2018年05月04日

#38 倉地透さん

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(くらち・とおる)
1971年、東京都練馬区生まれ。中学校2年生より登校拒否。中2の終わりごろから17歳まで東京シューレに在籍。18歳から縫製工場で働き、20歳で結婚。転職して工務店で働きながら専門学校に通い、27歳で二級建築士の免許を取得。その後、独立して、2008年に建築会社マッスルホームを設立、取締役社長をしている。ふたりの子どもの父でもあって、お子さんたちとは趣味のキックボクシングを楽しんでいる。
株式会社マッスルホーム http://www.muscle-home.com/

インタビュー日時:2018年3月1日
聞き手:奥地圭子
場 所:東京シューレ王子
写真撮影:佐藤信一

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〈テキスト本文〉

奥地 いまは、文部科学省が「不登校は問題行動と判断してはならない」と全国に通知を出す時代になりました。やっと、そこまで来たんです。でも、非常に厳しい時代もあって、とくに80年代、シューレができたころはたいへんでしたね。学校に行かない子たちが、どういう対応を受けてきたのか、そういう話をこのプロジェクトに入れたいと思って、透くんの話は絶対に入れたいと思っていました。だまされて、北海道までつれていかれちゃったわけですからね。

倉地 戸塚ヨットスクールなんかが、ふつうにまかり通ってたような時代でしたからね。

奥地 まず、簡単にプロフィールを聞きたいんだけど、いまは46歳で、中2から不登校だったんですよね?

倉地 中2の1学期からで、練馬区の中学校でした。東京シューレに入ったのは中2の終わりごろだったと思います。中3のあいだは、けっこうシューレに行ってましたね。

奥地 シューレを辞めたのはいつごろでしたかね。そのころは、まだ高等部がはっきりと確立していたわけじゃないんですよね。いまは高等部もあるんだけどね。

倉地 高校に入ったときにシューレは1回辞めて、でも1週間でダメになって、またシューレに戻ってきて、アルバイトしながら通ってましたね。

奥地 じゃあ、16〜17歳のころに退会してるのかな?

倉地 仕事を始めたからだったと思います。18歳の4月、ふつうだったら高校卒業年齢のときから、知り合いの縫製工場で働き始めました。親がアパレル関係で、婦人服の縫製をやってたんで、それを継ぐって名目で、親の会社じゃないところで働き始めたんです。

奥地 それで20歳で結婚だっけ?

倉地 そうです。その会社にいたんですね、嫁は。

奥地 でも、その前にお母さんが亡くなられて……。

倉地 お袋が亡くなることによって、結婚が早まっちゃたような流れなんですよね。結婚したときは、まだ仕事もちゃんと定まってなかったんです。会社には、親父の仕事を継ぐってことで入社して、でも、お袋が亡くなったことによって、親父がやる気をなくしちゃって、自分の会社もうまくいかなくなって、借金も抱えて、がくっときちゃったんですよね。
 ずっと何もしなくなっちゃったわけじゃないんだけど、家賃も滞納していて、いっしょに住んでたんだけど、そのころの給料じゃ、僕も、とてもまだ独立できるような状況じゃなかったし、このあたりから親父ともうまくいかなくなっちゃって……。それで、親父も「透は好きなことをやりなさい」と言って、23歳のときに工務店に入ったんですね。

奥地 23歳で工務店就職で、それで夜は専門学校に通ったんだっけ?

倉地 そうです。夜と日曜日に通って、そこで二級建築士の資格を取りました。それが27歳のときです。

奥地 仕事と勉強でたいへんでしたね。それで、工務店でしばらくやっていって、30歳のときに自分で家を建てるんだよね?

倉地 そうです。その後、独立して、株式会社マッスルホームの取締役社長をやっています。会社を興したんです。つづきを読む
posted by 不登校新聞社 at 17:12| Comment(3) | 当事者

2018年04月06日

#37 古山明男さん

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(ふるやま・あきお)
1949年千葉県生まれ。京都大学理学部卒業。出版社勤務を経て、私塾・フリースクールを開き、学習支援と不登校の子どもとの交流に関わってきた。教育の多様性を推進する会(通称おるたネット)の代表であり、オルタナティブ教育の啓発普及のための情報発信およびそのネットワークづくりにつとめている。著書に『変えよう!日本の学校システム――教育に競争はいらない』(平凡社2006)、『ベーシック・インカムのある暮らし』(平凡社2015)がある。

インタビュー日時:2018年2月9日
聞き手:加藤敦也、佐藤信一
場 所:古山塾(千葉市)
まとめ:加藤敦也
写真撮影:佐藤信一

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〈テキスト本文〉

●不登校と関わるきっかけ

古山 私と不登校との関わりは、88〜89年ごろからなんですね。

加藤 それは、どうしてだったんでしょう。

古山 ボランティアで不登校の子どもたちに勉強を教える場があって、そこで先生をやらないかという話が来たんです。

加藤 千葉市でのことですか。

古山 そうです。うちの近くで、中学生から高校生の不登校の子どもたちが来ていました。僕はそのころ専門学校の講師をしていたんですが、暇はたくさんあったので、「高校生まで全科目教えますよ」と言ってね。
 私自身、会社勤めしてたとき、会社に不適応だったんですね(笑)。ですから、「この人たちも、あのときの僕の気分でいるんだろうな」って、あたりをつけて、「自分がされたくなかったことはすまい、されたかったことをしよう」と思って接していたんです。そうしたら、それがストライクでね。たくさんの子どもたちがなついてくれました。何がストライクだったかというと、「きみはこうするといいよ」というようなことを、いっさい言わないということだったんです。それと、何気ない関係をつくることです。
 会社勤めしてたときは、いつ辞めようかと考えながら勤めてたんですが、親切な人が「君、このままじゃもったいないから、がんばろうよ」って言ってくるわけ。もちろん、いい人だったんだけど、「くそったれ。俺は辞めるかどうか考えてんのに、あんたまで、がんばれって言うのかよ」と思ってね。親切なアドバイスのつもりでも、それがいかに人を傷つけるか、感覚でわかっていたんだと思います。

加藤 さしつかえなければ、会社はどこだったのしょう。もしくは職種でもよいのですが。

古山 平凡社という出版社です。

加藤 じゃあ、編集のお仕事ですか。

古山 ええ。でも、勤め始めた動機が不純だったんです。つまりは周囲の期待に応えて、いい会社に入っただけ、という感じでね。大学は理学部なんですけど、まともに勉強してなくて、エンジニアとしては食ってけなくてね。でも、やたら本は読んでるから、出版社なら何とかなるかなと思って受けたら、採用されちゃったんです。
 出版社も会社組織で、自分は編集者をしているけど、その下には印刷や製本の人たちがたくさん働いていて、その人たちの苦労の上に成り立っているわけですね。自分も日本資本主義の尖兵じゃないかと思いました。当時は、資本主義批判の価値観が広がっていました。それと自分の社会観があって、いまは身分のない社会のはずなのに、目上とか目下とかおかしいじゃないかってね。そういう社会観に生きていたものですから、僕は中学、高校、大学と、部活には入らなかったんです。先輩・後輩の関係があるから。でも、会社にも先輩・後輩があるじゃない。それをいっさい無視して敬語を使わなかったので、総スカンをくらいました。

加藤 ああ、なるほど(笑)。

古山 不適応の一番の原因はそれかな(笑)。あちらから見れば、ぜんぜん社会的訓練ができていないヤツでした。
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posted by 不登校新聞社 at 17:45| Comment(0) | 居場所・フリースクール関係

2018年03月22日

#36 常野雄次郎さん

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(つねの・ゆうじろう)
1977年、兵庫県赤穂市生まれ。小学校3年生の終わりに千葉県市川市に転校。その後、小学校4年生から登校拒否。1年ほど家にひきこもり、11歳から東京シューレに通う。13歳のとき、『学校に行かない僕から学校に行かない君へ』(東京シューレの子どもたち編/教育史料出版会1991)に、著者のひとりとして書いている。アメリカ、イギリスに留学し、イギリスのランカスター大学を卒業。2005年、貴戸理恵さんとの共著で『不登校、選んだわけじゃないんだぜ!』を出し、明るい登校拒否や学校を選択するという考え方を批判した。

インタビュー日時:2017 年8 月3 日
聞き手:貴戸理恵、山下耕平、山田潤
場 所:関西学院大学大阪梅田キャンパス
記事編集・写真撮影:山下耕平
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〈テキスト本文〉

貴戸 まずは、ご自身の不登校の経験から教えていただければと思います。

常野 私は不登校児だったことはなくて、登校拒否児だったんですね。なので、不登校ではなく登校拒否経験ということになります。本来、不登校でも登校拒否でも、どちらでもいいんですが、私の時代は登校拒否と呼ばれていて、そこにあった侮蔑的な意味合いを避けるために、何か腫れ物にさわるのを避けるように、不登校という言葉に代わってきたように感じているので、少なくとも自分のことを言うときには登校拒否と言っています。
 まず、登校拒否になる前のことを話をしますと、私は1977年生まれで、小学校に入ったのは1984年です。すごく学校に適応する子どもで、先生という権力者にも好かれてましたし、授業も楽しくて友だちも多かったんです。当時は兵庫県赤穂市の小学校に通ってました。学校では、運動会や行事の練習という名目で、毎日のように軍隊行進をさせられてました。だけど、私はそれに合わせるのが上手で、あまりにも私の行進に合わせるリズム感がいいので、教師が「みなさん、常野くんのリズムに合わせましょう」と言うぐらいでした。よく登校拒否の体験談で、学校に行けなくなるきっかけとして、学校に適応できなかったことが語られますが、私の場合は、むしろ適応しすぎていたんです。


●もう人生おしまいだ

貴戸 行けなくなった直接のきっかけはあったんですか。

常野 小学校2年生の終わりごろ、なんとなく行けなくなったことがあったんですが、学年が変わってからは、また何の問題もなく通っていました。その後、小学校3年生の終わりに千葉県の市川市に転校したんです。千葉県は管理教育で有名ですが、体罰がイヤだったとか、陰湿ないじめがあったということはなくて、なんとなく行けなくなってしまったんですね。
 私は「学校信仰のジレンマ」と名づけているんですが、学校なんて行かなくてもいいじゃないかという考えがあったら、1〜2日休んでも、また行けばいいと思える。しかし学校は絶対に行かねばならないと強く信仰していると、ちょっとの休みで「いけないことをしてしまった。もう顔見せできない」と思って、1週間、2週間と休むようになって、それが1カ月、2カ月となって、どんどん行けなくなってしまう。私の場合は、そんな感じで学校に行けなくなって、「もう人生おしまいだ」と思ってました。

山下 行かなくなり始めたのはいつごろですか?

常野 小学校4年生の10月ごろです。1987年のことですね。

貴戸 学校に行かない子はダメな子だというのは、誰かから言われていたのか、それとも自分で感じていたのでしょうか。

常野 誰かから明示的に言われたというよりも、当時の社会規範を内面化していたということだったと思います。

貴戸 五月雨登校のようなことはなかったんですか?

常野 学校信仰が強いがゆえに、そういうことはなかったですね。

山田 転居・転校がなかったら、登校拒否もしてなかったと思いますか?

常野 どうでしょうね。

山田 私たちは「学校に行かない子と親の会(大阪)」を1991年に始めたんですが、そのころでも、関東から転居してきた子たちが、言葉でいじめられて学校に行けなくなるという話を多く聞きました。言葉というのは、かっこうのいじめの対象になりますね。常野さんの場合は、どうだったんでしょう。

常野 そういうことはなかったですね。言葉でトラブルになることはなかったです。

貴戸 学校に行けなくなるのって、スモールステップの積み重ねのように思うんです。私の場合だったら、朝起きられないとか、朝ご飯が食べられないとか、ランドセルを背負うけど、おなかが痛くなってしまうとか、そういうことがありました。常野さんの場合は、どういう感じだったんでしょう。

常野 そんなにドラマチックなエピソードはなくて、なんとなく行けなくなったという感じだったんです。行けなくなるまでは、そんなにイヤなことはなかったんです。しかし、行けなくなったことで、どんどん落ち込んでいったんですね。自分は学校にも行けない悪い子だ、将来どうなるんだろうと。
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posted by 不登校新聞社 at 09:43| Comment(0) | 当事者