2018年04月06日

#37 古山明男さん

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(ふるやま・あきお)
1949年千葉県生まれ。京都大学理学部卒業。出版社勤務を経て、私塾・フリースクールを開き、学習支援と不登校の子どもとの交流に関わってきた。教育の多様性を推進する会(通称おるたネット)の代表であり、オルタナティブ教育の啓発普及のための情報発信およびそのネットワークづくりにつとめている。著書に『変えよう!日本の学校システム――教育に競争はいらない』(平凡社2006)、『ベーシック・インカムのある暮らし』(平凡社2015)がある。

インタビュー日時:2018年2月9日
聞き手:加藤敦也、佐藤信一
場 所:古山塾(千葉市)
まとめ:加藤敦也
写真撮影:佐藤信一

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〈テキスト本文〉

●不登校と関わるきっかけ

古山 私と不登校との関わりは、88〜89年ごろからなんですね。

加藤 それは、どうしてだったんでしょう。

古山 ボランティアで不登校の子どもたちに勉強を教える場があって、そこで先生をやらないかという話が来たんです。

加藤 千葉市でのことですか。

古山 そうです。うちの近くで、中学生から高校生の不登校の子どもたちが来ていました。僕はそのころ専門学校の講師をしていたんですが、暇はたくさんあったので、「高校生まで全科目教えますよ」と言ってね。
 私自身、会社勤めしてたとき、会社に不適応だったんですね(笑)。ですから、「この人たちも、あのときの僕の気分でいるんだろうな」って、あたりをつけて、「自分がされたくなかったことはすまい、されたかったことをしよう」と思って接していたんです。そうしたら、それがストライクでね。たくさんの子どもたちがなついてくれました。何がストライクだったかというと、「きみはこうするといいよ」というようなことを、いっさい言わないということだったんです。それと、何気ない関係をつくることです。
 会社勤めしてたときは、いつ辞めようかと考えながら勤めてたんですが、親切な人が「君、このままじゃもったいないから、がんばろうよ」って言ってくるわけ。もちろん、いい人だったんだけど、「くそったれ。俺は辞めるかどうか考えてんのに、あんたまで、がんばれって言うのかよ」と思ってね。親切なアドバイスのつもりでも、それがいかに人を傷つけるか、感覚でわかっていたんだと思います。

加藤 さしつかえなければ、会社はどこだったのしょう。もしくは職種でもよいのですが。

古山 平凡社という出版社です。

加藤 じゃあ、編集のお仕事ですか。

古山 ええ。でも、勤め始めた動機が不純だったんです。つまりは周囲の期待に応えて、いい会社に入っただけ、という感じでね。大学は理学部なんですけど、まともに勉強してなくて、エンジニアとしては食ってけなくてね。でも、やたら本は読んでるから、出版社なら何とかなるかなと思って受けたら、採用されちゃったんです。
 出版社も会社組織で、自分は編集者をしているけど、その下には印刷や製本の人たちがたくさん働いていて、その人たちの苦労の上に成り立っているわけですね。自分も日本資本主義の尖兵じゃないかと思いました。当時は、資本主義批判の価値観が広がっていました。それと自分の社会観があって、いまは身分のない社会のはずなのに、目上とか目下とかおかしいじゃないかってね。そういう社会観に生きていたものですから、僕は中学、高校、大学と、部活には入らなかったんです。先輩・後輩の関係があるから。でも、会社にも先輩・後輩があるじゃない。それをいっさい無視して敬語を使わなかったので、総スカンをくらいました。

加藤 ああ、なるほど(笑)。

古山 不適応の一番の原因はそれかな(笑)。あちらから見れば、ぜんぜん社会的訓練ができていないヤツでした。
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2018年02月19日

#33 小林剛さん

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(こばやし・つよし)
1934年、長野県生まれ。北海道大学大学院教育学研究科修士課程修了。北海道および長野県の公立高校国語科教諭を経て、福井大学教育学部教授、武庫川女子大学大学院臨床教育学研究科長を歴任。兵庫県立神出学園の設立計画に関わり、開校から現在に至るまで学園長を務めている。

聞き手:田中佑弥、山下耕平
記事編集:田中佑弥/写真撮影:山下耕平
インタビュー日時:2017年12月28日
場所:兵庫県立神出学園
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〈テキスト本文〉

田中 インタビューの機会をいただき、ありがとうございます。神出学園については後ほどくわしくうかがいたいと思いますが、まずはご自身がどんな子どもであったかについて教えてください。

小林 出身は長野県の戸隠村です。現在は長野市に合併しちゃったんですが、長いことずっと村で、めずらしく村を残していたところなんですね。

山下 おそばで有名ですよね。

小林 そうそう。いまや観光地になりましたね。子ども時代はまさに信州の山のなかで育ちました。私はもともと、それほど体が丈夫ではなかったんですね。学校を休むことも多かったし、まわりの大人にずいぶん世話になることもあって、少年時代はそれほど活発に動きまわる子どもではなかったんです。したがって、学校のなかでも、どちらかというと目立たない、静かな存在だったと自分では思っています。活発に動けないので、学校の図書室に通って本をたくさん読んだりして、自分の体と心に合った子ども時代を自分なりにつくりだしていったのかなと思います。

田中 学校を休むことが多かったんですね。

小林 カゼをひくことが多かったんでね。学校には行きたいと思うけれども、体がそんな調子だから行けない。学校はきらいじゃないし、先生もとてもいい先生だったので、休むことにはたいへん罪悪感がありました。

田中 神出学園に来てる子たちにも、体調不良は多いのではないでしょうか?

小林 多いですね。

田中 おなかが痛くなる子とか、そういうのはわかるというか……。

小林 よくわかるんです。だから、僕の原点とつなぎ合わせて、子どもの側に立ってものを考えられるんですね。ここの学園長になったことは、僕の少年時代の生い立ちとつながっているような気がするんです。
 戸隠村は貧しい農家が多くて、うちも、ごたぶんに漏れず貧しい農家でありました。当時は、子どもというのは働き手として期待されていたんですが、僕はそんなに丈夫じゃないし、兄貴がいましたので、親が僕に労働を課すことはあまりなかったです。どちらかというと母親が保護してくれて、愛情たっぷりに育てられました。母親は、父親が非常に厳しいぶん――無償の愛という言葉があたるんじゃないかと思うんですが――ひたすら子どもをかわいがってくれました。「愛すること」「信じること」「待つこと」という3つのキーワードが僕の人生論で、これは僕の一生に関わってきたと思うんですけれども、いまでも神出学園のなかで大切にしています。


●北海道家庭学校との出会い

小林 僕は、新制中学の1期生だったんです。体があんまり丈夫じゃなかったこともあって、担任の先生が非常に目をかけてくれました。予科練あがりの若い先生でした。先生の下宿が僕の家の近くだったこともあり、「小林くん、今日は僕んとこへちょっと遊びに来ないか?」って、よく誘ってくれました。それで、おふくろがつくってくれた牡丹餅を持って先生のところへ行くようになりました。戦争というものがどんなにひどかったかっていう話を先生から聞きました。
 また、先生は(北海道大学の前身である札幌農学校の)クラーク博士をとても尊敬していたので、「小林くんは北海道大学に行って勉強しなさい」と勧めてくれました。当時、北海道っていうのは長野からすれば外国みたいに思われていました。だって、昭和20年代の終わりですからね。でも、非常に尊敬していた先生に盛んに言われて、期待に応えたいという思いもあって、長野高校に進学し、1年浪人して北海道大学に入りました。最初2年間は一般教養で、3年から学部に移るわけですが、僕は先生からの影響をあちこちで受けていたので教育学部に行き、砂澤喜代次先生のゼミに入りました。
 砂澤先生が「小林くん、いいところがあるから、いっしょに行こうぜ」って言うから、「どこへ行くんですか?」ってきいたら、「北海道家庭学校(*1)っていうのがあるんだよ。これはすごい学校だよ」と言うんですね。3年生の終わりぐらいだったと思いますが、先生と遠軽にある北海道家庭学校に行きました。谷昌恒先生(*2)が「よくこんな遠くまで来てくれた」って握手をしてくださってね。もう感動しました。挫折した子どもたちが、どのように自分の人生や青春を取りもどしていけるのかということについて、家庭学校からたくさんのヒントをもらいました。大学院では、もっぱら家庭学校に何回も通いました。

山下 北海道家庭学校の印象はどうだったんでしょうか?

小林 家庭学校は小舎制で、それこそ生活は家庭をなしているわけです。12人ぐらいで生活共同体をつくって、寝起きをともにする先生がいて、それがあそこの教育のやり方だったんですね。子どもたちはそこで自分をふり返り、そして自分の人生というものを考え、青春を楽しみ、自分の生き方を考える。こういう教育の場は学校とはちがって、すごい力を持っているという印象を持ちましたね。

山下 それは、先ほどおっしゃった「無償の愛」というか、家庭をベースにしていることが大きかったのでしょうか?

小林 大きかったね、ほんとうに。やっぱり家庭学校に来てる子どもたちは、愛に飢えている子どもたちなんでね。いかに愛されることが不足しているのかってことは、もう肌で感じましたね。親との関係を調整し、再構築していくことで、親は穏やかになっていくし、子どもがほんとうに変わっていくんですよ。これには心から感動して、これが教育なんじゃないかと思いました。規則や決まりで非行を立て直そうとするのは、子どもを追い込んで、かえってダメにするんです。やっぱり受けとめて愛してやることが大事で、これが教育の原点で基本だっていうことを、まさに実感しました。だから、神出学園のスタッフに話すときも、常に家庭学校のあり方を念頭に置いています。

田中 家庭学校では農作業をするそうですが、先生もいっしょにされたんですか?

小林 そうそう。もう汗を流して、何でもやりました。

山下 北海道家庭学校で出会った子どもたちは、非行の子どもが多かったのでしょうか?

小林 そうです。8割ぐらいが窃盗や暴力ですね。当時、不登校はまだ社会問題ではなく、学校から弾き出されて、非行化していく子どもが一番大きな問題だったんですね。
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2017年12月29日

#30 山下英三郎さん

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(やました・えいざぶろう)
1946年、長崎県生まれ。日本社会事業大学名誉教授。NPO法人修復的対話フォーラム理事長。早稲田大学法学部卒業後、社会人経験を経た後1983年にユタ大学ソーシャルワーク学部修士課程に入学、1985年に同課程を卒業。1986年から埼玉県所沢市において、日本で初のスクールソーシャルワーカーとして実践活動を行なう。また、1987年から2010年まで子どもの居場所「バクの会」の運営に携わる。1997年から日本社会事業大学教員。1999年、日本スクールソーシャルワーク協会を立ち上げた。著書に『いじめ・損なわれた関係を築きなおす』『エコロジカル子ども論』(ともに学苑社)など多数。

インタビュー日時:2017 年9 月18 日
聞き手:須永祐慈、増田良枝、中村国生
場 所:山下英三郎さんご自宅(長野県)
写真撮影:中村国生

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〈テキスト本文〉

須永 よろしくお願いします。山下さんは、さまざまな子どもたちと出会ってこられたと思うのですが、その話の前に、山下さんご自身の経歴からおうかがいしてよろしいでしょうか?

山下 生まれは長崎市で、1946年に生まれました。

須永 長崎市内ですか?

山下 長崎市内です。僕が生まれる7〜8カ月前に原子爆弾が落ちました。僕の母がいた場所は中心街ではなかったけれども、翌日、何もわからず知人を探しに爆心地に行ったそうです。そのとき僕はおなかにいたので、胎内で放射能を浴びた「胎内被爆児」なんです。
ただ、被爆認定は18歳になってからと遅くて、ある日突然、被爆者手帳がきた感じでした。
 なんでその話をしたかというと、その後の人生行動に大きく影響するからなんです。突然降ってわいた胎内被爆児という経験は、僕にとっては現在にいたるまで、体のことや命のことと密接に関わっています。その後、18歳で長崎を出て、東京の大学に行き、1969年に大学を卒業しました。卒業後、とくにやりたいこともなかったので、鉄鋼関係の商社に就職しました。

増田 大学の学部は?

山下 法学部なんですよ。

増田 法学部で鉄鋼ですか?

山下 そうです。

須永 おもしろいですね。

山下 法学部はいただけで、法律を勉強したわけじゃなかったんです(笑)。

須永 当時は学生運動の時代ですか?

山下 そうです、全共闘の時期です。1965年、大学に入った年に学費値上げ闘争があって、学生たちが大学を封鎖して、全学ストライキが100日間にわたって続くということがあったんです。だから、そのぶんずれ込んで、2年生になったのは8月でした。田舎からぽっと出てきて大学に入って、いきなりそういう出来事に遭遇したので、そこで少しものごとを考えるようになりました。それまでは生き方も迷ってて、あまり先のことは考えてなかった。
 大学闘争の影響はすごく大きかったんですね。当時、学生たちが言っていたことは、主張としてはまっとうだと思いました。同時期にベトナム戦争が激しくなってきたので、それも根が深い運動として、直接は関わりませんでしたが、いろいろ考えるきっかけになりました。結局、大学4年間は、ずっと大学闘争の時代だったんですよね。
 だけど、運動がどんどん過激になって、僕が卒業したころには赤軍派の活動がだんだん活発になる状況でした。大学のなかでも、運動する人どうしが争うのを見て、おおもとの言っていることは同じはずなのに、細かいところで対立して、しまいには暴力をふるうようになってしまった。一番衝撃だったのは、連合赤軍の浅間山荘事件と、その直前に起きたリンチ殺人事件です。あれにはすごく挫折感を感じた。そのとき、暴力対暴力では絶対に解決がつかないと思ったんですよね。
 同時期に、アメリカでは公民権運動が始まってました。キング牧師の非暴力主義に、僕はすごく惹かれて、キング牧師のことを研究したとまでは言わないけど、大事なのはこれじゃないかと思ったんです。とはいえ、大学時代には何も考えがまとまらず、とりあえず就職するしかないので、鉄鋼関係の商社に行ったわけです。
 学生時代、アメリカの若者たちが平和部隊の隊員としでアフリカで活動しているのを知って、自分もそういう活動に参加したいという想いがありました。ですので、英語サークルに入って英会話を学びました。鉄鋼関係の小さい商社で英語ができれば、外国に行けるのではないかと思ったのが就職の動機でした。
 だけど、実際には行くチャンスはなかったですね。入ったら、会社自体ぜんぜん合わなくて……。そのころはちょうど経済成長期で、とにかくイケイケな雰囲気で、だけど僕は、学生のときに産学協同路線にすごく違和感を覚えていたから、自分の考え方と会社の現実がちがうことにすごく苦しくなっちゃったんです。商社の仕事が苦しくて苦しくて、これはもう続けちゃいけないと思ったんです。
 しかも、やる気がないからまったく仕事をせず、出社して朝礼を終えたら、すぐ会社を出て喫茶店でお茶を飲んだり、友だちが営業に行くと、僕もいっしょについて行ったり、ときどきは映画を観に行ったり、友だちといっしょにボウリングに行ったりしてました。
 しかし、そればかりだと、ちょっとむなしいなと思ってね。いくらなんでも、会社に迷惑をかけるし、自分もつらかったので、とにかく辞めようと思ったんです。だけど、辞めたところで何をやっていいかわからない。

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posted by 不登校新聞社 at 09:04| Comment(0) | 居場所・フリースクール関係