2017年04月25日

#15 山田廣子さん

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(やまだ・ひろこ)
1943年、山口県下関生まれ。1962年に大洋漁業へ入社し、1968年に退社、その翌年に結婚して1971年に長男が、1974年に長女が生まれる。1986年、長男が高校1年のときに登校拒否し、1989年に高校を退学。1990年に親の会「下関虹の会」を発足。1991年、長男は東京へ。同年、「下関虹の会」の代表になり、現在にいたる。

インタビュー日時:2016年10月29日
場 所:ご自宅(山口県下関市)
聞き手:奥地圭子、木村砂織、山口幸子
写真撮影:木村砂織
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〈テキスト本文〉

奥地 親の会を立ち上げられたのは何年ですか?

山田 1990年1月です。

奥地 ちょうど登校拒否を考える全国ネットワーク(現在はNPO法人登校拒否・不登校を考える全国ネットワーク)を立ち上げた年といっしょですね。全国ネットのことは、すでにご存知でしたか?

山田 知っていました。主人といっしょに東京で開かれた合宿に行って、主人が「父親が語る不登校」というシンポジウムに出させていただきました。内容はとても深刻な話なのに、みなさんそれを笑いに変えていて、とても盛り上がりましたね。その主人も2009年に亡くなりましたけれども。


●高校で不登校に

奥地 そうでしたね。お子さんは、何年ごろから学校に行かなくなったのでしょう。

山田 1986年で、高校1年生のときでした。ただ、その以前にも、小学校5年生の3学期に、1カ月ほど行かれなくなったことがありました。そのときの担任は50代の女の先生だったんですけど、すごい厳しい先生でね。息子は学級委員をしていたんですが、先生にとってよくないことがあるたび、クラスで何かあるたびに、息子に「あなたのせいだ」と言って、すべて息子が悪いように言われていたんです。それで、理科室には鍵がかかるんですが、先生がそこに入って泣くと言うんです。そこに息子が行って謝るわけですね。「悪かったです、悪かったです」って。そうこうしているうちに、息子のほうが学校に行けなくなってしまいました。息子は「僕が悪いせいで先生がいつも泣いてしまう」と言っていました。
 休んでいるあいだは、同じ団地に住んでいた同級生の男の子が、パンとか宿題を持ってきてくれていました。それで、その持ってきてくれる荷物のなかに、3学期の終わりごろ、「何でもいいから先生のことについて書いてきなさい」という用紙があったんです。全員に配られたものなのか、息子だけに渡されたものなのかはわかりませんし、私は、たぶん書かないだろうと思っていたんですが、息子は「書く」と言って、自分がしてほしくないことを箇条書きにしたんです。「理科室に入ってすぐ泣くようなことはしないでほしい」とか「授業中に机のイスを外に出して、教室で床に座らせたりしないでほしい」とか10項目ぐらい書いて、それを学校に持って行ったんです。
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2017年03月06日

#14 中島浩籌さん

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(なかじま・ひろかず)
1946年生まれ。慶應義塾大学経済学部卒業。同大学院修士課程終了、パリ大学ヴァンセンヌ校で哲学を専攻。東京都立高校教員時代に、いわば教員の「不登校」となって退職した経験がある。その後、河合塾COSMO講師、法政大学非常勤講師、日本社会臨床学会運営委員、YMCAオープンスペースLiby運営委員などを務める。著書に『逃げだした教師の学校論―良心的教師・その権力性』 (労働経済社1986)、『心を遠隔管理する社会―カウンセリング・教育におけるコントロール技法』(現代書館2010)、小沢牧子さんとの共著に『心を商品化する社会―「心のケア」の危うさを問う』(洋泉社2004)。

インタビュー日時:2017年1月23日
場 所:東京YMCA山手コミュニティセンター
聞き手:山下耕平
記事編集・写真撮影:山下耕平
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〈テキスト本文〉

山下 中島さんご自身は、子どものころ、学校との関係はどうだったんでしょう?

中島 学校そのものは、それほどキツいとは感じてなかったんですが、それ以前に他人との付き合いが、ほとんどダメだったんですね。10歳ごろ、なぜかわからないんだけど、「他人って自分と同じ人間かな?」と思い始めたんです。でも、いくら考えても確証は持てないですし、まわりの人は、みんな超人間みたいで、「実は自分の心を読んでいるんじゃないか」と思っていました。でも、おふくろに「あなた人間ですか?」と訊くわけにもいかないですしね(笑)。

山下 家族に対しても、その感覚だったんですね。

中島 自分以外は、みんなです。友だちもいるんだけど、しっくりしない。自分と同じ仲間だという意識はありませんでした。でも、スポーツは好きだったんですね。スポーツだと、考える前に動けて、そこで関係ができますからね。
 ときどき、離人感というか、この世界から抜け出して、自分をななめ後ろの上のほうからから見ている感じもありました。リアル感が薄くて、広い意味で解離的だったとも言えるかもしれません。「自分はほんとうに、この世界にいるんだろうか?」と思ってました。
 そんな感じで、自分でも異常なのかなと不安に思っていたんですが、ずっと、人には言わずにいました。他人にそういうことを話したのは、50歳も過ぎたころで、河合塾COSMOに勤めているときに、生徒と話したのが最初でした。たまたま生徒3人と立ち話で、そういう話になって、ひとりの子は「自分の身体はガンダムのモビルスーツみたいで、奥にある操縦席から画面を見ながら自分を操作しているような感じ」と言ってました。私も自身の離人体験を話しました。あれは楽しかったですね。その子も「これ、話していいことなんだ」と言ってましたし、私自身も楽しく話しました。
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posted by 不登校新聞社 at 21:53| Comment(0) | 学者・識者など

2017年03月01日

#13 保坂亨さん

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(ほさか・とおる)
1956年、東京生まれ。1983年、東京大学大学院教育学研究科博士課程中退。東京大学教育学部助手(学生相談所専任相談員)、千葉大学教育学部講師、同助教授を経て、2002年より同教授、2013年より同大学教育学部附属教員養成開発センター長。千葉市教育委員会いじめ等の対策及び調査委員会委員長、子どもの虹情報研修センター企画評価委員。著書に『学校を欠席する子どもたち―長期欠席・不登校から学校教育を考える』(東京大学出版会2000)、『“学校を休む”児童生徒の欠席と教員の休職』(学事出版2008)『いま、思春期を問い直す―グレーゾーンにたつ子どもたち』(東京大学出版会2010)など。

インタビュー日時:2016年10月14日
場 所:東京シューレ葛飾中学校
聞き手:奥地圭子、松島裕之
写真撮影:松島裕之

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〈テキスト本文〉

奥地 本プロジェクトは、文部科学省の学校基本調査で不登校(学校ぎらい)の児童生徒数の調査が始まって50年ということで始めたものです。保坂先生は、このあたりを研究されているので、なぜ、この調査が1966年に始まったのか、その時代背景、用語や表現の問題についてなど、うかがいたいと思っています。よろしくお願いします。

保坂 はい、よろしくお願いします。

奥地 そもそも、なぜ不登校に関心を持たれたのでしょうか。

保坂 2008年に『学校を休む℃剴カ生徒の欠席と教員の休職』(学事出版)という本を出していて、その略歴なども読んでいただくとよいのですが、まず何より、自分も学校をよく休んでいたからです。とにかくよく休みました。なぜ不登校に関心を持ったのかと言えば、根っこはそこにあると思います。

奥地 それは、いつごろのことでしょう?

保坂 小・中学校は病気でよく休んで、高校は積極的に休み、大学が一番行かなかったです。大学院からまっとうに通うようになりました。小学校入学は1962年だったので、60年代から70年代にかけてですね。

奥地 なるほど。中学卒業が1972年ですね。そのころのまわりの対応というのはどんな感じだったんでしょうか。病気だったとのことですから、いわゆる「病欠」ということになりますでしょうか。

保坂 そうですね。とくに小学校6年生のときは盲腸で入院して休んでいたので、1年間で50日以上休んでいる数少ない子どもの一人だったと思います。でも、両親が教員だったということもあって、当時は、学校を休むことは、すごくいけないことだと感じていました。学校を休む子なんてほとんどいなかったですからね。

奥地 そうですよね。病気など仕方のない理由があっても、肩身の狭い思いをされていたんじゃないかと思います。ところで、大学院以降のご専攻をお聞きしたいのですが。
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posted by 不登校新聞社 at 00:00| Comment(0) | 学者・識者など