2016年07月19日

#01 佐藤修策さん

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(さとう・しゅうさく)
1928年生まれ。1953年、広島文理科大学卒業。岡山県中央児童相談所判定課長、高知大学教授、兵庫教育大学学長を歴任。教育学博士。1950年代後半に児童相談所で登校拒否のケースに出会い、1959年、日本で最初期に登校拒否の論文「神経症的登校拒否行動の研究―ケース分析による―」を発表。以後、不登校・登校拒否に関わり続けてきた。著書に『登校拒否児』(国土社)、『登校拒否ノート』(北大路書房)、『不登校(登校拒否)の教育・心理的理解と支援』(北大路書房)など多数。


インタビュー日時:2016年6月26日
聞き手:山下耕平、田中佑弥、貴戸理恵
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〈テキスト本文〉

山下:まず、佐藤さんが児童相談所の職員として働きはじめたころのことからうかがいたいと思います。当時の長期欠席の様相は、どんな感じでしたでしょう?

佐藤:私は昭和28年(1953年)に広島文理科大学(現・広島大学)を卒業して、最初は岡山県の教護院(現在の児童自立支援施設)に勤めたんです。その1年後に岡山県中央児童相談所に配転になり、判定員を務めていました。所長は竹内道眞(たけうち・どうしん)さんという変わった精神科医で、藪医者という評価と、神様という評価に分かれていた方でした。なぜなら薬を出さない医者で、いまで言えばカウンセリングを中心にしていた方だったんですね。


●英語で鯛は釣れん

佐藤:そのころというのは、新制中学校が昭和22年(1947年)にできて中学校まで義務教育になったものの、中学校への就学は定着していませんでした。瀬戸内海に面した下津井という漁村で、家庭訪問にまわると、学校に行っていない子がゴロゴロしていました。就学を勧めようと父親に面接すると「学校は小学校まででいい。誰も中学校をつくってくれと言うてない。英語を教えてくれる? 英語で鯛は釣れん。あとはワシが漁師に仕込む」と毅然と断られました。それが漁村ではふつうの考え方でした。そのころは「子どもを学校へ通わせるのは親の義務です」という立て看板が、方々にありました。ちょうど、いまの「飲んだら乗るな、飲むなら乗るな」みたいな感じですね。
 お父さんには中学校なんて必要ないという確固たる自信があるので、説得なんてできませんでした。漁村だけではなく、町のほうでも、学校がイヤなら行くなという考え方は多かったですね。教員も、「学校がイヤなら紹介してやるからパン屋で働け。学校には行っていることにするから」と勧めたり。いまのように学校に行かなければいけないという考えはなく、自由な雰囲気でした。ああいう雰囲気だったら、不登校なんて問題にならないんですけどね(笑)。

山下:いまのように学校に価値を置いてないわけですね。しかし、それが時代とともに、変わっていくわけですよね。

佐藤:私が大学生のころの広島は、戦後まもないころで、防空壕もそのままだし、焼けトタンを屋根に生活していたり、橋が壊れたままだったり、銀行の前に原爆で死んだ人の影が残ったままだったり、といった状況でした。しかし昭和30年代半ばごろになると、ずいぶん復興してきて、じょじょに経済的関心も高くなっていました。昭和35年(1960年)には池田勇人内閣が発足し、高度経済成長路線に入ります。そういう時代状況のなかで、従来、学校教育に関心のとぼしい家庭と、関心の高い家庭とに分極化していましたが、昭和30年代後半から教育への関心が高まり、高校や大学への進学率を押し上げていきます。高度経済政策の進展とともに、人口は田舎から都会へと移動し、教育への関心の分極化は薄くなっていきました。
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posted by 不登校新聞社 at 15:07| Comment(0) | 心理関係