2017年10月20日

#26 松浦幸子さん

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(まつうら・さちこ)
1948年、新潟県生まれ。働きながら法政大学文学部で学び、1972年卒業。1982年、東京YWCA専門学校社会福祉科を卒業し、精神科ソーシャルワーカーに。1987年、心を病む人たちが食事づくりで交流する居場所、クッキングハウスを設立。クッキングハウスは、1992年に玄米食のレストランを始め、2001年にはティールームも開設。2005年12月、精神障害者自立支援賞(リリー賞)受賞。著書に『不思議なレストラン』『続不思議なレストラン』『生きてみようよ! 心の居場所で見つけた回復へのカギ』(教育史料出版会)など。

インタビュー日時:2017年9月14日
聞き手:山下耕平
場 所:クッキングハウス(東京都調布市)
写真撮影:山下耕平

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〈テキスト本文〉

山下 まずは、松浦さんの子ども時代のことから、うかがいたいと思います。お母さんは満州から引き揚げてこられたそうですね。

松浦 母は満州の安東(現在の丹東)に13年住んで、1946年11月に引き揚げてきました。父とのあいだには子どもが3人いて、私は3番目、生まれたのは1948年5月ですが、とても貧しくて、ほんとうに食べていけない状況だったんですね。父は病に臥せっていて、このままだと赤ん坊の私を育てられない、とにかく、この冬を越せるだけでもという思いから、その年の12月30日、母は子ども2人を置いて、私をおんぶして、新潟の農家に嫁いだんです。その家では、結核で先妻を亡くして、先妻の子どもも2人いて、働き手を探していたんですね。
 でも、当時の農村は貧しかったですし、育ての父の暴力がひどくて、母はすごく苦労していました。いまだったらDVで問題になるところですが、しょっちゅう殴られたり蹴られたりしていて、ケガをして働けなくなると、私は母を連れて、友だちの家に避難していました。それで、その家の方が「ご飯食べてきた?」と聞いてくれると、すごくホッとしたんです。聞いてくれないと、「ご飯食べてない」とは言えない。だから、「ご飯食べてきた?」と聞いてくれると、子どもながらにすごくうれしくて、安心しました。でも、かならず父が見つけて迎えに来て、帰らないといけない。そのときは屈辱的な思いがありましたね。
 それでも、私がいじけないですんだのは、母が子守歌のように、実の父のことを話してくれていたからだと思います。母は隠さない人だったので、「あなたのほんとうのお父さんは」とよく語ってくれて、母も父のことを尊敬していたことが伝わってきました。自分の心の誇りとして、暴力をふるう人はほんとうのお父さんではなくて、ほんとうのお父さんは立派な人だと思うことで、あの状況に耐えられたんだと思います。それと、口グセのように言っていたのは、「戦争は絶対にしてはいけない」ということでした。「戦争をすると人の心がずたずたに引き裂かれてしまうから、戦争はしてはいけないよ」と。

山下 実のお父さんは、満州では、どんな仕事を。

松浦 満州鉄道の社員で、安東で税務署の署長をしていたそうです。引き揚げのときは、最後まで引き揚げ者名簿をつくっていて、過労で担架で船に運ばれて、帰国後も何年も病気が癒えず、復帰するまでがたいへんだったようです。その後、いまの新潟県三条市で信用組合をつくって、信頼のある仕事をして亡くなったそうです。
 父が亡くなったとき、遺産相続の手続きで私の存在が兄弟にわかって、兄たちと会うことができました。しかし、私は父には1回も会うことはできませんでした。母は「そのことだけは申し訳なかった」と悔いていました。

山下 戦争が引き起こしてしまった事態のなかで、お父さんにもお母さんにも、引き裂かれるような思いがあったのでしょうね……。松浦さんが育ったのは、1950年代の農村地域で、しかも、もともとは小作農の家だったんですよね。かなり生活状況は厳しかったんでしょうか。

松浦 ほんとうに貧しかったですね。母が再婚した家は、玄関はむしろがかかっているだけで、むしろ戸を開けると馬がいて、その馬が横を向いているあいだに、そっと通り抜けないと中に入れない。屋根も、杉皮を葺いた上に重石が乗っかっていてね。台風なんかが来ると、屋根の石がごろごろ落ちてくるんです。
 おじいさんは、口ぐせのように「塩をなめなめ金を貯めて田んぼを買うたんだ」と言ってました。ぜいたくは許せないというので、あるとき、料理にしょうゆや油を使ったというだけで怒鳴られて、養父に茶碗を投げつけられて、母は足をケガしていました。でも、うちだけではなくて、当時は、どこの家も貧しかったですね。
 母は、夜遅くまで畑にはいつくばって働いていて、そこで泣いていたそうです。ほんとうにどうしようもなくて泣いたとき、誰にも言えない思いを、土が受けとめてくれて、癒やしてくれる。それで、「土はいいもんだね。さんざん泣いても、土の上だと、あとが元気になって体がしゃんとする」と言っていました。

山下 松浦さん自身も、ご苦労があったでしょうね。

松浦 当時、私は栄養失調みたいな状態だったんですね。就学前にそう言われたものですから、母は心配して、夜、寝ていると、布団のなかに煮干しとかを入れてくれるんです。ふとんをかぶりながら、煮干しをかじるんだけど、音を立てないようにするのが大変でね。あと、一番つらかったのは、私の茶碗だけ、ご飯の下に生卵が沈めてあることがあってね。丸いちゃぶ台で、まわりには、お父さん、おじいちゃん、おばあちゃん、先妻の子も2人いるでしょう。どうやって隠して食べていいかわからない。必死になって、真っ赤な顔をして緊張して食べていたのを、いまでも覚えてます。でも、それくらい、栄養が足りなくて弱かったんですね。
 そういう経験があるから、後に、私が心の病気をした人と出会ったときに、やはり、ご飯が大事だと思ったんです。緊張しないで、みんなで明るく笑い合ってご飯を食べられることができたらいいのにと、ずっと思っていたんだと思います。つづきを読む
posted by 不登校新聞社 at 17:58| Comment(2) | 居場所・フリースクール関係

2017年08月29日

#23 児島一裕さん

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(こじま・かずひろ)
1956年兵庫県生まれ。小学校5年生で登校拒否になり、1966年から小学校卒業までの1年10カ月、大阪市立児童院(情緒障害児短期治療施設)に入所していた。大学時代にアメリカに留学、その後、日本語学校の教員を1年間勤める。アメリカ各地のフリースクールをまわり、1985年、兵庫県高砂市でフリースクール地球学校を設立。1999年に地球学校を閉じて、現在は、GHBセンター(グローバル・ヒューマン・ブリッジ・センター)代表、000グローバルビジョン代表、地球大学(NPO法人000 PAF GLOBAL UNIVER-CITY)プロジェクト会員など。愛称はうーたん。

インタビュー日時:2017 年5 月21 日
聞き手:山下耕平、山田潤
場 所:飲食店(大阪府堺市)
写真撮影:山下耕平

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〈テキスト本文〉

山下 児島さんにお話をうかがうのは、このプロジェクトのインタビューで2回目になります。大阪市立児童院(情緒障害児短期治療施設)で生活指導員をされていた竹渕陽三さんにコンタクトをとった際、偶然にも、児島さんに行き当たったのでした。児島さんは50年ほど前に児童院に入所されていた経験があって、いまも竹渕さんを囲んで、当時の入所者で集まっておられるということでした。竹渕さんへのインタビューでは、ご本人だけではなく、児島さん含む当時の入所者4名の方にお話をうかがうことができ、貴重な証言をいただいたと思います(#18竹渕陽三さんと竹の子会のみなさん参照)。今回は、あらためて、情短施設での経験だけではなく、フリースクール地球学校を始められた経緯など、いろいろお話をうかがえればと思っています。

児島 ほんとうに、偶然でしたね。児童院での経験は、自分にとって原点となる経験でしたので、いい機会だったと思います。つづきを読む
posted by 不登校新聞社 at 15:49| Comment(0) | 居場所・フリースクール関係