょうか。

横湯 たいへんでしたけど、母の苦労と比べれば、たいしたことはなかったと思います。戦後も、一族とは連絡をとらず、食べ物もないなかで、間借りしての貧しい母子生活でした。
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posted by 不登校新聞社 at 19:49| Comment(4) | 心理関係