2017年03月01日

#13 保坂亨さん

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(ほさか・とおる)
1956年、東京生まれ。1983年、東京大学大学院教育学研究科博士課程中退。東京大学教育学部助手(学生相談所専任相談員)、千葉大学教育学部講師、同助教授を経て、2002年より同教授、2013年より同大学教育学部附属教員養成開発センター長。千葉市教育委員会いじめ等の対策及び調査委員会委員長、子どもの虹情報研修センター企画評価委員。著書に『学校を欠席する子どもたち―長期欠席・不登校から学校教育を考える』(東京大学出版会2000)、『“学校を休む”児童生徒の欠席と教員の休職』(学事出版2008)『いま、思春期を問い直す―グレーゾーンにたつ子どもたち』(東京大学出版会2010)など。

インタビュー日時:2016年10月14日
場 所:東京シューレ葛飾中学校
聞き手:奥地圭子、松島裕之
写真撮影:松島裕之

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〈テキスト本文〉

奥地 本プロジェクトは、文部科学省の学校基本調査で不登校(学校ぎらい)の児童生徒数の調査が始まって50年ということで始めたものです。保坂先生は、このあたりを研究されているので、なぜ、この調査が1966年に始まったのか、その時代背景、用語や表現の問題についてなど、うかがいたいと思っています。よろしくお願いします。

保坂 はい、よろしくお願いします。

奥地 そもそも、なぜ不登校に関心を持たれたのでしょうか。

保坂 2008年に『学校を休む℃剴カ生徒の欠席と教員の休職』(学事出版)という本を出していて、その略歴なども読んでいただくとよいのですが、まず何より、自分も学校をよく休んでいたからです。とにかくよく休みました。なぜ不登校に関心を持ったのかと言えば、根っこはそこにあると思います。

奥地 それは、いつごろのことでしょう?

保坂 小・中学校は病気でよく休んで、高校は積極的に休み、大学が一番行かなかったです。大学院からまっとうに通うようになりました。小学校入学は1962年だったので、60年代から70年代にかけてですね。

奥地 なるほど。中学卒業が1972年ですね。そのころのまわりの対応というのはどんな感じだったんでしょうか。病気だったとのことですから、いわゆる「病欠」ということになりますでしょうか。

保坂 そうですね。とくに小学校6年生のときは盲腸で入院して休んでいたので、1年間で50日以上休んでいる数少ない子どもの一人だったと思います。でも、両親が教員だったということもあって、当時は、学校を休むことは、すごくいけないことだと感じていました。学校を休む子なんてほとんどいなかったですからね。

奥地 そうですよね。病気など仕方のない理由があっても、肩身の狭い思いをされていたんじゃないかと思います。ところで、大学院以降のご専攻をお聞きしたいのですが。
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2017年02月23日

#12 無着成恭さん

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(むちゃく・せいきょう)1927年、山形県沢泉寺の長男として生まれ、跡継ぎとして育てられる。山形師範学校に進み、1948年、21歳で同県山元村中学校に赴任。戦後の民主主義教育の実践として展開した「生活綴方」は、後に『山びこ学校』として出版され(現在は岩波文庫所収)、大きな反響を呼んだ。1952年、沢泉寺住職に。1954年に上京し駒澤大学仏教学部に学び卒業。私立明星学園教諭を経て、千葉県香取郡の福泉寺、大分県国東市の泉福寺住職を歴任。1964年からはTBSラジオ「全国こども電話相談室」の名物回答者として33年間出演した。

インタビュー日時:2016年10月30日
場 所:無着さんご自宅マンションの共同図書室(大分県別府市)
聞き手:奥地圭子
写真撮影:木村砂織

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〈テキスト本文〉

奥地 こんにちは、おひさしぶりです。

無着 奥地さんは、私と出会ったころと比べて、ずいぶん貫禄がつきましたね、顔に。

奥地 そりゃあ、そうですよ。だって40年以上経っていますよ(笑)。


●子ども電話相談室で

無着 その本(『TBSラジオ全国こども電話相談室』)、読んでくれた?

奥地 読みました。おもしろかったです。私が知っている無着さんと変わらないなあと思って。

無着 その昔、奥地さんにも出演してもらいましたね。子ども電話相談室に現場の教師を入れたいので紹介してくれと言われて、30人ぐらい紹介したんだけどさ、みんなマイクの前に立って、質問になったら、ふるえあがってしゃべれないのよ。堂々としゃべったのは、奥地さんだけでね。この人なかなかやるなあと思いましたよ。

奥地 おもしろかったですね。「馬の顔は、なんで長いんですか」とか、珍問の連続で。無着さんは33年間、回答者を務められたんですよね。

無着 番組開始から33年間やりました。1987年にお寺の住職になってからは、お葬式やなんかあったら、行けなくなってね。1997年に放送が日曜日になったので辞めたんですが、俺が受けた最後の質問は、「仏様と神様では、どちらがえらいんですか?」という質問でした。

奥地 それで「神様にはお経がなくて、仏様にはお経があるから仏様のほうがえらいのです」と(笑)。

無着 そうそう。それから、「私のおちんちんは、小さいんだけど、こんな小さいおちんちんでも子どもをつくることはできるでしょうか」とかね。それで、「いざとなったら、大丈夫だから」とか(笑)。
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posted by 不登校新聞社 at 10:29| Comment(0) | 学校関係

2017年01月15日

#11 森英俊さん

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(もり・ひでとし)
1955年、鳥取県生まれ。小児科医。自身、中学3年生のとき(1969年)に不登校経験がある。高校在学時にハンセン病療養施設でのボランティア経験などから、医師を志す。1981年、杏林大学医学部卒。1993年より、鳥取タンポポの会(不登校の子と親の会)を立ち上げ、代表世話人として活動している。

インタビュー日時:2016年11月6日
場 所:とりぎん文化会館(鳥取市)
聞き手:山下耕平
写真撮影・記事編集:山下耕平

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〈テキスト本文〉

山下:まずは、子ども時代のことからうかがいたいのですが。

森:父親が医者で僻地勤務をしていて、島根と鳥取を往き来していたので、私は小学校を2回転校しています。私が小学校6年生のときに、父は転勤をやめて岩美郡(現在の鳥取市)で開業しました。その6年生のときの小学校で、担任の先生から「いいチャンスだから、鳥取大学教育学部の付属中学校を受けてみなさい」と言われて、あまり深く考えることもなく、言われるがままに受験したんですね。実は、今日のインタビューのこの場所(とりぎん文化会館)が、その中学校のあった場所なんです(笑)。

山下:そうだったんですか。因縁のある場所なんですね。

森:そうなんです(笑)。それで、合格して入学したんですが、入ってみて、その中学校のあまりの競争的な状況に驚きました。1学年180人ほどのうち、毎年3〜5人は東大に、10人くらいは京大、阪大に入るような学校でした。5月の連休明けに最初の中間テストがあったんですが、テストが終わった翌日に学校に行くと、成績順に廊下に名前が張り出されていました。しかも、上位から最下位まで全員です。

山下:それは酷ですね。小学校までとはまったくちがう世界だったわけですね。

森:酷ですよ。そのことに、とてもショックを受けました。自分の成績は平均以下でしたしね。「すごいことをするんだな。このなかで生きていかないといけないんだ」と思って、漠然と不安に襲われたのを覚えいます。

山下:お生まれが1955年ということは、中学校に入られたのは1967年ですか。

森:そうですね。中学2年生のころ、全国的に学生運動が広がっていったんですが、教育実習に来る学生さんたちはネクタイをしめて、教員らしい格好をして授業をしていますでしょう。子どもから見ると、大人側、体制側の人たちです。でも、その人たちが大学に戻ると、ゲバ棒を持って火炎瓶を投げていたりしていた。大人の二面性をかいま見たように思いました。鳥取大学の付属中学校だからこそ見えたことだったのかもしれませんが、それも、ある意味ではショックを受けたことでした。そういう状況が、私にはとても耐えがたかったんですね。

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posted by 不登校新聞社 at 14:20| Comment(0) | 当事者