2018年03月08日

#35 高岡健さん

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(たかおか・けん)
1953年、徳島県生まれ。1979年、岐阜大学医学部卒業。岐阜赤十字病院精神科部長、岐阜大学准教授を経て、2015年より岐阜県立こども医療福祉センター発達精神医学研究所所長。日本児童青年精神医学会理事。少年事件の精神鑑定も数多く手がける。雑誌『精神医療』(批評社)編集委員。著書に『人格障害論の虚像』(雲母書房2003)、『引きこもりを恐れず』(ウェイツ2003)、『不登校・ひきこもりを生きる』(青灯社2011)など多数。共著に『不登校を解く』(共著:門眞一郎、滝川一廣/ミネルヴァ書房1998)、『時代病』(共著:吉本隆明/ウェイツ2005)、『殺し殺されることの彼方』(共著:芹沢俊介/雲母書房2004)など多数。

インタビュー日時:2018年2月3日
聞き手:山下耕平、山田潤
場 所:フリースクール・フォロ
記事編集・写真撮影:山下耕平
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〈テキスト本文〉

山下 このプロジェクトでは、多くの方に、ご自身の子ども時代、とくに学校との関係からうかがっています。高岡さんは、徳島のお生まれでしたね。

高岡 1953年、徳島市生まれです。小学校4〜5年生のころ、愛媛県の新居浜市に転校したんですが、新居浜は、いわば住友の町でした。もともとは漁業を中心とした町だったんですが、それが解体されていく一方で、住友の関係の会社がどんどん進出していました。町には、たくさんの住友系の従業員が自転車で往来していて、道路を占拠するぐらいでした。
 当時は、校歌にも「工場のサイレン」というくだりが入っていて、校長がわざわざ訓示で「この工場というのは学校の前の木工製作所のことではなくて、住友の工場のサイレンのことです」と説明するぐらいでした。

山下 「住友」が輝かしかったんですね。

高岡 そういうことです。ですから、同級生のなかには、解体していく漁業(第1次産業)の家の子どもと、当時、成長産業だった住友系(第2次産業)の会社員の子どもとがいたわけです。

山下 高岡さんの家はどうだったんですか?

高岡 父親は四国電力に勤めていて転勤族だったこともあって、私はどちらと親しいということもなく、漁業の家の子とも住友系の会社員の子とも、どちらともつきあっていました。
 漁業の家の子は、ときどき学校に来ないことがあるんですね。アオサ採りと言ってましたが、海藻を集める仕事に従事していました。それはあたりまえのことになっていて、その間は学校公認で休んでいるわけですね。
 それから、私は落ち着きがなかったせいか、学年の途中でクラスを替えられたことがありました。ただ、いま考えても先生がうまかったなと思うのは、新しい担任が「高岡よ、ワシは一度おまえの担任をやってみたかったんだ。いいか?」ときいてきたんですね。私も機嫌よく「いいですよ」と言ってね。母親も単純なもので、「そりゃよかったね」と言って、途中でクラスを替わりました。

山下 いまだったらAD/HDとか言われて、特別支援学級に移されているのかもしれないですね。

高岡 おそらく、そうでしょうね(笑)。まあ、そういうことはありましたが、小学校では、放送係などをやって、好きな機械いじりをしていたり、5年生の終わりで、また徳島に転校した際には、先生たちが餞別に絵の具をくれたりして、いい思い出が残ってますね。いいことだけを覚えているのかも知れませんが。

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posted by 不登校新聞社 at 22:38| Comment(0) | 医療関係

2018年03月01日

#34 田中達也さん

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(たなか・たつや)
1962年、東京都江戸川区生まれ。小学校6年生のときに学校に行かなくなり、児童精神科医、渡辺位さんとの出会いなどから、中学2年生のとき、みずから希望して国立国府台病院36病棟(児童精神科病棟)に入院する。当時のことは、母親の田中英子さんが『登校拒否・学校に行かないで生きる』(渡辺位編著/太郎次郎社1983)に書いている。退院後、病院で看護助手をしながら定時制高校に通い、卒業後は鍼灸師やリハビリの仕事などに携わり、現在は社会福祉士専門職として、幅広く活動している。

インタビュー日時:2018年1月16日
聞き手:奥地圭子
場 所:東京シューレ葛飾中学校
写真撮影:木村砂織
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〈テキスト本文〉

奥地 今日は、達也さんのお母さんとのご縁でお会いできることになり、亡くなられたお母さんに、とても感謝しています。私は、自分の子の登校拒否で国府台病院の渡辺位(*1)先生と出会い、病院内の登校拒否の親の会「希望会」に参加させてもらっていました。達也さんのお母さん、田中英子さんは希望会の会長をしておられ、先輩として、とても学ばせていただいた方です。年賀状を出したところ、達也さんから「母が亡くなった」と連絡をいただき、そのご縁から、今回、急きょインタビューさせていただくことになりました。お母さんとは、いっしょに『登校拒否・学校に行かないで生きる』(渡辺位編著/太郎次郎社1983)もつくらせていただきました。この本は、希望会10周年を記念して、世の流れに抗して登校拒否の子どもを受けとめる声を発信しようと企画された本でした。このころは、会長は竹下ミドリさんに替わっておられましたが、英子さんも編集委員会に入ってくださり、寄稿もしていただきました。


●陰湿ないじめに遭って

奥地 達也さんは、ご自身の登校拒否の時期や理由は覚えていますか?

田中 千葉県市川市の冨貴島小学校に通っていたんですが、小学校5〜6年生のころ、集団のいじめみたいなものに遭いました。1970年代半ばのことで、当時は進学ブームで、親は自分たちが高等教育をあまり受けられなかった世代だったからこそ、子どもにはいい教育を受けさせて、いい学校を出させて、いい会社へというルートに乗せようとしていたんだと思います。

奥地 それが、夢になっていたんですね。

田中 戦争の影響がまだ残っている時代で、おそらく親たちも、いい学校へ入れてあげることが、自分たちの夢を子どもに託すことにもなっていたのではないかと思います。ご存知のように、当時は東京進学塾、四谷大塚など、たくさんの進学塾ができていました。クラスの半数近くの子は進学塾に通い、われ先にと受験対策をしていました。あとの半分くらいは、まだ昔ながらの子どもというか、草野球ができた時代でした。
 進学塾組とそうでない組は、やっぱりちょっと対立するところがあったんですね。進学塾に行っている子たちは、点数を上げろ、偏差値を上げろということで、土・日も塾に通って、塾が終わってからも課題があったりして、忙しくしている。1点でもいい点数を取るために、一種の洗脳教育を受けていた。
 でも、やっぱり小学生ですし、限界があるわけです。彼らからしてみると、自由気ままに遊んでいられる少年たちがうらやましい。私は、そっちの代表格みたいな感じだったんですね。

奥地 『登校拒否・学校に行かないで生きる』でも、お母さんが「達也は毎日遊びまわり、泥だらけになって、ざりがにとりをしたり、山道を発見したり、秘密基地(赤土の宅地造成の崖)に夢中になったり、活発に日暮れまで遊びました」と書いてますね。

田中 彼らにしてみると、それがうらやましかったんだと思います。いろいろ因縁をつけてきたり、小学校6年生ぐらいになると知恵がついてきますから、みんなの前では暴力をふるわないけれども、帰り道に隠れていて、いきなり6人がかりで蹴られたり、筆箱を隠されてしまったり、定規におしっこをかけられて、それを筆箱に入れられたり、いろいろ陰湿なことをされてました。

奥地 それは学校生活がたいへんでしたね。

田中 僕自身、学校は行かなきゃいけないところだと思っていましたし、当時は学校へ行かないということは大問題で、その責任を個人に求める時代でしたからね。でも、行けなくなってしまった。

奥地 当時は、本人の性格が悪いとか、親の育て方が悪いとか、そういう認識ですからね。

田中 そういう時代でしたね。ですから、最初に行った総合病院では脳波をとられました。やっぱり、この子に問題があるということだったんでしょうね。

奥地 うちの子も、脳波をとられました。達也さんも「なんで脳波をとるんだ」とおっしゃったそうですね。

田中 脳波というのは脳の機能のことですから、α波、β波、θ波なんて調べたところで、不登校についてはまったく的外れの検査だし、どう考えても、おかどちがいだと思いました。

奥地 子ども心にもおかしいと思っていたんですね。

田中 そうですね。たぶん、ほんとうに脳波に異常があったら、いろんな症状が先に出ていると思うんですけど、MRIもCTもない時代ですし、精神医学も、そういう根拠にもとづく医療については、まだ経験も浅かったのかもしれないですね。

奥地 それが小学校6年生のときで、その後、中学校はどうだったんでしょう。

田中 小学校と中学校は学区がいっしょで、ワルの連中もいっしょだったので、中学になると、今度は脅しが入ってきたりして、また学校に行けなくなっちゃったんです。頭では行かなきゃいけないと思いながらも、行けなくなってしまった。
 実際に危険がともなっていましたし、学校は自分にとって安全な環境ではなくなっていたんですね。相談所や、いろいろなところをまわったうえで、国府台病院につながりました。
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posted by 不登校新聞社 at 14:36| Comment(0) | 当事者

2018年02月19日

#33 小林剛さん

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(こばやし・つよし)
1934年、長野県生まれ。北海道大学大学院教育学研究科修士課程修了。北海道および長野県の公立高校国語科教諭を経て、福井大学教育学部教授、武庫川女子大学大学院臨床教育学研究科長を歴任。兵庫県立神出学園の設立計画に関わり、開校から現在に至るまで学園長を務めている。

聞き手:田中佑弥、山下耕平
記事編集:田中佑弥/写真撮影:山下耕平
インタビュー日時:2017年12月28日
場所:兵庫県立神出学園
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〈テキスト本文〉

田中 インタビューの機会をいただき、ありがとうございます。神出学園については後ほどくわしくうかがいたいと思いますが、まずはご自身がどんな子どもであったかについて教えてください。

小林 出身は長野県の戸隠村です。現在は長野市に合併しちゃったんですが、長いことずっと村で、めずらしく村を残していたところなんですね。

山下 おそばで有名ですよね。

小林 そうそう。いまや観光地になりましたね。子ども時代はまさに信州の山のなかで育ちました。私はもともと、それほど体が丈夫ではなかったんですね。学校を休むことも多かったし、まわりの大人にずいぶん世話になることもあって、少年時代はそれほど活発に動きまわる子どもではなかったんです。したがって、学校のなかでも、どちらかというと目立たない、静かな存在だったと自分では思っています。活発に動けないので、学校の図書室に通って本をたくさん読んだりして、自分の体と心に合った子ども時代を自分なりにつくりだしていったのかなと思います。

田中 学校を休むことが多かったんですね。

小林 カゼをひくことが多かったんでね。学校には行きたいと思うけれども、体がそんな調子だから行けない。学校はきらいじゃないし、先生もとてもいい先生だったので、休むことにはたいへん罪悪感がありました。

田中 神出学園に来てる子たちにも、体調不良は多いのではないでしょうか?

小林 多いですね。

田中 おなかが痛くなる子とか、そういうのはわかるというか……。

小林 よくわかるんです。だから、僕の原点とつなぎ合わせて、子どもの側に立ってものを考えられるんですね。ここの学園長になったことは、僕の少年時代の生い立ちとつながっているような気がするんです。
 戸隠村は貧しい農家が多くて、うちも、ごたぶんに漏れず貧しい農家でありました。当時は、子どもというのは働き手として期待されていたんですが、僕はそんなに丈夫じゃないし、兄貴がいましたので、親が僕に労働を課すことはあまりなかったです。どちらかというと母親が保護してくれて、愛情たっぷりに育てられました。母親は、父親が非常に厳しいぶん――無償の愛という言葉があたるんじゃないかと思うんですが――ひたすら子どもをかわいがってくれました。「愛すること」「信じること」「待つこと」という3つのキーワードが僕の人生論で、これは僕の一生に関わってきたと思うんですけれども、いまでも神出学園のなかで大切にしています。


●北海道家庭学校との出会い

小林 僕は、新制中学の1期生だったんです。体があんまり丈夫じゃなかったこともあって、担任の先生が非常に目をかけてくれました。予科練あがりの若い先生でした。先生の下宿が僕の家の近くだったこともあり、「小林くん、今日は僕んとこへちょっと遊びに来ないか?」って、よく誘ってくれました。それで、おふくろがつくってくれた牡丹餅を持って先生のところへ行くようになりました。戦争というものがどんなにひどかったかっていう話を先生から聞きました。
 また、先生は(北海道大学の前身である札幌農学校の)クラーク博士をとても尊敬していたので、「小林くんは北海道大学に行って勉強しなさい」と勧めてくれました。当時、北海道っていうのは長野からすれば外国みたいに思われていました。だって、昭和20年代の終わりですからね。でも、非常に尊敬していた先生に盛んに言われて、期待に応えたいという思いもあって、長野高校に進学し、1年浪人して北海道大学に入りました。最初2年間は一般教養で、3年から学部に移るわけですが、僕は先生からの影響をあちこちで受けていたので教育学部に行き、砂澤喜代次先生のゼミに入りました。
 砂澤先生が「小林くん、いいところがあるから、いっしょに行こうぜ」って言うから、「どこへ行くんですか?」ってきいたら、「北海道家庭学校(*1)っていうのがあるんだよ。これはすごい学校だよ」と言うんですね。3年生の終わりぐらいだったと思いますが、先生と遠軽にある北海道家庭学校に行きました。谷昌恒先生(*2)が「よくこんな遠くまで来てくれた」って握手をしてくださってね。もう感動しました。挫折した子どもたちが、どのように自分の人生や青春を取りもどしていけるのかということについて、家庭学校からたくさんのヒントをもらいました。大学院では、もっぱら家庭学校に何回も通いました。

山下 北海道家庭学校の印象はどうだったんでしょうか?

小林 家庭学校は小舎制で、それこそ生活は家庭をなしているわけです。12人ぐらいで生活共同体をつくって、寝起きをともにする先生がいて、それがあそこの教育のやり方だったんですね。子どもたちはそこで自分をふり返り、そして自分の人生というものを考え、青春を楽しみ、自分の生き方を考える。こういう教育の場は学校とはちがって、すごい力を持っているという印象を持ちましたね。

山下 それは、先ほどおっしゃった「無償の愛」というか、家庭をベースにしていることが大きかったのでしょうか?

小林 大きかったね、ほんとうに。やっぱり家庭学校に来てる子どもたちは、愛に飢えている子どもたちなんでね。いかに愛されることが不足しているのかってことは、もう肌で感じましたね。親との関係を調整し、再構築していくことで、親は穏やかになっていくし、子どもがほんとうに変わっていくんですよ。これには心から感動して、これが教育なんじゃないかと思いました。規則や決まりで非行を立て直そうとするのは、子どもを追い込んで、かえってダメにするんです。やっぱり受けとめて愛してやることが大事で、これが教育の原点で基本だっていうことを、まさに実感しました。だから、神出学園のスタッフに話すときも、常に家庭学校のあり方を念頭に置いています。

田中 家庭学校では農作業をするそうですが、先生もいっしょにされたんですか?

小林 そうそう。もう汗を流して、何でもやりました。

山下 北海道家庭学校で出会った子どもたちは、非行の子どもが多かったのでしょうか?

小林 そうです。8割ぐらいが窃盗や暴力ですね。当時、不登校はまだ社会問題ではなく、学校から弾き出されて、非行化していく子どもが一番大きな問題だったんですね。
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posted by 不登校新聞社 at 11:06| Comment(0) | 居場所・フリースクール関係