2018年05月08日

#39 駒ア亮太さん

komazaki.jpg

(こまざき・りょうた)
1944年、神奈川県鎌倉市生まれ。東京大学経済学部卒業後、会社勤めをしたものの、すぐに辞めて、高校教員に。洲本高校、茅ヶ崎高校の全日制を経て、1983年から湘南高校の通信制に(1996年まで)。通信制高校では、脱学校の思想と重ね合わせて活動していた。三吉クリニック(藤沢市)との出会いから、カフェ・ドゥ・そーじゃんという居場所にも関わる。1996年から2005年まで、茅ヶ崎高校の定時制で教員をしていた。

インタビュー日時:2018年3月21日
聞き手:栗田隆子、山下耕平
場 所:磯里(神奈川県大磯町)
写真撮影:山下耕平

--------------------------------------------------------------------------------
→PDF(組版データ)をダウンロード  39futoko50komazaki.jpg
--------------------------------------------------------------------------------

〈テキスト本文〉

栗田 おひさしぶりです。私は89年から湘南高校の通信制に通っていて、当時、駒アさんの授業も取ってました。ですから、お会いするのは30年ぶりぐらいになります。まずは、駒アさんの子ども時代のことからうかがっていきたいと思います。お生まれは神奈川県ですよね。

駒ア そうです。1944年、鎌倉生まれです。生まれて間もないころ、母親の実家を頼り兵庫県西宮市に移り住んで、そこで空襲に遭って、父親は焼夷弾が屋根にかぶったところをたたき落としたと言ってました。その後、長野県に疎開したんですが、僕は乳飲み子で、おふくろは乳が出ないので、代わりに杏の実を拾って、やっていたと言ってました。敗戦で、また神奈川にもどってきたんですね。

栗田 その後、お父さんは、単身ブラジルへ渡ったそうですね。

駒ア 僕が5歳のころ、起業してブラジルで一旗揚げると言ってね、幼い子ども3人と妻を残して行っちゃったんです。でも、いい面もあってね、父親は日本的な親の権威を持ってなかったんです。そのうえ、いなくなったものから、僕は父親の権威を知らずにのびのび育ったんですね。いつだったか「日本は自由ではないけど、君たちは自由にやりなさい」と言ってました。
 昔、同僚から「あなたには男親の影がないね」と言われたこともあります。まあ、プラス・マイナス両面あるんだろうけどね。

山下 ご苦労もあったのでしょうね。

駒ア 父親は次男だったんですが、どういうわけか、父方の祖父のめんどうを母がみることになって、家を売り払って、借家生活で、祖父といっしょに暮らすことになったんです。舅で元校長のこのじいさんが身勝手で横暴でね。
 それと、僕は小学校を途中で転校してるんですが、転校後の男性教員(後年、校長に)が、暴力的・差別的でね。そういう経験から、男性の横暴とか暴力に敏感になりましたね。それはプラス面かな。

栗田 転校前は、湘南学園に通われていたそうですね。湘南学園は私立学校で、何というか、のびのびしたところですよね。

駒ア 4年生までは湘南学園に通ってました。その後、公立の御成小学校(鎌倉市)に転校したんです。そこで何が変わったかというと、いろんな子がいたんですね。当時、戦災孤児や母子家庭で貧しい家の子のめんどうをみる施設のことを「保育園」と言ってたんですが、「保育園」から学校に通ってきている子が、クラスに4〜5人ぐらいいました。
 同じクラスに、貧しい子もいれば、お金持ちの坊ちゃんもいる。金持ちの家の子は、ピアノやお絵描きや習字をしていたりね。成績もいい。そこには露骨な格差があったし、差別もあった。でも、恥ずかしいことに、当時の僕は、坊ちゃんの仲間に入りたかったんだよね。

栗田 転校後の学校の暴力的な先生というのは、どういう感じだったんでしょう。つづきを読む
posted by 不登校新聞社 at 07:02| Comment(0) | 学校関係

2018年05月04日

#38 倉地透さん

kurachi.jpg

(くらち・とおる)
1971年、東京都練馬区生まれ。中学校2年生より登校拒否。中2の終わりごろから17歳まで東京シューレに在籍。18歳から縫製工場で働き、20歳で結婚。転職して工務店で働きながら専門学校に通い、27歳で二級建築士の免許を取得。その後、独立して、2008年に建築会社マッスルホームを設立、取締役社長をしている。ふたりの子どもの父でもあって、お子さんたちとは趣味のキックボクシングを楽しんでいる。
株式会社マッスルホーム http://www.muscle-home.com/

インタビュー日時:2018年3月1日
聞き手:奥地圭子
場 所:東京シューレ王子
写真撮影:佐藤信一

--------------------------------------------------------------------------------
→PDF(組版データ)をダウンロード  38futoko50kurachi.jpg
--------------------------------------------------------------------------------

〈テキスト本文〉

奥地 いまは、文部科学省が「不登校は問題行動と判断してはならない」と全国に通知を出す時代になりました。やっと、そこまで来たんです。でも、非常に厳しい時代もあって、とくに80年代、シューレができたころはたいへんでしたね。学校に行かない子たちが、どういう対応を受けてきたのか、そういう話をこのプロジェクトに入れたいと思って、透くんの話は絶対に入れたいと思っていました。だまされて、北海道までつれていかれちゃったわけですからね。

倉地 戸塚ヨットスクールなんかが、ふつうにまかり通ってたような時代でしたからね。

奥地 まず、簡単にプロフィールを聞きたいんだけど、いまは46歳で、中2から不登校だったんですよね?

倉地 中2の1学期からで、練馬区の中学校でした。東京シューレに入ったのは中2の終わりごろだったと思います。中3のあいだは、けっこうシューレに行ってましたね。

奥地 シューレを辞めたのはいつごろでしたかね。そのころは、まだ高等部がはっきりと確立していたわけじゃないんですよね。いまは高等部もあるんだけどね。

倉地 高校に入ったときにシューレは1回辞めて、でも1週間でダメになって、またシューレに戻ってきて、アルバイトしながら通ってましたね。

奥地 じゃあ、16〜17歳のころに退会してるのかな?

倉地 仕事を始めたからだったと思います。18歳の4月、ふつうだったら高校卒業年齢のときから、知り合いの縫製工場で働き始めました。親がアパレル関係で、婦人服の縫製をやってたんで、それを継ぐって名目で、親の会社じゃないところで働き始めたんです。

奥地 それで20歳で結婚だっけ?

倉地 そうです。その会社にいたんですね、嫁は。

奥地 でも、その前にお母さんが亡くなられて……。

倉地 お袋が亡くなることによって、結婚が早まっちゃたような流れなんですよね。結婚したときは、まだ仕事もちゃんと定まってなかったんです。会社には、親父の仕事を継ぐってことで入社して、でも、お袋が亡くなったことによって、親父がやる気をなくしちゃって、自分の会社もうまくいかなくなって、借金も抱えて、がくっときちゃったんですよね。
 ずっと何もしなくなっちゃったわけじゃないんだけど、家賃も滞納していて、いっしょに住んでたんだけど、そのころの給料じゃ、僕も、とてもまだ独立できるような状況じゃなかったし、このあたりから親父ともうまくいかなくなっちゃって……。それで、親父も「透は好きなことをやりなさい」と言って、23歳のときに工務店に入ったんですね。

奥地 23歳で工務店就職で、それで夜は専門学校に通ったんだっけ?

倉地 そうです。夜と日曜日に通って、そこで二級建築士の資格を取りました。それが27歳のときです。

奥地 仕事と勉強でたいへんでしたね。それで、工務店でしばらくやっていって、30歳のときに自分で家を建てるんだよね?

倉地 そうです。その後、独立して、株式会社マッスルホームの取締役社長をやっています。会社を興したんです。つづきを読む
posted by 不登校新聞社 at 17:12| Comment(5) | 当事者

2018年04月06日

#37 古山明男さん

furuyama.jpg

(ふるやま・あきお)
1949年千葉県生まれ。京都大学理学部卒業。出版社勤務を経て、私塾・フリースクールを開き、学習支援と不登校の子どもとの交流に関わってきた。教育の多様性を推進する会(通称おるたネット)の代表であり、オルタナティブ教育の啓発普及のための情報発信およびそのネットワークづくりにつとめている。著書に『変えよう!日本の学校システム――教育に競争はいらない』(平凡社2006)、『ベーシック・インカムのある暮らし』(平凡社2015)がある。

インタビュー日時:2018年2月9日
聞き手:加藤敦也、佐藤信一
場 所:古山塾(千葉市)
まとめ:加藤敦也
写真撮影:佐藤信一

--------------------------------------------------------------------------------
→PDF(組版データ)をダウンロード  37futoko50furuyama.jpg
--------------------------------------------------------------------------------

〈テキスト本文〉

●不登校と関わるきっかけ

古山 私と不登校との関わりは、88〜89年ごろからなんですね。

加藤 それは、どうしてだったんでしょう。

古山 ボランティアで不登校の子どもたちに勉強を教える場があって、そこで先生をやらないかという話が来たんです。

加藤 千葉市でのことですか。

古山 そうです。うちの近くで、中学生から高校生の不登校の子どもたちが来ていました。僕はそのころ専門学校の講師をしていたんですが、暇はたくさんあったので、「高校生まで全科目教えますよ」と言ってね。
 私自身、会社勤めしてたとき、会社に不適応だったんですね(笑)。ですから、「この人たちも、あのときの僕の気分でいるんだろうな」って、あたりをつけて、「自分がされたくなかったことはすまい、されたかったことをしよう」と思って接していたんです。そうしたら、それがストライクでね。たくさんの子どもたちがなついてくれました。何がストライクだったかというと、「きみはこうするといいよ」というようなことを、いっさい言わないということだったんです。それと、何気ない関係をつくることです。
 会社勤めしてたときは、いつ辞めようかと考えながら勤めてたんですが、親切な人が「君、このままじゃもったいないから、がんばろうよ」って言ってくるわけ。もちろん、いい人だったんだけど、「くそったれ。俺は辞めるかどうか考えてんのに、あんたまで、がんばれって言うのかよ」と思ってね。親切なアドバイスのつもりでも、それがいかに人を傷つけるか、感覚でわかっていたんだと思います。

加藤 さしつかえなければ、会社はどこだったのしょう。もしくは職種でもよいのですが。

古山 平凡社という出版社です。

加藤 じゃあ、編集のお仕事ですか。

古山 ええ。でも、勤め始めた動機が不純だったんです。つまりは周囲の期待に応えて、いい会社に入っただけ、という感じでね。大学は理学部なんですけど、まともに勉強してなくて、エンジニアとしては食ってけなくてね。でも、やたら本は読んでるから、出版社なら何とかなるかなと思って受けたら、採用されちゃったんです。
 出版社も会社組織で、自分は編集者をしているけど、その下には印刷や製本の人たちがたくさん働いていて、その人たちの苦労の上に成り立っているわけですね。自分も日本資本主義の尖兵じゃないかと思いました。当時は、資本主義批判の価値観が広がっていました。それと自分の社会観があって、いまは身分のない社会のはずなのに、目上とか目下とかおかしいじゃないかってね。そういう社会観に生きていたものですから、僕は中学、高校、大学と、部活には入らなかったんです。先輩・後輩の関係があるから。でも、会社にも先輩・後輩があるじゃない。それをいっさい無視して敬語を使わなかったので、総スカンをくらいました。

加藤 ああ、なるほど(笑)。

古山 不適応の一番の原因はそれかな(笑)。あちらから見れば、ぜんぜん社会的訓練ができていないヤツでした。
つづきを読む
posted by 不登校新聞社 at 17:45| Comment(0) | 居場所・フリースクール関係